哲學的學科のうちで心理學は一風變っていて、近頃では殆んど自然科學の一分科だと考えられるようになっている。今から八十年程前にクロード・ベルナァル(Claude Bernard)はその『實驗醫學序説』(三浦岱榮譯、昭和二十三年、創元社)で醫學界に哲學的偏見が支配し、實驗的精神が足りないことを強調したのであるが、かれがそこで述べていることはそのまま現今の心理學界に當てはまるように思われる。心理學を研究しようとする人は先ずこの本を讀むとよいであろう。そこでは研究者は觀察や實驗によって事實を明らかにし、かかる事實を説明すべき假説を立てて、それを實驗で檢證すべきことが述べられている。それは何も事新らしいことではないけれども、精神科學の領域ではえてこの、事實による檢證ということが忘れられ勝ちなのである。成る程精神科學では實驗による檢證ができない場合が屡々起る。併し檢證は實驗だけによって行われるものとは限らない。或る事柄が多分こういう理由で起ったのではあるまいかと考えたら、それと同種類の事柄について、果して同じような理由で同じようなことが起っていわしまいかと探索して見るのも一種の檢證である。それは統計的事實でもよいし、或は唯一回だけの事實でも典型として認められるような事柄であればよいのであって、自分の考えを兎に角事實によって試めして見るということが科學的思考にとってはどうしても缺くことのできない條件であるということを忘れてはならないのである。
精神現象、特に意識現象は唯一回限り、而も或る一定の個人によって經驗されるだけで、ほんとうのことはその個人以外の他の人には傳達することができない。だからそういう經驗はどうにかして物理的な言語に飜譯することができなければ科學の對象とはならないという説をなす人々がある。こういう説は特にウィーン學園のシュリック(M. Schlick)やカルナップ(R. Carnap)によって唱えられたのであって(カルナップは今シカゴにいる)、これらの問題は近頃出た中村克己『心理學の論理』
[#「『心理學の論理』」は底本では「『心理學の論理學』」](昭和二十三年、白揚社)に精しく述べられている。氏はこういう考えに答えて、他人の意識も他人の外的行動と同じように觀察者によって直觀的に把握されるというケーラァ(W. K
hler)やドゥンカァ(K. Duncker)の考えに荷擔している。ところがカルナップによればそういう意識でも結局は科學的知識の資料となる客觀性、換言すれば公共性(publicity)がないと主張されるのである。併しよく考えて見れば、公共性のあるといわれる自然科學の資料的知識も結局は個人の意識に反映する事實ではないであろうか。水中に差込まれた棒が曲って見えるのも、引上げられた同じ棒が眞直ぐに見えるのも、共に個人の意識にとっては眞實である。それを一方が誤りで他方が眞だというのは、もつと廣い(必ずしも手でさわって見るということだけではない)知識との關係に於ていわれるのである。一般に、科學的知識は知覺の明證性と知識體系の無矛盾性との上に成立する。だから個々の觀察が誤っていても、或は報告不能であってもそれは別段問題にはならないはずである。そういう意味で自然科學の對象も、心理學の對象も、共に主觀的な個人の意識を出發點としながら、而も個人の意識を超えた客觀性を獲得するということができるのである。
のみならず、心理學の對象は實は單なる意識ではない。意識は凡ゆる知識の出發點であって、自然科學も心理學も共にそれを基礎資料として、その上に構成される構造物に他ならないのである。心理學は如何なる場合に人間は如何なる行動をするかということを明らかにしようとする。身體的行動の學は生理學であり、精神的行動といわれるものの學が心理學である。兩者を合して廣い意味での生物學に包括することができるであろう。こういう點に關しては私の論文「心理學の在り方」(心理第一輯、昭和二十二年、日本科學社)を參照されたい。
丁度この同じ雜誌に東北大學の正木正「人間知について――實存的人間の心理學への道」という論文が出ている。これは科學的心理學が取扱う平均的人間(?)の理解ではなく、個別的獨創的人間の眞實性を、體驗の深さの次元に於て共感するという人間學的心理學なるものへのあこがれを描いたもので、素人が心理學に對して抱いている註文を藝術的表現を用いて代辯しているようなものである。この問題は本書でも他の人が精しく取扱うだろうと思うが、結局例のウィンデルバント・リッケルト(Windelband-Rickert)流の個性記述學や、ディルタイ・ハイデガァ(Dilthey-Heidegger)流の解釋學(了解心理學)の問題になるのだと思う。併しこういう歴史的現實の把握は全く恣意的な直觀に訴えるわけにはいかないから、そこに類型的了解ということが必要になって來る。ところが歴史的類型の設定は歴史的事實に關する丹念な研究の結果見出さるべきものであって、ディルタイなどの仕事はそういう歴史研究の收穫である。これに反してこういう類型をアプリオリに導き出すというシュプランガァ(E. Spranger)等の類型は例の六つの「生活形式」のようなたわいのないものとならざるをえない。だれも科學、經濟、藝術、社會、政治、宗教の六類型が先驗的に與えられると眞面目に考える人はないであろう。ヤスペルス(K. Jaspers)の『世界觀の心理學』では多くの思想家の思想類型が取扱われているが、それが具體的な作品から歸納されたと思われるところには我々の同感を引く點もあるけれども、上からの規定と見える部分は隨分勝手なものだという印象を禁ずることができない。
自然科學は多くの事件の本質的條件を分析して、それを法則の形に定式化し、かかる法則に關する體系的知識によって未知の事件を豫言するものである。歴史科學は多くの事件の本質的條件を分析して、その類型を定め、かかる類型に關する體系的知識によって未知の事件の構造を理解しようとする。通例法則と類型とは違うものと考えられているが、自然法則にしても決して單なる事件の反復のうちに讀みとられるものではなく、その發見には條件に對する本質的洞察が必要である。だから法則は類型の一種に過ぎないのであって、何れも丹念な方法的探究の結果獲得されるものなのである。そうして一旦そういう法則なり類型なりが獲得されれば、今度は未知の事件をそれらに關係付けることによって、その事件は説明されるといい、了解されるというのである。説明と了解とは並列的な二つの概念ではなく、一つの事實の表と裏とを表わす、相關的なものと考えなければならない。だから説明心理學でない了解心理學などということはナンセンスであるというべきであろう。
本質的直觀などというと何か偉らそうに聞こえるけれども、若しそれが方法的知識を背景としないものならば、どんなに強辯しても單なる一家言に過ぎないであろう。世の中には自分だけが人生の惱みを知っているとでもいわないばかりに深刻な顏をしている人がある。ところがそんな人を見ると胸糞が惡くなるような人も澤山いるのである。どっちが本物だかは唯實踐によって決めるのほかはない。どっちの人が自分の身内をより多く樂しくするか、公共の利益を促進するか、そういうことから人間のほんとうの價うちが決められるであろう。或はそういう思想に藝術的表現を與えることも一種の實踐ということができる。ところが深刻一點張りでは恐らくほんとうの藝術品にもならないのではあるまいか。
一家言の表現は學問ではない。だから人生批評や文藝批評、藝術批評等には二つの種類が區別せられる。一つは對象をその類型に當てはめて理解しようとする學問的批評で、も一つは對象に對する主觀的意見を述べる印象批評である。印象批評はそれ自身一つの創作であるから、それは一種の藝術であって學問ではないと云わなければならない。ここではどちらが價値が高いかを決めようとするのではない。又現實の批評が兩者の混合である場合もあるということを否定しようとするのでもない。唯批評のうちには學問のうちに數えることのできないものがあることを指摘しようと思うだけである。これと同樣に人生觀や藝術作品中に心理的考察を含むものが勿論澤山あるが、それらも亦創作であって心理學ではないことを忘れてはならない。所謂心理小説なるものがどんなものであるかについては、例えば生島遼一『心理と方法』(昭和二十三年、白日書院)
[#「(昭和二十三年、白日書院)」は底本では「(昭和二十三年(白日書院)」]中「フランス心理小説」という論文などが參照されるべきであろう。
これに關聯して心理學と他の文化科學との關係を考えておこう。例えば社會心理學と社會學、教育心理學と教育學とはどうちがうかというようなことである。文化は精神の所産であるが、それが一旦生産されると今度は精神の活動から離れた獨自の生命を獲得する。つまりそれ自身の客觀的法則に從って生長して行くのである。貨幣は人が作ったものに違いないが、その働きは主觀的な希望などには頓着することなしに、經濟的法則に從うものであろう。法律も、社會も、言語も、學問も、藝術も、宗教も、みんなこれと異なるところはない。だから例えば社會學はそういう客觀的な社會法則の學問である。これに對して社會心理學は客觀的な社會に個人が働きかける場合の法則、或はそれが個人によって受け入れられる場合の法則、即ち心理法則を取扱う學問なのである。そこでこういう文化科學は原則的には心理學とは別の學問であることがわかる。從ってまた心理學はヴント(W. Wundt)やディルタイのいうように文化科學の基礎學ではない。併し實際上兩者は密接な關係にあることもまた否定するわけにいかないであろう。事實タルド(G. Tarde)の社會學には心理的要因が重要な役割を演じている。多くの宗教心理學書の如きは今のところその大部分が宗教社會學ではないかという觀がある。これは現在これらの學問がまだ充分發達していない段階では已むをえないことでもあり、また或る意味ではお互に助け合うという長所があるといえるかも知れない。ただ時々心理學者として經驗することであるが、文化科學の研究者から「これは心理學の方からはどう説明するだろうか」というような質問をうけることがあるけれども、こういう考え方は困ると思う。文化現象は文化科學の法則から説明すべきであり、それを説明すべきレディメイドの心理法則というようなものがある筈はない。尤も二つの科學の研究資料は素材としては同じである場合が少くないのであるから、兩者の間に深い關係のあることはいうまでもないが、その資料を一つの科學に特有の視點から、他の資料との聯關に於て長い間研究する結果、そこに初めて説明の基礎となるような知識體系が構成されるのである。だから説明の基礎となる知識體系は學問が違えばおのずから異ならざるをえないわけである。從來の日本人の教養では心理學者は文化科學上の事實を知らず、文化科學者は心理學上の事實を知らなかったのであるが、これからはお互に助け合うことのできるような廣い教養がほしいものだと思う。
一方教育學と教育心理學との關係の如きも我々に對して新しい問題を投げかけるものである。教育學は社會學や心理學等の知識を基礎として、被教育者を一定の理想に導く技術的知識を獲得しようとするものである。だから教育心理學もかかる技術的知識に寄與する限りに於ける心理的事實をその對象とするのである。一般心理學と教育心理學との關係は丁度生理學と臨床醫學との關係と同じであるということができる。そして臨床醫學が生理學の單なる應用ではないのと同樣に、教育心理學の研究も專ら上の目的達成に向って集注されなければならず、從ってその法則も具體的な教育場面から獨自の立場で見出されなければならない。ここでもレディメイドな一般心理學の法則というようなものに期待することはできないのである。この關係はあらゆる應用學といわれるものに共通するところであって、或る意味では應用學という言葉は不適當だともいえるであろう。私はむしろ技術學という言葉を使いたいと思う。建築學は物理學の應用ではない。それは現代人が住み易い建物を造るために必要なあらゆる知識をその目的のために構成して行く技術學である。これと同じように教育學、從って教育心理學も、現代人として理想的な人間を作るという直接的な目標をはっきりと意識していなければならないと思う。この意味でソクラテスやプラトンの哲學はポリス的教養人を作るための産婆術であり、教育技術學であったということができるであろう。だからこういう哲學の好きな人は教育學者になるよい適性を備えた人ということができるかも知れない。然るにそういう人達が、數千年前の現代に醒めていたソクラテスやプラトンに私淑しながら、而も自分達の現代には醒めず、いつまでもポリス的な教養にあこがれているのは不思議なことではないであろうか。現代教育學は教育心理學なしにはその目的を達することができないのである。
哲學は廣い地盤の上に打ち立てられなければならない。心理學もその地盤に一役買うものということができる。その例として私はカッシラァ(E. Cassirer)の『象徴形式の哲學』(拙譯カッシラァ『言語』『神話』『認識』昭和十六年、培風館)を擧げたいと思う。この本は人間の思想形態が言語や、神話や、認識に於て、どういう特徴を以て現われるかを明らかにしたもので、それによって知識哲學の體系を樹立しようとしたものである。そこでは心理學的知見が實に巧みに利用されている。文化科學の領域に對しても心理學的知識は重要な資料を提供する。その例としてはウェルフリン(H. W
lfflin)の『古典藝術』(拙譯『イタリア古典期美術、樣式論』昭和四年、岩波書店)のようなものが適當であろう。この本はルネッサンス時代の物の見方の變遷から、藝術樣式の變遷を理解しようとしたものである、ウェルフリンの立場は狹いといわれるが、かれに反對するウィーン學派のリーグルやドゥヴォルジャックでも、異なる藝術意欲の變遷を論ずるところに心理的要因の重要性を認めているといえるであろう。
心理學の歴史はアリストテレスに始まるといわれる。かれの心理學の根本的立場は生物學的なものであった。それがイギリスの觀念論の影響で十九世紀には意識の學であるという考えが盛んになり、又機械論的生理主義の色彩が著しくなった。現代では意識主義は克服され、所謂行動主義(廣義の)をとる學者が多い。生理主義は衰えないが、一方には生物學的態度が再度勃興して來て、それと同時に機械論が全體論(Holism)にその位置を讓るようになったといえよう。この間の消息は拙著『意志心理學史』(昭和十七年、培風館)に精しく述べておいた。この本は精神活動論を中心として述べられた心理學史である。實驗心理學の歴史はボーリングの『實驗心理學史』(E. G. Boring, A history of experimental psychology, 1929
[#「1929」は底本では「1829」])がよい。日本語では拙著『思考心理學史』(昭和二十三年、培風館)が聯合、記憶、思考の問題について、實驗的研究の史的發展の迹を明らかにしたつもりである。
現代心理學の傾向中特に問題となるのはゲシタルト心理學の主張と、操作主義心理學に關する議論であろう。前者については佐久間鼎『ゲシタルト心理學の立場』(昭和十八年、内田老鶴圃)、ケーラァ『ゲシタルト心理學』(同譯、昭和五年、内田老鶴圃)、K. Koffka, The principles of gestalt psychology, 1935 がよい參考書である。ゲシタルト心理學というのは原子的機械觀に反對して、心理過程の全體性、力動性、有機性を強調する立場である。この立場にある心理學者のうちレヴィン(K. Lewin)という人はかかる過程をトポロヂイ解析で數式化して表現しようとし『トポロギー心理學の原理』(外林・松村譯、生活社)という本を出した。これがセンセイションを捲き起したが、どうもそれほど問題にする思想ではないように思われる。近頃イヴァン・ロンドン(I. D. London, Psychological Review, 1944)という人がそれを完膚なきまでにやっつけた。ロンドンはレヴィンの力の概念も、場の概念も、
B=f(P, E)という式も、現代物理學から見れば兒戲に類するものであり、そのトポロギーも數學でいうトポロギーとは凡そ似つかぬもの而もそれに方向を附け加えてホドロギーなどというものを作ることは數學上不可能だという。かれのいうところは至極尤もであるが、ただかれは心理學がまだガリレイ以前にあるということを忘れているもののようである。
操作主義というのは物理學者ブリッヂマン(P. W. Bridgman)がその『現代物理學の論理』(今田・石橋譯、昭和十六年、創元社)に於てすべて科學的概念は物理的乃至心理的操作によって規定されるものでなければならぬと説いたのに始まり、その後これが心理學に移入されて盛んに論議されたもので、これについては拙著「操作主義批判」(心理學研究、十八、昭和十八年)及び中村克己「心理學に於けるオペレーショニズムの諸問題」(心理學研究、十九、昭和二十三年)を參照されたい。又最近米、佛、獨の心理學界の消息は夫々南、宮城、上武三氏によって、心理學研究の同じ卷に述べられている。
扨て心理學を學ぶには先ず概論が大切であるが、それも事實を主としたものが望ましい。その意味に於て推奬したいのは今田惠『心理學』(昭和十四年、育芳社)及び小野島右左雄『最近心理概説』(上下、昭和八年、中文館)である。英書では C. Murchison, Handbook of general experimental psychology, 1934; R. S. Woodworth, Experimental psychology, 1939. を擧ぐべきであろう。佛書は G. Dumas の Nouveau trait
de psychologie, 8 tomes, 1930―1941. 獨書は J. Fr
bes, Lehrbuch der experimentellen Psychologie, 2 Bde, 1923. 但しこれらは何れも少し古い。古くても面白くためになるのはヂェイムズの『心理學』今田譯、大正十五年、岩波書店)である。心理學研究法にはいい本がなく、増田惟茂『心理學研究法』(昭和九年、岩波書店)ぐらいのものであろう、英書なら澤山あるが、先ず J. P. Guilford, Fundamental statistics in psychology and education, 2nd ed, 1942. が推奬さるべきであろう。
知覺心理學では佐久間鼎『空間行動と知覺の發展』(昭和十二年、内田老鶴圃)
[#「(昭和十二年、内田老鶴圃)」は底本では「(昭和十二年内田老鶴圃)」]、同氏『運動の知覺』(昭和八年、内田老鶴圃)、W. Metzger, Gesetze des Sehens, 1936. 等。感情心理學は歴史的なものとして H. M. Gardiner et al.
[#「al.」は底本では「alt.」], Feeling and emotion, 1937. 實驗的なものとして C. A. Ruckmick, The psychology of feeling and emotion, 1936. 意志心理學は上述の拙著『意志心理學史』、
[#「『意志心理學史』、」は底本では「『意志心理學史』」]思考心理學は拙著『思考心理學、一、概念と意味』(昭和二十三年、培風館)、『思考心理學、二、關係と推理』(印刷中)。
個體學を紹介したものとしては正木正、依田新共著『性格心理學』(昭和二十二年、東亞出版社)高良武久『性格學』(昭和十六年、七版、三省堂)
[#「(昭和十六年、七版、三省堂)」は底本では「(昭和十六年七版、三省堂)」]。環境學では適當なものがないが、山下俊郎『教育的環境學』
[#「『教育的環境學』」は底本では「『教育環境學』」](昭和十三年、岩波書店)は特に教育環境を主題としているけれども、そこから環境一般の概念を學ぶことができる好著だと思う。
發達學としては山下俊郎『幼兒心理學』(昭和十三年、巖松堂)がやさしく書いてある。もっと一般的なものとしては武政太郎『發達心理學要論』(昭和十四年、培風館)がよい。青年については青木誠四郎『青年心理學』(昭和二十一年、青樹書店
[#「青樹書店」は底本では「青木書店」])、これは概説。牛島義友『青年の心理』(昭和二十二年、巖松堂)、これは女學生に關する著者自身の研究を基體として書かれている。飜譯書としては波多野完治『兒童心理學』(昭和二十二年、同文館)、これはピアジェの臨床法を用いた有名な研究の紹介で、頗る面白い。コフカ『發達心理學入門』(平野、八田共譯、昭和二十二年、前田出版社)、これはゲシタルト心理學の立場から書かれたもの。ウェルナァ『精神の發達』(矢田部譯、昭和十八年、培風館)、これは兒童、動物、精神病者に關する知見を基礎として、廣く精神發達一般を概觀したもので、大變ためになると思う。
動物心理學としてはワァデン『生物心理學概論』『生物心理學各論』(小野・丘共譯、昭和十一年及び十五年、三省堂)が一般的であり、拙著『動物の思考』(昭和二十年、盈科舍)は特に動物の高等精神作用を取扱つている。ケーレル『類人猿の智慧試驗』(宮譯、昭和十三年、岩波書店)
[#「(宮譯、昭和十三年、岩波書店)」は底本では「(宮譯昭和十三年、岩波書店)」]は動物の洞察的動作を取扱つた古典的業績である。
教育心理學は武政太郎『教育心理學要論』(昭和十一年、培風館)及び近頃文部省から出た『教育心理』(上下)などがよい。知能檢査中個人檢査は田中寛一『田中びねー式知能査定法』(昭和二十二年、世界社)、その他の檢査法は桐原葆見『精神測定』(昭和十九年、三省堂)が推奬さるべきであり、上述ギルフォードの本も亦よい。特に性格檢査については大西憲明「性格及びその診斷について」(雜誌「心理」に連載)がよい參考になるであろう。
その他の領域についてよいものを二三擧げると、桐原葆見『産業心理學』(昭和十六年、千倉書房)、吉益脩夫『犯罪心理學』(昭和二十三年、東洋書館)、植松正『裁判心理學の諸相』(昭和二十二年、世界社)
[#「(昭和二十二年、世界社)」は底本では「(昭和二十二年世界社)」]、古野清人『宗教心理學説』(昭和二十三年、養徳社)、今田惠『宗教心理學』(昭和二十二年、文川堂)、大場千秋『民族心理學』(昭和十六年、弘文堂)。それから河出書房の「現代心理學」という叢書は論文集の形式をとっているが、今までに教育心理學二卷、産業心理學二卷、社會心理學、民族心理學、性格心理學、法律政治の心理學が出ていて參考になる。なお近く東大の高木教授と筆者との監修で、創元社から精しい心理學概説が十二冊の叢書として出ることになっている。雜誌は心理學會の機關誌『心理學研究』が今年十九卷第二號から復刊され、又京都大學から『心理』が出るようになった。兒童心理については東京文理大から出ている同名の雜誌がよい。心理學辭典にはよいものがないが、併し岩波哲學小辭典が幾分役に立つ。英書では H. Warren, Dictionary of Psychology, 1933. が便利である。
最後のところは本書の規約に反して書名の列擧になったが、心理學は事實を學ぶことが第一であるから、上述のもののうち手に入るものがあったら、樂な氣持で出來るだけ多讀することをお薦めしたいと思う。そうして哲學研究にも心理學から學んだ實證的精神を出來るだけ活かしてほしいという希望を以てこの稿を終ることとする。