ヒッポドロム

室生犀星




 曇天の灰白い天幕が三角型に、煉瓦れんがの塔の際に、これも又曇った雪ぞらのように真寂まさびしく張られてあった、風の激しい日で、風をはらんだ天幕のあしが、吹き上げられ、陰気な鳴りかぜが耳もとをかすめた、その隙間すきまに、青い空が広濶こうかつとつづいていた。
 真赤な肉じゅばんを着た女が、飴色あめいろの馬上であきの蜻蛉とんぼのような焼けた色で、くるくる廻っていた。馬の顔はだんだんにふくれ、うすのようになったところに、女の紅い脚は、さかさまにぐいと衝き立てられ、かかとの、可愛い靴さきが腰部から次第に細まっているだけ、なお、馬の背中の上の、これもさかさあごさきを立てた顔がじられた。――くるくる廻っている馬の影が、柔らかい木屑の土俵の上に、ちぢまりながらい行き、ふくれて停まるとき、れいの臼のような顔だけが映っていた。
 ふしぎなことは紅い服の女の姿は、まるで小さい影絵のようにふらふらしている間に、フイに消えてしまった。そしてこんどは、暗い肌衣はだぎをした蝙蝠こうもり色の瞳をした女が、はりがねの上をつるつるすべっていた。鬼灯色ほおずきいろの日傘をさし、亀甲かめのこうのようなつやをした薔薇ばら色の肌をひらいて、水すましのように辷っては、不思議なうすいあいばんだ影を落していた。何んでもないことだが、一ト渡りすると、微笑わらってみせるので、美しくけはい立って見えた。というより、この異国の女の鼓動が胸を透して優しい花のように文字どおりに、すこしずつ高まったり低くなったりして、ちかちかした胸衣の飾り玉の青や黄いろをひからせた。
 しまいに、二つの膝がしらをそろえ、ぺたんこに坐ってしまって、よくある例の※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンカチを口にくわえ、地獄から今かえってきたような顔付をして見せたときに、わたしは少し不愉快だった。あそこまで見せなければならないこともないのに、フイに人目に立たないほどの厭気いやけで、唾を吐いた。が、すぐにその顔は毒のない、よく芸人にみるうすばかめいた微笑にかえられたのでほっとした。
 間もなくわたしはマテニを見ることができた。この露西亜ロシア女を見るだけに、しげしげ通っているのだが、さてどこがよいと言って明らかにはいえない。顔色も濁っている。瞳もうつくしくはない。だが暗い夜の肌衣をまとっている柔らかい肉体が、宙を舞うというばかりで好きなのではない。ただ何となく好ましいのである。楽隊の下から飛び出してくる最初の瞬間から……そう全く、右足で拍子を取って素早く片足ずつで飛び出してくる時から、わたしは好きになっているのである。
 ……というのは、わたしは晩ねむられないときに、毎時いつもブランコの上で、さか立ちをしたりともえのように舞ったり、不意に身がるに飛び下りたりするくせを持っていて、そのうちに睡れるのだ。宙にからだが浮くという気が羽根の上をわたるようなうすくすぐったさで、そしてかるがるしい気になり、遠いところにいる睡りをすこしずつ呼びもどすような気がするのだった。それ故、マテニは、わたしの睡りぐせを全く現実にしてくれるので、あるいはういう点からも好きになっているのかも知れない。それは一方から不意にブランコに飛びついて、その激揚に乗って、さきのブランコに乗っている男が、両手を提げているのに飛び移るのである。それがほとんど一分間くらいの間にすらりとってのけてしまうのである。
 その日、マテニは、腰とくびすじとに、白い布帯を巻いた青いうすものを着ていた。わたしはその青い服よりむしろ黒い服の方がこのましかった。間隙かんげきのない隆起と堆積たいせきとの肉感をのぞかせた姿は、全体としてつるつるあぶらを流したような滑らかさを持っていた。独逸ドイツ鯉によくみる肥りようと生々しさとを兼ね、どこかとかげのようなくねりの自由をもそなえていた。マテニは二人の若い露西亜人と一緒にかわるがわるに宙に飛びうつった。そのうちでもマテニは一番つたない方であった。
 彼女は鞦韆ブランコの鉄棒を握るとき右の手は内へ向けて握り、左はいつもそとへ向けた。X印になるわけである。手もとへ引きよせた鉄棒は、下からの高さが四間は充分にあった。それを握ると、すらりとあぶら流しに足さきを揃え、前へハネ、うしろへ弯曲わんきょくさせてくときには、もうブランコはさきのうつ向きになり、これもゆるく揺れている男の両手へ向っているのだった。それゆえ、その一と呼吸で男の手にぴたっと飛び乗り、乗りうつると、大揺れに、ぐいと天幕のうらへまでとどく位に、揺れ傾くのだった。そのとき、うしろ向きの向きをくるっと手に握りかえ、さきに離したブランコの揺れ近づいたときに、はっとする間もなく、飛び移るともう空宙をひとうねりして、もとの踏み場へもどるのだった。彼女のあぶらながしのからだがしなって、足さきをそろえたまま、白い曇った天幕うらへ浮くときに、つまり男の手の向きをかえるときに、その日も、向きの握りをしくじり、そのままの優しいからだが浮いたまま、墜落してしまった。下には網を張ってあるから大丈夫ではあるが……。
 しかし私のいうのは、そのブランコをしくじり、空中から網へ落ちてゆくときの、そのなめらかさだった。人間が空間に浮いているときの、わけても重い花のようなからだが鈍に、なるままに辷って落ちるときに、わたしは、ながれている身体じゅうの線が、ただの線ではなくすべて美しいゆるい水のように見えた。いちど網へ落ちたあとで、網は張り工合でマテニのからだをハネ返した。そのときの円状をえがいた自然なからだは、ときにはまるいゴム玉のように飛び上った。そういう失敗のあとでは彼女は真赤な顔をし、そしてた遣りなおしたりした。わたしはういう失敗のあるごとに、マテニを好ましくかんじた。それは芸人によくみる高慢さもなければ澄ましたようなところもなかった。帝政時代にはどこかの娘として生い立ってきたような温雅な、ひとのよい、おっとりした顔立ちをしていた。わたしは最後に彼女がそのよく肥えたからだをとかげのように、ブランコの上にくぐらせ、黒い百合のようにじらせたときに、全くふいにさきのブランコに飛び乗ったときに、深く嘆賞した。しかもそのブランコを離れたときの、きれのよい足さきがくの字なりに、空をよぎったときに、なんだかしずくの垂れる花をみたような気がしたのだ。
 また或る日に、真赤な肉じゅばんの、青いバンドの入った優しい悪鬼のような姿で、はれイ! と掛声かけごえをした彼女を見た。足のさきまで、秋の日照りにえた唐辛とうがらしさやのように鋭く、かっと、輝き出し、彫り込んだようにきわ立ち、そして瞬間のうちに散ってしまった。ただ何のことはない、紅い線からなる滑らかな優しい悪鬼は、微塵みじんのような羽虫のように目にくッついて離れなかった。再た或る晩のマテニは、純白のしなやかな光る服で、そのすこし紅みを濁らせた悲しげな表情で、わたしの目の前にあらわれた。ブランコから下り立ったときの女のあまいろの髪がそそけ、呼吸いき切れをしながら、いくらか隠々したれいの悲しげな表情で、すこしずつ後退あとずさりながら、楽隊の下の重い粗末なカーテンの陰へかくれてゆくとき、わたしはそれが晩であるためか、残りおしいさもしい心になるのを感じた。白い夢のように純白な姿は、まだ空間をすべり歩いているようで、わたしは何度も人家の暗い屋後を入ったほどだった。――わけても晩は、電燈のあかりの中にさらされた身体が、芸人でありながらも余りにあざやかで、あまりにむごいものの美しさをき立てていた。それゆえ、わたしは三度藍碧らんぺきの服をつけた彼女を明るい午後の、うすぼんやりした光で見いだしたとき、なぜか一種の悲哀をさえ感じた。それはあれらの曲馬団という概念にたいする悲哀でなく、何となく左ういう女の生活しているといういみじい或る概念に対してであった。わたしだち見物人と直接かかわりのあるようで、それでいて全然別途な生活であるということが、そういう生活に指さきをも触れることのできないというもどかしい物悲しさであった。世にこれを恋というものの内容に追い入れようとするものがあれば、わたしは容易にうなずくに違いないと思われた。なぜだといえば、あまりにばかばかしくしかも余りに屡々しばしばわたしは同一人の芸風に足をはこんでいるからである。
 も一つは私の空想であるところの、睡りくせであるところの、ブランコに移乗しながらいるからだ工合が、ますます激しくはびこってきたからである。私はよく目を閉じ、暗い己れの部屋のなかで、マテニの、その滑走をゆめ見たからである。鉄棒から手を離し、次の鉄棒に飛び移るときの、気の遠くなるような、すうと空間に浮き上る気もちは、左ういうしなやかな身体をだんだんに夢を見るような心にならしてしまった。わたしは寝床に這入はいってから二時間ぐらい睡れないのであるが、其二時間というものはわたしは間断なく空間をゆききする、気の遠くなるような、空中移乗の瞬間を想像しているうち、ふしぎな睡眠にさそわれるのであった。ときにはどうかすると私自身すら手を辷らし、鉄棒からハッと思う間もなく身体を墜落してしまうのだった。そういうとき誰でもよく夢にみるように、何とも言われない浮々しいそれでいて昇降機で下降するときのような、陰気な冷たいズーンとした惹き呼吸をめられるようで、厭な居ぐるしい気がして、睡りからめたりした。
 それゆえ、わたしは雑鬧ざっとうの公園で、さまざまな色彩を混ぜくり返した小屋がけの中で、しかも代赭たいしゃ色になった塔のわきに、雪の日の曇天のような天幕張りの、ツマんで吊したような白っぽい変に淋しい屋根をみるときに、いつも木戸口にがやがや立ち騒ぐ露西亜人のくぼんだ眼窩がんかや、唐黍とうきび色のひげや日に焼けた色をみるとき、みんな露西亜を逃げ出してきた人々であることに気が付き、そして一様にだらりとした物憂い風俗をしているのを、よく心にみて眺めることができた。なかには単にギタアとマンドリンを鳴らせるばかりに、親子五人づれで興味もなく出てくるのなどあった。どれもこれも一様に日本語がかなり出来るのも、妙にその発音がおさない子供のように寂しかった。三日もつづけて通っている私は、彼らの道具をあつかったり、ハリガネを張ったり木屑を掃いたりして同じい仕草を、昨日と同じいようにのんびりとるそうにしているのを二度も三度も見ているわたしであるゆえに、これも又物憂そうな目付でながめ込むのであった。マテニの出ないときのわたしは、わざわざ忙しいひまを盗んででてきたことのはかな過ぎることや、少々ばかばかしい恥かしさを感じることや、誰か知りあいに見られはしないかと、そういう気ばかりあせりいらいらしていた。そのためか種々な危険を予想すべき筈の芸当が、だんだん目に馴れてしまってそれさえも物珍らしくなくなって了った。ただそういう仕業に慣れているために、本人は何んでもなくっていて、それほど危ない命がけのほどのものでないという風に、わたしの心はずうずうしく馴れて了った。けれども何故かマテニの空中移乗をみるときには、ふしぎにそのふやけた気もちから離れて、いつもハッとして物に驚異する気もちを失わなかった。わたしの手には汗とあぶらと、その目には類いまれな花をかざしつけられているように、そのにおいにあこがれていた。こういう風に拙くそしてあらわに書いてしまうと口さがもなくののしられそうではあるが、しかしわたしにとってはまことにゆめかうつつのような空中移乗が、ゆめをそのままにあらわしてくれるのでわたしは、わたしの夢にさえひたって居ればよいのであるとしか考えられなかった。夢といえば何一つ夢でないもののない此の世はこうまでわたしの夢の符帳に合っているものはなかった。くらがりにそれと同じいブランコをじのぼるわたしをそのままに、女はきょうも昨日と同じい危険さと試練とに身をまかせ、そして蝙蝠こうもりいろの手と足とをひるがえした。アンネット、ケラマンの人魚をみたときに、わたしはこれと同じい姿勢とたわやかな美しさとを感じた。そういえば彼女はただに空中をかける人魚のむれであるか、それとも同じい柔らかい鳥類の一員ででもあろうか、いや、そういうものではない。何となくロップスのすすばんだ熊手形の新月のさしこんだ窓際で、亀甲色をした肌にあぶらを練り込んでいる深夜の、足のさきまで黒い女のようで、それでいて何となく鳥類のなめらかな濡羽を畳み込んでいるような色をしていた。
 あまりしばしば私はあたまを疲らせるごとに、よく天幕のそと側へ出、そして駱駝らくだのつながれている小屋がけのそばへ行った。駱駝と同じい背だけに、ひわ色のすじの硬いまぐさが積まれ、それとすれずれに悲しげな駱駝の背中が二タ峰をつくり立っていた。わたしは無心でいつもまぐさをたべている老齢者めいた駱駝が、同じ口つきで、ほんの少しずつの、味いのすくないとも思われる乾草を拾い拾いして食うているのを、かなりぼんやりした焦点のない心もちで眺めていた。あわばかり食べている小鳥のように、まぐさばかり食べている駱駝もさびしかろうと思えた。なぜかと言えば、そのうしろに積まれた乾草の山をし時々駱駝がふりかえり見て、そしてもし考え込んだとしたらたまらないだろうとも思えた。あまりにまざまざと自分の食物を明日の分までを眺めるということは、それに何らかの考えが纒いつくとしたら寂しいだろうと思えたからである。
 それにも一つ、其処そこの天幕の白い山のしたに、この駱駝がいたから、なおわたしの心をひいたのである。――わたしがっている間に、れいの露西亜人のギタアを弾く男の子供が、汗をながして自転車に乗ることを稽古していた。外国の子供らしい白い額に清浄なとも思われるくらいの汗の玉が、美しくきらめいていた。わたしは又布地の厚い天幕をくぐって場内へはいったときに、れいの緋羅紗ひラシャの服でかっきりからだを固めた騎馬の女が、くるくる、火の輪をめぐらし、むちの音が花火のように輝き音がしていた。わたしの目のうちに紅い長いものの影が映り近づきそして遠のいて消えたかと思うとその線は太まり光った。間もなく病的に蒼褪あおざめたうすのような馬の大きな頭が、わたしの目路めじちかくに鼠色とはいえ明色ではない悒々ゆうゆうしい影をひいてとまった。わたしはそれの影と同様につかれた心を引きずり、いくらかあえいで、その臼様のかげをながめた。そのかげの中から、赤い緋羅紗の女が突然飛び出した。ふしぎにわたしの頭はその女が赤い足を二本ずつ立てているのを、さも珍らしいもののように眺めているうち、その隙間から向う側の見物席にいる子守めいた女が何か餅のようなものを食べているのを、遠いせいか写真のようにちぢまっているのを眺めた。





底本:「性に眼覚める頃」新潮文庫、新潮社
   1957(昭和32)年3月25日発行
   1967(昭和42)年8月10日15刷改版
   1978(昭和53)年11月30日30刷
底本の親本:「忘春詩集」京文社
   1922(大正11)年12月10日発行
初出:「新小説 第廿七年第十號 九月號」春陽堂
   1922(大正11)年9月1日発行
入力:hitsuji
校正:きりんの手紙
2022年2月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード