錢形平次捕物控

くるひ咲

野村胡堂





 相變らず捕物の名人の錢形平次が大縮尻おほしくじりをやつて笹野新三郎に褒められた話。
 その發端ほつたんは世にも恐ろしい『疊屋殺し』でした。
「た、大變ツ」
 麹町四丁目、疊屋彌助のところに居る職人の勝藏が、裏口から調子つぱづれな聲を出します。
「何だ、又調練場てうれんばから小蛇でも這出はひだして來たのかい」
 と、その頃はぜいの一つにされた、猿屋の房楊枝ふさやうじを横くはへにして、彌助の息子の駒次郎が、縁側へ顏を出しました。
「それどころぢやねえ」
「町内中の騷ぎになるから、少し靜かにしてくれ。麹町へ巨蠎うはばみなんか出つこはねえ」
「今度のは巨蠎ぢやねえ、丈吉の野郎が井戸で死んで居るんだ」
「何だと」
 駒次郎は、跣足はだしで飛降りました。其處から木戸を押すと直ぐ釣瓶つるべ井戸で、その二間ばかり向うは、隣の屋敷と隔てた長い黒板塀になつて居ります。
 丈吉の死體は、井戸端にくみ上げた釣瓶に手を掛けて、其儘崩折れたなりに冷たくなつて居たのでした。
 抱き起して見ると、右の眼へ深々と突立つたのは、商賣物の磨き拔いた疊針たゝみばり
「あツ」
 駒次郎も驚いて手を離しました。
「ね、兄哥、丈吉の野郎が、何だつて疊針を眼に突つ立てたんでせう」
「そんな事は解るものか。親父へさう言つてくれ」
「親方はまだ寢て居ますぜ」
「そんな事に遠慮をする奴があるものか」
 勝藏が主人の彌助を起して來ると、井戸端の騷ぎは際限もなく大きくなつて行きます。
 變死の屆出があると、町役人が立會の上、四谷の御用聞で朱房しゆぶさの源吉といふ顏の良いのが、一應見に來ましたが、裏木戸やお勝手口の締りは嚴重な上、塀の上を越した跡もないので、外から曲者が入つた樣子は絶對にないと言ふ見込みでした。
 それに、丈吉はなか/\の道樂者で諸方に不義理の借金もあり、年中馬鹿々々しい女出入で惱まされて居たので、十人が十人、自害じがいを疑ふ者はありません。
「持ち合せた疊針で眼を突いて、井戸へ飛込む積りだつたんだね。ところが此處まで來ると力が脱けて井戸へ飛込む勢ひもなくなつた――」
 朱房の源吉は獨り言を言ひ乍ら、尤もらしく其邊を見廻したりしました。
「親分の前だが、こいつは自害ぢやありませんぜ」
 不意に横合から、變な口を利く奴があります。
「何だと?」
 振り返ると其處に立つて居るのは、錢形の平次の子分で、お馴染なじみのガラツ八、長い顏を一倍長くして、源吉の後ろから、肩へ首を載つけるやうに覗いて居るのでした。
「ね、朱房の親分、井戸へ飛込んで死ぬ氣なら、何も痛い思ひをして、眼なんか突かなくたつて宜いでせう」
「何?」
「それに、商賣柄、繩にも庖丁はうちやうにも不自由があるわけはねえ」
 八五郎は少し調子に乘りました。さすがに死體には手は着けませんが、遠方からくちを尖らせ、平次仕込の頭の良いところをチヨツピリ聽かせます。
「手前は何だ」
「へエ――」
「何處からもぐつて來あがつた」
 源吉の調子は壓倒的でした。
「神田の平次親分のところに居る八五郎で、へエ――」
「ガラツ八は名乘らなくたつて解つて居るよ、その長い頤が物を言はア、看板にいつはりのねえ面だ」
「へエ――」
「俺が訊くのは、何處から何の用事で來たか――てんだよ。此處へそんな頤を突つ込むのは繩張り違げえだらう」
「朱房の親分、決してそんな譯ぢやありません。平川天神樣へ朝詣りをして、三丁目へ通りかゝると町内中の噂だ。知らん振りもなるまいと思ふから、ちよいと顏を出した迄で」
「面だけで澤山だ。口なんか出して貰ひたくねえ」
「相濟みませんが、親分、どう見たつてこれは自害ぢやありません。自分の手で、眼玉へ疊針を三寸も打ち込めるもんぢやありませんぜ」
 ガラツ八も容易に引下がりません。
「目玉へ疊針を當てゝ、井戸端へ頭を叩きつけたらどうだ」
「それなら井戸端へ血がつく筈ぢやありませんか」
「血なんか幾らも出ちや居ないよ」
「もう一度調べ直して下さい。外から曲者が入つたんでなきア、家の中の者でせう。其男は金廻りも惡いが、女癖をんなぐせが惡かつたつて言ひますから」
「さア、もう歸つて貰はうか、ガラツ八親分なんざ、物を言ふだけ恥をくぜ、――昨夜はあの良い月だ。井戸端で立ち廻りをやるのを、家の者が知らずに居る筈もなし、第一、人間の眼は八五郎兄哥の前だが、何處かの岡つ引きよりは、餘つ程敏捷すばしこいぜ。疊針を突つ立てられる迄、開けつ放しになつちや居ねえ、またゝきをするとか、顏を反けるとか、何とかするよ」
「――」
「疊針は眞直ぐに突つ立つて居るし、頬にも瞼にも傷はねえ」
 源吉はしたり顏でした。死體になつた丈吉は、衣紋えもんの崩れもなく、瞳へ眞つ直ぐに立つた疊針を見ると、爭ひがあつたとは思ひも寄らなかつたのです。
「――」
 ガラツ八はごくり固唾かたづを呑みました。丈吉が氣でも違つて居ない限り、丈夫な繩も、鋭利えいりな庖丁も捨てゝ、一番無氣味な、一番不確實な、疊針で死ぬ氣になつた心持が呑込めなかつたのです。
「神田の八五郎兄哥は、此家の中に下手人が居る見込だとよ、皆んな顏を並べて、人相でも見せてやんな、――自棄やけに良い男が揃つて居るぢやないか。女出入なら駒次郎兄哥などが早速やられる口だぜ。金が欲しきア、彌助親方だ、――何だつて又選りに選つて、醜男ぶをとこで空つ尻で、取柄も意氣地もねえ丈吉などの眼玉を覗つたんだ」
 朱房の源吉は、井戸端に集つた多勢の顏を見渡し乍ら、宜い心持さうにこんな事を言ひました。
 主人の彌助は五十を越した年配、そのせがれ、駒次郎は取つて二十三、これは山の手の娘に大騷ぎされて居る男前、職人の勝藏も、二十五六の苦み走つた男、源吉が言ふのは、滿更出鱈目でたらめではなかつたのです。
「やい、八兄哥、歸つたら平次へさう言ひな、近頃少し評判が宜いやうだが、あんまり出しや張るとろくな事にあるめえ――とな」
 シヨンボリ歸つて行くガラツ八の後姿へ、源吉は思ふ存分の惡罵あくばを浴びせました。平次には餘つ程怨みがある樣子です。


「親分、斯う言ふわけだ、あつしは何と言はれたつて構はねえが、親分の事まであんなに言はれちや我慢がならねえ。お願だから四丁目まで行つてやつておくんなさい。源吉の鼻をあかさなきやアこの稼業は今日限りしだ。足を洗つて紙屑拾ひでも何でもやりますよ」
 ガラツ八の折入つた樣子は、世にも不思議な痛々しさでした。浴衣ゆかたの尻を端折つて、朝顏の鉢の世話を燒いて居た平次も、思はず眞劍な顏を擧げます。
「大層腹を立てたんだな八、手前にも似合はない」
「腹も立てますよ、親分」
「まア宜い、俺にまで喰つてかゝられちやかなはない、ちよつと行つて見るだけでも、見てやらうか」
 と平次。
「親分、本當に行つて下さるか」
「八の顏だつて汚しつ放しにはなるめえ、それに、話の樣子ぢや、俺が考へても自害ぢやねえ」
「有難てえ、それでこそ錢形の親分だ」
「馬鹿野郎、おだてに乘つて出かけるわけぢやねえぞ」
「へツ、へツ」
 ガラツ八は自分の額をピシヤピシヤ叩いて居りました。この心服し切つて居る親分から『馬鹿野郎』と叱られる度に、嬉しくて嬉しくてたまらない樣子です。
 四丁目の疊屋へ行つたのは巳刻よつ少し過ぎ、朱房の源吉は引揚げましたが、幸ひ丈吉の死體は、むしろを掛けたまゝまだ其儘にしてありました。
「フーム」
 筵を除つて一目、平次は呻りました。忙しく四方あたりの樣子を見廻して、もう一度ガラツ八の顏にかへつた瞳には、『――よく疑つた――』と言ふやうな色がチラリと見えるのでした。
「ね、親分、誰かにばらされたに違ひないでせう」
 少しばかりガラツ八の鼻はうごめきます。
「そんな事が解るものか――これだけ力任せに疊針を刺すうち、凝つとして居るのは可笑しいな」
「眠つて居るところをやられたら?」
 ガラツ八、今度は少し不安になりました。
「井戸端で眼を開いて寢て居る奴はない」
醉拂よつぱらつて居たらどうです」
 とガラツ八。
「丈吉は生れ付きの下戸で、樽柿たるがきを食つても赤くなる野郎でしたよ」
 主人の彌助は後ろから口を出しました。折角朱房の源吉が自害として運んで居るのを、變な場違ひ野郎が飛出して、『殺し』にしようといふ態度がしやくにさはつてたまらなかつたのです。
「親分、向うの二階から手裏劍を飛ばしたらどんなものでせう」
 ガラツ八はそつと囁きます。疊屋の裏は黒板塀を隔てゝ、しもたやが二軒、一軒は平家の女世帶、一軒は裕福な浪人者の住居、こちらの方には、小さい二階があつたのです。
「少し遠いな、――それに、疊針は手裏劍には少し輕いからあの二階から打つたんでは、頬に傷を付ける位が精々だ。眼玉を狙つて三寸も打ち込むわけには行くまい」
「――」
 ガラツ八は默つて了ひました。折角神田から引張り出して來た親分の平次も、これでは源吉と大した變りはありません。彌助も、その伜の駒次郎も、職人の勝藏も口には出しませんが――好い氣味だ――と言つた顏で、ガラツ八の照れ臭い樣子を眺めて居ります。
「お隣はどんな人が住んで居なさるんで?」
 平次は改めて彌助に訊きました。
「右の方は下町の物持のお孃さんが一人、何でも妾腹せうふくで御本宅がやかましいとかで、下女が二人附いて暢氣に暮して居ますよ、お名前はお町さん――」
「左の方は」
「御浪人ですが、これは大藩の御留守居をなすつた方で、お金がうんとあります。町内の質屋に資本もとでを廻して、お子樣と二人暮し、――お子樣と言つたところで、もう二十歳はたち近いお孃さんで、これはお綺麗な方です」
 彌助は揉手をし乍ら、自分のことのやうにニコニコして居ります。餘程浪人と懇意こんいにして居る樣子です。
「お年は?」
やく少し過ぎでせうか、御名前は大里玄十郎樣、立派な方で御座います」


 平次は一應現場を調べた上、町内の質屋へ行つて見ました。
 大里玄十郎の暮し向の事を訊くと疊屋の主人が言つたのは、まるつ切り大嘘おほうそ、質屋へ資本もとでを廻して居るどころか、――その日の物には困らない迄も、暮しが贅澤なのと、娘のお才が派手好みなので、内々、腰の物までも曲げることがあると言ふ話――
「近頃疊屋とすつかり眤懇ぢつこんになつたやうですから、いづれあの娘を、駒次郎へ押し付ける積りでせう。此節の武家は、そんな事を何んとも思つちや居ませんよ。――それにあの疊屋は一丁目から御見附まで、表通には、及ぶ者もない物持ですからね」
 そつと、こんな立入つたことまで教へてくれました。
 平次は其足で直ぐ大里玄十郎の格子の外に立ちました。
「何? 錢形の平次が參つた、丁度宜い鹽梅あんばいだ、此方にも言ひたいことがある」
 一刀をひつさげて、上りかまちにヌツと突つ立つたのは、青髯あをひげの跡凄まじい中年の浪人です。
「恐れ入りますが、一寸お孃樣に御目に掛りたう御座いますが」
 慇懃いんぎんな平次を尻目に見て、
「馬鹿奴ツ、手先御用聞に口をきくやうな娘は持たぬぞ――此家の二階から手裏劍しゆりけんを打つて丈吉を殺した――などと言つた奴があるさうだが、飛んでもない野郎だ。十間以上離れたところから疊針を飛ばして、人の命をとるほどの腕があれば、浪人などはして居ないぞ」
「恐れ入ります」
「恐れ入つたら歸れ/\、疊屋の職人を殺すほどうらみも理由もある拙者ではない。此上用事があるならせめて町方の役人を伴れて來い、馬鹿々々しい」
 いやもう滅茶々々めちや/\です。
「飛んだお邪魔をいたしました、御免」
 平次とガラツ八はキリキリ舞をして引下がりました。何心なく振り返ると、袖垣の上から一と目に見える縁側に、二十歳はたちばかりの武家風とも町家風とも付かぬ娘が立つて、二人の後ろ姿を見送つて居るのと、顏を見合せて了ひました。
 脊の高い、少し骨張つた娘ですが、何となく艶めかしい十人並に優れた美しさです。
「親分、濟まねえ、手裏劍は間違ひだつたネ」
 追ひすがるやうにガラツ八。
最初はなつから俺はそんな事を考へちや居ねえよ」
「ぢや矢張り自分の眼へ針を刺して井戸端へ頭を打つ付けたんで」
 とガラツ八。
「そんな事が出來る藝當かどうか、やつて見な」
「へツ」
 そんな事を言ひ乍ら、二人はもう一軒の隣、お町といふ娘の住んで居る家の格子の外に立つて居りました。
「お町さんは居なさるかい。神田の平次だが、ちよいと逢つて下さい」
「へエ――」
 年頃の下女は奧へ飛んで行きました。隣に騷ぎのあつたことは知つて居る筈ですから、神田の平次といふ言葉がピンと來たのでせう。
 暫くすると、
「あの、濟みませんが、お孃さんはやすんで居ります、え、お風邪かぜで御座います。どんな御用でせう?」
 先刻の下女が物におびえたやうに疊の上へ手を突いて居るのでした。
「風邪? それはいけないな、夏の風邪は拔け難いから、用心なさるがいゝ、何時から寢なすつたんだ」
 平次の調子は至つて平坦でした。
「昨夜宵のうちからお加減が惡さうでしたが、今朝はもう起きていらつしやいません」
「さうかい」
「あの、御用は?」
「なアに、大した事ではないが、――隣の疊屋の職人が死んだのをお聞きなすつたらう」
「へエ」
「あれは、人に殺されたんだと思ふんだ。心當りはあるまいね」
「いえ、何にも」
「あの丈吉とか言ふ男は時々此處へ來ることがあつたかい」
「一度もいらつしやいません。私などはお顏もろくに知らない位で――」
「駒次郎兄哥は時々來るだらうね」
「へエ――」
 さう言つて下女はハツと袖口で口をおほひましたが續けて、
「でも、でもあの、近頃はさつぱりいらつしやいません」
「さうだらう、大里樣のお才さんと近いうちに祝言するさうだから」
「――」
 妙に探り合ひのやうな、くすぐつたい空氣です。
「お孃さんにはお目に掛かるまでもないんだが、その代りあの塀のあたりを見せて貰ひたいよ、丈吉殺しの曲者が、あの邊から塀を越して行つたかも知れないんでネ」
「――」
 下女が返事をする前に、ガラツ八を目でさしまねいた平次は、疊屋との境になつて居る黒板塀の方へ近づきました。
 南を塞がれて居るので、草花の育ちさうもない塀の下は、ジメジメしたこけの上に、女下駄の跡だけが幾つかほのかに讀めます。
「親分、男なんざ入つた樣子はありませんね。それに此塀と來た日にや、まさか人間は潜られないが、バツタ、カマキリ、蝶々、蜻蛉とんぼは潜り放題だ」
 全くその通りでした。疊屋の方こそ、黒々と塗つて、大した不體裁もありませんが、此方の方は見る蔭もなく荒れて、支への柱は所々ゆがんだまゝ、さらされきつた板は、灰色に腐食ふしよくして、所々に節穴さへ開いて居ります。
 平次とガラツ八が板塀を離れて元の格子戸の前へ來ると、青い顏をした娘が少し取り亂した姿で目禮をして居りました。
「お町さんでせうね、飛んだお邪魔をしました」
「どういたしまして」
「氣分はどうです」
 平次は格子の中へ入つて、言葉はひどく丁寧ですが、いつもに似ぬ圖々しい態度で上がりかまちに腰を下ろしました。
「有難う御座います、大したことは御座いません」
 何といふ痛々しい感じのする娘でせう。白粉つ氣のない初々しさも充分に美しいのですが、可哀相に眉から左の耳へかけて火の燃えるやうな、赤痣あかあざです。
「そんな事で變な氣を起しちやならねえ」
 平次はつかぬ事を言つて、この娘の宿命的なみにくい半面を見詰めました。右半面がお才などは足許にも寄付けぬほど美しいのに、これは又、何といふ造化の惡戯でせう。血と肉で出來た大傑作だいけつさくへ何か氣に染まぬ事があつて、赤い繪の具皿を叩きつけたと言つた顏です。
「ところで、女世帶では何彼と物騷だらう。隣の疊屋を見張らせ乍ら、極く要心の良い男を一人置いて行くが、泊めて下さるでせうね」
「えツ」
「八、手前てめえ今晩から、當分此處に泊つて居るんだよ、用心棒に」
「親分、あつしが?」
「さうよ、若い女の中へ轉がして置くには、手前のやうな用心の好い男は滅多めつたにねえ」
「チエツ、情けねえことになりやがつたな」
「頼んだよ、八」
 平次はろくに返事も聽かず、其儘神田へ引揚げました。
「弱つたなア、何うも、驚いたなア」
 後に殘された八五郎の弱りやうと言ふものはありません。
 若い女二人の白い眼に射竦いすくめられて、何時までもぢ/\して居ることでせう。


「親分、大變な事になつたぜ」
「又大變かい、八の大變に驚いて居た日にや、御用聞が勤まらねえ」
 平次は縁側で相變らず朝顏の世話に餘念もありません。
「立派な御用聞が朝顏道樂あさがほどうらくを始めるやうぢや――」
「何だと、八」
「へツ、へツ、天下は泰平だつて話で」
「馬鹿にしちやいけねえ、――ところでその大變といふのは何だ」
「また一人死にましたぜ」
「何? 到頭お町が死んだのか」
 平次は朝顏を投り出すやうに立上がりました。
「お町――とどうして解るんで」
 ガラツ八の鼻はキナ臭く蠢めきます。
「俺はそれが危いと思つたからお前を泊めたんだ、何だつて夜つぴて見張つて居ねえ」
「それは無理だよ親分、さう言つてくれさへすれア、あの娘の首つ玉へでもかじりついて居たのに、あつしは外から來る野郎ばかり見張つて居たんだ」
 ガラツ八は叱られ乍ら甚だ不服さうです。
「兎に角行つて見よう、もうこれつ切りだらうと思ふが、一應見て置かないと、後々のことが安心ならねえ」
 二人は直ぐ良飛出しました。
 麹町四丁目の、お町の家へ行つて見ると、隣の疊屋の井戸から引揚げて來たばかりのお町の死體は乾いた物に着換させて、二人の下女と、それから、日本橋から驅けつけたといふ、お町の姉といふのが、線香を焚いたり、かねを叩いたり、泣き濡れて拜んでばかり居りました。
「疊屋の井戸へ飛込んだのかい、成程此方の方が少し深い」
 平次は今更そんな事まで感心して居ります。
「錢形の、御苦勞だね」
 疊屋からノソリと出て來たのは朱房しゆぶさの源吉、朝つからアルコールが胃袋ゐぶくろに入つたらしく、赤い顏と据つた眼が、何となく挑戰的です。
「朱房の兄哥、八五郎の奴が飛んだお節介をして濟まなかつたねえ、勘辨してくんな」
 平次は微笑をさへ浮かべて、わだかまりのない調子で斯う言ひました。
「なアに、自害が自害と解りさへすれアそれでいゝのさ。人殺しの下手人が解らなかつたとなると、此邊を繩張にして居る、この源吉の顏にかゝはると言ふものだ、――なア八兄哥、今度はお町は井戸へ投げ込まれたに違げえねえなんて言はないことだぜ」
「そんな事を言やしません」
 八五郎は盆のくぼのあたりを掻いて居ります。
「丈吉とお町は言ひ交した仲さ、――丈吉が借金だらけで自害したんで、お町がその後を追ふ積りでわざ/\此井戸までやつて來て身を投げた――とね、本阿彌ほんあみが夫婦づれで來ても、この鑑定かんていに間違ひはあるめえ」
 朱房の源吉は本當にしたり顏でした。
 お町の家へ引返して來ると、姉のお勢はすつかり心を取直したものか、薄化粧までして平次とガラツ八を迎へました。
 二十七八――どうかしたらもう少し若いでせうが、兎に角、素晴らしい肉體を持つた女で、その妖艶えうえんな美しさは興奮した後だけに、却つて眼の覺めるやうです。若い雌鹿めじかのやうに均勢の取れた四肢てあし、骨細のくせによく、あぶらの乘つた皮膚の光澤つやなどは、桃色眞珠しんじゆを見るやうで、側へ寄つただけで、一種異樣な香氣を發散して、誰でも醉はせずには措かないと言つた不思議な種類の女だつたのです。
「お、人形町の師匠ぢやないか」
「あら、錢形の親分」
 取繕とりつくろつたところを見ると、紛れもありません。それは人形町で踊の師匠をして居る、有名過ぎるほど有名な女だつたのです。
「お町さんの姉といふのは、師匠だつたのかい」
「え、あのも本當に可哀想な事をしました。思ひ詰めた事があつたら、それと私に相談してくれゝばいゝものを」
 お勢は新しく湧いて來る涙をどうすることも出來ずに、身をひねつて、袖口を顏に押當てました。痛ましくもふるへる肩のあたり、何と言ふ艶めかしくも美しい怨みの姿態ポーズでせう。
「氣の毒だつたネ、そんな事もありはしないかと思つて、八五郎を側へ附けて置いたんだが――」
「さうですつてね、本當に親分さんの思ひやりは、どんなに有難いと思つたか――でも、死ぬ氣になつた者は、どんなすきでも見つけます。八さんのせゐにしちやお氣の毒ぢや御座いませんか」
「まア/\、あんまり泣くのも妹さんの爲に良いことぢやあるまい、あきらめろと言つては薄情だが」
「有難う御座います、親分さん」
 平次は宜い加減にして神田へ引揚げました。事件はこれで何も彼も大團圓になつたやうですが、平次の心の中にはまだ/\濟まない事ばかりです。
「八、氣の毒だが、これから三日に一度位づつ四丁目へ行つて見てくれ」
「四丁目?」
「麹町四丁目だよ。疊屋と大里とかいふ浪人の家と、それからお町の家へ當分姉のお勢が住む事になつたさうだから、ついでにそれも見廻るんだ」
「まだあの邊に何かあるんですかい、親分」
「これから本當の芝居が始まるだらうよ、見て居るがいゝ」
 平次は、何やら呑込顏にうなづきます。


 それから十五六日、平次は外の大きな事件に首を突つ込んで、早出の遲歸おそがへりを續けた爲に、ガラツ八に逢ふ機會もありませんでした。
「親分、驚いたぜ、全く」
 ガラツ八は到頭平次を捕まへました。
 平手で長い顎から顏を撫でて、恐ろしく擽つたい顏をして見せるのです。
「何に驚いたんだ、――又四丁目で誰か死んだのかい」
「其處までは行かねえ、が、あのお勢が何うかしたんだ」
「――」
「妹の家へ入り込んだは宜いが、近頃は恐ろしく若造りで妹の三十五日も濟まない内から、町内の若い者を集めて、浮かれ切つて居るんだ」
「フーム」
「日髮日化粧で、何う見たつて二十二三だ。大變な化物だぜ、あの女は」
「それが何うしたんだ、お前が口説くどかれでもしたと言ふのか」
「へツ、口説きも何うもしねえが、あんまり色つぽいんで、氣味が惡くて、長居は出來ねえ」
「大層氣が弱いぢやないか」
だまされると思つて、親分も一度行つて見なさるが宜い、請合うけあひ二三日はボーツとするから」
「それは面白からう、見ぬは末代まつだいの恥だ、直ぐ行くとしようか」
「お靜さんが氣を惡くしなきア宜いが」
「何をつまらねえ」
 二人はもう日が暮れたといふのに、麹町四丁目までやつて行きました。
「お勢さん、親分を伴れて來たぜ」
 案内役のガラツ八は、あごから手を外して、格子を開けます。
「あの親分、其後はすつかり御見限りねえ、でもまアよく」
 と言つた調子、荒い浴衣の袖をかへして、ニツコリすると、其邊中へんぢう桃色のこびが撒き散らされて、何も彼も匂ひさうです。
「これは驚いた」
「あら、何を驚いてらつしやるの親分、丁度淋しがつて居るところよ、ゆつくりなすつても宜いでせう」
 手を取つていきなり奧へ。
 人形町に居る時は、色白の素顏を自慢したお勢、どう踏んでも三十がらみに見えた大年増でしたが、厚化粧に笹紅さゝべに極彩色ごくさいしきをして、精一杯の媚と、踊できたへた若々しい身のこなしを見ると二十二三より上ではありません。
 何方が本當のお勢なのか、斯うなると平次も見當がつかなくなる位。
「驚いたね、どうも、お勢さんがそんなに若いとは思はなかつたよ」
 照れ隱しに煙草ばかりくゆらして居ります。
 それから酒。
 十重二十重に投げかける妖しの網を切り破るやうに、平次が神田へ歸つて來たのは、もう夜中過ぎでした。
 それからは平次の意氣込も違ひ、ガラツ八の報告も急に活氣付きました。
 疊屋の勝藏がせつせとお隣へ通ひ始めた、と言ふ報告があつてから十日ばかり經つと、今度は疊屋の息子の駒次郎が急にお勢に熱くなり出して、町内の狼連おほかみれんも、好い男の勝藏も、少し顏負けがして居ると言つて來ました。
 お勢の妖しい魅力みりよくは、間もなく麹町中の若い者を氣違ひにするのではあるまいかと思ふやうでした。
 猛烈な達引と鞘當さやあての中に、駒次郎が次第に頭を擡げ、町内の若い衆も、勝藏も排斥して、お勢の愛を一人占にして行く樣子でした。
 油のやうに行渡る年増の愛情は、駒次郎をすつかり夢中にさして、もう大里玄十郎の娘お才などの事を考へて居る餘裕もなくなつてしまつた樣子です。
「何かきつと起りますぜ」
 ガラツ八がさう言つて、額を叩いたり、手を揉んだりしたのは、お町が死んで四十日目あたりのことです。


「いよ/\大變だ、親分」
 ガラツ八が飛込んで來たのは、もう日射しの秋らしくなつて、縁側の朝顏も朝々の美しいよそほひが衰へかけた時分の事でした。
「又大變か、今度は誰の番だ」
「疊屋の駒次郎がられましたぜ」
「今度は自害ぢやあるまい」
「疊庖丁で、首を右から後ろへ半分も切るなんてことは、朱房の親分が見たつて自害にはならねえ」
「よしツ、行つて見よう」
 平次は直ぐ飛んで行きました。
 疊屋の裏木戸を入つて、むらがる彌次馬を掻き分けるやうに井戸端へ近づくと、井戸と物置の間の朝顏の垣根の中に、疊屋の息子の駒次郎が、あけに染んで倒れて居るのでした。
「錢形の兄哥、御苦勞だね」
「おや朱房の兄哥」
下手人げしゆにんは擧つたよ」
「へエ――」
「職人の勝藏さ、隣へ引越して來た踊の師匠を張合つて、主人あるじの息子をばらしたんだ」
 源吉は大分好い心持さうです。
「本人は口を割つたらうか」
「知らぬ存ぜぬだ、いづれは少し痛めなきアなるまい」
「證據は?」
「何んにもねえ――と言ひたいところだが、あり過ぎて困つて居るんだ。刄物は勝藏の使つて居る疊庖丁だ、――尤も本人は井戸端へ忘れて置いたつていふが、良い職人が道具を井戸端へ忘れる筈はねえ、それに、昨夜駒次郎が外へ出たがるのを、ひどく氣にして居たさうだ」
 源吉のいふ證據はあまりに通り一遍のものです。
「駒次郎を怨む者は、まだ外にもある筈だ。怨みだけで言へば、町内の若い者が半分ほどは下手人の疑ひがある。それから、大きい聲ぢやいへないが、娘を捨てられて怒つて居る浪人者も居るぜ」
「大里玄十郎か」
「まアね」
「そんな事を言たつて、勝藏が下手人でないとは決らないぜ、俺は兎も角八丁堀へ行つて來る。町内の若い者なり、浪人なりをしばるがよからうよ」
 朱房の源吉は、いや味を言ひ乍ら行つて了ひました。
 町内の若い者、半分は下手人の疑ひ――と聞いておびえたのか、路地を埋めた彌次馬は、一人去り二人歸り、間もなく大分消えて了ひます。
「親分、本當に勝藏ぢやありませんか」
 ガラツ八は少し心配さうです。
「解らないよ、だがね、八、駒次郎の傷は、喉笛のどぶえの右側から始まつて、大して深くはないが、首を半分切り落すほど後ろへ長々と引いて居るぜ、正面から向つた相手が斯んな藝當が出來るかしら」
「斬つて下さいと首を突出したやうだ――つて親分は言ふんでせう」
「その通りだよ」
背後うしろから切つたとしたら」
「抱き付いて念入りに刄物を引かなきア、斯うは斬れない」
 平次の言ふことは大分變つて居りました。
「ぢや親分、何ういふことになるんで」
「まだ何にも解つちや居ない。が、疊庖丁のやうな短い物で、これだけ念入りに斬ると、下手人はうんと血を浴びたことだらうな」
「――」
「勝藏の持物を皆んな見せて貰つてくれ、血の付いたものが一つでもあれば下手人だ」
「へエ――」
 ガラツ八は飛んで行きましたが、間もなくつまゝれたやうな顏をして歸つて來ました。
「血なんか附いた物は一つもありません」
床下ゆかしたや天井裏や押入には」
「待つて下さい」
 ガラツ八はもう一度飛んで行きましたが、何處にも怪しい物は見付かりません。
「なきア宜い。住込の職人が、着物を一とそろひなくして、人に氣付かれない筈はない。矢張り勝藏ぢやなかつたんだらう、――念の爲に水を一と釣瓶つるべんで見ろ――井戸へ沈めた樣子もないだらう」
「――」
「ところで八、俺は近頃朝顏を咲かせて樂しんで居るが、自分で育てると、草花も、我が子のやうに可愛いものだ」
「――」
 平次が人殺しの現場で、いきなり朝顏の話を初めたのでガラツ八も呆氣あつけに取られて居ります。
「草花を可愛がる心持は、又格別だよ。自分で育てないのでも、折れたり、散らされたりすると、我慢が出來ない」
「――」
「駒次郎を殺した下手人は、朝顏の垣をけて大廻りして逃げて居る。こんな優しい人殺しは珍らしからう」
「――」
「荒つぽい男や、浪人者の仕業ぢやねえ」
「――」
「八、俺はもう下手人探しが厭になつたよ。こんな時は熱いお茶でも飮んで、休むんだね」
 平次はそんな事を言ひ乍ら、塀隣へいどなりのお勢の家へ引揚げました。


「まア、親分」
「お勢、これは何うした」
 家の中はガランとして、下女の姿も見えない上、昨日までは、あんなに厚化粧の若作りだつたお勢が、白粉も紅も洗ひ落して、元の素顏に、無造作な櫛卷くしまき、男物のやうな地味な單衣を着て居るのでした。
「引越しですよ、私は矢張り人形町の方が水に合ひさうで――」
「それも宜からう、――ところで、俺もつく/″\岡つ引が厭になつたよ」
「まア」
「氣の毒だがお茶でも貰はうか」
 平次は庭から縁側へ廻つて、青桐あをぎりの葉影の落ちるあたりへ腰を下ろすと、お勢はいそ/\と立つて澁茶を一杯、それに豆落雁まめらくがんを少しばかり添へて出しました。
「お勢、今日一日俺は岡つ引きぢやねえ、お前の昔馴染むかしなじみ――まア、兄貴か友達と思つて話してくれ」
「――」
 平次の言葉は急にしんみりしました。
「俺は、口幅つたいやうだが、此間からの不思議な事の經緯いきさつを、何も彼も知つて居るつもりだ。最初から話して見よう、――もし違つたところがあるならさう言つてくれ」
「――」
 お勢は首をうな垂れました。白粉つ氣がないと矢張り元の三十前後の大年増ですが、その物淋しい美しさは、極彩色ごくさいしきのお勢よりは却つて清らかで魅力的であります。
「駒次郎は、お前の妹のお町と言ひ交して居た。かなり深い仲だつたに相違ない、毎晩合圖をしては、あの塀をはさんで兩方から話したり、笑つたり、泣いたりして居たんだ――それが、大里玄十郎父娘が引越して來ると、駒次郎の心は急にお才の方へかたむいて了つた。父親の彌助も、武家の娘を疊屋の嫁にする積りですつかり夢中になつて、あの大里玄十郎が大法螺吹おほぼらふきの山師だとは氣がつかなかつたんだ」
「――」
「お町は毎晩合圖をしたが、駒次郎はもう塀の側へ來てはくれなかつた。で、到頭我慢がし切れなくなつて、切れてやるから、たつた一度だけ逢つてくれ――と言つてやつた」
「――」
「その手紙を見付けたのは丈吉だ。お町に氣があつたから、駒次郎のふりをして塀の向う側へやつて來て、駒次郎がするやうに、塀の穴へ眼を當てゝ見た。お町はその時駒次郎を殺して、自分も死ぬ氣だつたんだ、いつぞや駒次郎が自分の家へ忘れて行つた疊針たゝみばりを持出して塀の此方から、一思ひに眼を突いた」
「――」
「丈吉は聲を立てたかも知れないが、何分の深傷ふかでで、井戸端へ行くのが精々だつた。釣瓶つるべの水で眼を冷さうとしたが、急に力が拔けて井戸端に突つ伏して死んで了つた。眼を洗はなかつた證據には丈吉の右の眼には少しばかり墨が附いて居た、たつたそれだけの事で俺は何も彼も見破つたやうな氣がした」
「――」
 何といふ明智でせう。平次の言葉は、見て來たやうにはつきりして居ります。
「俺は大方察したがお町が殺したといふ證據しようこは一つもない、それに、男に捨てられたお町の心持がいぢらしかつた――萬一自害するやうな事があつてはならぬと思ひ、それとなくいましめた上、八五郎を附けて置いたが矢張りその晩身投をして了つた。可哀想だが、俺には救ひやうがなかつたのだよ」
「――」
「それから、お前が出て來た。妹の敵を討つ積りで、本心にもない厚化粧に浮身うきみをやつし、町内の若い者を集めて、駒次郎の氣を引いた、――浮氣な駒次郎はお才を振り捨てゝお前のところへも來たが、女郎蜘蛛ぢよらうぐもの網に掛つた蟲のやうに、どうすることも出來なくなつたのだ」
「――」
「物置の前で逢引をした晩、井戸端に勝藏が忘れて行つた庖丁を見ると、お前は急に駒次郎を殺す氣になつた。抱き付いて來るのを、自由にされるやうな振をして、背後から庖丁の手を廻して、喉から後ろへ存分に斬つた」
「――」
「朝顏の垣を踏み倒すのが可哀想になつて、お前は廻り道して此處へ逃げ歸り、血だらけになつた着物を始末し、白粉も紅も洗ひ落して、元のお勢になつた」
「――」
「どうだ、違つたところがあるか」
 平次の話はに入り細を穿うがちました。話り了つて顏を擧げると、お勢は三鉢四鉢大輪の朝顏を並べた縁に突つ伏して正體もなく泣いて居るのでした。
「親分、一々その通り、寸分の違ひもありません。さア、私を縛つて下さい」
「いや、縛るとはまだ言はない筈だ」
「けれど、これだけは御存じなかつたでせう。お町は私の娘――天にも地にも、たつた一人の生みの娘だつたんです」
「え、お前の娘、――年が近過ぎるやうだが」
「近いもんですか、お町は十八、私は三十四」
「三十四?」
「日本橋の大店おほだなの若旦那との間に、――私が十六の時生んだ娘でした。お店に置くのが面倒で、月々仕送つて頂いて此處に置きました。私の側へ置くと、筋の惡い狼達おほかみたちが集つて來て、ろくな事を教へないだらうと思つたのが却つて間違のもとだつたんです」
「それは――」
「娘のお町が死んだ時、私も死んで了ひたいと思ひましたが、身仕舞ひして鏡を見ると、まだまだ私には若さも綺麗さも殘つて居さうに思つたので、一と芝居打つて見る氣になりました。武家育ちの張子はりこ細工のやうな娘に負けようとは思ひません」
「――」
「私は勝ちました。土壇場どたんばですつぽかして、駒次郎に首でもくゝらせようと思つたのが、あんまり執拗しつこくからみ付かれて、ツイ庖丁を振り上げて了ひました。私は娘を騙した男に、どんな事があつても身は任されません」
 お勢はもう泣いては居ませんでした。眞直ぐに目を起すと、觀念も切つた殉教者じゆんけうしやのやうな清らかさが、その蒼白い顏を神々しくさへ見せるのでした。
「お勢、俺は今日一日岡つ引ぢやないと言つた筈だ。――駒次郎は鎌鼬かまいたちにやられて死んだんだよ。放つて置けば證據がないから。誰も氣がつく筈はない、勝藏は笹野の旦那にお願ひして、繩を解いて貰ふ手もある」
「親分」
「解つたかお勢。――人を殺したのは惡いが、俺には縛る力はない、――せめて死んだ人達の後生をとむらつてやれ。解つたか」
「ハイ」
 お勢も、側で聞く八五郎も、すつかり泣き濡れて、暫らくは顏も擧げませんでした。
        ×      ×      ×
 お勢は其後踊の師匠をして、お町をほうむつた寺の花屋の株を買ひ取りました。美く清らかな花屋のおかみが暫くの間江戸の評判になつた事は言ふ迄もありません。





底本:「錢形平次捕物全集第八卷 地獄から來た男」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年7月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1934(昭和9)年7月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年2月20日作成
2016年3月22日修正
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