室生犀星




 朝の九時に鐵のくぐりを出た打木田は、それでも、しばらく立つて誰か迎へに來てゐるだらうかと、あちこち見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)したが、やはりさとえは來てゐなかつた。外にも出る者がゐるらしく、差入屋の入口に五六人の肩をちぢめた連中がゐたが、迎へのない打木田を見ると眼に同情のしなを見せて見送り、打木田はその前でちよつと頭を下げて行つた。五六人の連中は打木田のしたより二倍くらゐのていねいさで、頭を下げて應へた。
 打木田は利根川べりの郊外から、息もつかずに町の中にはいると、電車にも乘らずにまつすぐに、くるわ町の交叉點に出て行つた。そして角にある煙草屋の店を見すましたが、先刻と同じ足どりで店先に駈け込むやうにして行つて、勢ひ好くタバコをくれと言つた。奧から中年の女が出て來たが、打木田はピースとバットを續けさまにいひつけ、お釣錢をうけるとき打木田の眼はワナワナふるへた。蒸し上るやうな女のふとつた白さが、眼にはいるよりも内股にうづいて來て、全身に例のワナワナがわいて來た。打木田はあわてた乾いた口もとで、聲もかすれて早口でいつた。
「燐寸、燐寸をください。」
「はい、燐寸、」
 もう女の顏を見ることのできない、あわてふためいたところに、かれはゐた。打木田はピースに火をつけると燐寸を返さうとし、女は燐寸はお持ちなさいといつてくれた。ふしぎさうに燐寸をうけとるとかれは燐寸といふものが、どこでも、ただでくれるものだといふことが判らずにゐたから、お禮をいつた。二年半のあひだに四囘見た女の顏は、二年半のあひだかれに毎晩その顏をすぐわきにならべて寢てゐてくれた。打木田はしんみなやうなものを感じて、お禮をいひたかつたが、そんなばかなこともいへずにまた交叉點に出て、店屋の通りを東の方に歩いて行つた。まるで顏に手をかけておもちやにしてゐたやうな女が、そんなことはちつとも知らないでゐることが、人間には神通しんつうもなにもないやうで、人間なんてだめなやうなものに思はれた。
 利根川ぞひの町のはづれにある、この大きなとうふやにはいる前に打木田は※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)パンを七個買つて、からのボストン・バッグに入れた。ボストン・バッグはからのままのかれのただひとつの所持品であつた。手ぬぐひと齒ブラシがはいつてゐるきりである。打木田はなんでもいいから、品物も問はずに入れて、ボストン・バッグを一杯にふくらがして置きたかつた。朝刊を繪本屋で買ひ二つ折りにして入れ、さつきの※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)パンの重みにくはへて、ちよつとした膨らみを見せたのでかれは陽氣になつて、古い町家作りのとうふやにはいつた。
 とうふやでは十時近いので、その日のあぶらあげをあげてゐた。
「此處でたべたいんだが。」
「お好きかね。」
 さういふことはしじゆうあるので、お内儀は大鍋の下に藁を一とにぎり燻べ、あたらしく水を切つた揚げとうふをいれた。とうふはまはりから乾いた揚げ耳をつくりながら、じじとあぶらが景氣よくさわいだ。あぶら揚げつて何かい、藁で焚くものですかと、かれはほかの燃料をつかはずにゐるお内儀にたづねた。ふうはりと揚げるにはかんの立つた榾なぞつかへません、どうしても鍋で柔らかく燃さなきやよう揚りませんとお内儀はこたへた。奧から十四五の娘が出て來て鍋番らしく、藁を一とにぎりづつに大束から拔いて、何時でも燃せるやうに用意するため、積藁の上に腰を下ろして、思ひきり脛の見える短かいスカートをたぐり上げた。打木田はその足を見るだけで、あへぐやうな氣持であつた。その内、百姓風の男が二人這入つて來て、土間の上り口に腰をおろし、辨當の包みを膝の上に置いた。打木田は百姓にちよつと頭を下げて見せた。百姓男はええお天氣でといつた。おしたぢを入れた皿が配られると、娘は長箸で鍋からすぐのあぶらあげを、打木田から順ぐりにうまく挾んで、皿の上につけて行つた。これも二年半のあひだ作業の都度このとうふやの前通りで、かいだ匂ひだつた。あいつをふうふういつて食つてやらうといふのぞみが、もうきちんとかなへられつつあつた。かれはまん中の柔らかい、へりの少々舌にたまるあぶらあげをたべた。山吹いろのあげものはかれの口に媚びへつらうた。
 打木田はその時かれの腰をおろした上り框の、板の合せ目に光つたものを見て、すぐそれが一本のあまりあたらしくない釘であることを知つた。そしてそれをそのままポケットにしまひこんだ、なんでも、ほしくなるが釘は一きはほしかつた。かれは※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)パンを取り出すとそれを揚げもののあひだに食べ合せてみたが、百姓男はべんたうの中から漬けものをつまんで、お一つおあがんなすつてといひ、打木田はその返しに※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)パンを二個百姓男に、頒けた。かれらは偶然つれ立つてとうふやを出ることになつたが、通りでわかれた。
 陽氣にボストン・バッグを提げた打木田は、ふたたび、くるわ町の交叉點にあらはれたが、それはただ來ただけでタバコやには寄れなかつた。そのまま町の盛り場に出ると、ちやうど映畫館のスズがなりひびいたので、こんどは、悠くりしたあしどりで入場して行つた。はじめて落ちついた氣になり、まだがら空きではあつたが、なるべく人のゐる席のとなりをさがして、坐つた。九つくらゐの女の子に母おやらしいのがゐて、まだ若い女のよこがほがひどく別嬪に見えた。映畫はちつとも可笑しいものでなかつたが、別嬪は非常に高い笑ひ聲を立てて笑つた。まるで笑ひ聲を自慢してゐるやうに見えたが、笑ひ聲をじまんして笑ふといふことはなからう、若しさういふことがはやつてゐるとしたら、たいへんなはやりだと打木田はあまり笑ふので、この女はばかかな、ばかなら面白いがとかんがへた、よく見ると身なりもきちんとしてゐてばかではない、しかし可笑しくもないのにくつくつと笑ひ、九つくらゐの女の子は、ね、そんなに笑つちやいやと母おやにたまりかねて、そつと注意してささやいた。注意されるとしばらくだまつてゐるが、間もなく、くつくつとほんとに可笑しくてどうにもならないやうに、頭をふつて笑ひ出した、この奧さんはやはりばかみたいだな、かれは女があまり笑ふのでだんだんしたしみが加はつて來るやうな氣がした。女の子は袋から鹽豆をとり出してぽりぽり噛みはじめ、かうばしい鹽豆の鹽のにほひがかれのすぐ一尺と離れてないところの、袋の中からつまみ出されると發散した。女はきやつきやつと笑つてゐる、かれは左の手をひろげて女の子の方に、戲談らしく差し出し、をぢさんにも少し分けてくださいといふ意味のわからない、もやもやした言葉づかひでさういつたが、女の子は打木田の顏とひろげた手を見ただけで、鹽豆の袋は母おやの膝の上にのせ、かれの方から横向きに坐り方を變へてしまつた。いやな女の子だとかれは自分のしたこととはべつに、かういふ女の子は大きくなつたら、意地惡になると小憎らしかつた。
 母親の笑ひ聲はあたりの觀客もふり返つて見るほど、突拍子もなく續いた。可笑しくも何ともないときに、まるで映畫に媚びてゐるやうな笑ひ方だつた。女の子は突然、母親の口元に手を當てて、そんなに笑ふとみんながへんに思ふわよ、と、しばらく手を當てたままであつたが、母親はそれをべつに拂ひ退けるやうなこともしないで、小さい手のひらの下で、さすがに、低い聲音で控へめに笑つた。打木田は先刻からずつとその笑ひ聲にも似てゐて、きつと映畫さへ見れば笑ふ女に、やつと、さとえを思ひ當てた。出所の通知と引取人の申請にさとえの名前を書いて出したから、さとえはそれを知つてゐる筈だつた、しかしさとえは來ないものに心で決めてゐたとほり、姿を見せなかつたのだ、千葉市の今町の家にはさとえの兄も父もゐたが、打木田の逮捕前からさとえは寄りつかなかつたから、こんどの事件をきつかけにとうに餘處にかたづいてゐるかも、分らない、孰方にしても打木田はさとえの本心をさぐるために、たとへ、對手にされないにしても今町に出掛ける肚だつた。もひとつはいくらさとえの氣性で打つかつて來ても、一晩や二た晩くらゐは泊めてくれるだらうし、泊ればさとえが元どほりにならなくとも、一晩でも間にあはせたい氣持だつた。あれほど好き勝手にいぢくり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)すことのできたさとえのからだが、二年半ぶりでたづねて行つて、いきなり拒まれることなぞある筈がないと、かれは三年前のさとえの或る種類のしつこさがかれのこんな思ひを證據立ててくれるやうであつた。なあに女なんてわけはないといふ肚がきまると、打木田は映畫館を出ようとし、廊下で先刻見て氣に入つた次週上映のびらの中の女優の顏の前で足を停めた。その西洋の女優の顏はいろつやも微笑状態も、生きてゐるものと、どれだけの差もないほど好くかかれてあつた。打木田は先刻も便所に行つたときにその氣があつたが、煙草をのんでゐる男女づれがあつたので出來なかつたが、いまは誰も見てゐる者のゐないよい機會だつた。かれはとうふやで拾つた釘をさぐり出して、女優の顏だけをくるつとゑぐり拔くためにしらべてみると、びらの下地の厚紙とのあひに糊氣がなく、これなら指でおさへて置いてくり拔ける自信がもてたし、このまま素通りにして映畫館を出てしまふことは、出來なかつた。かれは人眼がないことをたしかめると、入口に氣をつかつて素早く女優の顏をゑぐり取つてしまつた。そのことと同時にかれは非常な速さで映畫館を出てしまつた。そしてどういふものか、いきなりすぐとつつきの藥屋にはいつて行つた。何を買ふあてもなかつたが少時だけからだを通りから、かくしたかつたのだ、かれは使ひ紙を買ふためによぼよぼ媼さんが、あれでもない、これでもないといふ選び方にまごついてゐるまに、ボストン・バッグに石鹸を三個硝子臺の上からすべり落した。往來からはかれのからだで見きはめがつかないし、媼さんはまごついてゐて判るはずがない、かれはそこを出るとすぐ停車場行きの市電に乘りこんだ。先刻の交叉點に來ると伸びあがつてタバコやを見る程餘裕がついてゐたし、タバコやでは先刻の女の顏は店先に見えてゐなかつた。

       …… …… …… …… …… ……

 高崎で上野行きに乘りかへたが、柏崎から發つた列車は混んで長途の旅客は動く氣色もなく、打木田は立つたまま窓際に坐つてゐる若い女が、むずむずからだをよぢらせて、座席を空けてくれるやうな構へをしてゐるのを見附けた。若い女のとなりは十四五の少年が坐つてゐて、空ければすわれるだけの餘裕があつた。少年も氣附いてからだをずらせてくれたので、打木田一人分の席があいた、打木田は無理に割り込むのが隣が女だけに、氣が挫けてすぐには腰を割り込めなかつた。
「どうぞ、」
 と、女は窓際にまたからだを、寄せていつた。充分に空いた席はやせた打木田が無理しなくとも坐ることができた。打木田はどうも濟みませんといつたが、だんだん女がからだをきゆうくつに固まらせてゐることに氣がついて、かれもからだをちぢめるやうに構へた。小柄で氣の好ささうな女の素性は、すぐには見きはめがつかない、腕時計ハンド・バッグ靴といふふうに見てゐるうち、どこも隙だらけであり工場の女にしては落ちついてゐるし、浮いた感じがなく、踊り子や女給でもないのは所持品にどこか流行おくれのところがあつたからである。人なれがしてゐないかと見れば、先刻からからだがふれてゐても一向平氣でゐることで、充分に人なれがしてゐると思つた。そのうち、若い女はピースを出して喫みはじめ、喫み口はなれた喫み口であつた。かれも同じピースを取り出して喫んだ。かれはしぜんに話をしてもよい時分を感じて、極くふつうの状態ではなしかけようとしたが、その前に女の方から低い聲でたづねかけた。
「上野へ着くのは何時でございませうか。」
「かれこれ夕方頃でせうね、上野まで二時間半かかるんですから、くらくなつてから着くんでせう。」
 女は腕時計を見ていつた。
「六時半ころ着きますわね。」
「そんなもんでせう、東京はどちらなんです。」
「新宿でございます。」
「ぢや山の手に乘りかへるんですね。」
「ええ、ちつとも外出しないものですから、何に乘つていいか分りません。」
 打木田はへんな氣がして訊いた。
「お勤めですか。」
「ええ、まアお勤めみたいなものですけれど、……」
 打木田は無遠慮に對手を呑んだ口調で、づけづけいつた。
「どちらにいらしつたんです。」
「柏崎が生れたところなものですからちよつと用事がございまして?」
「柏崎つてもう雪がふつてゐるんですか。」
「雪なんてまだまだふりませんわ。」
「僕はまた寒い處だと聞いてゐたものですから。」
 女は雪のことで笑つたが、この笑ひも陰氣くさい含み笑ひだつた。打木田は前橋から出て高崎で乘り替へ、上野に着くとすぐ千葉行きに乘らなければならないと、かれは女の人とはなしをするのが、それだけで浮きうきした氣分になつていつた。どこか、馬鹿みたいな正直さを見せてゐるこの女は、何をしかけても怒らないばかと從順さがあるやうで、打木田は一たい何をしてゐる女かと、その見當をつけるため心で焦つた。
「東京ではお泊りにならないんですか。」
「千葉行きの終列車に間にあへばいいんです。」
 大宮で、かれは歩廊に出て、辨當を二人前購ふと女の手に渡した。女は濟みませんといつたが、わりに平氣でうけ取つた。
「ではどうぞ。」
 女は百圓札をかれに渡さうとした。そんなものいらないんですよと、打木田は金をうけとらなかつた。女は突然、窓際に來た牛乳賣から二本の牛乳を買ひ、サンドヰッチを一折べつに購ふと、辨當のお返しのつもりらしく、打木田にどうぞといつて手渡しした。このボックスは片側だけになり、少年は向うむきで睡り込んでゐて、混んでも邪魔者の眼に出遇はなかつた。二人は膝の上にそれぞれのものをならべると、女はかういふ言葉になれて言ひつづけてゐるやうに、あらたまつていつた。
「いただきますわ。」
「僕もごちそうになります。」
 打木田はなんとなくいつた。
「高崎には美味いうなぎがあつたんですがね。」
「でもお時間が早いんですもの。」
 打木田は辨當をひろげると、ものもいはずに乳を喫みサンドヰッチをつまみ、それは瞬く間に食べ終つてしまつたが、女はまだそのあひだに辨當の半分もたべてゐなかつた。打木田は先刻からずつと左の靴を片方脱ぎ、女の靴のうへに柔らかにのせてゐた。女はそんなことにも氣を取られず、また少しのみだれた樣子も見せずに、するままにしてゐた。女は寧ろ呆れたふうにただ一言かれのやうすを見ていつた。
「まあ、おいしさうにおあがりになりますこと。」
「そんなに美味さうにたべてゐますか。」
「ええ、とても。」
「僕は汽車辨當が好きなんです。」
「お美味しいのにであふといいんですけれど。」
「けふのはどうです。」
「あぶらの匂ひがしますけれど、……」
「あぶらの、……」
 打木田は※(「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)いでみたが、荒れた※(「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)覺にはあるかないかの匂ひの漂ひが、判斷出來なかつた。
「僕のにはしないやうですが……」
「ぢやわたくしのお辨當だけかも判りません。」
 女はサンドヰッチには手をつけずに、乳をうまさうに呑んだ、打木田は女自身が女のからだのものを呑んでゐるやうなへんな氣持で、永い間牛乳のあぢをおぼえたことがないので、一滴もあまさずに呑み干した、ゆめのやうなあまさだつた。
 二人は食後うまさうに煙草をふかした。女のはねられた小指が、煙草のけむりとよく調和して、うつくしい眺めだつた。人間なんてかうしてしやばに居れば、よい思ひがけない出來事に行きあふことができるのだと、打木田は確かりと女の靴の上にちからをこめた。大宮がすぎて日沒のくらさが、一遍に濃く厚いふくらみを見せて來た。赤羽の橋をわたる時に打木田は女の手を、自分と彼女の膝の横腹のあひだに、大膽につかまへた。若し女が怒ればあやまり、怒らなければそれでいいんだと思つた。女は取られたままのものを取られたままで、ゐた。打木田は背中まで發情して汗を掻き、眼は鼻の方に釣られてかすかに物が見える程だつた。
 田端と日暮里が過ぎ、あとの何分かが、かれの前に時間を失ひつつあつた。打木田は急き込んで女に處番地をたづね、女はそれをすらすらとわけなく告げた。新宿×丁目六十九 角屋方といつたが、鉛筆を持つてゐるなら書いて下さいとかれはいひ、女はハンド・バッグから小型な手帳と鉛筆を取り出すと、新宿×丁目六十九 角屋方戸越まさ子と、たどたどしい薄い鉛筆書きを打木田に手渡ししたが、かれはその咄嗟の間に自分の處書きを何處に書いていいか分らなかつたが、元ゐた千葉市今町の住所を書いて渡した。そしてかれはこんど引越すかも分らないとつけ加へ、女はかれの處がきをハンド・バッグに入れ、かれは帽子の裏皮に女の處がきをしまひ込んだ。
 上野に着く前、列車が御隱殿坂下の踏切をすぎるとき、打木田は恥をわすれて女の腰を人眼のいそがしい暇を見計つて、抱いた。女はやはりされるままの状態だつた。ずつと寢つづけてゐたと見える先刻の少年は、突然、眼を一杯にひらいて打木田の顏を眞向から見すゑた。打木田はその視線をいひやうもないくらい眼の光で、ねぢふせた。
 上野の歩廊から山の手線の窓ぎはまで、打木田は連れ立つて見送つた。かれはそれはきつと女にもつうじたとおもへる、一生懸命な言葉づかひできふに寒氣まで感じて言ひつづけた。
「きつとおたづねします。きつと。」
 女はやはり細い眼すぢで笑つて、いよいよ落ちついて何でもないふうにいつた。
「どうぞ、いらして下さい。」
「では。」
 打木田は内部の人込みに見分けがたい顏の列の中に、さがしあぐんだ眼を歩廊の石たたみの上に落した。かれは漆喰コンクリイトの冷却したやうすがかれをいやな感じの色に、引きもどして來るのを感じた。

       …… …… …… …… …… ……

 千葉の驛に降りた時はもう八時をすぎてゐた。すぐ今町に出向く前、さとえの樣子をさぐつて置く必要があつたので、伽川の家に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ることにした。伽川は打木田とは一年前に出所してゐて、さとえ宛の言傳ても託んで置いたし、あちらでの知り合ひといふ仲では腹を割つて話しあふことが出來るし、仕事も分けて貰へさうな氣がしてゐたからである。
 伽川は丸太小屋ではあつたが、きちんと片づいてゐて白毛のふさふさしたスピッツを二頭まで、飼つてゐた。どうしたのだといふと、小犬の方は手間代かはりに貰つて來て、あと一と月經てば五千圓になるといひ、大きい方はまよひ込んで來たのを繋いでゐるのだといつたが、犬を手なづけることと、それを金に替へることで何時も急場の足しにする伽川は、或ひは故郷の土佐では犬屋稼業もしてゐたかも分らなかつた。
 伽川は胡散臭さうにいつた。
「とにかく犬は飼つて置く分にや損にはならないさ。」
 だから、大きい方のスピッツは、何處でどう手に入れたものか、そして飼主のあるらしいこの土地ではいづれ東京にでも行かなければ、捌くことができないしろものであつた。
「で、これからどうする氣だ。」
「もとの飾職をみがきたいんだ、キンも解除になつたからね。」
「千葉ぢやだめだね。」
 打木田は仕事の話になると、話をずらしてゆく伽川の腹が見えて來たので、手ぎはよく打木田はもう口を割らなかつた。さとえの樣子をきくと、つひぞ今町の家で見かけたことがないといひ、出所間際にもおれは會つて言傳てがいへなかつたと、いつた。
「ゐてもだよ、とても一緒になりつこはないよ、あそこから出て來たらその氣で何でも一人でやり通す氣にならなきやだめだ、他人の世話なんてしやばにやありつこはないんだ。」
 打木田はもし今町に行つて見て、今夜のところ泊めてくれさうもなかつたら、一晩だけめんだうを見てくれまいか、明日は東京にかへる心算だといひ、作業の賃金も五六枚大札で持つてゐるといつた。これは、ほんの印だがと石鹸三個を取り出してお内儀さんにといひ、かれはどうかして今夜の宿だけはつくつて置きたかつたのだ、しかし伽川はなんしろこの六疊ひと間きりで寢てゐるんだが、客用の寢具もまだないのだときつぱりと斷わつていつた。
「いや君のよこにちよつと這入らして貰へばいいんだ。」
「まさか添寢でもあるまい。」
 伽川はてこでも受けつけなかつた。
「よくあちらではやつたぢやないか。」
「何言ふんだ、あちらのこたあ、わすれてしまつた。」
 少時して打木田は蒼みを含んだ顏附で立ち上つた。伽川は石鹸の包みを打木田に持つてかへるやうにいひ、かれはさうかい、久振りのみやげも取つてくれないなら、貰つてかへらうといつて元のボストン・バッグにしまふと、伽川の家を山下をとほつて出た。勿論、伽川は坐つたきりで立ち上つて見送りもしなかつた。こんなふうに扱はれるとは氣づかなかつたが、あしらはれ方がきびきびして隙間も何もあつたものではない、……それにしても列車の中であつた女はどうしてあんなに手脆かつたのであらう、あんな脆さのある女に眼を放すことが、こはかつた。そしてあんな女に出あふことも二度とはなからうが、早く東京に行つてたづね、仕事にありついてあの女をものにしたかつた。激情はふたたび背中をがりがりとささらでこするやうに、かれをワナワナふるへさせた。

       …… …… …… …… …… ……

 たしかにさとえだと見た横顏は、五六寸あいた襖のあひだから逸早く姿を消した。出たのは父親の晋平だつたが、打木田を見ると一遍に硬張らせた顏と怒つた肩先で、玄關に突つ立つたまま打木田の物言ひを待ちまうけた。打木田はけふ出所したがさとえの迎へがないので、いま千葉に着いたばかりだといつた。晋平はそれでも上れといひ長火鉢のそばに坐らせ、女房のお才に茶を淹れさせたが、お才もきたないものを見るやうな眼付で、警戒する氣持のはげしさから物も言へないふうであつた。打木田はボストン・バッグから三個の石鹸をとり出すと、晋平夫妻の前に置いたが晋平はそんな物に眼もくれなかつた。
「そこで君は今夜はどうする氣なんだ、家は手狹だし、……終列車は九時五十九分發なんだが。」
 時計を見上げた普平はたつぷりまだ一時間近くあると、言つた。お才は驛まで十分あれば男の足では間にあふと、ぬるい茶を疊の上に置いた。
「東京に行くつもりですが、さとえはどこにゐるんですか。」
「さとえのことは構はんでくれたまへ、話はついてゐる筈ぢやないか、三年も食はずにゐる譯には行かないさ。」
 打木田は取り附きやうのない晋平に、言葉としての物言ひが出來なかつた。やつとかれは、本人に一度だけ逢はせてくれないか、本人の心をたづねて見たいといつてみたが、普平は本人もわしと同じ氣持でゐるし、逢つても何の足しになるものではないと、口をゆがめて言つた。少時だまつてゐた打木田のとるべき手だては、此の家を出てゆくより外にとりやうがないことを知つた。かれは立ち上ると晋平は左の手で石鹸を片寄せて、何だこんな物をといふふうにずらせていつた。
「こいつは持つて行つて貰ひませう。」
 格子戸の外までお才があとを追つて、石鹸はつき返されてしまつた。元のボストン・バッグにしまひこむと、かれはくらい人家の通りを歩いて行つた。何時もならかつと逆上して普平夫妻をどういふ目に遭はせたか分らない打木田の眼の底には、列車の中であつた女がなんの拒みもなく抱かせたぬくとい腰が、すなほにかれのゆく手にかがやいてゐた。上野着は十二時近い、明日は逢へる、かれはこれだけを一直線にお腹の下までぞくぞくと感じて、勇躍した。
 かれはその時ふつと足を止めた。とある相當構への大きい家の門のくぐり戸がすつかりあいてゐて、あかるい玄關の内側が見え、靴がぎつしり五十足ばかり隙間もなく脱いであつた。建仁寺の内垣をしきつた奧座敷は、かうかうと電燈が點いてゐて人氣はあるが、咳も聲もしてゐなかつた。かれはくぐりをすつとすべり込むと玄關先に行き、靴を一と渡り見くらべると女の靴を一足だけ、あぶらのやうなものを指先に感じて、それを抓み上げた。そして女の靴といふものがいかに輕いものであるかを知り、元のくぐり戸をぬけて往來に出て行つたが、まるでそのあひだに人の氣はひもなにも認められぬ速い時間があつただけだつた。
 だが、打木田はそれをボストン・バッグにしまひこまうとしながら、今朝出たばかりぢやないかとせせら笑つて獨り言をいひ、つぎにみづからなぐさめるために今日は止さうや、今日だけは止めにしようやといつて見て氣がらくになり、明日ならともかくあの女にあはぬ前にふんづかまつたら、元も何もなくなる、けふはよさうと思ひこむと、かれはくぐり戸を元のやうに這入つたが、もう玄關まで行く氣が失せてゐた、めんだうくさく怖かつたのだ、かれは建仁寺垣のきはに靴をきちんとならべて置いてから、そのあたまを輕くなでて元のくぐり戸の外に出た。
 列車はすぐ發つばかりになつてゐた。かれはボストン・バッグの口金をあけて中の例のびらの繪の、西洋の女優の顏を見入つて、うつくしいものはどんな中にあつても、そのままのうつくしさであることをへんに思つた。
 上野驛に着いてからかれは大膽に交番に行つて、けふ出所したばかりで今夜やすく泊る宿ををしへてくれといつた。警官は入谷の安宿を教へてから失敬だがねボストン・バッグの中を鳥渡見せてくれませんかと言つたから、かれは手拭と※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)パンと齒ブラシの中を見せてやつた。警官はびらの繪についてはなにもいはなかつた。
 越中屋といふ宿では、右手に一人、左手に一人寢てゐた。かれらはこんな遲い時間まで口あらそひをしてゐたらしく、一人の男は働くといふことは人間の一生にぶら下がつてゐることだから、ぎりぎりの時間までしやら臭くてはたらけるか、だからおれは早めに切り上げるのだといひ、も一人の男はおれははたらいてゐる間にあそぶ時間を見付けてゐるのだと、譯の分らぬことをしやべくつてゐたが、打木田は二人に一個づつの石鹸をちかづきのしるしだといつて頒けた。氣の利いたものをくれるぢやないかと一人の男はほくそ笑ひをし、一人の男は石鹸なんてくれる男ははじめてだといつて、いい匂ひだと、包紙をめくつて※(「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)いでゐた。
 かれはこの二人のまん中ですやすやと赤ん坊のやうにねむつた。二人の先客は少しづつふとんをずらせて、かれの寢床をのびのびと敷かせてくれたからである。
 翌朝二人の男はこれから職安に出掛けるのだから、仕事がないのなら蹤いて來いといひ、打木田は車坂の職業安定所の列に加はつたが、十一時近くなつてもあぶれた列の尾はまだ入口の方まで、まがりくねつてゐた。かれは二人の男にけふは時間を切つてあふ人があるからと耳打ちをして、列をはなれた。
 通りを廣小路の裏に出て、そこで肉饅頭を四個買ひ、新聞を買ひ、そして廣小路に出ると新宿行きの電車に乘つた。晴れた日のなかでかれはまたしても、發情を感じた。そして發作的にボストン・バッグの中の女の顏をちよつと見て、もとの口金をしめ、乘客の眼が自分にそそがれてゐるかどうかを、あらためて見直したが誰も注視してゐる者もゐなかつた。
 一たい、あなたは何をしごとしていらつしやるのと女が訊いたら、本職は飾屋だが今はそれをさがしてゐる筈だと答へるつもりだつた。そしてまた女はきつとこのボストン・バッグのことを聞くだらうし、何がこの中にはいつてゐるのだとたづねるにちがひない。そのたづね方には少女めいたあの女のばかみたいなところがあつて、打木田はそれが好きになれさうな氣がした。かれは女にかういふつもりだつた。このボストン・バッグには手拭と齒ブラシと鼻紙としかはいつてゐないのだ、ほかの物は入れたくも、持つてゐないのだといつたら、女はそれではこれがあなたの財産の全部なんですわね、道理であなたは何時でもこれを提げて歩いていらつしやるといひ、大概の人間なら着替への一枚も入れてゐるものだが、おれのボストン・バッグは全く何も入つてゐないと、かれはたとへ、古雜誌でもいいから、相當重みのあるものを入れて置きたかつた。おれはこれを提げてゐないと、手持無沙汰であるし、からだの恰好も氣持の構へも出來ないのだと、かれが本氣でそれをさういふつもりであつた。
 二年半前のかれも、しじゆうこのボストン・バッグを提げてゐたし、捕まる時もやはり署までこれを持つてゐた。それから檢事局送りの時も、裁判所の被告人詰所まで提げて行き、詰所であらためて被告人所持品としてボストン・バッグにわかれを告げたのだ、公判廷で廷丁が書記の卓の上まではこんでいつたのを最後に、それから二年半といふものはボストン・バッグを見ることがなかつた。裁判所の金網棚にしまひこまれた番號と名前をかかれた物は、そのまま出所するときに一等先きに、看守長の卓の上に見出だされた、そしてそのボストン・バッグを見ただけで、もう東京の町を何時でも歩けるやうな氣がし、しやばに出たと同じ輕快さであつた。
 終戰後、縁日で買つたものだが、古びてはゐても、まだ破損してゐるところがなかつた。これはおれの一生涯提げて歩くものかも知れないと、かれは空のボストン・バッグの布の上張りをなでさすつて見た。その左の手のさはりには女の腰が重りかかり、あの女はだんだんふつうの勤めをしてゐる女でないやうな氣がし出して來た。そしてそれがたづねて行つた先きで、何をどんなしごとをしてゐようが、打木田にはそんなことは問題ではなかつた。かれは逢へて肉まんじゆうを二人で食べることだけで、分に過ぎたけふの出來榮えだと思つた。
 あの女だつておれが出所者だと聞いたら、いくら何でも、あんなにされるままになるまいと、かれはどんなことがあつても出所者だといふ素性を見破られまいと、心で決めた。新宿で下りるとかれはボストン・バッグを打ちふり、陽氣な足どりでまだ高い日の中を悠然と歩いて行つた。女に逢へる、すべすべした生きた女が抱ける、かれはずつと向うからはやし立てて來たチンドン屋の群が、右と左の列から顏をつき出しては踊つて來るのを見ると、此方まで踊り出して見たかつた。踊りたいのはあいつらではなく、此方なのだ、かれは頼母しげな重い言葉つきで、停留場際の理髮店で新宿×丁目六十九番地は何處いらでせうと、愉しげに聞いた。六十九番地はすぐ理髮店のうら通りになつてゐた。





底本:「黒髮の書」新潮社
   1955(昭和30)年2月28日発売
初出:「新潮 第51巻第1号」新潮社
   1954(昭和29)年1月1日
※表題は底本では、「ボストン・バッグ」となっています。
※「晋平」と「普平」の混在は、底本通りです。
入力:磯貝まこと
校正:待田海
2023年7月10日作成
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