騎士と姫
末吉安持
春の弥生の
夜は
仄に
天地ひくゝ
垂れあひて、
情のにほひいちめんに
おぼろおぼろの花ぐもり、
精舎の壁の
地獄絵も
温き
霞を
纏ふらむ。
森の木立の月かげを
避けて、まぶかき
黒鉄の
甲に、なほも
色白の
面凛々しく、
瑠璃青の
瞳きよげに、花ぐさを
わけつゝしのぶ
騎士ひとり。
『たそがれがたの
戦闘に
十騎の敵を殺したれ、
胸にさしたる
紅薔薇
二
輪色濃くちりもせず、
西の
丘なる陣
指すと、
悠に見かへる敵の城。
時しもあれや、矢は一つ、
空鳴りしつつ、ひとばかり、
鎧の袖に触れて落つ。
赤き塗り矢の根のかたに
如何なる人のざれわざぞ、
にくき文こそ結びたれ。
『
貪るものにこの
穢土は
あはれみ給へ、将軍よ、
少女が胸のなさけには
国土、
山河も何ならむ。』
とばかり読むも
短檠の
火かげまばゆくおぼえしか。
まだ我が知らぬ酔ひごこち、
こは夢かとて立ちよれば、
壁に懸けたる我が盾に、
うつれる影は
怨敵の
かなたの王の一の姫
乱れし髪の

たしや。
癡け
果てじと投げぬれば
盾は音して砕けたり。
第二の盾を手にとりて
見ればここにも不思議さよ、
うつれる姫は
浮足に
わが前にしも身を投げて
よゝとばかりに縋り泣く。
『あゝよし、さらば
天地も
有情温みの春の夜の
花のくもりに
溶け去りて
一如無相の海となれ、
愛の
御龕に、姫が
手に、
いまぞ楽しき罪を得む。』
城の
濠なる
切崖も
夢の心地にくゞり来て、
瞳すかせば、木がくれに
さやさやとなる
衣摺や、
姫は
荒磯のこほろぎの
藻によるごとくすがりけり。
花の
木の
間にうぐひすは
夢の世をしも歌ひたり。
蜜の如くにやはらかき
うまし
二人のくちづけよ、
あゝ
怨敵と怨敵は
天と歴史を
無みしつる。
『青史の
帙に
御座する
神もいまさば、などてこの
戦闘あらぬ初めより、
怨恨をむすぶ敵軍に、
かゝるくしびの
力もつ
姫ありとしも
告げざりし。』
『みゆるしたまへ、父の王、
汝がいとし子の
魂の花
咲きくゆりぬる功徳のゆゑ、
明日より
後のたゝかひに
王が
馬蹄は十
国の
土を
隈なく
印しなむ。』
『王よ與へむ、
天が
下、
汝が
利心の
飽くまゝに、
血汐に
餓うる
戈さきを、
十国の城に、
百国の
民の
頭に、柔らかう
口づけさせて、取り
統べよ。』
『国の王者にあらずとも、
かゝる
雄々しき恋人は
真の人ぞ、あゝ今は
われも
真の人の妻。』
二人をめぐるそよ風は
百千の花の香を吹きぬ。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。