夜雲の下

榎南謙一




自動車が動揺すると
細引で縛られたまま
私たちの肩と肩とがごつんとあたる
争議は敗れた
送られる私たちは胸の苦汁をどうすることが出来たろう
「あちらでは吸えないんだぜ」
一本ずつもらった最後の煙草
言いようのない感慨とともに
蒼いけむりを腹の底までのみ
でこぼこだらけの道路を揺られて行った

やがて陽は墜ちたのか
道路にかぶさる青葉がだんだんかげってくる
うなだれている私たちは
そのとき
道路のただならぬざわめきに気づいた
号外の鈴があわただしく鳴りひびき
気色ばんだ人たちがそこここに群れ
何か声高に話し合っていた
「犬養さんが殺されたんだって」
そう教えてくれた男は哀しげな表情をしたが
顔を見合わせた私たちは
思わずきっと眉があがった
一九三二年五月十五日であった

日はとっぷりと昏れて
スピイドを増した自動車は
ますますひどい動揺に喘いだ
車輪の軋りだけは微かにきこえるが
いまはどこを走っているのか
車窓のセルロイドには
泥のようにぬるぬるした闇だけだ
劇しい疲れにうつらうつらとなりながらも
ともすれば私たちは
おびえたように幾度も眼をしばたたいた
恐怖はびっしょりと全身を濡らしてくる
どうなとしやがれと観念きめても
さっきの号外の鈴が耳にこびりつき
しぼんだ心臓は急ぜわしくのたうちつづけている
黒い夜雲は低く垂れさがり
これからしばらくは
つむじ風が荒れるにちがいない

眠っている町角をカーヴすると
自動車は突然スピイドをぐっと緩めた
もう一度肩と肩がごつんとあたり
裂かれねばならぬ私たちは
しょうことなしにほんのすこし微笑み合った
くろぐろと空をのんでしまった
夜雲の下
刑務所の赤い燈が
車窓のセルロイドに点滅するのであった。
――獄中詩篇のうち
(『詩精神』一九三四年十二月号に発表)





底本:「日本プロレタリア文学集・39 プロレタリア詩集(二)」新日本出版社
   1987(昭和62)年6月30日初版
初出:「詩精神」
   1934(昭和9)年12月号
※底本の編者による語注は省略しました。
入力:坂本真一
校正:雪森
2015年12月12日作成
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