錢形平次捕物控

一枚の文錢

野村胡堂





「親分、退屈だね」
「――」
「目の覺めるやうな威勢のいゝ仕事は無えものかなア。此節のやうに、掻つ拂ひや小泥棒ばかり追つ掛け廻して居た日にや腕がなまつて仕樣がねえ」
 ガラツ八の八五郎は、そんな事を言ひ乍ら、例の癖で自分の鼻ばかり氣にして居りました。
「大層な事を言ふぜ、八。先刻から見て居ると、指を順々に鼻の穴へ突つ込んで居るやうだが、拇指おやゆびの番になつたら何うするだらうと、俺はハラハラして居るぜ」
 錢形平次は、早春の日向縁に寢轉んだまゝ、斯んな無駄を言つて居ります。
「つまらねえ事を心配するんだね、親分」
「俺は苦勞性さ、その指を何處で拭くか、そんなつまらねえ事まで心配して居るんだよ。今晩あたりは、うけ合ひ、大きな鼻の穴の夢を見るよ。ウナされなきア宜いが」
「天下泰平だなア」
「だがな八、今に面白い仕事が舞ひ込んで來るよ、――退屈なんてえのは、鼻の穴のでつかい人間とは縁が無い代物しろものだよ」
「へツ、いやに鼻にたゝられる日だぜ」
「怒るなよ、八。仕事が舞込みかけて居ることだけは本當なんだ、――聞えるだらう、あの足音が――」
「成程ね、路地の中だ」
「そんな恰好で耳を澄すのは按摩あんまと八五郎ばかりさ、鼻の穴で物音を聞いて居るやうだぜ」
「又鼻かい、親分」
「怒るなよ、八。お前の鼻がよく利くから、俺の仕事が運ぶんだ、平次の手柄の半分は、言はゞ八五郎の鼻の御蔭さ。今度お目にかゝつたら、笹野の旦那に申上げて置かう」
「冗談ぢやねえ」
「ところで、あの足音だ、――後金あとがねゆるんだ雪駄せつたを引摺り加減に歩くところは、女や武家や職人ぢやねえ、落魄おちぶれた能役者でなきア先づ思案に餘つたお店者たなものだ」
「――」
 縁側に寢そべつて、路地の外の人間を透視する平次の話を、八五郎は小鼻をふくらませて聽き入りました。
「先刻から格子を開けかけて、三度も引返して居るよ。大の男があれほど迷ふのは、よく/\の事があるんだね」
「行つて見ませうか、親分、――文句を言つたら、力づくで引張り込む」
「そんな事をしちやブチ壞しだ。さうでなくてさへ、迷ひ拔いて居るんだ。うつかり聲を掛けると、逃げ出さないまでも、用心深くなつて、田螺たにし見たいに口をつぐむに決つて居る、――知らん顏をして居るんだ」
「――」
「それ格子を開けたらう、お靜が出て行つた樣子だ、放つて置け/\、――精一杯知らん顏をして、お前さんの話なんか、少しも聞き度くない、つて顏をするんだよ、解つたか、出しや張ツちやならねえ」
 平次の言葉の終らぬうちに、お靜は一人の男を案内して來ました。
「親分さん――始めてお目にかゝります、私は――」
 お店者たなもの風の四十男、しぶい好みですが、手堅いうちにも贅があつて、後金の緩んだ雪駄を穿く人柄とは見えません。
「まア、宜い、番頭さん、お急ぎの用事でなきア、一服やつてからお話を伺ひませう、此處は陽が入つて飛んだ暖かだから」
「へエ、――有難う御座います、さう呑氣にしても居られません」
「まア宜いだらう、あつしは岡つ引には相違ないが、こんな好い心持の日は、仕事の話を聞くのは大嫌ひさ。ウツラウツラし乍ら、三度の飯を待つなんざ、洒落しやれたものさね。この男は八五郎と言つて、家に居る下つ引だ、遠慮なんか要るものか、朝から鼻ばかり掘つて居るんで、遠慮の方で驚いて逃出したつてね」
「有難う御座います、親分さん、何を隱しませう、私は日本橋通三丁目越前屋ゑちぜんや總七の番頭徳三郎と申すもので――」
「――」
 平次とガラツ八は、それとなく顏を見合せました。越前屋といふのは日本橋切つての大きな金物問屋で、江戸分限ぶげん番附の前頭筆頭に上る家柄、先代の總七は三年前に死んで、今は手代上りの養子總七の代になつて居ることは、岡つ引きならずともよく知つて居ることです。


 越前屋の番頭徳三郎の話は、如何にも雲をつかむやうでしたが、それだけに反つて、何とも言ひやうの無い危機が、越前屋一パイにはらんで居ることは受取れました。
 先代の總七が死んだのは三年前、今の主人の總七は元千吉と言つた遠縁に當る手代で、家附の娘お信と一緒にされ、越前屋の大身代を相續しましたが、半年前女房のお信が怪しい死樣を遂げてからは、獨り者の總七は、放埒に身を持崩して徳三郎の言ふことなどは、耳にも掛けてくれないと言ふのです。
 それだけなら何でもありませんが、家の中には一年前から二た組の異分子が入り込み、いづれも主人顏あるじがほで奉公人を使ひ廻して居るのでした。一組は先代總七の弟で、總七存命中は、義絶同樣、敷居もまたがせなかつた勝造と、その娘のお勇、もう一組は、先代の總七、勝造達兄弟にはをひに當る菊之助といふ若い男と、それに附きまとつて離れない、お粂といふ商賣人上りの年増だつたのです。
「今の主人の總七樣は、元は私共の朋輩で御座いますが、氣の優しい良い方で、道樂さへ内輪にして下されば、申分の無い主人で御座います。が、勝造さん親娘おやこと、菊之助さん夫婦は、何をたくらむか、解つたものぢや御座いません。先代の御主人は中氣で亡くなりましたが、その娘のお信さんは、半年前のある晩、何を食べたか、もがき死にをなさいました。その時は、町内の本道が胡麻化ごまかして了ひましたが、恐ろしい事に近頃になつて、御主人總七樣の命を狙ふ者があるやうな氣がいたしてならないのでございます」
 四十男の徳三郎は、物靜かな調子乍ら、おびえ切つて、唇を顫はせて居ります。
「なぜ主人へ言はないんだ」
 と平次。
「申しました、幾度も、幾度も、うるさい程申しましたが、一向取合つては下さいません。何分若い盛りの主人で御座います。實を申せば、御新造が亡くなつて、あの大身代が自由になるのを、結局氣樂なことに思つて居らつしやるやうで――」
 徳三郎はフツと口をつぐみました。さすがに言ひ過ぎた事に氣が付いたのでせう。
「御新造が死んだのは半年前だと言ふし、叔父や甥が入つて來たところで、とがめ立てするわけにも行くまいから、それだけの事ぢや、お前さんと一緒に乘込むわけにも行くまい。お前さんの忠義は結構だが、あまり取越苦勞をしないやうに蔭乍ら主人を見張つて上げる方がよからう」
 平次もさう言ふより外には工夫もありません。徳三郎の心配にやつれた痛々しさも氣の毒ですが、掴みどころの無い恐怖には、十手も捕繩も役には立たなかつたのです。
「そんなもので御座いませうか。昨日も主人は兩國橋で、往來の者に喧嘩を吹かけられ、危ふく川へ投込まれるところだつたと申しますし、四五日前には、朝の味噌汁の中に、見たこともない恐ろしい蟲が入つて居りました。斑猫はんめうと申すんだ相で」
「それは念入りだな」
「いづれ又、思案に餘つた時は、御智惠を拜借に參ります。私が此處へ來たことが知れると、惡者共は、どんなひどい事をしないとも限りません。どうぞ御内聞に願ひます」
「それはもう番頭さん、誰にも漏らすやうな事は無いよ」
「店を拔け出して來るのも容易ぢや御座いません。今は何刻なんどきで御座いませう」
申刻なゝつ少し廻つたばかりだ、なア八」
「そんなものでせうよ、横町の師匠が錢湯へ行つたし、赤鉢卷の豆腐屋が通つたばかりだし、八つ手の葉へ陽が落ちたし」
 八五郎の時計はまことに念入りです。
「それでは大急ぎで歸らなきやなりません」
 徳三郷はシヨンボリ立ち上りました。少し華奢きやしやな撫で肩、四十男の疲れは見えますが、大店おほだなを背負つて立つだけに、何んとなく貫祿があつて、あまり丈夫さうでない身體から、精力的なものが發散すると言つた人柄です。
 その後姿が路地の外へ消えると、
「八、手前の鼻が役に立ちさうだぜ。あの番頭さんの後を跟けて、通三丁目まで行つて見てくれ。姿を見られちやならねえよ」
「合點」
 八五郎は其儘、獵犬のやうに飛出したことは言ふ迄もありません。


「親分、大變だツ」
 ガラツ八は横ツ飛びに格子へ獅噛しがみ付きました。
「何だ騷々しい、越前屋の番頭が消えて無くなつたとでも言ふのか」
「それどころぢやねえ」
「まア入れ。格子の外でわめき散らされちや、町内の人達が驚く。岡つ引のたしなみはそんな時ほど靜かにすることだ」
 平次が開けてやると、轉げ込んだガラツ八。
「み、水が一杯欲しい」
 上框あがりがまちに坐り込んで了ひます。
「呆れた野郎だ。大變の口はまさか――喉がかわいた――つてことぢやあるめえ」
「親分、喉も渇いたが、それより、越前屋の主人が死にましたぜ」
「何だと、誰が殺した」
 平次は思はず膝を立て直しました。番頭の徳三郎が歸つたばかり、その口から聞いた『あやかし』が四半刻も經たないうちに、越前屋の主人を殺した――と平次が直感したのも無理のない事でした。
「殺されたんぢやねえ、死んだんで」
「もう少し詳しく話して見ろ」
「詳しくもざつにも話しやうはねえ。親分の言ひ付け通り、番頭の後を跟けて行くと、――あの番頭は又恐ろしく几帳面な野郎で、わき見もしなきア、後ろも振り向かねえ、往來の眞ん中を一文字に歩くんだ。――子供にだつて後を跟けられる」
「無駄を言ふな」
「眞つ直ぐに越前屋へ歸ると、店の中は※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)えくり返る騷ぎだ、――番頭の留守に、主人の總七が、屑金物を入れた大箱の下敷になつて死んだんですぜ」
「手前は見なかつたのか」
「見ようと思つたが、後を跟けた番頭に姿を見られちや惡からうと思つて、臭ひだけ嗅ぐと飛んで歸りましたよ」
「それは宜かつた、――放つて置いても、向うから迎ひに來るよ」
「――でせうかね」
「見て居るが宜い」
 平次の言葉は見事に當りました。それから間もなく越前屋の迎ひが、八五郎と同じやうに息せき切つて飛んで來たのです。
「親分さん、越前屋から參りました。主人が大變で御座います、ちよいと御出で下さいますやうに――」
「誰の指圖さしづだ」
「叔父さんの勝造さんで」
「一體主人がどうした」
 指圖をした人を訊いて、それから主人の樣子を尋ねるなどは、隨分きはどい掛引ですが、使の若い男は、そんな事までは氣が付きません。
「大怪我をなさいましたんで、へエ」
「命は」
「お氣の毒なことで御座います」
「怪我や病氣に岡つ引は用事があるめえ。上手な外科なり、それも及ばなきア、お寺へ行くのが順當ぢや無いか」
 平次は益々峻烈です。
「それが、その、勝造さんが、氣に入らねえことがあるから錢形の親分さんにお願ひして、見て頂くやうにと言ふんで」
「何? 氣に入らねえ事がある?」
 平次は考へ込みました。使は番頭の徳三郎が出したことゝ思ひ込んで居ると、思ひも寄らぬ勝造の指圖と聞いて、暫らくは迷つた樣子です。
「八、もう一度出かけよう」
「へエ――」
「思ひの外、み入つて居さうだ」
「まだ水も飮んぢや居ませんよ」
「馬鹿野郎、手桶へ頭でも突つ込んで居るが宜い」
 平次はギユツと帶を締め直すと、お靜の出してくれた羽織を引つかけて、使の男と一緒に出掛けました。


「あツ、錢形の親分さん」
 越前屋の店へ入つて、一番驚いたのは番頭の徳三郎でした。
「御主人が何うかなすつた相だね、ちよいと見せて貰はうか」
「へエ、飛んだ事になつて、途方に暮れて居ります。どうぞこちらへ」
 徳三郎の案内で、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)えくり返るやうな家の中を、掻き分けるやうに裏口へ拔けました。
「此處で御座います、親分さん」
 徳三郎の指した光景は、全く慘憺さんたんたるものです。主人の總七――まだ三十そこ/\の若い男が、納屋の裏、本屋おもやの裏二階の下で、幾十貫とも知れぬ、屑金物入の箱の下敷になつて首を胴にメリ込ませて死んで居たのです。
「錢形の親分、御苦勞樣で、――お呼立してすみません」
「おや、お前さんは?」
「先代の弟の勝造で御座います。主人總七の死にやうがあんまり不思議でなりませんから親分さんに來て頂くやうに申付けました。四半刻ばかり私が此處に頑張つて居て、誰にも手を付けさせません。どうぞ、御覽下さいまし」
 五十前後、分別盛りといふ年輩ですが、小博奕こばくちが好きで身が持てなかつたと言ふだけに、何となく、人へのしかゝつて來るやうな氣の強さうな男です。つむぎの地味な袷、帶も、髮も、堅氣な町人になり切つて居りますが、言葉の底や、大きい眼の中には、決して人に下らない、傲慢がうまんな魂がピチピチ踊ります。
「それはよく氣が付きなすつた。――見付けたのは何時頃でせう」
 平次は相變らずわだかまりもありません。
「半刻ともなりません、申刻さるのこく少し前で、お粂が稽古事から歸つて、二階へ上がると間もなく、大きな音がしたんで、吃驚して二三人飛んで來ると此有樣です」
「――」
「この箱は納屋の二階に置いたもので、獨りで落ちて來るわけがありません。誰か押し轉がして落したか、二階の手摺てすりの上に乘せて置いて、紐でも引いたか――兎に角細工があつたことは確かで、丁度番頭は留守だし、私が頑張つて誰にも手を付けさせないだけの事は致しました」
 勝造の言葉は毒を含んで、誰かに當て付けて居ることは疑ひもありません。
「誰にも手を付けさせない代り、勝造叔父さんだけは付けたかも知れないわねエ」
「何だと、阿魔あま
 勝造の忿怒の視線を辿ると、人垣の後から、二十五六の化粧の上手な女が、赤い唇を歪めて、冷たい笑を送つて居るのでした。
「あれは?」
「お粂と言ふ女で、先代の甥の菊之助が何所かの矢場からか拾つて來た代物しろものですよ」
「傳馬町の大牢から這ひ出した、博奕兇状持ばくちきようじやうもちよりは少ししでせうよ」
 お粂は決して負けては居ません。
「何をツ。引摺り奴」
 いきり立つ勝造を、
「まア/\勝造さん、折が惡い、我慢してやつて下さい。――親分さん、どうぞ、お聞流しを願ひます。腹ん中は皆んな良い人達なんだが――」
 番頭の徳三郎が一生懸命とりなします。
「番頭さん、御主人は何だつてこんな場所へ來なすつたらう。裏二階の下で、納屋なやの蔭などへ、大店おほだなの主人が入るのは可怪しいぢやありませんか」
 と平次。
「へエ、私にも一向合點が參りません」
 徳三郎は斯んな事を訊かれると、首筋を掻いて尻込ばかりして居ります。
「皆な申上げた方が宜いよ、徳三郎どん。――ね親分、主人の恥になることだが、隱したつて隱し切れるものぢやねえ、皆な言つて了ひますが、――主人の總七は半年此方獨り者で、道樂は強いが女には弱い方でした。何の因果いんぐわか、菊之助の女房のこのお粂にさそはれて――」
「お默り。叔父さん面をさして置けば良い氣になつて、私が何時御主人を誘つたえ、畜生ツ」
 お粂は又いきり立ちます。
「――誘はれてと言つて惡きア、氣があつて――としても宜い。兎に角、菊之助が留守になつて、お粂が稽古事から歸つて來る頃を見測みはからつては、此の二階の下へやつて來ましたよ。大店の主人が、見つともない話ですが、表や家の中は人目が多いから、さすがにヌケヌケとお粂の部屋へも入れなかつたのでせう。死んだ者の惡口を言ふんぢやないが、本當に仕樣の無い男で――」
 叔父勝造の話は恐らく本當でせう、其場に居る十人あまり一人も口を出す者もありません。
「あの紐は何んだ」
 納屋の二階から、狹い路地を隔てゝ相對したのはお粂の部屋、その部屋の格子にからんで、下までダラリと下つた麻繩を平次は指しました。
「重い箱を納屋の二階の手摺の上に乘せ、ちよいと綱を引つかけて置いて、此方の格子から引けば、丁度下に居る主人の頭の上に落ちますよ」
 勝造の舌は辛辣しんらつでした。
「畜生ツ、私を罪に陷す氣かえ」
 掴みかゝり相なお粂の氣組、女がいだけに、その激情的な顏は燃え立つ焔のやうな凄まじさです。
「さう一々いがみ合つちや叶はない、もう少し仲よくして貰ひませうか」
 平次はさして氣にする樣子もなく、其邊の樣子を丁寧に見廻りました。
 昨夜雨が降つた後ですが、ぬかるみへ狹い板が敷いてあるのと、板の無いところは大勢で踏み荒して、何が何やら少しも判りません。
 納屋の二階はガラクタの入れ場で、手摺と言つたところで頑丈一方の丸木をかすがひで締めた、形ばかりの物、其の角になつたところへ屑金物の箱を載せれば、如何にも紐一本で落せないこともありません。
 それを引いたと言はれる麻繩は、お粂の部屋の二階格子にダラリと下つて、下の泥を引いて居りますが、下からでは主人總七に見られずに、その端が引けるわけは無かつたのです。
 總七の死體は見るも無殘でした。腦天を打たれて、首が胴へめり込むほどですから、大した傷が無くとも、目鼻口から鮮血が吹出して、四方の薄暗い中に、二た目とは見られない物凄さを漂はせて居ります。
「何があつたんだ、え?」
 大きな聲で四方を見廻し乍ら、二十七八の若い男が飛込んで來ました。先代の甥で、お粂の配偶者はいぐうしやの菊之助です。
「お前さん、私は、私は口惜しいツ」
 お粂は矢庭にその胸に飛付くと、身を揉んで泣き出しました。強氣で持堪へた激情が、一ぺんに破裂したのでせう。


 菊之助は思ひの外善良な男でした。
 先代の總七が甥の菊之助をうとんじて、手代の千吉(後の總七)と娘のお信を娶合めあはせ、越前屋の跡取にしてからは、少し自棄氣味で遊び始め、時のはずみで、お粂のやうな鐵火者と一緒になりましたが、フトした事から、先代の總七が、菊之助の爲に、かなりの金を遺してあることを知つてからは、悍馬かんばのやうなお粂をなだめ/\、越前屋に歸つて來て、店の仕事を手傳つて居たのです。
 荷しごきの仕事で、毎日晝過から夕景まで、横山町の問屋仲間を廻るのが菊之助の仕事、これは總七ならずとも、皆んな知つて居ります。
「先代の主人がお前さんに遺したといふのは、どれほどの金なんだえ」
 平次は一と通り菊之助の話を聞くと、斯う立ち入つた質問をしました。
「それが判りません。先代――私には肉身の伯父ですが、亡くなる少し前に私を呼んで、お前も若いから仕方もあるまいが、大概にして身を堅めたらどうだ。せめて三年越前屋の店で辛棒しろ。その辛棒を見定めた上で、お前にやる物がある、――と斯う言ふ話でした」
「何だ、そのやる物と言ふのは?」
かめ一パイのかねだ相ですよ親分、――先代が何處かに埋めてあるに相違ありません。中に伯父の遺言ゆゐごんも一緒に入つて居る筈です。伯父が死んで暮の十二月が丁度三年目、約束をしたことですから、金銀を一パイ入れた瓶を搜さして貰ひ度い――と、主人へ言ひましたが、そんな昔話見たいな馬鹿なことがあるわけは無いと、どうしても承知してくれません」
「主人の總七が、内々で搜した樣子は無かつたらうか」
「そんな事もあつたやうで御座います。私が毎日晝過から問屋仲間を廻ることになつたのも、一日一パイ店に居ては困ることがあつたので御座いませう」
 菊之助は、お粂と主人の事は何にも知らなかつた樣子ですが、その代り、他に主人を殺し兼ねまじき重大な動機を持つて居たことを自分で喋舌しやべつて了ひました。
「番頭さん、お前さんは何と言つても、後々の始末をしなければなるまい。菊之助さんの話をよく聞いて、折があつたら、勝造さんにでも立ち會つて貰つて、その瓶を搜してくれまいか」
 平次は後ろの方で事件の成行を不安相に眺めて居た徳三郎をかへりみました。
「へエ、承知いたしました」
 商人らしい早速の返事ですが、騷ぎに轉倒して、何となく氣の無い聲です。
「それから、勝造さんの娘さんがあると言つたが」
 と平次。
「これですよ、親分」
 人垣の後ろの方から、父親の勝造が引張り出したのは、すつかりおびえ切つた十八九の娘でした。丸ぽちやの、何んとなく可愛氣のある顏立ちで、妖艶なお粂とは、好い對照になります。
「お勇さんとか言つたネ」
「――」
「騷ぎの起つた時は何處に居なすつた」
「奧で、婆やと一緒にお仕事をして居ました」
「主人はどんな人だと思つた、お勇さん?」
「――」
「どうせ、良くは思はなかつたらうな」
「え」
 お勇は掛引も知らないやうな娘でした。
「お父さんと仲が惡かつたらう」
「え」
「お勇さんは此處に居るのが嫌で/\たまらなかつたらう。――が、御新造が死んで了へば、主人と言つても先代には他人のやうなものだし、お勇さんでも入つて來なきア、越前屋の跡が立たない――とか何とか言ふ人もあつたんだらう」
 平次は妙に突つ込んで行きます。
「親分、娘はあの通り嬰兒ねんねだ、――そんな事を訊くのは殺生過ぎはしませんかえ」
 たまり兼ねて勝造が口を出しました。地味で柔和にうわで、父親の勝造には似たところも無いやうなお勇は、全く平次の問ひの對象には痛々しいほどだつたのです。
 雇人を一と通り調べて、暗くなつてから平次は引揚げました。
「親分、どうしてあのお粂を擧げなかつたんで――」
 ガラツ八は、人影の無いところへ行くと、たまり兼ねた疑ひを投げ出しました。
「主人が人に殺されたといふ證據は一つも無いよ。――それに、あの二三十貫目もある箱を手摺の上へ乘つけるのは、女の腕で出來ることぢやねえ」
「菊之助と二人がかりなら?」
「それも考へたが、――仕掛の麻繩を、格子に引つ掛けたまゝにして置いたのは可怪い、お粂が下手人なら、人の驅けて來る前に、格子から引いた麻繩の始末位は出來た筈だ」
「成程ね。すると、下手人は?」
「番頭が一番怪しいと思つたが、俺のところへ使を出したのが、番頭でなくて、勝造だと聞いて氣が變つた」
「へエ――」
「今のところ一番怪しいのは、主人總七が死ねば、自由に寶のかめを搜せる菊之助か、――それとも、越前屋の跡取になるお勇かな。俺にも判らないよ」
「驚いたなア」
「この邊が手前の鼻の利かせどこだ、暫らくあの家を見張つてくれ。まだ/\騷ぎが續くぞ、お粂も勝造も、容易に引込む代物ぢやない」
 平次のこの豫想は一と月經たないうちに、見事に的中しました。


 越前屋の内外を見張つて居るガラツ八は、毎日三度位づつ報告を持つて來ました。
 叔父の勝造と、菊之助の女房お粂の睨み合ひは益々深刻になつて、雇人やとひにん達も手の付けやうのない有樣ですが、商賣の方は、長い經驗を持つた番頭の徳三郎が取仕切つて、何の不自由もなく續けて居ります。尤も主人の總七は女房のお信が死んでからは、稼業の事などは一向身にまなかつたやうで、死んで了つたところで、店の締括しめくゝりに何の不自由もあるわけは無かつたのです。
 三七日が過ぎると、親類方が顏を合せて、越前屋の跡目の下相談がありましたが、甥菊之助を立てようと言ふ人と、姪のお勇が宜からうと言ふ人と二派に分れて容易にまとまりません。
 尤もお勇には親父の勝造といふイヤな人間が附いて居るのと、菊之助にはお粂といふ惡い女が控へて居るので、どちらも店の爲になるまいから、いつそ、番頭の徳三郎を跡目に直し、親類から適當な嫁を見付けた方が、先代の氣持にも添ふのではあるまいかといふ意見もあります。
 が、散々揉んだ末、先代總七は實弟の勝造を蛇蝎だかつの如く嫌つて居たのは隱れもない事實で、その娘のお勇では改めて養子を容れる世話もあり、博奕打の勝造が出しや張つては、店の信用にもかゝはるので、先代の遺言状さへ見付かつて、菊之助が勘當を許されたことが判れば、菊之助を跡取にする外はあるまい――と言ふところまで話が進みました。お粂は名うての鐵火者ですが、菊之助は名前のやうに優しい若者、お粂におぼれて居る外には、先づ缺點の無い男だつたのです。
 勝造は極力反對しましたが、番頭の徳三郎が菊之助の立場に同情して、一生懸命親類方を説いたので、到頭越前屋の内外を搜して見ることになりました。
「大判小判を入れたかめなどが商人の店から出て來てたまるものか、昔話ぢやあるめえし、馬鹿馬鹿しい」
 勝造は以ての外の機嫌でしたが、それでも土藏の隅々、納戸、物置、天井裏から、床下まで、手代小僧交りに面白半分の家搜しが始まると、ヂツとしても居られない樣子で、彼方此方をウロウロして居りました。
 晝過まで一わたり搜しましたが、家族や雇人の知らないものは、何にも見付かりません。
箆棒奴べらぼうめ、そんな夢でも見たんだらう。貧乏人はよく金の夢を見るものだ」
 勝造は引つ切なしに舌打をして、惡罵を撒き散らして居ります。
「博奕打はさいころの夢でも見るんだらう」
 お粂は腹を据ゑ兼ねて喰つてかゝります。
「何を言やがる。同じ細工をするなら、手頃な瓶に鐚錢びたせんでも詰めてよ、都合の宜いやうに遺言状でも拵へて、埋めて置きア宜いぢやないか。猫の子ほどの智惠もねえ人足共だ」
 勝造の暴言は、はゞみやうも無く、越前屋の店中に響き渡ります。
手前てめえのやうな惡黨はそんな事をするだらうが、私達はそんな細工は大嫌ひさ。遺言状が出て來て、良人が相續することに決れば、博奕打なんか、敷居もまたがせるこつちやない」
「何だと、人殺し女め」
 二人は又噛み合ひさうでした。
 恰度その時、
「見付かつたぞ、皆んな來てくれツ」
 床下に潜つた小僧が大きな聲を張上げました。
「何だ、何が入つて居るんだ」
 瓶より中味の事を氣にした多勢は先代の部屋だつた六疊の疊をあげて、その床下に潜り込んだ小僧二人の上へ重なり合つて覗き込みます。
「そんなにたかつちや見えねえや、――床下の土を掻いて居ると、瓶が首を出したんだ。ふたがして縛つてあるぜ」
 小僧は下からせき込んで報告しました。
「蓋を開けちやならねえよ、瓶をこはさないやうに、そつと掘出すんだ」
 徳三郎は人間を掻きわけて上から指圖をして居ります。
退いた/\、上へあげるぞ」
 瓶は五六人の手で床の上へ引揚げられました。一斗入ほど、大した大きいものではありませんが、何が入つて居るか、非常な重量で、口は丸い板で押へて、澁紙を掛けた上、繩で縛つてあります。
 が、澁紙はボロボロ、地濕ぢしめりで繩もすつかり痛んで居る樣子です。
「何が入つて居るんだ。石つころかかはらか、後ですり替へられちや迷惑だ、中を見せて貰はうか」
 勝造は飛んで來て蓋へ手を掛けようとしました。
「それはなりません。これは親類方と、錢形の親分でも立ち會つて頂いてひらきませう。この通り澁紙も繩もボロボロで蓋が動くから、上から油紙で押へて、此處に居るだけの人數で封印をして置きませう」
 徳三郎はあわてゝその瓶を抱込かゝへこむと、勝造を拂ひ退けて屹となりました。理の當然でもあり、大店おほだなの支配人の權力で斯う言はれると、叔父でも親類でも、口のきゝやうがありません。
 氣のきいた手代は、商賣用の油紙と、太い麻繩を持つて來ました。徳三郎は四方に氣を配り乍ら、ひどくくづれた蓋を直して、その上からそつと油紙を掛けると、麻繩でキリキリと縛り、上から美濃紙みのがみを細く切つて卷いた上、立會つた人數だけで封印をし、其儘外の泥を拭いて佛壇の中に納め、ピタリと扉を閉めました。
「明日は親類方に集つて頂くとして、今晩は店中の者が交る/″\、三人づつ張番をしてくれ」
 徳三郎の所置には、文句の付けやうがありません。勝造は默つて引込むと、お粂は勝誇つた姿で、家の中一杯にはしやぎ廻りました。


「親分、瓶を開くのは正辰刻しやういつゝ(八時)だ。ボツボツ出かけるとしませうか」
 ガラツ八に誘はれると、平次は何やら考へに沈み乍ら顏を擧げました。
「何だか知らないが、俺は馬鹿にされに行くやうな氣がしてならねえ」
「一體下手人は誰だらう、親分は大概目星は付いたでせうが――」
「それが判らねえから不思議だ。長い間十手捕繩を預かつていろ/\の人間を手掛けて見たが、こんな惡く悧巧なのは始めてだ。證據を一つも殘さねえから怖い」
「親分が怖いんですつて?」
「さうだよ」
「不思議なことがあるものだね。あつしには惡者がよく解つて居る積りなんだが」
「誰だ」
「勝造ですよ」
「馬鹿なことを言へ、あれは江戸中でも滅多めつたにないほどの正直者だ、正直過ぎて困る位の男さ」
「へエ――」
 平次はそれつきり口をつぐんで、通三丁目へと急ぎました。
 越前屋へ着くと、親類方が皆んな集つて、勝造親娘、菊之助夫婦、徳三郎などと一緒に、佛壇から取出した瓶を睨んで平次の來るのを待つて居るところでした。
「遲くなりました」
 挨拶が一とわたり。
「それでは宜しう御座いますか。皆樣のお言葉にしたがつて、私が封印を切ります」
 親類總代の錨屋いかりや萬兵衞、瓶の封印の異常のないことを確かめさした上、はさみを借りて、麻繩を一本々々切りました。
 油紙を除くと、中からはボロボロの澁紙と腐つた麻繩、その下に板の蓋が少しばかり見えて居ります。
「一寸拜見」
 平次は膝行ゐざり寄つて、澁紙と麻繩と蓋を見ました。此邊は場末のひどいところで、天日の屆かぬ床下に三年以上埋められたのですから、地濕りとかびで、滅茶々々に傷んで居りますが、埋めた時の儘に相違はなく、腐つた麻繩や、歪んだ蓋にも、後から手を加へた樣子は見えません。
「蓋を拂ひますよ」
 萬兵衞老人の手でハネられた蓋。
「アツ」
 中は一パイの錢、金。
「退いて下さい、茣蓙ござの上へあけますから」
 人を退かせて、茣蓙の上へあけると、中から出て來たのは、慶長大判、江戸座小判、一分判、丁銀、取交ぜて三百兩あまり、つめには寛永錢が二三百枚、その眞ん中に、油紙に包んだ遺言状が一通、さして傷みもせずに交つて居ります。
 多分先代總七が思ひがけぬ利分や、小遣の殘りを投げ込んで、甥の爲に遺して置いたものでせう。
「おや? これは?」
 茣蓙へ一番近く坐つて居た平次は手を差伸して、一枚の錢を拾ひ上げました。
「大佛錢のやうだが――」
 詰草つめくさの寛永通寶に交つて、たつた一枚、眞新しい文錢、――それは昔々徳川家康が鐘名しようめいに文句を附けて、豊臣家を困らせ、大阪夏の陣の原因になつた方廣寺の大佛を、寛文二年三月、潰してた有名な文錢――だつたのです。
 寛文二年といふと、ツイ一昨年の春、この瓶を埋めた先代總七が死んでから三月も後のことです。死んで三月後に新鑄しんちうされた文錢が、この瓶の中にまぎれ込んで居るとは何うしたことでせう。
「皆んな菊之助の細工だ。文錢が一枚紛れ込んだのは天罰と言ふものだ、遺言状などは僞物に決つた」
 後ろから勝造がわめき立てます。物に我慢のない勝造はもう勝ち誇つた氣持で、ぢつとしては居られなかつたのです。
 親類方も腹の中では勝造に同意して了ひました。斯うなつては、遺言状などは見ても見なくても同じことですが、念の爲一同立會の上目を通すと、――自分の死後、養子の千吉(後の總七)に宛てたいろ/\の指圖で、菊之助がお粂と別れたら、此瓶の中の金の外に、家作地所を三分の一ほど分けてやるやうに、若しまた、お粂と一緒なら、此瓶だけを形見かたみにやれ――と書いてます。
 ――弟の勝造は家名を汚すから、生涯寄せ付けてはならぬ、その娘のお勇は、心掛次第で引取つて世話をするやうに――と行屆いた指圖ですが、これも菊之肋の僞作ぎさくとすると、なんの權威もありません。
 ――番頭の徳三郎は暖簾のれんを分けて、身を堅めさせるやうに、永年の忠義に酬ゆる道を缺いてはならぬ――と書いてあります。
「番頭さん、先代御主人の親切、有難いことではないか」
「ハイ」
 平次は涙含なみだぐむ徳三郎を見やつて、滿足さうにうなづきました。
 僞の遺言状にしては、如何にも行屆いて居るので、立會つた親類方も、何んとなくしんみりして了ひました。
「この手蹟は先代のと少しは似て居るだらうか」
 平次は遺言状の文字を指すと、
「先代御主人の御手蹟ごしゆせきに相違御座いません、文錢は何時入れたか分りませんが、兎に角、これは間違ひもなく先代の御書きになつたもので御座います」
 徳三郎の言葉には毛程の疑ひもありません。
 親類方や他の雇人達に見せると、『よく僞せてある』と言ふだけで、徳三郎ほど一生懸命に保證するものは一人もありません。


 親類會議はやり直し、菊之肋もお勇も相續が出來ないと決つて、店は暫らく徳三郎が預かり、親類から後見人を定めて二、三年樣子を見ることになりました。が、徳三郎が頑固に辭退して、どうしても相續を承知しない爲に、當分成行に任せて、徳三郎に嫁でも取つた上、何とかしようといふことになつたのでした。
 勝造は腹を立てゝ飛出し、お勇は女中とも居候ゐさふらふともなく踏止りました。ゆく/\は徳三郎に娶合めあはせようと言ふ話もありますが、年が違ひ過ぎるので、お勇の方では承知しさうもありません。
「親分、越前屋はあれつ切りですかえ。主人殺しはどうなるんで?」
 ガラツ八は氣を揉んで斯んな事を言ひますが、
「どうにもならないよ、主人の死んだのは災難とあきらめるさ」
「へエ――、そんなもんですかねえ、越前屋を飛出した勝造は親分の惡口を言つて歩いて居ますよ」
「放つて置け」
 手の付けやうがありません。
 それから又一と月ばかり經ちました。
「親分、お粂の阿魔あまかめから出た金を持つて逃出しましたぜ」
「本當か、八」
「菊之助は血眼ちまなこだ、――それから、徳三郎の圍つて居る女が判りました。槇町まきちやうの小唄の師匠で、お崎つて凄い年増ですよ。三月越し行かないから手が切れたのかと思つたら、昨夜久し振りでノコノコ出かけましたよ」
「有難い、それを待つて居たんだ。手前てめえはその女をしよつ引いて來い」
 平次は其處で直ぐ越前屋へ向ひました。
「番頭さん、ちよいと訊き度い事があるんだが――」
「親分さんで、どうぞ此方へ」
「お粂が逃出したさうぢやないか。あの阿魔を擧げようと思ふんだが、どうしても證據が揃はねえ、女の手であの格子へどうして綱を掛けたかそれが知り度いんだ、部屋の中からぢや納屋の手摺の綱は手繰たぐれねえ」
「へエ――」
 徳三郎は平次を案内して納屋の方へ行きました。
「此處から綱を投げれば、格子をもぐつて部屋の中へ入るわけだが、格子が狹いから、女の藝當ぢや六づかしい、――矢張りお粂ぢやなかつたのかな」
「親分、あれを使へませんかしら」
「――」
 徳三郎の指したのは、粗末な納屋の明り取りの横窓のわく――それは一間半ばかりの細い剥ぎ杉を、釘で打ち付けただけの棒でした。
 平次は伸び上つてそれを引くと、釘がゆるんで居て、手に從つて外れて來ました。
 尖端には誂向の釘がありますから、それに麻繩の端を引つかけると、一間半ほど向うのお粂の部屋の格子に掛けられないことはありません。
 お粂の部屋からは繩を手ぐれず、外から人目を避けて一間半もある竿さをを持込めないとすると、下手人はこの納屋の二階から、何うして向うの部屋の格子へ綱を引つかけたか、その道具が何處にあるか、平次はそれを搜して居たのでした。
「――」
 平次は默つて徳三郎の顏を見ました。この明り取りの枠を教へたのは、白状も同樣です。
「御用ツ」
 氣が付くと、徳三郎は眞つ蒼になつて身をひるがへしましたが、平次の手は早くも伸びて、その襟髮を掴んだのでした。
        ×      ×      ×
「親分繪解きは」
 翌る日、ガラツ八は相變らず平次にせがみます。
「俺は最初からあの番頭を睨んだよ。最初此處へ來たのは、自分の留守に主人が殺されたやうに見せかける爲さ、時刻ばかり念入りに訊いたらう」
「成程」
屑金物くづかなものの箱に仕掛けた綱を、お粂の部屋の格子に通して、下へ引張つて路地のぬかるみに敷いた板に挾んで置いたのさ。馬鹿な主人の總七が、人目をはゞかつてお粂に逢ひに行つてあの路地から話して居るのが毎日申刻なゝつときまつて居るんだ。主人が板を踏むと頭の上へ二三十貫の箱が落ちて來る仕掛はよく考へたよ、尤も綱の端つこは俺が行く前に板の下から拔いて置いたんだが――」
「何だつて主人を殺す氣になつたんでせう」
「自分より年下の手代が、娘の婿になつて主人面をするのがしやくにさはつたのさ。それだけなら知れずに濟んだかも知れないが、物事があまりうまく運んだので、越前屋の跡目に直らうとしたのが失策しゆくじりもとさ」
「へエ――」
「床下から出た瓶の蓋が少しいて居たので、フト文錢を一枚投り込んだ――あの邊は徳三郎の惡賢こいところだ。瓶に手をかけたのはあの男より外に無い。封印をする前、ほんの一寸のすきにやつたんだ。遺書かきおきは眞物さ。菊之助はお粂に騙されて居たが、根が良い男だ。實を言ふと俺はお粂が飛出すのを待つて居たんだよ」
「へエ――、どうする積りで」
「お粂は惡い女だ。總七にまでちよつかいを出して居たんだが、追出す證據もなく、菊之助もその氣にならない。お粂が自分から飛出せば、菊之助とお勇は丁度良い配偶つれあひぢやないか。二人一緒になれば、從兄妹いとこ同士で越前屋が立てられる。勝造は娘の出世になることだから、自然遠退くだらう。あれは口ほどでない腹の良い男さ」
「成程ね」
「徳三郎は太い男だ。する事が一々憎いよ。主人の配偶つれあひお信を殺したのもあの野郎の仕業だらう、瓶へたつた一枚の文錢を投り込んで遺言状を僞物と思はせ、菊之助を相續人にさせなかつた手際などは凄い位だ」
 平次――惡人でさへ憎み切れない平次が、こんなに言ふのはよく/\の事でせう。妾お崎の家に、想像以上の金品が隱してあつたのも、徳三郎の惡賢さの證據の一つだつたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第六卷 兵庫の眼玉」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年6月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1935(昭和10)年3月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年12月13日作成
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