編集者今昔

正宗白鳥




 この頃は回顧談が流行してゐる。昔の有名人の噂などはことに雜誌の讀者に喜ばれてゐるらしくも思はれる。讀者の喜ぶか喜ばぬかは別として、筆者自身いい氣持で書いてゐるらしい。芥川に關する回顧談、回顧的作品など、私の目に觸れただけでも幾つあつたことか。芥川龍之介といふ大正期の作家が、どれほど傑かつたにしろ、どれほど人間的妙味に富んでゐたにしろ、その噂はもう澤山だと云つた感じがしてゐる。私も幾度か芥川に會つて、その才人的話し振りに接したことを幸福とし、光榮ともしてゐるのであるが、現在の芥川ばやりは、ちよつと合點が行かないのである。私もみんなの仲間に入つて、芥川回顧談を一席打てば打てないこともないけれど、既に時期がおくれてゐるので、それは止めることにして、まだ誰もやらないらしい「編輯者」回顧談に先鞭を着けようとしてゐる。
 回顧すると古い事であるが、私自身、編輯者であつたのだ。私は學校を卒業すると、直ぐに早稻田の出版部に奉職した。文科講義録の編纂員となつたのであつた。伊原青々園の『日本演劇史』は、はじめてこの講義録に出ることになつて、私は原稿取りに出掛けてゐた。出版部仕事は興味もなく、私には不適當であつたので、半年あまりで辭職した。その後一年ばかりして讀賣新聞に入社して、訪問記者となり、編輯者となつて、七年間どうにか勤めたのであつた。その間の私の編輯者としての行動を、こゝでくど/\と述べるのは遠慮すべきであるが、たゞ一つだけ云つて置きたいと思ふのは、出版部の編輯者としても、新聞の訪問記者としても、私は名刺といふ物を殆んど用ひなかつたことである。出版部の時には名刺を作らなかつたのではないかと回顧されるが、讀賣の時には作る事は作つても、殆んど用ひなかつたのではないかと、私は記憶してゐる。現今は、新聞記者や雜誌記者、出版業者などは勿論の事、作家でも畫家でも、やたらに名刺の交換をやつてゐるのが、よく私の目につくのである。どうしてあゝ名刺のやり取りをするのであらうかと、私は自分の昔を回顧して不思議に思ふのである。日本人はことに名刺交換癖があるのではあるまいか。
 文學藝術方面の編輯を擔任してゐた私は、自然主義主唱者側の評論を、紙上に採用するやうになつたらしかつたが、世間で見られてゐるやうに、私は熱心に自然主義の肩を持つた譯ではなかつた。泡鳴、秋江の感想や論文は、毎週の文學附録に掲載してゐたが、それは彼等が、これから生ずる零細な原稿料を定收入と極めて持ち込んで來るから、採用してゐたのに過ぎなかつた。演劇の小山内薫も美術の石井柏亭も文學附録寄稿の定連であつたのだ。木下杢太郎のひねつた藝術論も幾度も出したし、新歸朝者永井荷風のものも何度か掲げた筈である。しかし、私の在社中の讀賣は、自然主義鼓吹か自然主義擁護かの色彩が濃厚であつたやうである。それから、雜誌では、抱月の「早稻田文學」、田山花袋の「文章世界」が自然主義の根據地と見做されてゐた。博文館は、投書雜誌として「文章世界」を刊行してゐたつもりであつたが、花袋が編輯主任になつたため、それが文學雜誌見たいになり、花袋好みの自然主義の色がつくやうになつたのであつた。文學史的に見たら、讀賣の文學欄と、早稻田文學と、文章世界とが、自然主義文學の機關誌と云はれてもいいのであつた。平家にあらざれば人にあらず、自然主義者でなければ文學者にあらずと云つたやうな空氣が、數年間文壇に漂つてゐた。
 この空氣のなかで、強烈に自然主義に反抗した雜誌は「新小説」であつた。「新小説」は、明治二十年代の末期から、新作發表の最高機關であつて、新進作家はこの雜誌に賣り込むことを心掛けてゐた。雜誌社の方でも、有望な若い作家が文壇に現れると、それ等の作家に月給を拂つて常雇ひにして、年に何回か新作を寄稿させることにしてゐた。博文館の「文藝倶樂部」は通俗小説、春陽堂の「新小説」は純文學を掲載することに略々態度が極つてゐた。ところで、「新小説」が時代の流行に逆らひ、自然主義に反抗するのは、一見識あるらしかつたが、實際はさうでもなかつた。當時の「新小説」編輯主任は後藤宙外であつた。宙外は抱月と同期の早稻田出身者で、評論家としての抱月に劣らぬほど、小説家としての宙外は有望視されてゐたのだが、自然主義勃興時代には、何となく影が薄くなつてゐた。それで、抱月はじめ自然主義系統の評論家や作家の勢ひのいいのが、いま/\しくなつて、泉鏡花をはじめ、竹風、嘲風、龍峽など自然主義嫌ひの文學者を糾合して、自然主義反對運動を起し、東京及び地方に講演會を催したりした。そして、「新小説」を反對運動の根據地として、誌上に、自然主義文士の個人攻撃をしたり、私行をあばいたりした。さうして流行に逆らつた編輯振りをしてゐたため、「新小説」は次第に賣れなくなつた。社主、和田利彦がいつか私に、「後藤さんが雜誌を賣れなくしてしまひました。」と云つたことがあつた。春陽堂に取つては、自然主義も反自然主義もあつたものぢやない。編輯者は雜誌が賣れるやうな方針で編輯してくれればいいのであつた。
 その頃瀧田樗陰が、中央公論編輯者として出現した。私は中央公論は、その前身の「反省雜誌」時代から知つてゐるが、それは微々たる存在に過ぎなかつた。中央公論と改題してからも、何を目標とした雜誌やら分らぬほどであつた。近松秋江が少しの間編輯をしてゐたが、これは無法な編輯振りで、麻田社長を困らせたのであつた。瀧田樗陰は帝大の學生として、秋江の編輯の手助けをしてゐた。秋江の辭職後、瀧田は一手で編輯をやつてゐたが、成績は面白くなかつた。「私に新小説をやらして呉れたら。」と、口に唾を溜めて云つてゐた。
 それでも、藤村、獨歩などの短篇、それに漱石の小品をはじめて取つて、時代の流行に乘り出した。「新小説」が流行の自然主義に反抗するのと反對に、自然主義作品を取り入れることに勤めたのが、中央公論が雜誌界に幅を利かすことになる第一歩であつた。「新小説」は次第に權威を失ひ、「中央公論」は次第に、賣れ行きも増し、文壇の信用も加つた。瀧田ははじめから自然主義作家を好いてゐたのではない。はじめは、天外と風葉を讚美してゐた。藤村や獨歩の作品に心醉してはゐなかつた。時代の流行を捉へてゐたのだ。
 若かつた瀧田は、いくらか賣れ出したとは云へ、まだ中央公論の前途を樂觀してはゐなかつたらしく、その編輯者として安んじてはゐられなくつて、徳富蘇峰に頼んで國民新聞に入れて貰つた。麻田社長にその事を報告すると、麻田は笑つて、「新聞社で君は辛抱出來やしないよ。しかし、まあ行つて、世間を見て來たまへ。」と云つた。果して、一二ヶ月すると元の社へ歸つて來て、「駄目でした駄目でした。」と云つたさうであつた。竹越三叉とも親しくしてゐたので、竹越が一年足らずの間、讀賣の主筆をしてゐた時分、竹越に頼んで、文學附録に文藝時評、小説月評見たいなものを寄稿して來た。中央公論編輯だけで安んじてゐられない所があつたらしい。私は、主筆からの天下りの原稿を採用するのをいやがりながら、敢然と沒書にもなし得なかつた。幸ひ、これも二三回でお止めになつた。
 そのうち中央公論は他を壓するほどの勢ひを得たので、氣を紛らさないで、この雜誌に一生を托することに覺悟を極めたのであらう。
 私が寄稿者として彼と親しくなつたのは、『五月幟』を書いた時で、まだ角帽を被つてゐた彼は、原稿を讀むと直ぐに、森川町の下宿屋の二階の私の部屋へ驅けつけた。足音荒く廊下を踏んで、障子を開けるや否や、「今度のはいいですなあ。」と叫んで、私の机の側に坐つた。そして獨りで昂奮して感想を述べた。編輯者としての瀧田の面目を私はこの時はじめて見たと云つていいのであらう。これを機縁として、數十年間絶えず中央公論に寄稿することになつたので、瀧田の激勵がなかつたら、私の一生の作品の數は半分くらゐに減つてゐたであらう。彼は他の作家に對しても、あの熱情で接觸したのであらう。しかし、昂奮振りや熱情振りは、今日から見ると古めかしく思はれる。私は、瀧田とは長い間交際を續けた譯だが、酒食を共にしたことは殆んどなかつた。私生活に立ち入つた話をしたこともあまりなかつた。彼は一時角力に熱中して、毎場所一桝取つて見物してゐたが、私は一度も誘はれたことはなかつた。連れて行つた人から、彼は費用の割前を取つたさうである。瀧田は編輯者として豪奢な生活をしたらしく云はれてゐたが、彼如何に威力を發揮してゐたとしても、要するに一介の編輯者であり、社長ではなかつたのだ。月給以外に、賣上げ高に依つて歩合ひを貰つてゐたさうだが、それだつて高が知れてゐる。編輯の苦心と云つたつて、今日に比べると安易なものではなかつたか。中央公論も、初期の「改造」も、創作中心で編輯されてゐたが、大體作家が極つてゐた。絶えず新しい趣向を凝らして編輯する必要はなかつた。島中雄作がよく云つてゐたが、「瀧田時代の苦勞何ほどの事かあらん。」と。
 瀧田の編輯力も衰へ、身體に故障も起つた時分に、「改造」が現れて、中央公論の強敵となつた。原稿料に於いても、改造に引き摺られるやうになつた。萬事消極的な麻田社長を鞭打つて、原稿料でも、同類の雜誌よりも幾らかよくしてゐた瀧田も、「そんなに原稿料の値上げをしなくつてもいい。」と云ふやうになつた。「改造」社長山本實彦は、創刊當時金があつたのかなかつたのか、よく作家を饗應した。私なども、頻繁に原稿を依頼されてゐた時分には、屡々料理屋で御馳走になつた。山本社長は編輯をも獨裁してゐたやうであつた。瀧田同樣に目先が利いてゐて熱情もあつたが、つまり瀧田よりこの方が打算的であつた。瀧田は中央公論を自己生存の根據としてゐたにしろ、社長ではなくつて、雇はれ人であつたし、山本は編輯者社長であつたのだ。瀧田の働きで中央公論が莫大な利潤を擧げてゐたにしろ、瀧田が病氣で働けなくなつて辭任した時の退職手當は五萬圓であつたさうだ。
 新進の改造が、地盤の堅い中央公論と對立するやうになつたのは、左翼運動とかプロレタリア思想とかが勃興したその時代の空氣を取り入れたためであつた。時代の氣運を捉へた雜誌が榮えるのは常法で、中央公論は自然主義作品を熱心に取り入れたのがよかつたのだ。泉鏡花の作品が徳田秋聲を仲介者として中央公論に掲載された時、麻田社長は、「鏡花のものなんか出すことを自然派作家がいやがらないだらうか。」と、その所謂自然派作家の思惑を氣にしてゐたと、瀧田が話してゐたことがあつた。改造が山川均だの、大杉榮だの、あの頃羽振りのよかつたプロレタリア論客の論文を盛んに取り入れ出したのを見てゐた私は、社長兼編輯長の山本は、さういふ思想に共鳴し、さういふ思想の上に自己の精神を樹立してゐるのかと思つてゐたが、それは、世間知らず、人間知らず、編輯者の心知らずの、私の妄想であつたのだ。さうした方が、雜誌の景氣がよくなり賣れるからやつただけなのだ。寄稿者の、プロレタリア論客だつて、作家だつて、自分の論文や小説を採用して、いい原稿料を拂つてくれれば、その雜誌に厚意を持つだけの事である。今日の雜誌に於ける編輯者氣質、寄稿者氣質は一層さういふ風である。私はすべてそれ等を當然の事と思つてゐる。しかし、明治二十年代の徳富蘇峰の「國民之友」や、三宅雪嶺の「日本及日本人」などには、賣る事以外に、自己の主義主張を發揮する氣持があつたやうである。
 中央公論や改造は、戰時中軍部に壓迫され、戰々兢々として編輯し、時々軍部に獻金までして御機嫌を取つてゐたのに關らず、廢刊を餘儀なくされる所まで追ひ詰められたのだが、戰時中の此等の雜誌を見てゐると、編輯者の苦心は察せられる。戰時中の新聞や雜誌には、時代の眞相が映されてゐないと云はれてゐるが、映されてゐないやうな所に映されてゐるのである。恐る/\編輯してゐるやうなのが、今見ると面白いのだ。編輯者だつて執筆者だつて、權力者から脅迫されてゐる時分に、それをうまく潛つて自己の所信を實現するところに、彼等の手腕が見られると云つていいのである。
 兎に角、瀧田時代は世間が小さかつた。作家もあの時分は、大した金には有り附けなかつたが、一度地位が極つたら當分安心であつた。編輯者だつて氣樂であつたのだらう。いろんな趣向を凝らさなくつてもよかつたのであらう。
「新潮」の中村武羅夫も、編輯者としての一つの標本的人物であつた。中村は小栗風葉の門下見たいになつてゐたが、はじめは新潮のための訪問記事を採集してゐた。當時は、作家の文學感想や苦心談を談話筆記といふ形式で掲載することが流行してゐた。談話料は支拂はないのだから、原稿料無しの原稿が集る譯で、雜誌社としては甚だ得策であつたが、作家としては迷惑である筈であつた。しかし、當時は、貧乏馴れた作家の心構へは悠長であつたので、訪問記者相手におしやべりをして、材料を無料で取られる事を氣にしなかつた。中村は、編輯者としては無給で、訪問筆記料を貰ふだけだと云つてゐた。訪問しても面會拒絶されることもよくあつたらしいが、中村はその筆記料が生活費になるのだから、押しが強かつた。私などは、うるさがつて、訪問されても沈默を守つて質問に答へなかつたが、執拗く迫つて、何か云はせようとするのであつた。新潮と云ふ雜誌について私の記憶に殘つてゐるのは、こちらでその編輯者訪問記者を無慈悲に取り扱ふと、仇をむくいられることであつた。今日はさう云ふ事はないがあの時分には、新潮をはじめ、片々たる小雜誌に、文壇風聞録見たいな記事がよく出てゐて、その欄内で、惡口雜言をまき散らすことがあつた。中村はよくそれをやつた。脅迫態度をほのめかしてゐるやうなところがあつて、こちらの望みを容れなければ、誌上でやつつけてやるぞといふ意氣を示してゐるとも思はれた。後には親分氣取りであり、後進の世話をしたり、編輯者としての人望もあつたやうだが、私はつひに親しめなかつた。
 いつの間にか衰微したが、私の學生時代から、文壇に出たあと數年間、雜誌界に君臨してゐた出版業社は博文館であつた。博文館は、講談社と岩波書店とを合併したやうな出版社であつて、雜誌の數も十數種に達してゐた。當時はまだ婦人雜誌が榮えてゐなかつたが、綜合雜誌「太陽」をはじめ「文藝倶樂部」「文章世界」、週刊か旬刊かの「太平洋」、少年物など各方面に出版の手を伸した。それで文筆業者は博文館に隷屬してゐるやうな有樣であつた。多くの作家が博文館の社主や編輯主任には頭が上らなかつた。近松秋江が數年間この社に奉職して、その内輪の實状を話してゐたが、編輯者は、社主の夫人の草履を直すやうな行動を取つてゐたさうだ。月給は社主大橋新太郎の手から渡されるので、その前に平身低頭の禮を取るのであつた。田山花袋の『東京の三十年』のなかに記されてゐるが、大橋社長が日本地誌の編輯をしてゐる花袋を戒めて、「紅葉でさへ遺族は窮境に陷つてゐる。君など文學なんかやらないで、地理の方に身を入れてやれ。大學の地理の先生に學べ。」といふやうな事を云つてゐる。社長は文學者を輕視して、大學の教授を尊重してゐたのであつた。それでも、逍遙、鴎外、紅葉、露伴ぐらゐには、出版業者も多少の敬意は拂つてゐた。
 今は編輯者は編輯だけに忙殺されてゐるやうだが、あの頃は、編輯の餘暇に自分の文學仕事をやつてゐる者が少なくなかつた。雜誌社の方でもそれを許してゐた。編輯者が自分の雜誌に作品評論を發表することは、むしろ常例となつてゐた。長谷川天溪は「太陽」を編輯しながら、盛んに文學評論をその雜誌に掲載して文壇の地位を得た。花袋でも小波でも、博文館の編輯員として奉職しながら、そこの雜誌を自作の發表機關としてゐた。抱月の「早稻田文學」は、彼の個人雜誌見たやうなものだから當然であつたが、宙外は「新小説」の編輯者として俸給を取つてゐながら、自己擁護のためにそれを利用してゐた。かういふ點では、今の編輯者よりも昔の編輯者の方がうまい事をしてゐた譯だ。編輯者も作家も物質收入は少なかつたが、氣持がのんびりしてゐたやうである。今日の編輯者も、持ち込み原稿の處分に累はされてゐるであらうし、昔の編輯者も同樣の煩累を感じてゐたであらうが、昔は今よりも原稿取捨の態度が甘かつた。知人の作品、有力な紹介者からの原稿は、拙くつても出してやらうと心掛けてゐた。瀧田や山本時代から、目に見えてその取捨がきびしくなつたやうであつた。山本の如きは、名士の原稿紹介を嫌つてゐた。有島武郎などはやたらに紹介するので困ると眉を顰めてゐた。





底本:「正宗白鳥全集第二十九卷」福武書店
   1984(昭和59)年3月31日発行
底本の親本:「群像 第九巻第二号」大日本雄弁会講談社
   1954(昭和29)年2月1日発行
初出:「群像 第九巻第二号」大日本雄弁会講談社
   1954(昭和29)年2月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:山村信一郎
校正:フクポー
2020年2月21日作成
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