私はまだ郷の中學に居た頃に、始めて先生の「心理新説」を讀んだ。其れは木版で印刷された單簡な二册ものであつた。又た殆んど同時に、「西洋哲學史講義」も讀んだ。其れも木版二册もの先生の洋行前の著述で、最後に此の講義の續きは三宅雄次郎君に托して外遊するとのことが記してあつたと記憶する。當時私は乳臭で、とても會得が出來たことではなかつたが、それでも幾分哲學上の術語に接し、ターレスやピタゴラスなど、西洋哲學者の名を知つて哲學に對する興味を唆り、同時に先生に對して深い景慕の念を懷くに至つた。
先生が歸朝されて間もなく、私も上京勉學の機を得た。帝國大學豫備門大講堂で初めて先生の風

其の大々先生の講義を親しく聽き得るに至つたことは、私に取つて何れ程の幸福であつたか。其れは言ふを待たない。又た先生の講義が、日本の學界に取つて何れ程の重要さがあつたか。其れは天下周知の事實で、私が再述するを待たない。
唯だ學生として私が先生の教へて倦まざる親切に就て、忘れることの出來ない一經驗がある。學生は例も教授を訪問するを樂しむもので、私などは寧ろ先生に對しては其の樂しみをみだりにした方であらう。が其れは教授に取つては迷惑に相違ない。然るに先生は訪問日こそ定めてあれ、面會し得さへすれば、曾て一度も迷惑さうな顏付き態度をされたことがなかつた。今自分も教授となつて見て、始めて此れは出來ないことだと痛感して居る。否な更らに、先生は何日も其私宅に學生を歡迎された斗りでなく恰も大聽衆に死生の一大事因縁をでも説くかの如く、一人の凡庸學生に向つてさへ、諄々として説いて止まない概があつた。甚だ失禮な心態ではあつたが、一度などモウ疾ツくにドンがなつて、腹がペコ/\になつて、私の心中最早終講をと願つて居たに關はらず、先生は然うしたことには一向頓着なく、平氣で長講を續けられて閉口したことがあつた。先生の如きは眞に眞理に對する愛、教授としての親切があるものと歸路ツクヅク感心しつつ戻つたことがある。此うしたタワイもない小經驗も此うした喜の折に思ひ出される。
實に先生は單に教授として斗りでなく、又た人として眞に人間味のある君子人である。何日も快活で元氣で、温和で篤實で、好んで學生の世話をされる。學生等が教授として之を愛敬する斗りでなく、又た之を父ともし兄ともし、嬉々として其の傘下に集まるは決して偶然でない。世には利害打算的集團によつて、生けながら銅像を立てられる「豪い」人もあり、長い官府生活の爲めに勳位赫々の貴人もある。けれども權力のためでもなく、又た利益のためでもなく、唯だ純な愛と敬とから成り立つた自然的な集りは、君主の命令し得ず、億萬長者の買ひ得ぬ超越樂至樂でなければならない。果せる哉、『仁者は壽し。』巽軒會の大黒柱は、古稀より喜壽へカクシャクとして其の年を延べさせられる。是は先生の幸である斗りでなく、日本の學界、特に吾黨の幸でなければならない。蘇東坡は梅直講に知られて其の徒となり得た樂を、『苟も其れ一時の幸を僥し、車騎を從へること數十人、閭巷の小民をして聚觀して之れを賛嘆せしむるも、亦た何を以て此の樂に易ん』と云ひ、更に不怨天、不尤人、蓋優哉游哉、可以卒歳と言つて居る。學東西を該ねて日本の哲學界をリードされる我が井上先生を繞りての會友が、浸つて以て樂しみとする所も亦た恐らく此れに外ないであらう。私も研究的論文を以て、此期を祝したいことは萬々であるが、事情上其れは先づ米壽まで保留して、此所に唯だ一篇の祝辭を述べておくに止める。