ペンクラブと芸術院

正宗白鳥




 今秋ペンクラブの世界的大会が日本で開催されるのである。それについて、私は昔の微々たるペンクラブ発生の頃を思出した。私は島崎藤村逝去後にペンクラブの会長に推薦され、終戦まで一年ばかりその名誉ある地位に身を置いていたのである。私が会長になるなんて可笑しな事なんだが、確かに会長であった。会員中の有力者が会合のたびに会の運転について意見を述べて、私は殆ど盲従していたのに過ぎず、甚だ権威が無かったが、兎に角会長の席に就いていた筈だ。
 島崎藤村は、しんねりむっつりであっても、私とちがって貫禄があった。大倉喜七郎が藤村崇拝で、藤村に物資的援助をしていたが、藤村はその与えられた金をそっくりペンクラブに寄附していたので、それだけでも、藤村はクラブで重きをなしていた筈だ。一度藤村は、築地の料亭に大倉を主賓として、当時は珍重されていた白米と鮮魚の料理をペンクラブ会員一同に振舞ったこともあった。藤村はアルゼンチンのペンクラブに日本のクラブの代表として出席したこともあった。それに比べると、私の会長振りは見窄みすぼらしくて、有れども無きが如くであった。
 しかし、今回顧すると、戦争末期に私が会長であったことは、その所を得ていたのである。そのためにペンクラブのその時の歴史が綺麗であったのである。誰もそんな事に気がつかないだろうし、私自身もそんな事を考えてもいなかったが、今考えると、一つの人世光景がほがらかに思浮ぶのである。傍観的であり無気力であった私は、ペンクラブ会長として何もしなかった。しかし、戦争末期の世相混乱、自暴自棄的の苛烈な騒ぎの間に、それに捲き込まれないで、何もしなかったという事は、何かやっていたよりも、却って人生妙味があったのではないか。文学報国会や言論報国会などでは、盛んに時局に活躍して、軍部の態度に迎合し、情報局の支配に隷属し、情報局の奥村某の一顰一笑を気にしていたのであったが、私の会長であった頃のペンクラブは、軍部や情報局の思惑は全く無視していた。八紘一宇や国体明徴運動なんかに加入しなかった。若し働き手の有力な会長がいたなら、ペンクラブももっと花々しい存在になっていたのであろうが、その花々しさは、軍部や情報局の意向に従った上の花々しさであったにちがいない。それで、何もしなかった私は、ペンクラブを影の薄いものとしたにしても、それを泥土で汚させなかった。
 このクラブの事務をやっていた鈴木某という青年は、殆ど無報酬で煩わしい雑務を運転していたが、私同様に積極的に、目に立つような事をやろうとはしなかった。藤村の建碑式の時に、私は一しょに大磯へ行って、式の手伝いをして、帰りには、警察署長に頼んで汽車の切符を手に入れたりした。この忠実な事務員にペンクラブは何の酬いるところもなかったのだが、彼今はいずこにかある?
 戦争末期のペンクラブは、英国などのペンクラブとの関係は全く杜絶され、純日本式のペンクラブにしようとしたりして、事件好きの何人かでざわざわ騒いでいたが、つまりは、無為にして化すという有様であった。私の会長たりし一年あまりの間のペンクラブは、周囲の騒ぎを他所よそにして、ひっそり閑とした存在であったが、そのために、その間のクラブは清潔であった。たまにこの鈴木君と事務の打合せをしたこともあったが、私は大抵「そんな事は打遣って置いたらいい」とか「止したらいい」と云っていたのだ。
 ところで、戦争が、不目出たくか目出たくか、終ったあとでは、ペンクラブも面目を新たにしなければならぬようになった。それで、歌舞伎座の近所の或家の二階で、重な会員が集って評議を凝らすことになったのだが、私は、会長辞任を当然の事として、議席に就くと先ずそれを申出た。そして、一応それが議題になるのかと思っていたら、前から私の解職は、重な会員の間で極っていたらしく、「まあ、もっとやって下さい」なんて云うお座成りの儀礼もなしに、私の申出は直ぐに取入れられ、志賀直哉君が新会長に推薦されたのであった。会長として私の無能振りは会員にはよく分っていたのだ。しかし、眼光紙背に徹しない人々には、無能の用は看破されなかったのである。戦争末期のあの時分、微々たる清節を保った団体や会合が、どれほどあったであろうか。
 会長の免職のし放しでは多少気の毒だと思ったのか、私は名誉会長という称号を与えられることになった。
 ペンクラブの思出はこれで終り。
 ここまで書いたあと筆を擱いて、ある会に出席したのであったが、そこの会員の一人は、昔ペンクラブで事務を取っていたと云うので、私の方からいろいろ当時の事情を訊ねた。すると、彼は、藤村死後にでも、大倉が、会の維持費として、数万円の寄附をしていたことを話した。必要に応じてもっと出してもいいと云っていたそうだ。会長の私は今度はじめて聞いたので、その時は何も知らなかった。会長として維持費の有無も、多額な寄附をしていた人のあったことも、全く知らなかったのは、不思議千万である。詰り、会の事務に当っていた人達が、会長たる私をそれほどに無視していたのであった。会長の私に会計報告もしなかったのだ。私は、あの頃ペンクラブの会長になっていた夢を見ていたので、実際は会長でも何でもなかったのか。それで、念のために、昔話の相手になっている彼に、「僕はあの時、ペンクラブの会長であったのでしょう?」と訊くと、「そうでした」と彼は確答した。

 私は俳句も和歌も作れず、満足に字を書くすべも知らないので、原則として色紙短冊は書かない事にしている。少くも展覧会などに出して公衆の目に触れることは避けていた。ところが、今度は珍しく数枚をよたよたと震える手で書き汚した。芸術院会館建設費として、文学方面の会員一同が、色紙短冊の揮毫をすることになったので、私も当然の義務として涙を呑んで筆を執ったのである。
 無論自作の和歌俳句、或は詩文などは書く気はしない。何かと考えた果てに、先ず、「明日の事を思い煩う勿れ、一日の苦労は一日にて足れり」という、キリストの聖句を書いた。私は幼い頃から小心にして、明日あすの事に思悩む癖を持っている。原子爆弾だか水素爆弾だか、悪魔の発明にかかるものが、人類虐殺のために、明日あすの日にも落ちて来ないかと、漠然ながら今気遣っているのである。若い時分から衣食費の欠乏を気遣って、極力貯蓄を志していた。生活がいじける訳である。放射能の毒は百年たたると云うような取越し苦労を止めて、今日は今日をのんびり楽んでいればいいと志しながら、それを実現し得なかった。それで、山上の教訓のなかの、「野の百合を見よ」なんかを、すがすがしい安心の声として聞いていたのである。
 それから、第二の色紙には、東洋の聖人孔夫子の訓戒語「あしたに道を聞く、ゆうべに死すとも可なり」を書いた。この聖語は、キリストのよりは堅苦しくて、道とは何ぞやと訊返したくなるようなものだが、その道は突留めたいような気がするのである。
 それから、第三の色紙には、「花さうび、花のいのちはいく時ぞ、時過ぎて尋ぬれば、花はなく、あるはたゞいばらのみ」と、ギリシアの古詩を書いた。二千年の昔の西洋人も、同じような事、有触れた感歎語を唄っていたのである。私は少年時代に愛読した漢詩をこの頃復読しているのだが、このギリシア詩と同じような感じが頻繁に唄われている。詩人の見る人生もそれっきりかと思われないこともない。つまり人間それっきりで、すべて唄いつくされ描きつくされていて、新しい詩も新しい唄もないのかも知れない。
 ただ私が漢詩集を読んでいつも感ずることは、漢詩には、戦争を悲しみ戦争を憎み戦争を詛うものの多い事である。これに反し、日本の和歌には、或は日本製の漢詩には、むしろ戦争を讃美したものが多いようである。へなへなした和歌が、大君おおきみやお国のための戦いをうやうやしくたたえた作品が、明治以後にいかに多かったことか。

 近年は会合ばやりで、私の所へさえさまざまな会合の通知がある。それで、私が成可く出席することにしている会合は、中央公論社が世話をしている国民学術協会と、芸術院の総会とである。学術協会は、殆ど二十年も前に、中央公論前社長の創意によって設立されたもので、会員には各方面の一世の学者を網羅せんとしていた。はじめのうちは研究費に悩んでいる有能な学者を援助したり、傑れたる学術的業績に対して賞金を与えたりしていたのだが、戦争が苛烈になった時からは、ただ会員が月々会合を続けるだけになった。前社長死後も、この会だけは新社長によって続けている。私は、発起人の一人ででもあり、理事ででもあったりして、今日も関係を保っているが、この会では、毎回、大抵は会員、或は会員以外の人の座談的講演があるので、私はそれを自分の知らない学術、世相、についての知識を得る好機会としているのである。毎月一度学校へ行っているようなものである。創立以来二十年も経っているのだから、会員は続々死んでいる。私などが最年長者になりかかっている。
 毎年一度の芸術院総会には、私は殆ど欠かさなく出席している。この総会には美術家は多数出席するようだが、文学方面の会員の出席率はいつも少い。会則などをこまごまと評議するので、甚だ面白からざるものである。先日の如きは、朝の十時から晩の六時まで、会則の一字一句の検討改訂などに費されるのであった。私からいうとどうでもいいような事にこれほど時と頭を使うことから推測すると、利害関係のはげしい議会の議事の運行はどんなに面倒であろうか。国家の法律の制定などはどんなに煩わしいか。
 私は一日、この総会席に辛抱していながら、院長はじめ、事務局当事者の煩累に同情した。会員は勝手に、智恵相当の意見を述べて、当局者に難癖をつけたりしているのだが、それを程ほどあしらったり、あやまったりするのは、煩わしい次第である。仮りに私が院長であったら、院長独裁でやらなければならぬと思った。こせこせした民主主義的態度は心の浪費であり時間の浪費であると思われた。
 私が一年一度の退屈な総会に忠実に出席するのは、芸術院会員当然の義務としてである。会員たる栄誉と、それに年金を貰っているためである。私、時々、芸術院会員を辞退したいと思うことがある。えらそうな肩書なんか身に着けているのは、自分に似合わしからず思われるのだが、辞退し切れないところに、人間としてのあさましさか、人間としての和やかさが見られるのであろうか。
 ペンクラブは、私とは縁が薄いのである。名誉会長にされているつもりであったが、先日聞くところによると、名誉会長制度は疾くに止めているそうだ。通知も何もなかった。芸術院は官僚が事務をやっているせいか、会員に対してはこまかい所まで忠実である。それで私は、会員として年金その他を貰っている限りは、毎年努力して総会出席の義務を果すつもりである。
(昭和三十二年七月)





底本:「今年の秋」中公文庫、中央公論社
   1980(昭和55)年9月10日発行
底本の親本:「今年の秋」中央公論社
   1959(昭和34)年5月30日発行
初出:「新潮 第五十四巻第七号」新潮社
   1957(昭和32)年7月1日発行
入力:藤間清霞
校正:友理
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード