帆の世界

室生犀星




 私は女の裸體といふものをつねに怖れた。これは私のまはりに何時も不意に現はれては、わづかな時間のあひだに或ひは消え、そして見えなくなつた。その後で私はその怖れと驚きについて、詳しくどこがこのやうに私といふ人間を次第にこしらへ直すかをしらべた。その一個の裸體をどこかで見ると私はきつとまた別のはだかが見たい希みが起り、別のはだかを見るとその數を算へて見て私のまはりが大きく展がつてゐることを知つた。私は物識りになつたかはりに裸を見たといふことが人に話されないことであるから、頭の中にそれらが一杯にたまつてゐてどうにもならない状態になつてゐた。私はくはしく何處が一等美しいといふものを作り上げてゐるのか、その急所はどこにあるのかは考へても、もうろうとして能く判らない、臍や乳房といふ小さい場所ではなく、突きこんで言ふと體躯のきれめが空氣とのきれめになつてゐるところ、胸とか大腿部とかが形をなくして溶けたところに、美があるやうな氣がした。線とか線の續きのやうな粗末な現はれには、私の眼はとまらなかつた。そこから、すぐ、きれめの深さが空氣の透明なあひだにたつぷりと、もたれかかつてゐるところに、一さいの美があるやうな氣がした。重量の綾みたいなものだ、永遠にとどまることのない物の假睡のやうなものだ。
 私は次から起る變動のある物體が、しだいに選ばれてくる視覺のすすみ方をも知つたが、それよりもつと先きに見たものが早くも滅びるといふことを知つたのは意外であつた。決して先きの日に見たものが其儘にとどまつてゐることが、なかつた。あたらしく起つたものと入れ代はり、きのふの現像だけが、次へ起るもののために、その日まで存在するだけの呆氣あつけなさであつた。それは後に見た物がきつと前の物より美しい傾きがあるからである。
 私はきれめを見きはめる前に、厖大な、單なるかたまりといふものを記憶してゐて、それが内部に螢光燈を入れてあるやうに見えてくるのが、私の常識的な見方であつた。それは私の考への工合によつて、かたまりの中から次第に一個の人間がつくられてゆき、むね、腰、足といふものが組み立てられて行くことには殆ど時間といふほどの時間を必要としない速さで、形成されてゐた。私はそんな物を考へる時に頭がよくはたらき、こまかいところまで見るといふことで、私は莫迦になつてゐるとは思はなかつた。それらを作り上げるための頭の組織は他人のもたないものだと信じ、他人にないもので恥かしい思ひならそれは外部に洩らすまいと思つたからだ。正直な人間である私は女のはだかを見たといふことを、嘗て一遍も友達にも他の人にも話をしたことがなかつた。商賣のためにからだを見せてゐるといふことは、私の方に祕密の在りどころがなくて面白くも何ともないが、見てはならない人とか決して見ることが出來ないやうな人のそれを、ただの偶然に見たといふこととは驚きの差異と度合がちがつてゐた。見てはならない人のそれはたとへ身分が低くても、見た人間の驚きは大きい、身分の低い人ほどからだを他人に見せる機會をあたへない、舞踏會や夜會で貴婦人などに見られる肌とか胸とか肩とかいふものには、禮儀といふものがあつて觀照的ではない、何よりも相手の知らない間にそれを見るといふ、するどい速さで行はれる出來事は、相手の羞恥のふかさによつて私の感銘も疼くやうに生色をおびてくると言つて宜かつた。
 知らぬあひだに人間を育ててゆくものは何であるか。
 人間はお互の異性にあるものを自分で見て、それを判斷することで智識といふ變な奴を育ててゆくのではないか、書物とか學問とかいふものの外に、人間はふかく期するところがあつて單に異性のはだかを見てびつくりした時に、心に何がひろがり、何物が殖えたり加はつたり動いたりするのか。
 あれらのびつくりした瞬刻に、これは大變なものを見てしまつた。こんなに驚駭の世界がまるで眼の前にあつたこの氣附を始めて知つたといふ、眼のみはり方が感じられるのだ。
 人間はこの美意識の、うごいて歇まないものと連れ立つて生きてゆくことを知らねばならない、あんなに美事な言葉も絶えるものを我々の母や姉や妹や世界の女と名のつく人びとが、ひつそりとしかも傲らずに大切にもしないで持つてゐたのだ。何でもない普通のありふれた物體の粗雜さで所持してゐたのである。そこに纏はれた一枚の絹とか木綿とかで蔽はれた世界が、あんなにも簡單にしまはれてゐることに始めて氣づく、けれどもその一枚の絹や木綿の下に匿されてゐる物は、その人の意志がかがやいて來ないかぎり、またそれの許しがなかつたら決してこれを見るといふことが出來ないのだ、どのやうにそれがかがやいてゐてもわれわれはただ一人の人間にならないかぎり、その人の物を見るといふことが出來ない、一人に一人の世界にならなければ這入つてゆけない領域なのである。けれども瞬刻の祕境といふものは人間の油斷してゐる隙間にあり得るし、人間は二十四時間打通しにそれは守つてゐるけれど、時間といふものの破れたところ、入浴する前後のわづかな閃きに似たところで其かがやきが見られるとしたら、結局、何處まで祕境が打ち續けられるかに疑ひが生じる。またそれらの破れめがあることで生きを強めることも出來るといへるのだ。一人の婦人が果してどれだけの守護によつて見られることのなかつた裸體といふものが在りえたことだらう、誰も見ないし見たことのないといふ現實の確かさは決して證明することの出來ないものであつた。誰かが殆ど想像も出來ないやうな複雜な時間と場所と、ありえないやうな機會でつひにそのかがやきを見たところの、たつた一人の人間がゐるかも判らないといふところで、われわれはそれを信じてもいいのだ、誰も知らない處で豫め知ることさへ容易でない機會にその視界は彼女の、かたまりを完全にをさめることが出來てゐたのである。こんな事實は單なる痴情とか莫迦くさいありふれたことで濟ませば濟ますことが出來るが、眼といふものが生きてゐるかぎりそれを現はして物語を續けることになるだらう。それであつてこそ人間のあたひの程も判り、美しかつた物の滅びない、世にいふ藝術のあらはれが存在することになるのである。私は藝術家ではない、ただその心を持つただけで斯くもかがやいた物を、何時も引き出して人間が絶え間もなく、同じ人間の心の中に作られてゆくことを知ることが出來るのである。

    ……   ……   ……

 私の生れた更沙温泉でも、私の家は三層樓になり三階には二つしか部屋がない、物を運ぶのに女中達の足がくたびれるので、三階のてつぺんの部屋は平常はつかはないやうにしてゐた。
 私はその三階に登つて行つた。
 裏階段から登るのに女中達に見附からないやうに心得てゐたが、滿子だけは何處で見てゐるのか、尾けて來て急に掃除するため隣の間ではたきをつかふことがあるが、私はそれを始終追つ拂つた。併し三階に登るときには、ようじん深く滿子が外出してゐる時とか、洗濯をしてゐて相當時間のかかる仕事を見てから、登ることにしてゐた。
 滿子はまだ十七になつたばかりだが、氣性にも、温泉場の風俗がしみ、眼は客すぢの身分や情交のありなしを讀むことに馴れ、そのからだは毎日ふとつてゆくのではないかと、一日見ないでゐると妙な膨れが目立つた。顏色も冷たさうなふくら脛も、何處といふ目標のないところが毎日變り、毎日血色の動搖が顏の中に濃くも薄くも現はれ、私の眼をみはらかせた。
 滿子が私を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐるのは、自然に私の顏の見える處に好んで現はれるものらしく、それが何時の間にか隨所にさうなる時間に變つてゆくだけである。裏庭から山つづきに出てゆくと、もう裏門に立つて私を眺めてゐた。そして眼をあはすと心からしぼり出したやうに笑ひかける。笑ふことが言葉に代へられるのだが、私はまたかといふ氣で滿子から眼を放してしまひ、表に出るか山に登つてゆくかしてその眼を外すのだ。何の爲に私を尾けるかが判つてゐるから、猶更、私はいやなのである。殆ど物を言つたこともないが、滿子が尾け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しはじめたのは去年の春頃から急にさうなつたのである。何が原因であるかは客すぢの若い男女の泊りこみから、細かいことがらを眺めてゐて其處からさそひ出されて家でもつとも若い私を見つけたものに違ひない、私を見つけるといふことは男としての私を※(「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)ぎつけたことなのだ、それは私が三階に登つて行くのは何の爲であるかを知つてゐるのは滿子だけだからだ。滿子が急に眼だけで私にしだれかかつて來るやうになつたのは、三階で何時も下地窓から浴槽を見てゐる私を見つけた時からであつた。女の湯あみを見るやうな人であつたら、滿子の何かを見て貰へると思つて、急にずつと私に近づいた感じを持つやうになつたのであらう、あんな筒慳貪つつけんどんにあしらつてゐても、湯あみ女を見ることで隱れた場所をえらび、其處で永い間何かしてゐるあやふやな私に親しみ、また尾け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐても一向差し支へのあるものではないと思つてゐるのだ。直ぐに外してしまふ素氣なさの元をただせば極りが惡いからだらうと滿子は考へてゐた。そんなあやふやな男ならたとへ厭がられてゐても、しまひには言葉をかけ自分の近づいてゆくのを待つてゐる時もあると滿子は考へ、眼を放さずに部屋から出てさへくれば滿子は見られたいばかりに、私の眼の前にあらはれて來るのである。
 その三階の下地窓、つまり掃き出しの三尺の障子戸の隙間から、浴場の眞正面の位置になる湯あみするひと達を眺めることが出來、立體を頭の上から見下ろしてゐると映裸混浴の圖面はことごとく縮み上つて、何本かのろうそくのやうに見えることだ、歩いたり動いたりしないかぎり足なぞはよくは見えて來ない、もつとも坐つてゐると二枚の膝は見えてくるが、それは膝といふよりも立體のかたまりがこぼれて白漂のかたまりになつてゐるとしか思はれないものであつた。この三階までは三十米くらゐあつて湯氣はふはふはしてゐるので、卑俗にいへば水甕にひたしてあるとうふのやうな物であつて、人間の膝が揃へられて坐つてゐた場合、二つの肩がならんで顏の兩側にとりついてゐるのを見ると、それは四角とか三角形の物體になり三角四角といふものが、かなり美しい形態を持つてゐるかに始めて氣がつく程だ。私は永い間吸盤状であるはだかに見なれて飽きることはなかつたが、此處では立體の面白い動きで街にある彼女らが、何時も絹物の下にかういふ姿勢で歩いてゐる壯麗を思ひとどめた程であつた。映畫「夜と霧」の中で電氣釜でナチスのために人々は、裸になつてこの釜で焚かれるが、女の人もはだかで此の電氣釜に趁ひこまれる場面があつたが、その死の直前にまで自分のはだかの肢體を早く人びとの眼から奪ひ返したいために、大跨で見たところ濶達げに歩行してゐたが、私はそれには大戰の背景のある、いまはのきはの裸といふものの物凄い抗議に燃えた美しさには、全く呼吸もつまるやうなものに打たれた。むね、はら、長い足、嘗てそれらは絹でつつまれ保護されてゐたものだが、いまはドイツの兵隊の前、白い日の光にさらされ、しかも軍用の油脂製造のために蒸されるといふ人類最惡の企みで、殺されなければならない人びとであつた。白人種の白色はひらめいて機關車の火爐の中に趁ひこまれてゐたのだ。
 しかも廣場から電氣釜への途中、ドイツ映畫班は死への最後のはだかのすがたを映寫してゐたのである。死ななければならない人達と、生きてこれを映寫せずにゐられない面白い場面と取り組んでゐる人びとが存在してゐたのだ、私ははだかにされた彼女達に些かも淫らがましい氣がなく、凄絶を感じ、美しいものの昇りつめた頂きを眺めた。お腹の下の毛の生えたところにも、少しの實體感のわいせつを見ることがなかつた。寧ろ、逆毛立つた怒りと、この世界へのさよならと、あらゆる戀人達への終りの言葉とを併せて感じた。女性の壯麗をこの人達が生きてゐたら決して見せないでゐた筈の物が、この不倖な觀客の一人となつた私に充分にその由を告げた。恐らくこの映畫を見た一さいの人びとが尊敬と同感と、人間はその運命の數奇によつて肉體の美しさを増益されるものであることを痛感したことであらう。早く映畫撮影の機會を還取すべく、またナチスの兵隊共の眼から遁れて電氣熔爐の開いた扉の間にすべり込む彼女達は、世界戰爭の中でも最もかがやかしい最期をとげた人びとなのだ、女といふ自分をまもるために一刻も早い死を自ら取り込んだ人びとであつた。我が國でこの映畫は上映を禁止されたが、それは數十年後にもこれらの記録はのこり、人びとはいかにはだかになつた女といふものの威嚴、男にないものの凄氣をいつかは囘顧する時があるにちがひない。
 この下地窓の展望は先づ横臥しながら見てゐなければ、窓が小さくて見ることが出來なかつた。私は何時もここでは横になりながらゐた。さびしい湯げむりの中ではだかはわたのやうに湯げむりを含み、あちこちに、むしり散らしたやうな羽毛状態の亂立であつた。その中でもつとも傑れた美しさといふ比較はなかつたが、また、みにくいといふものも存在してゐない、凡てが平靜でねばりのある濡れたものの膨脹感の看視のもとに、或るものは殆ど消え入るやうな状態にあつた。私はここでは一さいの過去への追慕も哀傷も持つことがなく、手ぶらでゐられた。在るものしか見えなかつた。このつながりは私に何を與へてゐるのか、慾情とか淫心といふものはつねに最初のいざなひであつたが、ここでは、それらがどうして動くか、動くにつながる自分の心といふものは全く美感覺の動きだけに集中されてゐた、少しも情慾の渦中にあることを想定出來ない幸福感があつた。これはつねに思ひがけない私の頭にあるものの正しさが私にこの物をみるための充分な口實になつたのだ。私のやうにすでに何度もわいせつ罪で拘置され、垢だらけの刑事室の卓の向うに坐らされた人間にとつて、美しい物を美しいと見ることで、あらゆる場合の無理が通るといふことを意味しなければならない、これも一つの口實でもあつた。

    ……   ……   ……

 刑事はこの種の人の持つ日に燒けた褐色の皮膚に、傲慢な口ぶりで先づ私の年齡、職業、將來の事を質問したあとに突然に疊みかけて言つた。
「君は何故庭の中まで這入る必要があつたのだ、それから先きに聞かう、その目的が訊問の眼目になるのだが。」
「通りがかりでは、かなりな距離があつたのですが。」
「何が見えたのだ。」
「女の人が硝子戸に映つて見えたのです。」
「その女が、入浴後に髮の手入れをしてゐたのが見えたといふのだが、それを詳しく言ひたまへ、たとへば肢體の部分に亘る細密な申し立てが必要なのだ、硝子戸は、曇り硝子でない透明な硝子だな。全體が眼にはいつてゐたのか、或ひは上半身だか、それを話したまへ。」
「上半身の、恰度側面だけが見えたのですが、夫人は些つとも氣づかずに髮を拭き上げてゐました。恐らく洗髮した後だつたのでせうか。」
「でも腰部に何か捲いてゐなかつたかどうか、鹿島夫人ともいはれる人が全裸で鏡に對つてゐることなぞ、想像も出來ない大膽なことだが。」
「いいえ、人の奧さんになられた方は全裸で入浴後に化粧をなさる場合が、よくあります。鹿島夫人の髮はまだ相當に濡れてゐました。」
「君は時間から言つてどの位植込みの中に忍んでゐたのか。」
「着物を着るまででしたから、十分か十五分くらゐしかゐませんでした。」
「そのはだかの、どこをおもに見てゐたのか。」
「ただその全部のあひだを視線が走り※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐただけで、或る部分の感覺は次の部分の刺戟によつて次々に轉移されていつて、個としての印象は決してまとまつて見られませんでした。」
「見てはならないところは、やはり、見てゐたか。」
「見ました。」
「毛はどのいろだつたか。」
「赭いいろでした。」
「赭い毛といふものがあるもんかな、それ程、よく見分けられる光力があつたのか。」
「螢光燈だつたものですから。」
「夫人の頭髮は從つて赭いといふことになるな。」
「散歩の折に見かけたところでは、やや赭みをおびてゐる程度で全くの赭といふほどでもなかつたやうです。」
「肌の色はどうだつた。」
「練りミルクのやうで、一面に朝顏のやうな淡紅がぼかされてゐましたけれど、膝とか背中のへりではもう湯ざめがしてゐて、再び練りミルクのいろに變つたところがありました。」
「巧い形容をならべやがる。君は畫かきか、小説でも書くのか。」
「何にもしては居ません、ただ、音樂が好きでピアノを彈いてゐます。」
「家にあるのか。」
「ホテルなものですからお客用として客間にそなへてあります。」
「話はもとに戻るが、君が六米もある庭の中にはいるには、裏門を開けなければならないが、裏門の状態を話してくれ、閉つてゐたか、鍵がかかつてゐたかどうかといふことを詳しく、……」
「鍵はかかつてゐないで恰度私のからだを横にして這入れば、そのまま辷り込める程度に開いてゐました。私が硝子戸に映つたからだを見たのと、その裏門から這入つたのと、殆ど同時くらゐで、私はいつも町で見た人をこんな状態の中で見ることに反省も、極りの惡さも感じることがなかつたのです。こんな折でもなかつたらその人の祕色さへ見る機會がなかつたものですから、それを取り遁がすまいといふ懸命な氣持になつたのです。それはただそれだけの事實を容認するだけで私のその晩が決められてゐたやうに、内庭の中にはいつて行きました。」
「他家への侵入といふものに就いての、考慮はどうであつたか。」
「何も考へませんでした。細心な物音への注意集中だけが私の心にあつただけです。も一つ誰にも見つからずに私の何十分かが事なく終るやうに念つただけです。」
「はだかが見たいだけだつたか。」
「それだけに盡きてゐます。」
「それは痴漢としての君のやり口か、あるひは趣味ででもあるのか、それとも作曲の上にも影響するといふ先刻の言ひ分に、これらががい當するものであるのか。」
「その一さいを含めたものの現はれとしか、思へないのです。作曲云々のことで言ひ遁れはしたくないのですが、音樂といふものの内の方にはたくさんの女のうつくしさが平常はただの空音となつてゐて、それを動かす作曲者の手によるとそれらは美事な肉體となつて現はれてくることもあるのです。」
「君は練りミルクなどと巧い事をいつたが、夫人は全然氣づいてゐなかつたのか、君のゐる場所と夫人の位置では硝子戸を隔てて四米くらゐしかないといふ君の口述では、人間は神經的に氣づいて眼を或る不安の豫感のもとで、ちらと庭先に向けるといふこともありさうに思はれるが。」
「私が植込みの根元にあつた如露につまづいた時にも、これは音響としては人間の耳にとどく程の物ではなかつたのですが、それでも、夜の事でもあつたので私は驚いて夫人の方を注視した時、夫人はちらとも氣づいてゐないやうすでした。」
「この如露だな。」
「古いので音響的には、死物も同樣のブリキだから、音響を發するには鈍い物になつてゐる筈です。」
「あらためて聞くが君はわいせつといふ言葉の内容を知つてゐるかどうか、(本件はわいせつ罪に據るものであることは勿論だが。)」
「存じてゐます。私の行爲は法文によるそれらの罪科を構成してゐることに、少しも辯解する氣は持つてゐません。」
「それでいいのか。」
「それで澤山なのです。」
「君は大學を卒てゐるが、專門はしかも獨法で優學の士であるのに、少しも隱蔽口述もしてゐないのはどういふ訣であるか。」
「事實を歪げることが出來ないからです。在つたことをないとすることの不可能の爲なんです。」
「話はまた飛ぶやうだが、何故、就職することをしないか、有爲の才學をもつてぶらぶらしてゐることに就いて、これを更める氣にならないのか。」
「孰れはぶらぶらしてゐられなくなつたら、何處かに勤めるやうになりませうが、いまはそんなに焦つて就職する氣が向いてゐません、私は私のまなんだ學問より外にもつと私らしい學問がある氣になつてはゐますが、それが音樂だか文學だかも判らないのです。つまりどつちつかずの人間がわいせつ罪でも犯さなかつたら、行く處のなくなつた人間の一人かも知れません。」
「君は少々自暴やけになつてゐるのではないか。物の言ひ方は正確だがそこに投げやりなところがある。」
「若し私が自暴やけな方向にゐるとすれば、純然たる痴漢の墮落状態にまで陷ちこんでゆくことでせう、つまり暴力で婦女を犯すとか、少女を誘拐するとかいふことに全力をそそいで生き智識全般に亘つた周到な用意の下に常にさまざまな犯層を削り立ててゐるかも判りません。けれども私にはそんな氣はさらさらないのです。ただ、折々、私でない私といふ人間があたらしい顏をつき出して來て、その眼で見たいものを搜し出すために、ただの何分間かを恐ろしい大膽な勢ひを見せて現はれて來るのです。それは私に制御の出來ない危險な發作なんですが、それを制へてゐると却つて私は惡埓な人間になりさうですから、私は私の中にある猛獸にせん方なく毎日餌をあたへてゐるやうなものです。猛獸はその餌をたべてから後はしづかになるのが通例です。だから、それを懲らしめるとか抑制するとかいふことは却つて有害なのです。窃盜犯はどうしても盜まなければ食へないとすれば、何かの施設によつて金を與へるか仕事に就かせるかしなければ、それらを停止することが出來ないのです。」
「すると君は自分をやしなふためにも、見なければならない物を見るといふことになり、君の説によるとわいせつ其物も人間構成のうへに醫藥同樣なはたらきをすると云ふ事になる、社會の秩序のうへから見て甚だ勝手な言ひ分ではないか。」
「だからこそ呼び出しに應じ、あなたの質問にお答へしてゐるのだ、訊問應答の概念を正確に理解することで私なりの秩序はまもられてゐる筈です。私は一介の痴漢にちがひはないがそれを正統にうけとるために、私は敬語を使用しあなたは訊問的語を眞向から振り翳してゐられる。ここに正直な告白が更に一層明確に表現されたとしたら、私は恥づべき者でないことを證據立てられるのです。私はうそをいてゐない。」
「君はさういふ女のだな、女の、そのはだかを見て歩くといふことに恥かしいと思つたことがないか、こんな事をしてゐる間、決して人間はえらくなれないし、人に見られたら全く困るといふ念ひを持つたことがあるかないか。」
「それはある。そこまで自分といふ者が墮ちて行つた谷底のやうな處は、私は毎日眺めてゐる。だからこそ美しい物はいよいよ窃かにかがやき始めることになる。祕密がなかつたら凡そどんな戀愛も面白くなからうし、女體が包まれてゐなくて露出されてゐたら決して常に美しいものではない、そのやうに隱れて窃かにこれを見るといふことは人間の生きてゐるかぎりの、いなづまのやうに鋭い色氣の發作なのだ、あなただつて奧さんが油斷してゐながら何となくからだの一部分を見せられたときの、思ひがけない不意の驚きは、きつとどんなに大きいものであることに氣づいたことがおありでせう、その瞬刻にあるものは彼女自身にあることは實際であるが、あなたの飽きあきしてゐる或る日のその突然のうつくしさがあつてこそ、人間は生きられるのだとお思ひになりませんか、あの人にまだかういふ物があつたといふ發見は、女といふものの生涯を籠めて保たれてゐる美しさであると、寧ろ呆氣に奪られて見入る時がありませんか。」
「君は僕を説得するつもりか、飛んでもないことをいふ男だ、君は僕の問ひに答へて居ればいいのだ。併し君は他人の考へてゐない事を考へてゐるやうだが、それと君の住居侵入罪の件とは別問題であることを知るがよい。」
「つい冗らないことを申し上げました。」
「ここに問題が急轉するのだが、あの晩の午後九時十五分頃に、恰度、鹿島夫人の入浴中に夫人の化粧部屋にあつた指輪と時計とが盜まれた事件があつたが、君が内庭に入つた時と殆ど同時刻に起つたことなのだ。足取りは裏門からであるが目撃者はゐない、君が潛入中に庭の中に何人かを見なかつたかどうか。」
「誰も人かげらしい者は見ませんでした。私の細密な目配りが自分自身の恐怖から言つて、庭から裏門に拔ける奴を見遁がすわけがありません、恐らく入浴中の浴室の前を通り拔けるといふことは常習犯ならしない筈です。化粧部屋の位置が表門に近かつたら、其處から大手を振つて出て行つたかも知れません。」
「それも肯かれる、態々、化粧部屋から裏門に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る必要はないからね、距離はほぼ同じだが地の理は表門にあるわけだ。その晩にかぎつて表門のくぐりが開いてゐたのだ。」
「私への嫌疑はいまもお持ちですか。」
「全然持つてゐない、君にあるものは靴痕がおもだが、化粧部屋の賊は裏ゴムにぎざのあるゴム靴なんだ、君と話してゐると君の家業から言つても指輪や時計なぞに用のないことは判る。併し君のいやらしいのぞきの事件はそのままに打つちやつて置けない、或る意味で窃盜行爲は隱れた事態には違ひないが、のぞきといふほどの汚ならしさがない、窃盜犯のよごれには何處かに生活困難の一般的なよごれ方があるが、のぞきには個人のいやしい、當然これは抑制すべき行ひであるのに、君のやうな大學出身の有爲の人間がそれを平氣でやつてゐるのに較べると、本職はむしろ窃盜犯には盜むといふ詮方もない行き詰りを發見出來るのだ、君の場合には事件としての最初のいやらしい印象があるだけだ。性行爲に關する犯罪の細微の部分にふれる程不愉快なことはない、われわれ人間のもつとも愼みたい事がらは、性から發足するいやらしさを常にどのやうに處理すべきかといふ點にあつて、そこにこそわれわれの學問とか知識とかいふものの萠芽が、どれだけ役に立つてゐるか判らないくらゐだ。君といふ人物と、土工ともいはれる人達の間に、いまは何の區別もしがたい程に君は自分を格下げにしてゐるのだ、どの程度までの隱蔽行爲であるべきことさへ、君のこんどの事件の内容では爲し遂げてゐなかつた、つまり君のまなんだ學問といふものまでが、何等君を保護してくれなかつたわけなんだ。君はつひにぐれん隊の一人でもあつたやうにやくざ人間の仲間にしかなれなかつたことだ。君の説得は面白いがそれは藝術論の一種類であつて、われわれ白日の下に何の後ろめたい氣持もなく堂々と歩く人間の、口にするにはあまりに恥かしい事がらなんだ。僕もかういふ下調べに身をやつして刑事といふ名のもとに、すでに刑事づらにさへなつて了つたが、もとは私立だが大學出身なのだ、君を見ながら君の若さで自分を崩壞するやうな行爲が犯則に觸れるまで平氣でやつて退けてゐるのに、實は惘れ返つてゐるくらゐだ。」
「……」
「僕は冗らない駄辯を弄するやうであるが、君は結婚して見たらどうか、結婚といふものは譬へば君の中にあるものの、いやらしい物の整理するための必要からも重い役目を持つと思ふのだが、君はどういふ考へを持つか。」
「……」
「何故笑ふのだ。」
「笑ふより外にいまの私には、それに答へる言葉もない。」
「莫迦なお節介だと思ふか。」
「さうとしか考へられない一面も、あるんです。」
「全然結婚する氣はないかね。」
「さういふ内政の問題には、觸れないで頂きたい。」
「それならよさう、では今日はこれで調べは打ち切ることにする。僕はこんどはなるべく君をきずつけないやうにし書類送檢もしないつもりなんだ、檢事局の呼び出しは氣を腐らせるからね。」
「いろいろ有難う。」
「恐らく君は再度はかういふ事件は起さないと信じるが、その點、君は肯いてくれるかな。」
「若し殆ど避けられないやうな發作があつたとしても、あなたにお目にかかる事は先づあるまいと思ふ、私に智識といふものが充分に躍動してゐたら、人の目にふれるやうなことがないでせう。」
「先づそれを誓約してくれるんだな、人間の落度といふ如も、相當の深いところにある場合は一人ですくひ切れない場合だつてあるのだ。結婚がいやだつたら愛人でもつくるんだな。」
「ええ、まア、せいぜい作ることにしませう。」
「では始末書だけは提出してくれたまへ、あのお宅は庭がよく出來てゐるから庭を見にふらふらと這入つて行つたとか何とか、君は文章くらゐ出來さうだからね。」
「承知しました。」
「氣をつけたまへよ、同じ大學出身のよしみもつひに無駄でなかつたな。」
「では、どうも。」

    ……   ……   ……

 私が三階に登つて行つた時には、たしかに滿子は私のまはりを見てゐなかつたのに、下地窓の障子を開けた時に隣の間に疊ずれの音がしたが、氣のせゐだと思ひ、遙か三十米の下の浴槽を見下ろしてゐた。私はひどい近眼なので、入浴のすがたは蠶飼こがひの棚を見るやうに、つねに縮寫されたものであつた。眞晝の浴室には四人の女がゐて音響はなく動きも靜かで、かたまりは湯けむりの中で更に一層濃い湯けむりになり、凝つと動かなかつた。その一際濃いかたまりには乳白色の芯があつて、その芯は肉體のかたちであることを知つたが、折柄のしぐれ空の曇りが一さいをもうろうとぼかしてゐて、到底、裸の輪郭をくつきりと見ることは出來なかつたが、併し私の飢ゑは充分に滿たすことができた。人間の肉體でなければ決して描かれない四つのかたまりが、折々、そのかたまりを崩して個々に動いてゐたからである。絶え間なく引きずられる漂白色の上には、幾重ともない輪郭が累なり、その輪が一つづつ外れてはそこらに※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つては、また、元の輪郭にもどつてゆく鈍い時間的の美しさに私は見とれた。或る交響風な音譜がもどりかけてゆく、ああいふ秒間の靜まり方があつて思はずいいなあと思ふ單純なものが心を打つて來たのである。女體といふものはそれ自身も勿論大切な目標ではあるが、それを作り上げる周圍の事物の手傳ひが中心人物を念入りにかがやかせて來ることが重大であつた。
 私はふたたび疊ずれの音を耳に入れ、若しやといふ懸念からそつと下地窓の障子を閉め、單に私は晝寢をしてゐるふうをこの場合裝はねはならなかつたことを、いち早く實行したのである。
「誰かゐるの。」
 私は立つて襖を物靜かに開けた。
 其處に滿子が誰かに叱られてでもゐるやうに、正座してゐた。
 滿子はあわても驚きもしないで、私の視線をしつかり食ひとめるかくごのやうな容子をして、私に寧ろ咎める眼附をしてみせた。大抵、何時もの滿子ならばたばた逃げ出すのがせいぜいであるのに、今日の滿子は坐つたきりでからだ一杯に、私といふ男の重量と威壓とをくひ停めてゐた。
 女がかういふ状態にあるときは大體に於いて關係のある男に對ふ一種の沈着の表示であつたが、私はさういふ滿子を見出したのは意外であつた。君は此處で何をしてゐるのか、僕がゐることを知つて三階まで登つて來たのかと訊くと、ただ、はい、と答へた。
「僕とかういふ三階にゐることを女中達に見られると困るから、早く降りてくれないか。」
 私はこの言葉より外にいふことが、なかつた。
「あの、……」
 と、滿子はエプロンから一枚の葉書をつまみ出した。私はそれが檢事局の召喚状であることをその捺印の大きさと、印刷令状の類ひであることを早くも見取つた。
 私はあれ以來檢事局への出頭は、今度で二度目なのだ、書類送檢はしないといつた刑事は一旦調書を取つたからには、どんな事情があるにせよ、書類送檢の手續きをとらないことは不可能なのだ。私はそれは悉知してゐた。多分、私は檢事局であぶらを搾られ、私といふ人間にある筈の恥とやらいふ奴を、したたかに恥かしめられるだらうといふ豫測の下に出頭して、果してみつちりと恥といふものとの面罵の一時間を經驗したのである。そして今度がその再度目の此間と同じあぶらを搾られる筈の呼出しなのだ。
「これだけの簡單な用事なら何も此處まで、來なくともよかつたのぢやないか。」
 滿子ははつきりと意外なことを言つた。
「裁判所のお呼び出しだつたものでございますから、氣がかりになりまして?」
「君がですか。」
「外の人に見られないやうに、持つて來たのです。」
「何故そんなことを僕の場合に、しなければならなかつたのか。」
「怖かつたからでございます。」
「君からいへば他人の事ぢやないか、何も君と關係があつたわけではないし、君を怖がらせるわけがないんだ。」
「でも、怖いんです。」
「そんなに僕の事で頭をつかつては、僕の方で迷惑するんだ、それに平常から君は僕のあとばかり尾けてゐるね。」
 滿子は素直に、或る意味では尾けてゐることを私が知つてゐたのが、急速に彼女の顏を柔らげた。
「つい、惡いこととは氣がついてゐたんですけれど。」
「何の爲に尾け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐるの。」
「ただお出でになるところに、ぼんやり尾いて行つて了ふんです。自分ではいけないと思つてゐるんですけれど。」
 私は何の爲に三階に登つてゆくか、それを君は知つてゐるのかと訊き糺すと、ええ、と、答へた。滿子はその時、いひやうのない曖昧な之加しかもそれを言ひ現はすことの出來ない怨みぽい目附をし、私にはその目附が何を言つてゐるかが直ぐ判つた。滿子は私がああいふ浴室を見てゐることに就いて、嫉妬を感じてゐたのだ。その底には、滿子が三階まで尾けて來てゐるのは、私のそれの邪魔立てをし、私がそれらを展望することを廢めさせようとしてゐたのだ。
 私はこの滿子が私の祕密のはてを知り盡してゐることが、しぜんに判明して來た。或ひは檢事局の呼出状の内容まで知つてゐはすまいか、さうでなかつたら呼出しの葉書が誰の眼にもふれないやう、直接、私に手渡しするわけがなかつた。
 君は何故私が呼出しを受けてゐるか、その訣は知つてはすまいと訊くと、滿子はこの前の呼出しのあつた日、刑事さんが裏門から這入つて來て恰度洗濯物を干してゐる私に、口早にあの日、若旦那は午後の九時ころに、たしか九時十五分頃に家にゐられたかどうかといふことの、正確な返事をするやう迫られた。私は實際の不在であつたことしか申し上げられずにゐて、後日、呼出しの葉書を見て失敗つたと思ひましたが、もう、遲かつたのですと言ひ、私、くやしくて、と、滿子は眼をうるほした。
「でも、どんな事でお呼び出しがあつたかは、いまでも存じません、その折、刑事さんは他の事件ではないが、少々表向きには言へない訣があると言つて居られました。」
「鹿島さんのお宅の話は出なかつたんだね、ほら、鹿島さんてのは家にも客を送りこんでくる家なんだ。」
「美しい奧さんのゐらつしやる、辯護士の方の、……」
「あの鹿島なんだ。」
「いいえ、そのお名前は仰有いませんでした。」
「奧さんのことも。」
「ええ。あちらにあの晩にいらつしつたんですか。」
「いや、事件と言つても、通りがかりのいはば災難みたいなものだ。」
 滿子がうつ向いて了ひ、そのあと、何を言つても顏をげようとしない、むつつりした状態を續けた。私はそのまま滿子を置いて三階から降りて行つた。そのむつつりしたものに觸ると何か言はれさうで、それが氣重く寧ろ冷淡に私はその場を去つて行つたのだ。





底本:「はるあはれ」中央公論社
   1962(昭和37)年2月15日発行
初出:「小説新潮」新潮社
   1960(昭和35)年12月1日
※「智識」と「知識」、「湯げむり」と「湯けむり」の混在は、底本通りです。
入力:磯貝まこと
校正:岡村和彦
2020年12月27日作成
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