錢形平次捕物控

黒い巾着

野村胡堂





「親分、山崎屋の隱居が死んださうですね」
 ガラツ八の八五郎は、いつにない深刻な顏をして入つて來ました。
「それは聽いた。が、どうした、變なことでもあるのかい」
 錢形平次は植木鉢から顏を擧げました。相變らず南縁みなみえんで、草花の芽をいつくしんでゐると言つた、天下泰平の姿だつたのです。
「變なことがないから不思議ぢやありませんか」
「そんな馬鹿なことがあるものか」
「でも、ね親分、あの隱居は疊の上で往生のげられる人間ぢやありませんぜ。稼業とは言ひ乍ら何百人、何千人の壽命をちゞめたか、解らない――」
「佛樣の惡口を言つちやならねえ」
「死んだ者のことを彼れこれ言ふわけぢやねえが、ね親分、聽いておくんなさい、このあつしも去年の秋、一兩二分借りたのを、半年の間に、一兩近けえ利息をしぼられましたぜ。十手や捕繩をとも思はない爺イでしたよ」
 ガラツ八はそんな事を言ひ乍ら、鼻の頭を撫で上げるのでした。
「まさか、十手や捕繩をチラチラさせて金を借りたんぢやあるまいね」
「借りる時は見せるもんですか。尤も、うるさく催促さいそくに來た時チラチラさせましたが、相手は一向驚かねえ」
「なほ惡いやな、仕樣のねえ野郎だ。お小遣こづかひが要るなら、俺のところへ來てさう言へば宜いのに、――尤も、俺のところにも一兩とまとまつた金は滅多にねえが、いざとなりや、質を置くとか、女房を賣り飛ばすとか」
「止して下さいよ、親分がそんな事を言ふから、うつかり無心にも來られねえ」
 ガラツ八は面目次第もない頸筋をポリポリ掻くのでした。
「おとむらひが濟んで、帳面をしらべたら、借手に御用聞の八五郎の名が出て來た――なんか面白くねえ。お上の御用を勤める者には、それだけのつゝしみが肝腎かんじんだ、――これを持つて行つて、番頭か若主人にさう言つて、帳面から手前てめえの名前だけ消して貰ふが宜い。それから、忌中きちうの家へ手ブラで行く法はないから、これは少しばかりだが香奠かうでんの印だ」
 錢形平次はさう言ひ乍ら、財布から取出した小粒で一兩二分、外に二朱銀を一枚、紙に包んでガラツ八の方へ押やりました。
「へエ、相濟みません。それぢやこの一兩二分は借りて參ります。それからこれは少しばかりだが香奠の印――」
「人の口眞似をする奴もねえものだ」
「勘辨しておくんなせえ、少し面喰らつて居るんで」
 八五郎は飛んで行きました。同朋町の山崎屋の隱居勘兵衞に、散々の目に逢はされた一兩二分、死んでからでも返してしまつたら、さぞ清々せい/\するだらうと言つた、そんな事しか考へて居なかつたのですが、行つて見ると、それどころの騷ぎではありません。
 湯島のがけを背負つて、大きな敷地に建つた山崎屋の裕福な家の中が、ワクワクするやうな緊張をはらみ、集つた親類縁者近所の衆が、ガラツ八の八五郎を迎へて、固唾かたづを呑むのです。
「御免よ、――内々で番頭に逢ひてえが」
「その事でございます、親分さん」
 顏見知りの久藏、――死んだ隱居の配偶つれあひの妹の亭主、男藝者などをしてゐた、評判の宜しくない五十男が、眼顏で八五郎を人氣のない奧の一間へみちびき入れるのでした。
「番頭か若主人でないと困るが、實は――」
 ガラツ八は一兩二分の件を切出し兼ねてモヂモヂしました。
「へエ/\、早速此方こちらから、お屆けする筈でしたが、取紛とりまぎれてこの始末でございます。もう、あの、お聽きでございましたか、親分さん」
「――」
「お上のお耳は、早いものでございますなア」
 何が何やら解りませんが、ガラツ八の用件とは、大分見當の違つた事件が起つてゐる樣子です。一兩二分と香奠かうでんの一朱を懷の中で掴んだまゝ、ガラツ八は何も彼も呑込んで來たやうな顏をする外はありません。
「言つて見るがいゝ、――一體どうしてそんな事になつたのだ」
「誰が密告つげくちしたか解りませんが。――お寺から、葬ひを斷つて參りました」
「何?」
 ガラツ八も膝小僧を揃へました。寺方が埋葬とむらひを斷るのは、検屍けんしを受けない變死人の場合で、醫者の死亡診斷書といふものゝない時代には、これが犯罪摘發てきはつの最後の手段に用ゐられたのです。
義兄あにが死んだのは一昨日の朝で――尤も夜中に死んで居たのを、下女が朝起しに行つて見付けたさうですが、昨夜ゆうべまでも何の障りもなく、お通夜坊主が來て、長いお經をあげて歸りました。それが今朝になつて、急にお上の檢屍がなきや、佛を引取るわけに行かない――と斯う言ふ始末で、へエ――」
 久藏はキヨトキヨトし乍ら、漸くこれ丈けのことを打あけました。八五郎がその噂を嗅ぎつけて、飛込んで來たと思ひ込んだのでせう。


「親分」
 ガラツ八が飛んで歸りました。
「何をあわてるんだ、八」
 平次はまだ植木鉢の芽を樂しんで居ります。
「五千兩近い金が煙のやうに消えたんだ。こいつを驚かなかつた日にや――」
「爺さんが死ぬと直ぐ、山崎屋はお家騷動かい」
「それも五千兩だぜ、親分」
「あわてるなよ。誰のものになつたところで、俺や手前てめえ身上しんしやうに響く氣遣けえはねえ」
「いやに落着いて居るぜ、親分。その上、お寺から、葬式とむらひを斷つて來たんだが――」
「何だと、八?」
 錢形平次は始めて眞劍な顏を擧げました。
「どうせ世間樣から評判のよくねえ隱居だつたから、金にうらみのある野郎のイヤがらせだらう――つて言ふが、どうも腑に落ちないことばかりだ」
 ガラツ八の鼻はキナ臭く動くのです。
「言つて見るが宜い、何が腑に落ちなかつたのだ」
「第一、親分の前だが、借金を返して香奠かうでんを持つて行つた御用聞に、御通夜おつやのお菓子代りだと言つて、包んだ小判が五兩」
「まさか、それを貰つて來たわけぢやあるめえな」
 平次は何となく氣がさします。
「親分の前だが、正直のところのどから手が出るほど欲しかつたよ。あれだけありや、夏冬の物をみんなお藏から出して、向柳原の叔母にも、くさつた袷の一枚位は着せられると――」
「馬鹿野郎、手前てめえはそんな氣になりやがつたのか」
「待つておくんなさいよ、親分、そんな金を貰やしませんよ。腹の中では千萬無量だが、其處は錢形親分の片腕と言はれた小判形の八五郎だ」
「――」
「番頭の和助の横つ面へ叩きつけて、思ひつ切り啖呵たんかを切つたぜ。――佛から借りた一兩二分の借金に、鼻糞はなくそ程だが香奠まで添へて持つて來た八五郎だ、見損なやがつたか――つて」
「本當に返したんだらうな」
「横つ面へ叩きつけたのは嘘だが、返したのは本當さ。それから佛樣を見ると、首に絞め殺したあとが付いてゐる」
「何だと?」
「誰の仕業か知らないが、それを經帷子きやうかたびらで隱して、お寺へ持込む段取だつた――が、さうは問屋がおろさねえ」
「で、五千兩の金がなくなつたのは、何うして解つたんだ」
「隱居の變死にも驚かない店中の者も、隱居所にあつた筈の金がざつと五千兩、それがたつた五兩もないと判つた時は、眼を廻したさうですよ」
「兎に角、此處ぢや解らねえ。行つて見ようか、八」
「さう來なくちや面白くねえ。五千兩の大金を盜み出したか、隱したか、兎に角、隱居を殺した奴の仕業に違げえねえけ。これは飛んだ大物ですよ、親分」
 ガラツ八は獲物を嗅ぎ出した獵犬れふけんのやうに、平次を案内して同朋町どうぼうちやうへ向ひました。


 平次と八五郎が、山崎屋へ着いたのは晝少し過ぎ。
「御免よ」
 さう言つて、薄暗い店を覗いた二人も、何となく立竦たちすくみました。朝からの不安と緊張が、並大抵でないことは知つて居りますが、それにしても、店中にみなぎる不氣味な――押潰されたやうな息苦しい騷ぎは容易のことではありません。
「あ、錢形の親分さん、丁度いゝところで」
 誰やらが飛んで來ました。二十五、六の一寸好い男、山崎屋の先代に仕へた忠義者萬助の伜萬吉と後で解りました。
「どうしたんだ、何があつたんだ」
 八五郎はもう飛込んで居りました。
「坊ちやんが――私はもう」
 その後ろから覗くやうに、齒の根も合はぬ樣子で板の間に立つた美しい娘は、萬吉の許嫁いひなづけで、久藏の娘お染と、――これも後で解りました。
「何か間違ひがあつたのか。何處に居る」
 平次はそれを掻きのけるやうに、飛込んで居ります。
 一團の人間は、何とはなしにド、ド、ドドと奧へ流れ込みました。隱居勘兵衞のくわんを据ゑて、型の如く飾つた奧の八疊の隣、納戸代りに使つて居る長四疊には、當主勘五郎の伜勘太郎、たつた十歳とうなつたばかりの一粒種が、無慙むざんな死骸になつて横たはつて居たのです。
 父親の勘五郎と、母親のお常の悲歎は眼も當てられません。
「勘ちやん、死んではいけないよ、勘ちやん、――お願ひだから氣を確りしておくれ。おつ母さんだよ、判るかい、――誰が一體こんな眼に逢はせたんだえ、勘ちやん」
 抱いたり、搖ぶつたり、頬摺ほゝずりしたり、お常は半狂亂の態ですが、勘太郎はもう息も絶え/″\、脈も途切れて、死の色が、町の子らしい華奢な顏に、薄黒いくまを描いて行くのです。
「勘太郎、勘ちやん」
 父親の勘五郎は、さすがに取亂しませんが、死に行く我が子の手を握つて涙を呑むばかり。
 その光景の中へ、錢形平次とガラツ八は飛込んだのでした。暫らくは悲歎と混亂の渦で、平次も八五郎も手の付けやうがありません。兎にも角にも、家の中の空氣のぐのを待つて平次は奉公人達から當らず觸らずの事だけを訊き出しました。
 三日前に死んだ隱居の勘兵衞は、もう六十八といふ歳で、表向の稼業は娘のお常と、聟の勘五郎に任せましたが、金箱は確と押へて、五十文百文の出入も、自分の手を經なければ、勝手にさばきはさせなかつたのです。
 尤も勘兵衞は、坊主ばうずくずれとか言ふ噂で、手もよく書き四角な字も讀み、外の仕事をしても人に優れたことの出來る人間でしたが、中年から金を溜めることに執着し、義理も人情も捨て、無慈悲、非道と言はれ乍らも、五千兩以上といふ富を積んだ男です。
 聟の勘五郎は三十五、六、しうとの言ひなり放題で、二十年あまり、奉公人同樣の境遇に忍んで來ました。女房のお常は、死んだ勘兵衞の本當の娘には違ひありませんが、父親に對する屈從に慣らされて、單純で平凡な三十年の生活を過して來た女でした。
 殺された少年勘太郎は、二人の間の一粒種で、隱居の勘兵衞もこればかりは、眼の中へ入れても、痛くないほどの可愛がりやうでした。あまり賢こくはなかつた方ですが、色白の華奢な育ちで、勘兵衞が自慢の孫だつたのです。
 勘兵衞の女房の妹の配偶つれあひといふ、近いやうな遠いやうな關係の久藏は、若い時分からの道樂者で、すゐに身を喰はれた揚句あげく、小唄や物眞似を看板に、吉原の男藝者幇間ほうかんになつたこともありますが、五十を越してからさすがに伜久三郎の前に氣を兼ねて、山崎屋の義兄に、百萬遍ほどお詫を入れて轉がり込みました。大坊主頭の五十六、七、金を塵埃ちりあくたの如く見るやうに馴らされた男です。
 その子久三郎とお染は、三十と十九の、かなり年の違つた兄妹ですが、親に似ぬ子で、早くから勘兵衞に引取られ、店の方を手傳つて肩身を狹く暮して居ります。
 もう一人、先刻一番先に顏を出した萬吉は、五、六年前になくなつた番頭萬助の伜で、今年二十五の春まで小僧から手代へと店で叩き上げた男で、物の考へやうも手堅く、先々はお染と一緒にして――そんな事を勘兵衞が考へて居た樣子です。
 番頭の和助は四十男、これは物の影のやうな存在で、勘兵衞には信用されて居りましたが、家中うちぢうの者は、まるつきり相手にもしません。歩くにも音を立てず、はなしするにも聲をひそめ、流し眼でなければ、決して物を見ないと言つたたちの人間ですが、こんな人間は、上からの重しを取去られたら、案外權力と我意を振ふのかも解りません。
 あとは下女と下男と小僧だけ、店の仕事は、貸金の取立て、證文の書換へ、地所家作の差配、地代家賃の取立て、と言つた雜務で、五千兩の運轉には、四、五人の手がどうしても入用だつたのです。


 隱居の勘兵衞は、ガラツ八の見屆けた通り、床の中で絞殺しめころされて居ります。これは枯木のやうな老人ですから、目ざといのにとがめられさへしなければ、年寄にも女にも殺せないことはありません。
 勘太郎少年は納戸なんどで後ろから突き殺されて居ります。
 五千兩の紛失と、隱居の葬式の行惱みで、家中うちぢうの者が逆上のぼせて居る間に、誰かの手が、この少年を後ろから一突にやつたのでせう。得物は脇差で、納戸の中には唐草からくさ模樣の大風呂敷が、鮮血にひたされて落ちて居る切り、何の證據も手掛りもありません。
「子供は何にも言はなかつたか」
 平次は、少し落着いた主人の勘五郎に訊ねました。
「見付けた時は、まだ息がありました。誰がこんな事をしたと訊くと、――お化け、お化け――と言ふだけで、何にも解りません」
「眞晝の納戸の中に、お化けが出たと言ふのか」
「それが子供のことですから、よくは解りません、――それから、お爺ちやんの巾着きんちやく、と言ふやうな事も言ひました」
「巾着?」
「子供の事ですから、何を言ふか解りませんが、もう一つ變なことを言ひました」
 勘五郎は臆病おくびやうさうに固唾を呑むのです。
「變なこと?」
「私にも見當は付きません、が、何でも六十三は今日だね――と言つたやうで」
「フーム」
 錢形平次も腕をこまぬくばかり、この判じ物は容易に解けさうもありません。
「親分さん、この敵を取つて下さい。こんなむごたらしい事をして、――家の中の者に違ひありません。つかまへて八つざきにでもしてやつて下さい」
 お常は兇暴な眼をあげました。屈從くつじうに慣れた女が、ふと乳虎の怒を發したやうに、血に渇いた眼が、ギラギラと貝殼かひがらのやうに輝くのです。
 平次は順々に家中の者に逢つて見ましたが、隱居や勘太郎を殺す動機は、すべての人が持つて居り、その機會も均等で、手のくだしやうがありません。
「隱居が變死したに違ひない――とお寺へ知らせたのはお前だらう」
 平次は下女のお光を捕へてこんな調子に鎌をかけました。
「お神さんが行つてくれ、あのまゝはうむられちや、お父さんが浮ばれないつて言ふんです」
 下女は隱し切れません。
「それぢやもう一つ訊くが、夜中に隱居が呼んだ時は、誰が行くことになつて居るのだえ」
「お神さんか、お染さんか、でなければ私が行きますよ」
「久三郎や萬吉は?」
「滅多に行きません。どうかすると、番頭の和助さんが夜中でも隱居所から呼出されることもありましたが」
 下女は何のたくみもなく言ふのです。あの物影のやうな和助が、夜中に隱居所へ行く圖を考へると何がなし、不氣味なものを感じさせるのでした。
 隱居所は、母屋おもやの裏手に突き出して建てた二間で、主人の勘五郎に案内させて、縁側の下に拵へた穴倉も見せて貰ひましたが、其處は曾ての麹室かうぢむろか何かであつたらしく、穴倉と言ふほどの大袈裟おほげさなものではなく、その上、蜘蛛くもの巣と埃だらけで、何年にも物を入れた樣子はありません。
「五千兩とかの大金は、此處に置いてあつたのだね」
 平次は當り前の事を訊きました。
「この穴倉にあるものと思ひ込んで居りました」
 主人の勘五郎も覺束おぼつかない樣子です。
「家中の者は、皆んなさう思つて居たのだね」
「へエ――」
 勘五郎の返事を背後うしろに聽いて、平次は穴倉の中に入つて行きました。入口の石の上に、したゝか蝋涙らふるゐこぼれてゐるだけ、穴倉の中には、埃が一寸ほども積つて、人の入つた樣子などはなかつたのです。
「親分、上から蝋燭らふそくで照しただけで、中に千兩箱があるかないか、一と目で解るぢやありませんか」
 ガラツ八は上から聲を掛けました。
「解つて居るよ」
 平次は苦笑し乍ら、穴倉の中を一わたり見廻しました。
「其處に何にもないと解つた時、家中の者は全く驚きました。外に五千兩といふ大金を隱して置く場所はありません。床下も屋根裏も見ましたが――」
 勘五郎の言葉には、言ひやうのない絶望が響きます。
「隱居が孫を可愛がつてゐたさうだから、子供にそつと教へて置いたんぢやあるまいか」
「そんな事も考へましたが、子供は何にも言ひません。死ぬ時、巾着きんちやくのことを言つた切りでございます」
「その巾着に何か思ひ當ることはないだらうか」
「父親は巾着などを持つて居る筈はありません。尤も、伜の勘太郎はお守と迷子札まひごふだを入れた巾着を持つて居りましたが、十歳とうにもなつて、迷子札でもあるまいと、近頃は巾着ごと納屋の用箪笥ようだんすへ入れてある筈で――」
「それを見せて貰はう」
 平次は勘五郎をうながして、もう一度納戸へ取つて返しました。まだ納戸に居る女房のお常は、止めどのない涙にひたり乍ら、勘太郎の遺骸なきがらを、添乳でもするやうに抱き上げたつ切り、血潮に染むのも構はず、誰が何と言つても放さうともしません。
「ございません――」
 勘五郎は用箪笥をあけて、平次をふり返りました。
「ない? ――お神さんに訊いてくれ」
 平次に注意されるまでもなく、勘五郎はお常に巾着のことを訊きましたが、これも何にも知らない樣子です。
「親分、――誰だか知らないが、隱居を殺して、穴倉から五千兩盜み出す積りだつたが、穴倉には金がなかつたので、子供を殺して巾着を奪つたんぢやありませんか。――隱居が孫の巾着に金の隱場所かくしばしよを書いた物を入れて置いたのを知つて、納戸へ搜しに來たところを子供に見つけられて、やつた――と言ふのは何うです」
 ガラツ八の鼻は少しうごめきます。
「そんな事だらうよ、――が、それだけぢや、下手人の當りはつかねえ」
「その『六十三の今日』といふのは何でせうね、親分」
「それが解ると、金の行方か下手人か、何方かゞ解るだらうね、御主人」
「へエ――」
「御隱居の年は六十三ぢやなかつたね」
「六十八でございます。五わうとらで」
「――」
「ね親分、六十三の今日なら、明日は六十四でせう、明後日あさつてで六十五、明後々日しあさつては六十六――」
「ぢや六十八は何だい」
「シ、シ、シ明後日あさつて
「馬鹿野郎、子供の小便しつこぢやあるまいし」
「へツ」
 ガラツ八は額を叩いて苦笑ひしました。
 一脈のなごやかな風、――陰慘な空氣の中で、平次もツイ頬をほころばせます。


「番頭さん、何處に寢るんだい」
「お店の次の六疊に、小僧と一緒に休みます、へエ」
 和助は低い囁やくやうな聲でこたへ乍ら、平次の顏をジロジロと盜み見るのでした。
「隱居所から呼ぶ時は、誰が取次ぐんだ」
「お神さんか、下女のお光でございます」
「お前の方から、夜中に行くやうな事はないだらうね」
「飛んでもない、親分さん」
 和助は以つての外の頭を振ります。
「勘太郎の迷子札まひごふだを入れた、巾着のことをお前は知つて居るだらうな」
「へエ、――二、三年前まで坊つちやんの腰へ下げて居りました。黒繻子くろじゆすに金糸で定紋を縫出した、立派な品でございます」
「それが、お前の荷物の中から出て來たが、これは何う言ふわけだ」
「えツ――」
 和助の驚きやうは大變でした。あやふく引つくり返りさうになつて、後ろに眼を光らせてゐる、ガラツ八に押し戻されたほどです。
「これだよ」
 平次が懷中から取出したのは、和助が言つたと同じ品、ツイ今しがた、雇人から、萬吉、久藏親子の荷物を調べて、八五郎の手で見付けたものです。
「そんな物が、――あの、私の荷物の中に、飛んでもない、親分さん」
「勘太郎を殺して、この巾着を奪つた者が、三日前に隱居を絞殺しめころしたのさ」
「親分、私は、私は」
 和助は追ひ詰められたきつねのやうでした。
「兎に角、當分家を出ちやならねえ。一足でも戸口を出たが最後、縛られるものと思つてくれ」
「へエ――」
 平次は打萎うちしをれて引下がる和助の後ろ姿を見て居ります。
「まるで波の上でも歩くやうだね、親分」
 ガラツ八はそれを可笑しがります。
「あの男は日本一の臆病者でなきや、大變な曲者だ」
「なぜ縛らないんで、親分」
「巾着があの男の荷物の中にあつたからよ。何が入つて居たか知らないが、お守りと迷子札まひごふだだけ殘して、中を拔いた巾着を、自分の荷物の中へ隱す馬鹿もないだらう」
「その迷子札か巾着に仕掛けがありませんか」
手前てめえも大層物の考へやうが細かくなつたぜ。だがな八、それにしても、二刻前ふたときまへに、子供を殺して奪つた品を、始末の出來ない筈はあるまい。俺達が來る前に、何處へでも隱せた筈だ」
「成程ね」
「そんな事に感心する奴があるものか、お次は久藏だ」
「いやな坊主頭だね、親分」
 そんな事を言ふ二人の前へ、久藏は臆面おくめんもない額を、平手でツルリと撫で上げて居りました。
「御苦勞樣でございます、親分さん方」
「一向目鼻が付かないから、骨折甲斐もないよ」
「飛んでもない」
「ところで、お前が此家へ入つたのは何時の事だい」
「丁度三年前でございます。へエ散々馬鹿を盡した掲句あげく、あんな商賣をして居りましたが、子供達がやかましくつて、義兄あにへ詫を入れることになつてから、早いもんで、――もう三年になりますよ、へエ」
「時々は元の稼業が戀しくなるだらうね」
「と、飛んでもない。堅氣に越したことはございません」
「この家の中で、隱居を怨んでゐるやうな者はあるまいね」
「あるわけはございません、皆んな義兄に養はれてゐたやうなもので。尤も、世の中には間違つた野郎があるもので、思をあだで返さないとは限りませんが――」
「それは誰のことだえ」
「物のたとへでございます、親分さん」
「番頭は少し位の費ひ込みがあるやうに聽いたが――」
「そんな事はございません。あれは半紙一枚誤魔化ごまかしの出來ない人間で――」
「萬吉は?」
「正直者でございますよ。あれの親父の萬助は、御奉行樣から御褒美を頂く筈だつたさうですが、義兄の稼業が稼業ですから、沙汰さた止みになりました。へエ、父子二代の忠義者で――」
「主人の勘五郎は?」
「孝行者ですよ、親分さん。あんな結構な聟は滅多にあるものぢやございません」
「すると、隱居を怨んでゐる者は一人もないばかりでなく、家中の者は皆んな忠義者で孝行者ばかりのやうだが」
「へツ、へツ、へツ、まア、さう言つたやうなわけで、へツ/\」
 何と言ふ厭な幇間ほうかんでせう。平次は嘔氣はきけを催すやうな心持で、眼顏で向うへ追ひやりました。
「萬吉も呼んで來ませうか、親分」
 平次がうなづくと、ガラツ八は要領よく萬吉をつれて來ました。二十五といふにしては、少し老成に見えますが、先づ申分のない男で、態度も何となく落着いた、好感を持たせる肌合の人間です。
「お染との祝言が延びるだらうな、この騷ぎぢや」
 いきなり、平次はこんな事を言ふのでした。
「いえ」
 萬吉は何方どつちともつかない事を言ひますが、氣のせゐか、一寸表情が堅くなりました。
「何處まで話が進んでゐたんだい」
「何にも決つたわけぢやございません。それに――」
 萬吉は、唇を噛みました。
「それに?」
「私は奉公人でございますから、――身を引くのが本當かとそんな事も考へて居ります」
「それは又どう言ふわけだ」
「お染の兄さん、久三郎さんがあまり氣が進まない樣子で――」
「そんな事もあるのかい」
 平次は氣の毒さうに言ふのでした。事情が許したら、側へ行つて、肩でも叩きたい樣子です。この好青年は、久藏、久三郎親子の反對を押し切つて、お染と一緒になる勇氣がないのでせう。
 それから、久三郎とお染にも一應遇つて見ましたが何の得るところもありません。久三郎は親の久藏に似ぬ、少し頑固ぐわんこらしい感じの三十男で、その妹のお染は、十九といふにしては少しませた、口數の多い、お轉婆娘らしいところが、たまらない魅力みりよくでもあると言つたたちの娘です。
「叔父さんは、それは/\私を可愛がつて下すつたわ、肩を揉んであげると、お小遣を下さるんですもの、――どうかすると、一朱も下すつたことがあつたわ。え、本當なの」
 と言つた調子。然し美しさは相當以上で、萬吉と並べたら、さぞ良い夫婦でせう。


「親分、五千兩は何處へ行つたでせう」
 その晩、深々と考へ事をして居る平次の前へ、これも落着かない心持のガラツ八が長い顏を持つて來ました。
「五千兩より、二人の命を取つた奴が憎いよ。手配りはしてあるのか」
 平次は妙に義憤ぎふんに燃えます。評判の惡い山崎屋勘兵衞だけなら兎も角、何にも知らぬ、十歳とうの少年を殺したのは、どんな動機があつたにしても許して置けない氣持だつたのです。
「山崎屋の四方へ、七、八人配りましたよ。ありが這ひ出しても判りまさア」
「それでよからう。明日は葬式を二つ出させるがいゝ。下手人を追ひ廻すのは、それからだ」
「逃げはしませんか、親分」
「五千兩を狙つた野郎が、空手からてで逃出すものか」
「成程ね。ところで親分、五千兩と言ふと大金だ。隱居所から首尾よく盜出したところで、一人ぢや持ち切れませんよ」
「その通りだ」
「だから、外に相棒が居やしませんか」
「フーム」
「五千兩持出した樣子がないとなると、そとに居る相棒が、今頃は氣を揉んで中からの合圖を待つてゐるか、でなきや――」
「――」
「中の野郎が五千兩一人めにしたと思ひ込んで、腹を立てゝ居るかも知れませんね」
「で、何うしようと言ふのだ」
そとから――割前をくれ、――と怒鳴らせたら、何んなものでせう」
「――」
「中の曲者が、あわてゝ顏を出す、其處を捕まへる――と」
「そんなわけに行けば、大手柄おほてがらだ」
「やつて見ませうか、親分」
「やつても構はねえが、無駄だらうよ。それより、よく出入を見張つて居てくれ」
「へエ――」
 八五郎は飛んで行きました。折角の名案を、そのまゝおくらにするより、兎も角やつて見るつもりでせう。平次は默つてそれを見送りました。それよりも、『六十三の今日』が、頭の中にコビリ付いて離れなかつたのです。
 その晩は何事もなく明けました。
「お早やう、親分」
「どうした八、變りはないか――下手人は首尾よくあのに乘つたかい」
 春の朝日と一緒に飛込んだガラツ八は、これもろくになかつたらしい、平次の前にくびれた髷節を掻きました。
「思ひ付きは申分ないんだが、相手はその上を行く曲者くせものだね。小石を二つ三つ投り込んで――割前をくれ、――とやらかして見ましたが、猫の子も顏を出さねえ」
「そんな事だらうよ、まア諦めが肝腎かんじんだ。ところで人の出入は?」
「出入は大變でしたよ、お通夜とおくやみで引つ切りなしだ」
「あの家の者で外へ出たのは?」
「これも皆んな出ましたよ。主人は町役人のところへ、和助は早桶屋はやをけやへ、それから町内を二、三軒、久藏は昔の仲間濱町の粂吉くめきちのところへ、萬吉は卜者うらなひへ、久三郎は明神下の浪人者井田平十郎のところへ――」
「變なところへ行くぢやないか、浪人者に何用があつたんだ」
「ヤツトウの先生ですよ。葬式に出て貰ひたい――と頼みに行つたんださうで」
「萬吉は?」
「縁談のうらなひはしをらしいでせう。親分、あんな事を言ふくせに、お染に未練があるんだね」
「お通夜の晩に、縁談を卜つたのかい」
「お通夜だつて葬式とむらひだつて、その道は別で、へツ」
 ガラツ八は首を縮めました。
「久藏の用事は?」
「借金を返しに行つたさうで」
「いくらだ」
「八兩二分」
「大層義理堅いんだね」
「昨夜が期限なんださうで、主人の勘五郎から、無理に借りて行きましたよ」
「フーム」
「あとは早桶屋に町役人」
「もういゝ――ところで粂吉は濱町、井田平十郎の家は明神下だな」
「へエ――」
「萬吉の行つた卜者うらなひは何處だ」
「明神前の、萬壽堂まんじゆだうで」
「――」
「早桶屋は町内の桶辰、町役人は井艸ゐぐさ屋惣左衞門」
「もういゝ」
 平次は又考へ込みました。


「親分、何處へ行きなさるんで?」
 八五郎と別れて、スタスタと淺草の方へ行く平次を、あわてゝ引止めたのはガラツ八自身でした。
觀音くわんのん樣へお詣りしてくるよ」
「山崎屋の方は? 親分」
「手前がいゝやうにやつて置いてくれ、日の暮れる迄には行つて見るから」
「觀音樣に何があるんで、親分」
 ガラツ八の途方にくれた顏は見物みものでした。
「觀音樣に何がある――は驚いたな。こんなわけのわからない時は、信心に限るよ。觀音樣を拜んでゐるうちに、結構な智慧が浮かばないとも限らない」
「へエ、――大丈夫ですか、親分」
「氣は確かだ、安心するがいゝ。手前てめえは山崎屋を見張つて、相變らず出入に氣をつけてくれ、頼むよ」
「へエ――」
 ガラツ八はこんなに驚いたことはありません。二人まで變死人をはうむる騷ぎを他所よそに、錢形の平次ともあらう者が觀音樣へお詣りは少し信心氣があり過ぎます。
 が、平次の氣心を知つてゐるガラツ八は、これ以上追及つゐきふはしませんでした。心細くも同朋町の山崎屋に出向いて、多勢の下つ引を指圖し乍ら、兎にも角にも、その日を無事に過しました。
 日頃評判のよくない上、二人迄變死人だつたせゐもあるでせう。葬式は至つて淋しく、八五郎と下つ引の眼の光る中で本當に型ばかりり行はれたのです。
 夕方、何も彼も一段落といふ時、平次はブラリとやつて來ました。
「親分」
 八五郎は、何となくホツとした心持です。
「信心は良いな、八、飛んだ清々したよ」
「驚いたね、此方は一日ハラハラして居ましたぜ」
「それは氣の毒だ」
 平次は一向氣の毒さうにもしません。
 二人は山崎屋に御輿みこしを据ゑました。葬式が濟んだばかり、何となく落着かない家の中へ、岡つ引二人迎へて、あんまり嬉しい顏をする者はありませんが、平次は一向平氣で、お染を引付けて、いつもにない杯などを取ります。
「なア、お染坊、隱居は飛んだ可愛がつたさうだが、あの通り死んでしまつたし、萬吉はお前と一緒にならうか、どうしようかと考へて居るやうだから、いつそのこと、此處に居る八五郎と一緒になる氣はないかえ」
「親分」
 驚いたのは八五郎です。
「默つて居ろ、手前てめえだつて滿更まんざらぢやあるめえ。――なア、お染坊――こんな野郎だが、これで八五郎は飛んだ親切者さ、――仲人なかうどは俺がするよ、嬉しからう」
「まア、親分、そんな事を」
 お染も少し持て餘し氣味のやうですが、さすがに逃げもならず、モヂモヂと銚子ばかり撫でて居ります。
ついでに今晩、三々九度の盆はどうだ。惡くねえだらう、なあおい、お染坊」
 平次の醉態が少しひどくなると、八五郎は急に眞面目になりました。この醉態すゐたいには何か、わけがありさうに思へてならなかつたのです。
「親分、冗談はいゝ加減にして下さいよ。お染が泣き出しさうにして居るぢやありませんか」
 たまり兼ねて萬吉が口を出しました。
「泣くほど嬉しいのさ。持參金は五千兩だ、――これは親許の俺が、八五郎に持たせるんだぜ」
「――」
「俺は今月淺草の觀音樣へ行つたのさ。思ひ切りお賽錢さいせんをあげて、半日拜んだ揚句、この縁談をうらなふつもりで御神籤おみくじいた――」
「――」
 緊張した空氣の中で、平次は懷中を搜りました。取出した紙入――その中に八つに疊んで挾んだのは、何の不思議もない、半紙半枚に刷つた御神籤が一枚です。
「ね、この通り、第六十三番凶と出た。上の方に草苅籠くさかりかごを背負つて鎌を持つた子供が一人、秋の野を行く繪があつて、下には四句
何故生荊棘なにがゆゑぞけいきよくをしやうずること
佳人意漸疎かじんこゝろやうやくそなり
久因重輪下きういんかさねてめぐりくだる
黄金未わうごんいまだきよをいでず
 斯うつてある。心は、『このくじに逢ふ人は運甚だ惡し』と來た、『待人來らず、望み遂げ難し、賣買利なし、元服げんぷくよめとり聟とり旅立ち萬惡よろづわるし、女色によしよくの惑ひ深く慎しむべし』と、いやはや散々の體さ、――」
「――」
「諦めた方が宜いぜ、八」
「親分、――それや、一體、何で」
 八五郎は引入れられる心持で、疊の上へ延べたお神籤みくじを見入りました。平次の言葉の奧の奧には、不可解な謎がひそんで居さうだつたのです。
「おみくじだよ、げん大師だいしの有難い御神籤さ。六十三番のきよう
「六十三番の凶?」
「子供が死に際に言つたのは、六十三の今日ではなくて、六十三番の凶だつたのさ」
「えツ」
「守り袋にこれがあつたんだ。隱居の勘兵衞さんは、この御神籤の文句の中に五千兩の金を隱した」
「――」
 恐ろしい緊張きんちやうです。誰やらの齒が、カタカタと鳴りました。
「隱居は若い時寺に居たさうだ。御神籤みくじの文句から思ひ付いて、その文字に當てはまるやうな隱し場所を拵へた。ありつたけの提灯をつけて皆んな俺と一緒に來るがいゝ。五千兩の金を今、此處で搜し出してやる」
 平次の態度は自信に滿ちて居ります。忽ち用意された提灯が七つ、勘五郎夫妻、久藏親子、和助、萬吉、それに下女、下男、小僧、平次とガラツ八を加へて、隱居所の縁から、春草の漸く青くなりかけた庭に降り立ちました。
「最初の一句は、何故やぶいばらが生えたか――と言ふんだ」
 七つの提灯は期せずして、廣い庭の彼方、隱居がやかましく言つて手を入れさせなかつた藪のあたりを照らしました。
「佳人心漸くなり――これは八五郎が、お染さんに嫌はれたといふこゝろだ」
 平次はこんな馬鹿なことを言ひますが、もう、笑ふ者もありません。
久因きういんかさねてめぐくだるは、――輪を重ぬるの下と讀むのだ、それ」
 平次の指す下には、古い石臼いしうすが二つ、半分は土に埋まつて藪の中に捨てゝあつたのです。
「八、その臼を起して見るが宜い。その下に古いとひか何かあるだらう」
 平次の言葉を待つまでもなく、石臼の下には一枚板があつて、それを擧げると、その下は大きな木の暗渠あんきよ――昔は坂上の水を引いたらうと思ふやうなのが現れました。
黄金未出暗渠わうごんいまだきよをいでず――その中に五千兩なかつたら、――八、どうしよう、首をやるのは痛いが、不味まづい酒位は買ふぜ」
 平次の言葉が終らぬうちに、
「あつたツ」
 ガラツ八は歡聲を擧げました。暗渠あんきよの中には千兩箱が五つ、いや六つ、七つまで、累々るゐ/\と押込んであるではありませんか。


「親分、――かたきは?」
 お常は千兩箱の山には目もくれずに、平次の次の言葉を待ちました。恐ろしい緊張が水のやうに多勢の背筋を流れます。
「二人を殺したのは、六十三番凶の神籤みくじを持つて、明神前の卜者うらなひへそのこゝろを解いてもらひに行つた奴――」
 平次の言葉が終らぬうちに、提灯が一つ宙に飛びました。平次の顏へ、目潰めつぶしに叩きつけて、其場から逃出さうとした者があつたのです。
「野郎ツ」
 咽嗟とつさの間に飛付いたガラツ八、曲者の襟髮を手繰たぐり寄せるやうに、後ろから羽掻締はがいじめにしました。
「神妙にせい、萬吉」
 平次の手は崩折れる曲者の肩へピタリと掛ります。
        ×      ×      ×
「親分、何だつて、あんなに醉つ拂つた眞似なんかしたんで?」
 山崎屋から、萬吉を引立てた歸り、ガラツ八はまた繪解きをせがみます。
「萬吉とお染の顏色が見たかつたのさ」
「お染には關係かゝはりはないでせう」
「大ありさ。隱居所へ自由に入るのは、お常と下女と、それからお染の三人切りだ。萬吉が忍び込んだんぢや、隱居は目ざといからきつと聲を立てる」
「へエ――」
「お染に肩を揉ませて居るうち、六十八の隱居は、年にも恥ぢず、若い娘にからかつたのだらう」
「――」
「物蔭から樣子を見て居た萬吉は、ツイかつとなつて、飛込んで隱居を締めた。――日頃氣に入らない事が多かつたのだらう、親の代からこき使はれて、ろくな事もしてくれない上に、近頃はお染をえさにして、無理な働きをさせ、何時まで經つても一緒にしてくれさうもない――」
「成程ね」
「隱居を殺すと、穴倉に五千兩の金がある事に氣がついた。それを盜み出す積りで蝋燭らふそくの灯りで見たが穴倉は空つぽだ」
「多分お染が、金の隱し場所を書いた書付けは、隱居が一番可愛がつて居る、孫の勘太郎の巾着きんちやくに入つて居る――と教へたんだらう。――あの娘は綺麗な顏をして居るが、人間はあまり賢くない。八五郎の女房には不足だよ」
「親分」
「まア、さうムキになるな。――ところで、勘太郎の巾着を奪るつもりで、納戸なんどへ入つた萬吉は、運惡く勘太郎に見つかつた。咄嗟とつさの智惠で、蒲團を包む萠黄もえぎの大風呂敷をかぶると、箪笥たんすの中の脇差を拔いて、いきなり勘太郎を突殺してしまつた。巾着を盜むところを見られると、隱居殺しまで露見する。お染はかしこくない娘だが、勘太郎を殺したのも萬吉と察したから、その罪の恐ろしさに、すつかり氣が變つて、昨日今日萬吉の側へ寄りつかなくなつてしまつた。――その上、放つて置くと、萬吉はお染も殺し兼ねなかつた」
「へエ――」
「幸ひ六十三の凶をお神籤みくじと氣がついて、下手人と金と一緒に見つけたのは、飛んだ拾ひ物さ」
「變なことがあるものだね、親分」
 ガラツ八は薄寒くえりを掻き合せました。少々賢くないにしても、お染の美しさが、まだ眼の前にチラつきます。





底本:「錢形平次捕物全集第九卷 幻の民五郎」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年7月20日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1938(昭和13)年3月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年3月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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