錢形平次捕物控

地獄から來た男

野村胡堂





「親分、変な野郎が來ましたぜ」
 ガラツ八の八五郎は、モモンガア見たいな顏をして見せました。秋の日の晝下がり、平次は若い癖に御用の隙の閑寂な半日を樂しんで居る折柄でした。
「変な野郎てえ物の言ひやうがあるかい。お客樣に違ひあるまい」
「さう言へばその通りですが、全く変ですぜ、親分」
「手めえよりも変か」
「へツ」
 ガラツ八は見事に敗北しました。
「何んて方なんだ。取次なら取次らしく、口上を聞いて來い」
「それが言はないから変ぢやありませんか。名前は申上げられませんが、私の爲に一生の大事、どうぞ親分さんの智慧を貸して下さい――と斯うなんで」
「男だらうな」
 平次は妙な事を訊きました。
「大丈夫『猫の子の敵』ぢやありません。へツへツ」
 ガラツ八が思ひ出し笑ひをしたのも無理のないことでした。二三日前町内の女隱居が『寵愛ちようあいの猫の子が殺されたから、下手人を搜して敵を討つて下さい』と氣違ひのやうになつて飛込んだのを知つて居たのです。
 八五郎の案内につれて、狭い家の中に通されたのは、町人風の若い男が二人。
「――」
 先に立つた一人の顏を見ただけで、平次は危ふく聲を立てるところでした。ガラツ八の八五郎が、変な野郎と言つたのも道理、顏といふのは形ばかり、あごは歪み、鼻は曲り、額から月代さかやきかけて凄まじい縱傷がある上、無慙むざん、左の片眼までも潰れて居るのです。
 後ろからいて來たのは同じ年輩――と言つても、無傷なだけに、此方の方は少しけて居るのかもわかりません。三十五六の世馴れた男。頬から耳へかけて、小さいが眞赤なあざのあるのが唯一の特色です。
「親分さん、飛んだお邪魔をいたします」
御所おところ名前を仰しやらない方には、お目に掛らない――と申すほどの見識のあるあつしぢや御座いませんが――」
 平次はまだ釋然としません。
「親分、お腹立は御尤もですが、名前を申上げられないわけが御座います。――何を隱しませう、私は、地獄から參つたもので御座います――が」
 擧げたのは傷だらけな凄じい顏。
「えツ」
 平次も思はずゾツとしました。ガラツ八などはもう、膝小僧を包んで、敷居際まで逃げ出して居ります。
「斯う申すと突飛に聽えますが、決して嘘や掛引で申すのでは御座いません。私は一年前に人手に掛つて殺され、――いや、身内の者も世間樣も、私が死んだと思ひ込んで居りますが、實は思ひも寄らぬ人に助けられて生きかへり、自分を殺した奴に思ひ知らせ度さに、変り果てた顏容かほかたちを幸ひ、幽靈のやうに、江戸へ舞ひ戻つた人間で御座います」
 傷の男は膝の手を滑らせました。何處ともなく睨む片眼の不氣味さ。本當に、地獄の底から、そのうらみを果すだけに生き還つて來た、幽鬼の姿と言つても平次はうたがはなかつたでせう。
「お前さんは?」
 平次は顧みてつれの男に訊きました。
「私はこの方と無二の仲で、その場に居合せなかつた、たつた一人の人間でございます。生き還つたこの方が、第一番に私を頼つて來られたのも無理は御座いません」
 中年男は靜に言ふのでした。
「誰が私を殺したか解りません――私はそれを知り度いばかりに、江戸で半歳苦勞いたしました」
 傷の男の態度や話振りは、眞劍さが溢れて鬼氣きき迫る思ひでした。
「始めから順序を立てゝお話して下さい。お前さんは一體誰で、何處で、どうして殺されかけなすつたか」
 あまりの奇怪さに、平次も思はず膝を進めました。


「何を隱しませう。私は横山町の徳力屋とくりきや千之助で御座います」
「えツ、あの、去年の秋、江の島で死んだと言はれた――」
 平次は一ぺんに仰天しました。江の島まうでの一行が、暴風雨の爲に棧橋さんばしが落ちて島に閉ぢ籠められ、そのうちの一人、徳力屋千之助が、雨の止んだ深夜の海の凄まじい樣子を見物すると言つて宿を脱出ぬけだし、數百尺の大斷崖から落ちて、湧き返る怒濤の中に押し流され、それつきり死骸も上がらなかつたといふ事件は、當時神田日本橋かけての噂になつたことを、平次はまざ/\と記憶きおくして居たのです。
「その千之助が、壽命が盡きなかつたものか、地獄の釜の底から這ひ出したやうに危ふい命を取止めて參りました」
「それにしては、歳が違ふやうだが?」
 平次に殘る疑ひはそれでした。千之助が死んだのは、まだ祝言前の若盛りで、二十五六のやうに聞いて居りますが、この傷男はどう積つても、三十より下に受取れません。
「これだけ念入りに痛め付けられると、歳などは滅茶々々になります。――変なことを申すやうで恐れ入りますが、以前はこれでも、町内で何とか言はれた私で御座いますが――」
 それは本當でした。横山町の若旦那番附で、三役からは下がらなかつた千之助、今見る姿はあまりにもそれと変つて居ります。
「それは氣の毒――」
 平次は思はず引入れられました。
「江の島の崖の上から突き落された時、途中の木にも岩にも打つ付かり、身體中傷だらけになつてたぎり返るやうな嵐の海の中へ落ち込みました。私も崖から落されたのは存じて居りますが、海へ落ちた覺えは御座いません。途中で氣をうしなつて、水へ入つた時正體もなかつた爲に、反つて溺れ死ななかつたので御座いませう」
「それから」
「氣の付いたのは、三日も後でございました。月に一度の大島通ひの御用船が、三崎の沖で拾ひ上げて、まだ呼吸があるやうだから可哀想に捨てもなるまいと、大島へ持つて行つて、漁師に世話を頼んで江戸へ歸つたさうで御座います」
 千之助の話は奇つ怪でしたが、決して拵へ事とは思はれません。
 御用船に救はれて、大島の漁師の介抱を受け、三日目に正氣付きましたが、恐ろしい負傷で身動きもならず、その手當がざつと三月。その間に、月に一度の江戸通ひの便船はありましたが、一度鏡を覗いて、自分の変り果てた顏を見た千之助は、本名を名乘ることも、暫らくは江戸へ歸ることも斷念してしまつたのでした。
 光る源氏のやうな横山町名物の若旦那が、何んと言ふ淺ましい姿になり果てたことでせう。この変つた姿で歸つたら、この月のうちには祝言をしようと言ふことになつて居た、許嫁いひなづけのお新はどんなに驚き歎くことでせう。
 歎くだけなら兎も角、こはがつて寄り付かないやうになるのを、何より千之助は怖れたのでした。
 達者になつて江戸へ歸つて、自分の眼でお新の顏を見て、その貞烈を見拔いた上でなければ、うつかり『千之助が生きて居る』とは名乘つては出られない――、さう悲しくも思ひ定めて、四月、五月、半歳、親切な島の人達の世話になり乍ら、身體も心も恢復するのを持ちました。
 漁師れふしや村人に禮を言つて、再び御用船の厄介になり、江戸へ歸つたのは半歳前。
「私はもう一度隅田川へでも飛込まうと思ひました。――あれほど戀ひ慕つて、毎日々々、大島の濱邊の砂に、その名を書き暮して來たお新は、――私が江の島で死んだと聞いてから三月目、まだ死骸も揚がらないのに、見切りをつけて、小傳馬町の丸屋長次郎のところへ嫁入してしまつたさうぢやございませんか」
「――」
 千之助の片眼が大きくうるんで、膝へポロリと涙のこぼれるのを、平次は見兼ねる樣子で顏を反けました。
「祝言をしたわけでもなく、まだ許嫁の間ですから、それも決して無理とは思ひません。假令たとへ、私が死んだ翌る日、他所よそへ縁付いても不思議はないわけですが、私にして見れば、同じ破談にするにしても、せめて半歳待つて貰つて、この口から斷りを言はして貰ひたかつたので御座います――まア、それも今となつては愚痴で御座いませう。女は綺麗に諦めます、が――」
 諦められさうもない樣子ですが、平次は靜かに點頭うなづきました。
「私の家はもう妹のお辰にをひの吉五郎を婿に取つて繼ぎ、私は死んでも何不自由なくやつて居ります。――今更、千之助が生きて居るぞ――と名乘つて出たところで、この顏では急に本當にしてくれさうも御座いません。氣違扱にして追つ拂はれるのが精々、尤も、大島通ひの御用船やら、あちらの漁師村人に訊けば、私が千之助の変り果てた脱けがらだと言ふことも解りませうが、そんな事をする前に、私は、自分の敵が討ちたかつたので御座います」
「――」
「江の島で崖から私を突き落したのは一緒に泊つて居た、從兄弟いとこの吉五郎と丸屋の長次郎と、番頭の要助と、この三人のうちの一人に違ひ御座いません。吉五郎は私の身代を繼ぎ、長次郎はお新を女房にし、要助はなんか都合の好いことをしたかも知れず、三人三樣に、疑へば、疑へるので御座います。あの晩は鼻をつまゝれても解らない程の闇で、後ろから人がけて來ても、波の音が高いので解る筈もありません。――あとで、この稻葉屋佐七さんに聞くと、私が海の樣子を見に出かけてから三人が三人共、私を搜すんだと言つて出たさうですから、疑ひは三人の上に一樣にかゝるわけで御座います」
 話はひどく深刻で實際的でした。默つて熱心に耳を傾ける平次の樣子を見ると、千之助は委細ゐさい構はず言葉を續けます。
「この通りの顏になつて、誰も私を千之助と氣の付く者のないのを幸ひ、三月、四月と骨を折りましたが、素人しろうとの悲しさ、手掛りの端つこも掴めません――それどころか、お新と長次郎のむつまじさや、吉五郎お辰の仕合せな樣子、要助の洒唖々々しやあ/\した顏などを見ると、凡夫の淺ましさで、所持金を使ひ果して、乞食のやうに成り下がつた我が身がつく/″\情けなく、到頭我慢がなり兼ねて、無二の友達の一人、此處に居る稻葉屋佐七さんのところに、轉げ込みました」
「いや全く驚きましたよ。私はあまり膽の大きい方ぢや御座いませんでせう。千之助さんと知らないから、裏へ廻つて、二人つ切りになつてから、『實は私は千之助』と打開けられた時は、全く腰が拔けてしまひました」
 稻葉屋佐七は、その時の恰好を我ながら極り惡く思ひ出した樣子で、自分の首筋をポリポリと掻いて居ります。
「稻葉屋さんとも相談の上、兎も角も、親分さんのところへ參りました。――どうぞ、私を崖から突落した奴を搜し出して、敵を討たして下さい。親分さん、お願ひ――」
 千之助は手を合せました。戀を失ひ、家とたからとを失ひ、自分自身をさへ失つた男が、先づ何を措いても、こんな目に逢はせた、敵に思ひ知らせてやらうと言ふ、思ひ斷つことの出來ない深怨しんゑんの恐ろしさを見て、平次も思はず身を顫はせました。


「お話を聽けば如何にもお氣の毒。次第によつては、隨分敵を討つても上げませうが、前以つてこれだけの事を約束しては貰へまいか」
 平次の心には、この不幸な男に對する憐愍あはれみが、油の如くにじむ樣子でした。
「私の望を叶へて下されば、どんな事でも聽きます。親分さん」
「第一番に、お前さんを突き落した本人でない者は、少し位の手落があつたにしても怨まないと言ふこと――」
「それは申す迄も御座いません」
「それから、突き落した當人、――お前さんの敵の名が解つても、勝手に成敗をしないといふこと――」
「――」
 これは千之助には我慢の出來ないことかもわかりません。
「お前さんは殺されたと言つても、運よく生き還つた。此上敵を討つ積りで、うつかり人などをあやめると、今度はお上の厄介になる――惡者が捕つても、そのお處刑しおきはおかみに任せることにしては何うだらう」
 平次の調子は噛んで含めるやうです。
「いかにも、親分さんにお任せしませう。その代り一日も早く、私をこんな目に逢はせた惡者のつらを見せて下さい。私はそれで我慢しませう。お處刑はお上に任せて――」
 滿面の傷がゆがんで、千之助の苦笑は、悲しくも凄まじいものでした。
 事件の面白さに引入られたものか、錢形平次は暫らく考込んで居りましたが、いつもの神速主義で、其場で直ぐ重要な手掛りを集めにかゝりました。
「江の島へ一緒に行つたのは、お前さんと、長次郎と吉五郎と要助の四人だけだね」
 これが第一の問です。
「その通りで御座います。片瀬へ着いたのは大嵐の眞つ最中、忘れもしない二百十日の厄日やくびの翌る日、陸から見ると江の島が泡の中へ湧き上がるやうな恐ろしい景色でした。大急ぎで棧橋を渡つて宿房やどへ飛込むと、棧橋が落ちたといふ騷ぎ、一二日は島に籠らなきやなるまいと言はれて、安心したやうな、がつかりしたやうな変な心持だつたことを覺えて居ります」
 千之助の答は詳しくて鮮明でした。
「稻葉屋さんは、その旅へは入らなかつたのでせうね」
「いえ、一緒に參りました。が、鎌倉で手間取つて皆さんから一と足遲れ、片瀬へ着く途端に棧橋が流れて渡れないと聞かされました。仕方がないから江の島を眼の前に見乍ら、顏馴染かほなじみの片瀬の小磯屋=女將がお世辭もので、なか/\乙な旅籠屋で御座いますが=其處で、二た晩暮し棧橋の下を通れるやうになつてから、いの一番に島へ渡つて、千之助さんが、崖から落ちて行方不明になつたといふ大変な話を聽き、番頭の要助さんと一緒に、早駕籠で直ぐ江戸へ取つて返したやうなわけで御座います」
 稻葉屋は靜かに語り終つて、癖になつて居るらしく、隱すともなく左の頬のあざへ掌を當てるのです。
「怪しいのは江の島に泊つた三人――それ/″\お前さんが死ねば儲かりさうだが、外にそんなのはないだらうか」
「まだ少しは御座いませうが、身代や許嫁いひなづけに釣合ふ口は思ひ當りません」
「それでは、あべこべに、お前さんが生きて居ると儲かるのは誰だらう?」
 平次は変なことを訊きました。
「どうせ憎まれ者で、私が助かつて儲かる者などはありません。尤も、稻葉屋さんは別ですが――」
「稻葉屋さんはお前さんに貸でもあつたので?」
 と平次。
「飛んでもない」
 稻葉屋佐七はすつかり恐縮しました。徳力は大身上、小店の稻葉屋などとは同じ金物屋でも大變な違ひだつたのです。
「稻葉屋さんには隨分世話になりました。私が元の徳力屋に戻つてあの身上を自分の手に還した上は、少しばかり古い貸金に棒を引いた上、今入つて居る家作も差上げ、もう少し資本も廻して上げ度いと思つて居ります」
 千之助は稻葉屋の極り惡がるのを構はずに、斯う言つてのけます。
「それは好い心掛だ。稻葉屋さんも骨折甲斐はあるだらう」
 平次は打ち解けた調子でした。この不幸な男を、元の徳力屋の主人の位置に返し、人一人闇のがけから突き落して、口を拭つて居る惡者を押へることは、平次に取つても、なか/\に意義のある仕事だつたに相違ありません。


「八、聽いたか」
「へエ――」
 歸つて行く二人の姿、シヨボシヨボと路地の外に消えるのを見乍ら、平次は斯う言ふのでした。
「あれが徳力屋の主人の成れの果とは氣の毒だ。何んとかしてやりてえが、――一年前の闇の中で、後ろから突き落した手を調べるのはむづかしい」
「――」
「第一に證據といふものは一つも殘つちや居ねえ。突き落された本人さへ相手の見定めが付かなかつた位だから、現場の見知り人は一人もねえ」
「成程」
 ガラツ八の長い顎は動きます。
「こんな變つた事件しごとも珍らしいから、俺も御用聞冥利みやうりと、徳力屋の主人が氣の毒さに引受けたが、今度といふ今度は、今までのやうには裁き切れない、――思ひ切つて變つたことをして見よう。一緒に來るか。八」
「何處までも參りますよ。親分」
 ガラツ八はもう忠實な獵犬が、角笛の音を聞かされた時のやうに勇み立つて居ります。
「今日は御用聞ぢやねえ、人相見だよ。證據のねえところから下手人を擧げるんだ」
「へエ――」
 二人は先づ横山町の徳力屋へ――。
「御免よ、神田の平次だが、主人にちよいと逢ひてえ」
 日頃の平次に似氣なく權柄づくです。
「どうぞ此方へ――」
 通されたのは、離屋はなれのやうになつた奧の六疊、横山町切つての金物問屋で、店構から住居の造作、細々した調度までその頃の江戸の大町人らしいぜいを盡して居ります。
「親分さん。私は主人の吉五郎でございますが、どんな御用で――」
 恐る/\と言つて宜いほど、臆病さうな顏を出したのは、三十前後の典型的な町家の主人でした。評判の良い錢形平次ですが、御用聞に訪ねられるのは、さすがに心配だつたのでせう。
「少しお訊きし度いことがあつて來たが、――先代の千之助さんが行方不明になつてからもう一年になるでせうね」
 平次の調子は少し穩かになります。
「へエ――、一周忌は十日ばかり前に濟ませましたが――」
「ところで、お前さんは、前々から今の御新造――先代には妹さんのお辰さんと一緒になる約束でしたかい」
「いえ、飛んでもない、そんな事などは夢にも考へません。お辰とは從兄妹いとこ同士で、知らない仲では御座いませんが、一緒になつたのは、先代に不意の事があつて、一と月も經つてから始まつた話で御座います。――その時も婿八人で、稻葉屋さんのやうに、自分の店を仕舞つても此處へ養子に入り度いと言つたのもあるさうで御座いますよ」
「先代が亡くなると、この身上はお前さんへ行く仕組になつて居たやうな事はなかつたでせうか。いやこれは世間の噂だが」
 平次は鋭いさぐりを入れました。
「と、飛んでもない事で、親分さん。私は徳力屋へ乘込んだのは、先代が死んでから親類一同寄つて決めたことで、これは誰に聞いてもわかります。徳力屋の親類や知合には、婿になりさうなのが六人は御座います。私などは最初から話の種にもならなかつたのですが、先代と仲が良かつたので、先代の靈が力添へをしてくれたのでせう。別段進んで何うと言ふこともいたしませんが、分家から入つて徳力屋の跡取に直されましたやうなわけでございます」
 それは恐らく掛引のないところでせう。少し氣の弱さうな吉五郎は、六人に一人のくじを引く爲に、人まで殺さうとはどうも思へません。その上吉五郎の言葉に少しの誇張もないことは、此處へ來る迄に調べ上げた、平次の準備知識とピタリと符合ふがふするのでした。
「それでよく判りました。が、實は御主人、あつしは大變なことを知つたのですよ」
 平次は聲を落しました。
「へエ?」
「江の島で崖から落ちて行方不明になつた先代の千之助さん――世間では風に吹かれたかどうかして足を踏み外したと思ひ込んで居るやうだが、あれは、人に突き落されたのだと判つたのですよ」
「そんな事は御座いません。――先代をそれほど憎んでゐる人もなく、――あの晩一緒に泊つた三人の中には、そんな惡い事をする者は居りません」
 吉五郎は少し躍起となりました。がその顏には、何の恐怖もあらうとは思はれません。
「實は、御主人、先代の幽靈が出たのですよ」
「へエ――」
 何んと言ふ暢氣のんきな顏、吉五郎の口邊にはこの名御用聞をあざけるやうな微笑さへ浮びます。
「先代の幽靈が血だらけになつて私の枕頭に現はれ、=私は人に突き落されて死にました。あんまり口惜しくて浮ばれないから、敵を討つてくれるやうに=と、涙ながらに言ふんだが何うしたものでせう」
 平次の空々しさ。
「自分を突き落した敵が判らない――と幽靈が言ふんで?」
「その通りですよ」
「をかしな幽靈ぢやありませんか。あの世とやらへ行つたらそれ位の事は判らない筈もなく、怨みを言ふ相手が判らないから、御上の御用を聞く親分衆のところへ出るといふのも可怪しいぢやありませんか。餘つ程どうかした幽靈で」
 吉五郎の弱さうな顏に生氣が動いて、その眼は反抗と叡智に輝きます。
「お前さんも可怪をかしいと思ひましたか。御主人」
 と平次。
「へエ――」
「ところで、御新造に逢はして下さい。それから、番頭の要助さんに。――私が話をする前は、先代の事を言つてはなりませんよ」
「へエ」
 吉五郎は疑惑と不滿で一パイな心持で去りました。顏見合せた平次と八五郎。
「親分、怪談は驚いたネ」
「シーツ」
 部屋の入口にはお辰が靜かに立つて居りました。


 お辰は美しいが平凡な女で、兄の死については、積極的に何の考へもなく、成行のまゝに吉五郎を婿に迎へ、成行のまゝにつゝましく、生活をいとなんで居ると言つた肌合の人間でした。
 續いて呼出された番頭の要助。これはかなり注目されました。大番頭の半兵衞は年のせゐでこの一二年は名ばかりの位に備はり、二番々頭の要助は、まだ三十四五の若盛り乍ら、先々代からの知遇を得て、近頃はもう一手に店を切り廻して居るのでした。
 典型的な忠義者、――と言つた感じの、几帳面きちやうめんに、忍從で少し片意地で、そのくせ愛嬌のある――こんなのが飛んだ喰はせ者かも知れないと思つたほど『番頭タイプ』の人間です。
「先代の幽靈を見たが――」
 平次は此話を二度くり返しましたが、要助は、
「へエ/\、御尤さまで、怖いことで御座いますな。へエ/\」
 一々合槌あひづちを打ち乍ら、御無理御尤もで聽いて居りますが、腹の中では、すつかり平次を馬鹿にして居る樣子です。
 平次は他の奉公人にも逢ひ、先代生前の頃と、今の商賣の樣子まで突つ込んで調べましたが、物事は圓滑に進んで居るといふだけで、店にも奧にも、何の不都合も不安もありません。
「八、どうも幽靈の言ふ事の方が違つて居たかも知れないな」
「少し間拔な幽靈ぢやありませんか。親分」
「馬鹿、――間拔に見えても、手前よりは悧口だよ――俺は丸屋へ廻つて見るから、手前てめえは稻葉屋へ行つて千之助に逢つて、徳力屋の家のことで、千之助一人だけしか知らない事があつたら聞いて來てくれ。それから、千之助と要助と二人だけしか知らない事も一つ二つ聞き出す方が宜いだらう。二た刻もしたら俺の家で待つてくれ」
「へエ――」
 平次はガラツ八に別れると、其足をすぐ小傳馬町の方へ延しました。萬一千之助を突き落したのが一人でなかつた時、仲間で連絡れんらくを取つて、口を合せられては叶ひません。急いで三人に逢はうとしたのは其爲です。
「御免よ、相變らず精が出るね」
「あ、神田の親分さん」
 丸屋の長次郎は小さい雜穀屋の若主人で、豐かといふ程ではありませんが、界隈に名も顏も賣れた好い男でした。丈夫で、元氣で、イナセで、若旦那模樣の千之助――災難に逢ふ前の男つ振りも評判でしたが、江戸の若い娘達が、丸屋の長次郎の方により強い魅力みりよくを感じたのも無理はありません。
「驚いちやいけないよ、大變なことがあるんだから」
「へエ」
「徳力屋の千之助が、生きて江戸へ還つて來たが知つてるだらうね」
「えツ」
 長次郎は店先に立竦たちすくんだまゝ眼を見張りました。平次が豫想した以上の衝動を與えたらしく、頬が痙攣けいれんして、唇は僅かに動きますが、舌がかわく樣子で、暫らくは言葉も出て來ません。
「で、それだけなら宜いが、=生きて居るのに、身代や許嫁を横取りされてはたまらない。徳力屋の吉五郎を追ひ出して、丸屋からはお新を取り戻す=つて言つてるが、何うだ」
 平次は何を考へたか、飛んでもない突つ込んだ事を言ひます。
「ジヨ、冗談でせう。向うは許嫁いひなづけだけで、祝言したわけでも何んでもねえが、私はもう女房にして居るんですぜ。取戻される道理もなく、渡してやる筋合でもありません。馬、馬鹿々々しい」
 長次郎は飛んでもない見幕でした。唇を噛んでこぶしを握ると、顏へはサツと忿怒の血が上ります。
「だが、千之助が、何うしても取り戻すと言つたら?」
「渡しやしませんよ。飛んでもない」
「千之助が死んで、飛んだ有卦うけに入つたのは、吉五郎とお前さんだ」
「それはその通りでせう。――でも、死んだ當座は本當に氣の毒だと思ひましたよ」
「生きて還つたと聞いたら、憎くなつたらう」
「へエ――」
「その千之助は、江の島の崖から落ちたのは怪我やあやまちぢやなくて、闇の中で人に突き落されたんだつて言つてるが、何うだ」
「そんな事を私は知りやしません」
「だから、死んだ跡でうまい事をした奴が、私を突き落したに違ひない――と千之助は言ふんだが」
「――」
「その上、自分を突き落した奴を、薄々知つて居る。俺から奪つた物を返すなら命位は助けてやつても宜い――とも言ふぜ」
「勝手にさせたら宜いでせう。本當に突き落した奴があるなら、遠慮なんか要るものか、一日も早くしばらせて、何とかしてやりや宜いぢやありませんか」
 丸屋長次郎は強氣の一本槍です。
 堅實さうな店構、若くて威勢のいゝ主人。さう言つたものが、丸屋の空氣をすつかり明るくして、此中から暗い罪の蔭など搜し出せさうもありません。


「私は新で御座います。千之助さんが生きて居なすつたといふのは、そりや本當で御座いませうか」
 聞き兼ねた樣子で、店先へ顏を出したのは、藍色あゐいろの袷を着た、紫陽花あぢさゐのやうな感じのするお新でした。
「丁度宜い。御新造、――千之助が生き還つたこともお聞きなら、何にも言ふに及ばねえが、この先どうする積りで?」
 平次がこんなに人の惡い問をもてあそぶのは、珍しいことです。
「どうもいたしません。私は此處の嫁ですもの」
「――」
 平次は默つて眼を見張りました。何と言ふ簡單な、が含蓄がんちくの多い言葉でせう。
「今更申上げても仕樣がありませんが、徳力屋へゆけと言つたのは親達。此處へ嫁いで來たのは私の望みで御座います」
 柱に掛けた手が滑ると、つるを切られた大輪の朝顏のやうにゆらりと落ちて、店の板敷に崩折れます。千之助があの傷だらけの顏で、眞つ直ぐに歸つて來るのを遠慮したのも無理はありません。これは美しい人達の多い神田日本橋かけても、比ぶべきものがあるまいと思ふほどのきりやうです。
「親分、死んだ筈の千之助が一年目で出て來るといふのは變ぢや御座いませんか。顏なんか昔の通りでせうね」
 と長次郎。
「いや、江の島で突落された時やられたさうで、見る影もない顏だ。身内の者が見ても、おいそれとは判るまいよ」
「それぢや僞首にせくびぢやありませんか、よくあるで」
「それも考へて居るが、間違ひはない積りだ。いづれお前さん達とも顏を合せるだらう。氣の毒な人だ。慰めてやるが宜い」
「そりやもう、子供の時からの仲好しですもの、及ぶだけ力にもなり、立つ身は立てゝやりますが、女房を返せだけは斷りますよ。あとで間違ひのないやうに、今のうちに私の口から言つて置きませう――何處に居るんで?」
 長次郎はどこまでも一本調子です。
「いや、それは困る。今顏を出させちやぶちこはしだ。その話なら、私から言つて置かう」
 平次は尻尾を卷きました。完全な敗北です。


「親分、首尾は」
 ガラツ八は先に歸つて待つて居りました。
「散々の體だ。どう考へても吉五郎と長次郎は下手人ぢやねえ。二人共申分のない良い男だ」
「すると番頭?」
「それも主人殺をする程の男ではなささうだ」
「ぢや矢張り吉五郎か、長次郎ぢやありませんか」
「吉五郎には殺すわけがなかつた。お辰と徳力屋の身代は、後でひよつこり吉五郎に飛込んで來た代物しろものだ――長次郎は正直一徹の男さ。萬一身に覺えがあるなら、あれだけおどかされた上、千之助が生き還つたと聞けば、お新を返すと言ふだらう」
「すると人相の方ではうまく行かなかつたわけで、――」
 名御用聞とその名物助手は、途方に暮れた顏を合せました。
「三人とも潔白けつぱくだとすると、あとは二つしか考へやうがない」
「二つと言ふと?」
「一つは、千之助は人に突き落されたと思つただけで、實は風に吹飛ばされ、怪我をして氣をうしなつてそんな夢を見たのではないかと言ふことだ」
「――」
「もう一つは、あれは眞實の千之助ではなくて、飛んだ天一坊ではあるまいかといふことだ」
「へエ――」
「千之助の死骸の揚がらないのを附け目に、稻葉屋佐七が細工をして、あんな顏の潰れた男を探し出し、徳力屋を乘取つて山分けにするか、それが及ばなきや、脅かしてうんと取込むもある」
 平次の頭は緻密に動きます。
「それにしちや變ですぜ親分。あの傷男は徳力屋のことを何も彼も知つて居ましたよ。あつしは去年の二百十日前の帳尻から、箪笥たんすの刀のめい、三代前の戒名かいみやうまで聽いて來ましたよ」
「フム」
「それからもう一つ面白いことを聽きましたよ。徳力屋の土藏の中の金箱の鍵は、大海老錠おほえびぢやうで持ち歩きが厄介なので、金箱の後ろに拵へた、隱し穴へ入れて置くんださうです。それを知つて居るのは、主人の千之助と二番番頭の要助とたつた二人だけ、大番頭も知らないんださうで――」
「そいつは面白い。江の島へ行く時、幾ら金が入つて居たか聞いたらう」
「七百八十五兩あつたさうです」
「有難い。それがそつくりして居れば、要助は潔白だ。大急ぎで徳力屋へ行つて、去年の騷ぎの後で金箱の鍵が何處から出て來たか。中の金が幾らあつたか、大番頭の半兵衞に訊いてくれ」
「へエ――」
 八五郎は飛び出しましたが、半刻はんときの後、歸つて來ての報告は、餘りに平凡で明白なものだつたのです。騷ぎの翌日、鍵は要助の手から大番頭の平兵衞の手に渡され、中を開けると小判小粒交ぜて七百八十五兩あつたといふことです。


「親分さん。判りましたか」
 稻葉屋の暖簾のれんをくゞると、目ざとく見付けて、傷だらけ千之助は飛んで出ました。
「面目次第もないが、今度といふ今度はかぶとを脱ぎましたよ」
 平次の勢のなさ、雇人達の耳を恐れて通された奧の四疊半、佐七と千之助を左右にして額を叩きます。
「と、仰しやるのは?」
「吉五郎も、長次郎も、要助も、間違ひもなく潔白ですよ。この平次の首をけても宜い」
「へエ、すると何んな事になります」
「下手人は思ひも寄らぬ人間でせう。江の島で一緒に泊つたのはあの三人だけとすると、惡者はその晩島に泊つて居た、見ず知らずの泥棒だつたかも知れず、前から漁師の家へでも潜り込んで居た、お前さんをねらつて居る者の仕業かも知れません」
「――」
「それから、片瀬の宿屋も一應は搜し、土地の人にも逢つて來ませう」
 平次の考へやうは眞劍でした。斯うなれば、是が非でもと言つた意氣込がほの見えるのも、職業的な強さです。
「一年前のことで、今頃行つても覺えて居るでせうか」
 と佐七。
「なアに、旅籠屋は宿帳があるし、騷ぎのあつた時の事は、一年二年經つても誰でもよく覺えて居るものです。それに、下手人の人相に人と異つたところでもありや、逃がしつこはありません」
 平次はそんな事を言つて暫らくの暇乞いとまごひをしました。見ると輕い旅裝束、片瀬、江の島へ行くと言ふのも滿更の嘘とは思へません。往來まで送つて出た佐七、
「親分、變なことがあるんですが――」
 と四方を見廻します。
「知つてるよ稻葉屋さん。あの男は千之助でないかも知れないといふ疑だらう」
 平次は先を潜りました。
「どうして、そんな事を?」
「殺した者がなきや、あの男が僞物に決つて居るぢやありませんか――私は片瀬江の島へかけて、もう一度、あの時の死骸もさがす積りですよ」
 そのまゝ、品川の方へ急ぐ平次、佐七は二の句も繼けずに見送りました。
 翌る日の晩。横山町の徳力屋――一年前の自分の家のあたりを、ブラブラ見て歩いた千之助。妙に物懷かしい心持になつて、夜更の町をトボトボと歸つて來ると、
「野郎ツ、氣を付けろ」
 いきなり疾風しつぷうの如く飛んで來て、正面からドシンと突き當つたものがあります。
「あツ」
 犬つころのやうに投り出された千之助、漸く起上がらうとすると、後つから喉笛へサツと投げかけた繩。
「――」
 物を言はず悶絶もんぜつする千之助を、三人の荒くれた男が、引攫つて肩に引つ擔ぎました。
「飛べツ」
「合點」
 宙を蹴ると見えた六本の脚。それも三間と行かないうちに釘付けされてしまつたのでした。
「待て/\」
 行手へ立塞がつて大手を擴げたものがあるのです。
「何をツ、邪魔しやがると、踏み潰して通るぞ」
 威猛高の三人。その頭を押へ付けるやうに凛とした聲が響きました。
「文公、六助、久太――又惡戯わるさか。いくら貰つたか知らないが、止せ/\、そいつは人殺しの片棒だ。迂濶うくわつかつぐと命がねえぞ」
「あゝ、錢形の親分」
 いやもう、蜘蛛くもの子を散らすやう。此時平次は、路地から飛出したもう一人の男の後髮を掴むと、漸く人心地付いた千之助の前に引据ゑました。
「さア約束通りお前さんを殺した敵の顏を見せて上げよう」
「あツ稻葉屋ツ」
 千之助はもう一度大地に尻餅をつきました。
        ×      ×      ×
 平次を甘く見て、一度は千之助の言ふがまゝに解決を頼みましたが、尻が割れさうになると、日頃眼を掛けて居る惡者共をけしかけ、千之助をさらつて大川に沈めた上、
 ――あれは矢張り天一坊で、尻が割れさうになつて逃出しましたよ――と平次へ報告する積りだつたのです。
 最初頑強に『知らぬ存ぜぬ』と言ひ張つて居た佐七も、ガラツ八が片瀬から江の島を調べて、三日目に歸つて來ての報告に、顏見知りの片瀬の小磯屋には三年越佐七が泊つたことがないと解つた上、去年二百十日の翌日の晩、江の島の獵師の家を叩き起し、小判一枚投り出して泊めて貰つた、左の頬に赤いあざのある男があつた――と聞かされて觀念しました。
 斯うなつては一も二もありません。
 佐七は千之助から借りた金が、無證文のまゝかなりの額になつたのを、證文にしてくれと言はれて居たのと、千之助の妹のお辰を嫁にと申込んで斷られたのを根に持ち、一と足おくれて江の島へ入つて、後ろからすぐ棧橋さんばしの落ちたのを幸ひ夜の闇に隱れて物好きな千之助の出るのを待ち、絞め殺してもとたくらみましたが、斷崖の上へ行つたのを見て、後ろから突き落したと言ふのです。
 その後半歳經つて、千之助が生き還つて、フラリと訪ねた時はさすがに仰天しましたが、今度はそれを逆用して、謝禮をせしめようとしたのは、何んとしても細くありません。
 徳力屋の後繼は相當むづかしい問題でした。が、錢形平次が中に入つて、千之助が元の主人に還り、吉五郎お辰を分家さして無事に納まりました。千之助も艱難にきたへられて、美しいお新を諦める氣になつた事は言ふまでもない事でせう。

「親分、變な捕物ぢやありませんか」
 ガラツ八は二三日經つと繪解が聽き度い樣子です。
「變ぢやないよ。千之助があんな崖から落ちて助かつた――といふ外には、不思議は一つもないよ。敵を討ち度さに一年間我慢して居たのも少し變だが、許婚いひなづけが他所へ行つてしまへば、捨鉢になるからさうしたものかも知れないぜ」
「人相見は當りましたね」
 ガラツ八は少し薄笑します。
「人には言ふな、俺の隱し藝にして置くから。ハツハツハツ」
「でも、佐七が臭いとは何うして氣が付きなすつたんで――」
「千之助が助かつて得をする者は、佐七ばかりと言つた時からだよ。さう言ふ癖に、古い借金は棒を引いてやると言つたぢやないか」
「へエ――」
「それから、お辰を嫁に欲しいと言つて斷られたと言ふぢやないか。吉五郎や要助や長次郎には、うらみといふものはないが佐七には怨があつた。金づくぢや滅多に人は殺せねえが、それに怨が加はると別だよ」
「成程ね」
「江の島で一緒に泊つた三人が潔白だと判つた時、――もう一人近所に居る奴はないか――と俺は考へたよ。江の島には居ないが、片瀬には居る、棧橋をうまく渡れば、その晩どんな細工でも出來たわけだ。それに佐七は餘計なことを言つた『片瀬の顏馴染の小磯屋』だとか、『女將おかみはお世辭もの』だとか、――氣がとがめるから、あんなに判然はつきりした事を言ふんだ。身に覺えのないものなら、片瀬に泊つて來た、と言つただけで澤山ぢやないか」
「――」
「俺が片瀬から江の島へ行つて調べる、と言つた時の佐七の顏色と言つたらなかつたよ」
「いよ/\人相見だね。親分」
「證據のない時は人相でも見るよ。そして相手がわなへ飛込んで來るのを待つより外に仕方はあるまい」
 平次は元の平靜な態度に還りました。閑寂かんじやくな秋の日です。





底本:「錢形平次捕物全集第八卷 地獄から來た男」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年7月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1936(昭和11)年10月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年2月25日作成
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