わが愛する詩人の伝記(三)

――萩原朔太郎――

室生犀星




 萩原朔太郎の長女の葉子さんが、この頃或る同人雑誌に父朔太郎の思い出という一文を掲載、私はそれを読んで文章の巧みさがよく父朔太郎の手をにぎり締めていること、そして娘というものがいかに父親を油断なく、見守り続けているかに感心した。
 葉子さんは三十過ぎだがボンヤリと鳥渡ちょっと見たところでは、気の善すぎる、だまされやすく騙してみたいような美しさを持っている人だが、この父朔太郎の思い出をくぐり抜けている葉子さんは、なかなかのしっかりした人でだまそうとしても引き返さなければならない程の、愉快な手応えを見せていた。
 萩原は他人と話をするときには、対手あいての眼にぴたっと見入らずに、伏眼がちにチラチラと横眼をしている間に、対手の眼を見返す妙な癖があった。私は彼の印象を書く折にそれをどう現すべきかに、適当な言葉に気付かずにいたが、葉子さんはそれを「父はおびえたような眼付をし、まともにわたくしを見なかった。」と見抜いていて、私は葉子さんはよくお父さんを見ていたと思った。幸田文さんの『父の思ひ出』森茉莉さんの『父の帽子』も、彼女らの出世作になり遂に名才媛になられたが、わが葉子さんのその一文にも心理のあつかい等も文章の内容にあって、詩人の娘であり骨肉は文学の間に通じていることを知ったのである。北原白秋が或る時私に可笑しそうに言った。「萩原って妙な男だよ、自分の娘の事を話しする時にもきまり悪るげに羞かしそうにするんだよ、自分の娘なんだよ、それが君。」と、萩原朔太郎の心に何時までもあるいじらしさを指摘して言った。だが、この問題は私自身にしても、自分の娘の話をするときには鼻白むを感じるし、少々困るふうもする。だいたい父親という奴はムスメの事になると急にしなくともよい、てれ隠しの低い喉の息払いの一つもして、今まで冗談を言っていたのに、急にマジメくさった顔付になるものである。ムスメというしろものは父親にとって実に厄介千万な物であって、同時にいささか沽券をつけたいしろものでもあるのだ。萩原ははずかしそうに娘のことを話したのは、白秋のとり方は大げさであったろうが、萩原が知らない間にこんな表情をしたことは、やはり萩原という人がどんなに匿していても、かくしきれないいじらしさを持っていたことが判るのである。
 萩原は結婚十年くらいで、第一夫人稲子さんと話しずくで別れていた。葉子さんも結婚して四五年で別れていた。葉子さんは萩原の死後その母親の稲子さんが北海道にいられることを知ると、朔太郎全集の印税が沢山はいっていたので、どうにもお母さんに逢いたくなり耐えきれずに、飛行機で北海道に飛んで行き、お母さんを東京につれて来たそうである。書物のお金が沢山はいった嬉しさがそうさせたせいもあるが、母というものが十年も十五年も別れ住んでいても、一旦逢いたくなって綻びがとけかけると、どうにもならなく逢いたいものらしい、葉子さんは自分の倖せをせめて半分でも分けたい気で、お母さんを東京に呼んだのである。葉子さん自身も夫にわかれた直後であったので、母と娘とがどういうふうに物語りをすすめていたことか、ただ、私はありがたい事というものは、こういう事をいうのだろうと思った。
 萩原朔太郎はくすんだ情熱は持っていたが、気は弱く控え目でそんな飛行機に乗って北海道まで出掛ける人ではない、どんな場合でも思い切った事は出来ない人である。併しこんな伏眼がちで怯えたように人の顔も、まともに見すえるということをしない彼が、生涯五十七年の間に、先妻に別れ、また後の妻にも別れていた。どんなに威張り返っていてその妻と毎日ケンカ口論をしていても、一旦奥さんというものと相伴ったら、なかなか別れるなどとは思いもかけないことである。威張れば威張る程別れられないし、ワカレルワカレルといっても、胴締めはワカレルという言葉のたびに、勁く締めつけられるのである。或る金持ちの男は妻の一生食えるだけの有金を渡して、やっとこさ別れた。そして彼は一文無しの乞食のようになって気がつくと、明日から何をして食って行ったらいいかさえ判らない、けれども彼の本心はただ別れたい一心があったのだ、だがわが萩原朔太郎はなんの苦もなく、先きの妻に金をあたえ、あとの妻は妻の方から出て行った。そのあとの妻の君は私に後に萩原ほどいい人はいないと、別れたあとでもよく入らっしゃるし、わたくしもお机を出してお仕事をすると仰有れば、夜はおそくまで好きなようにおさせしていましたと言った。では何故お別れになったのだと聞くと、なにぶんにも人物がぐにゃぐにゃなところがあって、可愛がってくださるのやら、そうでないのやら、一向たよりになろうとしても、たよれなかったと彼女はぐにゃぐにゃが主な原因だといっていた。もっともわたくし自身あまりにも若かったからと言い添え、いまなら別れはしなかったでしょうと萩原死後十年目に、彼女は二十三歳の若さで四十何歳かの萩原と結婚したが、当時はまだコドモで何にも知らなかったからと、その別れを彼女は私を訪ねて来てくやしがっていた。彼女は東北の大きな酒造家の令嬢で、萩原は見合いに行って肝じんの見合の人よりも、お茶を持って出た彼女の方が美しかったので、あべこべに求婚したのである。
 大概の気強い威丈夫な男連が、一生粉身砕骨しても別れられない夫婦関係を、萩原は美事に二度までやって退けたのは、よくよくの事情があるにしても彼自身のぐにゃぐにゃが、いかに硬骨のお偉ら方にくらべて大したぐにゃぐにゃであったかが判るのだ。つまり萩原という人は一度も子供に怒ったことがないし、母とか父の命にそむいた事もなかった。自分の妻を叱ることもなかった。何でも、あ、よしよしといい、そうか、そうしたまえそれがいいと言うように強い意志を示すものは、原稿になにか書く時の外は滅多に現わさなかった。原稿の上ではきゅうに人が変り顔が変り彼の生活が変り、ぐにゃぐにゃさんがカンカン男になり、カンカン男が哲学者の鉄兜をかぶり時折ニイチエの義眼いれめをはめこんでいた。泥酔すれば道路の上でも、停車場のベンチに横になることは勿論、電柱にすがり付いたまま動けずに眼をとじ、警官が来ればいま何時ですかと敢て質問する夜半の紳士である。毎晩彼は町に飲みに行くときはあらかじめ拾円(昔の)くらいきちんと持って出ていたから、金は落しても財布には幾円ものこっていないのだ。これは偶然ではなく泥酔すればめちゃくちゃになるので、金は拾円しか最初から持って出ないのであった。マントの前釦は一つしかかけていないし、ふだん着のまま古下駄をはいていたが、ときには近くへは素足のままであった。家に戻れば梯子段をとぼとぼと千里の峠を踰えるように登り、すぐ床にもぐり込むのだが、声量あざやかな前夫人は、(つまり葉子さんが呼んでつれて来たところの)眼の美しい彼女はいまごろ何処まで行って飲んでいたのよ、服も帽子も泥ンこじゃないの、毎晩毎晩なにが面白くてほっつき歩いているのよと叱っても、わが萩原朔太郎はふ、ふ、と笑ってまあそこに坐れよと言うのである。そして目をとじるとどんなに起してももう眼はさまさなかった。何たるぐにゃぐにゃさんだったことか、女給サンなんぞさんざ美しいのを見て来てさ、坐れもないもんだとまだ彼女は洋服をたたみながら言っても、とうにわが愛する友は寝込んで了って、なにも耳の中には妻の言葉ははいらなかったのだ。

   家庭

古き家の中に坐りて
互に黙しつつ語り合へり。
仇敵に非ず
債鬼に非ず
「見よ われは汝の妻
死ぬるとも尚離れざるべし」
眼は意地悪く 復讐に燃え
憎々しげに刺し貫ぬく。
古き家の中に坐りて
のがるべき街もあらじかし。

   我れの持たざるものは一切なり

我れの持たざるものは一切なり
いかんぞ窮乏を忍ばざらんや。
独り橋を渡るも
灼きつくごとく迫り
心みな非力の怒に狂はんとす。
ああ我れの持たざるものは一切なり
いかんぞ乞食の如く羞爾しうじとして
道路に落ちたるを乞ふべけんや。(後略)

 前橋市にはじめて萩原朔太郎を訪ねたのは、私の二十五歳くらいの時であり今から四十何年か前の、早春の日であった。前橋の停車場に迎えに出た萩原はトルコ帽をかむり、半コートを着用に及び愛煙のタバコを口に咥えていた。第一印象は何て気障な虫酢の走しる男だろうと私は身ブルイを感じたが、反対にこの寒いのにマントも着ずに、原稿紙とタオルと石鹸をつつんだ風呂敷包一つを抱え、犬殺しのようなステッキを携えた異様な私を、これはまた何という貧乏くさい瘠犬だろうと萩原は絶望の感慨で私を迎えた。と、後に彼は私の印象記に書き加えていた。それによると萩原は詩から想像した私をあおじろい美少年のように、その初対面の日まで恋のごとく抱いていた空想だったそうである。
 萩原は面白くない顔付で利根川の川原の見える、下宿にあんないしてくれ、私はこの気障な男が夕方来たときには、伊勢崎銘仙の羽織を着込んでいて、到底、洋服を着て一緒に散歩する対手でないという意味で、半コートも茶の洋服ももう着ていなかった。着のみ着のままの私は上州の空っ風の中の下宿に、ひと月ほど滞在した。当時、貧乏な詩人仲間は東京の下宿を食いつめると、地方にいる投書家詩人で比較的余裕のある家に、一と月とか二か月とか滞在して食い延しをし、帰京後は先の下宿をすっぽかして新しく宿をとる転換期を用意していたものだ。勿論、私もその心算で前橋に出かけたのであるが、結局、萩原から汽車賃を出させ下宿料も払わずに帰京したのである。萩原は後にどうも変な奴だと思ったが、まんまと一杯食わされたといい、私ははじめから一杯食わすつもりで出掛けたのだと言って笑った。小説を書いて金がはいるようになってから、私は何時もすすんで勘定を払ったが、彼は笑いながら殊勝な心がけだといい、ではおれはチップを払おうといってチップを彼はいつも払っていた。きょうはおれは五円だけ出すからあとはお前払っとけと萩原はいい、酒後へべれけになった萩原にこれは先刻預った五円だから持って行け、新宿でまた一杯飲まなければなるまいというと、あ、そうか、五円まだ持っていたかと五円紙幣をポケットに捩じ込み、また会おうと二人は何時も仲善く別れた。何時でも酒が仲にはいっていたが、女の事で張り合ったこともなく、文学論なぞしたこともない、私はお金がとれる愉快さに濫作に昼夜を上げて書いていたから、金では萩原に負け目はなかった。或時君の妹に何か購いたいがというと、お前におれの妹が買物をして貰うというばかなことがあるか、買物ならおれがしてやるくだらない事をいうなと言って私は叱られた。彼はゆき子さん、みね子さん、かね子さんに何子さんというふうに、たくさんの妹の美人達を持ち、それが外の女達から振られでもすると、家にもどって妹達を見ると振られたことも薄らいで来て、すうとするらしく、彼は晴天白日を[#「晴天白日を」はママ]感じていた。
 萩原と私の関係は、私がたちの悪い女で始終萩原を追っかけ廻していて、萩原もずるずるに引きずられているところがあった。例の前橋訪問以来四十年というものは、二人は寄ると夕方からがぶっと酒をあおり、またがぶっと酒を呑み、あとはちびりちびりと飲んで永い四十年間倦きることがなかった。帽子をあみだにかむり敷島というタバコの吸口を噛みちらし、時には酒はこぼし放題になった萩原は、突然、眼をさましたような正気づいた眼付をして、こうしてはいられないという気確さを見せて、君、おれは失敬するといって立ちあがることがった[#「ことがった」はママ]。そんな瞬間には新宿のいんちき酒場の亡霊共がものすごく彼を招くのだ、彼の乱酔の渦中に女どもが叫んで彼の帽子を脱がせ、上着から財布をもぎ取り、髪をむしり脇の下をくすぐったりする女どもが、白ねずみのように股ぐらを駈け廻るのである。そして私共はその事のゆえで何時も別れた。何だい泥くさい女がそんなにお前に向くのかとなじると、むっつりして何時までお芝居を続けるようにバーに坐り込む心算なんだ、行儀見習にバーに来ているのかいと彼は叫んで去って行った。振られた年増女の私は間もなく腰を上げ、表に出るのであるが、あんなに飲んでいのちに別状ないものか、あんな乱次だらしのない奴はないと呟やいて見たものの、私はそのままでは帰れなかった。次ぎのバーに行って黙りこくって飲み、振られた女のしよう事のない沈黙ばかりで、そんな萩原と別れた晩は何処に行ってもおちつきがなかったのだ。

 明治十九年(一八八六年)十一月一日 群馬県前橋市北曲輪町十九番地[#「十九番地」はママ] 萩原密蔵の長男として不出世の[#「不出世の」はママ]詩人萩原朔太郎は生れた。つまり私は明治二十二年生れであるから彼は三つ年上である。同四十三年(一九一〇)二十五歳で岡山第六高等学校中退。
 大正二年(一九一三)二十八歳 北原白秋の主宰の詩の雑誌『ザムボア(朱欒)』にはじめて抒情詩六篇掲載、その同じ号に私も詩を投書して掲載されていた。この年に私は彼から手紙を貰い、ついに親友となった。(北原白秋伝参照)大正四年山村暮鳥と私と萩原で人魚詩社を興し、私は金沢で『卓上噴水』を創刊、同年五月に第二号を発刊して廃めた。これには萩原が拾円出資、当時、詩人の間で詩の機関雑誌を出すことが、文学地盤の確立の上からも流行していた。
 大正五年(一九一六)三十一歳、山村暮鳥、多田不二、竹村俊郎、恩地孝四郎と私などで、詩の雑誌『感情』を創刊、この表題は萩原が付け、三十何冊か発行された。私が、これの編集に当り同人は五円あて金を出し合った。
 大正七年(一九一八)三十三歳
 第一夫人稲子さんと結婚した。稲子さんは加賀藩の図書掛長の娘。長女葉子さん、明子さん生る。十三年上京、一家は大井町の郊外のような処に住み、私は暑い日に草の丈の高い野っ原の中に、かれの家を見つけた。夫人稲子と二人の娘との生活費は、その当時の金で父君密蔵さんから毎月七十円宛送られていることを萩原から直接私は聞いた。書留郵便だと金がかかるといい、前橋では振替口座に加入していた。
 大正十四年(一九二五)四十歳
 私が田端にいたので、田端の入口の藍染川近くのお稲荷さんわきに住んだ。私は彼を誘うてやはり酒を飲んだ。十五年に鎌倉材木座に移ったが間もなく大森馬込町に転居した。此処で彼は第一夫人稲子さんと十四年の夫婦生活を断った。彼の乱酒行のもっとも甚だしい時であった。私は彼のすすめで彼の家近くに引越し、今日に至っている。
 昭和七年に北沢に彼は遺産で家を建てた。まわりは悉く渋いココア色で塗り潰した家である。彼はこの家で若い第二夫人を迎えた。その年の夏、はじめて軽井沢に別荘を借りて住み、私と萩原は夕方五時半の時間を決めて町の菊屋で落ちあい、ビールを飲んだ。若い時分のくせをこの避暑地でうまく都合つけたのも、よい思いつきであった。彼は五時半には菊屋に現われ、私もその時間にはおくれずに現われた。そしてビールを二本あけると二人は別れた。彼は若い妻のいる別荘へ、私は自分の家へ、そして私達はそれぞれにあらためて家で晩酌の膳についたのである。併し彼の別荘借りは一年しか続かなかった。
 昭和十七年(一九四二)五十七歳
 これが萩原が死んだ年号と、歳である。私はいま自分の年齢で計算してみると萩原よりも十二年も横着に生きのびたことだ。運がよいのか悪が強いのかお前みたいにズルイ奴はいないよ、十二年も生きのびるなんていい加減にしろと、萩原朔太郎は笑いながらいうかも知れない。ほんとに済みませんです、うかうかと生きて来て了ったが、多分僕もそろそろお暇をいただく時分だから、君にも会えそうな気がするが、何処でどう会うものか、誰も死から還って来た人が喋ってくれたためしがないからね、併し十二年も君より余計に生きていたことは、何と言っても申訳がない、つい、昨日のように思えるが、生きていて物を書くということは偉大なる暇潰しであり、その事の為にずるずるに生きて来たのだ。君とはお互にどちらが先きに死に、どちらが後にのこるということを話し合ったことが、不思議にも一度だってない、君は後事を托するということを決して口にする人ではなかった。そこに他人のうかがえない心の守りを持っていたことは確かである。そういう事を人に言うことが嫌いなたちなのだ。

   郵便局の窓口

郵便局の窓口で
僕は故郷への手紙を書いた。
鴉のやうに零落して
靴も運命もすり切れちゃった
煤煙は空に曇って
けふもまだ職業は見つからない。
父上よ
何が人生について残ってゐるのか。
僕はかなしい虚無感から
貧しい財布の底をかぞへて見た。
すべての人生を銅貨にかへて
道路の敷石に叩きつけた

 あまりに親友であるために、その真髄のあたいが判らないことがある。判っていてもその半分は萩原の場合に、私自身の中に溶けこませていたからだ。私は多くの萩原の評論風な、たとえば「新しい慾情」とか「虚妄の正義」とか「絶望への逃走」とかいう哲人風な感想論評には余りこれを迎えなかった。萩原から言わせるとこれらの虚無の世界で、たえず明りを見ようという希みこそ、彼の生涯をつらぬいた逞しい意欲であったのである。併し私は元来評論嫌いであったからこれを愛読するに至らなかった。萩原は七八冊のノートに書きこんだ評論を暇にまかせて、何処から出版されるというあてなしに書きためていた。非常に早く書く方でありその辞句のあやつりも巧みであって、ああいう一見だらしのない人物が、よくも秩序を保たなければならない論文が、すらすらとながれる如くに書けるものだと思っていた。私なぞ評論風なものを二三枚書くのにホネが折れ、うまく文章が連れ立って来なかった。彼は小説は難かしいが評論は訳がないといい、私は小説は書けても評論はひちくどくて書けないといっていた。彼はいかなる場合でも文章の中心になる評論の語彙を捉えることに素早く、私はあちこち眺めていて彼のつかう適切な言葉さえ拾えなかった。口惜しまぎれに君の論文なんてあり来たりの評論的な語彙の掻き集めであって、ぴちぴちした生きた事なんか一つも書けていないじゃないか、読めばさかんなる勢いに悲哀の曇天をつかって、どれもこれも同じものばかりだというと、君なんぞ新聞の社会面のような冗らない小説ばかり書いている奴には、人間の意志のかがやきなんて一つも判らないんだと彼は罵倒した。一たい、人間の意志のかがやきなんて、それは何物を形容していうのか、意志のかがやきなんてことを麗々しく言うところから嘘がはじまるのだと、私と彼とは酒も手伝って或る晩なぞ果しなく憎み合って議論をしたものだ。
 そんな座に佐藤惣之助が何時もふしぎに加わっていた。佐藤は萩原の晩年に妹かね子さんを貰い、この美女をつまにしていた。かね子さんはその当時或る婚家先から出戻っていたし、佐藤はその妻に先立たれていたから、恰度、むきが合い境遇にも選ばれた二人であったから、萩原はかね子さんをくれないかという佐藤に、本人さえいいと言うならやるよ、君なら如才なくやってくれるからと萩原は承諾して、かね子さんは佐藤惣之助のおよめさんになったのである。君の妹さんに何か購ってあげたいと言った私を、一ごんのもとに断った萩原は佐藤にはあよしよしと妹さんをよめにやったことは、何と言っても私へのあつかいは、あまりにどすぎていた。私は酒の勢いで或る晩佐藤のいる前でずけずけと言った。単に物を購ってやるといった僕を小酷く断ったのは、なにか不潔な感じでもあったのか、そして佐藤には肉体もろともにくれてやったということは余りにも友情を無視し過ぎるというものだ、僕はキスや握手を懇請したのではない、ただ好意からせめてハンド・バックでも君の妹さんに購って上げて、妹さんからシンセツないい人だと思われたいばかりにそう言ったのだ、これは僕自身ほかほかしたよい気持になりたいばかりにそう申出ただけであって、そのために妹さんを銀座の喫茶店に誘い出してゆうわくしようという下心なぞ微塵もなかったのだ、そういう抒情的な紳士協定をまるで一蹶して了って、ハンド・バックどころかよめにまでくれてやったということが、しゃくにさわるのだ、嫉いているのではなく君の裁きが片手落ちの判決であって、君が僕の身になって考えて見てもはっと気がつくことがある筈だ、人情というものがまるで判らない抜けたところでは、丸抜けなごうつく張りでそのくせ詩人だの何だのというのは、ちゃんちゃら可笑しいじゃないか、君の評論というしろものも何時もこのハンド・バックを買おうという僕の内容がわからない、硬すぎるところのあるのは即ちこれを言うのだ、何も君の育ちが他人からハンド・バックを買って貰うことを拒否するほど育ちがよいなどとは言わさぬぞと、私は食い下がり、萩原がようやくあおざめた顔色になり、佐藤はまアまア兄弟喧嘩は廃めて別の場所で飲み直そうじゃないかと、川崎在のあんちゃんのように彼は性善なるがゆえに、他人の気色を悪くすることを嫌っていたので、仲裁の役目を買って出たのであった。萩原はハンド・バックの購入は妹には必要がないといった事と、佐藤との結婚とは自ら別問題であって、君のような一図な男にはそこに冷静な問題が横っていることには、まるで気のつかない支離滅裂に斬りこんで来る奴だと、彼もその夜は眼を怯えさせて理窟というものを一応きちんと組立てて言ったが、私は友人の妹であるためにハンド・バックを買ってやるということが何故言下に断らなければならない程いやな問題だというのだと、何度も言い直して一晩じゅうハンド・バックという言葉ばかりを喋って、私の正当な真実をこの友の前でいかなる言い廻しで、つたえる事が出来るかに飽きなかった。これ以来、私の胸中にはハンド・バックというものに恐怖を感じ、滅多にそれを女の人に買うということを怖れるようになっていた。
 私はさらに佐藤惣之助にも当り散らして、君も君だ、金も取れない君のために夜はおそくまで三味せんを弾いて長唄を教えていた奥さんが死んでから、まだ半年も経たないのに結婚だか強請だか知らないが、奥さんの亡霊のふわふわ襖のかげや厨にふらついているところに、後添えをもらうということは少々あつかましく早すぎるじゃないか、せめて一年くらい精進をしたあとで何分にも不自由だからと言って体裁好く貰うなら貰ってもいいのに、何時の間にかこそこそと二人で相談して結婚するなんて、人間の生ぐささも此処に至ってはきりなしじゃないかと詰め寄って言い、正直な佐藤は髪を掻いていや一言もない、つい話がとんとん拍手に進んだものだからと言ったが、君たちはまるで悪い事でもするようにこそこそ話を決めて了い、いまさら、とんとん拍子だなんてとんとん拍子のせいにするのはたちの悪い話だ、一応、親友である僕にも一言つたえてくれても宜さそうだ、情事に親友なしと言うかも知れないが、公式の結婚には是非僕にもちょっと位話があってもよかったのだ、君達は揃いも揃ったこそこそ組であって、一方は早く妹をかたづけることに焦り、一方は貰うなら美人だったら何時だっていいという一周年忌前の結婚と来た。何のために情事の文学をまなび、詩をひねくっているのだと私はハンド・バックの意趣返しから、飲む酒はにがにがしく遂に二人に別れて街頭に出た。

   評論風な感想

 抜書き一、(泥酔の翌朝におけるしらじらしい悔恨は、病んで舌をたれた犬のやうで、魂の最も傷々しいところに噛みついて来る。夜に於ての恥かしい事、醜態を極めたること、みさげはてた事、野卑と愚劣との外の何物でもないやうな記憶の再現は、‥‥後略)
 その二、(あまりに野卑な趣味に於て、露骨に見せつけられた性慾行為は、我等にまで何の快よい色情の春景色を感じさせる事なく、却ってあの「淫猥」といふ不快至極の悪感、よって以て印象から顔を背かせるほどの悪感を起させるであらう。げに淫猥とは「色情を呼び醒すもの」といふ意味の言葉ではなくして、却って色情を氷結させるもの、それ自ら色情的不潔を感じしめるものを概念してゐる。(後略)

 第二夫人と別れてから、だいぶ経ってからかれに愛人ができていた。酒の座でそれをチラと言葉にはさんだことがあったが、私はその人を見せろと迫って見ても、君の好みと反対な女だからと、固く守ってついに私には一度も会わせなかった。あれほど正直で隠すことをしない萩原が、最後まで会わさないで、愛人の事におよぶと憂欝そうに顔をそむけ、美人でないから見せないんだと言ったきりであった。愛人ができると親しい友達に見せたいのが人情だが、かれは愛人に関しては手強く沈黙をまもり、冗談にもその女のことは口走しることがなかった。私はその口固い秘色もそうあろうし、そうなければならぬことを思い、酒行の別れぎわにじゃ行って来たまえ、たまに僕の話でも出るようだったら宜しく言ってくれと、言づけていたわりたかったのだ。かれは愛人の家でも朝から酒にしたしみ、泊りこむこともあった。母親おもいのかれが泊りこむということも、よくよくの愛情に惹かれていたものであろう。父からうけた遺産は母親に委せ、それには一銭も手を付けなかった彼は、外からは乱次のない男に見えていても、母親を悲しませたことは一度もしていない、彼はいつも正気を持って酒の中であぶあぶやっていて、そのために遺産に手を付ける男でなかったのだ。
 その愛人は間もなく病死したが、身寄りのない人らしく、かれは妹むこの佐藤惣之助に葬儀万端をしてもらい、彼自身もうそ寒そうに愛人のまくらべに坐っていたことを思うと、萩原のくらし向きも情事のことでは複雑に何時も入りみだれていて、「抜書ノ二」のような意味の判らない物も書いていた。頭のよい人であったが此の「抜書ノ二」は文脈自らくずれていて、宿酔のみだれが仕事にくいこんでいるようであった。私は佐藤にかれの愛人は美人かと羨ましそうに問ねると、いやはや美人とか何とかいう女じゃないよと笑って言い、併し善良この上なしの人でね、そこに萩原は嘗てないものを見付けていたんだと佐藤は言った。私は何も彼も判るような気がし、彼女の死をいたんだ。聡明な女の人から愛せられることのない私や萩原に、死ぬまでついて行ったこの女の人のえらさは、やはり女としてすぐれた人であったにちがいない、バカでもすぐれて居れば偉いのだ、すぐれたバカというものは婦人代議士もおよばぬ肉体の雄弁を持っているものであった。日本でも三本の指を屈せられる詩人が最後にえらんだ女の人は、えらばれる沢山なものを持っていたことは確かである。初恋と終愛とが人間の死を飾る額ぶちのおさえであったら、かれの場合、この人こそ何にもいわないでただ愛してだけいられた平和を、かれに充分にあたえた立派な萩原の第三夫人であろう。僕もまたペンを浄めて深くいまここに悼まざるをえないのである。
 かれは若い日に偶然に、この一詩をものして誰かにささやこうとしたが、ここまで来ると一篇の詩もまた先きの何十年かを予測してうたわれたように、私にはしたしく愛誦することが出来るのである。

   艶めかしい墓場

風は柳を吹いてゐます
どこにこんな薄ぐらい墓地の景色があるのだらう
(中略)
どうして貴方はここに来たの?
やさしい 青ざめた 草のやうにふしぎな影よ
貴方は貝でもない 雉子でもない 猫でもない
さうしてさびしげなる亡霊よ
妹のやうにやさしいひとよ
(中略)
それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 真理でもない
さうして ただ なんといふ悲しさだらう。

 先きに死んで行く人は人がらが善すぎる、北原白秋、山村暮鳥、釈迢空、高村光太郎、堀辰雄、立原道造、福士幸次郎、津村信夫、大手拓次、佐藤惣之助、百田宗治、千家元麿、横瀬夜雨、そしてわが萩原朔太郎とかぞえて来てみても、どの人も人がらが好く、正直なれいろうとした生涯をおくっていた。
 ここに一枚私が加わるとすれば悪小説家で煮ても焼いても食えぬしろものかも知れぬ。しかも皆さんの事を号を追うて書くにいたっては益々煮ても焼いても食えない奴ということだけは、確かである。





底本:「婦人公論 第四十三巻第三号」中央公論社
   1958(昭和33)年3月号
初出:「婦人公論 第四十三巻第三号」中央公論社
   1958(昭和33)年3月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※引用文、引用詩は旧仮名のままとしましたが、拗音、促音の小書きは底本通りです。
※「我が愛する詩人の伝記」中央公論社、1958(昭和33)年12月15日発行の表記と異なる箇所が散見していますが、初出ということを鑑み底本通りに入力しました。
※萩原朔太郎は「群馬県東群馬郡前橋北曲輪町六十九番地」で出生したとされているので、「群馬県前橋市北曲輪町十九番地[#「十九番地」はママ]」とママ注記しました。
入力:きりんの手紙
校正:岡村和彦
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード