元日の晝下り、八丁堀町御組屋敷の年始廻りをした錢形平次と子分の八五郎は、
「八、目出度いな」
「へエ――」
ガラツ八は眼をパチ/\させます。正月の元日が今始めて解つた筈もなく、天氣は朝つからの日本晴れだし、今更親分に目出度がられるわけは無いやうな氣がしたのです。
「旦那方の
平次は斯んな事を言つて、ヒヨイと
「へエ――、本當ですか、親分」
ガラツ八の八五郎は、存分に鼻の下を長くしました。ツヒぞ斯んな事を言つたことの無い親分の平次が、與力笹野新三郎の役宅で、
「本當ですかは御挨拶だね。後で割前を出せなんてケチな事を言ふ氣遣ひはねえ。サア、眞つ直ぐに乘り込みな」
さう言ふ平次、料理屋の前へ來ると、フラリとよろけました。組屋敷で軒並
「親分、あぶないぢやありませんか」
「何を言やがる。危ねえのは手
「冗談でせう、親分」
二人は黒板塀を繞らした、相當の構の門へ
眞新しい看板に「さざなみ」と書き、
「こいつは洒落て居るぜ、――正月が裏を返しや盆になるとよ。ハツハツ、ハツハツ、だが、世間附き合ひが惡いやうだから、ちよいと直してやらう」
平次は店の中から
「入らつしやい、毎度有難う存じます」
「これは親分さん方、明けましてお目出度うございます。大層御機嫌で、へツ、へツ」
帳場に居た番頭と若い衆、掛け合ひで滑らかなお世辭を浴びせます。
「何を言やがる、身錢を切つた酒ぢやねえ、お役所のお屠蘇で御機嫌になれるかツてんだ」
「へツ、御冗談」
平次は無駄を言ひ乍ら、フラリフラリと二階へ――
「お座敷は此方でございます。二階は混み合ひますから」
小女が座布團を温め乍ら言ふのです。
「混み合つた方が正月らしくて宜いよ。大丈夫だ、人見知りをするやうな育ちぢやねえ。――尤もこの野郎は醉が廻ると噛み付くかも知れないよ」
平次は後から登つて來るガラツ八の鼻のあたりを指すのでした。
小女は
「其處ぢや
部屋の眞ん中に拵へた席を、平次は自分で表の障子の側に移し、ガラツ八と差し向ひで、威勢よく盃を擧げたものです。
「大層な景氣ですね、親分」
面喰つたのはガラツ八でした。平次のはしやぎ樣も尋常ではありませんが、それより膽を冷したのは、日頃堅いで通つた平次の、この日の
「心配するなよ。金は小判といふものをフンダンに持つて居るんだ。――なア八、俺もこの稼業には
「冗談で――親分」
「冗談や洒落で、元日早々こんな事が言へるものか。大眞面目の涙の出るほど眞劍な話さね。八、江戸中で一番儲かる仕事は一體何んだらう。――相談に乘つてくれ」
さう言ふうちにも、平次は引つ切りなしに盃をあけました。見る/\膳の上に林立する徳利の數、ガラツ八の八五郎は薄寒い心持でそれを眺めて居ります。
「儲かる事なんか、あつしがそんな事を知つてゐるわけが無いぢやありませんか」
「成程ね。知つて居りや、自分で儲けて、この俺に
「――」
ガラツ八は閉口してぼんのくぼを撫でました。
「――尤も、手前の氣つぷに惚れたのは俺ばかりぢやねえ。横町の煮賣屋のお勘ん子がさう言つたぜ。――お願ひだから親分さん、八さんに添はして下さいつ――てよ」
「親分」
「惡くない娘だぜ。少し、
「止して下さいよ、親分」
「首でも
「親分」
ガラツ八はこんなに驚いたことはありません。錢形平次は
四組のお客は、それにしても何と言ふおとなしいことでせう。そのころ
「なア、八、本當のところ江戸中で一番儲かる仕事を教へてくれ、頼むぜ」
平次は尚も
「泥棒でもするんですね、親分」
ガラツ八は少し捨鉢になりました。
「何んだと此野郎ツ」
平次は何に腹を立てたか、いきなり起上つてガラツ八に掴みかゝりましたが、散々呑んだ足許が狂つて、見事膳を蹴上げると、障子を一枚背負つたまゝ、縁側へ轉げ出したのです。
「親分、危いぢやありませんか」
飛びつくやうに抱き起したガラツ八、これはあまり醉つてゐない上、どんなに
「あゝ醉つた。――俺は眠いよ、此處で一と寢入りして歸るから、そつとして置いてくれ」
障子の上に半分のしかゝつたまゝ、平次は本當に眼をつぶるのです。
「親分、――さア、歸りませう。寢たきや、家に歸つてからにしようぢやありませんか」
「何を。女房の面を見ると、とたんに眼がさめる俺だ。お願ひだから、此處で――」
「親分、お願ひだから歸りませう、さア」
ガラツ八は手を取つて引き起します。
「よし、それぢや素直に歸る。
「心得てますよ、親分。――小判を一枚づつもやりや宜いんでせう」
「大きな事を言やがる」
ガラツ八は平次を
「あ、親分、そんな事は、
八五郎もハツとしました。平次は覺束ない足を
「放つて置け。俺が外した障子だ、俺が直すに何が危ないものか。おや、裏返しだぜ。骨が外へ向いてけつかる、どつこいしよ」
平次はまだ障子と角力を取つて居ります。
八五郎は平次を引つ擔ぐやうにして、何うやら彼うやら帳場まで降りて來ました。
帳場に坐つて居るのは、中年の番頭が一人。
「お歸りで? 親分さん、毎度有難う存じます。又どうぞお近いうちに」
「飛んだ騷がせたね、濟まねえ」
平次はフラフラと首をしやくつて、草履を突つかけます。
「つまらないもので御座いますが、どうぞお手
番頭は帳場の側へ二た山に積んだ、お年玉の手拭のうちから白地のを二本取つて、平次と八五郎に渡しました。
「有難てえ、遠慮なしに貰つて行くぜ。ところで番頭さん、俺は斯う見えても大の親孝行者なんだ」
「へエ、へエ、結構なことで――」
「お袋は取つて六十七だが、白地の手拭は汚れつぽいからと言つて、
「――」
「お安い御用だ。ひよいと一本だけ、その淺黄の方と換へてくんな」
平次は貰つた手拭を下へ置いて、番頭の方へ手を出しました。
「御冗談で、――親分さん。その白地の方が品がぐつと良くなりますよ。淺黄は染も地も惡くなりますが」
「その地の惡いのが好きなんだ。どうも手拭の良いのは、顏の皮を剥いて、始末にいけねえ」
「飛んでもない。これは出前の註文に入らつしやる御近所の衆や、お使の方に差上る分で――」
「そんな事を言はずに、頼むから一本」
平次は根氣よく絡み付きます。
「親分、宜い加減にして歸りませう。淺黄の手拭が要るなら其邊で二三反買つて行かうぢやありませんか」
見兼ねてガラツ八が口を出します。
「何だ、人の財布を預かつてゐると思つて、いやに
「危ない、其處は敷居ですよ、親分」
あんよは上手――の形で、漸く平次を外に伴れ出したガラツ八、日本橋を越してホツとしました。
「八」
「へエ――」
「誰も見ちや居ないな」
「へエ――」
神田が近くなると、平次の態度は、俄然變つたのです。
「淺黄の手拭を出しな」
「へエ――」
「番頭と揉んでゐるうちに、手前懷へ一本忍ばせたらう。――あんな隱し藝があるとは知らなかつたよ」
平次はヒヨイと手を出しました。しやんとした足取り、顏の色も、身體の安定も、日頃の平次と少しも變りません。
「淺黄の手拭に
ガラツ八は懷から淺黄の手拭を一と筋、のし紙に包んだまゝのを出しました。
「手前の指先の働きを見屆けたから、俺は番頭に
「冗談でせう。――ところで、親分は醉つちや居なかつたんで?」
ガラツ八は先刻から、打つて變つた平次の樣子が不思議でなりません。
「本當に酒を呑んだのは、吸物椀と盃洗と、
「へエ――」
「俺は三
「すると?」
「間拔けだなア。――あの家を、不思議だとは思はなかつたのか、手前は?」
「へエ――」
ガラツ八にはまだ解りません。
「
「へエ――」
「
「成程ね」
ガラツ八は長い
「それ丈けなら物の間違ひとも思ふが、――表二階の障子が一枚、裏返しになつて居たのに氣が付いたか」
「さう言へば、親分の倒した障子を、そのまゝ敷居へはめたら、骨の方が外を向いてましたね」
ガラツ八は、あの時の平次の
「客商賣の家が、元日早々、障子を裏返しにして置くといふ法はないよ」
「フ――ム」
ガラツ八は鼻の穴をふくらませました。平次の話が次第に重大さを加へるので、そつと後を振り返りましたが、此處へ來るともう元日の街も思ひの外淋しく、廻禮の
「たつたそれだけで、俺は素通りが出來なくなつた。屠蘇機嫌と言つた顏で、輪飾りを引くり返したり、障子をわざと外して、裏表を直したり、飛んだ
「――」
「輪飾りは矢張り裏返しになつて居たし、二階の障子も、眞ん中の一枚は、骨が外へ向いて居たよ」
「へエ――」
「手前は其處までは氣が付かなかつたらう」
「恐れ入つた。親分、もう一度引返して樣子を見ませうか」
「馬鹿、此上相手に要心させてたまるものか。さうでなくてさへ、俺を平次と見破つたんぢやあるまいかと、大ビクビクものだつたぜ」
それにしても、『さざなみ』の謎は解けさうもありません。
「何んだつてそんな事をしたんでせうね、親分」
「それが解らねえ」
平次は往來の眞ん中で腕組をしてしまひました。
「輪飾りを引つくり返したり、障子を裏返しにすると、何かの
「そんな馬鹿なことがあるものか。その上、あんなに立て混んでゐる客が、元日だと言ふのに、少しおとなし過ぎたよ」
「――」
「場所は海賊橋だ。――街を通る人から、たつた一と目で見える輪飾りと障子に細工があつたんだぜ――」
二人の足は、何時の間にやら、平次の家へ――路地を入つて居りました。
「親分、その手拭に何かありやしませんか」
「それだよ、――兎も角、お屋敷へ歸つてからとしようぜ」
「へツ、北の方お待兼ねと來やがる」
「
噂をされる女房のお靜は、この時まだ若くも美しくもあつたのです。
「どうだい八、番頭が物惜みをしただけに、手が混んでゐるぢやないか」
平次は淺黄の手拭を疊の上に擴げました。
「成程ね、十二支と江戸名所
手拭は一面の模樣で、細かく十二に割つた
「江戸名所に、
それ以上は二人にもわかりません。兎に角、最初の一と區劃は、塔と飛んでゐる動物と、橋の
「こいつは親分、兩國橋から見た淺草の五重の塔ぢやありませんか」
「飛んで居るのは」
「
「
「――」
「兎に角、この手拭を持つて行つて、何處で染めたか突き止めてくれ。
「へエ」
「それから、正月早々氣の毒だが、暫らくの間、あの『さざなみ』を見張つて居て貰ひ度いな。手が足りなかつたら、下つ引を狩り出しても構はねえ」
「そんな大物でせうか、親分」
「
二人はそれつ切り別れました。
平次はそれからすつかり寢正月をして、三日の朝不精床を這ひ出すと、
「お早やう」
ガラツ八の八五郎が
「何だい、八、年始はもう濟んだ筈だぜ」
平次は
「あれツ、忘れちや情けないね。親分、海賊橋の輪飾り」
「あ、そんな事もあつたやうだね。三日二た晩寢通して見るが宜い。御用のことは兎も角、女房の面も忘れるよ」
平次はそんな事を言ひ乍ら、せつせと遲い朝の支度をしてゐる、お靜の素知らぬ顏をチラリと見やります。
「へツ、惚氣を聽きに來たんぢやねえ。手拭の誂主は判りましたぜ、親分」
「誰だ?」
「さざなみの番頭で」
「馬鹿野郎、『さざなみ』のお年玉を、『さざなみ』の番頭が誂へるに、何んの不思議があるんだ。もう少し、
「しましたよ、親分、驚いちやいけませんよ」
「脅かすなよ」
「こいつを驚かなかつた日には木戸は要らねえ。『さざなみ』は昨日のうちに店を疊みましたぜ」
「何だと」
「大晦日に店を開いて、正月の二日に店仕舞をしたと聽いたら、親分だつて驚くでせう」
「よし、直ぐ行つて見よう。大家は何處だ」
「裏の倉賀屋――質屋が家主で」
それを半分訊いて、平次はもう出かける支度です。
「あれ、お前さん、まだ朝飯も、濟まないぢやありませんか」
驚いたのはお靜でした。
「お前一人で濟まして置け。――羽織は何處だ、――紙入と手拭は?」
二人は呆れるお靜を後に、
海賊橋へ行つて見ると『さざなみ』は店を締めて、近所で訊いても、何處へ引越したとも解りません。『さざなみ』の眞裏、庭續きの質屋――倉賀屋――へ行つて訊くと、
「どうも驚きましたよ。暮の二十五日に來て、正月早々店を開き度いからと、一兩二分で貸しました――へエ、店貨は確かに一と月分頂戴しましたが、店を開いて、たつた一日で、どうも商賣は思はしくないから、故郷の府中へ歸ると言ひ出すぢやございませんか、あんな
主人の總七は、五十恰好のよく練れた人相を、解き難い謎に曇らせます。
「借り手は何んな人間で?」
「主人は顏を見せません。番頭は四十がらみの、
それなら平次もよく知つて居ります。
「雇人は?」
「下足が一人、板前が二人、下女が二人、それにお座敷女中が三人位は居たやうでございます」
「あれほどの店を貸したんだから、證人があるだらう」
「それが、その、江戸へ出たばかりで、知合が無いからと言ふお話で、その代り敷金を半年分九兩入れました。――尤もそれは昨夜お返し申しましたが」
「それにしちやお年玉の手拭を誂へたのは可笑しいな。暮の二十五日ぢや間にあはねえ筈だ」
「へ――エ?」
獨り言ともなく、言つた平次の言葉、主人の總七も何やらピンと來た樣子です。
「何んか書いたものは無いだらうか、請取とか、名札とか?」
「生憎何んにもございません」
これでは取付く島もありません。平次も暫らくは、煙草の
「それぢや、あの店を私に貸してはくれまいか」
平次は大變なことを言ひ出しました。
「それはもう、親分さんの御用と仰つしやれば、決して否應は申しません。が、生憎『さざなみ』が、立ち退くと入れ違ひに、借手が付いてしまひました」
「はて? 何處の何と言ふ人だえ」
「何でも、古道具の
「ちよいと、その手金を見せて貰はうか」
「へエ――」
主人は帳場格子の中で、何やらガチヤ/\させると、四兩二分の金を持つて來て、平次の前に並べます。
「この金に目印でもあるのかい」
「何にも御座いません」
「それぢや、どうして金箱の中から選り出したんだ」
「へエ――」
斯うなると、少しも要領を得ません。
「五日に越して來るなら、今日は三日だから、四日一日は空いて居るだらう」
「へエ――」
「その空いてる四日一日だけ貸して貰はうか。五日の朝のうちには、綺麗に引拂つて行くから」
「へエ――」
倉賀屋總七は、あまり氣の進まない樣子ですが、顏の良い御用聞の申出を斷わるほどの勇氣も無かつたのです。
「店賃は一兩二分、一と月分に負けて貰はうか。――もつとくれと言はれても、それで正月の小遣ひ總仕舞だ」
平次はそんな事を言つて、一兩二分の金を取出します。
「それには及びませんよ、親分さん。たつた一日位のことなら、どうぞ御自由にお使ひ下すつて」
「いや、借りた家の店賃は、矢張り拂はないと氣が濟まねえ。その代り一筆請取を書いて貰はうか」
「それぢや、暫らくお預り申します」
平次の引きさうもない樣子を見ると、主人の總七は澁々ながら一筆請取を書いて出しました。
「八、いよ/\商賣替だよ」
「へエ――」
「氣の
「何をやらかすんで」
倉賀屋の
「判つてゐるぢやないか、『さざなみ』の後を借りたんだ。――當節は何んと言つても儲けの早いのは食物屋さ」
「驚いたなア」
「驚くことなんかあるものか。
「そんなものはありやしません。十手小太刀の心得なら少しはあるが――」
「生意氣なことを言ふな。どうせたつた一日だ。俺は帳場へ坐るから、手前は板前よ。お靜は下女でお品さんに手傳つて貰つて、これはお座敷女中」
「大變なことになつたね、親分」
ガラツ八の驚き呆れる間に、平次は着々とその支度を整へました。尤もガラツ八の板前では納まりません。知合の料理屋から、手の空いて居る限りの人數をカキ集め、座布團も、火鉢も、膳椀も一日のうちに運び入れて、正月の四日には、もう夜が明けると一緒に店を開いたのです。
「親分、到頭
「ざつと斯んなものだよ、八、表を見てくれ」
平次に言はれて表に廻つた八五郎。
「あツ」
さすがに驚きの聲をあげました。
「どうだ八」
「あの通りだ、輪飾りも、――二階の障子も」
輪飾を裏返しに、二階の障子の骨は此方を向いて居るのです。
「
「
斯うなるとガラツ八も一生懸命でした。
未だ廻禮のある時分で、
晝頃になると、家主の主人總七が、ブラリと樣子を見に來ました。
「親分さん、商賣はどんな樣子で?」
「お蔭樣で大繁昌です。いよ/\私も商賣替をして、此處へ根を生やしませうか」
「飛んでもない」
平次のニコ/\した顏を、凡そ、見當の外れた樣子で眺め乍ら、倉賀屋の主人は歸つて行きました。
「八」
「へエ――」
「何人來て居る」
「六人ばかり、皆んな此居廻りの下つ引ですよ」
「それで宜い、江戸橋と、日本橋の御高札場と、
「へエ」
「これは大きな聲ぢや言へねえが、倉賀屋の丁稚小僧が外へ出たら、一々後を
「へエ――」
八五郎を出してやると、平次は又帳場に
新店のせゐか、客は一
「入らつしやい」
「許せよ」
ズイと入つて來たのは、
「どうぞお通りを」
「遲れて心配いたした。元日といふ約束であつたが、箱根の關所で手間取つて、今日漸く江戸へ入つた始末ぢや」
何が何やら解りません。
「御苦勞樣で――さア、どうぞ二階へ、お通り下さいまし」
平次は一生懸命でした。が、
「手形はこれだ」
「へエ――確かに頂戴いたします」
小さく疊んだ紙片、平次は押し戴くやうに懷中へ入れます。
「許せよ」
二人の虚無僧は天蓋を冠つたまゝ、靜かに
平次はその後ろ姿を見送つてそつと
二月十八日(ウ)三五八
四月 六日(サ)一〇〇
同 廿九日(カ)一〇
七月廿八日(サ)八
九月十七日(ス)六五
十月 七日(ハ)六
以上七項が書いてあるのです。四月 六日(サ)一〇〇
同 廿九日(カ)一〇
七月廿八日(サ)八
九月十七日(ス)六五
十月 七日(ハ)六
半刻ばかりの後、輕い食事を濟ました二人の虚無僧は、綺麗に勘定を拂つて二階から降りて來ました。
「有難う存じます、またどうぞ」
少しギコチないが、精一杯の世辭をふり
「お年玉を貰はうかの」
若い方の虚無僧は手を出したのです。
「――」
平次はハツとしました。何も彼も殘るところ無く用意を整へた積りでしたが、お年玉の白い手拭と、淺黄の手拭だけは、染める暇が無かつたのでした。
「例年のことだが――」
平次の
「お生憎樣ですが、元日一日で出拂つてしまひました」
「何、出拂つてしまつた。そんな筈は無い。我々を何んと心得て仲間外れにするのだ」
「飛んでもない――あ、御座いました。一筋だけ殘つて居りました。少し皺くちやになりましたが、これで御勘辨を願ひます」
平次は元日此處の帳場から、ガラツ八がくすねた淺黄の手拭を懷から出して、折目正しく疊み直し、用意の
「よし/\、皺になつても、貰ひさへすれば。――それでは又逢はう」
「有難う御座います。それでは、お靜かに」
振り返りもせずに立去る二人の虚無僧を見送つて、平次は思はず冷汗を拭きました。
「八、八は居ないか」
「親分」
ノソリと物蔭から出たのはガラツ八です。
「あの二人の虚無僧の後を跟けてくれ」
「へエ――」
ガラツ八は獵犬のやうに、尻を七三に引つからげて飛出します。
二た刻ばかり後、今日一日の店を仕舞ひ、借りた物は返し、
「あツ、ブル/\。あの若い虚無僧の腕には驚きましたよ、親分」
「ちよつかいを出して、大川へでも投り込まれたんだらう」
平次は案外驚いた顏もしません。
「ちよつかいなんか出せるものですか。神妙に後を跟けて行くと、龜戸へ行つて、深川へ廻つて、それから永代を渡つて又此方へ戻るぢやありませんか」
「どんな家を訪ねて廻つたんだ」
「何處へも行きやしません。天神樣へお詣りして、落書を一と
「フーム」
平次の顏は次第に眞劍になります。
「立去つた後、その欄干の下をヒヨイと覗くと、いきなり若い虚無僧が戻つて來て、先刻から我々兩名の後を跟けて居るやうだ。不埒千萬――だつて言やがる」
「投げられたのか」
「へエ――十手を出す暇もありやしません。いきなり一本
「危いね」
「親分の前だが、永代の下の水は、思ひの外鹽つぱい」
「馬鹿野郎」
さう言ひ乍らも、寒空にガタガタ顫へてゐる八五郎の着物を脱がせ、皆んなから一枚づつ剥いて、何うやら斯うやら暖めた上、倉賀屋から布團を借出して來て、梯子の下の六疊に寢かしました。
「風邪を引きさうだぜ、親分」
「今
「少し淋しいね、親分」
「何を、子供ぢやあるまいし」
平次は大勢の手傳ひを皆な歸した上、八五郎一人を留守番にして、其處から遠くない八丁堀組屋敷へ急ぎました。
與力笹野新三郎に逢つて、
「旦那、この日附と數に、お心附きは御座いませんか」
虚無僧が手形と言つて置いて行つた紙片を見せました。笹野新三郎暫らく眺めて居りましたが、
「平次、これは何處から手に入れた」
膝の上に置いて容易ならぬ眼を擧げます。
「虚無僧が置いて行きました。尤も私を仲間と間違へたやうで」
「これは大變なものだぞ。――此處ぢや詳しいことは解らない。御數寄屋橋へ行つて、書き役の方に伺つて見るが宜い」
「有難う御座います、それぢや」
「待て/\、俺も行かう。これは近頃の大捕物になるかも知れない」
笹野新三郎、即刻支度を整へ、平次共々御數寄屋橋内、南奉行所に急ぎました。
書き役は留守。
思ひの外手間取つて、添役に記録を調べさせると、重大事件の輪廓が次第に判つて來ます。
「これは大變でございますよ、笹野樣。昨年の二月十八日は、東海道
「えツ」
「それから四月六日には
「それは大變だ」
と笹野新三郎。
「して見ると、あの『さざなみ』は泥棒の
錢形平次は斯んな事だらうとは思ひましたが、今更事件の重大さに驚くばかりです。多分、全國の泥棒どもが年に一度の顏寄せに、お互の功名を誇り合つた上、獲物を何かの方法で分配でもするのでせう。
「平次、しつかりやれ、これは容易ならぬことだぞ」
笹野新三郎は平次の腕に期待をかけます。
平次は笹野新三郎と打合せて、八丁堀を繰出したのは
『さざなみ』に行つて一應ガラツ八の樣子を見ようと思ひましたが、なまじそんな事をして、曲者に用心させてはと、手先捕方を隙間もなく配置し、兎も角も夜の明けるのを待つことにしたのです。
「何と申しても、怪しいのは倉賀屋でございます。自分の持家を寄合に使つて居るのを、知らない筈は無いのに、何彼と
平次は倉賀屋へ第一番に疑をかけた上、手に及ぶかぎりの下つ引を動員して、二人の虚無僧の落付いた先を調べさせました。
「夜が明け切つては、近所の家で驚く。もう宜からう平次」
笹野新三郎は若いだけに功名を急ぎます。
「それツ」
平次の號令につれて、前後左右から倉賀屋の圍みを絞つたのは
「御免よ。板原左仲樣御屋敷から來たが、かねて、入質の大小、今日の御登城に御用ひになる相だ。すぐ出して貰ひ度い」
「板原左仲樣――と仰しやる方は存じませんが」
臆病窓を開けた手代、淡い曉の光の中に立つて居る、お屋敷者らしい男を、不審さうに見やりました。
「そんな事があるものか、御身分柄内々の質入だ。主人に逢へば判る、
「へエ――」
手代は爭ひ兼ねて潜戸を開けると、
「御用ツ」
「神妙にせい」
一隊の人數が、
が、併しこの襲撃も、飛んでもない結果になつてしまひました。折角狙つて來た倉賀屋の主人總七は奧の部屋で寢たまゝ刺し殺され、
家搜しをして見ると、藏の中はお觸書にある贓品だらけ。
「矢張り、この總七は泥棒の片割れでした。――質屋になつて、永い間仲間の盜んだ品を
平次の解つたのは、たつたこれだけです。
「番頭は?」
「仲間割れがしたか――
「引續いて、頼んだ手を緩めてはならぬ」
與力笹野新三郎は、萬事を平次に任せて、朝のうちに引揚げてしまひました。
「ところで、八は何うして居るだらう。此騷ぎにも起き出さないのは、餘つ程疲れたのかな」
平次は『さざなみ』へ行つて見ました。手を掛けると、閉めた表戸はわけも無く開いて、サツと射込む朝の光の中に、布團で
「馬鹿野郎、何んてざまだ、一人前の岡つ引きが――」
平次は大叱言を浴びせ乍らも、表戸をピタリと締めて、手早く八五郎の繩と猿轡を解いてやります。この淺ましい姿を人に見せ度くなかつたのです。
併しこの失敗は事件のクライマツクスでした。
「親分は?」
お勝手口から臆病らしく顏を出した八五郎が、拇指をそつとお靜に見せたのは、十日の晝過ぎ。
「相變らずよ。腕組みをして、唸つてばかり居るんですもの、――何とかして下さいな、八五郎さん」
戀女房のお靜も、すつかり持て餘し氣味です。
「大丈夫ですか、いきなり怒鳴りやしませんか」
八五郎はあの失敗以來、すつかり御無沙汰して、
「八か、大丈夫だ。噛付きはしないから、入つて來い」
奧から思つたよりも晴々しい平次の聲。
「へエ――」
ガラツ八は恐る/\小腰を屈めて、髷節ばかり障子の中へ入れました。
「何んて恰好だい。まア入れ、八」
「へエ――、もう怒つちや居ませんか、親分」
「
「正月の十日ですよ、早いもので」
「年寄染みた事を言ふな。――その十日に來たのはお前の運がなかつたんだ、これを見てくれ」
「へエ――」
ガラツ八は恐る/\滑り込みました。平次は疊の上へ置いた半紙へ、變哲なものを書いて一生懸命それと睨めつこをして居るのです。
「これは何だと思ふ、八」
「橋の
「お世辭を言つちやいけねえ。――手拭は虚無僧にやつてしまつたが、心覺えがあるから、あの模樣の一番初めのを書いて見たんだ」
「へエ――」
「ところで、橋の欄干として何處にこんな橋があるだらう」
平次の問は第二段に進みました。
「兩國ですよ、間違ひはありません。
「成程、兩國かも知れない。――あの邊には見世物と水茶屋ばかりだが、道具屋のあるのを知つてるかい」
「知りませんよ」
「實はな、八、この手拭の染め模樣が何かの
「へエ――」
平次の
「お
「――」
「奧州の南部には、字の讀めない者に讀ませるやうに、――繪で書いた暦がある。――
「へエ、――暦はありましたか」
「あつたよ、御用人にお願する迄も無いや、
平次は半紙一枚に
「これで見ると、十日と讀ませるには、塔の蚊を書いて居る手拭り模樣の最初のがそれだ。
「成程ね、道理で無闇に足が長いと思つた」
「手拭の模樣は十二に分けてあつたから、最初は正月と見て宜い、正月の十日といふと今日だ」
「――」
妙な緊張に、ガラツ八は唇を甞めました。
「兩國橋の近くに、何んかあるに違ひない、――どうだ八、この
平次は斯んな事を言つて落着いて居るのです。
「それぢや行きませう、親分、十日の日もあと一
「その暮れるのを待つて居るんだ」
「風をくらつて逃げたら?」
「大丈夫。お品さんが、利助兄哥の子分衆に言ひ付けて、兩國の橋の見えるところで、二階正面の障子が一枚、裏返しになつて居る家を、朝つから見張つて居る筈だ」
「へエ――」
ガラツ八は喫驚しました。五日籠つてゐた平次の
× × ×
その晩、兩國の料理屋、
錢形の平次は、併し、これを自分の手柄にはしませんでした。
「
さう言つて首筋を掻く平次だつたのです。