三浦環のプロフィール

吉本明光




 三月十日の空襲で東京の一半は焼野原になってしまった。銀座も半分なくなってしまった。東京の市民は荒涼たる焦土と、戦争に対する絶望感から意気阻喪してしまった。打ちひしがれた市民を慰め、惨めな生活にほんの僅かな潤いを与えるのは音楽以外にない[#「ない」は底本では「なり」]。音楽の配給をしていた日本芸能社ではず街頭演奏を計画して、戦災の余燼よじんくすぶる三月十四日から新宿駅と上野駅の広場で、下八川圭祐、淡谷のり子、笠置シズ子さんを始め、音楽家を動員して街頭演奏をやったところ、予想以上に市民から悦ばれた。そこで次になすべきことは日比谷公会堂で音楽大会を開催することである。その大会に出演を依頼するために、富士山麓の山中湖畔の疎開先きに三浦環さんを訪問したのは五月二十二日だった。バスを降りてから一里の道を雨に濡れて三浦さんの家に辿り着いたのは、黄昏時たそがれどきの七時頃、がらっと障子戸を開けると土間、あがりばたの部屋には囲炉裡があって、自在かぎにかけたお鍋の蓋をとって煮物のお塩梅をしていた、やせたお婆さんが、おやっといった目付きで訪問客を見た。「三浦先生おいでですか」「えッ!」僕はまさか、このやせたお婆さんが三浦環さんだとは考えもつかなかった。戦争のために栄養物がなくなり、日本人はみんなやせた。肥っているのは軍官と結託して闇物資をあさっている闇肥りの連中だけだったが、それにしても、あのでっぷり肥って、色艶がよくて、せいぜい四十そこそこにしか見えなかった、若々しい、三浦環さんが、僅か一年ほど逢わないうちにこんなにやせて、こんなに一度に年をとって、お婆さんになろうとは夢にも考えられなかった。
 囲炉裡の火で濡れた洋服を乾かす間もなく、山中湖の鮒だの、山濁活だの、富士新種というねっとりした馬鈴薯だの、戦争前でも珍らしい御馳走が次から次へと出された。三浦環さんは昔から見栄を飾らない。虚栄などというものは薬にしたくもない。いつでも素ッ裸になって、生地ありのままで応対する。演奏会とか、お弟子さんを楽壇に紹介するための公式のリセプションを除き、麹町の自宅を訪問して、時分時になると「お茶漬けを一杯召上がれ」といっては、有合わせのもので、御馳走する。見栄も張らなければ虚飾もない、ただ真心で温たかくもてなして下さった。
 その夜、囲炉裡を囲こみながらの、文字通りの炉辺歓談は、この春八十八歳で他界されたお母さんのことから始った。今年の寒中は近年稀な寒さで、山中の夜中の温度は零下二十六度にもなった。その寒夜に、夜中に三度も起きてユタンポを取替えてあげたこと、ユタンポのお湯が煮立つ間に、シューベルトの名作「美しき水車小屋の乙女」の訳詞をしてそれを暗記したこと、そしてお母さんの病気からお葬式までの憶い出を綴った「わが母」という手記を朗読して聴かせた。人一倍孝行だった三浦さんの真情が吐露した、情にあふれた文章を、あの若々しく美しい声で朗読したのは非常に印象的だった。プッチーニに招かれてトレ湖畔の山荘に一夜を過ごした思い出話、ジリーのピアニッシモの美しさにうっとりとして、あの「お蝶夫人」第一幕の幕切れの愛の二重唱のうたい出しを忘れた失敗談も出た。ジリーの話が出たついでに、ジリーが銃殺されたそうで、本当に惜しいことをした、といって涙を流した。――後で判明したがジリーが銃殺されたというのはデマだった。
 十一時過ぎまで話をして、その晩、僕は近所の平野屋という宿屋に泊ったが、帰りしなに三浦さんは「あしたの朝起きぬけにいらっしゃって頂戴、熱いおみおつけを作ってお待ちしていますから」といわれた。翌朝、起きぬけに三浦さんの家を訪ねると、いきなり「これを召上って頂戴」と、大きなお盆にお饅頭まんじゅうを山盛り出されたので面喰ってしまった。「急に思いついて今朝二時までかかって私一人で作ったのよ、お砂糖が足りなくって甘くないかも知れないけど、中にあんこが入っているのよ」
 富士山麓は米が出来ず、玉蜀黍たまねぎ[#ルビの「たまねぎ」はママ]を主食にしている。このお饅頭も玉蜀黍の粉で作ったものだった。この日はお母さんの三十五日だったので一緒にお墓詣りをして、僕は東京へ帰った。音楽大会へ出演の打合せをすませ、そして「これを京極さん(高鋭子爵)に届けて下さい」といって、今朝ほどのお饅頭をお土産に頂いて。

 二度目に山中湖畔に三浦さんを訪ねたのは忘れもしない七月十日だった。三日後に迫った音楽大会に三浦さんを迎えに行ったのだった。この日は早朝、小型機が来襲し、御殿場線の駿河駅に着くまでに三度も汽車から降されて待避した。そして、この前、中央線の大月から吉田へ出て、バスを待つのに小半日もかかったので、今度は明神峠三里を、ハイキングのつもりで歩いたところ、山の中で頭の真上をB29が飛んで無気味な思いをした。今度も三浦さんの家に着いたのが七時頃だったが、近所に疎開しているお弟子さんの菅美沙緒さんが遊びに来ていた。三浦さんは「あしたはお弁当を持ってボートに乗ってピクニックをしましょう」と、その夜の炉辺歓談はピクニックの話で持切りだった。
 三浦環さんは非常に天真爛漫だった。こんなピクニックの話になると、国民学校の子供が、あすの遠足を楽しみにして、前夜寝られない程はしゃぐように、まるで少女のように夢中になってしまう。こんなに、自分自身も少女のような無邪気さがあったと共に、また自分に[#「自分に」は底本では「時分に」]子供がなかった淋しさのせいか、非常に子供好きであった。戦争がすんだら幼稚園を開いて子供と一緒に遊びたい、といっていたし、山中湖の疎開先きには、村に一軒しかない平野屋に成城学園の児童が集団疎開をしていたが、よくそこへ行って歌をうたって聴かせたり、おやつを作って児童を家に呼んで来て、歌を教えて一緒に遊んだりした。
 翌日は雨で、楽しみにしていたピクニックが出来ず、三浦さんはがっかりしたが、それでも菅美沙緒さんが、お稽古に来たので、シューベルトの「冬の旅」を教えたり、自分でもうたったり、一日音楽と共に暮した。
 七月十二日、雨は止んだが、風がはげしく荒れ気味の天候を衝いて、三浦さんは湖畔の道を一里、バスの出る旭ヶ丘まで急ぎ足で歩いた。「ここに疎開したては肥ってもいたし、東京では歩いたこともないし、歩くのが非常に苦痛でしたが、お母さんの看病をしてやせちまってから、歩くのが楽になり、今では二里や三里歩くのは平気ですよ」三浦さんはそんなに元気だった。そして一年半ぶりで東京へ行くんだからといって、新調した真赤なモンペを着て、ぐんぐん歩いた。マネージャーの井上元佶君が「先生、そのモンペはチンドン屋のようで可笑おかしいからおよしなさい」というのを「赤くてとても綺麗じゃあない、私気に入ったわ」と、井上君の注意に大不服だった。
 三浦さんは服装については案外かまわなかった。赤い色が好きだったと見えて、赤い原色の色調が多かった。いわゆる、江戸趣味の、渋さとか、粋とかいったものとはおよそ縁が遠かった。
 三浦さんは夜になってから東京に着いた。麹町の家は五月二十五日の空襲で焼け、帝国ホテルに泊るのは空襲が怖しい。それで多摩川のそば、尾山台の僕の家に泊ることになったが、その夜中にサイレンがけたたましく鳴り、家の真上をB29が飛ぶ、照空灯が光り高射砲を鳴り響き、爆弾の音がする。やがて鶴見の方の空が真赤になる。三浦さんは始めて体験する空襲にコワイ、コワイの連発から「大丈夫?」「大丈夫?」と心配のし通し、僕は三浦さんを東京につれて来た責任上、万一のことがあってはと、肝を冷やしたが、幸になにごともなかった。
 日比谷公会堂での音楽大会「音楽五十年史」は七月十三日から十七日まで五日間、一日二回開催された。音楽に飢えきっていた市民は、警戒警報が出ても、会場の前に長蛇の列を作って二時間でも三時間でも開場を待っているといった熱狂ぶりだった。三浦環さんは歌劇「椿姫」の「乾杯の歌」と歌劇「ミニヨン」の「君よ知るや南の国[#「君よ知るや南の国」は底本では「君や知るや南の国」]」それに「ラ・パロマ」だの「茄子とかぼちゃ」などをうたった。「お蝶夫人」は戦争中上演を禁止されていた。伴奏は赤松次郎君か田中園子さん、という希望だったが、連絡がとれず、兼松信子さんを頼んだところ、三浦さんは兼松さんの伴奏が非常に気に入って、この大会終了後、約三週間の東京滞在中、各所の慰問演奏はみんな兼松さんを伴奏に頼んだ。
 三浦さんはステージで独唱をしたあと、きっとお話をした。三浦さんのステージからのお話とおじぎは天下一品で、ステージにちょこんとすわってするおじぎにしろ、お話にしろ、それは三浦さんの日常生活をそのままステージに移し、何等の技巧をこらさない。その自然さがイタについていて聴衆に深い感銘を与えるのだった。この時のお話は、疎開先きのことだの、私はなぜこんなにやせたかとかを、巧まざるユーモアをもって話し、ロンドン初演にステージを共にした、十九世紀の歌の女王アドリナ・パティはその時七十二歳だったから、自分もパティ同様七十二歳までは歌をうたって皆さんを楽しませたい、という話をした。この三浦さんのお話はその独唱と共に満場の喝采を博した。
 なおこの大会は、音楽は聴いて楽しむものである。その意味において、軽音楽だのクラシックだのと[#「クラシックだのと」は底本では「クッラシックだのと」]区別するのは間違っている、よい音楽をよく演奏すれば、聴衆は音楽を楽しむ、という信念を実践してみたのであったが、この信念は幸にも成功した。五日間十回で三万五千名の聴衆は、三浦さんの独唱とお話を熱狂的に喜ぶと共に、東海林太郎君の「赤城の子守唄」と下八川圭祐君がうたったムソルグスキーの「のみの歌」に白熱的な拍手を浴びせた。
 三浦環さんは東京滞在中、東海道線を利用して、おくにの遠州を訪問したが、東京滞在中はずっと僕の家にいた。そして毎夜のように空襲サイレンで起こされたが、空襲生活にも馴れたので最初の晩のようには怖がらなかった。それでもマネージャーの井上元佶君がいない晩なぞずいぶん淋しかったのだろう、空襲警報が解除されると傍にいた僕の老母に「お母さんよござんしたね」といっていきなりキッスをした。これには僕の老母も面喰ってしまった。だが、三浦さんにしてみたらそれは当然の感情の発露だった。三浦さんは非常に、直情径行の人で、自分の感情をありのままに表現する。嬉しければ有頂天になって喜び、悲しければ手放しで泣く。この感情を率直に表現する、生れつきの天真爛漫さが、欧米で二十年間生活して来たために、ますますその度を強めたのである。ところが日本では、喜怒哀楽をおもてにあらわさず、の儒教的教養が骨の髄から抜け切っていないため、三浦さんの行動が万事お芝居じみて目にうつる。
 昭和七年、二度目の帰朝をした時に、三浦政太郎博士の墓参をし、生ける夫に対する如く石塔に抱きついて話をし、歌をうたった。すると新聞はその写真を掲げて、お芝居をする宣伝屋だと報道した。成程、日本人はこんな真似をしまい。それは確かに常軌を逸した行動であり、見方によっては音楽家の行過ぎた宣伝として記者の目に映ったに違いない。だが三浦さんの場合は決してそうではない。恐らく三浦政太郎博士が生きていたら、矢張り抱きついて話をし、再会の悦びのあまい歌もうたったろう。三浦さんはいつでも率直に感情を表現するのだから。
 この意味で、三浦さん程、社会から誤解された音楽家はなかったろう。大体音楽家として一番脂の乗りきった三十一歳から五十二歳の二十年間、ヨーロッパとアメリカで輝かしいプリマドンナ生活をして来た。それがどんなに素晴らしいものであったか、そしてどんなに尊敬されていたか、日本の社会は目のあたり見ていないから、はっきりとわからない。その上、日本には芸術家を尊敬するという伝統がない。それどころか、明治になってからでも歌舞伎俳優を河原乞食扱いにしていた程だ。
 また二十年間の欧米プリマドンナ生活は三浦さんを完全な国際人にしてしまった。孤島日本では国際人に接触する機会が極めて稀であり、従って国際人の気持ちをわかりようがなかった。かてて加えて三浦さんは生れつき天真爛漫で、見栄も飾らねば虚栄も張らず、感情を大胆不敵にまで、赤裸々に表わす。こうして日本の社会は、三浦さんの音楽家としての本当の偉大さも、人間三浦としての純粋さも、正当に理解出来なかった。三浦さんは一生、祖国日本から誤解のされ続けでしまった、ともいえるのであった。しかも三浦さんはその誤解に一言も弁解をしなかった。

 八月三日三浦さんは山中湖畔に帰った。そして二十日すぎにもう一度、慰問演奏のために上京する筈だったが、終戦、それに引続くいろいろのデマ、社会も国民もただうろうろするばかりで、音楽どころの騒ぎではなかった。八月二十二日になって、興行開始命令が出たので、日本芸能社では早速、明朗音楽大会を計画し、九月六日から五日間日比谷公会堂で開催した。これが終戦後最初の音楽会で藤原義江、平岡養一、東海林太郎、ディック・ミネ君、桜井潔楽団等が出演したのであった。この明朗音楽大会がきっかけとなり、日比谷公会堂では連日のように音楽会が開かれたが、それは軽音楽の一点張りで、クラシックの方では日本交響楽団が定期演奏会を催すだけであった。この時突如発表されたのが、三浦環さんのシューベルトの「冬の旅」全二十四曲の独唱会であった。十二月一日と七日の二日間、日比谷公会堂で四回催された。ステージに金屏風を飾り、その前で振袖でうたった三浦さんの「冬の旅」は前人未踏のものであった。およそ概念的に考えるシューベルトではない、それは三浦環ならではうたえない、風格のにじみ出たドラマティックな「冬の旅」であった。
 楽壇の誰もが立ちあがらないでまごついているのに、最先きに立ちあがり、しかも六十二歳という年で、昔の面影がすっかり消え失せた、やせさらばいた肉体をもってリサイタルを催した。その音楽に対する灼熱の情熱に絶大な敬意を捧げたのであった。
 このリサイタルの時の例のお話に、三浦さんは、あたしはアドリナ・パティのように七十二歳まで歌をうたおうと思っていましたが、戦争がすんだこの頃では、そんな欲張ったことは考えずに、生きているうちだけは歌をうたって、皆さんに楽しんで頂きたいと考えています、と語ったので、僕はオヤッと思った。そして二十年前、ニューヨークのマジソン広場で凱旋祝賀会に、ウィルソン大統領の案内でステージに立ち、感激したアメリカの将兵三千名から握手をされた思い出を語り、もう一度アメリカに行って「お蝶夫人」をうたい、アメリカにいるお友達と、アメリカの大衆に日本と日本人の美点を紹介し、世界平和と文化日本の再建のために働きたいと、涙を流して語り、聴衆に大きな感銘をあたえた。
 その次に三浦さんに逢ったのは、今年の一月九日であった。山野楽器店の専務青砥道雄君が、郷里の水戸の知人から依頼されて三浦さんに進駐軍の慰問演奏を頼みに行ったのである。三田の三浦さんの異母弟、柴田依千郎さんの家を訪ねたところ、今しがた熱海から帰って来たところだという。実は三浦さんがあんなにやせたのは栄養失調のためだから、暖い熱海にでも行って御馳走を食べていたらまた肥り出すろうと京極さんにすすめられたので行ったのだが、ちっとも肥らない。それに一日に三百円もかかるんでやり切れないで帰って来たが、足がくんでだるくてしようがない、こんなに腫くんでるのよ、と足を出してすねのところを指で押すと、指の跡に穴があく。三浦さんは一月前よりまた衰弱してしまった。
 水戸の進駐軍慰問演奏はアメリカ友の会の斡旋により、一月二十六日と二十七日第八十二機械化大隊のために行われた。これが三浦さんの最後の慰問演奏であった。その時のプログラムは次の通りである。
1歌劇「ミニヨン」より「君よ知るや南の国」
2「ラスト・ローズ・オブ・サンマー」
3「ミネトンカの湖畔」
4「オールド・フォークス・アット・ホーム」
5歌劇「ホフマン物語」より「人形の歌」
6「ラ・パロマ」
7「きんにやもにや」
8「茄子とかぼちゃ」
9歌劇「お蝶夫人」より
 イ「或る晴れた日」
 ロ「操に死ぬるは」

 三月十八日、三浦さんのマネージャー井上元佶君が来訪して、二十一日の独唱会のために三浦さんが上京したが、病気が重くなってもうひとりでは歩けない。十六日に山中湖を出て来たが、雪の中を私がおぶって自動車にのせ、お隣りに住んでいる画家の気賀麗子さんに付添って貰って自動車で上京して、三浦さんの旧友、守屋東さんが玉川上野毛に経営している大東学園病院に入っている、という話にびっくりしてしまった。
 三浦さんは終戦後、山中湖畔の平野から旭ヶ丘に引越したのであった。僕は三浦さんの欧米二十年間のプリマドンナ生活の思い出話をきくために、旭ヶ丘に訪問する約束だったが、二月の例の新円引換で、当時、隣組長をしていた関係で、どうしても訪問出来ず、三月二十一日のシューベルトの「美しき水車小屋の乙女」の独唱会の時、詳しい打合わせをしようと思っていたのだった。それが、歩けない程の病人になろうとは!
 井上君は、三浦さんは三浦謹之助博士に診察して貰ったところ、その身体で独唱会をしたら死んでしまう、と独唱会を禁止されたが、一度独唱会をしますと世間にお約束をした以上、約束は果たさなければいけない。音楽家として独唱会をして死ぬのは本望です、といって、三浦博士の勧告をしりぞけたということも話した。
 三月二十一日、日比谷公会堂の楽屋を訪問してびっくりしちまった。三浦さんは、この世の人とは思えない位衰弱してしまった。そして舞台化粧が一層三浦さんを悲壮な顔にしてしまった。衣装は振袖を着ていた。楽屋には守屋東さんと大東学園病院の荘司博士がいた。三浦さんが山中湖畔で知りあったGHQの軍隊付牧師チャップマン大尉がいた。アメリカの新聞記者も日本の新聞記者もいた。寺脇さわ子、菅美沙緒さん等お弟子さんも大勢いた。お弟子さんの中には熊本からわざわざ出て来た阿南忍さんもいた。
 定刻、三浦さんはマネージャーの井上君におぶわれて楽屋から舞台の袖まで行き、ここからお弟子さんの寺脇さわ子さんに介抱されてステージへ出た。そしてグランドピアノにもたれかかった。だがピアノが鳴り出すや、しゃきっとして「美しき水車小屋の乙女」をうたい出した。一年前、零下二十六度の寒中の夜中、お母さんの看病をしながら、訳詩をし暗記をした、三浦さんが手塩にかけて育てたシューベルトの名曲だ。しかし四ヶ月前、「冬の旅」をうたった時の面影はない。声はときどきかすれ、フォルテがまるできかない。
 全二十曲をうたい終るや、お話を始めた。
「私はもう一度よくなって独唱会をしたい。歌劇『お蝶夫人』をやりたいと思いますが、これが最後のステージになるかも知れません。皆さんとのお別れになるかも知れません」
 三浦さんは泣いている。涙でお話はとぎれる。
「日本はこれからもっと眼を大きく見開いて、世界の平和、世界の文化のためにつくさねばなりません。上野の音楽学校で創立三十年か四十年かのお祝いをした時、音楽に功労のあった者を表彰するというので、当然私は御褒美を頂けるものと思いました。だのに表彰されたのは、音楽の先生を何十年やっていました、というそんな人ばかりで、二十年間日本の生んだプリマドンナとして欧米でオペラをやった私にはなんにも御褒美を下さらない。日本人は国内だけで威張り、日本のことしか考えないで、世界のことを忘れていたから、今度の戦争にも敗けたのです。私はパティ、ガリクルチ、カルーゾー、ジリー、シャリアピン、パデレフスキー、アンナ・パラヴロヴァ等世界一流の大芸術家と一緒のステージでうたった、日本で最も幸福な女の一人ですが、これからの日本は、これからの音楽家は、もっと眼を大きく見開いて、愛情と誠実と努力をこめて歌をうたわなくてはいけません」
 三浦さんは最後に「ホーム・スイート・ホーム」をうたった。三十二年前、思い出のアルバート・ホールでの初演、その時に聴いた十九世紀の歌の女王アドリナ・パティの天下一品の「ホーム・スイート・ホーム」を思い出してか、これが今生最後の独唱と思ってか、歌の途中で歌声は涙にくれてしまった。聴衆も泣いた。すすり泣きの中に歌は終った。誠に悲痛極まりない「ホーム・スイート・ホーム」であった。そしてこれが三浦さんのステージでの絶唱になってしまった。
 三浦さんはこの日、荘司博士に注射をうってもらって「美しき水車小屋の乙女」全二十曲を二回うたった。

 翌日、大東学園病院に見舞いに行ったところ、三浦さんはケロッとしている。一昨日、プリングスハイムに病院に来てもらって、講堂で練習をした後、尿と一緒に血のかたまりが出て、それから気持がよくなった、きのうは公会堂から帰ってから守屋さんの部屋で二時間も話をしていたがちっとも草疲れなかった、と非常な元気なので安心した。
 二十八日に見舞いに[#「見舞いに」は底本では「見舞に」]行った時、三浦さんはドビュッシーの勉強を始めたいから、楽譜を探してくれといい出した。再起を危ぶまれる病状なのに、新規にドビュッシーの研究を始めるという、旺盛な音楽意欲に驚嘆すると同時に絶大な敬意を表した。
 三浦さんは食欲がなく、その上醤油を使ったものが食べられないので、病院の食事は殆ど箸をつけない。この日もお見舞いに貰った牡蠣をフライにして食べたいという。折悪しく誰もいないので、井上君と二人で生れて初めて牡蠣フライを電熱器でこしらえたが、古パンでパン粉を作るのが一番厄介だった。でも割にうまく出来あがった。三浦さんは塩をつけて「うまい、うまい」と沢山食べた。
 四月五日、三浦さんは放送局の依頼で「冬の旅」を録音した。午前中に見舞いに行ったら原信子さんがお見舞いに来た。病室も二階の北向きの部屋から、一階の中庭に面した南向きの大きな部屋に移っていた。三浦さんは足を指にまでマニキュアをして赤いエナメルを塗りお化粧をしていた。紫のドレスを着て井上君におぶさって講堂に行った。新聞社のカメラマンが盛んに閃光電球を焚く。三浦さんは生卵を一つのんで安楽椅子に腰かけた。プリングスハイムがピアノを弾き出し、録音は開始された。三時から一時間半で録音は終了した。
 四月九日、三浦さんは自動車で放送局へ行き、第一スタジオで「お蝶夫人」の録音をした。伴奏は東管、合唱は放唱、指揮はプリングスハイム。管弦楽を背音にして三浦さんは「お蝶夫人」の物語をして、「或る晴れた日」をうたい、ハミングコーラスの後で、また管弦楽を背音に、プッチーニとの会見の思い出を語って、プッチーニに所望されてうたった義太夫「卅三間堂棟由来」の木遣唄をうたった。そして最後の幕切れの「操に死ぬるは」をうたった。テストが三十分で本番が三十分、この録音は一時間ちょっとかかったが、三浦さんはこの間に三度、井上君におぶさってスタジオの片隅に立てめぐらした屏風の蔭へかくれた。用便をしたのである。フォルテを出すと、おもらしをするのであった。
 三浦さんは思い出の「お蝶夫人」の録音だというので、わざわざ、メトロポリタンでうたった時の振袖を着た。カツラもかぶりたかったのだが、それは間にあわなかった。それで病院の花壇に咲いている、紫と桃色と白いヒヤシンスを髪に挿していたが、録音が終ると共に大きな安楽椅子に崩れ落ちて、おいおい泣き出してしまった。AKの係りの近藤君が心配して、医務室に寝台があるからお休みなさい、という。井上君が寝台までおぶって行ったが、ベッドに横になってもまだ泣きやまない。新聞記者が、三浦さんはなぜ泣いているのだろうと、いぶかるので、多分これが今生最後の「お蝶夫人」になるのではないかと、感慨に堪えて泣いているのだろう、と話しているうちに、泣声もやみ、小康を得た様子なので、三浦さんにたずねたところ
「きょうは私が考えている百分の一もうたえないの、フォルテを出そうとするとお便所に行きたくなって、ちっとも上手にうたえないの。こんなへたくそな「お蝶夫人」が三浦環の最後の録音になるかと思ったら、悲しくって、悲しくって――」
 三浦さんはまた声をあげて泣き出した。
 この「お蝶夫人」の録音は十三日に放送されたが、AKの音楽部長吉田信君が「三浦さんは自分の録音放送を聴いて『あたしの声には死相がある』といって、非常に悲観している」と心配していた。それで僕は、次に三浦さんをお見舞いに行ったとき、いきなり
「先生の録音放送を聴いた者がみんなびっくりしていますよ。三浦環は病気だっていうのになんて若々しくて美しい声なんでしょうッて。まるで十七、八のお嬢さんがうたっているようだって」
 これはお世辞ではなく、僕の逢った人がみんなそういった。特に音楽会に行ったことがないような人々がみんな感嘆したのであった。すると三浦さんは
「あらそう。うれしいわね」
 と眼を細くして喜んだ。
 十六日に三浦さんは病院で三度目の録音をした。今度は「庭の千草」「ケンタッキー・ホーム」「ホーム・スイート・ホーム」等のポピュラーソングをうたったのだが、これが最後の録音になってしまった。

 三浦さんは四月二十五日に帝大病院泌尿科に入院した。手術が出来るかどうか、まずレントゲンで写真を撮る。このレントゲンのせいか、病勢が昂進したのか、五月になってからは夜になると、殆ど三十分おきに尿意を催すため熟睡が出来ず、昼間は一日中うとうとしていた。身のまわりから、下の世話まで一切をマネージャーの井上君が一人でした。付添看護婦は食事の世話だけで、夕方になると姿を見せない。
 三浦さんは「お蝶夫人」と「冬の旅」をレコードに吹込む希望をもっていたが病勢がこう昂進してはそれどころではなくなった。そして五月二十二日にはとうとう医者から危篤を宣告されてしまった。二十三日にはもう眼が見えなくなり、昏睡状態になってしまった。耳もよく聴こえず、時々「苦しい」「痛い」とか「出た出た」と尿意をもらすだけ。
 二十四日の午後三時頃、三浦さんはこんな昏睡状態でフランス語の歌をうたい出した。よく聴くとドビュッシィの「バルコン」だった。病床で研究を始めたドビュッシィを危篤の病床で唄ったのである。その強靭な音楽に対する情熱はただただ驚嘆するのみである。そしてこれが、この偉大な世界的プリマドンナのこの世に[#「この世に」は底本では「このの世に」]おける絶唱となったのである。それから間もなくチャプマン牧師が見舞いに来た。三浦さんは四月の末チャプマン牧師によって洗礼を受けたのであった。チャプマン牧師は三浦さんに「あなたは幸福ですか」とたずねたところ、三浦さんはハッキリとした英語で「幸福です。私は天国へ参ります」と答えた。これが三浦さんの最後の成句で、その後は夢うつつの間に「有難う」とか「苦しい」とかもらすばかりであった。そして五月二十六日午前五時二十分、六十三年にわたる多彩な一生の幕をとじたのであった。癌がこの大プリマドンナの生命を奪ったのであった。

 三浦環さんの告別式は五月二十八日午後二時から大東学園の講堂で行われた。越えて六月七日午前十時から、全楽壇をあげての音楽葬が日比谷公会堂で盛大に行われた。この日、はるばる海を越えてアメリカから、追悼のメッセージが贈られて来た。かつての世界三大「お蝶夫人」歌手の一人であったゼラルチン・ファラーと、かつて三浦さんの相手役をしたメトロポリタンのテナー・ジョヴァンニ・マルティネリーとそしてメトロポリタンの演出者フランク・セント・レッジャーから。

昭和二十一年六月

附記、この著書の第一部は昨年山中湖畔に三浦さんを訪問した時、三浦さんが僕の家に滞在中、そして今春大東学園病院に入院中に三浦さんの談話を筆記をしたものである。戦争中とそれから入院中で、資料らしい資料はなにもなく、三浦さんの記憶によって語られたものである。従って記憶の錯覚によって生じた間違いがあるかも知れない、例えばロンドンにおける「お蝶夫人」初演は一九一五年五月二十日で、この日ツエッペリン飛行船の初空襲だったという、しかるにツエッペリンのロンドン初空襲は五月三十一日だと堀内敬三さんが教えて下さった、よって「お蝶夫人」の初演も五月三十一日と訂正したが、これもあるいは初演が五月二十日で、何回目かの上演が五月三十一日で、その日の出来ごとと初演の思い出とがごちゃごちゃになったのかも知れない。こうした記憶の誤りはまだほかにもあるかも知れない。いずれ正確な資料によって訂正したいと思っている。





底本:「三浦環 「お蝶夫人」」人間の記録、日本図書センター
   1997(平成9)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「お蝶夫人」右文社
   1947(昭和22)年5月10日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:荒木則子
校正:小岩聖子
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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