錢形平次捕物控

酒屋火事

野村胡堂





「親分。お早うございます」
「火事場の歸りかえ。八」
「へエ――」
へつゝひの中から飛出したやうだぜ」
 錢形平次――江戸開府以來と言はれた捕物の名人――と、子分の逸足いつそく、ガラツ八で通る八五郎が、鎌倉河岸でハタと顏を合せました。まだ卯刻半むつはん過ぎ、火事場歸りの人足が漸くまばらになつて、石垣の上は、白々しら/″\と朝霜が殘つて居る頃です。
「ところで何處へ行きなさるんで? 親分」
「三村屋もだつてえぢやないか」
「へエ。それで實は、親分をお迎へに行くところでしたよ」
「酒屋ばかり選つて、立て續けに三軒も燒くのは穩やかぢやないネ」
「何處のあんコロ餅屋だか知らないが、野暮な火惡戯ひわるさをしたもので――」
「馬鹿だな。そんな事を言ふと、餅屋に毆られるぜ」
「へエ――」
 ガラツ八は埃りと煙で汚れた、長い顎をしやくつて見せました。
 今年になつてから、ほんの半月ばかりの間に、神田中だけでも三ヶ所の放け火があつた――最初の一つは、正月八日の夜半よなか過ぎ、濱町の大黒屋で、これは夜廻りが見つけてボヤですましたが、二度目のは、中四日置いて正月の十三日、外神田松永町の小熊屋で、これは、着のみ着のままで飛出した程の丸燒け、三度目は正月十八日、――正確に言へば十九日の曉方、鎌倉町の三村屋が丸燒け、その上小僧が一人燒け死んで、女房のお久は、二階から飛降りて大怪我をしてしまひました。
「三軒揃つて酒屋は變ぢやありませんか。その上三軒共薪と炭をあきなひ、三軒共夜中過ぎの放け火だ」
「フム」
「それから、三の日と八の日を選つたのもをかしいぢやありませんか。御縁日か稽古日ぢやあるまいし」
「面白いな、八。他に氣のついたことはないか」
「そんな事をするのは、酒嫌ひな奴でせう、どうせ」
「ハツハツハツ。お前の智慧はそんなところへ落着くだらうと思つたよ――兎に角行つて見よう。笑ひごとぢやない。――お前も來るか」
「へエ――」
 ガラツ八は疲れも忘れた樣子で、忠實な犬のやうにしたがひました。
 三村屋の燒け跡は、見る眼も慘憺たる有樣でした。まだ板圍ひも出來ず、灰も掻かず、ブスブスいぶる中に、町内の手傳ひと、火事見舞と、燒け跡を濕してゐるとびの者とがごつた返して居ります。
「親分、亭主の安右衞門が來ましたよ」
 ガラツ八が袖を引かなかつたら、平次もうつかり見遁したことでせう。汗と埃りと、すゝと泥と、その上血と涙とに汚れた安右衞門の顏は、まことに、日頃の寛濶な旦那振りなどは、藥にしたくも殘つては居なかつたのです。
「三村屋さん、災難だつたね」
「お、親分さん――御覽の通り、私も三十年の働きが無駄になりました。明日からは乞食にでもなる外はありません」
「まア、そんなに力を落したものぢやない。町内でも、親類方でも、まさか捨てゝ置く筈もないから」
「有難う御座います。が親分さん、これが仲間や他人なら、痩我慢も申しますが、親分の前で、體裁の良いことを言つても、何にもなりません――どんなに齒軋はぎしりしても、三村屋は今日限りで御座います。――親分さん、お願ひでございます。この敵を取つて下さい。可哀想に、小僧の竹松は、逃げ場を失つて死んでしまひました」
 三村屋安右衞門は、五十男の體面も忘れて、聲もなく泣いて居りました。ゆがんだ顏に嗚咽をえつが走つて手を擧げて指さす、少しばかりの空地の隅には、筵を掛けたまゝの、竹松の死體が轉がつて居るではありませんか。
 火災保険――といふものゝない時代。地所や家作や、現金を持たぬ者は、燒け出された日から、全生活をくつがへされて、ドン底に顛落したのは、間々あつた例です。
「まア、此方へ來なさるが宜い――話を聽いたら、敵の討ちやうもあるだらう」
 平次は慰め乍ら、打ちひしがれた安右衞門を、物蔭に呼び入れました。
「何なりと訊いて下さい、親分さん」
「第一に――」
 平次は目顏でガラツ八を火事場の跡へ追やり乍ら續けます。
「――一番先に氣のついたのは誰だえ」
「私で御座いました。飛出さうと思ひましたが、縁側の雨戸はなか/\開きません。後で氣がつくと外から釘付けにしてあつたやうで御座います。お勝手の方へ廻つて見ると、其處はもう一面の火で、店もどん/\燃えて居る樣子ですから、これはいけないと思つて、二階へ駈上がり、女房や番頭の伊助と一緒に、ひさしへ飛出し、其處から飛降りました」
「外の者は?」
「手代の文治は火の中をくゞつて出たさうで、ほんの少し火傷やけどを負ひました。――娘のお町は、危ふく燒け死ぬところを、お隣の家主の太七さんのところの惣領――周助さんに、煙の中から助け出して頂きました」
「小僧さんは?」
「可哀想なことをしました。銘々身一つで逃げるのが精一杯で、竹松が逃げ後れたことに氣がつかなかつたのです」
「フーム」
「それから、親分さん。これは何かお役に立つかもわかりませんが――、火の出たのは、確かに二ヶ所で御座います。裏の薪や炭を入れて置く物置と、炭俵を積んだ店と一緒に燃え上がりました。――これはもう間違ひございません。現に、右左の羽目はめが、あの通り燃え殘つて居るのでも解ります。早く驅け付けて下すつた方が、みんなさう申して居ります。――こんな念入りな放け火は見たことがない――と」
「成程。念入りな放け火だな」
 平次は靜かにくり返しました。
「誰が一體、こんな目に私を逢はせたのでせう? 親分さん」
「怨みを受けるやうな覺えはないだらうか」
 平次はさう言ひ乍ら、『お座なり』を言つてるやうな、極りの惡さを感じました。
「何んとも申されませんが、私の口からは申上げ兼ねます」
「フーム」
「兎に角、私に怨みがあつての仕業しわざなら、相手はさぞ堪能たんのうしたことでございませう。大きく構へても問屋筋の借が相當御座います。その上女房の怪我やら、小僧のとむらひやら――」
 明日の日が何うなる。三村屋安右衞門の顏には、絶望の色が濃い蔭をつくります。


 江戸の火事の恐ろしさは、明暦めいれき、天明の大火を引合ひに出す迄もありません。
 一度赤い風が吹くと、防火設備はあつたにしても、マツチ箱を竝べたやうな江戸の町家――無分別にも建混み過ぎた木造家屋は、殆んど無抵抗に、無防禦に、際限もなく燃えて行つたのです。
 從つて、あやまち火、放け火に對する、江戸の法律の苛酷かこくさは想像以上でした。かりそめにも火を放けたものは、自分の家であらうと、他人の家であらうと、假借かしやくもなく火刑ひあぶり、――然え上らなかつた場合でも死罪はまぬかれやうがなかつたのです。
 過ち火を出しても手鎖てぐさり五十日、地主、家主、月番行事、五人組から、風上二丁、風脇二丁の月行事まで、三十日乃至二十日の押込めといふ峻烈ぶりでした。
 その代り、時々出した火の元用心の觸れ書も、實に行屆いたもので、大風の吹く日は外出を禁じ、庇や屋根に水を打たせ、二階に灯を點けさせなかつた時代さへあります。
 放け火を捕まへるか、訴へ出た者は、『御褒美人數之多少に依らず』白銀三十枚づつ、――當時にしては非常な奮發です。『江戸の花』と言はれた火事は斯うまで用心され、警戒されました。それだけにまた冒險味が豊かで、そのスリルを滿喫する爲に、落語の火事息子のやうに火事を何よりの好物にした人間も出て來たのでした。
 兎も角、放火した者は、現場を見つかるか、後で捕まれば、間違ひもなく、日本橋、兩國、四谷御門外、赤坂御門外、昌平橋外を引廻しの上、以上五ヶ所へ捨札を建てゝ火焙ひあぶりの極刑に處せられるのですから、泥棒や人殺しなどとは、まるつ切り話が違ひます。
 錢形平次が乘出したのは、この物騷千萬な放火魔つけびを擧げて、江戸の町人達の枕を高くさせる爲ですから、ケチな物盜りや、怨みの人殺しなどをあさるよりは、餘つ程緊張してゐるのも無理のないことでした。
「親分、見つけましたよ」
「何だ、八」
「火附け道具」
「何處にあつた」
「炭俵の下ですよ。――あの通り、ひさしへ火が附く頃、炭俵が崩れて、火附け道具を燒き殘したのでせう」
 八五郎の指さす方を見ると、裏の物置のあたり、燒け崩れた炭俵の下に、き附けの脂松やにまつに油綿を縛つたのが、燃え盡しもせず、踏み消されたまゝになつて居るではありませんか。
「濱町の大黒屋の小火ぼやでも、それが見つかつたんだらう」
「その通りですよ。親分」
つて置け。――誰が先に氣が附くか、誰が持つて行くか、少し氣長に見張つて居てくれ」
「へエ――」
 ガラツ八は少し役不足らしい顏でしたが、それでも、素直にうなづいて見せました。
 不意に――
「竹松! お前は――お前はまア――こんな情けない姿になつて――」
 後ろで爆發する聲があります。
 振り返ると、油で※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)締めたやうな四十五六の古女房が、取亂し切つた姿で、赤黒く燒けたゞれた、小僧の死體を抱き上げて居るのでした。
 ゼイゼイする息、しやぐり上げる笛のやうな泣き聲、泥に突いた膝も、衣紋えもんの亂れも、何も彼も忘れてしまつた母親の盲愛は、さすがの平次も長く見ては居られません。
「こいつはあんまりだ。――勘辨のならぬ奴だ」
 平次は口の中でさう言ひ乍ら、三村屋の立退き先へ廻りました。太七の家作かさくで、ほんの二三丁先、形ばかりの空家へ、焦げ臭い荷物と一緒に、五六人の人間が詰め込んで居たのです。
「おや、親分さん」
 最初に見つけたのは、隣の家主太七の伜、三村屋のお町を火の中から救つたといふ周助でした。二十四五の平凡な男で、よく言へば實直さうな、鼻の大きい、眼の細い、柔和な感じのする人間です。
「お前さんは?」
「太七の伜でございます」
 太七は鎌倉町屈指の家持ですから、親の名を言ふのが順當だつたのでせう。
「お町さんを助けたのはお前だね」
「へエ――」
 周助は照れ臭くびんを掻きました。
「その時の樣子を聽きたいが――」
 平次は上がりかまちに腰をおろしました。奧には、足をくじいた女房のお久や、火傷やけどだらけになつた手代の文治が居るので、少なからず迷惑らしい樣子ですが、平次の神經は、此時に限つて、そんな事に少しも煩はされる樣子もありません。
「誰がさきに見つけたか。知りませんが、町中がハチ切れるやうな大騷ぎで眼が覺めました。雨戸を開けると、額が焦げるやうに近い火です。親爺と一緒に飛んで行つて見ると、三村屋はもう表も裏も一面の火で、――お町さんが見えないと言ふ騷ぎです。それから、たゞ一つ火のまはらない縁側から、夢中で飛込み、煙に捲かれて、ウロウロするお町さんを見つけて、どうやら斯うやら助け出しました。運が良かつたのです」
 周助は手柄らしくもなくさう言つて、まだ恐怖の鎮まらぬらしい、お町の顏を見やるのでした。
「そいつは大手柄だ。差當り、お町さんの命の親といふわけだね」
「――」
 お町はうなづいた樣子でした。神田の惡戯者が娘番附を拵へて、東の關脇せきわけに据ゑた容色きりやう、疲れと怖れに、少し青くはなつて居りますが、誰が眼にも、これは美しい娘でした。
「文治さんとか言つたね」
「へエ――私は、手代の文治でございます」
 娘の後ろから顏を出したのは、火傷だらけの三十男、少し剽輕へうきんさうなのもあはれです。
「お前さんは、飛んだ怪我をしたやうだね」
「大したことは御座いませんが、火傷ですから、始末が惡う御座います」
 黄蘖きはだか何かをうんと塗つた顏、熱つぽい唇や眼など、平次は押して物を訊くのが氣の毒に思ふほどでした。
「お町さんと、何方が先へ外へ出たんだ?」
「よくはわかりませんが、私の方がさきだつたやうで。――なにしろ、火の中を泳ぐやうにして、表口から飛出しましたんで、お孃さんをおつれする隙もありませんでした。へエ――」
 お町を救はなかつたのが、恐らく千載せんざい恨事こんじだつたのでせう。さう言ふうちにも、チラリチラリと周助の滿悦の顏を見やります。
 女房のお久は二階から飛降りて足を挫いたのを、百萬遍もくり返すばかり。あとは家と店の品を燒いた口惜しさが一杯で、何を訊いても、一向に埒はあきません。
 平次は早々に引揚げました。


「番頭さんぢやないか」
「へエ、これは、錢形の親分さん。御苦勞樣で――」
 五十五六、すつかり禿げ上つた番頭の伊助は、平次に小手招かれるまゝ、路地の奧へ入つて來ました。
「三村屋さんも、飛んだ事だつたね」
「有難う存じます。――漸く年の瀬を越したばかり、お孃さんもやくが過ぎて、今年こそお婿さんが來るといふところを、――本當に災難で御座いました。これで、何も彼も滅茶々々でございます」
 伊助は朝寒あさざむとは別に身を顫はせました。狐憑きつねつきから落ちた狐のやうな顏が、妙に惡賢こさを思はせます。
「その聟といふのは」
「澤山御座いますよ。周助さんも、手代の文治も、從兄いとこの仲吉さんも、みんななりたい口で――へツ/\、でも持參金がなきやあ、主人は承知しません。本銀町ほんしろがねちやうの小金井樣の御次男が御執心で、一と箱位は持つて來てもと言ふ口吻ですから、いづれそんなところへ落着くところだつたのでせう。へツ、へツ」
 妙なところへ、卑屈ひくつな世辭笑ひの伴奏が入ります。
「ところで、主人を怨んで居る者はないだらうか、火位は放け兼ねないといふ――」
「そりやありますとも。――一番怨んで居るのは、お神さんの兄さんで、本當なら此の家を繼ぐ筈だつた市五郎さん。これは、賭博遊てなぐさみが好きで久離きうりられ、三河町で器用から思ひついた、細工物をして居ります。もう五十になつても、※(「木+兌」、第3水準1-85-72)うだつがあがらないのですから、自分の生れた三村屋が戀しくもなるでせう」
 番頭伊助の舌は、思ひの外深刻に動きます。
「それから」
「その次に怨んでゐるのは、聟七人の口で」
「聟七人とは何んだ」
「聟八人のうち、一人が望みを遂げると、あと七人はあぶれるわけで御座います」
「成程ね」
あぶれのうちでも、可哀想なのは、市五郎さんの伜、お町さんには從兄いとこにあたる仲吉さんで。――これは火事と喧嘩が飯より好きといふ肌合の男で御座います。その次のあぶれは手代の文治、これは望みが大き過ぎました。三枚目に生れ付いた、自分のがらを忘れて居るやうで、へエ、へツ、ヘツ。それからもう一人、周助さんといふあぶれも御座いますが、これはお孃さんを助けた人で、今のところは有卦うけに入つて居ります。何しろ、命の親は大したことですからね。尤も、良い氣になつて聟の口へ乘出したら、一ぺんにつぶれるでせう。五軒や八軒の長屋持ちの伜ぢや、一と箱の持參金の三國一とは相撲すまふが取れません。へツ、へツ」
 何と言ふ惡い口でせう。平次は胸の惡くなるのを精一杯の我慢で聽いて居りました。
「さう言ふ番頭さんは、主人のことを何う思つて居るんだ」
「へエ」
 痛いところへ觸れたのでせう。伊助はギクリとして口をつぐみました。
「私は二十年前に暖簾のれんを分けて貰ふ筈で御座いましたよ」
 何と言ふ穩やかな調子に含ませた、深刻な怨みでせう。
「成程ね」
「それから三村屋は左前續きで。――この六七年は、定めの給料も頂かず、通ひでは勤め切れないので、お二階に置いて頂く始末で御座います。へエ」
「――」
 さう聽くと、平次も二の句が繼げません。五十五六まで小店こだなに勤めて、まだ獨身らしい老番頭が、何時の間にやら世を呪ひ自分を嘲けつて、惡魔的な棄鉢な氣持になつて行くのでせう。
「お前さんは獨り者かい」
「へエ。二十五六年前、今のお神さんが若かつた頃は、私も聟八人のうちの一人で御座いましたよ。――丁度、今の文治のやうなもので、へエ」
 狐のやうな顏が歪んで、泣き出したいやうな表情になるのを、伊助は自分のてのひらで、よく禿げた頭の上から、ツルリと撫で下ろしました。


「親分、――拾つたやつこがありますぜ」
「何だ。八」
「先刻の火附け道具」
 八五郎は平次の耳に口を寄せました。
「誰だい」
「仲吉で」
「何だと」
「火事氣違ひの仲吉ですよ。三河屋の細工物屋の息子、親父の市五郎は、此家このうちのお神さんの兄貴ですぜ」
「知つてる。それから何うした」
脂松やにまつに油綿を縛つたのを、炭俵の下から拾ひ上げると、暫らく見て居ましたが、そつと人に隱して、焚火たきびの中へ放り込みましたよ」
「人に隱して――かい」
「後ろ向になつて、焚火にあたるやうな恰好をして投り込んだんだから、間違ひはありません」
 ガラツ八は火事場の燒跡近く、見舞人達の爲に焚いた火のあたりを指しました。
「見つけてから、一應見直して焚火へ投り込んだのか、それとも、見つけると直ぐ投り込んだのか」
「拾つた時は、隨分びつくりした樣子でしたよ。一應見直すと、思ひなしか、少し顏色を變へて、そのまゝ、焚火の中へ投り込んだ樣で――」
「フーム」
 平次の顏は深沈とした色になります。
「あツ、いけねえ、親分。三輪みのわの親分が、仲吉をしよつ引いて行きますぜ」
「何だと」
 平次もさすがに仰天しました。何時の間にやつて來たか三輪の萬七が、燒跡で働いてゐる、仲吉を引つ括つて行かうとしてゐるのです。
「親分。――錢形の親分」
 ニヤリニヤリと近づいたのは、萬七の子分で、ガラツ八と張り合つてゐるお神樂かぐらの清吉でした。
「おや、お神樂の、何だい」
「外ぢや御座いませんが、萬七の傳言ことづてを持つてめえりました。――訴人があつて、放火ひつけは仲吉に決つたから、繩張り違ひだが、八丁堀の旦那方のお差圖で擧げて行く。錢形の親分に宜しく、と斯う申しますんで。へエ 左樣なら」
「――」
 何と言ふ人を馬鹿にした顏でせう。お神樂の清吉は切口上で言ひ切ると、三輪の萬七と一緒に、仲吉を後手に縛つて引揚げてしまひました。
放火ひつけの訴人は、白銀三十枚の褒美だ。そいつを誰が取るか、聽いて來い、八、番所へ行つたら解るだらう」
「へエ」
 ガラツ八は疾風しつぷうの如く飛びます。
 が、その歸りを待つ迄もありませんでした。
「親分さん。訴人なら番所へ訊くまでもありません。私がよく存じて居ります」
 主人の安右衞門が、少し病的に興奮した眼を走らせて、平次の後ろに立つてゐたのです。
「えツ、そいつは不思議だ。誰が火を放けたんで――」
 平次も少し呆氣あつけに取られました。先刻までは、そんな事を氣振けぶりにも見せず、平次に縋り付かぬばかりに、敵を討つてくれと泣いた安右衞門です。
「女房の兄(市五郎)でなきや、あの伜の仲吉に決つてゐます」
「それほど解つて居るなら、先刻言ふ筈ぢや々いか。御主人」
「うつかりして居ましたよ。でも、昨夜宵のうちに、仲吉の野郎が、私の家の外をウロウロして居るのを見た者があります」
「誰が見たんで――」
「私が」
「嘘を言つてはいけない。お前さんは誰かに、智慧を付けられて來たに違ひない」
「飛んでもない。親分さん」
「仲吉なら仲吉でも宜いが。――すると、濱町の大黒屋と、松永町の小熊屋に火を放けたのが解らなくなる」
「仲吉は神田中で知らない者のないほどの火事氣違ひですよ。親分さん」
「酒屋ばかり選つて放けた理由わけは?」
「――」
 其處までは安右衞門にも解りません。
「兎に角、昨夜、仲吉を見たといふのは誰か、それを聽かして貰はうぢやないか。御主人、放火つけびは引廻しの上火焙ひあぶりだ。お前さんも、をひ一人を丸燒きにしたいわけでもあるまい」
 平次は、相手が手剛てごはいと見て、峻烈に突つ込みました。
「實は、――これは内證ないしよですが、町内の使ひ走りをしてゐる、與三松が見たと申しますんで。へエ」
「時刻は?」
亥刻よつ頃(十時)とか申しました」
「少し早いな」
「へエ――」
 平次は又深沈たる瞑想に沈みました。


 使ひ走りや火の番をして居る與三松といふ中年男は、平次に縛られると、ペラペラと喋舌しやべつてしまひました。
「昨夜、仲吉兄哥あにいが三村屋の裏で、何か變なことをしてゐましたよ」
「變な事?」
「口笛を吹いたり、石を投つたり」
「それつ切りか」
「へエ。――どうも相濟みません」
 與三松は腦味噌なうみその少し足りない人間ですが、言ふ事に間違ひがあらうとは思はれません。
 直ぐ三河町へ行くと、仲吉の父親の市五郎は、早くも伜が縛られたと聞いて、冷酒をあふつて、大虎になつて居ります。
「何だと? 岡つ引が來た。佛樣みてえな伜を縛つて行きやがつて、どのつら下げて來やがつたんだい。――そんなに火焙りにしたきや、三村屋の親爺を縛つて行きやがれ。借金で首が廻らねえ筈だ。自分の家へ火でも附けなきや、盆までには首をくゝる野郎ぢやねえか」
 寄り付けさうもない勢ひですが、平次もこんなのを扱ふすべは心得たものでした。
「親方。――俺を知つてるだらうね――こんな事を言つちや惡いかも知れねえが、仲吉はこの平次が縛つたんぢやねえ。仲吉を火焙りにして宜きや、俺がわざ/\此處へ來るものか」
「何だと?」
 市五郎は少しばかり鋭鋒を納めて、茶碗酒の手を休めました。
「俺は仲吉兄哥を助けに來たんだ。――あんな氣つぷの良い男が、人の家へ火なんか附けるものか。――それに、お町とは良い仲だつてえぢやないか」
 これは平次の作です。
「何を? お町の阿魔あまとは敵同志だ。下らねえ眞似をしやがると、俺が承知しねえ」
「親方、若い者には若い者の考へがあるよ。そんな野暮は言はねえものさ。ところで、仲吉は三の日と八の日には、日が暮れてから出掛けるやうだが、ありや何の爲だい」
 三の日と八の日――それは三軒の酒屋へ火を放けた日、とは市五郎も氣がつきません。
「隣町の稽古所入りだよ、間拔な聲なんぞ出しやがつて、それだから此節の新造ツ子ははなも引つ掛けねえ」
「ところで、仲吉の持物を見せて貰へるだらうね。何とかして明りを立てゝやるから」
「勝手にしやがれ」
 半信半疑の樣子で、市五郎はそつぽを向きました。
 平次は下職に仲吉の手文庫を持つて來させ、無理に市五郎を立合はせて見ると、中はがらくたばかり、豫期したお町の手紙などは一つもありません。
 家の中を一とわたり見ると、稼業で使ふ油や綿が何處にでも置いてある始末、お勝手から物置を見ると、焚きつけの脂松が、これも束にして積んであります。
 平次は市五郎をなだめ/\、好い加減にして引揚げました。仲吉とお町とが、深い仲だつたといふ證據は一つもなく、從つて火を放けないと言ふ積極的な申開きは立たないわけです。
 尤も、主人の市五郎は、その晩も醉つて寢てしまつて、便所へも起きなかつたといふことを、住込の下職に證明さしたのは、容疑者の範圍を狹くする、せめてもの收獲でした。
 家へ歸つて來ると、
「親分、お町さんが來てますよ。傍で見ると、思つたより綺麗で――」
 ガラツ八が入口に迎へて鼻をヒヨコ付かせます。
「解つてるよ。新造が來ると眼の色を變へて、そんな岡つ引はないぜ」
 平次は大した期待もしない心持で、お靜を相手に、しよんぼりと待つて居るお町の前へ出ました。
「お町さん、何か用事があるさうだね」
 何と言ふ冷たい調子でせう。
「親分さん、仲吉さんを助けて下さい。あの方は私の家へ火なんかけるやうな、そんな方ぢや御座いません」
 娘のぽんさ。平次の膝にでも縋りつきたい樣子です。
「さうかも知れないが、證據がなきや何うすることも出來ない。あの晩仲吉が何處で何をしたか、それが解らなきや助けやうはないぜ」
「――」
「あの晩仲吉は隣町の稽古所へ行くと言つて、三河町の家は出たさうだが、稽古所へは宵のうちにほんのちよいと顏を出したきり、それから夜中頃歸る迄、何處に居たか誰も知らない」
「――」
「その前、松永町の小熊屋が燒けた晩も、濱町の大黒屋の燒けた晩も、稽古所へ行くと言つて出たさうだが、稽古所からは矢張り宵のうちに歸つてゐる。その上あの晩、三村屋の裏で仲吉を見掛けた者もあるし、翌る日仲吉は、燒け跡から放火道具を拾つて、人目に隱れて燒き捨てゝゐるが――これぢやまぬがれやうはない」
 平次は遠慮會釋もなく、冷たくまくし立てます。
「親分さん、待つて下さい。これを申上げると、仲吉さんの心づかひも無駄になり、三村屋の暖簾のれんは二度と掛けられないことになりますが――」
 お町は首を擧げました。少し青白い、品の良い顏が、絞木しめきに掛けられたやうに引釣つて、眞珠しんじゆ色の涙が、ポロポロと頬を洗ひます。
「ね、お町さん、暖簾が大事か、人の命が大事か、戀が大事か、義理が大事か。――岡つ引の私には解らねえ。此處はお前の思案に任せようぢやないか」
「親分さん」
「酒屋を三軒燒いた罪は大きい。江戸中の憎しみのかゝつて居る仲吉は、間違ひもなく引廻しの上火焙ひあぶりだ。――本人も覺悟をしたと見えて、白状して了つたさうだから、八日と十三日と十八日の晩、酉刻半むつはんから子刻こゝのつ前まで、何處に居たか證人を立てゝ申上げなきや、先づ助かる見込はあるまいよ」
「親分さん、皆な申上げます。――丸燒まるやけになつた上に、小金井樣の千兩が入らないとなれば、三村屋はつぶれるに決つて居りますが、仲吉さんが火焙りになるのを、私は默つて見ては居られません」
「――」
「八日と十三日と十八日の晩――。宵から子刻こゝのつ前まで、仲吉さんと、私は、――あの、裏の納屋に居りました」
「證據は?」
「この手紙、――御覽下さい」
 お町は到頭、最後の切札を、帶の間から出したのです。仲吉からお町へ宛てた、逢引の打ち合せ。日も刻限もはつきり書いてある上、最後の十八日の分には『今夜こそは一生のお別れ、これを最後に、私は京大阪へでも參ります。無理な首尾をしても宵から夜中まで、いつもの場所で逢つてくれるやうに』とあはれ深くつゞつてあるのです。
「これは八丁堀の旦那方にもお目にかけなければなるまいが、宜いだらうな。お町さん」
「ハイ」
 お町は見る眼もいぢらしいしをれやうでした。
「氣の毒だなア、お町さん。この平次を怨むかも知れないが――その代り、千兩箱を背負つた化物より、もつと良い聟をお前に世話してやらう。貧乏し乍ら孝行するなら、兩親だつて何時までも愚痴ぐちは言ふまいよ」
「――」
 平次の言葉は、打つて變つて温かいものでした。外はシトシトと降る雨。やがて春も近い物の氣配です。


「親分。仲吉は許されるんですか、本當に」
「本當とも」
「變だね、少し」
「何が變なんだ」
 平次とガラツ八は、三村屋の燒跡へ來て、板圍ひの中をブラブラ歩き乍ら、その日も證據あさりに夢中でした。
「だつて親分。あの日、仲吉が火放け道具を見つけて、あわてゝ燒いたぢやありませんか」
 ガラツ八の腑に落ちないのは、その點だつたのです。
「親父の安右衞門は、三村屋をうんと怨んでるから、仲吉はてつきり、親父の仕業だと思つたんだよ。松や、綿や、油にも見覺えがあるやうな氣がしたんだ」
「成程ね。――ところで、親分は三村屋の放火つけびばかり氣にして居るが、三軒共同じ奴がやつたのなら、放火狂野郎つけびやらうは外に居るんぢやありませんか」
 ガラツ八の疑ひは段々筋立つて行きます。
「俺もそれを考へてゐるよ。――大酒飮みの女房か何か、酒屋をうんと怨んで、そんな事をやらないものでもあるまい」
 平次の想像は飛躍します。
「酒の仕入で、問屋筋の廻し者が、そんな惡戯をすることはないでせうか」
 ガラツ八の頭のよさ。
「そいつは素敵だ。――念の爲に、三軒の酒屋が、どんな酒を入れてゐたか、一應聽いて來るが宜い」
「おだてちやいけません」
「おだてやしないよ。それ位氣が廻りや、八五郎も大したものだ」
「へエ――」
 ガラツ八はくすぐつたく頸筋を押へました。
「大黒屋と小熊屋と三村屋と同じ人間が火を放けたなら、こいつは氣違ひでなきや、酒屋に怨みのある奴だ。――きつと近いうちに四軒目へ放けるに違ひない」
「へエ物騷だね。親分」
「それとも、大黒屋と小熊屋の放火つけびの話を聽いて、他の奴が眞似をする積りで三村屋へ放けたのなら、これは話が別だ。――俺は矢張り後の方だらうと思ふよ」
「へエ――」
「手めえは大黒屋と小熊屋の方へ行つて見るがいゝ。俺は三村屋へ筋を引く奴を、根こそぎ洗ひ出して見る」
 平次はさう言ひ乍ら、ヒヨイと板圍いたがこひの外を見ました。
「おや?」
 と、ガラツ八。
「シツ。――立ち聽きしてゐる奴があるんだ。かしこいやうでも、影法師が板圍ひの隙間をチラチラ隱すことには氣がつかなかつたらう」
「誰でせう。親分」
「恐ろしい相手だ。何をするか判らない野郎だ。氣を付けろ、八」
 二人は馴れた調子で、半分は眼配せですませ乍ら、斯う囁やきました。
 平次とガラツ八はその夜のうちに、徹底的な調べにかゝりました。
 第一に伊助と文治と周助が、八日と十三日と十八日の夜、何處で宵のうちから夜半よなかまでの時間を過したか、それを調べあげて見ましたが、三人共、縁日とか、風呂とかお通夜とか、それ/″\出かけて居る癖に、三人共、器用過ぎるほど器用な不在證明アリバイを持つて居ります。
 三度目の火事があつてから、五日も經つたのですから、これ位の用意をされても、何うすることも出來ません。それに、時計もラヂオもない世の中で、半刻(一時間)や四半刻(三十分)の喰ひ違ひは、どうにでも誤魔化ごまかせたのです。
 鎌倉町から濱町や松永町まで行つて、適當な作業をするにしても四半刻はんときも有れば充分でせう。斯うなると、不在證明のない奴が一番潔白だ――と言ひたくなる位です。
「こいつはいけない」
 平次のすつぱい顏といふものはありません。
「三村屋の家に居る者が、外から雨戸を釘付けには出來ないぢやありませんか。伊助と文治は火は放けられませんぜ。親分」
 ガラツ八の近頃の理窟強さ。
「裏から出て雨戸へ釘を差すなり、心張をするなりした上、先づ店口へ火をつけて、それから元の裏口へ廻つて、其處へも火を放つて家の中へ入つたのさ」
「成程ね」
「店口には雜物は少ないが、裏は炭も薪もうんとある上、ひさし藁葺わらぶきで燃えがよい。裏の火の手が、先にあがつたから、見る方が一寸誤魔化されたが、その實、裏口は外から閉つて居なかつたのだ――斯う考へられないか。八」
「へエ――」
 さう言はれると一言もありません。
「何しろ早く擧げて、皆なを安心さしてやりたいネ。今日も燒け死んだ竹松の母親がやつて來て、泣き乍ら伜の敵を討つて下さいつて頼んで行つたよ」
 二人はそんな話をし乍ら、今度は三村屋の立退き所へ行つて、伊助と文治の荷物――ほんの小風呂敷一つの小さい荷物を調べた上、家主の太七の家へ行つて、周助の持物を見せて貰ひました。
 番頭の伊助は、思ひの外溜め込んで、諸方へ小金を貸した證文をうんと持つて居たのは豫想外でしたが、その外には、文治が、主人の娘のお町へ宛てゝ、思ひの丈けをクドクドと書いた『出さない戀文』を持つて居る外に、何の變つたこともありません。
 周助は、千兩箱持參のむこが破談になつたと聽いて、お町に取入る積りらしく、『命の親』を持參にする意氣込で、猛烈に働きかけて居ります。
 その手廻りの道具は、男の癖にお洒落しやれ道具で一パイ、平次もガラツ八も、周助の不景氣な顏と見比べて、苦笑して引込んでしまひました。
 もう一つ。火放ひつけ道具に使つた、松も、油も、綿も、周助の家には似寄りの品も見付かりません。焚きつけは硫黄附木ゆわうつけぎの小枝で間に合せ、油はほんの少しばかりの燈油が、行燈あんどんの皿と古い小さい油壺にあるだけ、綿は蒲團でも引つぱがしたら古いのが出て來るかも知れないと言つた程度です。


「解つたツ」
 平次はいきなり飛上がりました。
 その晩、沈み返つて歸つて來て、お靜やガラツ八ともあまり口も利かずに、煙草ばかり吸つて居た平次ですが、やがて亥刻半よつはん(十一時)と思ふ頃、不意にこんな大きな聲を出したのです。
「親分、何が解つたんで――」
 見上げたガラツ八の顏の長さ。
「何も彼も解つたよ。こんな詰らない事に、今まで氣がつかないなんて、何と言ふドヂだらう」
「へエ――」
 ガラツ八は自分が叱られて居るやうな心持です。
「八、一緒に行かうか」
「何處へ行くんで、親分。もう亥刻よつですぜ」
 ガラツ八は少し睡さうでした。
「先刻、三村屋から使の者が、小僧の初七日だからつて、お菓子と酒を持つて來たらう」
「えゝ」
 お靜は顏を擧げました。何時までも若くて美しい女房振りです。
「それがだつたんだ、――俺と八が、トグロを卷いて自分の家に居るところを見屆けて行つたのさ」
 平次の話は奇つ怪です。
「あの使の小僧がそんな惡者ですかい、親分」
「小僧ぢやない。小僧の口占くちうらを引く奴が居るんだ」
「それが何うしたんで」
 と、ガラツ八。
「何でも宜いから、面白いものが見たかつたら、一緒に來るが宜い」
「へエ、行きますよ」
「支度をしろ、――少し手強てごはいぞ」
 二人はそゝくさと支度をすると、お靜と下女を殘して、サツと闇の街へ飛出しました。
「何處へ行くんで」
 ガラツ八はまだウロウロして居ります。
「シツ」
 二人はもう三河町へ入つて居りました。
「おや、市五郎の家へ――」
「默つて居ろ。――間に合へば宜いが」
 平次の調子には、何とも言へない不安があります。
「何の間に合ふんで、親分」
「間に合はなきや、もう一軒酒屋が燒ける」
「へエツ」
 ガラツ八には、謎は何處までも謎のまゝです。
「シツ」
 丁度子刻こゝのつ(十二時)、上野の鐘がかすかに餘韻よゐんを引いて鳴り止むと、何處からともなく、ユラリと出て來た者があります。
「――」
 平次は、飛出さうとするガラツ八を、どんなに一生懸命押へ付けたことでせう。
 やがて黒い影は、市五郎の裏の納屋へ、羽目板の破れから手を入れて、何とも知れぬものを取出すと、恐ろしい早さで、スタスタと新石町の方へ飛んで行くのです。
「八、さとられるな」
 二人は追跡のあらゆる祕術を盡しました。見遁みのがさず、覺られずに、夜更けの街をけるのは、全く容易のわざではありません。
 やがて黒い影は、路地の中へスルスルと消え込みました。
「俺は此處に居る。手前てめえは、大廻りに横町からあの路地の向うへ出ろ」
「――」
 八五郎はこんな事には馴れて居りました。事態容易ならずと見ると、日頃の饒舌ぜうぜつを封じて、平次の言ふ儘に、路地の向う側へ廻ります。
 しばらく時が經ちました。待つてゐるものには、二刻三刻のやうに思ひましたが、實は、ほんの、煙草二三服の暇だつたでせう。
 ポ――ツと路地の中を染める火。
 四軒目の酒屋、岸半助の裏庇うらびさしが燃え出したのです。
「御用ツ」
 錢形平次は飛込みました。が、曲者は早くも身をかへして、路地の向う側へ、眞の飛鳥の如き素早さです。
「野郎ツ。待つて居たぞ」
 其處には力自慢のガラツ八が、手をつばだらけにして待ち構へて居たのです。
「八、頼むぞ。俺は火を消す」
「合點だツ」
 曲者と八五郎は四つに組んで、路地の中をコロコロと轉がつて居ります。
 此騷ぎを聽いて、バタバタと戸の開く音。
        ×      ×      ×
 曲者は、家主の伜周助だつたのです。
 番所へ送つた歸り、あかつきの霜を踏んで、ガラツ八は問ひかけました。
「今度ばかりは解らない、繪解をして下さい、親分」
「何でもないよ。周助の家に、附火つけび道具がなさ過ぎたのが怪しかつたのさ」
 平次の答の無造作さ。
「へエ――」
「どんな家だつて、綿の切つ端や、餘分の油や、焚きつけのないところがあるものか」
「成程ね」
「尤も、あの放火ひつけ道具を隱してある場所が、もつと早く判れば、何でもなかつたんだが、市五郎の家の納屋とは氣がつかなかつたよ。――後で考へて見ると、仲吉に、疑がかゝるやうに、三八の日にお町と逢引することを知つて、その日を選つて火を放けて歩いた程の奴だから、放火ひつけ道具だつて、あの納屋に隱すに決つて居るんだが、其處まで氣のつかなかつたのは凡夫ぼんぷの淺ましささ」
「その代り、あんまり早く放火ひつけ道具を見つけたら、反つて仲吉が疑ひをますぢやありませんか」
 と、ガラツ八。
「それも、さうだな」
「何だつて酒屋ばかり選つて火を放けたんでせう」
「世間の眼を誤魔化ごまかす爲さ――周助がお町に彈かれて居るから、自分の隣の家へだけ火を附けて見ろ、すぐ知れるぢやないか」
「それにしても無法ぢやありませんか」
「あれは並の人間ぢやないよ。尤も、始めの一軒は試して見る氣だつたんだ。同じやうな店造りの、炭や薪のある家へやつて見たが、うまく行かなかつた。大黒屋の小火ぼやはそれだよ。二度目の小熊屋も同じ店造り、同じ炭薪だ。これは思ふ通りに燃えた。そしていよ/\三軒目に、目的の三村屋を燒いたのさ。――三村屋に怨みもあるだらうが、矢破り周助は火事の好きな氣違ひさ、仲吉の火事好きと違つて、これは本當に怖いよ」
「――」
「最初は三村屋を皆殺しにする積りだつたらう。が途中から氣が變つて、お町を助けて、命の親になつてやらうと思つたに違ひない。其邊は正氣だね――放火道具といふものは、不思議に大抵は燒け殘るものだ。お町を助けて『命の親』扱ひにされた周助は、夢中になつてそれに氣がつかなかつた――其處へ仲吉がやつて來て、あれを拾つたのさ」
「三軒に放火つけびをしたのに、何うして、三村屋だけ狙つたと解つたでせう」
「外から雨戸を釘付けにして、二ヶ所に火を放けてるぢやないか」
「へエ――」
 ガラツ八はすつかり恐れ入つてしまひました。
「燒跡で二人の話を立聽きしたのは周助さ。自分の身が段々危ふくなつたのと、――お前が『放火つけびは酒呑の女房か、問屋の仕入れの關係いきさつで、唯滅茶々々に酒屋を怨む者の仕業かも知れない』と言つたのを聽いて、あの氣狂ひ、四軒目を燒く積りになつたんだよ。――それがわなとは氣がつかなかつたらう」
「太い野郎だね、親分」
「一寸類のない惡黨だよ。放火つけびに出かける前に、岡つ引の家へ初七日の配り物をさせて、小僧に俺の居るのを見屆けさせたのは藝が細かい」
「――」
「だがな八、イヤなことばかりぢやないよ。お蔭で千兩箱の化物のやうな聟が引つ込んで、仲吉とお町は一緒になれるし、三十年來の市五郎と安右衞門の仲違ひも、此邊で幕だらう。――斯うなると、貧乏も惡くないと思ふだらうよ」
 惡者一人火刑ひあぶりにしても、平次には慰むるところがあつたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第八卷 地獄から來た男」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年7月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1937(昭和12)年1月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年2月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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