錢形平次捕物控

萬兩分限

野村胡堂





「世の中に何が臆病おくびやうと言つたつて、二本差の武家ほど氣の小さいものはありませんね」
 八五郎はまた、途方もない哲學てつがくを持ち込んで來るのです。
「お前の言ふことは、一々調子ツ外れだよ、武家が臆病だつた日にや、こちとら年中腰を拔かして居なきやなるまい」
 平次は大して氣にも留めない樣子でした。障子を一パイに開けると、て混んだ家並で空はひどく狹められて居りますが、一方から明神樣の森が覗いて、何處からかうぐひすの聲も聞えてくると言つた長閑さ、八五郎の哲學を空耳に聽いて、うつら/\とやるには、申分の無い日和です。
「でも、さうぢやありませんか、親分、武家も大名ともなれば、年がら年中自分の首ばかり心配して、障子にさんをおろしたり、お妾との睦言むつごとにまで、見張りの宿直とのゐが、屏風の蔭で耳を濟まして頑張つてゐるといふぢやありませんか、さうなつた日にや、色事だつて身につきませんね、親分」
「だから大名にはなり度くないと言ふんだらう、良い心掛けだよ、お前は」
「旗本は家人かじんだつて自分の首を何時いつ取られるかと思つて、ビクビクし乍ら一生を送つて居るやうなのは、隨分澤山ありさうぢやありませんか。武家屋敷といふと、町人の家より戸締りが嚴重な上に、長押なげしにはやりが掛けてあるし、御本人は御丁寧に冷たい人斬庖丁を、二梃も三梃も取揃へて、生涯添寢をしてゐるんだと思ふと、あつしは氣の毒で、氣の毒で」
「安心しなよ、誰もお前を武家に取立てるとは言はないから」
「聽くと何んでも、主持ちの武家がうつかり押込にでも入られて、手籠にでもされやうものなら、腹を切るか永のお暇になるか、兎も角も、生涯人に顏を見せられないことになるんですつてね」
「そんなこともあるだらうよ」
「だから起きるから寢るまで、人斬庖丁ばうちやうを傍から離せなくなる」
 武士の魂たる兩刀を、脅迫觀念の禁呪まじなひのせゐにしてしまつたのは、まさに八五郎の新哲學だつたのです。
「それはわかつた、岩見重太郎だつて、宮本武藏だつて、八五郎よりはきもつ玉が太くなかつたかも知れないといふことにして、お前は一體何んの話をしに來たんだ」
 平次は膝をツン向けました。八五郎の『武士臆病論』には何やら含みのありさうな匂ひがするのです。
「その武士の中にも、とりわけ臆病な武家があるから、お話の種なんで」
「誰だえ、それは?」
「どうせこちとらの友達や親類ぢやありませんがね」
「當り前だ」
「青山長者丸の万兩分限、村越峰右衞門樣。江戸え拔きの豪士で、大地主で、山の手切つての物持で、若い時は、學問武藝、いづれも愚かは無かつたが、年を取つて金が出來ると、急に世の中といふものが怖くなつた」
「フーム、強さうな名前ぢやないか、俺はまた、何處かのお大名のお抱關取かと思つたよ」
「家柄がよくて金があつて、人間が利巧で腕が達者だから、若い時は全く大した者だつた相ですよ。隨分元氣に任せて喧嘩も買ひ、金にモノを言はせて横車も押し切つたが、年を取ると滅切めつきり氣が弱くなつて、若い時にひどい眼に逢はせた奴が、つゞみを鳴らして仕返しに來さうで、どうも、夜もオチオチ眠られない」
「やれ情けないことになるものだな」
「そこで、屋敷をお城のやうに造り、濠をめぐらし、東西南北に物見やぐらをあげ、濠にはハネ橋を掛けて――」
「おい/\青山長者丸だつて、江戸八百八町のうちには違ひあるめえ、そんな大袈裟なことをしたら、第一公儀が默つて見ちや居ない筈だ。忽ち謀反人扱ひを受けて、磔刑柱はりつけばしらを背負はされるぜ」
「それは大丈夫で、長者丸は親分も知つての通り百姓地が多くて、何萬坪となく田圃たんぼだし、村越の家といふのは、その田圃の眞ん中だ」
「それにしても、お濠ややぐらは大袈裟過ぎるだらう」
「話はそれ位大きくないと、面白かありませんよ。お濠と言つたつて、冬になれば大根を洗ふ用水堀、夏になると半分は深田になつて、お米の木を植ゑようといふ都合の良いお濠だ」
「馬鹿にするなよ」
「四方の物見櫓は、火の見とも言ふ、一本づつ龍吐水を備へて、用心をさ/\怠りない」
「良い氣なものだ」
「ところで、家の中の要愼はそんな生やさしいことぢや無い」
 八五郎の話は、これからが愈々佳境に入りさうです。


「お前はまた大層くはしいぢやないか」
「百人町まで用事があつて出かけると、土地の顏の古い手先で百兵衞に逢ひましたよ、――あ、さう/\、すつかり忘れて居ました、百兵衞は錢形の親分に宜しくつて言つてましたよ」
 八五郎は妙なことを思ひ出したりするのです。
「百兵衞はまだ達者かい、もう六十近い筈だが――」
「鈴木主水と友達だつたてな事を言ふ親爺ですからね、――その百兵衞に往來で逢つて、立話をして居ると、青山も江戸の内だ、大層變つた話があるんだが、ちよいと覗いて見ないかといふことで、案内されたのはその長者丸の田圃の中の、村越峰右衞門の家ですよ。相手は何處からも扶持も祿も貰つて居る武家ぢや無いが、新宿の内藤家、青山の村越家などといふと、東照宮樣御入國前からの家柄で、大公儀からも格別の御會釋があり、江戸も下町などでは、思ひも寄らないほど威張つたものです」
 下町つ子の八五郎に取つては、まだ江戸の山の手に殘る豪族の、一種の潜勢せんせい力が不思議でたまらなかつたのです。
「で、お前のことだから、行つて見たことだらうな」
「時分時で財布は御存じの通り北山でせう、江戸名題の豪族のおかずはどんなものかと――修業のために」
「呆れたものだ」
「行つて見ると、聽きしにまさる豪勢な暮しでしたよ」
「聽きしに優ると來たか、お前の學もいよ/\こふを積んで、近頃は俺にもわからねえことがあるよ」
「あのもさう言ひましたよ、せめて口説くぜつは江戸言葉にして下さい――とね」
「毆るよ、畜生」
「へツ、へツ、親分はまた自棄やけに氣が短かくなりましたぜ」
「ところで――」
「さう/\村越長者の話でしたね、お濠は用水堀の、角櫓は火の見と素姓はわかつたが、中へ入つて見て驚きましたね。万兩分限だか何んだかは知らないが、まるであれは、小大名のお下屋敷か、木口のことも何んにも、あつしには見當もつきませんが、兎にも角にも大したものですぜ親分」
「それ丈けのものを、今の主人が一代にこさへたのか」
「先代まではつましい藁屋わらやに住んでゐたんだ相で、今の主人の峰右衞門が、一代に身上を五層倍にも十層倍にもしたから、俺が一代に費つても不思議はあるまいと、意見をする者も無い氣樂さで、手一杯の派手な暮しを考へたのだ相です」
「その當主の峰右衞門にお前は逢つたのか」
「逢ひましたよ、まるで殿樣にお目通り仰せつけられるやうで、縁側から奧を覗いて立てつ續けにお辭儀をさせられただけのことですが、五十七八の痩ぎすの青白い年寄で」
「何んかモノを言つたのか」
結城紬ゆふきつむぎ、赤い座布團の上へちんまり坐つて、ノドへたんばかりからんでゐましたが、つまりはその、若い時人に怨を買ひ過ぎて、近頃自分の命を狙ふものがあつては叶はない、いろ/\防ぎの手も考へたが、素人の智惠は多寡たくわが知れて居るから、何んか氣が付いたことがあつたら、親分の考へを彌十なり七之助なりへ言つてくれ――と斯うで、あつしを親分と言ひましたぜ、あの高慢ちきな親爺おやぢが」
 八五郎は甘酢つぱい顏を、大きい掌でベロリと撫でまはしました。
「一體、何がそんなに主人を脅かしたんだ」
 仔細あり相な空氣です。
「少しは變なことがあつたにしても、智惠も腕も人並すぐれてゐるといふ主人を脅かすやうなことは、何一つありやしませんよ、長者丸の田圃の上には、白い雲がふんわり浮いて、水田の中の陽溜ひだまりには、蛙の玉子が一パイ、――あとは何んにもありやしませんよ」
「フーム」
「ところが、その何んにも無いのが怖いんですつて」
「?」
 平次はヒヨイと顏を擧げました。豪士と言つても、腕にも智惠にも不足の無い五十八歳の男、村越峰右衞門なる人物が、『何んにも無い』のが怖いでは話の筋が通りません。
「最初は矢文は飛んで來たさうですよ、何處からともなく白羽のが一と筋、眞夜中に濠を越え、塀を越え、庭を突つ切つて、二階の主人の奧部屋の戸袋へ、ズブリと突つ立つて居ました、――それはもう半年も前のことだつた樣です」
「手紙でもついてゐたのか」
「白紙の手紙が、結び文になつて、矢尻に結んでありました、――何んにも書いて居ないのが、妙に淋しかつたと、主人の峰右衞門は言ひます。例へば金を出せとか、何んとかをしろといふのなら、隨分相手の申出通り出來ないことも無いし、その文面の樣子では、相手の見當も、怨みの深さもわかるのに、白紙を結んであつたのでは、その見當をつけやうも無い――」
「成程ね」
「それから二た月經つて、ある日の朝、締め切つた門の中へ、旅の修行者――と言つても、見る影もなく年を取つた、男の乞食巡禮の死骸が投り込んであつた相ですよ」
「殺されてゐたのか、野垂れ死をした人間か、それとも――」
「間違ひもなく首をくゝつて、――それも檢死の樣子では、人にめられたのでは無くて、自分で首を縊つた年寄の巡禮だつたんです」
「どうしてそれがわかつたんだ」
「喉佛はこはれて居たし、繩の跡は斜に掛つて居たんですつて、――多分何處か枝振りの良い松の木にブラ下つて居るのを、誰かゞおろして來て、村越の屋敷に投り込んだに違ひ無いつて、これは百兵衞が言ふんです」
「その死骸は誰だつたんだ?」
「誰も知りやしません、六十になる年寄の男巡禮なんか、誰も知りやしませんよ。――兎も角、一と月ほど前から青山のあたりへ來て、ブラブラして居た相ですが、二度ほど村越の屋敷へ來て、表から裏から、念入りに覗いて見たりして居たといふぢやありませんか」
「フーム」
「何んか、わけがあり相ですね」
「死骸は確かに、誰かゞ持つて來て、投り込んだものに間違ひあるまいな」
「嫌がらせですよ、首を縊つた死骸が、ノコノコ入つて來るわけはありません。死骸は入口に投げ出してあつたが、傍には繩も紐もなく、ブラ下がつた木の枝もはりも無かつたんだから文句は無いでせう」
「そんな用心深い家へどうしてはひつたんだ」
「それが少しもわからないんですよ、その上裏表の門も切戸も内から念入りに締つて、輪鍵が掛つてゐたといふから變ぢやありませんか」
「よし、大分、わかつた積りだが、惡戯はそれつきりか」
「いえ、それがほんの手ほどきで、それから、あらゆる惡戯いたづらと嫌がらせが始まりました。命に別條は無く、誰も怪我をしたものは無いが、することが馬鹿々々しく意地が惡くて、村越峰右衞門もさすがに持て餘しました」
「例へば?」
「田圃の積み藁を一と山持つて來て、村越家の表裏二つの門に一度に火をつけたり、青山中の社といふ社へ、村越峰右衞門と名前を書いた、藁人形を持込み、五寸釘で門の柱へブラ下げたり」
「待つてくれ、そんな馬鹿な惡戯は、田舍などに行くと、よくあることぢや無いのか」
あつしもさう思ひますがね、村越峰右衞門、若い時餘つ程タチの惡い罪業を積んだものか、手を變へ品を變へやつて來る惡戯に、すつかり脅えてしまひ、長者丸の御殿は、富士のお狩場ほどの嚴重な守りですよ」
「富士のお狩場は良いな」
「何しろ、雇入れた浪人者の用心棒が二人、――一人は秋山彌十と言つて三十四歳槍の名人だ。もう一人は富山七之助と言つて二十七歳、これは劍術の方が得手で、他に昔から冷飯を食つて居るかゝうどの喜八郎、これは藤八けんの名人」
「そんなものは武術には入らない」
「下男の勇太郎、草角力の關取で、外に小僧の宗之助は十三で買ひ喰ひの名人、下女のお春は十四で滅法可愛らしい、下女のお竹は三十でつまみ喰ひ免許めんきよ皆傳」
「妙な奴が居るんだな」
「あ、忘れて居ましたよ、内儀おかみはお皆さんと言つて四十三、まだなか/\綺麗、伜の久太郎は二十八で母親と年が近過ぎると思つたら、亡くなつた先の内儀の子なんだ相で、嫁のお民さんはこれが長者丸へ行つて一度は拜んで置く値打のあるきりやうだが、人の女房ぢや始まりませんね」
「餘計な苦勞だ」
「二十一になつたばかり、顏を見詰めて居ると、眼の前で斯うポーツと霞んで、庭の桃の花とまぎれさうな良いきりやうだ、唯の嫁にして置くのは勿體ない位――」
「唯の嫁にして勿體なきや何にするんだ」
「立兵庫に結はせてうちかけを羽織らせると、其まゝズイと押出して太夫の位だ」
「お前は近頃どうかして居るよ、少しは言葉も愼しむが宜い、太夫の位でも入山形に二つ星でも、女第一番のくづは遊女ぢやないか、大家の嫁御寮と一緒にする奴があるものか」
「相濟みません」
 八五郎は膝つ小僧を揃へてヒヨイとお辭儀をしました。
「ところで、長者丸の一件だが、そいつは思ひの外に深い因縁があるかも知れないよ、暫らくは眼を離さずに居るが宜い」
 平次のこの豫言は、果して見事に當りました。


 長者丸の村越峰右衞門の用心棒、やりの秋山彌十と、劍の富山七之助は次第に兩雄並び立たざる心持に押上げられて行くのでした。
 秋山彌十は三十四歳の分別者で、好んで人と事を構へる性の男ではありませんが、食ひ詰め者のれつからしなところがあり、小作りでふとじしで、不斷の微笑を絶やさない心掛を持つてゐるだけに、妙に相手に反感を持たせる癖もあつたのです。槍は『名譽の腕前』と本人の宣傳ですが、どの程度の名譽かは誰も知らず、眼の配り、身のこなし、修行の苦心談など、折々にらす言葉の端々から、然るべき男ではあらうと、誰でも一應はして居りました。
 劍術の富山七之助は、グツと若くて二十七歳、これは骨張つた青白い顏と、ギラギラ光る三白眼だけでも相當なもので、長身無口の青年、少し一國で氣短かで、人付きのよく無い男ですが、腕の方はまことに確かで、江戸の山の手の道場荒しで、一時は相當の惡名も馳せた男です。
 無口で無愛想な七之助は、辯口が上手で愛嬌のある、年上の彌十がひどく嫌ひで、かげでは『幇間武士たいこぶし』などと罵倒して居りますが、面と向つては、唯白い眼を見せるだけだが、二人の間に横たはつて居る反感は、そんな手輕なものでは無く、時と共に濃密のうみつの度を加へて、何時かは爆發しさうな氣合を、家中のものが暗默の間に感ずるやうになつてゐたのです。
 主人の峰右衞門も、二人の仲の惡さには手を燒いて居りましたが、さうかと言つて、そのうち一人だけ身を退いて貰ふとなると、その選擇が尚ほさらうるさく、ブスブスくすぶつたやうな心持で、秋になり、冬になり、年を越して春になつてしまひました。
 ところで、劍の富山七之助には、自慢の名刀が一ふりあつたのです。それは來國俊らいくにとしと稱する二尺八寸の大業物、無銘であつたが、二つ胴も試したといふ、見るからに物凄い代物でした。
 富山七之助は、それを手入れするのが何よりの樂しみで、暇さへあれば拭いたり撫でたり、打紛うちこを叩いたり、自分の顏を映したり、二つ三つ振つて見たり、まことに他愛もありません。
 丁度その日――三月十日も、自分の部屋を一パイに開けて、庭の櫻を眺め乍ら、刀の手入れに夢中になつて居りました。深沈たる刀身――毒魚の淵のやうな、鐵の魔術の國俊から眼を移すと、庭前の櫻はまさに半開、午後の陽はウラウラと縁側に射し込んで、淺黄色の空に、浮彫された花の美しさは、さすがに、氣の荒い富山七之助をうつとりさせます。
 フト用事を思ひ出して、手入れの一刀を其儘、小刀だけを持つて立去つた富山七之助は、小半刻ほど經つと、元の座に還りました。
 ハツと何やら吐胸とむねを突くものがあります。頭から熱湯を浴びたやうな心持で、毛氈の上に差置いた、來國俊の一刀を取上げたのです。
「――」
 富山七之助は次に、三の冷水をブツ掛けられたやうな心持でした。愛藏の來國俊のつば際から、美濃紙八つ切の紙が一枚、半分ほどを紙縒こよりにしたのがヒラヒラとブラ下つて、その紙の端つこの方に、最も職業的な惡達者な文字で『見切物』と三字、いとも麗々しく書いてあるではありませんか。
 富山七之助は、一刀を鷲掴みに突つ立ち上つて居りました。其邊にマゴマゴする人間を見掛けたら、有無を言はさず叩き斬つたことでせう。
 が、幸ひ其處には、誰も人影は無く、富山七之助の激怒を爆發させる相手も無かつたのです。
「これ/\お春」
 チヨロチヨロと通りかゝつた小娘のお春は富山七之助に呼留められて、うつかり立ち止りました。其處を通つて、縁側傳ひに奧の部屋――同じ浪人の用心棒、秋山彌十のところへ行く積りだつたでせう。
「ハ、ハイ」
 お春は縁側に立ち縮みました。富山七之助の顏色や態度から、容易ならぬものを見て取つたのでせう。
 まだ數へ年の十四になつたばかり、娘らしい可愛らしさが、漸く芽生えたばかり、丸顏で小作りなお春は、まだほんの赤ん坊でした。
「お前は何處へ行くのだ」
「お隣の秋山樣お部屋へ、お煙草入を取りに參ります」
「秋山氏は何處に居るのだ」
「裏庭で、花を見ていらつしやいます」
「それはいつからのことだ」
「ツイ先程から――」
「それまでは?」
「お隣のお部屋にいらつしやいましたやうで――」
「此四半刻の間に、此處へ來たものは無かつたか」
「一向氣がつきません」
「――」
 富山七之助は唸りました。日頃仲のよく無い秋山彌十、自分の腕の鈍さを胡麻化すために、何彼と餘計な策動をする秋山彌十が、富山七之助に對する反感が募つて、見切札の惡戯をしないとは言ひきれません。
「あの、外に御用は?」
 お春はまだ其處で待つてゐたのです。
「もう宜い、歸れ」
「ハイ」
 靜かに立去るお春の後ろ姿、やがて娘にならうとする、香はしい柔かい線の美しさも、富山七之助の眼に入る筈もありません。命から二番目の一刀――來國俊を侮辱ぶじよくされた憤懣ふんまんの黒雲が、若い七之助の胸一杯に鬱積うつせきして、最早最後の分別も無くなつた樣子です。


 それから三日目、二人の用心棒の對立は一ペンに破局へ押し上げられてしまひました。
 劍の富山七之助は、廊下の突き當りを右に曲つて、いつもの用便所に入りましたが、兩刀はその頃の習慣で、雪隱せつちんの前に用意してある刀架に任せて置くのですが、何やら胸騷ぎがしたものか、刀架けには長い方の來國俊ひと腰だけを任せ、短い方は手に提げたまゝ便所の中に入つてしまつたのです。
 朝の辰刻半いつゝはん(九時)そこ/\、櫻は漸く滿開で、江戸の春はまことに快適そのものでした。便所の格子窓からその花を眺めてゐると春の小鳥の囀りも聽えます。
 やがて外へ出て來た富山七之助、小刀を腰に差して、心靜かに手を洗ひ了ると、フト後ろを振り返りました。
「アツ」
 刀架けに預けて置いた、命から二番目の來國俊が見えないのです。
 縁側は見通し、庭も廣々として、滿開の櫻の外には、まだえ初めぬ草地にさす影もありません。
「富山さん、取つてあげませうか」
 よく通る男の子の聲、顏を擧げると、枝折戸しをりどを押しあけて、十二三の小僧が顏を出して居ります。宗之助といふ十三になつたばかりの、非凡の惡戯者です。
「拙者の刀を知つて居るのか」
「其處ですよ、富山さん」
 驅けて行くと宗之助は、小さい植込の蔭から長大な一刀、――まさにまぎれもない來國俊を拾つて來てくれたのです。
「何うしてそんなところへ?――」
「犬がくはへて行つたんでせう、白犬しろと來た日にや、それや、大變な惡戯だから」
「いや、あの小犬には重い刀は運べないよ」
「でも、大變な犬の糞ですよ」
「あつ」
 富山七之助は膽をつぶしました。さやの中程に、ベツトリ附いて居るのは、紛れもない犬の汚物をぶつ
 七之助は憤怒と汚辱感にブス/\くすぶり乍らも、その刀を手水鉢のところへ持つて來て、自分の手で洗ふ外は無かつたのです。
「水をかけてあげませうよ」
 宗之助は側へ寄つて、氣易くそれに手傳つてくれます。
 縁側の刀架けから、庭の植込の向う側まではざつと十歩、足をあげて蹴飛ばしたものがあつたとしたら、刀は無造作に其處まで飛んで行くでせう。しかも、刀架を置いてある場所は、仲のよくない秋山彌十の部屋の外で、秋山自身ならちよいと障子を開けて足を伸ばせば、そんな事は何んでもなく出來る筈ですが、部屋の中の秋山彌十に知られずに、刀架から庭の植込の外まで、長い刀を運び出す工夫は一寸六つかしいやうです。
 そんな事を考へ乍ら、大方洗ひ終つた刀の水をきつて、フト振り返ると、何時の間に障子が開いたか、くだんの秋山彌十は、縁側に半身を出して、日頃の愛嬌笑ひを口邊に浮べ乍ら、
「富山氏、いや、飛んだ災難であつたな、ハツ、ハツ、ハツ、ハツ、ハツ」
 事件の展開の可笑しさに、慰めの言葉が、思はず存分な笑ひになつてしまつたのです。
「己れ、秋山、其方の仕業に間違ひあるまい、これでも喰へツ」
 鞘を洗ふやうに、右手にそつと置いた來國俊の拔刀ぬきみ、そのまゝ引つ掴んで立上つた富山七之助、物も言はさず、障子から顏を出して笑つて居る秋山彌十の面上へ存分に喰はせたのです。


 用心棒二人、秋山彌十と富山七之助の爭ひは、短かい時間で片付きましたが、その代り恐ろしく深刻を極めました。不意に一刀を浴びせられて、額口をかれた秋山彌十は、立ち上がりから七分の不利で、
「己れツ、理不盡、何んの意趣だ」
 と拔き合せるのが精一杯。この男、振れ込みほどの腕が無かつたか、それとも額口の血が流れて、兩眼を浸してしまつた爲か、二た太刀目には肩口を斬られ、三太刀目にはもう、縁側に崩折れてしまひました。
「馬鹿奴」
 血振ひを一つ、柄をポンと叩いて、手水鉢の水でザブリと洗ふと、さやに納めて改めて前後左右を見渡します。
「見らるゝ通りだ。秋山彌十を討ち果した富山七之助、逃げも隱れもせぬが、此處に踏留つては、御主人が掛り合ひで迷惑されよう――このまゝ退散いたす。異存はあるまいな」
 きつと言ひ放つと、自分の部屋へ入つて、何やら手廻りのものを一と纒め、四方を睥睨へいげいし乍ら、富山七之助は出て行くのです。
 主人村越峰右衞門は、掛り合ひを面倒と見たか、姿を隱して取合はず、せがれの久太郎と、掛り人の喜八郎、下男の勇太郎は、遠くの方から眼を光らせて居りますが、殺氣立つた富山七之助のたもとひかへて文句をつける氣力もなく、見す/\、この殺人者を遁してやる外はありません。
「――では、御主人村越峰右衞門殿へ、宜しく傳へて貰ひ度い」
 富山七之助は、凱旋がいせん將軍のやうに、傲然として引揚げるのです。
 やゝ、春の色の濃くなつた庭、咲き亂るゝ桃の下枝を潜つて、玄關へ出ると、誰憚る者もなく、肩ひぢ張つて門へとかゝります。
「ちよいと待つて下さいな、富山さん」
 甲高い少年の聲が、それを留めました。
「何?」
 振り返ると、小僧の宗之助、たつた十三になつたばかりの、色の淺黒い小汚いのが、枝折戸のところに顏を出して、長い顎をしやくり加減に、富山七之助を呼び留めて居るではありませんか。身體が引締まつて、いかにも賢こさうな少年です。
「富山さんの刀を、投り出したのが、秋山さんで無かつたら何うします?」
「何を馬鹿なことを言ふのだ。拙者の來國俊は縁側の刀架にあつたのだぞ――その時拙者は雪隱せつちんに入つて居たのだ。拙者せつしやに知られずに、縁側を刀架の側まで來る工夫があると思ふか」
「?」
「縁側の板は、南陽みなみびり返つて、猫の子が歩いても音がする――刀架の側は、秋山彌十の部屋だ。障子を開けさへすれば手も足も、すぐ刀に屆く――それでも刀を跳飛ばしたのは、秋山彌十の仕業でないと言ふ積りか」
「フ、フーン」
「何んだ、小僧。鼻を鳴らしたな、俺を馬鹿にする氣か」
 富山七之助は二三歩立ち戻つて、思はず刀に反りを打たせます。
「富山さん、刀は、縁側から行かなくたつて、庭へ投り出せるぜ」
「馬鹿なことを言へツ」
「そんなことは、誰にだつて出來るぜ――馬鹿でなきや」
「?」
「釣竿が一本ありや、樂なものさ」
「何んだと小僧、お前は何を言ふ積りだ」
 富山七之助は顏色を變へました。枝折戸のところまで戻つて、小僧宗之助のそでを掴まうとしましたが、宗之助は早くも飛退いて、ペロリと赤い舌を出すのです。
「庭石の上から、釣竿つりざをを伸ばせば、刀架の刀はコトリと音をさせずに取れるよ――それを植込の陰の犬の糞の上へ投り出しただけのことさ」
「釣竿、釣竿――誰が、何處からそんなものを?」
「そんなことはわかるものか――でも釣竿だけは植込の陰に捨てゝあつたよ。行つて見るが宜い」
「誰のだ――それは?」
 富山七之助は、ズカズカと庭に戻ると、植込の陰まで行きました。
 まさに一言もありません。手頃な竹竿が一本、釣針まで附けたまゝ、其處に轉がつて居るではありませんか。
「釣竿なんか持つて居るのは此家に一人しかゐないぜ――目黒川へ行つて泥ふなを釣るのが好きでね」
「誰だ――」
 富山七之助は四方を見廻すのです。
「下男の勇太郎さ」
「己れツ」
 飛付かうとする富山七之助は、少年の宗之助に留められました。
「富山さん、あわてちやいけない。自分の釣竿で、そんな命がけの惡戯をするものは無いぜ――惡戯者は釣竿の持主の勇太郎ぢやないよ」
「――」
 富山七之助の苦澁さはありませんでした。この少年の逞ましい智惠が、苦もなく富山七之助を壓倒して行くのです。


「見切物の札をつけたのも、秋山ではないといふのか」
 富山七之助は、疑惑と昏迷こんめいに、しどろもどろです。
「當り前さ。秋山さんは腕はなまくらでも見識の高い武家だつたぜ。百人町の古着屋へ行つて、見切物なんかを買ふものか」
「誰だ、それは?」
「知つてるけれど言へないよ。富山さんは面喰つてるから、二人目を殺し兼ねないぜ」
「それでは、お前の惡戯か」
「冗談ぢやないぜ。おいらがやつたなら、默つて居るよ」
「何?」
「だいち、おいらはまだ十三さ。百人町の古着屋なんかには用事が無いよ」
「――」
「それから、あの觀世縒くわんぜよりは女結びになつて居た筈さ。武家が命がけの惡戯をするのに、觀世よりを女結びにするなんて、そんな悠長なことをするものか」
「誰だ――言へツ、小僧」
 それは宗之助の油斷でした。
 憤怒と焦躁に、煙の立つやうになつて居る富山七之助の顏を眺め乍ら、面白さうに庭石の上で足踏してゐるうち、フト足を踏み滑らして、仰向に倒れてしまつたのです。五六歩のところに、煮えこぼれさうになつてゐた富山七之助が、飛付いて小僧の襟髮をギユツと。
「あツ、そいつは卑怯」
 宗之助は悲鳴をあげましたが、追ひつくことではありません。その上相手をめきつた小僧は、双手を懷中へ入れたまゝで、暫らくは庭草の上に摺りつけられた自分の頬を擧げる餘力も無かつたのです。
「言へツ、小僧。誰が、あんな惡戯をしたのだ。言はなきやこの細首をねぢ切つてやるまでだぞ」
 富山七之助は、小僧を膝の下に敷いて、力一杯めつけました。
「痛いツ、勘辨してくんなよ。富山さん」
 宗之助は到頭泣き出してしまひました。口賢いやうでも、十三になつたばかりの小僧には、武力も、我慢もありません。
「知つて居るだけの事は言はせてやる。サア、これでもか、小僧ツ」
「痛いツ、畜生ツ」
「惡戯者の名を言なきや、お前にきまつたやうなものだ。首を引つこ拔かれても怨むな」
「おいらは親切で教へてやつたんだぜ。何んにも知らない秋山さんは、拔き討に殺されちや可哀想だ」
「――」
「それによ、富山さんだつて、罪の無い者を殺して濟むめえ――化けて出るぜ、きつと」
「何をツ、馬鹿なツ」
 富山は負け惜みの肩をそびやかしますが、見まいとしても縁側を染めた血潮や、その中に倒れてゐる秋山彌十の無殘な死骸が、眼の隅に燒きつくのです。


「親分、長者丸の万兩分限、村越峰右衞門の家の騷ぎは、これが口あけなんだから大變ぢやありませんか」
 ガラツ八の八五郎が、明神下の平次の家へ報告に來たのは、その翌る日の晝頃でした。
 うららかな春の陽ざし、青山長者丸から飛んで來た八五郎は、馬のやうに汗をかいて、馬のやうに鼻息の嵐を吹いて居ります。
「村越峰右衞門がどうしたんだ」
 平次はこの事件に充分の好奇心を持つて居る樣子ですが、道があんまり遠いのと、近頃になつて御用繁多なので、八五郎に旨を含めて、百人町の百兵衞と力をあはせ、他所よそ乍ら長者丸の一角をにらませて置いたのでした。
「主人の峰右衞門は、すつかり脅えてしまつて、ろくに顏を見せませんが、あの家で飼つて居る二人の浪人者、秋山彌十と富山七之助が、いきなり切り合ひを始めて、若い富山七之助の方が、中年者の秋山彌十を斬り殺してしまつたんです。人斬庖丁を二本づつブラ下げて居るんだから、腹が立つたり氣が變つたりすると、何をやり出すか、わかつたものぢやない、全く物騷な話で――」
 八五郎は註澤山に話を進めて、この一埒を説明するのでした。
「そいつは物騷だが、誰が刀の惡戯をやつたか、わからないのに、いきなり相手に斬り付けたといふのか」
 氣が短かいにしても程のあつた物です。若い浪人者富田七之助の[#「富田七之助の」はママ]暴擧に、さすがの平次も胸を惡くする外はありません。
「ありや、果し合ひでも何んでもなくて、暗討ですね。一つ屋根の下に住んでゐる人間から、いきなり斬りかけられちや、餘つ程の名人だつてやられますよ」
「で、そのをさまりはどうなつたんだ」
「小僧の宗之助が――刀の惡戯は殺された秋山の仕業ぢやない、富山七之助がそれを斬つたのは、全くの思ひ違ひだと、子供らしくもない調子でやり込めると、富田七之助[#「富田七之助」はママ]全く後悔しきつた樣子でした。兎も角も罪も科も無い人間を一人、不意に叩き斬つたんだから、こいつは容易のことぢや納まりが付きませんよ」
「フーム」
「腹立紛れに小僧をつかまへ、サア、惡戯をしたのは誰だ、それを言はなきや――と本當に殺し兼ねない意氣込でしたが、宜いあんべえに氣のきいた女の子が居て――」
「誰だえ、それは?」
「小女のお春ですよ。十四とか言ひましたが、可愛らしい娘でさア。その小女がきもをつぶして、百人町の百兵衞のところへ飛んで來て教へてくれたんです。丁度百兵衞のところには、若けえのが五六人集まつて、無駄話をして居たから、――それ行けツ――といふ騷ぎでせう。不斷から長者丸の村越の用心棒が、威張り返つて仕樣が無いし、ひどい目に逢つて居るといふ宗之助が可愛い小僧だからたまりませんよ。まさか刺棒、袖がらみは持出さないが、丸橋忠彌召捕り見たいな勢で、黒雲を卷いて飛んで行つたと思つて下さい」
「思ふよ――お前一人でも、黒雲位は卷き起し兼ねないからな」
 平次はチヤリを入れ乍らも膝を乘出しました。八五郎の話は、ひどく溜飮を下げさせるのです。
「と――武家は弱いといふのが此處なんですよ。間違ひにしろ氣狂ひにしろ、兎も角、罪の無い仲間を一人、だまうち同樣に殺したんでせう。これが本當の武士の心構へといふものを知つて居る人間なら、其場を去らずに、縁側か何んかに腰打ちかけて、腹でも切つて死ぬのが當り前ぢやありませんか」
「――」
「それが何うでせう。あつしと百兵衞が先達で、例の黒雲が五六人村越の屋敷へ飛込むと、小僧の宗之助を庭石に押付けて、三杯にして喰ひさうな事を言つたガラクタ用心棒の富山七之助が、臆病な狐のやうに、尻尾を卷いて逃出すとは、こりや何うしたことです」
 八五郎は日向ひなたの縁側を叩いて、勢よくまくしたてるのです。
「まるで、俺が叱られてゐるやうだぜ。まア宜い。その武家が、日本一の臆病だといふことにして、それから、話がどうなつたんだ」
「それからが、大變で――」


 八五郎の報告通り、それからが全く大變でした。
 翌る日の朝、下女のお竹が雨戸を開けると、いつも早起きの下男の勇太郎が、其邊に姿を見せないばかりでなく、門も開けず、庭も掃かず、もう陽が高くなつて居るのに、自分の泊つて居る、物置の隣の下男部屋の戸もそのまゝになつて居るではありませんか。
「勇さん、又夜遊びかえ。冗談ぢやない。もう晝だよ」
 氣象者のお竹は聲を掛け乍ら、下男部屋の雨戸をガラリと開けましたが、
「わ、た、大變ツ。勇さんが、勇さんが」
 と、思ひおくところなく尻餅をついてしまつたのです。
「どうしたんだ、騷々しいぢやないか」
 飛んで來たのは、かゝうどの喜八郎と、今起きたらしい、せがれの久太郎でした。大地の上を泳ぎ廻るお竹を掻きのけて、朝陽あさひが一パイに入つて居る、下男部屋を一と眼――。
「わツ、これは、どうしたことだ」
 二人共、危ふく踏留つたのも無理のないことです。
 村越家の遠縁だ相で、無類の忠義者と言はれた下男の勇太郎、目黒の在に生れて、草角力の關取だつたといふ、此上もなく強健なのが、梁から落ちたらしい大臼に押し潰され、猿蟹合戰の猿のやうな恰好で死んでゐたのです。
 一應近所の醫者も呼びましたが、これは一と眼見ただけで全く手に了へず、續いて百人町の百兵衞が、丁度昨日の騷ぎから泊つて居る、八五郎と一緒に驅けつけたことは言ふ迄もありません。
「ひどい事をするぢや無いか、八兄哥あにい
 百兵衞は兎も角も大臼を退かせて、死骸を起してやりました。勇太郎といふ男は、草角力の大關まで取つたといふだけに、色白のでつぷりした恰幅で、大臼位はハネ飛ばしさうに見えますが、餘程運の惡い廻り合せだつたのでせう。
「人間がこいつを叩き付けるわけは無いから、いづれはりの上か何んかに載つて居るのへ細工をして、夜遊びから歸つて來た勇太郎が、表戸を開けて入つたとたんに頭の上へドカンと來たことだらうな」
 平次さへ側に居なければ、八五郎もなか/\うまい智惠を絞ります。
「だが、こいつは變だぜ。八兄哥」
 老巧な百兵衞は、八五郎の手輕イージーな解釋に、疑問を挾みました。
「何が變なんだ」
「勇太郎は寢卷を着て居るし、側には床も敷いてゐるぜ。外から歸つて來て、表戸を開けたところへ、頭の上から臼が落ちたとは、どうしても思へないぜ」
「夜遊びから歸つたのぢやなくて、外へ出て小便でもしてよ、序にお月樣でも眺めて自分の小屋へ歸つたところをやられたとしたらどうだえ」
「そんな短かい間に、梁の臼の仕掛けが出來るかな」
 八五郎も引いては居ません。が、百兵衞もなか/\讓りませんでした。
「でも、梁には臼を載せてあつた場所もわかつて居るし、其處から丈夫な綱を引いて、表戸の引手に絡んであるぢやないか」
 と、八五郎。
「成程なア、さう言へばさうだが――でも變だぜ――これは矢張り、勇太郎が急に死に度くなつて、自分で臼を梁の上へ仕掛け、自分でその仕掛の綱を引いて、頭の上に臼を落して死んだんぢやあるまいか」
「そんな危いことをして、人間は死ねるものかな」
 小田原評議は何時果つべしとも見えませんでした。
 錢形平次が、八五郎の迎へで驅けつけたのは、その日もやがて暮れかけた頃、大體の話は八五郎から聽いて居りましたが、事件の形相ぎやうさうが容易ならぬものを持つて居るので、
「よし、眼鼻がつくまで、此處に踏留つてとことんまで調べてやらう」
 平次がさう覺悟をきめたのは、容易ならぬことでした。


 平次は先づ、今朝と同じ状態に、あらゆる門も戸も直させ、自分は庭に立つたまゝ、下女のお竹に雨戸を開けさせました。
「今朝の通りだと言つたが――その時、何處か一ヶ所雨戸の開いてゐた場所は無かつたのか」
 平次は庭から聲を掛けます。
「いえ、戸締りは、昨夜旦那樣が見巡つた時の通りで、一ヶ所も變つては居ませんでした」
「門は?」
「門も扉が締つて、かんぬきがおりて居ました。間違ひはありません。いつもそれは、勇さんが開ける役目だつたんです」
 平次は門の扉から、屋根、土塀などを念入りに調べて居りましたが、人間の忍び込んだ樣子は少しも無いのです。
「あつしも最初は、逃げ出した用心棒の富山七之助が、忍び込んで、釣竿の持主の、勇太郎を殺したのかと思ひましたよ。でも、忍び込んだ樣子は無いでせう。土塀はヤワだし忍び返しが打つてあるし、門の屋根の上は苔だらけでせう。幽霊でも無きやそつと忍び込める道理はありませんね」
 八五郎は得々として説くのです。
「いや、繩が一本あれば、何處からでも忍び込めるよ。あんなに木が繁つて居るから」
「すると?」
「あわてるな、八。富山七之助も浪人だが武家には違ひあるまい。泥棒のやうに忍び込んで下男一人を斬るといふやうな――それ程卑怯ひけふなこともしないだらうよ」
「すると誰が一體?」
「もう少し考へようよ、八」
 平次は下女のお竹に案内させて、物置の方へやつて行きました。
 庭でフトれ違つた二十一二の女、夕陽に照らされて、クワツと明るく美しいのを平次は、繪に描いた遊女のやうになまめかしく眺めました。
 地味な銘仙、赤いものを嫌つた半元服はんげんぷく。全く非凡といふ外はありません。
「あれは?」
すごいでせう、親分。あれが嫁のお民――殺された下男の勇太郎とは、遠い縁續きだつた相で――」
 八五郎の説明を聽き乍ら、物置と同じ棟に造つた、下男部屋を覗きました。物置と下男部屋とが背中合せになつて居り、物置の二階に積んだ、モロモロのがらくたが、下男部屋からは寢乍らにしてよく見えます。
 勇太郎の死骸は、檢死がやかましかつたので、其儘にしてありました。村越峰右衞門の伜――この家の若旦那の久太郎と、掛り人の喜八郎が、それでも何彼と世話をして、勇太郎の死骸に、一と通りのものなどを供へて居りました。
「これが若旦那の久太郎さん、これが番頭の喜八郎さん」
 と、紹介されて、改めて見ると、久太郎はまだ二十七八、一寸良い男ではありますが弱さうで、臆病らしくて、肉體的にも、人柄にも、頼もしげなところは少しもありません。それに比べると掛り人の喜八郎は、色の淺黒い四角な顏で、何んとなく遊び馴れた人によくある、狡るさと、皮肉さと、人を喰つた驕慢けふまんさがあります。
 一應の挨拶をして、平次は灯をつけて貰つて、下男勇太郎の死骸を調べました。
 無殘なことに、大臼は顏の下半分から首筋をつぶして、恐らく一と思ひにやられたことでせう。瞬時の苦痛が、よく肥つた顏に凝集して、その凄まじさはまた格別です。
 着物は確かに寢卷、それに半纒はんてんを引つかけて、一度寢たのが、又何んかの用事で起出したといふ恰好です。
「八、この死骸を、お醫者が見たといつたね」
 平次は妙なことを訊ねます。
「診ましたよ。でも青山一番の幇間たいこ醫者で、診立みたてよりは、仲人の方が上手だ相で」
「丁寧に診たのか」
「いえ、入口に立つて中をすかして――やれ/\これはもういけない――などと言つて歸つた相で」
「それぢや、若旦那」
「へエ」
 平次は久太郎に聲を掛けました。
「もう一度、他のお醫者に診せて下さい。百人町には、石順先生といふ、外科の名醫が居る筈だ」
「へエ、直ぐ宗之助をやりませう」
 久太郎は小僧の宗之助を呼び出すと、何やら言ひつけて走らせました。
「何んか、變なことがあるんですか、親分」
 八五郎はうさんらしい鼻を持つて來ました。平次の氣組には、唯ならぬものがあつたのです。
「大ありだよ。お前と百兵衞親分が、いつまで言ひあつてもわからねえ筈だ。この死骸は、臼で打たれて死んだのぢや無いよ」
「本當ですか、親分?」
 八五郎はきもを潰してしまひます。
「見ろ、顏半分から首筋を。臼に打たれて滅茶々々になつて居るが、その臼に打たれた傷の下に、紐の跡があるだらう」
「?」
「一度ひもくびり殺して置いて、その上から臼を落したのだよ」
「へエ、そんな事があるんですか、親分」
 八五郎はまだ腑に落ちない樣子でしたが、やがて外科の名醫石順老がやつて來て、平次の言葉は立派に證據立てられました。
「あいつは縊り殺されたのだ――首筋に紐の跡があるばかりぢや無い、肛門が開いて居るから間違ひは無い――さすが錢形の親分、良いところへ眼が屆いたよ」
 石順老は首を振り/\歸つて行くのです。
「驚いたね、親分」
「ところで、此男を、音も立てさせずに、縊り殺せるのは誰だと思ふ」
 平次は八五郎の顏を見ました。
「草角力の大關だつた勇太郎だ。その首をチヨイと絞めて殺すのは、容易の力ぢやありませんね」
「お前もさう思ふか」
「へエ、その勇太郎より弱い奴には、出來ない藝當ぢやありませんか」
「この家の中に、そんな力持は居るかえ」
「さア」
 八五郎にも、それは思ひ當りません。秋田彌十が生きてゐるとか、富山七之助が仕返しに來たのなら知らず、今の村越家には、そんな恐ろしい力を持つて居る者がある筈も無かつたのです。
「親分さん、錢形の親分さん」
 後ろから聲を掛ける者があります。
「御主人の峰右衞門さんですよ、親分」
 八五郎が紹介する迄もなく、平次はもう夕明りの中で、この老人を、念入りに觀察して居たのです。
「親分さん、斯うイヤな事が續いちや、もう私はたまらない。何んとしてでも、惡戯をする奴を縛つて下さいませんか――私の力で出來ることなら、どんな事でも――」
 この老人もまた、これ程の根強い事件まで、金の力でどうかしようといふのでせう。
「お氣の毒ですが、こいつは容易には止しませんよ。詳しいことを打ち開けちや下さいませんか。それから考へ直さなきや、あつしでも手に了へませんぜ」
 平次は斯う言ひ切つて、相手の出やうを待ちました。
 主人峰右衞門の後ろに立つて居る、青白い四十女は、それは後添のお皆といふのでせう。何やら眼顏で、しきりに主人を牽制けんせいして居ります。

一〇


「私は恐ろしくなりました、目に見えない敵が、私の命を狙つて居るに違ひありません、親分」
 村越峰右衞門の、血走る眼は、喰ひつくやうに、錢形平次にすがりつくのです。
「詳しく伺ひませう、相手は本當に御主人を狙つて居るのか、それとも、他に目當てがあるのか」
「それはもう、私を狙つて居るに違ひありません」
「でも、殺されたのは、用心棒の浪人や奉公人ぢやありませんか」
「それが相手の容易ならぬところで――私の味方や用心棒を、一人々々、殺すか追つ拂ふかして置いて、私を頼る者のないやうにしてしまひ、この世の榮華の眞つ唯中――千兩万兩の金の中に轉がして居いて、いよ/\私に取かゝり、思ひ切つたことをしようとする手だては眼に見えて居ります」
 主人峰右衞門は、顏中を痙攣けいれんさせて、敵の仕掛けたわなが、次第々々に自分の身に迫つて來る、我慢のならぬ恐怖を語るのです。
「どんな人が、そんなに御主人を怨んでゐるのでせう。思ひ當ることがあつたら、皆んな打ちあけて下さいませんか」
 平次は、この事件の眞相を突きとめる爲には、遠く原因に溯上さかのぼる外は無いと思つたのです。
「申しませう――恥も外聞も、命には代へられません。それに、取つて五十八の私は何を申したところで、別に差支へがあるわけも無く、私を怨んでゐる者も、大方は死んでしまひました――いや、さう思ふのは私の考へ違ひで、まだ何處かに生きて居て、斯んな具合に、私の命を狙つて居るのかもわかりません」
「――」
 平次は默つて先を促しました。主人峰右衞門の口は、極めて自然に、高僧の前に据ゑられた、懺悔ざんげ者見たいに、靜かにほぐれて行くのです。
「私は五十八年前、この村越家の次男に生れました。私の兄の峰太郎が生きて居れば、私より三つ年上の六十一になる筈ですが――その兄は放埒に身を持ちくづして勘當になり、落ちぶれ果てて、十三年ほど前に木更津で死んだといふことでございます」
「その峰太郎さんには配偶や子供が無かつたので?」
「ありましたよ、伜が一人、これは峰之助と言つて、父親の峰太郎が死んだ時、三十前の若い盛りでしたが、父親の峰太郎を殺したといふ疑を受け、親殺しの大罪人といふことで、本來ならば磔刑はりつけにもなるべきところ、幸か不幸か、病氣のため牢死いたしました」
「その峰之助には」
「娘が一人あつたと聽いて居ります、無事で居れば、十七八にもなるでせうか、それから、配偶もあつた筈ですが、それは夫峰之助が牢死して間もなく、落ぶれ果てゝ死んだと聽いて居ります」
「お話中だが、その峰之助の娘といふのが、此家へ引取られて居るやうなことは無いでせうな」
 平次は此處に重大な怨恨ゑんこんが潜んで居さうな氣がしたのです。
「飛んでもない、峰之助の娘は、丈夫で育つて居れば、十七いや十八になる筈で、そんな年頃の娘は、私共には居りません」
「少女のお春といふのは?」
「あれは十四になつたばかりで、知合から預かつた娘でございます」
「喜八郎とか言ふかゝうどは?」
「身許の確かなもので、父親の代から、二代も此家に奉公し、今では客分のやうな掛り人のやうな扱ひをして居ります」
「下女のお竹は」
「これは三十女で、身許に間違ひはございません」
「あとは?」
「伜夫婦と、小僧の宗之助だけで、伜夫婦は仲もよく、私を大事に孝行をしてくれます。小僧の宗之助は、十三といふ惡戯ざかりで、これは桂庵から參りましたが、惡氣は無いが生意氣で困ります」
「フーム」
 平次は默り込んでしまひました。二人の浪人者と勇太郎が死んでしまつては、頼りにする者も無い代り、主人峰右衞門の生命を狙ふ程の物騷な人間も居さうも無かつたのです。

一一


「かう見たところ、家の中には、私を狙ふほどの者が居さうも無いのに、私は毎日、何んか變つた手段てだてで、脅かされて居るのでございます。白羽のが二階の戸袋に突ツ立つてからは、毎日一つづつ、私はおびやかされて居ります。そして、今日といふ今日」
 主人峰右衞門はゴクリと固唾を呑むのです。
「今日、何んかありましたか、御主人?」
「お目にかけようか、どうしようかと迷つて居りました、あまり大人氣ないから、親分さんに笑はれてしせひさうで」
「いや、決して笑やしません、どんな事があつたのです」
「これでございますよ、――この紙片かみきれを石に包んで、二階の私の部屋に投り込んだものが御座います」
 さう言ひ乍ら、主人峰右衞門が、袂の中から取出したのは、半紙一枚を細く疊んだ、結びぶみふうの手紙で、押し開くと消し炭で、
いよ/\今夜だよ、峰右衞門
 たつたこれ丈けの文字が、半分消えかけたまゝ、どうにか斯うにか讀めるのです。
「この筆蹟に覺えはありませんか」
「全く見たことも無い拙い字で」
 それは子供の手習ひのやうな稚拙な文字で、書いて居る文句の無氣味さに似ず、文字には少しの邪氣も憎氣にくげもありません。
「小僧の宗之助は、斯んな下手な字を書きやしませんか」
「いえ、あの子は子供のくせに、飛んだ綺麗な字を書きます。あれ丈け器用な字を書ける人間が、ワザと手筋を變へたにしても、こんな下手な字は容易に書けるものぢやございません」
「喜八郎は?」
「飛んだ道樂者で、父親に勘當されて、一時植木屋の職人などをして居りましたが、皮肉で生意氣なことを言ふ癖に、自分の名前も書けないやうな、一文不通の男で、こんな手紙を書ける道理はございません」
「ところで、此間二階の戸袋に射込まれたといふ、白羽のを見せて下さい、出來ることなら、のろひの藁人形も」
「無氣味なものですから、取り捨てようと思ひましたが、斯んな事もあらうかと、念の爲に隱して置きました」
 主人は下男部屋の隣の物置へ行つて、取出して來たのは、白羽の箭一筋と、藁人形の一つでした。白羽の箭は、篠竹を切つて美濃紙の羽をつけたもの、至つて細工が粗末で、これは人を傷けたり脅かしたりする道具では無く、恐らく二階の戸袋に矢文を射込むために、わざ/\作られたものとしか思へません。
 藁人形も、念入りに粗末なもので、手際の惡さは、まさに滑稽に近いものですが、その中から平次は、フト、妙なものを發見したのです。
「この藁人形を拵へた繩は、皆んな女結びになつて居るのは何うしたことでせう」
「さア、私には少しもわけがわかりませんが」
 峰右衞門にはわからなくとも、平次にはわかり過ぎるほど、その恐ろしい意味がわかります。呪ひの藁人形などを、わざ/\女結びの丁寧な繩で拵へる筈は無いのですから、これは、『女がやつたらしく見せかける爲か』でなければ眞實ほんたうに『女がこさへた藁人形でなければならない』ことになるのです。
「ところで、もう一つ訊きますが」
「?」
 平次の調子が改つたので、主人峰右衞門も思はず引入れられるやうに、硬張こはばつた表情をします。
「此家の玄關前に投り込まれてあつたといふ年寄の巡禮の死骸、あれは確かに、見覺えの無い顏だつたのでせうか」
「私にも、それが不思議でなりません、――私は決して良いことばかりをして來た人間ではなく、世間の評判でも御存じでせうが、慈悲善根の代りに無慈悲なことばかりして參つたと言つた方が宜い位でございます。でも私の生涯をどう振り返つて見ても、あの巡禮の顏ばかりは、思ひ出せないのでございます。あれ丈けの行倒ゆきだふれを、玄關へ投り込むのは、容易の力ではございません。家中の者でそれの出來るのは、勇太郎たつた一人でせうが、その勇太郎も殺されてしまつたところを見ると、勇太郎の仕業でないことだけは確かでございます」
 主人峰右衞門は、愚痴ぐち交りに言ふのです。
「いや、そんなことで、あとは又訊くとしませう。ところで、その勇太郎は、誰と一番の仲よしでした」
「小僧の宗之助を、滅法可愛がつて、喜八郎などに冷かされて居たやうです」
「もう一つ、此家に風呂場があることでせうな」
「贅澤な沙汰ですが、私の好みで、一年ほど前に、風呂場を建てゝ居ります、これは自慢の出來る普請ふしんで――」
 峰右衞門は金持らしく、斯んなことを自慢にして居るのです。

一二


「親分、もう引揚げですか」
「うん、俺が居たところで、曲者は尻尾を出さないよ、――俺の代りに、お前が泊つて行くが宜い」
 平次は薄暗くなりかけると、村越長者の家を引揚げて、歸りさうにするのです。
「でも、親分は、こいつは泊り込んで、トコトンまで調べると言つたぢやありませんか」
「氣が變つたよ」
「へエ」
 八五郎はひどく心細さうです。
「その代り、百人町の百兵衞のところに泊つて居るよ、安心するが宜い」
「すると、此處はあつし一人で」
「心細がるなよ、お化けが出て、取つて喰ふ氣遣ひは無いから」
「へエ」
「その代り、一つだけ頼みがある」
「――」
「俺が泊ることにしてあつたので、御馳走心に湯を立てたやうだ、風呂場は立派だし是非入り度いところだが、お前は風邪を引いたといふことにして、湯へ入るのを斷わるやうにするのだ」
「風邪なんか引いて居ませんよ」
融通ゆうづうのきかねえ野郎だ、兎も角、今のうちから心掛けて、カラせきでもして居るが宜い」
「へエ?」
「一とわたり湯へ入る順番が濟んで、一番お仕舞は小僧の宗之助かな、――それとも下女のお竹かな――その頃になつて、お前は風邪は大したことも無いから、急に湯に入ると言ひ出すが宜い、そして無理にも風呂場へ飛込むのだ」
「下女のお竹と一緒に湯へ入るのは御免ですよ、親分」
「お竹ぢやない、小僧の宗之助と一緒に入るのだよ、――背中を流してくれとか何んとか言つて、大概の小僧は、それ位のことは喜んでやつてくれるよ」
「やつて見ませう、――それ位のことなら」
「俺は、掛り人の喜八郎に、チヨイと訊き度いことがある、一緒につれて行つて、百人町で一杯呑むことにするが、構はねえだらうな」
「構やしませんが、一杯飮む方のつき合ひをあつしの方に廻して、小僧の宗之助と一緒に風呂へ入るのは、喜八郎に頼んぢやいけませんか」
「うるさい奴だな、兎も角、俺の言ふ通りにするのだ、喜八郎は亥刻よつ(十時)前には歸る筈だが、お前はそれを待つまでもなく、寢つちまつた方が宜い」
 間もなく平次は、番頭とも掛り人ともなく、村越家に喰ひついて居る、三十男の喜八郎を誘つて、百人町に引揚げて行つてしまひました。
 時刻は丁度酉刻むつ(六時)、それからの村越家は、家の者の氣組が滅入るせゐか、御通夜のやうに淋しくなるのを、八五郎の陽氣さでも、救ひやうはありません。
 晝前に物置から母屋に移された、下男の勇太郎の死骸は、檢視が濟むのを待ち兼ねて、明るいうちに目黒から驅けつけた、親兄弟が引取つて歸り、此處にはもう、淋しいものは何んにも無い筈ですが、家中の者はお互に顏を見合せないやうにし、顏を合せても滅多に口をきかないやうにして、只管ひたすら時の經つのを待つて居る樣子でした。
 その間に、風呂場の方は、主人夫婦から順序通り入つて、亥刻よつ前には最後の宗之助が入ることになりました。それまで、風邪を引いたことにして、階下したの六疊に頑張つて居た八五郎は、親分の平次に言ひつけられた通り、床の中から拔け出すと、
「もう風邪も拔けたやうだから、一と風呂入るとしようか」
 などと、家中に觸れるやうにして、風呂場に近づくと、聲も掛けずに、入口の戸をガラリと開けたのです。
 中には小僧の宗之助が入つて、念入りに洗つて居た筈ですが、あまりの不意の出來事に、風呂場の狹い流しにハツと立上がつて、暫くは、次の動作に移る考へも浮ばず、ぼんやり湯氣の中に闖入して來た八五郎を眺めて居りましたが、次の瞬間、何を考へたか、立上がつて柱の上の手燭を、手を擧げてパツと吹き落してしまつたのです。
 ことは一瞬に片付きましたが、八五郎は戸を開けてから、宗之助があかりを叩き落すまでの短かい時間のうちに、見るべきものを見、確かめることを確かめてしまつたことは言ふまでもありません。
 二人は闇の中に、暫くはつとして居りました。が、やがて八五郎は間の惡さうに、コソコソと闇の廊下を引返し、宗之助は身體のれを拭いて、風呂場の外へ出て來た樣子です。
 亥刻半よつはん(十一時)頃、平次に誘はれて行つた喜八郎は歸りました。下女のお竹は戸締りを見るので起きて居た樣子ですが、聲を掛けて『湯へ入るか入らないか』と訊くと、喜八郎は鼻聲で、風邪を引いて居るから――と簡單に斷わつて、自分の床へもぐり込んだ樣子でした。

一三


 その夜子刻半こゝのつはん(十二時)過ぎ、
 二階の主人峰右衞門の部屋のあたりから、思ひも寄らぬすさまじい物音がして、家中の者が一ぺんに眼を覺まさせられてしまひました。
「どうした、どうした」
 八五郎を先登に、せがれの久太郎お民の夫婦、掛り人の喜八郎まで飛んで行くと、主人峰右衞門の部屋の中は血の海、峰右衞門は喉笛を刺されてこと切れ、内儀おかみのお皆は、肩のあたりを二ヶ所まで斬られ、驚いて眼を廻した樣子ですが、これは間もなく正氣づきました。
 灯は左右から、二つも三つも運ばれて、其邊はもう、光の中に覆ふところなく描き出されます。小女のお春の脅え切つた顏も、下女のお竹の眠さうな顏も、小僧の宗之助の、相變らず人を馬鹿にしたやうな顏も見えますが、此處で八五郎は、思ひも寄らぬ大變な發見をしてしまつたのです。それは、
「あ、親分」
 多勢の中から、親分、錢形平次の顏を見付けたことでした。
「八、――隨分、用心をした積りだが、防ぎやうは無かつたな」
「親分は、何處から、何時の間に――」
 八五郎の鼻の下の長さといふものは、
「喜八郎と入れかはつたのだよ、喜八郎は百人町の百兵衞のところにとまつて、俺は此處へ戻つて來たまでのこと、喜八郎の聲色こわいろを使ふのに骨を折つたぞ」
 そんな事を言ふ間にも平次は、主人峰右衞門の死骸を調べ、伜の久太郎を走らせて、外科の石順を呼ばせました。
 峰右衞門の傷は、匕首あひくちか何んかで、喉の大動脈を一とゑぐりにしたもの、最早助けやうもありませんが、内儀の肩の傷は大したものでなく、これは手輕に治りさうです。
 見ると北窓の障子も雨戸も開けてあり、其處に屋根を傳はつて出ると、ひさしには梯子はしごを掛けて、眞下の喜八郎の部屋の外に此處から家へ入りましたと言はぬばかりに、座下駄が、鼻緒を揃へて脱いであつたのです。
「親分、これはどうしたことです」
 最初の問は八五郎でした。
「曲者は、喜八郎に下手人の疑を被せる積りだつたのさ」
「へエ?」
「ところが肝腎かんじんの喜八郎は、百人町の百兵衞のところに泊つて何んにも知らずに居る、――此部屋に寢て居たのは、この俺だつたとは、あんなに智惠の逞ましい曲者にも氣が付かなかつたらうよ」
「すると、親分、曲者は誰です」
 八五郎には、何が何やら、まだ呑込めません。
「それりよ[#「それりよ」はママ]、お前は、風呂場で何を見た、それを先にかうか」
「それが大變なんで、親分」
 八五郎は恐ろしく酢つぱい顏をして居ります。此時はもう二階で石順の手當が始まり、伜久太郎夫婦が死骸の世話をして居りますが、殘る人達は廊下から廻つて夜の庭へ出ると、錢形平次と八五郎を取卷いて、固唾かたづを呑んで居ります。
「小僧の宗之助は、女だつた筈だ」
「さうですよ、親分、どうしてそれを」
 八五郎は平次に先を潜られて膽をつぶしました。
「女でなきやならないワケがあるんだ。それが確め度さに、少し殺生せつしやうだが、お前に風呂場のぞきをやらせたのだよ。宗之助は色も黒いし、骨組も逞ましいし、一應十四五の男の兒のやうに見えるが、聲が男の子ではなくてどうしても女だ。それに顏立に優しい可愛らしいところがあつて、乳のところが盛り上つて肉付は若い娘だ」
「それにしても風呂場覗きはひどいでせう。私は宗之助を男の子と思ひ込んでゐるから、何んの遠慮もなく境の戸をグワラリと開ける、湯氣の中にもはつきり、娘の乳房が――」
「勘辨しろよ、八、外に工夫が無かつたんだ。ところで宗之助は十八になる娘だ、乳房のふくらみだけは隱せなかつた筈だ」
「それがどうしたんです親分」
「あの宗之助といふのは、殺された主人峰右衞門のおひの子で、實は女だつたのさ、――それ、二階の窓から顏を出したのは、當の宗之助ぢやないか。よく見るが宜い、張つて居た氣がゆるむと、十三の男の子ぢやなくて、もうすつかり十八の娘だ、顏も、聲も」
 平次が指さすあたり、二階の窓から首を出した宗之助は、もう惡びれた色もなく、夜の庭に集ふ人達の上に、よく響く娘の聲を張り上げるのです。
「錢形の親分さん、――見透しの通り、私は、主人峰右衞門の兄、峰太郎の孫のお道に相違ありません。柄が小さいから、十三の男の子に化け、請人うけにんを拵へて此家へ入込んだのは、父親と祖父と、二代の仇峰右衞門に思ひ知らせ度いため――」
「お前の祖父ぢいの峰太郎はお前の親父の峰之助に殺され、峰之助は牢死したといふでは無いか」
 平次は下から聲を張り上げました。
「嘘だ、みんな嘘だ、祖父の峰太郎は、弟の峰右衞門にだまされて村越家の家督を棒に振り、一生怨み續けて居りました。その子――私の父の峰之助が、父を殺したといふのは、全くの拵へごと、峰右衞門が金をバラ撒いて拵へた無實の罪で、その爲に父峰之助は牢死――といふのは表向、實は牢の中で一服盛られた――と私は、合牢の者に聽きました」
「――」
「その怨を晴らし度さ、私は村越家に入り込み、若い時の惡事のために、氣の弱つて居る峰右衞門を脅かし、その用心棒を自滅させて、峰右衞門の心持を取ひしぎ、今夜といふ今夜、峰右衞門を殺して、二代に亙る敵をちました、私はもう」
「待て/\」
 平次は危急を察して下から聲を絞りました。
「私はもう、どうせ助からない命、此處で死んで、祖先の方々にあの世でお目にかゝり、峰右衞門と閻魔えんまの前で對決することにきめたが、心殘りはたつた一つ――」
「――お春のことか」
「あれは、父親が牢死した後で生れた私の弟、――本名は春吉、私が女で男に化けたやうに、男の子の春吉は女に化けて居ました。敵に素姓をさとらせないため――」
 振り返るとお春の春吉は、人ごみの後ろに、全身をふるはせて、大泣きに泣いて居るのです。
「春吉は取つて十三、もう立派な男の子だ――村越家の惣領に間違ひはありません、その子には、何んの罪もない、頼みましたぞ、錢形の親分」
「あ待つた」
 平次は聲を掛ける間もありませんでした。宗之助のお道が隱し持つた匕首あひくちで、自分の喉へ、留めやうもなく、ズブリと突つ立つたのでした。
 お春の春吉は、此時漸く庇に掛けた梯子に思ひ付き、少し遠廻り乍ら、屋根から二階の窓へ飛付き、死に行く男姿の姉に必死と縋りつきましたが、それは併し、とゞめやうの無い、恐ろしい破局で、平次も手をこまぬいて見て居るばかりです。

一四


 朝になつて、土地の役人や、百人町百兵衞に始末を頼み、平次と八五郎は、鬱陶しい心持で神田へ引揚げて居りました。
「變な殺しでしたね、親分」
 八五郎はチヨツカイを出して、默り續けて居る平次に何やら説明を求めます。
「宗之助を女とは見破つたが、お春があべこべに男の子とは氣がつかなかつたよ。年頃の女の子には身體に何處か柔かさがあつて、どんなに荒つぽく振舞つても、優しいところがあるものだ」
「お春は本當に、何んにも知らなかつたでせうか」
 八五郎はたづねました。
「いや、皆んな知つてゐる筈だよ、巡禮の死骸だつて、宗之助一人の力では、玄關まで運べないよ、――あの爺さんは、始終來る物貰ひではあつたが、村越家には全くの他人さ、田圃で首をくゝつて死んで居るのを、宗之助が見付けて、お春の春吉に手傳はせて引摺り込み、心の弱つて居る峰右衞門を脅かす道具にしただけの事だらう」
「浪人のり合ひは」
「皆んな宗之助のお道の細工だ、うまくたくらんだものだよ、尤も殺させる氣は無かつたかも知れない、二人に喧嘩をさして、二人共退散させる積りだつたらう、少し藥がきゝ過ぎて、富山七之助が秋山彌十を殺したので、其場を去らせず、宗之助は、富山七之助のやり過ぎに喰つてかゝつたのだらう、女の子にしては恐ろしい膽力たんりよくだ」
「下男の勇太郎を殺したのは」
「多分――多分だよ、勇太郎が、宗之助の素姓を見破り、その女だといふことを知つて、無體のことを言ひ寄つたに違ひあるまい。男の子に化けて居ても、十八になつたばかりの娘だ、ツイかつとして、弟の春吉と力をあはせ、勇太郎を無理に呼び寄せて、しな垂れかゝるところへ、首へ細紐を卷いて二人の力でめ殺し、たうとう口を塞いでしまつたのだらう、その上に臼を仕掛けて落し、絞め殺したのを胡麻化したに違ひあるまい。――勇太郎が床を敷いて居たし、寢卷の上に半纒はんてんを引つかけて居たのはその爲だ」
「へエ、恐ろしい娘で――」
「主人峰右衞門を脅かし續けて來たが、たうとう我慢が出來なくなり、父親の十三年忌の日か何んかを選んで、いよ/\今夜峰右衞門を殺さうとたくらんだが、万一まんいちの未練で、うたがひを喜八郎に向けようとしたのは良くなかつた――が、死に度くない人間の心持といふものは、ハタで考へたやうな呑氣なものぢや無からう」
「へエ」
「喜八郎の代りに俺が出て來たのと、お前に女といふことを見破られて、宗之助のお道も諦らめてしまひ、せめて罪を一人で背負つて死ぬ氣になつたのだらう、――考へて見ると可哀想な話さ、宗之助のお道の言ふのが皆んな本當なら、一番惡いのは主人の峰右衞門だ」
「――」
 二人は默々として、銘々のことを考へ乍ら、お濠端の春の景色を眺めるともなく、神田明神下へ引揚げるのです。





底本:「錢形平次捕物全集第三卷 五月人形」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年4月20日発行
   1953(昭和28)年6月20日再版発行
初出:「サンデー毎日」
   1951(昭和26)年1月28日号〜2月11日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年6月24日作成
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