〈我が愛する詩人の伝記〉(補遺)

室生犀星




佐藤惣之助


 詩人佐藤惣之助は明治二十三年十二月三日、川崎市砂子の宿場脇本陣の旧家に生れ、私より一つ歳下であった。砂子の彼の家のうしろは早くから工業地帯に変っていたが、野趣ある草原には小さなはやや川えびをうかばせる小川があり、海は近く蘆荻の沼沢地方が続いて、佐藤はそこらで植物昆虫魚介にしたしみ、彼のいう泥のついた娘達とも遊んだ。四歳にして釣を嗜み、十二歳で発句を学んだという自伝も嘘ではなかろう。
 十三歳で東京に出て丁稚奉公をして働いたが、十七歳で兄の家業、荒物屋を手伝った。その間に仏蘭西語もちょっぴり噛じり、英語も噛じり、手当り次第に本を読み独学で詩人として一家を為すに至ったのである。だから彼は私を訪ねる時にも必ず懐中には何時も、一冊の書物をいれていた。川崎から東京に出る電車の中で読むためである。主著の二十三冊の詩集に八冊の随筆集、七冊の釣魚の書物、外に二冊の発句集をその生涯にのこした。旅を愛し日本内地は隅から隅を歩き、琉球諸島、南洋、支那大陸、オホーツク海を遍歴し、飛行機も誰よりも先に何度も乗り込み、満洲は哈爾賓ハルピンにまで二度も渡った。そしてどのような旅行先でも、先ずそこに住む女としたしむことで、彼の旅を愛する元が醗酵していた。異常な健康を誇る彼は先ず旅行からの帰途静岡あたりで下車して、萩原朔太郎の令妹周子さんをもらった当時は、彼女に電報を打って置いて旅館の一室で、旅の自慢話をし美しい妻を待ちきれずに肌をあたためる油断のならぬ男であった。無頼の放蕩児ともいわれる彼は先ず女に溺れるに早く、また女ゆえの苦衷は絶え間がなかった。泥足の小娘から家一軒買ってくれる芸者の愛人にいたるまで、一たい此の男は僅か五十一年の生涯にどれだけ多くの女を知ったことであろう。性は天真濶達、小肥りの脂肪質で女の前でよく足を捲って、太股の真白いかがやきを見せて笑った。百歳まで生きてもあれほど女に愛され、自らもすすんで突き抜いて人間行状の量をかせいだ男は稀であった。「四十にして家業を成さず、猫額の故里に呻吟すること二十年、零少なる詩銭を酒に代えて、後日釣戯に耽ける」というが、それより女光景にわが生涯をかけたという一行を加えた方がよい。昭和十七年(一九四二年)五月十五日脳溢血の発作後、僅か一時間の後に長逝した。彼はふだん良く戯談に「死なば五月」などと言ったが、それが旨く当ったのである。

田舎の女

(前略)
夕日が我々の頭に落ちてくる度に
彼の女達の肉体が一つづゝ
田舎から失くなつてしまつて
町の色香に呑まれてゆくのだ
貧しい娘はすぐさらはれて
この世から色を失つては
深夜の月のやうに燃え失せるのだ
(後略)

我身知らず

彼女は玉のやうに掴みどころがなかつた。
彼女はとめどもなく人を善人だと見た。
彼女はどんな人も赦し涜辱をも忍むだ。
彼女は自分を害するやうな人に近づいて、
その人が涙をこぼす瞬間へつけ入つて、
やさしくその涙を拭つてやつた。
彼女は殆ど抵抗をしなかつた。
彼女には三種の美しい表情があつた。
彼女は遂ぞぶりぶりした事がない、
彼女はどうしたことか小さい時分から恋愛を理解した。
そして永久かと思はれる程愛情が深い。
しかし今の夫が初めであり終りであつた。
嘗てそれを疑つた事と否定した事がない。
彼女の夫はよほどむづかしい難題をつきつけられてゐるのだ。
(抜き書)

 私は満洲に旅行した時、初めて洋服という物を作りそれを着用してはるばる哈爾賓まで出掛けた。黒の上下に半コートの外套、これが生涯の最初に着た最後の洋服というものであった。大正十二年に震災で帰郷して春の外套スプリングコオトというものを作り、これを着用して帰京したが、佐藤惣之助はこの春の外套をたいへんに褒めてくれ、私は戯談に、では君に売ろうじゃないかというと、是非売ってくれと言い気の早い惣之助は、拾円札を四枚紙入からつまみ出した。つまり八拾円が原価でありその半分で契約済になったのである。私は二十幾つかある釦を一々かけたり外したりする洋服というものに、既に懲りこりしていたのである。
 佐藤惣之助はそのスプリング・コオトを着て、或日一緒に飲みに出かけると新調の私の帽子をつくづく見て、いい帽子だなあ、軽くてトルコ型で、それで日本風で気に入ったなあ、幾らしたの、ふうむ、四十円したかあ、そうだろうなかわうその毛皮だからなあ、とひねくり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)し撫で※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)し冠ったり掴んだりして見ていた。けれども私は売るともやるとも言わなかった。日本橋の毛皮屋でトルコ帽の型ではあるが、いささか周囲をひろげて作り、年よりくさくないよう又トルコ帽でない作りを凝らした物で、まだ二カ月しか冠っていなかった。けれども、次ぎに会った時もまたつくづく私の頭の上を見上げて、いい帽子だなあ、おれも一つ張り込んで作るかなあ、併し四十円は少し高価だなあ、釣をしに行く時に風に飛ばされないから、調法だ、全くいい帽子だと彼は褒めちぎり、これはいよいよ佐藤に奪られることになりそうだと、私はつい酒機嫌の好さも手伝って、そんなに良ければ潔よく進呈する、どうも僕には似合わない気がするんだというと、佐藤惣之助はたちまち感動しやすい男だけに、底抜けに歓喜して手を拍いて言った。呉れるか、ほんとに呉れるか、ほんとに進呈するんだ、おれはやはり中折帽子ががらにあいそうだと私は言った。そうか呉れるか、ただで呉れるのか、それから決めなきゃ後で困ることになる、そうか、ただかあ、済まんなあ、釣をしに舟で帽子がよく吹っ飛ばされて困るが、このトルコ帽なら、潮風だってすぼっと冠っていりゃ大丈夫だ、とうとう、呉れたなあ、おれはずっと欲しかったが、そうそう呉れって言われないからなあ、いや今夜の勘定はみなおれが持とう、彼はそういうと次ぎの酒場に行くまでに、もう得々として毛皮の帽子を頭にのせていた。私は頭でっかちの佐藤の古中折を臨時に頭に乗っけて、ともすれば眉のあたりにずり落ちてくるのを手で抑え悲しげに佐藤に言った。君の頭は何てでっかい頭だあ、ナマズみたいな頭だなあ。
 佐藤は私の家に来ると先ず庭を一巡し、京都から持ってかえった子供の墓碑の五輪塔を見て、これはあわれに愛すべき五輪塔だなあ、おれは子供はないが子供を亡くしたむかしの人は、こんな供養塔をつくって永年眺めていたんだなあ、可愛想に赤ん坊の背丈くらいしか、せいも、ないじゃないかと、佐藤は一尺五寸くらいの五輪塔をつくづく、眺め入った。おれの庭には何も石の造形物は一つもないんだよ、がらがら庭に秋草が乱雑に咲いているだけだ、縁の下には古下駄がころがっているだけだ、何とか庭を作りたいんだが棄石一つないんだからねと、彼は可憐な五輪塔の頭をなでながら傍から離れなかった。私は庭の石類は他人に頒けたことはないが、佐藤の役者のようなのっぺりした顔立ちの、どうかすると鼻毛までつるっと剃らせるという、変につるんこの風貌がさびしくなり、私自身もこれは頒けたくないと思いながらもつい言って了った。これを持って帰る勇気があるんならあげるがね、そうだな三貫五百目から四貫目近くあるんじゃないかね、と、いうと、なあに四貫目くらいならわけがないよと、佐藤は五輪塔を軽々と抱き上げて見せた。大丈夫持てるさ、電車まで持って行くくらいなら訳のないこった、くれるのに決心ついたかあ、庭の物は君は大切にするからなあ、無理してあとで欲しがっても遅いよと彼はいい、私はほかにもあるから頒けようといった。これ一基あれば庭を作る目標が出来たようなものだ、そして私と二人で縄と藁で荷作りをし、佐藤は意気揚々とそんなに重くないよと何度もいい、表通りに少しひょろついて出て行った。
 佐藤はちょっとした事にも、いち早く感動してすぐそれを言葉に現わしていう男である。或る日本料理屋で飯を食っている最中に、彼は私の箸づかいを見て言った。
「君は加賀藩のサムライだなあ、サムライの子だなあ、箸を逆につかってお膳の外側に箸の先を出している。」
「お膳の中に箸を置けばお膳がよごれるからだ。」
「そこがサムライだというんだよ、おれも以後それにならおう。」
 川崎町の脇本陣の次男坊であり、あんちゃんであり惣さんであり、義太夫、浄瑠璃何でもござれのしゃれ者である彼は、なにかの弾みにサムライという言葉をよくつかった。祖先の敬まいが彼のふだんの言葉につい現われるという見方は無理であろうか。
 詩人仲間の宴会があると人の悪い連中は佐藤をおだて上げ、君、何か一つ演ってくれんかというと、いや、きょうはだめだよ、芸人扱いにしてくれるのは止してくれと手を振って断ったが、次第に席が乱れて来てお酌の女達がしつこくせがむと、突然、彼は自分の出場が避けられないことを覚ると、今までのあぐらを正座に直して、手を膝の上にきちんと置いて、でれん、でんでんと口拍子を取ると、「あなた様にはよう分りやさんすのに、わたしが分らん顔をしているのには、深いわけがあっての事……」と、私にわからぬ事に節をつけて、かたり出した。はじめは此方がひやひやするが、ふだん稽古を続けているので一座がしんとして来る程名調子を帯びて来るのである。「此の世ですらも添われぬのに、何であの世で添われましょう」という彼の即吟まで飛び出す程、つねに拍手の内に終るのである。一度たがをゆるめると、こんどは十代物語とか一口浄瑠璃とかを次々に演って、ぐいぐい照れかくしに酒をあおり、これでも年季を入れたのだと賞讃に対して自家宣伝も怠らなかった。
 彼は釣の名人であった。海釣りである。死亡された夫人花枝さんは家で三味線を教え、女弟子は朝からつめかけ、佐藤はその三味線の稽古撥の音色を小耳にはさんで、二階で金にならない原稿を書いていた。花枝夫人の収入が佐藤惣之助に飯をあたえていたのである。大正末期までそれが続き、花枝夫人は佐藤に収入がやっとはいって来た頃、縁があったらわかい嫁さんでもお貰いなさいと、やさしい性分の女らしく、そう遺言して亡くなられた。派手好みの彼が奥さんの弟子取りに小言をいわなかったのは、たくさんの川崎令嬢が集まり玄関の土間は、何時も眼もくらむ女の履物が勢揃いをして、朝日に燦然とかがやいていたからである。一代の遊蕩児であり詩人であり小説家になれなかった彼は、その燦然たる履物の上をつたって、釣装束のゴム靴をはいて奥さんには黙って海べに出かけて行った。彼の孤独もそこにあるし釣魚天国もそこにあった。萩原の妹周子さんと結婚した後の日の彼は、周子夫人をつれて釣に出かけた。さぞ年来の念願がかなうて愉しかったであろうと思った。

棒きれ

わたしは棒きれといふより他に名のないものだ
なんの飾りも悪意もなく
ただ自然から力をもらつて
野山からやつて来た生木の棒きれだ
(後略)

四月

李は青と白との瞬間の花である
(後略)

鋳掛師

街道の伊達な居住者
日本の多くの鋳掛屋の群れは
都会から田舎を旅する野外の機械師である

四季の町から村々へ
日の帽子と古風な絆纒をつけ
道具箱と鍵の束を鳴らしながらさまよひ
どこの欅の木の下でも
又寂しい寺の門前でも
路上は即時に彼等の野外工場になつてしまふ
(後略)

 佐藤の才華は行くところ絢爛とめどもなかった。日本のいままでの詩人であれほど豊富な形容をたくわえ、つねに鮮度を失わず、惜気もなくうたいまくった詩人は、先ず佐藤の外にはない。たとえばその二十二冊の表題は悉く新鮮であり今から見ても、よくつけた表題だと肯ずかれる。「狂へる歌」「満月の川」「深紅の人」「荒野の娘」「季節の馬車」「華やかな散歩」とかは、その時代かぎりで古びる詩集の名前ではない、「颶風の眼」「情艶詩集」「トランシット」「西蔵美人」その他、一篇の小詩にいたるまで題意からすでに、ことばを選ぶことに才華の余裕を示していた。
 佐藤は小説というものが、何とかして書きたかったのだ。これは佐藤の終生のねがいであった。この事を念うたびに私はこの友への暗然たる思いがあった。あれほど沢山の経験を持ち言葉を持ち、異常な感覚の醇度を持った彼は、小説というものを綺麗に一篇ものこさずに死んだのは、よくよくの運がなかったように思われる。若し彼がうまく小説という風のごとき奴に跨って、書き捲っていたら必ず私の二倍くらいの仕事をして、私の二倍くらいの書物を積み上げていたことであろう。私は彼と会っていながら君が小説を書いたらコワイ、小説を書いたらどうだというと、小説は十篇くらいもう書いて佐藤春夫の所にやってあるといった。君は春夫に小説を見せて僕に見せんのかというと、君とは親しすぎて批評も聞きにくいし君もいいとか悪いとかも瞭乎はっきりと言えないだろうと思ったから、春夫の所にやって置いたと言った。そんなのならもう読まないよと私は仏頂面であった。或る日春夫の所に行き、惣之助の小説は読んだかどうかと聞くと、春夫という男は事文学に関するときゅうに大学教授の、しかづめらしい名調子で言った。惣之助の小説は叙景叙事は巧みであるが、人間を書くには多くの手落があるんだ、二三の雑誌の人にも見てもらったが悉くその点で批評は一致していると言った。
 春夫の机の脇の棚の上に、大判の原稿の綴りが十篇つまれていて、それが惣之助の小説であるらしかった。私はそれを見ないで戻ったが、何ヶ月後かに惣之助は小説二篇を携えて来て、何処かに出してくれる雑誌があったら出してくれといい、私は仏頂面をゆるめてその一篇を「電気と文芸」という当時の文芸欄のある雑誌にのせて貰い、べつの一篇を「中学世界」の文芸欄にのせて貰った。惣之助はそれらの纒まった原稿料というものを受け取るとたいへん喜んでくれた。だから私はつい春夫に頼んで見たってだめだよ、あの男は子供の時分から大家仕立で育っているから、それが邪魔になって君の原稿をかついで※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ることが出来ないんだといった。そういう文学渡世の話になると、つるつるした佐藤惣之助の顔からきゅうに、さびしい風が吹いてくるように思われた。間もなく佐藤の幾つかの短篇を見せてもらったが、形容沢山でかんじんの人間というものが坐ったきりで、動かない描写が続いていて、私はしっかり人間を剥き出すように書く事を注意していった。しかし彼の叙景叙事の文脈は素晴らしく濶達なものだった。後年、川端康成が佐藤の散文について敬服したむねを、何かの雑誌に書いていたが、そういう見抜き居合の巧みな川端康成が、佐藤の才華を見逃がさなかったことでも、見抜きの名人である川端の本性を私はいまも故友の知己だと感じている。
 だが、その小説はその二篇を発表しただけで、あとの仕事は佐藤も何も言わないし、私も聞かないで何年かが過ぎ去り、佐藤の小説は風のごとく消え失せたのである。彼に根気がなかったことも原因だが、ねばり強さもなく自ら信じることも怠ったからである。それ以後小説のことは一さい口にしなかった。私も無理に彼の才華をおだてるのが控えられた。彼は間もなく「赤城の子守唄」とか、「何々の何」とかいう艶歌情志を図に乗ってうたいまくった。才華のくずれが美事にここでは当って彼は西條八十と対照される艶歌師佐藤惣之助に早変りの姿を現わしたのである。レコード会社は彼の家に詰めかけ、彼は二階の梯子段から片足踏み下げて呶鳴った。
「三十分待ってくれたまえ、三十分あれば書ける。」
 彼は三聯十八行くらいの艶歌を書いて、二階からほら行くぞと原稿紙のままで投げ出した。これが逆に小説で流行児になっていたら、片っ端から一週間位で書きあげていたことであろうと思った。
 彼の艶歌は流行り収入は殖え、羽振りは良く小説の事はもうけろりとわすれて、才華のあるだけを短い時間のあいだにひねり出し、それの潰れるのを彼は悔いなかった。バーで一緒に飲んでいると彼の艶歌のレコードがかけられ、彼はキナグサイ顔をして本人の前でああうたわれると、厚顔いささか恥じるねとはいうものの、才華先生は内々それほど恥じてはいなかった。却々うまいじゃないかと私は艶歌師佐藤を悲しげに眺め、内々、こうなっては、もはや、すくえない、佐藤の才華も滅びるの時至ったかと、私は暗然としていた。萩原朔太郎に私は佐藤もいい気になっているが、あれでいいのかいと言うと、妹婿である佐藤に収入が殖えたという点で、萩原は暢気に金が取れればいいじゃないか、佐藤のよい仕事は一段落しているんだから、こんどは金になる原稿を書くだろうと、少しも気にしていないふうであった。萩原や佐藤も原稿と金という問題では、何時もそれらに縁がなかったから、佐藤の艶歌については些かも萩原は忠告がましいことは言わなかった。却って佐藤が金をとることを奨励しているふうがあった位だ。
 戦争がはじまり昨日の艶歌師は、たちまち今日の軍歌詩人に早変りをし、あいかわらず二階から二枚相当の原稿紙に軍歌を作成、レコード会社に手交していた。このにがにがしい早変りの役者は、懐中があたたまると酒に勢いを馳って、生涯にない派手な暮しをしていたのである。一種のやけくそのような暴れ方と、金に眼を奪われた軍歌や艶歌の作成は、ようやく才華燦然たる佐藤惣之助を少しずつ忘れさせて行ったのである。


売文幾年
詩人四十なり いかにあるべき
世を蹶つて起ち 闘ひつ
四十にして初めて何ものかを感ず
老怪なる電力の如きものを感ず
この木枯しの月明に
所詮老いたる妻と添寝して朽つべきか
今宵ペンは氷り 紙は雪を展ぐ
文字は雑草の如く生ひ茂り
遂に行き行きてあやめもわかず。
(後略)

 終戦後、私はたのまれて山村暮鳥や萩原朔太郎の詩の選詩集出版について、多くの出版書店から相談をうけたが、佐藤惣之助の詩の選集に就ては一冊もたのまれなかったし、それを出版する本屋は一軒もなかった。私は不思議そうに出版書店の数々の書物の間に、この才華けんらんの友の名のないのを見て、ついに彼の艶歌と軍歌の反古にひとしい仕事が、彼の死後の著作出版に障碍を来していること、その名をかろんじていることを残念ながら頭に置いて、せんなきことに算えた。

私の母は目高を食べて大きくなつた

 この一行の詩もいまは誰も書ける人はいない程、田舎の風景が乳のようにながれ、彼を思うとこの詩が向うからやって来るのである。


 昭和十七年五月十二日[#「十二日」はママ]、萩原朔太郎が死んでから四日目の、五月十五日に佐藤は或る外出先の女友達の家で、脳溢血の発作の後に亡くなった。
 十三日の午後に佐藤は私の家に現われ、萩原の死をつたえてくれた。私は萩原家に夕刻に行ったが、佐藤は多くの女の弔問者の間をかけ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、落着かない昂奮状態のまま酒ばかりあおっていた。生きのこりの濶達さと、大勢が集まっている中でも自分が死友ともっとも親しかった栄誉とから、彼のからりとした性分が手伝って面白そうな笑いのタネを彼方此方に撒いて歩いて、みんなが笑うと一層面白くなってからさわぎする。佐藤特有のここでも才華をふるまう役者であった。彼は酔ってしどろになって言った、おれが死んだら彼処にいるあの人、つまり室生犀星に一さい委してあるんだ、原稿の事、全集出版の事、家の事、何でも彼でも犀星がやってくれる事になっている、だからおれはころりと参ってもさばさばして死ねるというもんだ、彼は四五人先の座から、私のそばに来て坐り込んで更めてまた言った。全集がだめなら選集でも出してくれ、みんな君に委せる、表紙も君の字で書いて装幀も君の好きなようにやってくれといい、君はすでに酒は止めているが、酒友再びかえらずという奴だとか言い、多くの客の前で私は極り悪げに畏こまっていたが、全集なんてお互に出してくれる本屋があるかないかも、甚だ危ないね、その点あまり信拠しないでくれと、私は私自身の書物さえあまり売れていないのに、佐藤の全集なぞ誰が出版してくれるだろうと、変な事を言い出してくれては困ると、低い声で叱っていうと、わかっているよ、これは親類中にちょっと触れて置くにすぎないんだ、だが、一冊くらいは出るだろうから出してくれといい、一冊くらいなら出して貰うよ、東京中を駈けずり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っても出して貰うよ、と、私はこの酔っぱらいを安心させて体裁をつくろうて言った。
 そして朔太郎死歿四日目にかれは、突然予言したように死んだのである。四日間にあおり続けた酒と、あたり構わずに馳けずり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)った重畳した疲労の怒濤が、たった五十一歳の彼をねじ伏せてしまった。あとには怒濤が白煙を上げて立ち、私は二人の親友を同時に喪って気のついたことは先ず酒を止めていて良かった事、何でも彼でも生きのびる事、二人の親友の死のもろさを有難く貰って、みずからの節度とすることをまなんだ。そして少しの悲しみもなく寧ろ冷かに私の為すべき事を思い描いた。戯談が本物になった全集のことが私に憑かれた義務を強い、友情というものがすがたを変えて現われる時を自ら、選ばなければならなかったのだ。私自身すら一篇の小説を書いてそれを売り、これで人生がけりになったって構うものかという、何時ものふてぶてしい書きなぐりの暮しをしているので、私や佐藤のために全集出版なぞという望みは、それを抱く方が時世を知らない人間と言って良かった位だ、自分自身が小説家としてあと何十年かをやって行ける自信なぞ、まるでなかった。一篇書いてこれでお終い、また一篇のたくってこんどこそどうやらお終い、お終い続けで来ていて、最後のお終いがどうやらこのごろらしいと私はむねを叩いて悲観していた。そんな時に佐藤の全集のことを考えると面目丸潰れの自分を見るような気がして、多くの日はあんたんたるものだった。
 当時、小石川に櫻井書店という文学書の出版書店があって、私の随筆集を出してくれていた。店主櫻井均に佐藤惣之助の選集出版の懇請の手紙を書き、私はその返事に意外に快よく承知したという好意をうけとり、嬉しかった。早速、周子夫人と櫻井均と三人で相談をして、三巻続刊することになり、故友の信頼をやっと果すことが出来たのである。昭和十八年(佐藤死去の翌年)の三月に詩集上、下二巻を発行し、随筆集一巻を加え、私は装幀を自分で作り私の拙い字を書いて、世に公けにすることが出来たが、櫻井書店が快諾してくれなかったら、恐らく佐藤惣之助全集(選集)三巻はついに今日に至っても、出版されていなかったかも知れぬ。酔って君に委せると当にもならぬ私を心の当にしていた佐藤の放言が、死というちからを私に加えて迫っていたのかも知れぬ。大抵の場合役に立たない私は、惣之助の場合だけは当になった訳だった。佐藤は墓下にからからと笑って曰く、いや持つべきものは友達だよ、と言い、何処まで好人物だか判らぬ男である。

必死の男

わづか三尺の窓内にありて
このあめつちをつかまんと
必死の男あるなり

外にはよその子等あそび
をみなは夕餉にいそがしく
世のさまのふしぎもなし

されど何故に肉を穿ち
骨を削りつくして
紙にインキをちりばめんとするや

をみなは貯金をすすめ
彼は又その魂を千切りつつ
文字を裂きて売らんとすなり
(中略)

ああ あめつち遂に何者ぞ
今の世に千年の詩文あるべしや
秋はまさに寒からんとす

 佐藤はこどもがほしかったらしい、前の夫人花枝さん(死別)にもこどもがなかった。あとの夫人周子さんにもこどもが出来なかった。佐藤は何度も医院に通い、どうして子供が出来ないかを診て貰ったが、肉体的には異常はない、そのため試験管だか他の方法であったか忘れたが、佐藤は自分の精虫だか精液だかわすれたが、そういうものまで病院で試験してもらったが異常がなかったと、或日彼は私にそれを真面目くさった顔付で話した。周子夫人もついにこどもさんがないまま、佐藤と死別された。私はその折、ふしぎな家庭事情を発見した。
 佐藤に妹さんがあり他家に縁づいていたが、そのこどもさんが佐藤の遺言によって惣之助家を相続することになっていて、周子夫人へは雪ヶ谷の自宅を譲渡する以外に、何も与えないことになっていた。櫻井書店からの全集の印税も、法律上では周子夫人には支払われないことになり、他の著作物の印税の悉くは入籍してあったこどもさんが受取る名儀になっていた。私はあれほど愛していたわかい周子さんに、殆ど遺産の半分も渡らぬ手筈の遺言を佐藤がしていたのかと、人間の愛情というもののあさはかさを感じた。舐めるように愛されていてふたを開ければ、世のつね人の商家のおやじの遺言の如きものを作成してあったということは、佐藤らしからぬ印象であり払拭出来ない不愉快なものであった。私はそのため櫻井書店に印税の半額は周子夫人にあげてくれるよう依頼して置いたが、それはどうなったか、私に判りようもないし、聞くのも憂鬱だったのでそのままになっていた。わが愛する詩人佐藤惣之助は寝るときだけ、べちゃくちゃと夫人を愛していて、いざ遺言作成ということを何時の間にかしていて、しかも、それには近頃入嫁したかどで新夫人には何にも貰えぬことにしてあったのかと、故友の心のあさはかさが、再び私の友情にびりびりひびいた。おっちょこちょいめ、そういうところにおっちょこちょいを良く拭きとっていたのかと、私はくやしく悲しい眼でその後始末を小耳にはさんでいた。私なら遺言なんてくだらない物は書かずに、ムスコとムスメが、お互に掻っさらうために詰めよるのを、いまから愉しげに見て置きたかった。一晩でも奥さんという名で抱いたひとを、遺言で区別することは文学者のすることではない、しかも周子夫人は五年ももっと永く一緒にいられたのだ。私が萩原朔太郎の稿で書いた例のハンド・バッグでも買おうかといって、萩原から叱られたほどの人が萩原が死んだあとでは、こういう目にあわなければならなかったのだ、そして最後に生きのこった私がぶつぶつ小言をこの原稿の中に書きのこし、皆さんにこれはどういう訳のものでしょうか、人間はこうあっていいものでしょうかと愬えたいのだが、男は寝るときだけ女を愛しているのでしょうか、この恐ろしいしかも嘘でない真実であるにしても、この一つのことがらを叩きのめしてかからなければ、世界のごたごたを修繕することが出来ないのだ、寝たあとの後始末をしろ、ゆめとか、けむりに似たものであるための、それであるための後始末をしろと私は私自身にも、みんなの人に言いたかったのだ。
 若い周子夫人は佐藤家を去り、いまは萩原朔太郎の令妹のもとで暮していられる、詩人惣之助夫人であったということすら、ゆめのようなはなしでありその著作の印税は勿論はいる訳のものではない、私は本伝記を書きながらついに彼女と惣之助との睦まじい雪ヶ谷の家の生活を思い、それぞれの不幸を思う者である。死んだ人間は何も彼もかたがついているが、かたのつかないのは、生きている間に思われていたのが真実であるにはあったものの、その本性がつかめない口惜しさにあることであった。だが、熱情と純度の濃やかな佐藤があれほどの俗物風な事務を平然と行うていたかに、いまだに疑いを私は持っている。だが、しんの確かりしていた彼は後事を托するに足りないわかい夫人を見さだめていたのであろうか、人の心は測り難く、また人間の情事のふかさをさぐる事は出来ない、私の拙文が親愛の度が極まって故友を傷つけたことになるなら、三拝して彼の墓下に礼を行いたいのである。





底本:「室生犀星全集 別卷二」新潮社
   1968(昭和43)年1月30日発行
底本の親本:「婦人公論 第四十三巻第五号」
   1958(昭和33)年5月号
初出:「婦人公論 第四十三巻第五号」
   1958(昭和33)年5月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、引用詩については、引用詩の特徴を残すため、底本の旧字は新字にあらため、旧仮名は底本通りとしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「わが愛する詩人の伝記」です。
※表題は底本の目次では、「我が愛する詩人の伝記(佐藤惣之助)」となっています。
入力:きりんの手紙
校正:hitsuji
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード