北も南も二階建の大きな家に
遮られてゐるが、それでも隙間を漏れて、細い光が障子の隅にさしてゐる。小春日和にこの谷底のやうな部屋も温かくて、火鉢の
炭火も消えかかつたまゝ忘れられてゐた。山地佐太郎は
中古の
括枕に長く髮の伸びた頭を乘せて仰向けに寢てゐること既に二三時間。目は開いてゐるが、心はとろ/\と眠りかけ、心臟の鼓動ものろい。壁一重隔てゝは、天氣のいゝせゐか豆腐屋の聲、屑屋の聲も晴やかに響いてゐる。車の音や自轉車の
鈴や下駄の音が消えては又起り、追かけ/\絶え間がない。屋根の上には鳥が
喧しく鳴いてゐる。雀の聲も
忙しさうだ。しかし佐太郎の耳には何の刺激をも與へない。妻君は朝から出掛けて、茶の間も
ひつそりしてゐる。
やがて雲が隱したのか、日がもう西へ廻つたのか、障子の光が消えてしまふと、佐太郎は目をこすりながら起きて、火鉢の前に坐り、火を掻まはして、煙草を一本吸うた。吸ひ終ると、茶の間から
炭斗を持つて來て添へ炭をした。そして又煙草を一本吸ひながら、枕の側に散らかつてる新聞を引き寄せて、取り留めもなく目を通したが、頭に殘る文字もない。で、二三本吸殼を灰の中に突き立て、もう煙草にも
厭いたらしく、唾を吐いて、乾いた唇を
嘗めずり、漂へる
煙の中に肥つた膝を抱いてゐた。
ふと表通りに怒鳴る聲が聞える。荒々しい言葉が亂發されてゐる。それが遠のくと、大勢の走る足音が續く。
「今日は馬鹿に
戸外が騷々しい。」と思ひながら、彼れは
肘枕で横になつた。
無念無想で、
今朝から彼れの頭は白紙のやうである。
暫らく戸外の音が消えて、炭のはじける音と懷中時計の音と、彼れの鼻息とが
部屋の空氣を動かしてゐたが、やがて北隣りの二階から蓄音機の音が落ちて來た。日曜毎に三時頃からこれが聞えるので、最初が義太夫の三人上戸、その次は箱根八里の追分節、終りが唱歌。今日も變りはなく、誰れかが縁側で足拍子を取つてる樣子だ。
彼れは寢ながら、頭と指先で拍子を取り、口の内で蓄音機と合唱を試みてゐたが、ガラツと格子戸が開いて、「御免下さい。」と威勢のよい聲がするので、彼れは寢たまゝ頭だけ
持上げて、「
何方です、……お上りなさい。」と云ふ。その聲が顏に似合はず、可愛らしい。
入つて來たのは色の白い美しい青年。佐太郎の
甥の時男である。額の汗を拭ひながら、
「叔父さん、先日お頼みした事はどうなりました。」
「あゝ又忘れた、
明日か
明後日、
屹度間違ひなく聞いて見てやる。」
「困りますねえ、早くあの方が極らにや、私も落付けませんからねえ。」
「まあ安心して居れ、
大抵は成功するよ。」
「あれだつてあまり望ましくもないんですけれど、私ももうどうしても自活しなくちやならんのですからね。」
「はゝゝ自活なんて仰山だね。」と、佐太郎は目尻を下げて笑ふ。
「でも、
假令十圓でも十五圓でも、自分の腕で儲けるとなると愉快ですから、それに私も來年は二十五だから、何時までもブラ/″\して居られませんもの。」と、甥は勢ひ込んで云ふ。
「お前がもう二十五か、早いもんだね、おれは來年が四十一か。」と、甥の顏を見てゐるが、甥は自分が四十一になるまでは、まだ隨分年月があると思つてゐる。
「ぢや御面倒でも
明日の朝是非向うへお出でになつて、私を推薦して下さい。私は一生懸命に職務を忠實にやります、英語なら友人の中ぢや誰れにでも負けやせんのだから、貴下からよくさう云つて置いて下さい。」
「うん、そりや
甘く云ふさ、入り込みさへすりや、後はどうにかなるからな。」
「私は入つたら無責任な事はしないんだから……それに。」
「うん、もう分つたよ。」と、佐太郎はガサ/\する
頤
を撫でながら、甥の力んだ言葉の先を壓へて、
「今日は久し振りに御馳走しようか、叔母さんが歸つたら。」
「えゝ、私はまだ用事があるんだが……神田の友人の下宿へ行つて、本を借りて來なくちやならんだが……それやまあ明日に延していゝ。」と、考へ/\承知して、「今日、叔母さんは何處へ行つたんです。」と問ふ。
「七軒町へ行くと云つて出たんだが、何處を
喋舌り歩いてることか。」
「實は今日天氣がいゝから叔父さんは留守ぢやないかと思つてたんです。でも工場の方は毎日出勤してるんですか。」
「まあ休んだり休まなかつたりさ、しかし今月は出勤勝ちの方だらう。」
と、眞面目で云つたが、甥は叔父の呑氣な口振に呆れ氣味で、その顏を見守つた。そして自分の頼み事に對して多少の不安を感じた。この人の
肝煎りで果して成功するだらうか。成るものまでも成らずに終りやすまいかと疑はれた。
佐太郎は茶の間へ行つて、長火鉢の抽き出しを
索り、銅貨白銅かい交ぜて、二十錢ばかりを持つて來て、
「これで『朝日』を一つと餅菓子か何か買つて來て呉れ、おれがお茶を
拵へて置かう。」と甥に渡した。
甥は命を奉じて駈け出し、「朝日」と竹皮包とを剥き出しに持つて歸つた。二人は無言で茶を
啜り、ムシヤムシヤ餅菓子を食べてゐると、蓄音器の音のした二階から、琴の音が響いて來る。甥はふいと立つて、北側の障子を開けて見上ると欄干に添ふて、白い足袋黒い足袋が四つ五つ
微見える。
「いゝ音だな、私は音樂が一番好きです。」
「おれも好きだよ、此處にゐると、寢ながらいろんな音が聞えるんだから有難いて、オルガンでも琴でも三味でも。それに夜靜かになると、寄席の
囃子まで聞える。」
「さう云へば、此頃鈴本へ初代の綾之助がかゝつてゐますね、この先の酒屋の前に
幟が立つてた。」
「さうか、そいつはちつとも氣が付かなかつた。今夜でも一緒に聞きに行かうか、おれも十二三年前にや
彼奴の尻を追つかけたものだが、彼奴ももう老い込んだらうよ、女の盛りは短いからねえ。」
「でも藝人は得だ、あんなに
喝采されるんだから。男でも職業の撰擇によつて、將來非常な損得がありますからね。」と、甥は眞面目に考へた。
「女房の撰擇でもさうさ、おれなんかも藝人を
嚊にしてりや、まさかの時にや役に立つたのだが。」と、佐太郎は笑ふ。
妻君は
火灯頃に、アタフタと歸つて來た。座敷へ入るや否や、「
貴下大變
揉めてるんですつて、天神町の家が。」と云つて、それから甥を見て、「オヤ。」と云つて、鼻の低い平たい顏に
愛嬌を
湛へた。
「お君さんの離縁の事ですか。」と、甥が先へ口を出した。
「えゝさうなの、お君さんの方だつて、あゝ踏みつけにされて默つちやゐられませんわね。だから
此方から押かけて
うんと油を取つてやらうつて、今日一日七軒町の叔母さんと話してたんですよ。」と、妻君は佐太郎の方へ向いて、「その事で叔母さんもね、貴下に會ひたいと云つてなすつたから、明日歸りにでも七軒町へ寄つて下さいましな。どの道佐太郎さんにでも掛け合つて貰はなくちや仕方がない、外にや女か
老人ばかりで
手寄りになるものはないからつて、叔母さんもさう云つてましたから。」
「まあさう大騷ぎするにも及ばないさ、都合でそりや、おれが話をつけてやつてもいゝがね。」
「私ほんとに
口惜しくつて仕樣がありやしない、
逆捩ぢを喰はせて、グウの音も出ないやうな目に會はせてやりたい。」と、云ひながら、羽織を疊んでゐる。
「ハヽヽヽ。」と、佐太郎は罪もなく笑つて、「時男に御馳走をして呉れ、それから今夜は皆んな一緒に鈴本へ行くことに極つてるんだ。」
「おやさう、有難いわね。」と、妻君はもうお君の事件を忘れたかの如く、寄席の噂に夢中になつた。「鈴本が新規に建て上つてから、まだ一度も行かないんですもの、本當に寄席は久し振りだわ。時さんはよく行くんでせう。」
「えゝ、私は一時よく行つたんですが、仕事が極つたら、もうあんな所へは滅多に行かんことにして、暇があつたら勉強するつもりです。」
「感心だわね。」と、細君は
夕餐の仕度に取り掛つた。
食卓の話は綾之助の噂で持ち切つた。そして食事が終ると、妻君は今疊んだばかりの羽織を着て、佐太郎にも着物を着替へさせながら、「お
錢は。」と小聲で聞いた。
「あゝさうだ、おれは持つてないから、お前の
中から出しとけ。明日は借りて來てやらあ。」と云つて、妻君が長火鉢の引き出しに手をかけるのを見て、「其處も駄目だ/\、もうちやんと引き上げたんだ。」
「おや驚いた。明日前借りするつたつて、貴方あんなに休んでばかりゐて。」
「なあに大丈夫さ。」と苦もなく云つて、眞先に
戸外へ出て、「やあ、よく晴れてるいゝ月だ。」と、詩を
微吟し始めた。
妻君は小さな毛糸の財布を出して、中を二三度改めながら、小首を
傾げ白目を寄せてゐたが、やがて得心したらしく、財布を帶の間へ挾んで、「時さんお待ち遠樣」と、續いて戸外へ出た。
時男はその財布までも不安な氣がしてならなかつたが、妻君はチヨコ/\と先へ立つて急いだ。
「ぢや叔父さん、お頼みしたことは成るべく早く極めて來て下さい、出來なきや出來ないで、外の方法を取りますから。」と、時男は最後に深く釘を打ち込んだが、叔父の返事が如何にも張り合ひがない。