童話

室生犀星





「お姉さま、――」
 小さい弟は何時いつの間にか川べりの石段の上に腰をかけ、目高めだかをすくっている姉に声をかけた。
「お前、いつの間に来たの、こちらへ来ると危ないわよ、わたしすぐ足をふいて行くから。」
 姉は慌てて今まで流れにひたしていた足をふいて、拭いていながらも自分と同じい顔をしている弟を見て、そして四辺あたりに誰もいないのを見定めると、石の段々をあがった。道路から二段目のほかほかした日あたりに、足を鞦韆ぶらんこのように下げている弟のそばへ行き、そして肩の上に手を置いた。
「沢山捕れたの。」
「いいえ、ひとりだから駄目よ、二人だと手拭を両方から持って居れば沢山捕れるんだけれど……お前よく来られたわね。」
 小さい弟は微笑わらっただけで別にそれについては返辞をしなかった。顔いろの悪いのはこの前会ったときと同じかった。
「みんなお達者、――」
「ええ、みんな………。」
 姉は弟にならんで石段の上に腰を下ろした。石段に猫じゃらしの穂が一杯に伸び一番下の段に美しい水が機嫌よくながれていた。瀬すじの優しいところにならんだ目高が二人の話声が水面に落ちるころには、驚いて神経深く乱れた。ふたりはほとんど大人のように黙り合っていた。
「お前この前のときより瘠せたようだわね。肩なんかこんなにこつこつしているんだもの。」
「そうから?」
「手だってほら細くなっている、――ふるえているのね。寒いの。」
「いや、寒くはないんだ。すこし暑いくらい、――」
「それならいいけれど……。」
 弟はしばらく対岸の茫々ぼうぼうたる崖の上をながめていたが、ふと、自分でも思いがけないような声音こわねで言った。
「きょうお母さまに会ったよ、ご門のところでね、八百屋が来ていて何かを買っていらしった、僕、気のせいか知らんけれどお母さんも瘠せたように思う、お姉さま、そう思わない……。」
「そうね、すこしお瘠せになったのね、けれどもお父さまほどじゃない、お父さまときたらすっかり瘠せてしまったのよ、お気の毒よ。」
 姉は弟に遠慮するような声で言った。「お母さまに何か言ったの。」
「いいえ、いつもの通り黙って来てしまったのです。車のかげからぬけて来たの。でもこの段々のところに行っていたときに、こちらをちらりと見なすった、しかし分りはしないんだよ。」
 弟はそういうと沈鬱ちんうつな顔貌で微笑って見せた。姉はその顔を何時ものように不思議そうにながめ、なぜか身内に冷たい汗のようなものを感じた。しかし不快な気もちではなかった。何か静かすぎるときに感じるしんとした寂しい気もちによく似ていた。
「そのときお母さまの肩がすこし尖っていたような気がした。」
 姉はわらって肩の手をつよくしばりつけて言った。
「お前、まるで大人のような口をきいているのね。お前のようなふうになると、考えることがそんなに大人じみてくるのか知ら? 自分でもそう思わない?――」
「べつにそんな気がしないよ、ただ、お母さまがあまり可哀そうな気がしただけなんだよ。」
「ではなぜ逢わないの?――」
 姉は鋭くそう言ったものの、弟がすぐふさぎ込んでしまったのでこんなに言わなければよかったと考えた。弟だって母にあいたいのであろう、それ故に門の前を通ったりしたのであろう、姉はそう考えると姉さんがすこし言いすぎたのね、気にかけないでくれと優しく言いなだめた。弟はしずかに嬉しげにしくしく泣き出した。そして毎日のようにおうちの前を通るのだが、ときとすると家の中を覗き込んで見ることがあると、弟は低い声で言った。
「このごろ晩は行燈あんどんを玄関にともしていらしゃるのね、通りからそれがよく見えるの。」
「ええ、電燈がないものだから、それに行燈というものは妙にさびしい心もちになるものね。」
「けれども僕好き、――」
「妙なものが好きなんだね。わたしんだか白っぽくぼんやりしてともれているのが寂しくてしかたがないの。お前の好きなわけがわかるんだけれど……。」
 弟は※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしられたような淋しい顔をした。そして、ほら向う川岸の崖のところから、川をへだててその行燈のあかりだけが何時もよく見える………と言った。姉は崖の方をながめた。石白く茫々たるかわらの草も末枯れて茜色に染まり、穂のあるものはとくに穂を吹かれてしまった蕭殺しょうさつたる景色であった。冬が起き上ったような物憂い寒々した腰つきが、川原一杯に感じられた。
「お前、冬になってもこうやって訪ねて来られる……。」
「ええ、いつでも――。」
「雪になってもかね、山をごらん、遠いのにもう白く幾すじも光ってみえるでしょう、あれが一日ずつ数を殖して、しまいには山のあたまの地がまるで見えなくしてしまうんだよ。それでも来られる………。」
「大丈夫来られる………。」
「そう全くふしぎね。」
 姉は山をながめた瞳を弟に向け、弟に向けた瞳をまた山の上に向けた。遠い山の前に近い山があった。遠い山に歯のようなしろい縄のように雪がれかかり、前の山は暗い茜にそまって秋のままの姿だった。姉はそれらの景色と弟とが関わりがあることを知っていたが、どういうふうに関係があるかが解らなかった。なお一段とよく分らないのは何故小さい弟が自分だけに逢いにくるのかが、ふしぎな気がした。しかもこの石段のところに腰かけているときに、全く上から二段目のところに弟はいつもどこからか遣って来て、微笑ってしずかに腰を下ろしていた。足はいつもきちんと揃って、すこし口をあけ可懐なつかしげな顔つきをしていた。
「川原の中に小径みちがあるでしょう、だんだん曲って向うの崖の上の道路へ出るようになっているのね、わたしあそこを見詰めていると、きっとお前がやって来そうなところだと思うの。なんだかしょっちゅうお前はあんな石の白い川原の小径をあるいているような気がしてならないの、お前の歩いてくるところはそんな小径と違いはしない?――」
 弟は黙って微笑っていた。その表情の中には大人のような固い、皮のある微笑ほほえみがてついて見えた。姉はそれをまじまじ珍らしいもののように眺めた。そして弟はいったい幾つくらいの顔をしているのだろうと考えて見るほど、普通の子供とは変ったところが際立って見えた。
「お姉さまはいつでもそう思って川原をみているの。それともお前はあんなところを通りはしないの。」
「うん、通らない。」
 弟は短いこれだけの返辞をして、何も尋ねてくれるなというような顔をした。姉にもそれがよく分っていたが、反対に考えるほど解らないことだった。そして今きゅうに向うの方から洗濯物をしにくる女らしいのが一人、重い籠を抱えてくるのが見えると、小さい弟はそれをはばかるように見つめた。あるかないかくらいの物怖ものおじしている様子が、弟の眼の中に震えているのを姉は見入った。
「お姉さま、――」
 弟はそう呼んで注意した、姉は弟の手をひいて川ぶちの土手の上をあるいた。土手の石垣のあいまの、日あたりのよい穴から遅い冬咲く花があった。白い粟粒くらいの花だった。雪がくると咲いたまま押し花のように凍てあがった。ふたりはそういう石垣のあいまを覗いてあるいた。が、その他には筋のこわい枯草が毎夜の風に吹き荒まれ笛のようにからからになっていた。生き残っているいなごはみんなびっこを曳いて間もなく死ぬだろうと思えた。
「わたしお前とあるいている間はいいんだけれど、お前がいなくなってしまったあとが、何時でも気が滅入り込んでしまって困るの。」
 弟は黙って土手の上の草に手を触れながら、姉の言うことを考え考え歩いた。「それに妙にお前がやっておいでの朝はせかせかした落着おちつきがない気もちになってすぐお前が来るということが分るわ。よく鳥のかげが家のどこかにさすと誰か珍らしい人が来ると言うわね。ちょうどあのときのようにわたしにはお前がくるときは、朝のうちに何ももわかってしまうの。そんときはまるで嬉しくて仕方がないものだから、この子はどうしたんだろうってお母さまがおっしゃるくらいなんです。だからわたしきょうはいい事があるんだと言っておくの。ほんとにふしぎね。そんな日は決ってお前は石段のところにいつものようにきちんと坐って待っているんだもの。どうしたの。そんなに黙ってさ、お前だってそのときは嬉しいのだろうね。そりゃわたしと同じだろうからね。」
 弟は唯何も言わないで歩いていた。
 かれは石段のところから二町ほど上流の、灰色っぽい木橋のたもとまで来かかっていた。長い木橋の、灰ばんでよこたわっている姿は、枯れた川原の草の上に蕭条しょうじょうとしてかかっていた。その橋の上流は藪につづいた外は、一望いちぼうの白い石ばかりの川原と土手との続きであった。かれら姉弟は橋の袂にぼんやりちつくしていた。
 そのうち弟はひとりだけ姉のそばからはなれた。いつものようにそういう時はすげなく見えたが、姉はべつに不思議そうにはしなかった。
「もうおかえり?――」
「ええ。」
 姉は二三歩寄りそうて、親しそうに手をとって言った。
「こんど何時くるの。」
「いつでも、――」
 弟はそういうとすたすたと草履ぞうりの音をさせながら歩き出した。姉はいつも弟のうしろ姿を見送らないことにしていたので、これも背後姿を見せながら下流へ向って歩き出した。うすれた日かげはそれきり冬近い日没の色に変ってしまった。


 おとしは眼をさますと慌てて川べりへ出て見た。対岸の崖の上に今夜三つ灯がともれているばかりだった。暗夜の茂をながれる大河の音が一時に耳もとに襲うた。お俊はいつも対岸に四つの灯が見えるとき、又、二つの灯がいているときと、また今夜のように三つに見えることとあるのを、気に留めた。どうして灯の数が晩によって殖えたり少なかったりするのが分らなかった。お俊はすぐ居間へ這入はいってきよ子の寝顔を見つめ、穏やかなその顔をしずかに撫でてやった。この子はあんな風にしてあの子に逢っているのか知らと思ってみたが、そんな事はあり得べきことでない、――お俊は自分でそういう心を真直ぐにして見たが、小さい二人が石段のところに坐って肩を組んでいる姿が、まだ、こと新しく頭の中にうつっていて、いっしょにお俊の方を向いて何か話したそうに見えてならなかった。お俊の考えを押し広げると子供同士の、窺い知ることのできない世界に二人が何かをささやいていることが、ありそうな事にも思われないでもなかった。
 それに不思議なことにはきよ子は何時も石段のところで遊んでいることだった。子供というものはああいう危ないところが好きなものではあるが、きよ子は決ってそこに腰をおろしていた。弟もやはりそこにしゃがんでは遊んでいたのに、お俊は気もちの中にときおり愕然がくぜんとして何物かに衝かれたような気になって、きよ子の姿を見た。
「あそこがどうして好きなの。段々のところは危ないじゃないかね。それよりか土手の上になさい。」
 お俊はそう言ってきよ子を土手の上へれてくるのだが、きよ子はべつだん母親に抗うこともなく従順にいてきて、土手の上であそぶのだった。が、しばらくすると何時の間にか石段の上に坐っていた。定ったように二段目で、何かつれおいてきぼりを食わされたように寂しそうに或るときはむしろ寒そうな姿をしていた。
「ええ、わたしあそこが好きなの。腰かけよくできているんですもの。それにあそこは暖かいんです。」
「おかしな子ね、あそこへお友だちなんかもらっしゃらないじゃないかね。お母さんはあんなところは危なくてきらいなんです。」
「でも仕方がないわ、わたし好きなんだもの。」
 その日はどうしたのか平常と違って頑固にそう言い返しをして、ちらりと横を向いてしまった。お俊は悸然きぜんとした気もちだった。ふと気を変え、自分の心の暗みを手さぐるような気で、こう言ってさぐりを入れて見るようになった。そんな事がこの子にわかりそうもない事は知っていながら、自分の頭にあることに謎かけて見ずにいられない別段な淋しい気もちになった。
「あそこでお前だれかを待っているのじゃない? お友だちとか誰かをね、それであそこにいるのでしょう。」
「いいえ、そんなことはないわ、ただ、あそんでいるだけなんですの。そんなに悪けりゃあたしあそこへもう行かないようにするからいい……。」
 きよ子は又横を向いてしまった。
 お俊はそれ以上尋ねるのがよくないと思って黙ってしまった。お俊は何かこの子供のあたまにも自分の見た夢と同じいものが絶えず、頭の中に動いて、その動いている方へ惹かれているのではないかとも思うた。きよ子の性質として妙に大人じみた考えをよく話し出すことをお俊は気にわずらっていたから、――お俊はう一度たずねて見た。
「お前があそこに坐っていると誰かが、お前の知っている、そう一番仲のいい子が来るような気もちになるのじゃない?――お前がそれをちゃんと知っているのじゃないか知ら?――」
 お俊はそう言って自分らしくもないと思ってあかくなったが、きよ子はべつに何も思っていないらしくぼんやりとしていたが、ふと、こんなことを言った。
「貞さんがね、お母さま、――」
 お俊は冷たくなった。そして「貞さんがどうしたの。」と問い返した。が、きよ子はそれ以上何も言わなかった。お俊はそれを問いただすことが恐ろしいような気がした。眼底を去らぬ姉弟の姿があったから、――
「いまごろあの子のことなぞ言い出すものじゃありませんよ、妙な子ね、お前は? それだから神経質だって言われるのよ、もう、そんな事は言っこなし……ね、よく分っているわね。」
「ええ、そりゃ………。」
 お俊は急に心が重く鬱し出した。
 しかも今寝ざめの頭にまだ浮んでいる川原の土手を行く姉弟の姿が、このきよ子の寝顔をみているうちにぼんやりと浮んで見えた。
 かれら姉弟はいつも二人揃って、二人とも赤いジャケツを着て、同じ色の帽子をかむり、姉はすこし大きい靴をはき、弟はすこし少さい靴をはいて、日のこぼれた道路をよく歩いていた。お俊はそういう可憐な姿が右と左との手に重りかかっている夜の町へく買いものに出かけた。二人には同じいものを買ってやった。どうかすると両方から押すのでお俊はどうかすると二人のために足をすくわれるような、危ない足取りをさせられた。お俊は楽しげな可笑おかしい気もちになり、よく二人に言った。
「押さないで頂戴、お母さんが歩けはしないじゃないの。」
 姉弟はそう言われると五寸くらいずつ、間隔を置いてあるいたが、すぐ又足をふみつけるほど何かを話すたびごとに押しよせて来たりした。お俊はしかたなしに二人に揉まれて歩いた。――お俊は両手にかんじるともない重みをきよ子の寝顔を見つめているうちに感じた。お俊は溜息をついてこの頃は平気になって眺められる写真を鏡台のところへ行って眺めた。眺めるだけで心に落着きが来るのだった。あきらめ切ったこころがそういう写真の中の現実をほんのしばらくの間、正確にお俊の眼の中にとどまらせたからであった。お俊は日が経つごとに忘れて行くという人の言葉が、反対の意味で忘られなかった。何か肝心の一つのもの、笑顔や言葉や足つきだけが眼に残った。風呂場へはいると手に足がかんじられた。丸い足に石鹸をつけて洗ってやったことが、殆ど、毎日のように頭をそっくりそれにつかった。――夕方の道路の遠くにその姿を描くことは、家じゅうのあちこちに動く影と同じくらいに珍らしくなかった。二つ枕をならべた押し絵のような夜の静かさ、殆ど同じいくらいと言っていい世にも稀れな二つの寝顔、お俊はきよ子の方を向いて凝乎じっと澄んだ眼をすえた。――二つの寝顔は瞳を開けてそして寝床に入った暫らくの間を時々くすぐり合ったり、手や足を引っぱったりして起きていた、………かれらのそういう清い睡眠前の三十分に親鳥のように羽根をひろげたお俊は、ふざけている姉弟にときどき縫い物の手をやすめながら、優しい声で叱って見たりした。
「もういい加減にしておやすみ、あした又早いんですから。」
 姉は困ったような顔をして、くすくす笑いながら言った。
「貞ちゃんがいけないんですもの、ほら、又。わたし言いつけてよ。」
 が、小さい弟はすぐ夜具を上からかむって了って、夜具の中からきよ子の足を引っぱったりした。おやすみ、ほんとにねるんですよ、そうお俊はそちらを向かずに言って何か心に柔らかいものの、類いなく静かな落着いた夜の時間をかんじていた、……だが、一たい、それは何処どこへ行ってしまったのだろう、小さいいびきがきこえる、一人きりのいびきであった。お俊は嘆息をした。暗い夜路の両側に生えた枯草が見え、そこを小さいむすこがやはりとぼとぼと歩いて行った。いくら考えても、又あきらめても既に忘れかかっていながらむすこの暮れ沈んでゆく姿が見えてならなかった。お俊の習慣的になった妄想はむしろこの荒涼な風色の間に見えるかれの姿を、自ら描いて楽しみ淋しむの思いが、完全なまでにこのごろは待たれるようになった、自分もあのあとに尾いている、一しょに歩いているのだもの、あれはそれを知っている、知らずにいる筈はない、しかも、きよ子も何時の間にか逢いながら話しているのではないか?――こうして吾々はみんな会ってるのだ、そんなに悲しんだりなぞしていない、………又、むやみに寂しがってはならないと思った。


「よく来てくれたわね。」
 お俊は明るい茶の間で坐っている小さいむすこの頭をなでた。気のせいか髪までが、こわくなっているようだった。それにからだはどれだけも肥っていないのに、顔だけがませているようであった。
「お母さまはずいぶん永い間待っていたの。ほんとによく来てくれたのね。」
 むすこはちょこなんと坐って、ただ、うんうんと返辞をしているだけであった。あまり母親の眼を見ない、つとめてそんな機会を避けようとしているらしかった。お俊は丸い小さい手をさすりながら、
「お前はたんとお話がたまっているでしょうから、お話し。あれからお前のしていたことや、見たこと、それから外にまだ沢山あるでしょうから。」
 むすこは黙って折々時計をながめた。むかしから下っている時計が物憂く動いて音を立てていた。
「お前はしかしどこから来たの。それを言ってごらん。」
「あそこから、――」
 むすこは初めて返事をして、ちょっと右の手の指を通りの方へさした。母親は顔をよせてもう一度たずねた。
「あそこって、何処、川原かい。」
「ええ、川原。」
「川原のさきはどこを歩いたの。崖の上なの。」
「いいえ。」
「土手からかい。」
「ええ、土手……。」
「それからきは?」
 むすこは「それから先きは忘れてしまった。」
と言った。全く忘れてしまったようなけろりとした顔貌であった。
「だってすぐ土手の上へ出られやしないでしょう、ものに順序があるものよ、たとえば川の上流からとか、かみの崖から下りて来たとかいう道順があるものよ、それをお母さまに聞かせて頂戴。」
「それは忘れた。」
「ほんとう?」
「ほんとに忘れた。いつでもぽっかりと土手の上に出るの、そのさきは歩いていたのか、歩いていないのか僕にはわからないの。歩いていたようにも思えるし、また、歩かなかったようにも考えられるの。いきなり何時でもひょっこり土手の上に出てくるだけなの。」
 お俊は或いはそうかも知れないと思った。この子は頭にあるだけの記憶を話しているのらしい。この子はうそをくことは無い、そう思った。しかし何故に忘れる事があるのだろう、みんな覚えていそうなのに、――お俊は物珍らしそうな顔つきでまた尋ね出した。
「お前はへいぜいどんなところにいるのか言ってごらん、お前のいるところの、いろいろなお前に覚えのあるお話しですよ。」
 むすこはふしぎな顔をした。
「僕のいるところって今ここにいるんじゃないの。僕へいぜいどこにもいはしないんですよ、今ここにいるだけなの。」
 お俊はちょっと冷たい汗を掻いたが、「じゃあ、いまの前はどこにいたの。お母さまにあう前のことですよ、よく考えて言ってごらん。」
「それは忘れた。覚えがないの。」
「へんね、――」
 しかしこれは本統ほんとうかも知れないとも思われた。ただ、ふいに此処ここにいるという事はうそではなかった。そのさきを覚えていないことも、ありそうな事に考えられた。あるいは夕がた電燈が点いてくるように何も彼も一時に考えがついてくるのかも知れないと思われた。
「それではお母さまの顔をよくおぼえてお出だね、やはり忘れてしまわなければならないのに、――」
「きゅうに思い出すんですよ、へいぜいはやはり忘れているのかも知れない、ただ、ぽかっと思い出すの。」
「じゃお家のひとはみんな覚えておいでだろうね。」
「ええ、一しょに思い出してくるの、順々にね。」
 お俊は今さらのように一つ一つ注意深くむすこを見つめたが、何一つむすこでないものはなかった。ただ、全体が丈夫すぎるような硬いかんじがした。たたいてみたら何か音がしそうに思われ、そしてその眼つきのきれいさも人並外れた澄み方をしていた。「これからお母さまのそばにずっといるんでしょうね。お母さまはそんな時を永い間待っていたんだし、お前もそれは知っているんでしょうね、だからお母さま一人を置いてどこへも行きはしないでしょうね、お前のうちは此処なんだし、別に帰って行処いくところってないわけなんですから何時までもいるんでしょうね。」
 が、むすこはすぐ返辞をしないで、間を置いてぶっつりと言いきった。
「僕ここにいつまでもいることなんか、できないんですよ、いつの間にかお母さまのそばにいられなくなってしまうの。僕はいたいんだけれどそんなわけにゆかない。」
「でもこのままずっと居ればいいじゃないの。」
「このままいたって僕がなくなってしまうんだし、また、みんな忘れてしまうんだもの、どうしようもない。」
「みんな忘れてしまう……。」
 お俊はそう言って見て、なるほど、みんな忘れてしまって、又、かげかたちも無くなってしまえば、ここに居たって居なくたって同じようなものだと考えた。この子はふしぎにそれを知っている。自分というものを能く知っていると思った。「それにお前はよくきよ子にあいにくるのをお母さまは知っているんだよ、何度も何度もゆめに見ているの、お前はそんなにして会いにくるのを寂しいと思わない? お母さまはお前がそう考えて来なくなりはしないかとそれが気がかりなんですよ、お前はそんなに会いにこない子じゃないわね。」
「ええ、そりゃ……。」
 むすこは簡単にそういうと母親の顔をまじまじと眺めた。お俊も何気なく見詰め合った。「けれども僕がもう会いにこなくなったらどうするの。」むすこはそう言って眼を母親から避けようとした。お俊はあわててさえぎった。
「そんなことは無い、お前はいつだって居ると言ったじゃないの、お前は来ようと思えば何日でもこられるんだし、何も彼もお前の思うとおりになるようなところに居るんでしょう。」
「いいえ、そんなことはないんです。僕の考えどおりにはならないの。」
「どうしてだろう?――」
「どうしてだか?」
 お俊は眼にみえぬものをさぐりあてるように川原の方をながめた。清い空気と、荒い瀬とがあった。何も眼にうつりそうもなかった。唯、一帯の荒涼な風景のすべてから或る広々した思いがしたばかりであった。それとむすことを結びつけて考えようとするお俊は、なお落莫らくばくとしたものを感じた。お俊には何事も現実でなければならぬ、自分の在るようなところにむすこをもう一度置かねばならぬと考えて見て、呼吸いきづまるような苦しいおもいがした。そういう考えをもつのはむすこを苦しめるようなものだとも思うた。お俊は何かそう考えると、しばらくでもむすこを自分で抱いて、隔れる時間を永びかさなければならぬと考え、そしてむすこを膝の上に乗せ、しっかりと抱きしめた。むすこのからだは温かくほかほかしていた。


 穏やかな秋日和がつづいている、――お俊はきょうも不図ふときよ子が石段のそばに癖づいて遊んでいるのを見た。片側町で人通りもなかった。お俊はしぜんにきよ子の方へ近づいて行った。
「何しているの。」
 お俊はきよ子がぼんやりと坐っている日あたりのいい石段の、まぶしいくらい白い石を眼に入れた。
「いいえ、何もしてないんです。」
 きよ子はあたり前の顔つきで答えた。
「でも一人でそうしているのはおかしいじゃないか。」
「ええ、だからわたし今帰ろうと考えていたんです、ここも段々寒くなって来たんですもの、それにおさかなが沢山いたのがみんな深い方へ行ってしまって岸にはいないの。」
「冬近くなるからだよ、そうね、風あたりがずいぶん荒くなってきたようね。お前、こんなに手が冷たくなっているじゃないかね。」
「ええ、さむいから、――」
 きよ子は母親に連れ立った。お俊はべつに何も問いもしなかった。すこしの暇さえあれば石段のそばへ行っているきよ子の心が、お俊にははっきり見え透いているだけ、なお、尋ねてはならぬものを感じた。きよ子はふと此麼こんなことを言った。
「わたしどうしてあそこでばかり遊ぶのかお母さまにおわかりになる、わたしもうすっかり癖になってしまったんですもの。へんですかしら。」
「お前のような年ごろには気に入りの遊び場所があると、そこばかりで遊ぶものなんだよ、お前もきっとあそこが気に入っているのでしょう。」
「ええ、おさかなもいるし……。」
「そう、おさかなもね。」
 お俊はきよ子の心持ちには触れぬことにした。それにしてもこんな小さい魂にこれほど叮嚀ていねいな用意深い、又、自分だけで楽しんでいるような世界があろうとは思えなかっただけ、きよ子の早熟した妄想とでもいうものに、或る不思議な因縁をかんじた。
「それにあそこにいると、毎日、山の上へ来る雪が昨日よりか広がってゆくのが分るの。晩にねるときに明日はどれだけになるだろうと思っていると、手のひらくくらいに見えたのが、もう二倍くらいになって見えるんですもの。早いものね、しまいに、あれがみんな真白になるわね。」
「え、もうすぐよ、しまいには山肌がみえなくなるほど白くなってしまうんですよ、ほらずっと奥の方にある山があるでしょう。そして兜のような形をしているのが一番さきに白くなるんです。」
「こわいようね。わたしあれを見ていると誰かがいてお砂糖を振り撒いているような気がするわ。」
 お俊は微笑って、「もう、じきにこちらも雪になるかも知れない。」と言った。
 二人は自家の門の前まで来たとき、また、言い合したように立ち止った。向岸に学校がえりらしい子供が一人、道草をしながら歩いて行った。きよ子はそれを凝乎と見送っている。お俊も目のやり場がなく同じい視線を凝らしていた。ふたりは期せずして何かを思いあててお互いがそれの心持を隠し合っているらしかった。ふたりは家の中へ這入ったが、きよ子だけ何時の間にか又門の前へ出て佇んでいた。
「ああ、又か?」
 お俊はそのうしろ姿を見ながら呟やいて、己れも亡くした子供のことでどうかすると居耐いたたまらない気もちを刺戟されながら、ぼんやり玄関へ出た。まるで絶えず目に見えぬものに静かに呼ばれているような気がしてならなかった。その子供は雨もふらないのに田舎の子供らしく傘をひろげ、末枯れた崖の岸を歩いて行った。風があると見え崖の草は葉裏を波がしらのように白く捲き返しながらいた。
「お前、何をそんなに見ているの、すこし寒いじゃないか?」
 きよ子は母親を見て、自分が又佇っているのに赧くなったが、
「お母さま、あの子は眼がつぶれているんです。」
「目がつぶれている?――どうしてなんです。」
「わたしあの子を知っているの、いつか電車の中でハモニカを吹いていたんです。ほら、よく見ると黒い目金めがねをかけているでしょう、だから初め目が見えないと思っていなかったので、突然、ハモニカを吹き出したのでわたし吃驚びっくりしてしまったんです。」
 お俊はそう言えばどうやら目金をかけていると思った。眼のところが黒ずんで悲しげに見えた。きよ子はあの子が電車に乗るとすぐにハモニカを吹くのが癖だと言った。お俊にはそれがどういう意味か分らなかったが、その子供が一人、さびしくとぼとぼと歩いてゆくのが眼に残った。
「それにこの間向う岸であの子が一人で、ふなを釣っていたの。よく似た子だと思うとあの子は目が見えるような顔をして、弟さんと一しょにいたの。」
「妙な子供ね。」
「あれで糸がぴりぴりすると、きっと分るんでしょう、ほら、足で石を蹴りながら行くでしょう、あんなことばかりしている子なんです。」
 お俊はまだ一度もその子供を町で見たことはなかったが、歩きぶりが目の見えない人のように考え考えあるいているところがあった。お俊はそれを眺めているのが何故か厭であった。
「お這入り、」
 お俊はそう言っておきよを家へ入れ、夕方の、門を閉めた。門や雨戸をしめることにあの子はよく癖づいて泣いたものだと思った。





底本:「文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子」ちくま文庫、筑摩書房
   2008(平成20)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「室生犀星未刊行作品集 第2巻 大正※(ローマ数字2、1-13-22)」三弥井書店
   1987(昭和62)年5月28日
初出:「世紀 第1巻第3号」
   1924(大正13)年12月刊
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2013年11月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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