蕎麦の花の頃

李孝石




 夏場の市はからきし不景気で、ななツ半時分だと露天みせ日覆ひおいの影もそう長くは延びていない頃だのに、みちは人影もまばらで、熱い陽あしがはすかいに背中をあぶるばかりだった。村のものたちはあらかた帰った後で、ただ売れはぐれの薪売りの組がはずれの路傍にうろうろしているばかりだが、石油の一と瓶か乾魚の二三尾も買えばこと足りるこの手合を目当にいつまでも頑張っている手はなかった。しつこくたかってくるはえ餓鬼がき共もうるさい。いもがおで左利きの、太物の許生員は、とうとう相棒の趙先達に声をかけた。
 ――たたもうじゃねえかよ。
 ――その方が気が利いてるだ。蓬坪の市で思うようにはけたこたあ一度だってありゃしねえ。明日は大和の市じゃで、もりかえしてやるだよ。
 ――今夜は夜通し道中じゃ。
 ――月が出るぜ。
 銭をじゃらじゃら鳴らせ、売上高の勘定を始めるのを見ると、許生員はくい[#「木+戈」、U+233FE、98-下-7]から幅ったい日覆を外し、陳列してあった品物を手繰たぐり寄せた。木綿類の畳物ときぬ類の巻物で、ぎっしり二た行李こうりに詰った。むしろの上には、屑物くずものが雑然と残った。
 市廻りの連中は、おおかたみせをあげていた。逸疾いちはやく出発して行くのもいた。塩魚売りも、冶師やしも、飴屋あめやも、生姜しょうが売りも、姿は見えなかった。明日は珍富と大和に市が立つ。連中はそのどちらかへ、夜を徹し六七里の夜道をてくらなければならなかった。市場は祭りの跡のようにとり散らかされ、酒屋の前では喧嘩がおっ始まっていたりした。酔痴よいしれている男たちの罵声ばせいにまじって、女の啖呵たんかが鋭く裂かれた。市日の騒々しさは、きまって女の啖呵に終るのだった。
 ――生員。俺に黙ってるだが、気持あ解るだよ。……忠州屋さ。
 女の声で、思い出したらしく、趙先達は北叟笑ほくそえみをもらした。
 ――の中のもちさ。役場の連中を、相手じゃ、勝負にならねえ。
 ――そうばかりもゆくめえ。連中が血道を上げてるのも事実だが、ほら仲間のあの童伊さ、うまくやってるらしいで。
 ――なに、あの若僧が。小間物ででも釣っただべえ、頼母たのもしい奴だと思ってただに。
 ――その道ばかりゃあ判んねえ。……思案しねえと、行ってみべえ。俺がおごるだよ。
 すすまないのを、いて行った。許生員は女にはとんと自信がなかった。いもがおをずうずうしくおしてゆくほどの勇気もなかったが、女の方からもてたためしもなく、忙しいいじけた半生だった。忠州屋のことを、思って見ただけで、いい年して子供のようにぽっとなり、足もとが乱れ、てもなくおびえすくんでしまう。忠州屋の門をくぐり酒の座席で本当に童伊に出会わした時にはどうしたはずみでか、かっと逆上のぼせてしまった。飯台の上にあかい童顔を載せ、いっぱし女といちゃついているところを見せつけられたから、我慢がならなかった。しゃらくせえ野郎、そのだらしねえ様は何だ、乳くせえ小僧のくせに、宵の口から酒喰らいやがって、女とじゃれるなあ、みっともねえ、市廻りの恥さらしだ、それでいておいらの仲間だと言えるかよ。いきなり若者の前に立ちふさがると、頭ごなしに呶鳴どなりつけた。大きにお世話だと云わぬばかりに、きょとんと見上げる赤い眼にぶっつかると、どうしても頬打を喰わしてやらずにはおれなかった。童伊はさすがにかっとなって立ち上ったが、許生員は構わず言いたいだけを言ってのけた。――どこの何者だかは知んねえが、貴様にもててはたまるべえ、そのはしたねえ恰好かっこう見せつけられたら何と思うかよ、商売は堅気かたぎに限る、女なんてもっての外だ、失せやがれ。さっさと失せやがれ。
 しかし一言も歯向かわずしおらしく出てゆくのをみると、いじらしくなって来た。まだ顔覚えな仲間にすぎない、まめな若者だったのに、こっぴどすぎたかなあ、と何か身につまされて気にかかった。随分勝手だわ、同じ客同志なのに、若いからって息子同様の相手をとらえて意見したり乱暴したりするほうってないわよ。忠州屋は唇を可愛くひんまげ、酒を盛る手つきも荒々しかったが、若えものにゃあその方が薬になるだよと、その場は趙先達がうまくとりつくろってくれた。お前、あいつに首ったけだな、若えのをしゃぶるなあ罪だぜ。ひとしきり敦圉いきまいた後とて度胆どぎもも坐ってきた上に、なぜかしらへべれけに酔ってみたい気持もあって、許生員は差される盃は大抵拒まなかった。酔が廻るにつれ、しかし女のことよりは若者のことが一途いちずに気になってきた。儂風情わしふぜいが女を横取りしてどうなるというのだ、愚にもつかないはしたなさを、はげしくきめつけるこころも一方にはあった。だからどれほどったか、童伊が息をきらしながら慌てて呼びに来た時には、飲みかけの盃をほうり、われもなくよろめきながら、忠州屋をとび出したのだった。
 ――生員の驢馬ろばが、綱をきってあばれ出したんだ。
 ――餓鬼共のいたずらに違いねえ。
 驢馬もさることながら、童伊の心掛けが胸にしみて来た。すたこらすたこら衢をぬけて走っていると、とろんとした眼が熱くなりそうだった。
 ――伝法な野郎共ときたら、全くしまつにおえねえ。
 ――驢馬をなぶる奴あ、ただではおかねえぞ。
 半生を共にしてきた驢馬だった。一つ宿に寝、同じ月を浴び、市から市をてくり廻っているうち、二十年の歳月がめっきり老をもたらしてしまった。すりきれたくしゃくしゃのたてがみは、主のそそけた髪にも似て来、しょぼしょぼ濡れている眼は、主のそれと同じくいつも目脂めやにをたたえていた。ほうきみたいに短くなった尻尾は、蠅をおっ払うため精一杯振ってももうももには届かなかった。次の道中にそなえるため、すり減ったひづめを削り削り何度新しい鉄をめ換えたか知れない。だがもう蹄は延びなくなり、すり切れた鉄のすきまからは痛々しく血がにじみ出ていた。においで主人が判った。いつも訴えるような仰山ぎょうさんいななき声で迎える。
 よし、よし、と赤児でもあやす気持ちで頸筋くびすじでてやると、驢馬は鼻をびくつかせながら口をもってきた。水っぱなが顔に散った。許生員は馬煩悩ぼんのうだった。よっぽど悪戯がきいたと見え、汗ばんだからだがびくびく痙攣ひきつりなかなか昂奮のおさまらぬ面持だった。馬勒くつわがとれ、くらもどこかへ落ちてしまっている。やい、しょうちのならねえ餓鬼共、と許生員は我鳴がなり立ててもみたが、連中はおおかた散り失せたあとで、数少くとり残されたのが権幕に気圧けおされあたりから遠のいているだけだった。
 ――いたずらじゃねえ。めすを見て、ひとりで暴れ出したんだ。
 はなたれの一人が、不服そうに遠くから呶鳴り返してきた。
 ――なにこきやがる、黙れ。
 ――ちがう、ちがうだよ。あばたの許哥め。金僉知の驢馬が行っちまうと、土を蹴ったり、泡をふいたり、気違いみてえに狂い出したんだ。おいら面白がって見ていただけだい。お腹の下をのぞいてみい。
 小僧はませた口吻で、躍気やっきになってわめきながら、きゃっきゃっ笑い崩れた。許生員は我知らず、忸怩じくじと顔をあからめた。あけすけな無遠慮な部分は、まだ踊り狂っている残忍な視線からかばいかくすように、許生員はその前に立ちはだからねばならなかった。
 ――おいぼれのくせに、いろ気違いだよ、あのけだものめ、
 許生員は、はっとなったが、とうとう我慢がならず、みるみる眉をひきつらすと、むちをふりあげ遮二無二しゃにむに小僧をおっかけた。
 ――追っかけてみるがええ。左利きが殴れるかい。
 韋駄天いだてんに走り去る小僧っ子には、おいつきようもなかった。左利きは全く子供にもかなわない。許生員は破れかぶれに鞭を抛ってしまうより外なかった。酔も手伝ってからだが無性に火照ほてり出した。
 ――ええ加減出発した方がましだよ。奴等を相手じゃきりがねえ。市場の餓鬼共ときたら怖ろしいやつらばかりで、大人よりもませてやがるだでな。
 趙先達と童伊は、めいめいの驢馬に鞍をかけ、荷物を載せはじめていた。陽も大分傾いたようだった。

 太物の行商を始めてから二十年にもなるが、許生員は滅多に蓬坪の市をらしたことはなかった。忠州や堤川あたりの隣郡をうろついたり、遠く嶺南地方にのびたりすることもあるにはあったが、江陵あたりへ仕入れに出掛ける外は、始終一貫郡内を廻り歩いた。五日ごとの市の日には月よりも正確に面から面へ渡って来る。郷里が清州だと、誇らしげに言い言いしてはいたが、そこへおちついたためしはない。面から面への美しい山河が、そのまま彼にはなつこい郷里でもあった。小半日もてくって市場のある村にほぼ近づき、ほっとした驢馬が一と声景気よく嘶く時には――殊にそれが晩方で、村の灯がうす闇の中にちらちらでもする頃合だと、いつものことながら許生員はきまって胸を躍らせた。
 若い時分には、あくせく稼いで一と身代こしらえたこともあったが、邑内に品評会のあった年大尽だいじん遊びをしたり博打ばくちをうったりして、三日三晩ですっからかんになってしまった。驢馬まで売りとばすところだったが、なついて来るいじらしさにそれだけは歯を喰いしばって思い止った。結局元の木阿弥もくあみのまま行商をやり直す外はなかった。驢馬をつれて邑内を逃げ出した時には、お前を売りとばさんでよかった、と道々男泣きに泣きながら、伴侶の背中をたたいたものだった。借金が出来たりすると、もう身代を拵えようなんてことは思いもよらず、いつも一杯一杯で、市から市へ追いやられるばかりだった。
 大尽遊びとはいえ、女一匹ものにしたことはない。そっけないつれなさに、わが身の情なさをしみじみ悟らされるばかりで、このからだじゃ生涯縁がないものと、観念しなければならなかった。近しい身内のものとては、前にも後にも一匹の驢馬があるきりだった。
 それにしても、たった一つの最初の想出おもいでがあった。あとにもさきにもない、一度きりの、しき縁ではあった。蓬坪に通い出して間もない、うら若い時分のことだったが、それを思い出す時ばかりは、彼も、生甲斐を感じた。
 ――月夜だっただが、どうしてそねえなことになったか、今考えてもどだい解りゃしねえ。
 許生員は今宵こよいもまたそれをほぐし出そうとするのである。趙先達は相棒になって以来、耳にたこの出来るほど聞かされている。またか、またかとこぼすけれども、許生員はてんでとりあわずに繰返すだけは繰返した。
 ――月の晩にゃ、そういう話に限るだよ。
 さすがに趙先達の方を振り返ってはみたが、気の毒がってではない、月のよさに、しみじみ感動してであった。
 けてはいたが、十五夜を過ぎたばかりの月は柔和な光をふんだんにふりそそいでいた。大和までは七里の道のりで、二つの峠を越え一つの川をわたり、後は原っぱや山路を通らなければならなかったが、道は丁度長いなだらかな山腹にかかっていた。真夜中をすぎた頃おいらしく、静謐しずけさのさなかで生きもののような月の息づかいが手にとるように聞え、大豆や玉蜀黍とうもろこしの葉っぱが、ひときわ青く透かされた。山腹は一面蕎麦そばの畑で、咲きはじめたばかりの白い花が、塩をふりかけたように月にせた。赤い茎の層が初々しく匂い、驢馬の足どりも軽い。狭いみちは一人のほか通さないので、三人は驢馬に乗り、一列に歩いた。鈴の音が颯爽さっそうと蕎麦畑の方へ流れてゆく。先頭の許生員の話声は、殿しんがりの童伊にはっきりと聞きとれなかったが、彼は彼自身で爽やかな気持に浸ることも出来た。
 ――市のあった、丁度こねえな晩だったが、宿の土間はむさ苦しゅうてなかなか寝つかれも出来ねえ、とうとう夜中に一人でぬけて川へ水を浴びに行っただ。蓬坪は今もその時分も変りはねえがどこもかしこも蕎麦の畑で、川べりは一面の白い花さ。川原の上で結構かっただに、月が明るすぎるだで着物を脱ぎに水車小屋へ這入はいったさ。ふしぎなこともあればあるものじゃが、そこで図らずも成書房の娘に出会しただよ。村いっとうの縹緻きりょうよしで、評判の娘だっただ。
 ――運てやつだべ。
 そうには違いねえ、と相槌あいづちに応じながら、話の先を惜しむかのように、しばらく煙管きせるを吸い続けた。紫の煙が香ばしく夜気に溶け込んだ。
 ――儂を待ってたわけじゃねえが、外に待つ人があったわけでもねえ。娘は泣いてるだよ。うすうす気はついていただが、成書房はその時分くらしがえろうてほどほど弱ってるらしかっただ。一家のことだで娘にだって屈託のねえはずはねえ。ええとこがあればお嫁にもゆかすのだが、お嫁はてんでいやだときてる、……だが泣いてる女って格別きれいなものじゃ。はじめは驚きもした風だったが、滅入っている時にゃ気持もほぐれ易いもので、じき知合のように話し合っただ。……たのしいこわえ夜じゃった。
 ――堤川とかへずらかったなあ。あくる日だっただな。
 ――次の市日に行った時にゃ、もう一家はどろんをめていなくなっただよ。まちは大変なうわさで、きっと酒屋へ売られるにきまってると、娘は皆から惜しまれてただ。幾度も堤川の市場をうろついてはみただが、女の姿はさらに見当らねえ、縁の結ばれた夜が、縁の切れ目だっただ。それからというもの蓬坪が好きんなって、半生の間通い続けさ。一生忘れっこはねえ。
 ――果報者だよ。そねえにうめえ話って、ざらにあるものじゃねえ。大抵つまらねえ女と否応なし一緒んなって、餓鬼共ふやして、考えただけでうんざりする。……だがいつまでも市廻りでくらすのもえろうてな、俺あこの秋までで一ずきりあげ、どこかへ落着こうかと思うだよ。家のもの共呼び寄せ、小さな店をもつだ。道中はもうこりごりだでな。
 ――昔の女でも見付け出しゃ、一緒にもなろうが。……儂あ、へたばるまで、この道てくってこの月眺めるだよ。
 山腹を過ぎ、道もひらけて来たので、殿しんがりの童伊も前へ寄って出た。驢馬は横に一列をつくった。
 ――お前も若えじゃで、うまうやりおるべえ。忠州屋ではついのぼせてあねえなしまつになっただが、悪う思わんどくれよ。
 ――ど、どうして、かえって有りがてえと思っとるくらいだ。女なんて柄にもねえ、おふくろのことで今一杯なんだ。
 許生員の物語でつい考え込んでいた矢先だったので、童伊の口調はいつになく沈んでいた。
 ――てては、と云われて、胸を裂かれる思いだったが、俺にはそのてておやがねえんだよ。身内のものとては、おふくろ一人っきりだ。
 ――亡くなっただか。
 ――始めからねえんだ。
 ――そねえな莫迦ばかな。
 二人の聴手ききてがからからと仰山に笑うと、童伊はくそ真面目に抗弁しなければならなかった。
 ――恥かしゅうて云うめえと思ったが、本当なんだ。堤川の田舎で月足らずのててなし児を産みおとすと、おふくろは家を追い出されてしまったんだ、妙な話だが、だから今までてておやの顔を見たこともなければ、居処さえも知らずにいる。
 峠の麓へさしかかったので、三人は驢馬を下りた。峠はけわしく、口を開くのも臆劫おっくうで、話も途切れた。驢馬はすべりがちで、許生員はあえぎ喘ぎ幾度も脚をめなければならなかった。そこを越える毎に、はっきりとおいが感じられた。童伊のような若者が無性に羨しかった。汗が背中をべっとり濡らした。
 峠を越すとすぐ川だったが、夏の大水で流失ながされた板橋の跡がまだそのままになっているので、裸で渉らなければならなかった。下衣こいを脱ぐと帯で背中にくくりつけ、半裸の妙な風体で水の中に跳び込んだ。汗を流したやさきではあったが、夜の水は骨を刺した。
 ――で全体、誰に育てて貰ったんだよ。
 ――おふくろは仕方なく義父のところへやられて、酒屋を始めたんだ。のんだくれで、ええ義父ではなかった。ものごころがついてからというもの、俺は殴られ通しだった。おふくろも飛ばっちりを喰って、蹴られたり、きられたり、半殺しにされたり、さ。十八の時家をとび出してからというもの、ずっとこの稼業の仲間入りだよ。
 ――道理でしっかりしてるたあ思っただが、聞いてみりゃ気の毒な身の上じゃな。
 流れは深く、腰のところまでつかった。底流も案外に強く、足裏にふれる石ころはすべすべして、今にもさらわれそうだった。驢馬や趙先達は早くも中流を渡りきり岸に近づいていたが、童伊は危っかしい許生員をいたわりがちで、ついおくれなければならなかった。
 ――おふくろの里は、もとから堤川だったべえか。
 ――それが違うだよ。何もかもはっきり言ってくれねえから判んねえが、蓬坪とだけは聞いている。
 ――蓬坪。で、その生みのてておやは、何ていう苗字だよ。
 ――不覚にも、聞いておらねえ。
 そ、そうか、とそそかしくつぶやきながら眼をしょぼしょぼさせているうち、許生員は粗忽そこつにも足を滑らしてしまった。前につんのめったと思う間に、体ごとさらわれてしまった。※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがくだけ無駄で、童伊がいけねえっと近よってきた時には、早くも数間流されていた。着物ごとぬれると、犬ころよりもみじめだった。童伊は水の中で易々やすやすと大人をおぶることが出来た。びしょ濡れとはいえ、せぎすの体は背中に軽かった。
 ――こねえにまでして貰ってすまねえ。儂今日はどうかしてるだよ。
 ――なに、しっかりなせえ。大丈夫だい。
 ――で、おふくろというなあ、父を探してはおらねえかよ、
 ――生涯一度会いたいとは云ってるだが。
 ――いま何処にいる。
 ――義父とももう別れて、堤川にいるんだが、秋までに蓬坪へ連れてきてやろうと思うんだ。なに、まめに働けば何とかやってける。
 ――殊勝な心掛けだ。秋までにね。
 童伊のたのもしい背中を、骨にしみて温く感じた。川を渡りきった時にはものさびしく、もっとおぶって貰いたい気もした。
 ――いちんちどじばかり踏んで、どうしただよ。生員。
 趙先達はとうとう笑いこけてしまった。
 ――なに、驢馬さ。あいつのこと考えてるうち、うっかり足をすべらしちゃっただ。話さなかっただが、あいつあれでも仔馬こうま産ませやがってな。邑内の江陵屋んとこの雌馬にさ。いつも耳きょとんとそばだて、すたこらすたこら駈け歩いて、可愛い奴だ。儂あそいつ見たさに、わざわざ邑内へ廻ることがあるだよ。
 ――なるほど大した仔馬だ。人間を溺れさすほどの代物なら。
 許生員はいい加減しぼって着始めた。歯ががたがた鳴り、胸が震え、無性に寒かったが、心は何となくうきうきとうわつき、軽かった。
 ――宿のあるところまで急ぐだ、庭に焚火たきびして、一服しながらあたるだよ。驢馬にゃ熱いまぐさをたらふく喰わしてやる。明日の大和の市がすんだら、堤川行きだでな。
 ――生員も堤川へ。
 ――久方振りで行きとうなった。お伴すべえよ、童伊。
 驢馬が歩き出すと、童伊の鞭は左手にあった。長い間迂闊であった許生員も、今度ばかりは童伊の左利きを見落すわけにはゆかなかった。
 足なみも軽く、鈴がひときわ爽かに鳴り響いた。
 月が傾いていた。





底本:「〈外地〉の日本語文学選3 朝鮮」新宿書房
   1996(平成8)年3月31日第1刷発行
底本の親本:「文学案内」
   1937(昭和12)年2月号
初出:「文学案内」
   1937(昭和12)年2月号
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:坂本真一
校正:hitsuji
2020年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「木+戈」、U+233FE    98-下-7


●図書カード