五六人の
「世間に発表されていない、面白いお話を一つ願います」
幹事のA夫人の言葉につづいて、
「平凡でなく、奇抜なところをどうぞ――」
「息づまるようなお話がうかがいたいのよ」
「偽りのない、ありのままのがいいのね」
「実際にあったことでなくっちゃあ刺戟がないわ」といろいろな注文が続出する。
S夫人は笑いながら卓上の紅茶に唇を潤し、奥様方の顔をひとわたり見廻してから、低い静かな声で話し始めた。
「私がある事件で支那に行っていた時のお話なんですが――。
ある大会社の支店長K氏の夫人が、自宅の玄関で、何者にか惨殺されていたという事件は、皆さんもまだ記憶していらっしゃいましょう。美人で、賢夫人で、熱心なクリスト教信者で、まことに評判のよかった奥様であっただけ、あちらではもう一時はその噂で持ちきりでございました。
その頃、鼠色の男と名づけられた殺人鬼が頻りに世間を騒がせて居りました。が、誰もその男の正体を見たものはないんです。恰度先年東京でも説教強盗が盛んに荒し廻っていたことがありましたね。そしてなかなか捕らず、段々大評判になってくると方々に何々強盗というようなものが
それがすべて鼠色の男の仕業だかどうだか分らないのですが、彼も最初のうちは
K夫人を殺したのも無論その鼠色の男だということなのですが、しかしその犯人は一向捕まらないのですから、被害者の夫は憤慨して領事館を通じ、支那警察に対して厳重に抗議をしたんです。
するとまた犯人は直ぐと捕ったんですよ。鼠色の男だなどと
ただ不思議なのはその男が捕縛されて以来、鼠色の男はどこにも現れなくなり、彼から被害を受けるという事は全然なくなりました。捕ったのは
私がこれからお話しようというのは、その美しかったK夫人についてです。殺される二週間ほど前にある処で、偶然、彼女を見ましたのです。それも一度ではありません。それまで夫人と私は一面識もなかったのです。それがこの世を去る間際になって、つづけざまに、二度も三度も見るなんて――、全く不思議じゃありませんか。どうも前置きが大変長くなって済みませんでした。
遅い食事をやっと終り、コーヒーを一口喫んだ処へ、卓上電話のベルが慌しく鳴りました。私はコップを右手に持ったまま、急いで受話器を耳に当てますと、
『たったいま、南京街のキールン・ホテルで、人殺しがありました』
助手の声でした。馳け付けてみたところで仕方がない。公の職務にあるわけじゃないんですから、現場に入れてくれるか、どうか、それさえ分りません。が、しかし、キールン・ホテルの主人夫妻を私は知っているのです。というのは、この夫婦は以前私の親類の家に使われていたコックとアマなのです。忠実でよく働いたというので、ホテルを開業した時は勿論、その後も引き続いて何かと世話を焼いてやっているのです。そういう関係がありますので私から話してみたら、あるいは何かの便宜を与えてくれないものでもありません。大して興味もなかったのですが、せっかく知らせてくれた助手の手前もあるので、とにかく行ってみようと思い、ハーフ・コートを引掛けて家を出ました。
まだ宵の口だというのに、住宅地附近はひっそりとして淋しゅうございました。大きな屋敷ばかり並んでいて、外燈が処々にぽつりぽつりとあるだけで、薄暗いんです。横町を曲ろうとしました時、反対の方向から、不意に一人の女が出て来て、危く私に突き当るところでした。
すれ違いました時、『オオ、
私は
踵を返すと、見えがくれに尾いて行きました。土塀の尽きた処で左へ曲り、五六軒目の家の前で、ふと女の姿を見失ってしまいました。多分その辺の横にでも入ったのでしょうと思いますが、
私の見違いだったのか知ら? こんな家に入るはずがないがと不審に思いながら佇んで居りました。随分長いように思いましたが、それでも十五分か二十分位しか経っていなかったのかも知れませんが――。潜戸が音もなくすうッと開いて、
女は
見るとまるで別人のような、その立派さにまず驚いてしまいました。頭の上から、足の先まで寸分の隙もない、流行ずくめの、金のかかった洋装です。ハイヒールを
これが先刻の女と同一人なのでしょうか?
何のための変装でしょう? 仮装舞踏会の帰途? それには時間が合いません。余りに早過ぎます。
ある貴婦人は夫のかくれ遊びの場所を突き止めるために、変装して尾行したといいます。変装して刺戟を求め歩いたという女の話も聞きました。が、それ等は好奇心からの遊戯に過ぎません。変装と云っても、たかだか眼鏡をかけるとか、髪の結い方でも違える程度で、直ぐ見破られてしまう、つまり素人芸ですね。
処がこの婦人の変装は余り巧妙で、しかも馴れきっています。道楽や遊びではこれほど上手にはなれません。しかし、これでやっと香水の謎は解けましたが――。
表札を見て、始めて彼女が
飛んだ道草をしてしまって――、キールン・ホテルに着きました時は、もう何もかも片付いた後のように、しんとしていて帳場には誰も居りませんでした。時間が経ったせいもあるのでしょうが
帳場の横手の茶の間を覗くと、そこには主人の張氏夫婦が、額を突き合せるようにして、何かひそひそと語り合っていました。
『あ、よくいらした!』
張氏は愛想よく起ち上って、私を迎えて呉れました。
『人殺しがあったっていうじゃありませんか?』
妻君は夫と私の顔を等分に見て笑っています。張氏は面目なさそうににやにやしながら、
『間違いだったんですよ。
私はちょっと拍子抜けがしました。それだからこそ、家の中がこんなに静かだったのです。
『病死だったんですか』
『脳溢血で死んだんですって、警察のお医者さんが云いました』と妻君も口を添えて云います。
『そう。でもまあよかった。人殺しなんかあると他のお客さんが嫌がるでしょうからね。脳溢血なら、これや仕方がないわ。こちらはまあお
『始めっからそうと分ってれば何でもなかったんですけれど――。一時は
脳溢血と確定して、皆引き揚げてしまった後だったんです。しかしせっかく来たのですから、せめてその殺人嫌疑のあった部屋だけでも見せてもらって帰りましょうと思って、案内を頼みますと妻君は快く承知して、先に立って階段を昇って行き、一番端れの十三号と札の出ている
殺風景な、実に粗末な室です。西陽を
『引取人が来てくれるまでは心配です。何しろ、このお客さんはお
私は死人の方へ向いて一礼し、室を出ようとしました時、
余り小さくて、可愛く出来ているので、指先で
私は小指の先につけて香を嗅ぎました。この匂は? ウビガンのケルクフルール? たった今謎が解けたはずのあの匂だったのです。私は妻君に耳香水を渡しながら申しました。
『こんなものが落ちてたんですよ。奥さん、あなたのですか?』
彼女は怪訝な顔をして見ていましたが、掌の中にしっかりと握りしめてしまいました。
茶の間に戻ってから、彼女はそれを夫の掌の上にのせて云いました。
『あの人が――、慌てて落して行ったんですよ』
張氏は耳香水を指先でひねくり廻したり、香を嗅いだりして珍らしそうに眺めていましたが、
『帳場の前をすうッと通って行く時、いつもこの香がぷんとするんだ。これやあの十三号のお客さんの匂だよ』
『お客さんッて? 男? 女?』
『女ですが――』と妻君は夫の顔色を見ながら、言葉尻を濁してしまいましたが、張氏はその後を引き取って、無造作に云ってのけるのでした。
『あの十三号はね、女給さんが逢いびきの場所に使ってたんですよ。金離れがよくって、一ヶ月前納で、二年間も、ただの一度だって滞らせた事はないんです。きちんきちんと払ってくれるんですからね。ホテルじゃ大切なお客さんだったんですけれど――。とうとう
張氏は半分
『だから、云わない
『だッてお前、二年間もただの一度だって二日続けてやって来た
『それや仕方がないわ。誰だって吃驚しますよ。ねえ、先生。そうでしょう? 自分の借り切ってる部屋に、知らない男が死んでいるんですからね。おまけにあの人ッたら、ぶよぶよ肥っていて、鼻血なんか出しているんですもの、気味が悪いわ。でもあの女給さんは気丈者ですよ。私だったら気絶しちまうわ』
『女給さんって、どんな人ですの?』と私は二人に尋ねてみました。
『
『でも
『それじゃ何ですか、その女給さんが逢びきに来てみたら、自分の部屋に知らない男がいた、しかもその人が死んでいたって訳なんですか?』と私が申しますと、張氏は首を縮めて笑いながら云いました。
『恰度今日の
『それに女給さん、いつ来たんだか私達ちっとも知らなかったわねえ』
妻君は何かその時の事を思い出したのでしょう。くすりと笑いました。すると張氏も
『女給さん、ベッドに寝ているのを、
『
『でも――。余り
と私が云いますと、張氏はにやにやして答えるのです。
『なあに、男に夢中になッている間はそんなもんですよ』
『相手の男はどんな人なの?』
『西洋人ですよ。若い、好い男でさあ』
『その男、
『来たんですよ。恰度その騒ぎの真最中、ふらりと入ッて来ましたがね。――お巡査さんの姿を見ると慌てて、逃げ出しちゃッたんです。女給さんは女給さんでその男を見ると風のようにすりぬけて往来へ飛び出して行ッちゃッたんです。ほんとに変な人達で可笑しくなッちまいます』
果してその女とK夫人とが同じ人であるかどうか、これだけの話を聞いて、直ちに彼女であると断定を下すわけにはまいりませんが、私が往来で見た女給風の女は、最初出逢ッた時、恐しく、苦しげな息遣いをしていました。重病人か、さもなくば恐しい出来事にでも
評判のよい賢夫人、死人を抱いた女給、耳香水、私には皆謎です。
この時以来、私はK夫人に対して大変に興味を有つようになッたのです。
その翌々日、私はある人の告別式に列席するため、定刻より早めに教会へ往っていました。そこには必ずあの夫人が来るであろうと思いましたから。果して式の終る頃、喪服を着た姿を見せました。その
翌日も、その次ぎの日も彼女は外出いたしませんでした。恰度三日目の午後、K夫人は盛装して自家用の車に乗り、祈祷会、レセプション、午後のお茶、答礼、といかにも真面目な社交夫人らしい多忙さに半日を暮らし、最後の家を訪問した時は自動車を帰して、時間の都合でもあるのか、少し
K夫人は通りすがりの円タクを呼び止めて、低声に何やら命じていました。私も円タクを拾って、彼女の後を追うように云いつけました。
真直に家へ帰るのではあるまいと思っていましたら、果して彼女は全然反対の方向に走らせ、ある大きな建物の前で車を止めて降りました。その辺には同じようなビルディングばかり立ち並んでいまして、昼間の賑さに引きかえ、夜はまことに静かで寂しい位でした。
K夫人は
未亡人倶楽部
○スピード時代の恋愛市場○愛の内容絶対秘密
○本名用う可らず(仮名に限る)
○仮面用マスク使用のこと
○マスク販売(本日大割引)
○午後十二時限り(会員はこの限りに非ず)
私はマスクを一つ買いました。見るとK夫人もちゃんとマスクを掛けていて、しかもその上に色眼鏡まで掛けているという御叮嚀さで、実に用意周到を極めているのには感心してしまいます。そのため彼女の顔の大半はかくされていましたが、なお
眩しい照明に輝く大広間は、壁も天井も全部鏡張りです。あらゆる物の際限なき反射は、部屋中を一種異様の色彩に浮かせて居ります。特にある場所などは床にも鏡を張ってある始末です。
椅子と食卓が適当にばらまかれ、一つの
立札には、北京、ロンドン、東京、パリー、南京、ベルリン、上海、京都、大阪、ニューヨーク、天津、マルセーユ、香港、横浜等々、世界中の名が書いてあります。中には余り人に知られていない地名などが、故意に書かれてあるのでした。
ここは、
倶楽部の賑い出すのは夜の十時頃からです。支那人のボーイが各卓子の上にビールや洋酒を運ぶ間に、熱狂的な、胸を踊らす音楽が始まり、男女の恋心をそそりたて、悩みに火をつけるのです。世界の町々に陣取ったお客達は、思い思いに前後左右を見廻して、それと思う人へ無遠慮なエロを送る、気の小さい人もマスクの蔭にかくれてのウインクは、存外大胆にやれるものらしゅうございます。
時計が十一時を打ちますと、いよいよ恋の遊戯、婚約、運だめしが始ります。テーブルにはあらかじめ手紙を書く設備がしてあって、ボーイはいつの間にか、メッセンヂャアと早変りして、お客さんの発信を待っています。
東京は先刻からニューヨークの横顔に流し目を送っている。桃色の紙に『私は貴女に……しかし、貴女は?』などと書いて封筒に入れ、ベルを鳴してメッセンヂャアボーイに托しました。手紙は海を超えて、遥かかなたの大陸へ渡って行くという趣向なのです。
顔に
今だに私の目に残っていますのは、もう小皺の沢山あるお婆さんが、真白に顔を塗りつぶして、華美な服装で若やいでいたのでした。図々しい『男の猟師』だというので、皆の嘲笑の的になっていましたが、当人は一向平気で、むしろ大得意らしく振舞っていたのはほんとに浅間しいと思いました。でも有名な金持なので、若い候補者が次ぎから次ぎと絶えないんです。そのために彼女の通信は一番数も多く、かさばってもいました。
K夫人はパリーの席に居りまして、京都と通信をしては居りましたが、何となく気が進まないような素振をしていました。京都は三十五六歳位、横顔の美しい西洋人でした。少しポマードをつけ過ぎてはいるようでしたが、これがキールン・ホテルへ出入する男ではないかと思って、私は注意深く眺めて居りました。
その時ベルリンに腰かけていた四十過ぎの女も、頻りに京都に通信を宛てているのを見ました。京都は如才なくその手紙を嬉しそうな身振りをしてざっと読み、
京都は頻りに能弁な眼をK夫人に向けていましたが、どういう
十一時半までは皆離れて座っていましたが、ボーイが気を利かして勧めて歩きますので、情意投合した男女は軈て同じ食卓に向い合って腰掛けました。ボーイは万事呑み込んでいましていつもの習慣通りに京都をK夫人の処へ導いて同席させました。すると彼女はぷいと起って、離れた処に一人でいる上海の席へ行ってしまいました。京都は間の悪るそうな不快な顔をして唇を噛み、きっと後姿を睨んで居りましたが、その顔色は気味が悪いほど蒼白くなっていました。
軈て婚約を祝う奏楽につれて、コップになみなみと酒が
中には随分滑稽なシーンもありました。四十年輩の眼っかちのブイノス・アイレスに相手がない。彼は
ボーイ達にとっては、直ぐ
閉会のベルが鳴り、皆急にがやがやと起ち上って、帰り仕度を始めました。地下室の階段を大勢の男女に押されながらK夫人を見失うまいと注意しつつ外へ出ようとしました時、不意に早足になって夫人は馳け出して往来へ出ました。その後を背の高い男が追って行き、遂々追いつかれて、仕方なく、その人と肩を並べて歩き始めました。それは京都にいた男でした。
K夫人はいらいらしながら手を挙げて、通りがかりの円タクを止めようとしますと、男はその手を押えて何か熱心に云っているのです。私は彼等の声の聞える辺まで近寄って往き、暗い陰に身をひそめて耳を
『うるさいわ。今更、何のかのって云い訳したって――。私の気持はもとへもう戻りやしないわよ』
『たったあれだけの事で――? そんなに気持が変っちまうもんかな。僕には解らない』
男は頭を振って、少し強い語調で云います。すると女はその一言で急に興奮して、まるで喰ってかかるような態度になり、まくし立てて云い始めました。
『そうよ。貴方に私の気持が解らないと同じように、私にも貴方の気持は解りませんわ。しかし、何と弁解なすったって、あの晩の出来事は貴方に充分責任があると思うわ。八時にって約束しておきながら、三十分も
女の権幕に怖れたのでしょうか、男は
『だって――、僕の時計が遅れていて――』
『オホホホホ。また時計に罪をなすりつけるの? 調法だわね。でも貴方の腕時計
女はヒステリックな声で嘲笑するのです。
『逃げ出したって云うけれど、あの場合、僕が顔を出しちゃ拙い。お互のため、殊に貴女のためによくないと思って――』
『オホホホ、うまい事を仰しゃる。大層御親切様ね。でももう、その御親切の押売は買いませんよ。永い間の偽せ親切、私はそれに満腹しちゃってるわ』
『そう誤解されちゃ物が云えやしない。ねえ奥さん。もう少し気を落付けて、僕の云い分も聞いて下さい』
『もう沢山。詭弁を弄したって、徒労よ! 私の気持はすっかり貴方を離れちゃった。醒め切った女に未練を残さないで、貴方もさっさと転向をやったらどう? キールン・ホテルで私に背中を向けて、逃げ出して行った、あの調子でやる
彼女は憎々しそうに毒づいて居りました。男はむっとしたように黙り込んでしまいましたが、その荒々しい息づかいから
恰度その時、彼等の
チョッ、男は忌々しそうに舌打ちして、直ぐ続いて来た後の車を止めました。自動車のヘッドライトに照し出された横顔は恐しく蒼褪めて、殺気を帯びた眼に私の心が寒くなりました。というのは、その美しい彼の顔に兇暴な影をみとめたからでした。
次の瞬間、彼の自動車が疾風のように彼女の車を追って、暗闇に消え去るのを見ました。
その夜、K夫人は玄関の敷石の上に冷たくなって横わっていたのでした。頭蓋骨は砕け、顔は血のかたまりのようで、目鼻の見境もつかず、着物も血に染んで肌にねばりついていました。指輪はもぎ取られ、時計も、懐中物も、金目の物は悉く失くなっていました。その点だけでも強盗の仕業だということになったのです。
私はただ三度彼女を見たというだけですし、彼女の死については誰も疑っていない、犯人は挙っているんですしね、せっかく皆から惜まれて、立派な夫人として死んで行った人の暗い半面を
秘密の遊びは非常な魅力を有つものなのでしょうが、それと同時に実に危険なものだとつくづく思いました。もしあの人達が自分の相手に選んでいた者が、どんな人間だッたかということを知りましたらば――。
東京へ帰ります前日、私はキールン・ホテルに張氏夫婦を訪ねました時、それとなくK夫人の噂を持ち出してみましたが、一向に手応がありませんでした。この人達はあの夫人が二階の部屋を借りていた女給さんだったとは、全然気が付かないようでした。
『あのお部屋その後どうなりまして?』と訊いてみましたら、
『やはりね、あのまま塞っているんですよ』
私はちょっと妙な気がしました。
『じゃ、女の人も来るんですか?』
『否え。もう来られませんや。何んぼ何んでも――。まさかね』
『じゃあ――?』
『男がひとりで借りているんですよ』
『相手の男?』
『そうです』
『西洋人?』
『ええ』
私はふと耳香水を思い出しました。
『耳香水どうなすって?』
張氏は妻君と顔を見合せて黙っていましたが、軈て低い声でこんなことを云いました。
『盗まれちゃったんですよ。この机の上にのせて置いたんですが、いつの間にか消えちゃってね』
『いつ頃の事なの?』
『四五日前までは確かに机の上にありましたんですよ』
『不思議ですわね』
『全く変ですよ』
『女給さんの旦那さんが持って去ったんじゃありませんか?』
『なるほど、そうかも知れない』
二人は始めて合点が行ったというように声を合せて云うのです。
『でも無断で持って行くって法はないわね』
『それやそうです。一つ
私は妻君と一緒に二階へ昇って行きました。何とかしてその相手の男を見たいと思っていた処へ、恰度耳香水の紛失した話が出たので、うまく釣り出せた訳なのです。私は指先で静にノックしました。すると直ぐ扉が開いて、奇麗な顔をした西洋人が首を出しました。ひょいと顔を見合せた瞬間、私は胸がドキリとしました。というのは彼の髪の毛、口髯、眉などの色合いがいかにも鼠色という感じがしたからでした。まさか鼠色の男ではありますまいが。
『何か御用事ですか?』
咄嗟に
『帳場の机の上に置いてあった耳香水が紛失したんです。御存じないのでしょうか?』
するとその男は懐中から見覚えのある象牙細工のシュバリエを掌にのせて、私達に示しながら少しの躊躇もせず云ってのけました。
『これでしょう? これは私の妻のものです。帳場にありましたから取って来ました』
彼は耳香水をさも大切そうに内ポケットに
それから半歳ばかり過ぎてのことですが、支那から帰って来た人の話に、真物の鼠色の男が遂々捕ったということを聞きました。南京街の支那人のホテルに隠れていた若い西洋人だったと申しました。しかしそれが果して私の見た男、K夫人の愛人であるかどうかは分りません。
K夫人も、鼠色の男も、耳香水もすべて謎として、解かないでおく方が何だか奥床しい気がするじゃございませんか」