華厳経と法華経

槇村浩




 華厳経と法華経は古来仏教の二大聖典として、併称された。両者は一世紀、家族奴隷の制度が頂点に達していた時代ヒンドスタンで生れ、中央アジアを経て北伝し、本国では半農奴制が爛熟期から崩壊期に向い封建的農奴制を徐々に準備している頃、すでに封建后数世紀を経た中国においては、題号通りの訳題で出版され、ほとんど中国的哲学文学の法典として、国営出版によって寺院の秘庫に流布された。華厳、法華共に、華とは穀物の花であり、これに対して前者は荘厳し、後者は南無し、すなはち前者は、労働する者の社会的生産物としての物質を前面に置き、相互浸透によって自己をかゝる世界像に物神の部分として帰入せしめるものであり、後者は、これに反して物質を自己の世界像の感性に隠顕するところの顕照物として、自己に帰入せしめた物質的宇宙を、自己の内部における未顕性において物神化するものである。
 これは世界の哲学のありふれた二つの型である。それはプラトン対アリストテレスの昔から、現代における唯物弁証法の方法論に至るまで、多かれ少なかれこの思想のラインは、互に対立しよれ合いその各々の、いくらか以上に物神の形象を体系づけることに役立ったのである。

 時代は貴族の圧制と奴隷の反乱の時代である。華厳経においては、安息所を侵略された天子なるゴオタマは、あらゆる天から天え避難するが、最后に「自由天(国)」から急に姿を消して、自由が常に圧制えの帰還を条件づける「蓄積の中有」であったように、こゝから古馴染の祇園の貴族宮殿え引き上げてくる。祇園宮は、僧領の典型的模型たる鹿野苑を統治する、理想の宮廷であった。彼はこゝで新らしい奴隷征伐の計画に着手する。けだし仏教では奴隷たることは煩悩であり無明であり、これを駆逐して主人公の権下に置くことは、一代蔵教の要目であったからである。この策戦会議の部分は特に入法界品と呼ばれ、後世の独立した四十華厳の種本となった。
 帰ってきたゴオタマは、まづ文珠と会見する。文珠は「支配の智恵」を意味し、支配者の蒙塵が起るたびに、新旧の生産関係の仲継者としてうや/\しく昔の主人を抱擁する役目を帯びているのである。そして彼は男性であるにかかわらず、仏母である。砂漠と大洋を寛濶の障壁として持つところの、独尊的なヒンドスタンや中国では、貴族の配偶者は常に多分に男性的である。この男色主義は、生産の中に深く根ざした所の、内攻的な家父長的奴隷制に基き、生産交換の正式の配偶たる貨幣の流通部面の起動力たる独立した商業一般を欠いだため、取引者同士の結婚の中における相互平等の契約が特に強制的になることによる、範疇の独占的互換が行われる。こうした文珠が、東洋的な「永遠の処女」となって、強姦されゝばされるほどいよ/\清らかな愛をもって、男性を牽き導き来ったのである。
 ゴオタマが抽象化され箇別的な存在から姿を消すと同時に、仏陀志願者の善財が文珠に導かれつゝ、求道の旅を開始する。寛濶えの反撥は常に寛濶の要望をもって始まる。南方の海は、生産開展の寛衣を求道者の前にはためかせる。善財の旅の前には、例えばこんな一人の聖者がいる。彼はさとりを開くや否や海の音に耳をすまし、壁のような海面を眺めつゝ日を暮しているが、だが一歩たりとも海え乗り出そうとはしない。彼は文珠と同じく、南え行くように善財に伝える。漕ぎ出ることの出来ぬ海えの探求は、南え向えば向うほど、大圏を描いて出発点に帰ってくることになる。それは東洋の数学における積分の復帰である。
 善財歴訪の途次、百十一の貴族的聖者は彼の路次の系列を形造る。彼等は各の村落共同体が孤絶している如く、孤独である。物質が隔絶した巨大な質団を保つのは、それが全的な社会の臍帯からほとんど離れ切らぬからであることは注意されねばならぬ。これはヒンドスタンの初期仏教の「汎神的唯物論」の意義であった。それはとにかくとして、百十一人の中で代表的女性としてのハスミッタに関する記事は多少興味がある。因にハスミッタとは淫売を意味する。彼女は宏壮な商市の中心に住み、若い訪問者に成仏の秘訣を教示する。
「若有衆生。欲所纒者。来詣我所。為其説法皆悉離欲。得無著境界三昧。若有見我得歓喜三昧。若有衆生。与我語者。得無礙妙音三昧。若有衆生。執我手者。得詣一切仏刹三昧。若有衆生。共我宿者。得解脱光明三昧。若有衆生。目視我者。得寂静諸行三昧。若有衆生。見我頻申者。得壊散外道三昧。若有衆生。観察我者。得一切仏境界光明三昧。若有衆生。阿梨宜我者。得摂一切衆生三昧。若有衆生。阿衆※(「革+婢のつくり」、第4水準2-92-6)我者。得諸功徳密蔵三味」(晋訳六十華厳)注―巻五十
「諸君がなやみを持って僕の所えくれば、直接生産者の要求からぬけ道を見つけるような方策を授けてやるさ。僕を見たら、嬉しくて震え上るだろう。僕と話をしたら、何とも言えぬ財布の音楽がどこからともなく聞えてくるだろう。僕の手をとったら、一切の貴族たちの手をとったと同じ気持になるだろう。僕と同衾したら、からだ中金光りに後光がさし出すだろう。僕と目と目を見交したら、厄介な暴動なんか雲を霞にけしとんでしまうだろう。僕の下陰唇を眺めたら、その瞬間諸君の反逆者は七里けっぱいになっちまうだろう。僕の赤裸々の所をのこるくまなく検見しちまったら、全世界がのこらず金光りに見えてくるだろう。僕の股の間をべろ/\ねぶり廻ったら、諸君の腕っぶしでみんなこそぎこめるようになるだろう。僕と抱きつき三昧やっつけたら、万能の権力を身につける事の出来るようになるだろう。」
 彼女は理想と現実の矛盾を、てもなく近松のように交接の瞬間に片付けてしまう。彼女は老いた社会のひからびた陰唇を押しひろげて、「諸君は、キスしようと思った時、キスしたのだ。(菩提心を起した時菩提を成就する)」と主張する。それは法華経序巻の、「国家とは一切衆生を我と等しきものたらしめんとし、それを遠い昔に完成したことを意味する。」とゆう支配者の宣言の言い直しに過ぎない。
 最后に善財は彌勒を訪ねる。彌勒は永久の次代の王者を意味し、彼の前に未来の国家を展開する。その中には河脈をめぐる共同体の連結による無数の国家群が入り重って、複雑なアジア的生産様式の純粋な型をしめしている。いつでも純粋生産ののぞきからくりを重たげにかついでくる彌勒は、しかし純粋王者のこの青年を内陣え入れてくれない。彼を導くのは仏母文珠の外にはない。アジア的生産の典型的な表現であるこの母なる男性は、普賢すなはち「貴族の常識」に彼を紹介する。普賢は裏切りを繰り返すたびに、自ら万有の推移力と自称する。彼はアジア的な微積分の重複し合った前期封建の宝城の中に、善財を見出させる。
 古い一人称のゴオタマは、彼の親しい二人称である文珠を再発見するや否や、次代の三人称である彌勒を打ち立てる。だが未来をシンテーゼとして片付けてしまうには、アジア的範疇はあまりに並立的範疇に属している。三人称を一人称に還元させるには手持無沙汰すぎる未顕現の剰余生産が、第四人称としての常識を生み出すが、彼は必然的に反撥して、次の未顕現の剰余を善財の形でシンテーゼに纏めてしまう。この第五自我は、言い得べくんば、第四次元の並列範疇の鏡の前に立つと同時に、共同体の合せ鏡の中に重々無尽に自分の姿を見つけ出すことが出来る。こゝには、永久に有限的な無限のシンテーゼを矛盾の中に探し求めるところの、統制生産における理想主義が、宿命的に浮び出ている。剰余生産の未顕現の程度の濃さ、すなはち数重の間接的な社会の搾め木の強さの、数次元的なまでの深刻な表現は、同時にいかに内攻的な人間の人間に対する掠取の甚しかったかを物語っているのである。それは中国華厳宗とは異った教理の中に育っていた。この絶対地代における等差地代の次元系列は、われ/\に、次の著名な数節をもって明確にアジア的地代論の特徴を髣髴せしめるものがある。
「封建領主の権力は、他のすべての主権者と同様に、収納すべき地代の大小にかゝわるものでなく、むしろ臣下の数の大小に懸るものであり、しかしてこの臣下の数はまた自営農民の数の大小に関していたのである。」
 一切の複雑な芸術は、常に簡単な階級的真理の相対的或は対蹠的な形態に帰納される!
一一・二二





底本:「槇村浩全集」平凡堂書店
   1984(昭和59)年1月20日発行
入力:坂本真一
校正:雪森
2015年3月8日作成
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