寒い日の午後だった。
私は河風に吹かれながら吾妻橋を渡って、雷門の方へ向って急ぎ足に歩いていた。と、突然後からコートの背中を
「S夫人!」
夫人の変装術に巧妙なのは知っているが、こうまで巧みに化け
「どこのよたもんかと思いましたよ。私の後をつけたりなすって――」
照れかくしにちょっと夫人を睨む真似をした。夫人は
「ほんものの不良らしく見える? 実は今日はね、よたもんになりすましてある事件の調査に出かけたの、今その帰りなんですよ」
私はつくづく夫人の姿を眺めて感心した。ほんとに巧いものだ。どう見直したって男だ。態度だって、表情だって、すっかり男になり切っている。女らしい影はどこを探したって見出せやしない。
S夫人と私はどっちから誘うともなく仲店に入り、人込みにもまれながら肩を並べて歩いていた。
観音様の横手の裏通りにはサーカスがかかっていた。その広告びらの前に夫人は立ち止って
「面白そうじゃないの。南洋踊り、鉄の処女、ほら人喰人種もいますよ」
「鉄の処女って何の事でございますの?」
「昔死刑に用いられたものですよ。大きな箱のようなものの内側に剱の歯がいっぱい突き出ていて、囚人をその中に入れ、
「面白そうでございますわね。じゃ入ってみましょうか」
「人間は誰だって残虐性をもってるのね――」
夫人はちょっと皮肉そうに云って笑っていたが急に真面目な顔をして附加えた。
「実をいうとね、ある女を探しているんです。サーカスにいる花形なんですがね、しかしどこのサーカスにいるかは分らないんです。だから貴女の気がすすまないなら私一人でも入ってみるわ」
二人は早速入場券を買った。
舞台では南洋踊りというのがもう始まっていた。獰猛な顔付をした逞しい男が五六人、真赤に染めた厚い唇を翻えして訳のわからない歌を怒鳴りながら、輪をつくって踊っている、その真中に酋長の娘とでも云いたいような、若い女と一
「あの狒々の野郎うまくやってやがらあ」
「
「さあ?」
「奴さん、なかなか味をやるじゃねえか」
「しかし――。巧いぞ、男かね、女かね」
「女だったらどうする?」
「
「馬鹿野郎、別嬪が何もわざわざ狒々の皮を被るかよ」
「女にしたところでどうせ
こんな会話に気を取られているうちに、いつか踊がすんで、舞台にはピエロが出てしきりに口上を述べている。それによると美しき酋長の娘に思いをよせた狒々は、余り浮かれ過ぎて
私達はかれこれ一時間余りも見物席に納まっていたが、夫人が探し求めているという肝心の女は
「でも根気よく探していれば、どこかで見つかるわ。それに女は
「亭主がございますの?」
「亭主と
二人はそこを出て小屋の後を廻り、楽屋裏を通りかかると、猛獣でも懲しているらしい物凄い鞭の音がピシリ、ピシリと耳を打った。同時にヒーと泣き出す女の声、私はぞっとして夫人に
緑色のけばけばしい乗馬服を着た団長が向うを向いて鞭を振り上げている。その足もとには若い女がまるで叩き潰されたように平伏していた。それは
団長は怒りに震えた声を、浴びせかけるようにして怒鳴った。
「狒々のあとばかり追っ馳けやがって――。このあま! 叩き殺すぞ」
その声の終るか終らないうちに表の方で急に拍手の音がして、楽屋口から四五人の男女がどやどやと入って来たが、団長の姿を見ると皆隅の方へかたまってこそこそと
「また
「可哀想に! 殴らないだっていいわ」
「団長だって気がもめるさ」
少し離れた処からこの
「狒々の毛皮なんか被らないで、素顔で出た方がもっと人気が立つだろうに――」
夫人の言葉に私は思わず笑った。二人はまた仲店へ出て人に押されながら歩いた。
あたりはもうすっかり暮れかかっていた。雷門の処まで来ると、夕方の雑音に交って、
私は直ぐ一枚買って、夫人と顔を突き合せるようにして開けて見た。その瞬間、オヤと思った。
「他殺か、自殺か、奇怪極まる
という題で、夕刊は彼女の死を伝えているのだ。
東伯爵夫人の名は余りにも有名である。非常な美人で、社交界の花形であるばかりでなく、社会事業家としても相当の
「あの奥様が死んじゃったんですか。それも自殺したとは驚いた――」
私はほんとに意外の感に打たれて夕刊を覗き込んでいると、夫人が、
「あの方とは長いお
とちょっと云いよどんだが、思い切ったという風で、
「実は探しているあの女。サーカスにいるその女の事で、――。ちょっとお
夫人もさすがに感慨無量という風に深い沈黙に陥ってしまった。
私は翌日の朝刊を待ちかねた。東伯爵夫人自殺の詳報を知りたかったからだった。果してどの新聞にも美しい夫人の写真と一緒に詳しい記事が出ていた。
それによると伯爵夫人は一週間ほど前から箱根のふじやホテルに滞在中であったが、一昨夜深更に帰宅して、玄関を上るや人事不省に陥り、そのまま息を引き取ったというのだ。
議会開会中の多忙の折柄とて、伯爵は不在であったそうだ。その後に、伯爵家執事の談として、
『奥様はお出先からお帰りになります時は、必ず前もってお電話を下さることになって居りました。そしてお邸からはお迎えの自動車を停車場まで廻しますのに、昨夜にかぎって、突然、しかも夜更けてお帰宅遊ばし、いきなり御重体におなりになりましたので、私共はただもう夢のようで、どうしても奥様はお亡くなり遊ばしたような気がいたしませんのでございます』
更に玄関へ出迎えた小間使の談として、
『後になって考えますと、お玄関のベルをお押しになったのは奥様ではなく、円タクの運転手だったような気がいたします。私がお玄関の扉を開けますと同時に、黒い影が表御門の方へ走って行き、間もなく自動車の走り出す音をききました。最初奥様はお玄関をお上りになると、白い壁に添って二足三足よろよろとお歩きになり、壁につかまろうとお手をお延ばしになったまま、くずおれるようにお倒れになりました。この頃はちょいちょいと脳貧血をお起しになりますので、またかと存じたのでございます。それに御近親にご不幸があって御喪中で、御洋装の時は黒の濃いヴェールを被っていられますので、お顔色などもさっぱり分りませず、お寒い外から急にスチームの通っているお暖いお家の中にお入り遊ばしたので、めまいが遊ばしたのだろうくらいに軽く考えて居りましたのに――』
西医学博士談(博士は夫人の実兄である)
『私が馳けつけた時には、もう
なお二三の新聞は夫人が投宿していたふじやホテルの支配人の談として、
『伯爵夫人は昨日の午後、伯爵からお電話があって、途中までお迎えに来ていらっしゃるからと仰しゃって、お元気にお出ましになりました。いつもはホテルの自動車でお送り申上げるのですが、昨日はお天気もいいし運動がてらと仰しゃって、お歩きになってお出かけになりました。私共はあのお仲の好い御夫婦の事でいらっしゃいますから、御一緒に御散歩でも遊ばすのかと思い、気にも止めませんでした。が、
当の東伯爵の談としては、
『
S夫人はその時ふと新聞から眼をはなして云った。
「私が探しているあの女ね」
「サーカスにいるって女でございましょう?」
「その女の事について、伯爵夫人から秘密の相談を受けていたんですよ」
「秘密の相談? あの奥様にも何か秘密がおありになったんですの?」
「奥様の秘密というよりは、御主人の方の秘密ですの。重要会議で伯爵が
S夫人はそう云いながら、机の引出しから小さな写真を出して見せてくれた。
「余り別嬪じゃございませんね」
私は写真を返しながら云った。
「処が男の眼にはどこかいいところがあるんでしょう。この女には随分悩まされて
夫人は写真を大切そうに
「伯爵夫人を訪問してお金を受取ってから、その女は急に気持が変ったらしいんですよ。つまり夫人が余り美しかったのと、想像以上に豪奢な生活振りだったのとで、
それを聞いて、始めてS夫人がサーカスの女を探している理由が分った。
事件が他殺か自殺かさえ分らず、殆んど迷宮入りになりかけた頃だった。ある日、S夫人は神田の事務所に東伯爵の訪問を受けた。
「もうこうなっては警視庁ばかりを頼みにしてはいられなくなりました。どうか一つお骨折りを願いたい、どうしても犯人を探し出さなければ殺された者が可哀想です」
伯爵は頻りに他殺説を主張して、ある秘密をさえ夫人の前に語ったのだった。
それによると、二三ヶ月前から伯爵夫人の身辺に影のように附き纏っていた男があったのだそうだ。彼女が近頃健康を害していたのも、実はそれが原因で、彼女はその男を非常に怖れていたという。
「例のサーカスの女の亭主じゃないんですか?」
S夫人は伯爵夫人の依頼から咄嗟に想像して訊いてみた。伯爵はただ唇にちょっと寂しい笑いを浮べたきり、それには答えないで、費用はいくらでも出すから、是非犯人を捜し出してもらいたいと、繰り返し繰り返し頼むのだった。
伯爵が帰ると夫人は直ぐ外出の仕度をし、助手の私を連れて、念のためもう一度浅草のサーカスを調べに行くことになった。伯爵の口ぶりから察すると、どうやらその亭主が怪しいように思われる。S夫人も最初の考えを翻えして、あの女よりも亭主を探す積りなのではあるまいか。いずれにしても女か男か片一方を発見すれば、それによって事件の糸口がたぐり出せるかも知れない。
仲店の雑沓の中を、夫人は黙々として考えながら歩いた。私も無言で彼女に遅れまいと足早について行った。
二人はいきなり楽屋口へ行って、名刺を出し団長に面会を求めた。団長は直ぐ飛び出して来て、にこにこ笑いながら中腰を屈めた。これがあの仁王様のような恐しい、楽屋裏の暴君かと、思わず私は夫人の顔を見て苦笑した。
団長はしきりに小首を傾げて考えていたが、
「どうもこの中にはそういう女も男も居りませんな、シンガポールから来たって奴はいるにはいますが――」
と云って楽屋の隅へ眼をやった。そこにはいつぞや見た狒々の男が脱ぎ捨てた毛皮の横に
「あの人ですか、シンガポールから来たっていうのは?」
夫人の言葉に狒々の男はハッとしたらしく、二人の方を
夫人は団長に耳打ちすると、つかつかとその男の傍へ寄って、何事か小声で囁いた。男はちょっと狼狽したらしかったが、夫人はそれには構わず、団長に会釈し私を連れて外へ出た。
少時待っていると、
夫人は突然、サーカスの例の女の写真と東伯爵夫人の写真を彼に突きつけて、語尾に力を入れて云った。
「貴方はこのどちらかを御存じですね?」
と、男は黙って下を向いてしまった。が、やや間を置いてから、やっと顔を上げてどもるように云った。
「こっちは存じませんけれど――」
とサーカスの女の方を指した。夫人はおっ被ぶせるように云った。
「じゃこっちは知ってるんですね?」
「知っていますとも、可哀想なことをいたしました」
「どうして御存じでしたの?」
「どうして?」
男は夫人と私の顔を等分に見ながら、淋しい笑い方をした。
「智恵子は私の
夫人もこの意外な話にはひどく驚いたらしかった、私は
「では貴方は、東伯爵のお足さんだとでも[#「お足さんだとでも」はママ]仰しゃるんですか?」
「兄なんです。南洋で虎に喰われて死んだという事になっている兄は私なんです。しかし実際はご覧の通り生きています。弟にとってはたった一人しかない兄弟、血を分けた兄なんですよ」
私達は何が何だか分らなくなった。そう云われてみれば、東伯爵によく似ている。どこかで見たような気がしたのは、彼に似ているためであったのだ。
しかし東伯爵に兄があるという噂は聞いたこともない、面ざしがちょっと似通っているというのを聞き伝えて、渡り者の男の事だから、何かためにしようとするのかも知れない。人の好さそうな顔付はしているがサーカスにいるような男の言葉を、真向から正直に受取ってしまっては、それこそどんなことになるかもしれない。しかし一応は彼の身の上を訊いておく必要もあろう。何かの参考にならないものでもない。夫人はそう考えたであろう。男の方へ向き直って云った。
「団長にはお断りしておきましたからいいでしょう? どこかで御飯でも食べながら、ゆっくり貴方のお話をお聞きすることにしたいんですが――」
夫人は食事もろくろくしないで、その男の話を聞いていた。
「私と弟とは二人きりの兄弟ですが、母
今考えると継母と継母の実兄、つまり私の伯父にあたる人ですが、その二人は腹を合せていて弟に伯爵家を相続させ、同時に全財産を弟のものにしたかったんだと思います。
私は継母や伯父に甘やかされて育ち、弟は厳格に育ちました。継母は私に対しては実に優しく、何でも云いなり放題になってくれます、お小遣は父に内緒でいくらでも呉れますし、何事によらず私は自分の思うままに振舞って、実に我儘一杯に育ちました。
中学を卒業する一年ほど前、当時ジョホールで大農園を経営していた伯父は何年振りかで帰朝いたしました。伯父は実の甥の弟よりも、私の方を大変可愛がってくれまして、どこへ行くにも私を連れて歩きました。遊びを覚えたのはその時が最初でした。しかも指導者は現在の伯父ではありませんか。
私は金が自由になるのと身分があるのとで、どこへ行っても大いにもてました。若様々々と大切にされ、いい気持になって遊び暮らして、果ては外泊する事さえあるようになったんです。厳格な父の手前は母がうまくつくろってくれ、陰になり日向になりしてかばっていてくれるので、父は何も知りませんでした。
中学へ遅れて入学した私と、早く入学した弟とは同級だったのです。
火花を散らすような勉強を強いられる者と、酒色にふけって学校なんかろくすっぽ行かない者とその二人が一緒に一高の試験を受けたわけなんですが、弟が美事に及第して、私が落第したって別に不思議はないはずですのに、私は非常に憤慨して、彼を恨みました。
少しくやけになっている処へ、何も知らない父は弟がよく出来るというので、私よりも次第に彼の方を可愛がるようになり、私の事は
なアに日本にばかり陽は照らないさ。という伯父の言葉は大変に嬉しかったんです。
私は自分の悪い事はすっかり棚に上げ、父をも母をも弟をも恨んでいました。
ジョホールに着いて間もなく、伯父は私を慰めてくれる積りだったのでしょう、虎狩に連れて行きました。
伯父は、お前が虎に喰い殺された。と云って、東京の家の者達を驚かせてやったら面白かろう、と冗談交じりに云いました。そいつはうまい考えだと手をうって喜んだものです。
――家の奴等、どんな顔をしやあがるか、
そんな詰らぬ事を考えながら、うかうかと伯父の口車にのって私が死んだと知らせてやったんです。そしてひそかに皆の驚く顔を想像して、愉快で、愉快でたまらなかったのです。生きていて、自分の死んだ後の皆の態度を見ていてやる、何と面白い計画ではありませんか。
伯父の妻はイタリー人でした。子供はありませんでした。伯父は伯爵家なんか相続せずとも、俺の家を継げばいいじゃないか、爵位なんかに縛られて狭い日本で暮らしたって始まらない。金さえあればどこへ行ったって面白可笑しく自由な生活が出来ると申します。なるほど伯父の家は大変な金持でした。
軈て東京から弔電が来たり、死亡広告が大きく出た新聞を送って来たりしました。継母は日々泣き悲しんで、大切な相続人を当人の希望とはいえ、南洋なんかへやるんじゃなかったと悔み、これが弟の方だったらまだあきらめもつくが、と歎いた手紙をよこしました。私はちょっと痛快でした。早速遺骨になりと逢いたい。弟が自身で受取りに行くと申してきかない、などという
弟に来られては大変だというので、早速死んだ苦力の白骨を、伯父が携えて上京したものです、私は自分の狂言がうまく当ったのに
そして相変らず遊んでいました、土人の娘を引張って来たり、西洋人と同棲してみたり、放蕩のかぎりを尽していたのですが、そういうただれた私の魂にも、一つ忘れられない清らかな、心を洗われるような想い出があったのです。それは幼少の頃からの許嫁だった
智恵子はどうしたろう。と思うのですが、こんなすれっからしになった私ですのに、智恵子の事だけはどういうものか
夢のように十年が過ぎました。
伯父は脳溢血で突然、遺言状も残さずに死にました。私の相続はまだ正式になってはいませんでした。遺産は全部
それからの私の生活は、お話にも何もならない、惨憺たるものでした。
何年かまた経ちました。
ある時あちらの新聞を広げて何気なく見て居りますと、重要会議で巴里へ行く一行の中に弟の名を発見しました。私は急に懐しくなり、何んとかして逢いたいと思い、いろいろと金の工面をして、シンガポールへ出て来て、日本人会の人を通し、弟に面会を求めたのでしたが、会う機会さえ与えられませんでした。それどころか、誰も私の申すことなど信じてくれずてんで相手にもならないのです、彼の実兄だと主張する私をただ蔑んだ眼で見て笑うばかりでした。その時始めて、弟と私との間の大きな隔りを知り、情けない思いに一夜船を見ながら泣き明しました。
半年後、帰朝の途にあった一行は、再びシンガポールに一泊することになりました。
こんどこそはと決心して、物売りに化け、彼の船室に入り込んだのです。
港へ船が着くと、よく土人や支那人が名産物を持って、ガヤガヤと入り込みます。私はその中に交って、弟の室に入り、中から自分で鍵をかけたのです。
弟は最初私を見て大層驚き、顔色を変えていきなり手近かのベルを押そうとしましたので、その手を押えますと、弟は蒼い顔をして睨みつけながら、
『無礼な真似をするな』
怒鳴りつけましたが、何を思ったのか急に
『
と云って苦笑しました。弟の態度が和らいできたので、私も幾分軽い気持ちになり、
『何云っているんだよ、オイ、僕だ』
私は彼の肩へ手をかけますと、彼はまた二三歩後へ下って、
『君はあの女の亭主じゃないのか?』
と云って額の汗を拭い、夢からさめたようにほっと溜息を吐いて、云い訳でもするようにいうのでした。
『どうもいろんな奴がやって来るもんだからね、僕はまた暴力団かと思ったんだ。アハハハハハ。して君は一体どなたでしたっけ?』
漸く落付きを取り戻し平静にかえった弟は、静かに私を眺めて姓名を思い出そうとしていましたが、軈てはッとして息を吸い込み、穴の開くように私の顔を見詰めました。今度の
『あッ兄さんだ! 兄さんだ!』
『ウン。僕だよ』
『兄さん!』
彼は危なく卒倒するところでした。それもその道理です。今まで死んだと思い込んでいた人が、突然目の前に現われたのですから、誰だって胆をつぶすのは
二人は長い間ソファーに倚りかかって話し合いました。たった一人しかない兄弟ですから、たとえ落魄しているとは云え、兄が生きていたということは、大変に弟を喜ばせたようでした。しかし表面は私はもうこの世にない人間になっているので、兄弟だと突然発表も出来ないから、今はこのままにしてそっと別れ、そして一足おくれて次の船でともかくも東京へ帰ったらよかろう。その上で後々の相談にも応じるからという彼の言葉に従って、私はひとまずひきあげました。弟は旅費は勿論当分の小遣まで渡してくれましたので、やはり何と云っても兄弟だなと
私は約束通り次の船で日本へ帰りました。横浜まで出迎えに来ていてくれた弟と連れ立って、懐しさと、云いようのない喜びに胸をおどらせながら、東京へ入りました。
ところがどうでしょう、彼は私を欺いたのです。自分の邸へ連れて行くのだと申して、市外のある私立精神病院へ連れ込んだではありませんか。
私はその時始めて弟の悪辣な計画を知って
厳重な監視のもとに幾月かを過しましたが、弟はそれきり一度も訪ねても来ませんでした。私は憤りに燃えました。そして毎日彼への復讐をのみ考え暮らすようになりました。後になって聞いたことですが、私の一生涯の入院料は、彼の手から院長へ前納してあったのだそうです。
私はある夜、看護人の隙を狙って病院を脱け出しました。
道案内も分らず、あてもなく歩いている中に、いつか夜が更けてしまいました。どこをどう歩き廻ったかよく記憶して居りませんが、ふと小屋掛の建物にまだ灯が見えているのを見て、疲労しきっている私は夢中でその中に飛び込んでしまいました。
それが今いるサーカスだったのです。人目を怖れ、弟の捜索の手を逃れるために大きな狒々の毛皮の中に姿をかくしているのです。南洋踊りだなどと出鱈目な踊りを踊る浅間しさも、その日を食べてゆくためには目を
ふとしたことから、智恵子が弟の妻になっている事を知りました。私は一目でいいから彼女に会いたい、会ってこの顛末を物語り、智恵子の口から慰めてもらいたいと思いました。しかし彼女に会う機会はなかなかまいりませんでした。
やっと私の願いが叶う日が来ました。上野の寛永寺にお茶の会がありまして、智恵子がそこへ行くということを、新聞で知ったのです。早速上野へ参り、寛永寺の附近をうろついていて、永い間あこがれていた彼女の姿を見ました。この機会を外してはもう永久に会うことは出来まいと思い、見えがくれに従いてゆきました。智恵子は運転手に何か云っていましたが、軈てたった一人で寛永寺の門を出て、静かに帝展へ入りました。
三十年も過ぎると
処がどうでしょう。今日の智恵子はやはり藤色矢餅の着物を着ているではありませんか。そして前髪も縮らせて下げています。三十年前の懐しい姿そのままの智恵子は、いま十歩を隔てぬ処にいるのです。私はなつかしさに思わず震えました。余り嬉しくってじっと黙って眺めているだけでは我慢が出来ませんでした。
夕方の人気が少なくなったのを見計らって、そっと後に従いて歩きました。
別館には殊に人が少のうございました。智恵子が選手の立像の前に立って、その男性的な筋肉に見入っている時、たまらなくなった私はふいに智恵子の前に姿をあらわして云いました。
『智恵子さん、私ですよ。お見忘れになりましたか? ジョホールで死んだことになっている私ですよ』
智恵子は少しの間棒立ちになったまま、身動きもしませんでした。
日にやけたこの顔も、この声も、彼女の記憶を
智恵子の顔は見る見る蒼ざめ、しっかり握り合せている両手が、ぶるぶる震えているのがはっきりと分りました。
『お憶い出しになりましたか? 私はこうして生きていたんです。あなたの目の前にいる私はお化けでも何でもありませんよ』
彼女は額に手を当てていました。前髪の毛が微かにゆれていました。
『何だか私にはさっぱり分りません。どうぞ宅の方へ入らして下さいませ、こんな処ではお話も出来ませんから』
そう云うと智恵子は踵を返して、足早やに歩き出しました。ところでその邸へ行っては、またしても掴って精神病院へ打ち込まれるに決っている。私は慌てて云いました。
『弟にはまた改めて会います。今日はあなただけにお話がしたいんです。智恵子さん待って下さい。東伯爵夫人! 智恵子さん!』
私は
『ではとにかく、外へ出ましょう。外へ出てお茶でも頂きましょう』
伯爵家の定紋のついた自動車は出口に横附にされていましたが、運転手の姿は見えませんでした。多分彼女の出て来ようが余り早かったからでしょう。
二人は連れ立って、人の余りいない精養軒のガーデンに入りました。
そこで智恵子に何もかも話してしまいました。彼女はただ驚いていました。勿論何も知らなかったのです。弟は私の事については一言も話してなかったと見えます。
『今更もう取り返しもつきません。弟の家内になって幸福に暮しているあなたをどうしようと云うのでもない。しかし弟は実に
『私はほんとに何も存じませんでしたの。お宥し下さいと申上げたって、お宥し下さるわけはありません、が、またお許し下さいなどと厚かましいお願いの出来る身ではございませんけれど――』
智恵子の声は打ち沈んで、苦悶の色がありありとその美しい顔に現われていました。
『許すもゆるさないもない、もう皆片づいている今日じゃありませんか、アハハハハハハ』
私の声はうつろのように響きました。
『では、どうしろと仰しゃいますの?』
『それは貴方がたのお考えに任せましょう』
智恵子は青褪めて、
『はい。よく分りました、改めて主人から貴方へお詫びを致させます。そして今の地位財産を貴方のお手にお返し申上げなければなりません。どうぞ、私をお信じ下すって
『貴女のお心は昔に変らないが、弟は何というか分りませんよ。また私を掴まえようとするでしょう』
『もうそんな怖しい事は仰しゃって下さいますな、私が責任を負います。そして只今のお住居は?』
『お住居? アハハハハハ。それはちょっと申せませんな』
『ではどうしてお返事を申上げたらよろしゅうございましょう?』
『御用があったら新聞へ広告を出して下さい、暗号でもよろしい。しかしこのまま逃げてしまおうたって、逃がしやしませんよ。あなたの蔭には私がいつでもついていると思って下さい。どこからか、あなたを凝と見ていますから』
智恵子は夕闇の中で身慄いしました。
その日きり私は智恵子を見ません。随分注意していたのですが、恐らく彼女はそれ以来外出もしなかったのだろうと思っていました。
一ヶ月ほどたっても智恵子からは音信がないので、私は彼女の心を疑い始めました。私に会った時は何しろ突然の事ではあり、驚きの余り一時逃れにああは約束したものの、さて考えてみれば馬鹿々々しい、せっかく自分達のものになっているのに、むざむざと返してしまうなんて詰らない、という欲心が起ったかも知れない。事によると、弟と一緒になって自分を欺く気かも知れない。私はうかうかしてはいられません。ああいう人達の事ですから、どんな悪計をめぐらすかも分りませんからね。人知れず捜索の手を延し、いきなり掴えるのではないかと思うと心配になって、何となく身に危険の迫っているのを感じます。しかしまたこうも考えるのです。智恵子は病気じゃないか知ら、上野で会った時も顔色は余りよくなかった。そう思うとこんどはまた違った意味で心配になり出します。
ある夜、私は思案にあまって遂々伯爵の邸内に忍び込みました。
来客があったと見えて、方々の部屋には灯がついていましたが、夜が更けていたので中は
幸いそこの一つの窓のブラインドの下の方が二寸ばかり開いていましたので、私はじっと室内を覗き込みました。
客の帰った後で夫婦は暖炉にあたりながら、頻りに話し合っていました。が、二人の顔には云いようのない当惑の色がただよって見え、何となく憂鬱な空気にとざされていました。殊に智恵子は一ヶ月余り見ない間にすっかり
『私はどうしてもこの儘ではいられません、何もかも分った今、貴方のお心が翻えらなければ、私には私の決心がございます』
智恵子の声は悲痛を帯びていました、弟は吸いかけの葉巻をポンと暖炉の中へ投げて、眉を深く寄せながら云いました。
『今更そんな馬鹿なことが信じられるか。兄はあの時死んだんだ、遺骨まで届いて、立派に葬式もすませている、兄は確かに死んだんだ。この世にいないんだ、いいか。分ったか。もう二度とその話はするな』
『でも生きていらっしゃるんですもの。私はすっかりお話を聞いてしまったんですから、貴方がどうしても私の言葉をお信じ下さらないなら、お兄様をお連れしてまいりましょう』
『今頃兄だなんて、突然現われて来たって誰が信じる。そんなくだらない事に取り合っちゃいられない、もうお前もそんな馬鹿げた事を真面目になって、心配するのは止しなさい。兄は本当に生きているはずはないんだからな』
『だって確にこの眼で見て、この耳でお声を聞いたんですもの』
『空耳ってこともある、幻想を見ることもある。この世に生存していない人間が見えたりするようじゃ、よほどお前も気を落ち付けないといけないぞ』
『狂人だと仰しゃるの? ついでに私も精神病院へ入れておしまいになるといいわ、一生涯の扶持をつけて――』
智恵子の声は剣のように鋭く、伯爵の胸を刺したらしかったんです。
弟はすっくと立ち上って、智恵子の方へ一歩進みました。彼の顔に怖しい表情を見た私は思わずアッと小さい叫び声を出しました。弟は気が付かなかったようでしたが、智恵子は窓の方を振り向いて、そこに私の顔を見たのでしょう、よろよろと立ち上りましたが、直ぐまた椅子の中に倒れてしまいました。
気絶したのでしょう。弟がベルを鳴らしたり、女中を呼ぶ声がしたりして、俄かに家の中が騒々しくなりました。
私は裏口からこっそり逃げ出しました。
それきり伯爵邸へは行きませんでした。それから十日ばかり過ぎましたら、智恵子が死んだということが新聞に出ていましたので、非常に愕きました。他殺か、自殺か、とありましたので、思わずはっと胸を打たれました、他殺なら別問題ですが、もし自殺だったとしたら、彼女を死に導いたものは私なんです、智恵子は私との約束を果し得ず、責任を感じて、死んで謝罪する積りだったとしか思われないんです。そう考えると
男は語り終ると悄然として首を垂れた。その顔には苦悶の表情がありありとあらわれていた。
S夫人はいつの間に取ってあったものか、ハンド・バックから戸籍謄本を出して、彼に見せながら云った。
「では、この死亡となっているのが貴方なのですか?」
「はい。明治十七年生で、明治四十一年に死亡したことになっているはずです」
それだけ聞くと私達は彼に別れた。
ともかく一応事務所へ帰ろうと思って、二人は足早やに電車道まで出て来ると、そこに一人の運転手風の男が、待ち受けてでもいたように、つかつかと前に来て帽子を脱いで頭を下げた。私はその男の顔に見覚えはなかったが、夫人とは知り合いだと見えて、
「直き後から帰りますから、あなたは一足お先に事務所に帰っていて下さい」
そういうなり夫人はその男と一緒に夕方の賑やかな町の中に姿を消してしまった。
翌日夫人は暮れ方近くまで遂々事務所へ姿を見せなかった。
どんな忙しい時でも、朝はちょっと顔を出す例だのに、どうした事だろうと思いながら調べものをしている処へ、突然後の扉が開いて支那服を着ぶくれた大男がそそくさと入って来た、勿論それはS夫人だった。
「やっと探している、あの女の居所を見付けましたよ」
「サーカスの女でございますか? どうしてお分りになりましたんですの?」
「貴女に話してなかったけれど、私、実は伯爵家の運転手を買収しておいたんですよ」
そう云えば昨日見た男、あれは伯爵家の運転手だろう。円タクのにしては服装が立派だったし、態度にもどこやら丁寧なところがあった。
「その運転手が一々伯爵の行動を報告してくれていました。伯爵が足繁げく行く家が麹町辺にある事、五番町附近で自動車を乗り捨て、徒歩で出かけるが、ある時は四五時間も待たされる。帰りには必ず『どうも狭い横町に住む奴の気が知れんな』とか『訪問者泣せだよ』とか云い訳らしく愚痴をこぼす。少し変でしょう? どうもその家が怪しいと思って探らせてみたら何の事でしょう、馬鹿々々しいそこに私の探しているあの女が囲ってあったんですよ」
「どんな女でして?」
「妖婦型のあくどいような女でした。道楽をしつくした男でも、その女にかかッたら離れられないそうですから、女遊びを知らない伯爵が夢中になるのも無理はないでしょう。シンガポールに出発したように奥様の手前をつくって、実は目と鼻の処へ家を持たせ、豪奢な
「伯爵も隅に置けませんわね」
「しかもその女には支那人の情人があるんです。同じサーカスで奇術に出ていた
いつもながら夫人の大胆なのには敬服してしまった。私はちょっと冗談のように云った。
「化の皮がはがれやしませんでしたの?」
「そこは都合がいいんです。支那語と日本語をまぜっこぜにして、
「えッ? その女が殺したんでございますか?」
私は吃驚して訊きかえした。夫人はその問には答えないで話をつづけた。
「すると女は青くなって弁解するんです。殺したのは私じゃない、憎い憎いと思ってたけれど、私は何もしませんっていうんです。私はぐんぐん取ッちめてやると女もなかなかの
「まア! 伯爵だったんですの? なるほどそうかも知れませんわ。きっと奥様が邪魔になり出したんでしょう、それでなくてさえ財産をお兄さんに返してくれとやかましくせめていたし、伯爵は慾があって返す気はない、しかしこの儘捨てておいたら、あの奥様が承知するはずがありません。女中なんかの噂には、この頃は始終御夫婦で何事か云い争いをしているといいますから、伯爵は奥様を持てあましてらしたんじゃありませんか、そこで密かに毒殺して、その罪を蔭の男、即ちお兄さんに塗りつけ、こんどは殺人罪で永久にこの世から葬り去ろうという計画だったのでございましょう。恐しい人ですわね」
夫人は私の説を笑いながら聞いていたが、
「まだ犯人を伯爵だと断定するわけにはゆきませんよ。最初から私には九分通り判断はついていたんですが、あとの一分が分らないために苦しんでいるんです。まあ自然に解決がつくまで待っていらっしゃい」
そこへ給仕が夕刊を持って来た。
夫人は直ぐそれを広げて見ていたが、無言のままくるりと
「まあ!」私は思わず驚きの眼を見張った。
そこには『狒々の怪死』という題で、僅か数行の文字が書かれてあった。浅草で興行中のサーカスの愛嬌者、狒々男が評判の『鉄の処女』を演じている最中、
何事か深い決心をしたS夫人はその晩遅く、助手の私を伴って、伯爵を訪問した。
伯爵は直ぐに自分の居間に通して、
「何か、手がかりでもありました?」
心配そうに訊くのだった。恰度二人がその部屋に入った時、伯爵は等身大の亡き夫人の肖像画の前に座って、香を焚き冥福を
私はその空々しい、
S夫人はいつもの優しい態度で、静かに伯爵に云った。
「伯爵、もう好い加減な処で幕に致たそうではございませんか」
「――」
「あなたのお兄様はこの通り自殺しておしまいになりました」
夫人は懐中から夕刊を出して、赤い線をひいた処を指した。
伯爵の顔色は見る見るうちに変った、夫人は穏かな調子で、彼の口から物語られた
伯爵は沈黙
「妻を殺したのは兄でもなく、また私でもありません。実は自殺なんです。上野で図らずも兄に出会って、すべての物語りを聞かされ、正直な妻は兄にすまない、せめて自分達の財産全部を返して、お詫びしなければならないと云ってきかないのです。私は慾に目がくらんで我意を通そうとする、その板挟みになって苦しみ、悶えぬいた揚句、自殺してしまったんです。妻は私よりもっと苦しい立場にありました、結婚こそしないが、死んだと思っていた許嫁の夫が、現在生きていて、しかもああした惨めな生き方をしているとあっては、迚も見ていられなかったのでしょう。私と顔を合せると妻は直ぐその問題を持ち出しては、責め立てるのです。
ふじやホテルに電話をかけたのは私でした。妻はどうしても急に会い度い、と云って聞かないで。途中まで迎えに行って、二人は横浜へ行ったのです。
途中からもうその問題が始まって、妻は相変らず自分の主張を少しも曲げない、私は私で、自分の云う事を頑張り通したのです。最後には私も
妻は悲しそうな顔をしていました。
軈て夕飯を食べるために、グランド・ホテルの食堂へ行きました。客は殆ど西洋人ばかりで、知り合いの人には誰れにも逢いませんでした。
食事中妻は一言もいいませんでした。深い決意の色があらわれているのを見ましたが、
私の体は凝結したように
サロンへ戻ってからも妻は口をききませんでした。ホテルを出る頃はよほど苦しそうでしたので、円タクを拾い、横浜から邸まで附き添って、私が門内まで送り込んだのです。
殆ど意識を失いかけている妻を無理に引き立てて、玄関の扉の処まで歩かせ、ベルを押して私は門の外へ逃げ出し、そこから見ていました。すると小間使が出て来て、妻がすうっと扉の中に吸い込まれるように入ったのを見届けてから、安心して、そのままクラブへ参り夜を更しました。
なお万一の場合を考慮し、疑いを避けるために妻と一緒にいた時間を、五番町の妾宅に居ったように、よく妾に云いふくめておきました。
しかし妻が自殺したとなると、ちょっとまた困ることがあるのです。いずれ家庭内に何かあったと怪しまれるでしょう? 結局兄の問題などが表面に出て来て、暗闇みの耻を明るみへ晒らさなければなりません。私はそれを何より怖れたんです。そこで策略をめぐらし、他殺にしてしまって、犯人として兄を掴まえてもらおう。そしてどこまでも狂人としてしまえばいいと思っていました。
何しろ兄の
S夫人は最後まで静かに、微笑を浮べながら伯爵の話を聞いていた。彼女は多分初めからこうと見透しをつけていたのだろう。私達の仕事はこれで終った、あとの事は伯爵自身に任せることにして、二人は邸を辞した。