見學

正宗白鳥




「でも、あたくし幸福しあはせだと思つてゐますのよ。母が患つてからは、あたくしの家に引き取つて、出來るだけの看病をして、心殘りのないやうに息を引き取らせたんで御座いますわ。……はあ、胃潰瘍が再發したんですの。母は年齡としを取つても長い間落着いてゐられる家がなくつて、苦勞してゐましたのですけど、あたしが村田の家へ嫁付かたづいてからは、此處が一番氣兼ねがなくつていゝと云つて、不斷でも、たび/\遊びに來て、手足を伸してゐましたのです。身體の加減が惡くなると、なほ更あたしの家を戀しがつてゐましたの。村田がまたどういふ譯ですか、性が合つてゐるとでもいふのですか、おつかさん/\と云つて、まるで自分の實の母親と同じやうに大事にして呉れましたの。お母さんも幸福でしたわ。
 お母さんの亡くなつたのは、大地震の前の年でしたの。ほんたうに、あたくし達は運がよう御座んしたのよ。村田は地震の年の四月まで、横濱の支店に勤めて、家も横濱に持つてゐたのですから、もう半年彼地にゐようものなら、大變だつたのですの。ちつとばかしお給金が殖えたつて大阪なんかいやだ/\と不平を云ひ/\轉勤したのですけれど、人間何が幸福さいはひになるか分りやしませんわね。
 大阪は池田といふ郊外に住んでゐますの。あたくし、上方は今度はじめてなんですわ。樣子が分らないもんですからはじめのうちはオド/\してゐました。獨りでお留守してゐると、横濱とは違つて不安心で淋しくつてならなかつたのですけど、馴れると何處だつておんなじことですわね。若い内は變つた土地に住んで見るのも、一生のいゝ經驗だと、主人たくが力をつけて呉れますし、あたしもさう思つてゐますのよ。
 お蔭で、西京から奈良から、須磨や明石や、あの近邊の名所古蹟は隨分見物いたしました。……主人のお休みの日には見物に連れてつて貰ふことも御座いますのですけど、この頃はあたくし、婦人の見學團に加入いたしましたの。今年ことしになつて、新聞社の工場や紡績會社なんか、皆さんと御一緒に見せて頂きました。此間も、草履穿きでかまはない服裝なりをして、家を締めて出掛けますと、近所にいらつしやる主人たくのお友達が窓からのぞいて、「ヤア、村田の妻君、今日は見學か。」と冷かしなさるんですよ。……でもねえ、ゴミ/\した工場なんかへ、お裝飾めかしをして一張羅ちやうらを着ちや行かれませんのですもの。あたくしなんかのやうなその月暮しの貧乏人は、箪笥のなかに、着替へを幾枚もしまひ込んでやしないんですから。
 あたくし、着物なんぞはさう欲しか御座いませんの。今度も、お母さんの墓參りをかねて、兄や姉の家で十日ばかり遊んで來たいと申しますと、主人はそれはいゝことだと喜んで呉れまして、旅費も不自由しないだけは渡して呉れましたし、あちらこちらへ顏出しする時の手土産だつて、主人たくが自分で見計らつて、會社の歸りに買つて來て呉れました。わたくし、ほんたうに幸福しあはせだと思ひますわ。久し振りで東京へ歸つて來ても、身内の者や知り合ひの方に氣のひける思ひをしないで快く遊んで行けるんで御座いますもの。
 あなたも、大阪の方へいらしつたら、是非あたくしの家へもお寄んなすつて下さいましな。主人は、あたしの昔馴染みの方が訪ねて來て下さるのを、大變に喜ぶので御座いますよ。二人して歡迎いたしますわ。あたしどもの家からは、箕面みのも[#ルビの「みのも」はママ]や寳塚は直ぐなんですの。御案内いたしますわ。寳塚の少女歌劇、御覽になつたことが御座いまして?
 ……ほんたうに、もう十年の餘もお目に掛らなかつたんですわね。母とはしよつちゆうお噂してゐたんで御座いますよ。東京に住んでゐると、いつかお訪ねしよう/\と思ひながら、却つて御無沙汰することになるんですわ。今度は何は置いても、此方こちらへお伺ひしなきやならないと、主人にさう申してゐましたの。
 ××さんは、あたしが煙草を吸ふのを不思議に思つていらつしやる。「女のくせに生意氣だ」つて、主人たくも時々小言を申しますのですけど、こればかりは止められませんの。母の眞似をしたのが癖になつちまつて。……惡い感化を受けた譯なんでせうけれど、でも、これ一つが、亡くなつた母の思ひ出になると思ふと、煙草に懷しい氣持がいたしますのよ。……さう申しますと、主人は、「それぢや、お前の煙草は憂きを忘れ草ぢやなくつて、思ひ出草なんだね。」と冷かしますの。
 さう云へば、縁側に置いていらつしやる鉢植の草花は何で御座いませうか。主人は草花が好きで、西洋ものでもいろ/\買つてまゐりますのですけど、あんな形をしたもの、あたくし見たことありませんわ。葉がビロードのやうで綺麗ですこと。
 ベコニヤ? へえ。温室で育てたんですつて。……ぢや、お價値ねだんもお高う御座いませうね。……あたくし、大阪へ歸つたら、主人たくに話して、早速買つて來させますわ。……側へ寄つて見ると、模樣が綺麗ですこと。……温室の草花は外の寒い風に當てると、直きにしをれるんですかね。人間だつてさうなんですわね。
 あたくし、久し振りに東京へ歸つて、いろ/\見學をいたしましたわ。」





底本:「正宗白鳥全集第十二卷」福武書店
   1985(昭和60)年7月30日発行
底本の親本:「婦人公論 第十一年第二号」中央公論新社
   1926(大正15)年2月1日
初出:「婦人公論 第十一年第二号」中央公論新社
   1926(大正15)年2月1日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:山村信一郎
2013年7月2日作成
2013年10月24日修正
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