リズム(詩の)に就いての再考察

櫻間中庸




 永い間「影のリズム」といふ言葉を私は獨り考へて來た。「影のリズム」といふ言葉は私が獨自の私の意圖する童謠の世界に雄飛させようと務めて來たものであつたが今やつとそれの一端にはつきりした認識を得ることが出來たと思ふのである。
 童謠の本體について各人各樣の意見を持つてゐるが、私が現代の童謠の上に更に新しく意圖するものは自由律童謠とでもいはうか、勿論童詩といふものがあつて新に自由律童謠を今更持ちだすことは屋上屋を架すの責言を受けると思ふのであるが。私の提唱するものはそれと僅かに異るものである。
 即ち詩の底を流れるリズム、文字を流れるリズムを排げきするのではないが詩の底を流れるほのかなるリズムを愛すると共に外面的、プログラムミユージツク的なリズムをおさへて底に音樂的リズムをより多く盛るのである。抽象的なことなので了解に困難であるがさてこゝに、適切な作品を持たない殘念さの中に居る。

 兒童文學の新興機運に直面して新に兒童文學の分野に於ける各々の再檢討が問題とせられねばならぬ、童話會がマンネリズム、それはジアナリズムの影響する所の最も大きな童話に於て必然的なものではあるが、さて吾々がこの雰圍氣にどこまで入つて行かうとするか。
 一作毎に自己への再檢討を忘れない今でこそ斯うした聲を張りあげることも得るがさてこれを以て衣食住をあがなふ事になると又問題は別となつて展開してくる。

 兒童の心に叫びかけるものが童謠であり童話であるとき兒童が本來リズムを愛するといふとき、所謂外的リズムを高調する童謠の價値は如何なるものであらうか。
 兒童には概して吾々が思つてゐる程に讀書力のあるものではない、然るに吾人は童謠を與へようとする。
 童話と童謠との兒童に與へるときの價値を考察するとき兒童が本來リズムを受くるからといつて童謠をリズミカルにするのはどうかと思ふのである。
 童謠が民謠と並んで、或ひは殆んど區別なく民衆の間に置かれてゐた時代の餘波を受けた現代の童謠を清算して新に出發すべき時ではないかと思ふのである。童話と童謠とに流れる内的リズムは童心より出づる、即ち同一母胎である。そして吾々が童話と童謠とを區別するものはその形式に於てゞである、故に童謠詩人が――といふより童謠作家が童話を作らうと決して矛盾するものではない。
 童話に表し得ないものを童謠に依つて表現し、童謠に表現し得ざるものを童話に表現するのでは更にない。故に自分は次の如き結論を持ち出すのである。
 童謠は必ずしも外的リズムを尊重する必要はない。と。作曲を目的とするものはリズムを必要とするが、吾々が童謠を通じて兒童に觸れんとするものは何であるかを考慮すればそれで充分判然とするのである。(未定稿)





底本:「日光浴室 櫻間中庸遺稿集」ボン書店
   1936(昭和11)年7月28日発行
入力:Y.S.
校正:富田倫生
2011年9月27日作成
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