『アルプスの眞晝』(セガンチーニ作)

正宗白鳥




 私は先月末の大雪の後、輕井澤の快晴の眞晝の空を仰いで、言語に絶したやうな光景に心をひかれた。天國とか淨土とかいつたやうな常用語ではいひ現せない感じであつた。見なれてゐる山岳や樹木も美妙な精彩を放つてゐるやうな氣持もした。風物が目に映るばかりではなくつて、ひやひやとした清淨な空氣が鼻から入つて、わが心を刺激して、天地の美を感得せしめるのであらうと推測された。
 今、私はセガンチーニといふ、未知の畫工の『アルプスの眞晝』と題されてゐる畫面を見た。いくつもの名畫陳列のこの場所は、人込みと、暖房の熱氣と私が過度な厚着をしてゐるためとで、汗のしたゝるほどの暑くるしさを覺えてゐるので、高原の淨氣を鼻から感得するどころではなかつたのだが、それにかゝはらず私は、見てゐると畫面の天空に心を吸ひ込まれるやうに感じた。清爽極まりなしといつた感じだ。輕井澤の高原と、アルプスの高原と、同じ地球上の高原でありながら、そして、どちらも淨らかでありながら、まるで趣のちがつてゐるやうに感じた。百貨店室内の濁氣を吸ひながら、心には畫面の空から清淨なにほひが漂つて來るやうな感じだ。私が時に觸れて感じるのであるが人工は天工に勝るといつた感じをも覺えた。輕井澤雪後の實景では、人間や動物が目に映ると、邪魔になるやうな氣がしたが、この畫面では、それらの生物が、淨土の空氣に心身を融かせて永遠の生を保つてゐるらしく見えるのである。




底本:「正宗白鳥全集第二十九卷」福武書店
   1984(昭和59)年3月31日発行
底本の親本:「読売新聞」
   1954(昭和29)年2月23日
初出:「読売新聞」
   1954(昭和29)年2月23日
入力:山村信一郎
校正:フクポー
2019年8月30日作成
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