知的作用と感情と

増田惟茂




 知的作用について吾々は二つの方面を區別する事が出來る。一つは働き、又は機能であつて、他は意識内容である。見る、聞く等の樣な知覺の働は前者であり、色、形、音等感覺とか知覺表象とか云はれるものは後者である。想起、想像、思考等は前者であり、記憶像、想像に浮べるもの即ち想像表象、概念等は後者である。
 其内前者即ち心的働きの方は無視される傾がある。私はこれを心的働きの自己無視の傾向と呼んで居る。吾々が知覺する時、吾々の意識に表はれるものは色や形や音或は其複合體である。「意識に表はれる」などと云ふのは反省の結果であつて、素朴的な經驗に於いては色や形や音等がそこに在るのである。知覺の働きを離れて、或はそれが無視せられて、色や形等が只對象としてそこに見出されるのである。
 知的活動が素朴的な立場から進んで反省的になると共に、一面に於いては、無批判的でなく批判的に心的働きを無視し得る對象――即ち一切の心的働きを離れても存すると見得べき所のものを突止めようとする努力を生じた。物的科學に於ける知的活動は此方向を取つて居る。他面に於いては、素朴的經驗の對象を心的働きに依屬するもの、即ち意識内容と觀ずる見方を生じた。素朴的經驗に於いても此兩方向の見方は多少分化しては居るが、批判的、學問的態度の發達と共に此分化、此對立が明になつたのである。そして心理學は後の見方に沿ふて獨立の經驗科學に發達したのであつで[#「あつで」はママ]、初期の經驗的心理學は意識内容を中心としたものである。觀念と其聯合から一切の心的生活を説明しようとした英國の聯想派やヘルバルトの心理學もさうであり、フェヒネルから初まつた精神物理學もさうであつた。かゝる知的な意識内容から精神生活全般は無論の事、知的作用をも説き盡せない事は云ふ迄もない。そこで此主知論的な、意識内容の心理學は間もなく行詰つて仕舞つた。そこに一層の反省が加はる事により、心的働きアクトの心理學が起つた。ブレンターノの心理學がそれである。又意識内容と心的働きとを併せて對象としようとする心理學も生じた。後者が長く心理學界を支配したものであつて、此迄の意識内容の研究に統覺を加へたヴントの心理學や、ブレンターノに系統を引くスツンプの心理學やヴントから脱化したキュルペの心理學等皆それである。所で心的働きを研究するとなると、働きを研究する働きが自己無視せられる。研究的考察を離れてもあるが如き心的働きを突止めなければならぬからである。此點を徹底的に研究しようとすると科學以上に出なければならぬ。ブレンターノの心理學が哲學的であり、ヴントの統覺の概念がヴント自身の抗辯にも不拘、哲學的な赴を持つ事等も此消息を語るものである。併しそれが知的な仕事である限り哲學的思索によつても此問題が徹底的に解決せられるかどうか、私は之を疑はざるを得ない。それは兎に角、科學の水準に於いては、心的働きの自己無視の上に立ち、學的考察を離れても存するものとして其對象を研究しなければならない。心理學も亦此を免れる事が出來ない。此事は働きと内容との分極、及働きの自己無視と對象と云ふ知的作用の特色を例證するものであるが、私の茲に述べようとする事は、心理學的考察が自己無視によつて其對象を追究するとして、扨其對象を意識内容と心的働きと丈けに見て果して心的生活を滿足に説けるかどうかと云ふ點である。
 意識内容の心理學や心的働きの心理學や兩者を對立的に認める心理學には精神生活の遺憾なき説明を期待し難い。此等の心理學は主知説的な色彩を多分に含んで居て、知的作用や知的に發達した狹義の意志作用の説明には比較的無難であつても、感情生活の取扱に困るのである。在來の心理學に於いて最も持餘して居たのは感情方面であるが、其一つの原因は在來の心理學の主知論的傾向に在りはすまいか。感情を觀念の關係から説かうとした聯想學派やヘルバルトの心理學は云ふ迄もないが、其後の心理學者も概して感情を意識内容の方面から見ようとして居る。かなり多くの心理學者は感情は快不快であると説くが、彼等は其所謂快不快を意識内容的に見ようとして居る。不快を痛覺と同視する如きも其一つの現はれである。其上感情を快不快に限ると、悲報に接した時の驚きでも吉報に對する驚喜でもない只の驚や Hoffnung でも Furcht でもない期待の樣なものを感情以外のカテゴリーに入れなければならぬ樣な無理を生ずる。それで感情は快不快丈でないと云ふ考が勢を得たが、それでは其特色は何であるか。最も廣く行はれる考は、感覺や表象の客觀的であるに對し、感情は主觀的であると云ふ事である。然し屡々其反證として述べられる樣に、リップスやフォルケルトの謂ふ所の移入せられた感情又は對象感情――例へば快活な音樂、美しいメロディー、淋しい景色等の場合の感情は客觀的な趣を持つではないか。又吾々は屡々自分の感情を抑へようとしたり、之れを持餘したりするが、さう云ふ場合には感情は吾々の主體以外のあるものとして經驗せられるではないか。又感情が激する時吾々は自分を忘れて仕舞ふではないか。感覺や表象に對して主觀的なものは感情よりも寧ろ知的な心的働きアクトである。猶感覺と並ぶものとして單一感情なるものを認め、其結合から複雜な感情を説かうとする如きは、感情の極めて末梢的、意識内容的取扱方であつて、かう云ふ仕方では感情の本質を突止める事は出來ない。ヴントなどは一面かう云ふ見方をし乍ら他面に於いては統覺の根柢に感情を見て居る。キュルペの批評して居る樣にヴントに於いては意識内容と心的働きとの概念が充分發達して居ない、之と聯關して心的要素及其複合としての感情と統覺の方面の感情との關係も甚曖昧な樣に思ふが、兎に角、意識内容的なものと心的働き的なものとの双方に感情を關係させた丈けでは感情の本質は明にならないと思ふ。
 感情の本質を意識内容や心的働きや其双方に求める從來の大多數の考方は主知的感情論であると思ふ。私は心的働き mental acts と意識内容 conscious centents[#「centents」はママ] との不分極、之を略してAC不分極と呼んで置くが、此不分極に感情の本質(但ネガチーブな方面から見た)があると思ふ。但感情にもある度迄此分化が見られる。即ち對象感情の樣に意識内容に屬するものがあると共に心的働きの方面に見られるものもある。然しそれは知的作用の分極に比し頗る不完全不安定のものであつて、寧ろ知的作用の分極に率ゐられたもので、感情の感情たる所以の特色はAC不分極にあると見る事が出來る。喜び、悲み、滿足等に於いては普通此分極は極めて曖昧であり、其他の感情に於いても、知的作用が減退し感情が高調すると共に、主觀と客觀、自己と對象との區別が沒却せられたり、其全體が感情の内に埋沒せられる。
 意識内容と心的働きとの分極は發達の結果と見るべきものであつて、此不分極を特色とする感情は精神生活の源本的な姿を示すものと云ふ事が出來る。感情も分化又は分極するが、此AC分極に關しては感情は精神生活の發達的母體に近いと云へやう。ホルヰッツ等の主張する樣に源本的な精神生活を直に感情と名ける事が出來るかどうかは問題であるが、少くも此分極に關しては源本的精神は感情的であると見られると思ふ。
 内容と働きとの分化した方面は發達の派生的上層であると共に、「生」に對し一層間接的、高踏的であり、weniger lebendig であるに對し、感情方面は吾々の精神生活の der lebendige Untergrund をなすものである。勿論感情の内にも「生」に一層直接的なものと一層間接的なものとがあり、又知的作用によつて高踏化せられたものもあるが、概括して上の樣に感情の方が lebendige W※(ダイエレシス付きA小文字)rme を持つと云ふ事が出來やう。
 働きと内容とは分極しても別々の存在ではなく、統一的な經驗をなすものである。只分極が著しいと其統一が見落される。此分極の無い又は極めて少ない感情に於いては此統一が特に體驗せられる。意識内容に對する對立的な主觀は心的働きの方面に求められるが、意識内容も亦主觀的なものであつて、之と働きとを包括した經驗の主觀、即ち對立的でなく包括的な主觀は感情の方面に最もよく體驗せられる。知的作用に於いても内容と働きとの統一的經驗に於いてそれが認められるのであるが、感情方面が特に吾々に其體驗を與へるのである。
 私は大體感情の特性をかう云ふ風に解して居る。そして知的作用をもかゝる感情をバツク又は素地として見なほす事により會得する所があると思ふ。例へば私は他我の認識について、マックス、シェーラーと共に他我知覺説を信ずるものであるが、此は對立的な認識我に執着し、知的作用を單にそれに依屬するものと考へては解す可らざるものである。如上の意味の感情又は内容と働きとの統一裡に働くものとしての知覺に初めて他我認識の根柢を認める事が出來るのである。





底本:「井上先生喜壽記念文集」冨山房
   1931(昭和6)年12月15日発行
初出:「井上先生喜壽記念文集」冨山房
   1931(昭和6)年12月15日発行
入力:岩澤秀紀
校正:フクポー
2019年7月30日作成
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