錢形平次もこんな突拍子もない事件に出つくはしたことはありません。相手は十萬石の大名、一つ間違ふと天下の騷ぎにならうも知れない形勢だつたのです。
江戸の街はまだ
「八、こいつは飛んだ御用始めになりさうだぜ、
「へエ――」
八五郎は
「見なきや判らないが、多分あの客人の後を
「へエ――」
八五郎は呑込み兼ねた樣子乍ら、平次の日頃のやり口を知つて居るだけに、問ひ返しもせず、お勝手口の方へ姿を消しました。
入れ違ひに案内されて來たのは、十七八の武家とも町人とも見える、不思議な若い男。襲はれるやうに後ろを振り返り乍ら、
「平次親分で御座いますか、――た、大變な事になりました。どうぞお助けを願ひます」
おろ/\した調子ですが、それでも、折目正しく坐つて斯う言ふのでした。
武家風な前髮立、小倉の
「何うなすつたのです、
平次はさう言はなければなりませんでした。物に
「私は――牛込
「えツ、それでは若しや、父上道庵樣が?」
「ハイ、三人目の行方知れずになつた
「それは大變」
これは平次の方が驚きました。一色道庵といふのは、町醫者でこそあれ、その頃日本中にも聞えた
それは兎も角、平次を驚かしたのは、此三人目の行方不明と言ふことでした。昨年の秋あたりから、江戸の本草學者が神隱しに逢つたやうに、相踵いで行方不明になつて居ります。最初の一人は赤坂表町の流行醫者で本田
併し、何の爲に、醫者が二人迄續け樣に殺されたか、御府内の岡つ引が血眼になつて搜しましたが、下手人は
押し詰つてその噂も漸く忘れられ、氣に掛り乍ら正月を迎へた平次、四日の御用始めに三人目の
「御父上――道庵樣が行方知れずになつたのは、
「昨夜、
「それなら大丈夫、
「本當でせうか」
「それはもうお請合いたします。今度こそは
「親分、お願ひ申します」
綾之助は
「親分ツ」
「あツ、八か、何うしたんだ。何處の
木戸を押し倒すやうに、いきなり庭先へ入つて來た八五郎の風態は、全く溝から這ひ上がつて來た鼠のやうでした。
「親分、口惜しいよ、女と思つて油斷をすると、いきなり突き飛ばしやがるんだ」
「女に突き飛ばされたのを
「へエ――」
八五郎は返す言葉もなく井戸端へ廻りました。間もなく
「何うしたのです、親分」
綾之助は眉を
「子分のガラツ八といふあわて者ですよ、お前さんが入つて來なすつた時、蔭で聲を聽いただけで、誰かに追ひかけられるか、後を
「さう言へば、市ヶ谷から此處まで、始終誰かにつけて居られるやうで、何とも言へない厭な心持でしたよ」
綾之助は舌を卷きました。
入口に訪づれた人の聲を聽いただけで、その後を
「そんな事は何でもありやしません。八の野郎がつまらない事をしなきア、飛んだ手柄になつたものを――」
「親分、つまらない事は可哀想だぜ、これでも精一杯の仕事をして來た積りだが――」
八五郎はろくに拭きもしない身體に、新しい
「精一杯の仕事? 一體どんな物を見て來たんだ」
「親分に言ひ付けられて、直ぐ裏から廻ると、向うの荒物屋の角に立つて、そつと此方を見張つてゐる女があるぢやありませんか」
「外には誰も居なかつたのか」
「犬つころ一匹居ねえ、御町内はまことに太平さ」
「無駄を言ふな」
「側へよつて
「――」
「五六町追つ驅けたが、女のくせに恐ろしく足が
「何? 御守殿崩し?」
「まさか
「それが何うした」
「段々人足は多くなるし、見附を越して駕籠にでも乘られるとうるせえ、後ろから追ひついて、いきなり姐さんちよいと待つて貰はうか――と袖を引くと振り向きもせずにあつしの手を拂つた」
「フーム」
「
「馬鹿野郎、女に溝へ投り込まれて感心する奴があるかい」
「天下の八五郎を溝へ投り込む女は、江戸廣しと
「呆れた野郎だ――それで手掛りもフイだらう。默つて正直に後をつけて行きや宜いものを」
平次の言ふのは尤もでした。相手に
「親分、勘辨しておくんなさい。女に
「嘘を
「へツへツへツ、素つ破拔いちやいけねえ」
ガラツ八は苦笑ひをし乍らピヨコリと頭を下げました。これが精一杯の陳謝の心持でせう。膝つ小僧がハミ出して、道化たうちにも、妙に打ち
錢形平次はガラツ八を伴れて、時を移さず御納戸町の一色家に乘込みました。一子綾之助が曲者に跟けられたとすると、隱れてコソコソ探索する必要は無かつたのです。
道庵は
早く妻に死別れて、家族は一子綾之助と、その姉のお絹の三人きり、お絹は父の仕込みで、女乍ら本草學に詳しい上、世にすぐれて美しく生ひ立ちましたが、父道庵の註文が六つかしいので定まる縁もなく、二十歳の春まで、白齒の美しさを山の手一圓に
乘込んで行つた平次も、何から手を付けて宜いか見當も付きません。昨夜
伊勢屋には病人も何にもなく、道庵を呼んだ覺えは勿論、
さては――と氣の付いたのはもう眞夜中過ぎでした。父道庵が不思議な醫者殺しの三人目の犧牲者に選ばれたと判ると、お絹、綾之助の姉弟は居ても立つても居られません。
姉弟打合せた上、弟の綾之助が錢形の平次を訪ねたのはその翌る日の晝頃、平次は柳原で殺された伊東參龍の始末も付いて居ないので、お
「駕籠は町駕籠でしたか」
と平次、お絹に引逢はせてくれると、挨拶も拔きにこんな事を訊きます。
「町駕籠のやうに仕立てゝ來ましたが、後で氣がつくと、道具も人足も思ひの
お絹は取亂した中にも、才女らしくハキハキ答へました。二十歳といふにしては、少しふけた方ですが、充分美しいうちにも何となく理智的なところのある娘でした。絹の
「提灯の紋は?」
「それも見ませんでした。尤も昨夜はあの風で、手拭で提灯を包んでも不思議はなかつたので御座います」
「フーム」
平次は
「親分、お願ひで御座います、一日も早く探し出して下さい」
氣象者のお絹も、平次の手を取らぬばかりに斯う言ふのでした。
門弟達、出入の者、一と通り調べましたが、何んの手掛りもありません。往來で駕籠を見かけた人を
「平次、醫者殺しの下手人はまだ判らぬか。一色道庵の行方知れずになつた事は、殿中の御噂にまで上つたさうだよ」
與力の笹野新三郎は、平次を激勵するともなく、こんな事を言ふやうになりました。
「恐れ入りますが、もう三日ばかり御待ち下さいまし」
一時逃れと解つても、平次はさう言ふより外には言葉もなかつたのです。
「親分しつかりしておくんなさい、世間ぢやさう言つてますぜ――錢形のもタガが
「馬鹿野郎」
平次はムズムズする程腹を立てましたが、さすがにガラツ八を
「親分、一色道庵が歸つて來ましたぜ」
「何?」
「先刻御納戸町を通つたから、ちよいと覗いて見ると、一色の家は
「それア不思議だ。兎に角行つて見よう」
平次は直ぐ飛出しました。もう
「親分、
「無駄を言はずに歩くんだ」
「だつて、考へて見るとあつしはまだ晩飯にもあり付かねえ、無駄も言ひたくなるぢやありませんか」
「――」
「第一、助かつて歸つたにしては、あの醫者の浮かねえ顏が
「何だと」
「一色道庵は家へ歸つてもろくに物も言はず、
「フーム、それは不思議だ。何か深い
「だがネ親分、あのお絹さんとか言ふ、お孃さんは大した
「――」
「それに
「解つてるよ」
そんな事を言ひ乍ら、二人は鐵砲
中はガラツ八が言つたやうに、盆と正月が一緒に來たやうな騷ぎ、平次はガラツ八を門弟達の部屋に殘して、取り敢へず一色道庵に逢つて見ましたが、困つたことに誰にさらはれて、十日の間何處に隱されて居たか、その事に關する限りは、一言も
「平次親分、留守中は大層御世話になつたさうで、お蔭の申上げやうもありません。お蔭で無事に歸つて來ましたが、――いや訊いて下さるな。何處に何をして居たか、そればかりは言へません」
一度話が急所に觸れると、分別臭い五十男の坊主頭を、深々と八丈の襟を埋めて、
平次はいろ/\手を盡して問ひ試みました、娘のお絹も見るに見兼ねて口を添へますが、一色道庵の顏は困惑に硬張るだけで何の役にも立ちません。
「それは料簡違ひぢやありませんか。惡いことをした覺がないから、言ふも言はぬも勝手とは思ひなさるだらうが、世の中はそれぢや通りません。――お
「――」
「その時、一人や二人腹を切つたところで申譯が立ちませうか。九族根絶やしになつてからでは、悔んでも追付きやしません」
平次の言葉は急所を突きました。『謀叛』と聞くと、一色道庵はサツと顏色を變へて、靜かに四方を見廻し乍ら、
「申しませう、――此方へ」
言葉少なに平次を別室に
「平次親分、私は世にも不思議な目に遇ひました。お蔭で本田
一色道庵の話は怪奇を極めました。
斯うです。
正月三日の晩、伊勢屋總兵衞からの迎ひと言つて來た駕籠は、道庵を乘せると、嚴重に
「これはをかしい」
と思つた時は、まるつ切り見當も付かぬ家の前――深い木立の中の一軒屋、それは丁度大名の下屋敷の
驚く一色道庵は、聲を立てる暇もなく、その縁の上へ引上げられました。四方は深い木立、右も左も大きい屋敷續きで、少し位聲を出したところで、誰も救ひになどは來てくれさうもない場所だつたのです。
やがて氣が付くと、眼の前の障子は左右に押し開かれました。正面には
ハツと聲を立てようとすると、左右の手を取つて引据ゑられました。何時の間にやら、鬼をもひしぎさうな武家が二人右と左から挾んで、道庵を護つて居たのです。
「一色道庵よく參つた、苦しうない、即答を許すぞ。それから
主人は鷹揚に言つて、人に反抗させぬ微笑、持つて生れた壓倒的な微笑を送るのでした。
やがて、主人は手文庫の中から、
「道庵、此處まで來て貰つたのはこれの爲ぢや。
道庵はヒヤリとしました。本田蓼白や伊東參龍は、この丸藥と同じ物を作り兼ねて、――其儘殺されて了つたのでせう。
「よいか道庵」
宜いも惡いもありません。道庵はその不思議な丸藥を取り上げて、思はず
丸藥は作つてから何十年經つたか解らないほど古いもので、眼で見、鼻で嗅いだ位では、とてもその處方がわかりません。
「その丸藥は手元に七つある。一つだけは噛んでも碎いても構はぬが、その代り同じものを作らなければならぬぞ、よいか」
主人はさう言つて、何んの
一色道庵はそのまゝ其處に止め置かれて、丸藥の
林の中の
十日經ちました。久し振りで庵を訪ねた主人の前へ、一色道庵の示した丸藥の成分と言ふのは、人參、
「人參と
主人は大機嫌で斯う言ひます。
「恐れ乍ら、この丸藥を一粒拜借して、御納戸町の自宅にお歸し下されば、心永く研究を重ね、殘る二味を相違なく見付けて參りますが――」
道庵は恐る/\斯う言ふのでした。
「フ――ム」
「此處では何分道具藥品などが揃ひません。如何で御座いませう」
「それでは一應納戸町へ歸すと致さうか。その代り此事を一言も
堅い約束。道庵はめで度く自宅へ歸る嬉しさに、何も彼も承服して送り還されて來たのでした。
「親分、斯うしたわけ、――私には何の事やら少しも解りません。丸藥は幾度も
一色道庵は全く不思議でたまりません。
「その林の中の
と平次。
「それが少しも解らないのです。道順の樣子では麻布か赤坂と思ひますが――」
「家具類、――例へば火鉢とか膳とか、
「それも氣を付けましたが、長押の金具は剥ぎ、襖の引手は外し、手洗鉢も膳椀も、その邊の店にあり合せの品を集めたもので、一つも紋のあるのは出しません。尤も主人の殿が用ひた火鉢だけは一度毎に隱しました。が、何やら
「言葉の
「女共は間違ひもなく京言葉でしたが、武家と主人の殿には、奧州訛りがあつたやうに思ひます」
「有難う御座いました。それだけで大方見當が付きませう」
「どうぞ、私から聽いた事は内々にして置いて下さい。又何んな仇をされるかも解りませんから」
「それは大丈夫で御座います」
平次はそこ/\に暇乞をすると、夜駕籠を飛ばして、眞つ直ぐに八丁堀へ。
「御免下さい。天下の大事、旦那樣に御目にかゝつて申上げたい事が御座います。神田の平次が參つたと仰しやつて下さい」
眞夜中の笹野新三郎の門を叩きました。
「何だ平次、夜の明けるのを待ち兼ねるほどの大事があるのか」
「旦那、何うも
「何?」
「これを召上つて御鑑定なすつて下さいまし。一色道庵はこの丸藥と同じ物を作れと言はれ、林の中の大名の下屋敷の離屋に十日も留められたさうで御座います」
「フ――ム」
「本田蓼白と伊東參龍の見分けた成分は、松の甘皮と胡麻と甘草で、一色道庵はその上人參と
平次の話は、事毎に新三郎を驚かしました。
「平次、それが本當なら、大變な事になるぞ」
「へエ――」
「お前は知るまいが、これは陣中の
「へエ――」
「兵家、仁術家は皆知つて居る筈だ。遠きは義經の兵粮丸、楠氏の兵粮丸、竹中半兵衞の兵粮丸など言ふものがある。兵書には
「へエ――」
平次は開いた口が塞がりません。全く大變な事になつて了ひました。
「東照權現樣御一統の後は、各藩兵家本草家に兵粮丸を作らせ、いざ鎌倉と言ふ時に備へて居るが、これは祕中の極祕で、家老用人と
江州の彦根、越後の高田、南部の盛岡、岩代 の二本松、伊豫の西條、羽後の秋田、上總 の大多喜、長州の山口、越前の福井、紀州の和歌山、常陸 の水戸、四國の高松、
などがある。牛肉を用ふるもの、勝栗を用ふるもの、白梅を用ふるもの、いろ/\あるが、いづれも藩の運命を賭けても祕密を守り、藩外には處法は申すまでもなく、兵粮丸一片も出さぬやうに心掛けて居る」笹野新三郎の説明は、すつかり平次を仰天させました。
「すると、矢張り謀叛ものですね。麻布赤坂あたりに下屋敷を持つて居る大名が、兵粮丸を手に入れるか何うかして、本草家を
「ところで平次、何處の藩がそんな事を
と新三郎。
「奧州
「フ――ム」
「紋所は、抱き
「何が判つたんだ、平次」
「間違ひつこはありません。南部で御座いますよ」
「南部」
「御領地は盛岡で十萬石、南部大膳大夫樣は
「フ――ム」
笹野新三郎もこんなに驚いたことがありません。本草家を三人誘拐して二人まで殺したのは、容易ならぬ
「早速
「これ/\平次、もう少し後先を考へて物を言へ、南部家には立派な兵粮丸が傳はつて居る筈だ。數ある兵粮丸のうちでも、南部と水戸の兵粮丸は有名で、大小名方の
「へエ」
「その邊の事が
笹野新三郎の言ふことは理路整然として居りました。錢形の平次、捕物にかけては天下の名人ですが、大名方の消息は、與力の笹野新三郎ほど讀んでは居なかつたのです。
兵粮丸や
中には随分馬鹿々々しいのもありますが、十中八九は理詰めで、梅干大の兵粮丸が三つか五つで、少きは半日一日、多きは三日七日の
兵粮丸には、
兎に角、兵粮丸の祕密を守る爲には、随分一藩の運命を賭けたこともある位ですから、封建時代に、人間を二三人殺すことを、何とも思はない野心家があつたことも不思議はないのです。
餘事はさて措き、錢形平次は笹野新三郎に止められて、辛くも老中を動かすことだけは思ひ止りましたが、江戸の名醫を二人迄、蟲のやうに殺した相手を、其儘差置くのが、何としても心外でたまりません。
翌る朝、御納戸町へ行つて、もう少し詳しく聽く積りで居ると、例のガラツ八が、
「親分、今度はお孃さんがさらはれた」
「何? お孃さんが――」
「お絹さんが昨夜のうちに行方知れずだ。あんな綺麗な娘の死體が辨慶橋なんかに浮いた日にや、
「よしツ、來い八五郎」
二人は宙を飛んで一色邸に駈付けましたが、
お絹は昨夜
「親分、昨夜お前さんに打明けたのが惡かつたのだ。娘に萬一の事があつちや、私は生きて行く空もない」
一色道庵が、平次をつかまへて、怨みがましく言ふのも無理のない事でした。
「ところで、玄關の上にブラ下げた
平次は妙なところへ氣が付きました。
「――」
「お孃さんがさらはれたので、丸藥の祕密が解けたと言ふ合圖をなすつたのぢや御座いませんか」
「――」
「ね、それが惡いとは言ひませんが、相手はどんな事をする氣か、見當もつきません。大きい聲では言へませんが、萬一これが謀叛を企らんで居るとしたら――」
「いえ、親分、そんな事はありません。あんな丸藥で謀叛も騷動も起せるわけはないし、それに、私にしては娘の命が何より大事で御座います。默つて私をやつて下さい、玄關へ瓢箪を出せば、その日のうちに迎への駕籠が來ることになつて居ります」
「行つて丸藥の祕密を奪られた上、萬一の事があつたら?」
「そんな事はありやしません。丸藥の七味を解いてやれば、恩こそあれ
お絹が父親の命に代る爲に、自分から進んで
「それぢや、たつた二つ私の願ひを聽いて下さい、――一つは、その林の中の
平次の聲は次第に少さく[#「少さく」はママ]、やがて一色道庵の耳に何やら囁いて居ります。
「恐れ入りますが、御用人樣へ御取次を願ひます。あつしは八五郎と言ふケチな野郎で御座いますが、御家の大事を御知らせ申したさに、神田からわざ/\參りました――と」
「何ぢや、御用人樣に逢はしてくれ、お前は一體何だい」
「へエ――、正にあつしで」
「正につて面ぢやないよ、――用事は何だい、滅多な物貰ひを取次ぐと、俺が叱られるでな」
「物貰ひぢやないぜ
「さうかい、お家の大事とあつては放つても置けまい、どりや」
腰を伸ばすと、丁度向うから中年の立派な武家が一人、何の所在もなくフラリと此方へやつて來るのを見かけました。
「あツ、櫻庭樣、丁度いゝところで御座いました。この人が、お家の大事とやらを持つて來なすつたさうで、裏門に立ちはだかつて、滅茶々々に小鼻を脹らませてゐますが」
「何? お家の大事? 聽き捨てならぬ事ぢや。拙者は櫻庭兵介、當南部藩の家老職を勤め居る者――」
ズイと出ました。思慮も分別も腕も申分のない武家に壓倒されて、ガラツ八の八五郎はツイ二三歩引下がりました。
「へエ、手前は八五郎と申しまして、ケチな野郎で御座いますが、南部兵粮丸の七味はよく存じて居ります。人參、甘草、
「何を言はれるのぢや、飛んでもない。南部兵粮丸は、一藩の祕密で處法は御國許寶藏に
櫻庭兵介もすつかり煙に卷かれた形です。
「御家老のお前さんも御存じがない。へエ――、すると、殘る二味を申上げても一向面白くはないわけで」
「左樣」
「少しをかしな事になつたぜ、――ね、御家老樣、今殿樣は此方の御下屋敷にゐらつしやるんですかい」
「それは申上げ兼ねるが、見らるゝ通り裏表に門番一人づつ、拙者が時々見廻りに來る位だから、大方お察しもつかう」
「成程、此處にはいらつしやらない、と仰しやるんですか、――へエ――、ところで、一色道庵の娘、お絹と申すのが此お屋敷に居りませう」
「いや、そのやうな者は居らぬぞ」
「をかしいなア、それぢや本田
八五郎は遠慮を知りませんでした。穩當な櫻庭兵介の調子に油斷をするともなく、ツイ斯んな事までツケツケと言つて了つたのです。
「無禮者ツ、何を申すツ」
「へエ――」
「先程から默つて聞いて居ると、
「――」
「成敗して取らせる、それへ直れツ」
櫻庭兵介が
「冗談でせう。こんな事で首をチヨン斬られてたまるもんぢやない、あばよと來た」
尻を端折ると後をも見ずに、サツと一文字に逃出します。
「爺や、あれは何ぢや」
「氣違ひで御座いませうよ、別段飮んでる樣子もなかつたやうですから」
門番と家老は顏を見合せて笑ひました。まことに天下泰平な圖柄です。
ガラツ八の報告を聽くと、平次の
それに、一色道庵の書いた林中の
此上は最後の手段として、一色道庵が、迎ひの駕籠に搖られて行く道々、平次の智慧で殘して行つた
一色道庵は、膝の上に載せた藥箱から、一と掴みの
駕籠はもう何處へ行つたか解りません。提灯で照し乍ら地べたを
「野郎ツ」
不意に棍棒が耳をかすめます。提灯を叩き落されたのでした。
「あツ」
顏を擧げると、何時の間に集つたか、三方から五六人の人數、棍棒と
「え――ツ」
「何をしあがるツ」
「斬れつ」
キナ臭くなるやうな襲撃。平次はもう一度白刄をかはすと、身を
「逃げるか平次」
「何をツ、これでも喰へツ」
懷を探ると、取出したのは青錢が五六枚。一枚々々に口で
「あツ」
「やられたツ」
二三人は額を割られた樣子、たじろぐ隙に平次は、身をかはして街の宵闇に隱れて了ひました。
併し平次の方も大手ぬかりでした。折角智慧を紋つた
翌る朝、一色道庵の死體は、南部家下屋敷の門前に捨てゝありました。
左肩口からたつた一と太刀、
一應死體を見せて貰つた平次は、丁度下屋敷に居合せた家老の櫻庭兵介に逢つて見ようと思ひました。一方は十萬石の大名の二番家老、此方は町方の御用聞風情、あまりに身分が違ひ過ぎますが、門前に變死人があつては、留守居の重役、知らん顏も出來ません。
「平次とやら、困つた事が起つたものぢや。當家の迷惑は一と通りではない、何とか早く取片附けて貰ひ度いが――」
櫻庭兵介思ひの外手輕に平次を呼入れて、縁に腰を掛けたまゝ、斯うこぼして居ります。ガラツ八を脅かした樣子では、かなり荒つぽい人かと思ひましたが、會つてみると思ひの外練れた人間で、岡つ引風情に、何の
「恐れ入ります。もう直ぐ取片付けませう。御迷惑は萬々御察し申しますが、あの死體があつたばかしに、御當家に掛る重大な疑ひが晴れました」
「それは一體、何の事ぢや」
「三人の本草家をさらつて殺した曲者は、御當家へ疑ひのかゝるやうに仕向けて居ります。昨夜も一色道庵をわざ/\此處まで伴れ出した上、後ろから一刀に斬り捨てたのは、その爲で御座いました」
「フーム」
「あの手際は見事で御座います」
「餘程の腕利きであらうな、八丈の重ね着を一枚の
「ところが、それほどの腕利きも、お當家裏門前で斬つたのは手ぬかりで御座いました。門の扉に
「フーム」
櫻庭兵介は唸りました。南部家に對する疑ひが晴れた喜びよりも、此岡つ引の智惠の
「ところで、つかぬ事を伺ひますが、御當家の兵粮丸處法が紛失したことは御座いますまいか」
平次はいきなり話頭を轉じました。
「いつぞやも、其樣な事を訊ねて來た男があつた――が、南部兵粮丸は天下知名の祕藥ぢや。臣下と
「恐れ入ります」
「御領地盛岡の
「いえ、――ところでその兵粮丸を用ひられたのは、何時の事で御座いませう。一番近いところで――」
「左樣、近頃はトンと聞かぬが、天正十八年に一族九戸政實が
「何方が用ひましたので」
「攻め手は南部藩に、仙臺會津の援兵二萬人といふ大軍だが、兵糧も充分あり、兵粮丸の世話にはならなかつた。敵は謀叛人の九戸政實一族五千人、福岡城を死守したから、その時城中に貯へてあつた南部の兵粮丸を用ひたことゝ思ふ。尤も兵粮丸の法書きは
「九戸政實の一族は何うなりました」
「皆死んだよ。城中の男女數百人を
「その九戸の一族で今日まで生き殘る者は御座いませんか」
「何分昔の事だ。今生きて居ると皆百歳以上だらう、尤も、その子孫はないとは申されぬが」
櫻庭兵介は問はるゝまゝに藩の歴史を語ります。
「外に、南部藩を怨む者は御座いませんか」
「ない、いや心當りがないよと言つた方が宜からう」
「大膳大夫樣とお仲の惡いのは?」
「大きな
後に相馬大作の騷ぎを起した南部と津輕は、その頃からなんとなく犬猿の心持で睨み合つて來たのです。
「恐れ乍ら、御下屋敷の中、わけても御庭を拜見いたしたう御座いますが」
平次は妙な事を言ひ出しました。
「ならぬところだが、當家の迷惑を取除いてくれた其方の爲に、案内して取らせる、斯う參れ」
櫻庭丘介は氣さくに立ち上がり、平次を伴れて、
× × ×
その日の晝頃、精鋭をすぐつた大捕物陣が、犇々と南部坂に取詰めました。
取圍んだのは、南部樣下屋敷左隣に、僅かに垣を隔てゝ建つた林中の
捕物は相當以上に骨が折れました。手負を五六人も拵へて、兎に角一人殘らず召捕つたのは一刻ばかりの後。
主人の殿に紛したのは九戸
「親分、本當にあの連中は
「いや、古い兵粮丸が手にあるのを幸ひ、その通りの物を作つて、處法をさる大名に賣り込む積りだつたのさ。話は大方極つて、今晩取引といふところを縛られたのは惜かつたらう。何しろ、南部の兵粮丸と言へば少し山氣のある大名なら何處でも飛つくよ、三千兩でも安いよ。南部坂に巣を構へて南部家に疑ひを向けるやうにしたのは、萬一露見した時の用意、昔の九戸政實の
「へエ、三千兩かい、あの薄黒い丸藥の法書が?」
「それにしても
「さうとも、お絹さんの敵だ」
「手前、お絹さんと言ふと夢中だが、あれだけは諦めろよ、高根の花だ」
「――」
二人は御納戸町の方へ歩いて居りました。危ふい命を助かつて、弟