「親分。お早うございます」
「火事場の歸りかえ。八」
「へエ――」
「
錢形平次――江戸開府以來と言はれた捕物の名人――と、子分の
「ところで何處へ行きなさるんで? 親分」
「三村屋も
「へエ。それで實は、親分をお迎へに行くところでしたよ」
「酒屋ばかり選つて、立て續けに三軒も燒くのは穩やかぢやないネ」
「何處の
「馬鹿だな。そんな事を言ふと、餅屋に毆られるぜ」
「へエ――」
ガラツ八は埃りと煙で汚れた、長い顎をしやくつて見せました。
今年になつてから、ほんの半月ばかりの間に、神田中だけでも三ヶ所の放け火があつた――最初の一つは、正月八日の
「三軒揃つて酒屋は變ぢやありませんか。その上三軒共薪と炭を
「フム」
「それから、三の日と八の日を選つたのもをかしいぢやありませんか。御縁日か稽古日ぢやあるまいし」
「面白いな、八。他に氣のついたことはないか」
「そんな事をするのは、酒嫌ひな奴でせう、どうせ」
「ハツハツハツ。お前の智慧はそんなところへ落着くだらうと思つたよ――兎に角行つて見よう。笑ひごとぢやない。――お前も來るか」
「へエ――」
ガラツ八は疲れも忘れた樣子で、忠實な犬のやうに
三村屋の燒け跡は、見る眼も慘憺たる有樣でした。まだ板圍ひも出來ず、灰も掻かず、ブスブス
「親分、亭主の安右衞門が來ましたよ」
ガラツ八が袖を引かなかつたら、平次もうつかり見遁したことでせう。汗と埃りと、
「三村屋さん、災難だつたね」
「お、親分さん――御覽の通り、私も三十年の働きが無駄になりました。明日からは乞食にでもなる外はありません」
「まア、そんなに力を落したものぢやない。町内でも、親類方でも、まさか捨てゝ置く筈もないから」
「有難う御座います。が親分さん、これが仲間や他人なら、痩我慢も申しますが、親分の前で、體裁の良いことを言つても、何にもなりません――どんなに
三村屋安右衞門は、五十男の體面も忘れて、聲もなく泣いて居りました。
火災保険――といふものゝない時代。地所や家作や、現金を持たぬ者は、燒け出された日から、全生活を
「まア、此方へ來なさるが宜い――話を聽いたら、敵の討ちやうもあるだらう」
平次は慰め乍ら、打ちひしがれた安右衞門を、物蔭に呼び入れました。
「何なりと訊いて下さい、親分さん」
「第一に――」
平次は目顏でガラツ八を火事場の跡へ追やり乍ら續けます。
「――一番先に氣のついたのは誰だえ」
「私で御座いました。飛出さうと思ひましたが、縁側の雨戸はなか/\開きません。後で氣がつくと外から釘付けにしてあつたやうで御座います。お勝手の方へ廻つて見ると、其處はもう一面の火で、店もどん/\燃えて居る樣子ですから、これはいけないと思つて、二階へ駈上がり、女房や番頭の伊助と一緒に、
「外の者は?」
「手代の文治は火の中をくゞつて出たさうで、ほんの少し
「小僧さんは?」
「可哀想なことをしました。銘々身一つで逃げるのが精一杯で、竹松が逃げ後れたことに氣がつかなかつたのです」
「フーム」
「それから、親分さん。これは何かお役に立つかもわかりませんが――、火の出たのは、確かに二ヶ所で御座います。裏の薪や炭を入れて置く物置と、炭俵を積んだ店と一緒に燃え上がりました。――これはもう間違ひございません。現に、右左の
「成程。念入りな放け火だな」
平次は靜かにくり返しました。
「誰が一體、こんな目に私を逢はせたのでせう? 親分さん」
「怨みを受けるやうな覺えはないだらうか」
平次はさう言ひ乍ら、『お座なり』を言つてるやうな、極りの惡さを感じました。
「何んとも申されませんが、私の口からは申上げ兼ねます」
「フーム」
「兎に角、私に怨みがあつての
明日の日が何うなる。三村屋安右衞門の顏には、絶望の色が濃い蔭を
江戸の火事の恐ろしさは、
一度赤い風が吹くと、防火設備はあつたにしても、マツチ箱を竝べたやうな江戸の町家――無分別にも建混み過ぎた木造家屋は、殆んど無抵抗に、無防禦に、際限もなく燃えて行つたのです。
從つて、
過ち火を出しても
その代り、時々出した火の元用心の觸れ書も、實に行屆いたもので、大風の吹く日は外出を禁じ、庇や屋根に水を打たせ、二階に灯を點けさせなかつた時代さへあります。
放け火を捕まへるか、訴へ出た者は、『御褒美人數之多少に依らず』白銀三十枚づつ、――當時にしては非常な奮發です。『江戸の花』と言はれた火事は斯うまで用心され、警戒されました。それだけにまた冒險味が豊かで、そのスリルを滿喫する爲に、落語の火事息子のやうに火事を何よりの好物にした人間も出て來たのでした。
兎も角、放火した者は、現場を見つかるか、後で捕まれば、間違ひもなく、日本橋、兩國、四谷御門外、赤坂御門外、昌平橋外を引廻しの上、以上五ヶ所へ捨札を建てゝ
錢形平次が乘出したのは、この物騷千萬な
「親分、見つけましたよ」
「何だ、八」
「火附け道具」
「何處にあつた」
「炭俵の下ですよ。――あの通り、
八五郎の指さす方を見ると、裏の物置のあたり、燒け崩れた炭俵の下に、
「濱町の大黒屋の
「その通りですよ。親分」
「
「へエ――」
ガラツ八は少し役不足らしい顏でしたが、それでも、素直にうなづいて見せました。
不意に――
「竹松! お前は――お前はまア――こんな情けない姿になつて――」
後ろで爆發する聲があります。
振り返ると、油で

ゼイゼイする息、しやぐり上げる笛のやうな泣き聲、泥に突いた膝も、
「こいつはあんまりだ。――勘辨のならぬ奴だ」
平次は口の中でさう言ひ乍ら、三村屋の立退き先へ廻りました。太七の
「おや、親分さん」
最初に見つけたのは、隣の家主太七の伜、三村屋のお町を火の中から救つたといふ周助でした。二十四五の平凡な男で、よく言へば實直さうな、鼻の大きい、眼の細い、柔和な感じのする人間です。
「お前さんは?」
「太七の伜でございます」
太七は鎌倉町屈指の家持ですから、親の名を言ふのが順當だつたのでせう。
「お町さんを助けたのはお前だね」
「へエ――」
周助は照れ臭く
「その時の樣子を聽きたいが――」
平次は上がり
「誰がさきに見つけたか。知りませんが、町中がハチ切れるやうな大騷ぎで眼が覺めました。雨戸を開けると、額が焦げるやうに近い火です。親爺と一緒に飛んで行つて見ると、三村屋はもう表も裏も一面の火で、――お町さんが見えないと言ふ騷ぎです。それから、たゞ一つ火のまはらない縁側から、夢中で飛込み、煙に捲かれて、ウロウロするお町さんを見つけて、どうやら斯うやら助け出しました。運が良かつたのです」
周助は手柄らしくもなくさう言つて、まだ恐怖の鎮まらぬらしい、お町の顏を見やるのでした。
「そいつは大手柄だ。差當り、お町さんの命の親といふわけだね」
「――」
お町はうなづいた樣子でした。神田の惡戯者が娘番附を拵へて、東の
「文治さんとか言つたね」
「へエ――私は、手代の文治でございます」
娘の後ろから顏を出したのは、火傷だらけの三十男、少し
「お前さんは、飛んだ怪我をしたやうだね」
「大したことは御座いませんが、火傷ですから、始末が惡う御座います」
「お町さんと、何方が先へ外へ出たんだ?」
「よくはわかりませんが、私の方がさきだつたやうで。――なにしろ、火の中を泳ぐやうにして、表口から飛出しましたんで、お孃さんをおつれする隙もありませんでした。へエ――」
お町を救はなかつたのが、恐らく
女房のお久は二階から飛降りて足を挫いたのを、百萬遍もくり返すばかり。あとは家と店の品を燒いた口惜しさが一杯で、何を訊いても、一向に埒はあきません。
平次は早々に引揚げました。
「番頭さんぢやないか」
「へエ、これは、錢形の親分さん。御苦勞樣で――」
五十五六、すつかり禿げ上つた番頭の伊助は、平次に小手招かれるまゝ、路地の奧へ入つて來ました。
「三村屋さんも、飛んだ事だつたね」
「有難う存じます。――漸く年の瀬を越したばかり、お孃さんも
伊助は
「その聟といふのは」
「澤山御座いますよ。周助さんも、手代の文治も、
妙なところへ、
「ところで、主人を怨んで居る者はないだらうか、火位は放け兼ねないといふ――」
「そりやありますとも。――一番怨んで居るのは、お神さんの兄さんで、本當なら此の家を繼ぐ筈だつた市五郎さん。これは、

番頭伊助の舌は、思ひの外深刻に動きます。
「それから」
「その次に怨んでゐるのは、聟七人の口で」
「聟七人とは何んだ」
「聟八人のうち、一人が望みを遂げると、あと七人はあぶれるわけで御座います」
「成程ね」
「あぶれのうちでも、可哀想なのは、市五郎さんの伜、お町さんには
何と言ふ惡い口でせう。平次は胸の惡くなるのを精一杯の我慢で聽いて居りました。
「さう言ふ番頭さんは、主人のことを何う思つて居るんだ」
「へエ」
痛いところへ觸れたのでせう。伊助はギクリとして口を
「私は二十年前に
何と言ふ穩やかな調子に含ませた、深刻な怨みでせう。
「成程ね」
「それから三村屋は左前續きで。――この六七年は、定めの給料も頂かず、通ひでは勤め切れないので、お二階に置いて頂く始末で御座います。へエ」
「――」
さう聽くと、平次も二の句が繼げません。五十五六まで
「お前さんは獨り者かい」
「へエ。二十五六年前、今のお神さんが若かつた頃は、私も聟八人のうちの一人で御座いましたよ。――丁度、今の文治のやうなもので、へエ」
狐のやうな顏が歪んで、泣き出したいやうな表情になるのを、伊助は自分の
「親分、――拾つた
「何だ。八」
「先刻の火附け道具」
八五郎は平次の耳に口を寄せました。
「誰だい」
「仲吉で」
「何だと」
「火事氣違ひの仲吉ですよ。三河屋の細工物屋の息子、親父の市五郎は、
「知つてる。それから何うした」
「
「人に隱して――かい」
「後ろ向になつて、焚火にあたるやうな恰好をして投り込んだんだから、間違ひはありません」
ガラツ八は火事場の燒跡近く、見舞人達の爲に焚いた火のあたりを指しました。
「見つけてから、一應見直して焚火へ投り込んだのか、それとも、見つけると直ぐ投り込んだのか」
「拾つた時は、隨分びつくりした樣子でしたよ。一應見直すと、思ひなしか、少し顏色を變へて、そのまゝ、焚火の中へ投り込んだ樣で――」
「フーム」
平次の顏は深沈とした色になります。
「あツ、いけねえ、親分。
「何だと」
平次もさすがに仰天しました。何時の間にやつて來たか三輪の萬七が、燒跡で働いてゐる、仲吉を引つ括つて行かうとしてゐるのです。
「親分。――錢形の親分」
ニヤリニヤリと近づいたのは、萬七の子分で、ガラツ八と張り合つてゐるお
「おや、お神樂の、何だい」
「外ぢや御座いませんが、萬七の
「――」
何と言ふ人を馬鹿にした顏でせう。お神樂の清吉は切口上で言ひ切ると、三輪の萬七と一緒に、仲吉を後手に縛つて引揚げてしまひました。
「
「へエ」
ガラツ八は
が、その歸りを待つ迄もありませんでした。
「親分さん。訴人なら番所へ訊くまでもありません。私がよく存じて居ります」
主人の安右衞門が、少し病的に興奮した眼を走らせて、平次の後ろに立つてゐたのです。
「えツ、そいつは不思議だ。誰が火を放けたんで――」
平次も少し
「女房の兄(市五郎)でなきや、あの伜の仲吉に決つてゐます」
「それほど解つて居るなら、先刻言ふ筈ぢや々いか。御主人」
「うつかりして居ましたよ。でも、昨夜宵のうちに、仲吉の野郎が、私の家の外をウロウロして居るのを見た者があります」
「誰が見たんで――」
「私が」
「嘘を言つてはいけない。お前さんは誰かに、智慧を付けられて來たに違ひない」
「飛んでもない。親分さん」
「仲吉なら仲吉でも宜いが。――すると、濱町の大黒屋と、松永町の小熊屋に火を放けたのが解らなくなる」
「仲吉は神田中で知らない者のないほどの火事氣違ひですよ。親分さん」
「酒屋ばかり選つて放けた
「――」
其處までは安右衞門にも解りません。
「兎に角、昨夜、仲吉を見たといふのは誰か、それを聽かして貰はうぢやないか。御主人、
平次は、相手が
「實は、――これは
「時刻は?」
「
「少し早いな」
「へエ――」
平次は又深沈たる瞑想に沈みました。
使ひ走りや火の番をして居る與三松といふ中年男は、平次に縛られると、ペラペラと
「昨夜、仲吉
「變な事?」
「口笛を吹いたり、石を投つたり」
「それつ切りか」
「へエ。――どうも相濟みません」
與三松は
直ぐ三河町へ行くと、仲吉の父親の市五郎は、早くも伜が縛られたと聞いて、冷酒をあふつて、大虎になつて居ります。
「何だと? 岡つ引が來た。佛樣みてえな伜を縛つて行きやがつて、どの
寄り付けさうもない勢ひですが、平次もこんなのを扱ふ
「親方。――俺を知つてるだらうね――こんな事を言つちや惡いかも知れねえが、仲吉はこの平次が縛つたんぢやねえ。仲吉を火焙りにして宜きや、俺がわざ/\此處へ來るものか」
「何だと?」
市五郎は少しばかり鋭鋒を納めて、茶碗酒の手を休めました。
「俺は仲吉兄哥を助けに來たんだ。――あんな氣つぷの良い男が、人の家へ火なんか附けるものか。――それに、お町とは良い仲だつてえぢやないか」
これは平次の作です。
「何を? お町の
「親方、若い者には若い者の考へがあるよ。そんな野暮は言はねえものさ。ところで、仲吉は三の日と八の日には、日が暮れてから出掛けるやうだが、ありや何の爲だい」
三の日と八の日――それは三軒の酒屋へ火を放けた日、とは市五郎も氣がつきません。
「隣町の稽古所入りだよ、間拔な聲なんぞ出しやがつて、それだから此節の新造ツ子は
「ところで、仲吉の持物を見せて貰へるだらうね。何とかして明りを立てゝやるから」
「勝手にしやがれ」
半信半疑の樣子で、市五郎はそつぽを向きました。
平次は下職に仲吉の手文庫を持つて來させ、無理に市五郎を立合はせて見ると、中はがらくたばかり、豫期したお町の手紙などは一つもありません。
家の中を一とわたり見ると、稼業で使ふ油や綿が何處にでも置いてある始末、お勝手から物置を見ると、焚きつけの脂松が、これも束にして積んであります。
平次は市五郎を
尤も、主人の市五郎は、その晩も醉つて寢てしまつて、便所へも起きなかつたといふことを、住込の下職に證明さしたのは、容疑者の範圍を狹くする、せめてもの收獲でした。
家へ歸つて來ると、
「親分、お町さんが來てますよ。傍で見ると、思つたより綺麗で――」
ガラツ八が入口に迎へて鼻をヒヨコ付かせます。
「解つてるよ。新造が來ると眼の色を變へて、そんな岡つ引はないぜ」
平次は大した期待もしない心持で、お靜を相手に、しよんぼりと待つて居るお町の前へ出ました。
「お町さん、何か用事があるさうだね」
何と言ふ冷たい調子でせう。
「親分さん、仲吉さんを助けて下さい。あの方は私の家へ火なんか
娘の
「さうかも知れないが、證據がなきや何うすることも出來ない。あの晩仲吉が何處で何をしたか、それが解らなきや助けやうはないぜ」
「――」
「あの晩仲吉は隣町の稽古所へ行くと言つて、三河町の家は出たさうだが、稽古所へは宵のうちにほんのちよいと顏を出したきり、それから夜中頃歸る迄、何處に居たか誰も知らない」
「――」
「その前、松永町の小熊屋が燒けた晩も、濱町の大黒屋の燒けた晩も、稽古所へ行くと言つて出たさうだが、稽古所からは矢張り宵のうちに歸つてゐる。その上あの晩、三村屋の裏で仲吉を見掛けた者もあるし、翌る日仲吉は、燒け跡から放火道具を拾つて、人目に隱れて燒き捨てゝゐるが――これぢや
平次は遠慮會釋もなく、冷たくまくし立てます。
「親分さん、待つて下さい。これを申上げると、仲吉さんの心づかひも無駄になり、三村屋の
お町は首を擧げました。少し青白い、品の良い顏が、
「ね、お町さん、暖簾が大事か、人の命が大事か、戀が大事か、義理が大事か。――岡つ引の私には解らねえ。此處はお前の思案に任せようぢやないか」
「親分さん」
「酒屋を三軒燒いた罪は大きい。江戸中の憎しみのかゝつて居る仲吉は、間違ひもなく引廻しの上
「親分さん、皆な申上げます。――
「――」
「八日と十三日と十八日の晩――。宵から
「證據は?」
「この手紙、――御覽下さい」
お町は到頭、最後の切札を、帶の間から出したのです。仲吉からお町へ宛てた、逢引の打ち合せ。日も刻限もはつきり書いてある上、最後の十八日の分には『今夜こそは一生のお別れ、これを最後に、私は京大阪へでも參ります。無理な首尾をしても宵から夜中まで、いつもの場所で逢つてくれるやうに』とあはれ深く
「これは八丁堀の旦那方にもお目にかけなければなるまいが、宜いだらうな。お町さん」
「ハイ」
お町は見る眼もいぢらしい
「氣の毒だなア、お町さん。この平次を怨むかも知れないが――その代り、千兩箱を背負つた化物より、もつと良い聟をお前に世話してやらう。貧乏し乍ら孝行するなら、兩親だつて何時までも
「――」
平次の言葉は、打つて變つて温かいものでした。外はシトシトと降る雨。やがて春も近い物の氣配です。
「親分。仲吉は許されるんですか、本當に」
「本當とも」
「變だね、少し」
「何が變なんだ」
平次とガラツ八は、三村屋の燒跡へ來て、板圍ひの中をブラブラ歩き乍ら、その日も證據あさりに夢中でした。
「だつて親分。あの日、仲吉が火放け道具を見つけて、あわてゝ燒いたぢやありませんか」
ガラツ八の腑に落ちないのは、その點だつたのです。
「親父の安右衞門は、三村屋をうんと怨んでるから、仲吉はてつきり、親父の仕業だと思つたんだよ。松や、綿や、油にも見覺えがあるやうな氣がしたんだ」
「成程ね。――ところで、親分は三村屋の
ガラツ八の疑ひは段々筋立つて行きます。
「俺もそれを考へてゐるよ。――大酒飮みの女房か何か、酒屋をうんと怨んで、そんな事をやらないものでもあるまい」
平次の想像は飛躍します。
「酒の仕入で、問屋筋の廻し者が、そんな惡戯をすることはないでせうか」
ガラツ八の頭のよさ。
「そいつは素敵だ。――念の爲に、三軒の酒屋が、どんな酒を入れてゐたか、一應聽いて來るが宜い」
「おだてちやいけません」
「おだてやしないよ。それ位氣が廻りや、八五郎も大したものだ」
「へエ――」
ガラツ八は
「大黒屋と小熊屋と三村屋と同じ人間が火を放けたなら、こいつは氣違ひでなきや、酒屋に怨みのある奴だ。――きつと近いうちに四軒目へ放けるに違ひない」
「へエ物騷だね。親分」
「それとも、大黒屋と小熊屋の
「へエ――」
「手
平次はさう言ひ乍ら、ヒヨイと
「おや?」
と、ガラツ八。
「シツ。――立ち聽きしてゐる奴があるんだ。
「誰でせう。親分」
「恐ろしい相手だ。何をするか判らない野郎だ。氣を付けろ、八」
二人は馴れた調子で、半分は眼配せですませ乍ら、斯う囁やきました。
平次とガラツ八はその夜のうちに、徹底的な調べにかゝりました。
第一に伊助と文治と周助が、八日と十三日と十八日の夜、何處で宵のうちから
三度目の火事があつてから、五日も經つたのですから、これ位の用意をされても、何うすることも出來ません。それに、時計もラヂオもない世の中で、半刻(一時間)や四半刻(三十分)の喰ひ違ひは、どうにでも
鎌倉町から濱町や松永町まで行つて、適當な作業をするにしても四
「こいつはいけない」
平次の
「三村屋の家に居る者が、外から雨戸を釘付けには出來ないぢやありませんか。伊助と文治は火は放けられませんぜ。親分」
ガラツ八の近頃の理窟強さ。
「裏から出て雨戸へ釘を差すなり、心張をするなりした上、先づ店口へ火をつけて、それから元の裏口へ廻つて、其處へも火を放つて家の中へ入つたのさ」
「成程ね」
「店口には雜物は少ないが、裏は炭も薪もうんとある上、
「へエ――」
さう言はれると一言もありません。
「何しろ早く擧げて、皆なを安心さしてやりたいネ。今日も燒け死んだ竹松の母親がやつて來て、泣き乍ら伜の敵を討つて下さいつて頼んで行つたよ」
二人はそんな話をし乍ら、今度は三村屋の立退き所へ行つて、伊助と文治の荷物――ほんの小風呂敷一つの小さい荷物を調べた上、家主の太七の家へ行つて、周助の持物を見せて貰ひました。
番頭の伊助は、思ひの外溜め込んで、諸方へ小金を貸した證文をうんと持つて居たのは豫想外でしたが、その外には、文治が、主人の娘のお町へ宛てゝ、思ひの丈けをクドクドと書いた『出さない戀文』を持つて居る外に、何の變つたこともありません。
周助は、千兩箱持參の
その手廻りの道具は、男の癖にお
もう一つ。
「解つたツ」
平次はいきなり飛上がりました。
その晩、沈み返つて歸つて來て、お靜やガラツ八ともあまり口も利かずに、煙草ばかり吸つて居た平次ですが、やがて
「親分、何が解つたんで――」
見上げたガラツ八の顏の長さ。
「何も彼も解つたよ。こんな詰らない事に、今まで氣がつかないなんて、何と言ふドヂだらう」
「へエ――」
ガラツ八は自分が叱られて居るやうな心持です。
「八、一緒に行かうか」
「何處へ行くんで、親分。もう
ガラツ八は少し睡さうでした。
「先刻、三村屋から使の者が、小僧の初七日だからつて、お菓子と酒を持つて來たらう」
「えゝ」
お靜は顏を擧げました。何時までも若くて美しい女房振りです。
「それが
平次の話は奇つ怪です。
「あの使の小僧がそんな惡者ですかい、親分」
「小僧ぢやない。小僧の
「それが何うしたんで」
と、ガラツ八。
「何でも宜いから、面白いものが見たかつたら、一緒に來るが宜い」
「へエ、行きますよ」
「支度をしろ、――少し
二人はそゝくさと支度をすると、お靜と下女を殘して、サツと闇の街へ飛出しました。
「何處へ行くんで」
ガラツ八はまだウロウロして居ります。
「シツ」
二人はもう三河町へ入つて居りました。
「おや、市五郎の家へ――」
「默つて居ろ。――間に合へば宜いが」
平次の調子には、何とも言へない不安があります。
「何の間に合ふんで、親分」
「間に合はなきや、もう一軒酒屋が燒ける」
「へエツ」
ガラツ八には、謎は何處までも謎のまゝです。
「シツ」
丁度
「――」
平次は、飛出さうとするガラツ八を、どんなに一生懸命押へ付けたことでせう。
やがて黒い影は、市五郎の裏の納屋へ、羽目板の破れから手を入れて、何とも知れぬものを取出すと、恐ろしい早さで、スタスタと新石町の方へ飛んで行くのです。
「八、
二人は追跡のあらゆる祕術を盡しました。
やがて黒い影は、路地の中へスルスルと消え込みました。
「俺は此處に居る。
「――」
八五郎はこんな事には馴れて居りました。事態容易ならずと見ると、日頃の
しばらく時が經ちました。待つてゐるものには、二刻三刻のやうに思ひましたが、實は、ほんの、煙草二三服の暇だつたでせう。
ポ――ツと路地の中を染める火。
四軒目の酒屋、岸半助の
「御用ツ」
錢形平次は飛込みました。が、曲者は早くも身を
「野郎ツ。待つて居たぞ」
其處には力自慢のガラツ八が、手を
「八、頼むぞ。俺は火を消す」
「合點だツ」
曲者と八五郎は四つに組んで、路地の中をコロコロと轉がつて居ります。
此騷ぎを聽いて、バタバタと戸の開く音。
× × ×
曲者は、家主の伜周助だつたのです。
番所へ送つた歸り、
「今度ばかりは解らない、繪解をして下さい、親分」
「何でもないよ。周助の家に、
平次の答の無造作さ。
「へエ――」
「どんな家だつて、綿の切つ端や、餘分の油や、焚きつけのないところがあるものか」
「成程ね」
「尤も、あの
「その代り、あんまり早く
と、ガラツ八。
「それも、さうだな」
「何だつて酒屋ばかり選つて火を放けたんでせう」
「世間の眼を
「それにしても無法ぢやありませんか」
「あれは並の人間ぢやないよ。尤も、始めの一軒は試して見る氣だつたんだ。同じやうな店造りの、炭や薪のある家へやつて見たが、うまく行かなかつた。大黒屋の
「――」
「最初は三村屋を皆殺しにする積りだつたらう。が途中から氣が變つて、お町を助けて、命の親になつてやらうと思つたに違ひない。其邊は正氣だね――放火道具といふものは、不思議に大抵は燒け殘るものだ。お町を助けて『命の親』扱ひにされた周助は、夢中になつてそれに氣がつかなかつた――其處へ仲吉がやつて來て、あれを拾つたのさ」
「三軒に
「外から雨戸を釘付けにして、二ヶ所に火を放けてるぢやないか」
「へエ――」
ガラツ八はすつかり恐れ入つてしまひました。
「燒跡で二人の話を立聽きしたのは周助さ。自分の身が段々危ふくなつたのと、――お前が『
「太い野郎だね、親分」
「一寸類のない惡黨だよ。
「――」
「だがな八、イヤなことばかりぢやないよ。お蔭で千兩箱の化物のやうな聟が引つ込んで、仲吉とお町は一緒になれるし、三十年來の市五郎と安右衞門の仲違ひも、此邊で幕だらう。――斯うなると、貧乏も惡くないと思ふだらうよ」
惡者一人