三階の家は坂の中程にあった。向う側は古い禅寺の杉の立木が道路の上へ覆いかかり、
三階の一階は小間物屋を兼ねた店につづいて、造花屋があり、その隣は八百屋であった。二階は全部
三階の北側にH新聞の記者の松岡という男が住んでいたが、その隣の部屋は閉じたきりで、
一階のはずれは八百屋が三辻の角になり、
H新聞の松岡は一人暮しで朝おそく起きると、すぐ内職の木炭画の写真肖像を描くのだったが、
松岡は外出の時は必らず一枚ずつの肖像画を風呂敷に包んで出かけた。必ずフロックを着て黒の
別に
「まだ御勉強ですか?」
「そろそろ止そうかと思っているんです。何時ごろでしょうか。」
松岡は
唯の一度、夕方おそく駅の人力車に乗った女客が、造花屋の店さきに下りたが、主婦は女客の顔色が汽車に揺られた疲れと
「何時もならもうおかえりのころでございますが、お上りになってお待ちなすったら直ぐでございます。」
主婦はそう言っておどおどしている女客の浅ぐろい顔を見たが、妙に浅ぐろいために何か可憐な
女客はおろおろした声で言った。
「でもわたくしお待ちしてもようございますかしら。」
「さあ、――」主婦は女客の顔を
「でも能くごぞんじじゃないんですか、ごぞんじなら……」
「ええ、それはよくぞんじているんですけれど……」
女客は曖昧に言った。
「それなら
主婦は女客を三階へ案内しながら、長い階段を上った。
「御家内の方でございますか、奥様でいらっしゃるのだと、わたくし存じあげているんですけれど……」主婦はそう言って女客をちらと
「すこし事情がございまして、何でございます……」
「はあ、……」
主婦は松岡の部屋の戸をあけた。書きかけの肖像画が気味わるく四方の壁に架けられていた。主婦はあたりを片づけて女客を坐らせた。
「ではお休みなさいまし。」
主婦が去ってしまうと、女客はぽかんと坐りながら気ぬけのしたような格好で、見るともなく肖像画に見入っていたが、何時の間にかしくしく泣き出していた。そして永い間、坐ったままでいた。
向いの寺の
女はその足音に何気なく注意したが、ほんの一秒間位の間に、すっかり蒼くなるほど皮膚が
足音が三階の階段を上りつめると、女は
松岡正は入口で女のことを聞いたものらしく、冷然と澄し返って黙って、壁の方へ行って上着を脱いだ。女は黙ってうつ向いているだけだった。松岡は明らかな不愉快さを表情にうかべると、表の障子を
女はうつ向いたきりであった。それは一生懸命にうつ向いているようであった。松岡が這入って来て、
「何時来た?」
女はうなじをぴりとうごかした。そして
「三十分ほどさきに参ったのでございます。」
「三十分程前に?――どうしてそんな気になったのだ。おれは別にお前を呼びはしないんだが……」
「わたくし、ちょっとお話をしたいことがございましたから突然まいったのですけれど……」女は言葉を切った。「わるいとは思っていたのでございます。」
「悪いと思ったらなぜ来たんだ。おれは忙しいんだ。」
「それはもう……」
「では用事というのは
「べつに改めて何んでございますけれど、それに言いにくうもございますし……」
「何を言っているんだ。」
松岡は吸殻を噛んで棄てると、
「おれの方から知らせるまで控えてくれるようにあれほど頼んで置いた、それをお前は勝手にやって来たのだ、おれはそういうことは嫌いなんだ、おれは仕事もやっと眼鼻がついてどうやらうまく行きそうなところへ、また邪魔をしにお前はやって来たのだ。」
「それはきっとお叱りを受けるだろうとは思っていたのですけれど、もう永い間、お目にかかりませず……」
「お目にかかりませずか……」
松岡はまた舌打ちをして女の気勢を
女は黙って俯向いていた。
「それでどうする気なんだ、勝手に上り込んでしまって、――」松岡はすぐにでも出て行けがしに言った。そして急に思い出して、「俥も返してしまったじゃないか?」
「ええ、わたくし、どうしようかと迷っていたのですけれど、車ならお目にかかった上で……」
「また呼べると言うのだろう。」
「え、そうおもうたものでございますから。」
「何しろお前には辛抱というものができないらしいんだ。とにかく食事はまだしないのだろうから……」
松岡は階下へ立とうとした。
「わたくしなら汽車の中でいただいたのですから、かまわないで下さいまし。あなたはまだ召しあがらないのならどうぞ。」
「おれならいいよ、それに今夜じゅうの仕ごとがあるんだ。明日中にとどける約束のものがあってね。」
女は仕方なしに「ではお
しかし女の顔には別に毒念のない、平淡さがあった。
「そしてお前はどこへ行くのだ、いまから一人で……」
「近くに宿屋でもございましょうから、そちらへ参って居ります、でも
「そうか、それで明日また遣って来る気かい。」
「あの……」
女は先刻から耐えていて持ち切れなくて、眼に一杯
「あ、耐らん、すぐそれだ。」
松岡は黄色い
「それではわたくし帰ることにいたします、わたくし何もぞんじませんでしたものですから……」
女はそういうと、もじもじして包みを手に取ったが、中から菓子折を出すと壁ぎわへ押し遣った。松岡はそおっと起き上ると、暗い表の障子をこんどは静かに閉めた。寺の境内から虫の音が
「それで歩いて行くか、――」
「そとで俥を見つけて乗ることにいたします、近くに俥宿がございますでしょうか?」
たったそれだけでも松岡の機嫌を取る言葉づかいだったが、松岡にはそんなことが感じられなさそうであった。
「橋を渡るとぶらぶら歩いている車はある。」
「では御邪魔をいたしました。」
「……………」
松岡は襖をあけて出る女の姿を見ないようにしたが、女が階段を下りると足音をぎしぎしと
「しかし……」
松岡は突然に真青な顔つきになり、木炭をカンスから離した。たしかに帰るときに階段を下りて行き、主婦と話していた声がきこえたのだ、松岡は何度もこう思うたのだったが、もう筆が進まなかった。松岡はズボンのかくしを
寺の前の往来の人も行き静まって、造花屋の店明りの電燈も何時ものように街路を明るく射していなかった。よほど遅いと見える、こんなに早く時間が経ったかと不思議に思われる。
松岡は手さぐりで階段を下り、二階から階下まで行って小用を足したが、主婦は寝そびれたこえで、
「松岡さんですか?」
と言った。
「え……」松岡はいつもの癖でこう言って尋ねた。
「何時ころですか。」
「さあ、さッキ十二時を打ったのを聞きましたが一時ころでしょうね。」
松岡はその声をうしろに聞いて、階段を上りはじめたが、そんなに経つかなと思い、時間の経つのが早いと考えた。しかし、いつもの松岡は四時には帰っていたが、きょうは遅くなって五時半だったことを思い出し、そうかなと思うた。
二階を上りつめると、往来へのとっつきの
「まさか?――」
松岡はそうも思うた。
三階へぎしぎし上りはじめた。
そして自分の部屋へ這入ると初めて先刻の影が或る
「あの部屋は明いているのだが、造花の枝や紙の型なぞを束ねて積んであるらしい。するとそれが何かにすれた音だったかも知れない――」
昼間無理をして積んだのが夜になって、湿ったためにしなえてその一部がくずれたのかも知れぬ、松岡はそう思うとそういうこともあることに気づいた。しかし、それはそれにしても何かかげのようなものの、横の方へ幅びろく、うつ向いて通りすぎたのは
かれは襖をあけ、そとの廊下を神経的にあけて見たが、何も変ったことがあろう筈がなかった。これまででも松岡だけは何の不思議も気味わるさもこの三階では感じなかった。他のいろいろな人が越すごとに寧ろ
しかし今夜は何か絶えず気が
松岡は襖戸を閉めて部屋へ這入ろうとする時に、鈍いぱたんという音をきいた。二階から三階への上り口から抜けて来る音であった、何か立てかけたものが不意に倒れたそれで、床板にひびいたのであるらしい。たしかに二階で、廊下の板の上にちがいないとそう思うた。今頃そんな音がしたことがない、鼠にしては大き過ぎる音であった。
松岡はまた先刻の横に幅のひろい、何かが
「二階も北側のはずれだ、ちょうどおれの部屋の階下にちがいない。」
松岡はまた身ぶるいした。
松岡は寝床の中へ這入ったが、寝つけそうもなかった。先刻、女を
松岡はうつらうつらした時分に急に誰かが襖のそとに
「誰だ、」
松岡は神経的に黄ろい声で叫んで、襖をがらりと開けたが、誰も立っていなかった。松岡は廊下へ出た。
二階からの上り口へ何かぼんやりと明るみが浮いていた。
「あの明りは小窓からさしてくる明りだ、いつも気づかないのだ。とにかく三階の部屋を一と通り見廻ってやろう、どうもそうしないと寝られない。」
松岡は一つ一つの部屋を見廻ってあるいていると、末枯れどきのうそ寒さが
松岡が階段の上の板の間に出たとき、突然、造花屋の主婦の声が鋭く階段口から叫ばれた。
「
寝床から起き上って叫んだような声であった。
「僕です。」
「どうしたんです。」
「実はちょっと何で……見廻っているのですが。」
階下は森とした。
「わたくしも先刻から二階にどうも足音がしているような気がして、冴えて、ねむれないんですよ、そしたらあなたがまだ起きていらっしゃるんですもの、それでやっと
主婦は起き上ったような声で、大声で、誰かにあてつけたように言った。「しかし、わたくし考えますには、足音は三階ではなく二階の方でございましたよ、あなたの足音とは違う足音です。」
松岡がぞっとした。
「僕も二階のような気がしたんです、ちょうど僕の部屋の下の方のようでした、誰かが歩いているような……たしか、あそこに造花の道具類が積んであった筈でしたね、あれが崩れたような音がしましたよ、十一時ころに、――」
主婦はすぐ階下の上り口へ立って来たらしかった。
「え、そう、たしか十一時ころですわ、わたくしもその物音をきいたんですよ、造花はほんの紙型だけなんです、くずれるほどは有りません。」
「おかしいな」
松岡はしかし例のもの影を口へ出かかっていたが、なぜか言う気がしなかった。
「変ですね、よほど、しっかりした音なんですもの。」
主婦はそう言いながら二階へ上ろうとしなかった。
「今夜のようなことは、これまでに一度もなかったのですからね、ひょっとすると鼠かも知れない――」
「え、そりゃ、ねずみかも知れませんが、それにしちゃ……」
松岡は寒さで膝のあたりががくがく喰いちがいになるほど、震えて仕方がなかった。主婦は云った。
「おついでに
「え、しかし厭だな。」
松岡は二階へ下りる気がしなかった。真暗な口を開いている階段の下から抜ける、雨戸漏れの空気のゆらぎが
「しかし何んでもないんでしょう、見廻るほどのことも無い――」
松岡は部屋の方へかえろうとしたが、主婦はまた言った。
「何んでもないんでしょうが、一寸、お廻りくださいませんか?」
松岡は黙って立ち
しんと虫のこえがした。
「わたくしも安心してねむれるんですもの。」
「厭だな。」
「そんなことを
「何んでもないんですよ、あれから後に何も物音がしないじゃありませんか。」
松岡は耳をすました。
「そりゃ、そうですけれど、こんな晩には見廻って置いた方がようございますからね、安心ができますから。」
「あなたが廻ったらどうです、ばかに此処は寒い。」
「でもあなたは男の方じゃありませんか、そんな弱い……」
松岡は実際、二階へ下りる気がしなかった。唯、なにか
「僕はもう寝ますよ。」
「そんなことを仰有らないで一寸下りて入らしってくださらない……」
「厭だな、」
「ではご一緒に廻って頂けませんか、その方がよございます。」
「災難だな、」
松岡は二階へめしめしと階段を下りはじめた。階下からも主婦がめしめし上って来たのだった。
「でも一晩じゅう寝つかれないよりも、見廻った方がいい気もちですよ。」
主婦は松岡と二階で落ち合うと、二人とも立ち止った。通りの雨戸からの明りがぼんぼりのように仄明るく浮いて見え、松岡はさむかった。
「たしかに二階でしたよ。」
主婦は同じことを言って、まじまじと松岡の顔を見戍った。松岡は立ったまま、先きに行く気がしなかった。
「さむくなりましたね。」
「ええ。」
使わない部屋はどの部屋もざらついて、げじげじ虫が踵に這い込んでいるようで気味わるかった。納屋がわりの六畳の間でこおろぎが一
「あなたのお部屋の下でしたよ、物音のしたのは?」
「僕もそう思うんですが、しかし……」
松岡はその部屋へ這入るのが、何故か厭だった。それに不思議な胸騒ぎが先刻から間断なくして、主婦に見られるのも工合のわるい程、総身がふるえて仕方がなかった。廊下で主婦はふと皮肉めいた
「奥さまはよくお
「奥さまって?」松岡は驚いて蒼くなった。
「夕方、いらしったじゃありませんか? あの方は奥さまなんでしょう、美しい優しい方じゃありませんか?」
「あれは帰った筈です、あれから間もなく用事ができましてね。」
「いいえ、お帰りになりはしませんよ、階下にはちゃんとお召しものがあるんですもの。」
松岡は頭がぐらぐらとして、後脳が斬り取られたように軽い感覚の無い眩惑を感じた。
「それは
松岡は主婦の顔を睨むような眼附で、わなわなと顫えた。
「でも、あれから一度も階下へお下りにならないんですもの。わたくしお食事の時も気がついていたんですけれど、却って何んだと思いましてね。」
「実は……」松岡は喉の掠れた声で言った。
「あれから間もなく帰ったんですよ、すこし用事があったので、――履きものがあるというのは、本統のことですか。」
「じゃ、階下へ行ってごらんなさいまし。それにしてもお帰りになったとすると……わたくし、ずっと階下にいましたから気づかないことはない筈ですがね。」
「とにかく僕は履き物を見て来る、――」
松岡は蒼くなりながら急いで階段を下りて行き、すぐ上り口に脱いである籐表の、うす紫の緒のある女の履物を見たが、それは、夕方帰って来たときに見た女の履物に違いはなかった。位置もすこしも変っていないようであった。
「まだ帰らない、――とすると、
松岡はがたがた震えながら階段を上ると、上り口に主婦はこれも夜ふけの青い顔をして立っていた。
「ございましたでしょう。」
「ありました。」
「たしかにおかえりになったんですか、それとも……」
「たしかに帰ったのです。階下で女の話声までしたと思ったのは、聞きちがいをしたのだな。」
松岡はいまから思うと、話し声はどうも女の声だと思われなかった。
「すると何処にいらっしゃるのでしょう、変ですね。」
「かえらないとすると……」松岡は冷たくなって
「何か言い争いでもなすったのですか。」
主婦は不安げな顔附で、松岡の顔をまじまじに打眺め
「え、すこしね、込み入った事情がありましてね。」
「しかし変ですね。」
主婦は造花の道具部屋の前に立ちながら、ふと、
「こんな事を言っては何んですが、言い争いをなすったとすると……」主婦は喉が乾いたようにがくがくさせた。
「それに
「いくらかその方ですね。」
主婦はとにかくこの部屋を見ましょうと言った。
「ちょうど此処はあなたのお部屋の下にあたります。」
そう又言ったが、松岡は胸さわぎで、わくわくして部屋の戸があけられなかった。主婦はいきなり襖の戸をあけたが、中はしんとして別に異常もなかった。松岡はほっとして思わず言った。
「あいつ、短気なことをしやしなかったかと、この部屋を覗くまで安心ができませんでしたよ。それにしても一たい何処へ行ったんだろう、下駄を
「そう思うより外に考えようはありませんね、どこにも居らっしゃらないとしますとね。」
松岡は
「やすみましょう、莫迦々々しい。」
「でも、ようございました。もしものことがあったりしますとあとが厭でございますからね。」
「まさか、そんな奴ならいいんだが……」
松岡は冷笑して見せた。
「あんな美しい方をそんなに仰有るものじゃありませんよ、ずっと御一緒だったのですか。」
「すこし訳があって別れたんですが、時々ああして出て来てはうるさくて仕方がないんです。」
「でもお一人では御不自由でしょうから一緒におなりになったらどうです。」
松岡は黙って鼻さきで笑っていた。二人は三階へ上る階段に立っていたが、主婦はその時、急に
「あの方ですよ。」
主婦はぶるぶる震えた。
「やはり帰らなかったのだな。」
松岡は紙のように蒼くなり、へた張った主婦を足もとに見て、その長い姿を天井裏に仰いだ。
「悪いことをした。」
松岡は始めてそう謝まるような声音で独り言をしたが、からだが