錢形平次捕物控

城の繪圖面

野村胡堂





「親分、大變な野郎が來ましたぜ」
 ガラツ八の八五郎は、拇指おやゆびで自分の肩越しに指し乍ら、入口の方へあごをしやくつて見せます。
「大變な野郎――?」
 錢形の平次は、岡つ引には過ぎた物の本に吸付いて、顏を擧げようともしません。
二本差りやんこが二人――」
「馬鹿野郎、御武家を野郎呼ばはりする奴があるものか、無禮討にされても俺の知つたことぢやないぜ」
「でもね親分、立派なお武家が二人、敷居をめるやうにして、――平次殿御在宿ならば御目にかゝりたい、主人姓名の儀は仔細あつて申兼ねるが、拙者は石津右門いしづうもん、大垣伊右衞門と申すもの――てやがる。まるでお芝居だね、へツ、へツ、へツ、へツ」
 ガラツ八は、たがの拔けたをけのやうに、手の付けやうのない馬鹿笑ひをするのです。
「御身分の方だらう、丁寧にお通し申すんだ。――その馬鹿笑ひだけなんとか片附けろ、呆れた野郎だ」
 小言をいひ乍ら平次は、取散らかした部屋の中を片附けて、少し煎餅せんべいになつた座蒲團を二枚、上座らしい方角へ直します。
「これは、平次殿か、飛んだ邪魔をいたす。拙者は石津右門――」
「拙者は大垣伊右衞門と申す者」
 二人の武家は開き直つて挨拶するのです。――石津右門といふのは、五十前後の鬼が霍亂くわくらんを患つたやうな惡相の武家、眼も鼻も口も大きい上に、澁紙しぶがみ色の皮膚、山のやうな兩肩、身扮みなりも、腰の物も、代表型テイピカル淺黄あさぎ裏のくせに、聲だけは妙に物優しく、折目正しい言葉にも、女のやうな柔かい響があります。
 大垣伊右衞門といふのは、それより四つ五つ若く、これは美男と言つてもいゝでせう、ひいでた眉、高い鼻、少し大きいが紅い唇、うたひの地があるらしいさびを含んだ聲、口上も江戸前でハキハキして居ります。
「私が平次でございますが――御用は?」
 平次は靜かに顏をあげました。
「外ではない。町方の御用を勤める平次殿には、筋違ひの仕事であらうが、人間二人三人の命に係はる大事、折入つて頼みたいことがあつて參つた――」
 石津右門は口を切るのです。
「拙者はさる大藩の國家老、こゝに居られる大垣殿は江戸の御留守居ぢや。耻を申さねば判らぬが、三日前、當江戸上屋敷に、不測ふそくの大事が起り、拙者と大垣殿は既に腹まで掻切らうといたしたが、一藩の興廢こうはいかゝはる大事、一人や二人腹を切つて濟むことではない。――兎やかう思案の果、さる人から平次殿の大名たいめいを承はり、良き智慧を拜借に參つたやうなわけぢや――」
 四角几帳面きちやうめんな話、聽いて居るだけでも肩の凝りさうなのを、ガラツ八はたまり兼ねて次の間へ避難しました。――平次殿の大名――から――良き智慧を拜借――が可笑しかつたのです。
「旦那、お言葉中でございますが、あつしは町方の御用聞で、御武家や御大名方の紛紜いざこざに立ち入るわけには參りません。承はる前に、それはお斷り申上げた方が宜しいやうで――」
 平次が尻ごみしたのも無理はありません。腹を切り損ねて飛込んで來た武家などには、どうも附き合ひ切れないと思つたのです。石津右門の辭色じしよくは、何樣以て容易のことではなかつたのでした。
「――待つた。平次殿、その言葉は一應尤もだが、これは何分にも大事の上の大事だ。二十萬石の大々名が改易削封かいえきさくほうになれば、何百何千人の難儀ばかりでない。天下靜謐せいひつの折柄、その爲にどんな騷ぎが持上がり、諸人の迷惑にならうも知れぬ――」
「承はりませう、旦那、それ程迄に仰しやるなら、兎も角、そのお話を承はつてあつしでできることなら、何なりと致しませう」
 平次も度胸を決めました。この二人の武家はウンと言ふ迄、てこでも動きさうもないのを見て取つたのです。
「それは辱けない、流石さすがは義に勇む平次殿、世上の噂に僞りはない」
「おだてちやいけません」
「實は斯う言ふわけだ――」
 石津右門は語り出しました。


 奧州のさる大藩の居城で、去年の大嵐おほあらしの爲に、石垣と天守が大破し、此儘に差置いては危險此上もない有樣なので、いよ/\何十年目かの大修復をすることになりました。
 ところが、その頃の徳川幕府は、大名の浪人を召抱へることゝ、新城をきづくことは嚴禁同樣、修復、改造にも、恐ろしく神經を尖らせ、程度次第では、繪圖面を引いて公儀の許しを受けなければ、謀叛むほん同樣に見做みなされる場合もあつたのです。
 豊家恩顧の大名は代變り乍らまだ諸國に殘つて居る時なり、その上、天草騷動、由比正雪の隱謀いんぼうなどですつかり脅かされた幕府は、外樣とざま大名に對して、極度に警戒して居たのも無理のないことでした。
 もう一つ、運の惡いことは、石津右門等の藩といふのは、幕府に睨まれて奧州へ轉對させられたばかり、外樣のうちでも、一番警戒されて居た家柄だつたのです。居城修復のため、江戸から神田末廣町の棟梁とうりやう柏木藤兵衞といふ、有名な城大工を國許まで呼び寄せ、濠、石垣から、三の丸、二の丸、本丸の繪圖面ゑづめんを引かせ、その上、嚴重にも嚴重を極めた、修復の原案を書き加へて、家老石津右門、藤兵衞と一緒に繪圖面をたづさへて江戸表に着いたのは四五日前のことでした。
 明日はその繪圖面を龍の口に持參、公儀のお許を願出ようと言ふ時、棟梁の藤兵衞は、自分の引いた繪圖面の中に氣に入らないところがあるから、ほんの暫らく拜見したい――と、石津右門のしぶるのも構はず末廣町の自宅に持つて歸り、一と晩止めて、ほんの少しばかり手を入れた上、翌る日は上屋敷に持參、家老石津右門と、用人大垣伊右衞門立合の上、開いて見ると、これが眞つ赤な僞物、――奧州のお城の繪圖面とは似も付かぬ、藤兵衞が江戸で請負うけおひをした、寺や屋敷の繪圖面と變つて居たのです。
「それから三日間、藤兵衞の家は言ふに及ばず、上屋敷まで調べたが、繪圖面の行方は皆暮かいくれわからない。その上、今朝江戸御留守居の大垣殿お長屋へ――國元居城の大修理は、籠城の用意と相見えた、謀叛むほんくはだて證據の品を揃へて、公儀へ訴出るが何うだ――といふ投手紙が飛び込んだ」
 石津右門は斯う語り進みます。
「――」
 事の重大さに、平次も固唾かたづを呑むばかり。
「それを聽いて、棟梁の藤兵衞は今朝自害して相果て、御上屋敷に於ても、奧方樣始め下々まで、安き心はない。折柄主君は御在國中、此上の思案も盡きて、平次殿の智慧を拜借に參つたのぢや」
 朴訥ぼくとつな調子で話り了ると、石津右門はホツと溜息を吐きます。鬼の霍亂くわくらんしをれ返つた樣子は、物の哀れを通り越して可笑しくなる位。
「平次殿、一藩の危急、げて乘出して貰ひたい」
 大垣伊右衞門も疊に手を落しました。
「成程、承はれば何百人何千人の難儀にもなる大事。いかにも、私で出來るだけの事はして見ませうが――」
「それはかたじけない」
「大垣樣のところへ投り込んだといふ手紙と、僞の繪圖面を拜見出來ませんか」
「これぢや、幸ひ用意して參つたが」
 取出したのは、疊紙たゝうがみに入れた疊二枚ほどの大繪圖面が三枚と、半紙一枚に書いた結び文が一通、平次はそれをくり擴げて、暫らくは眺め入りました。
「結び文は隨分下手な手蹟だが――いづれ文字などには馴れない者の仕業であらうな」
 と差覗く石津右門。
「これは釣筆つりふででございますよ、旦那」
「釣筆?」
「筆蹟を隱す爲に、天井てんじやうから絲で筆を釣つて書くと、このやうなフラフラした字になります」
「成程」
 石津右門と大垣伊右衞門は、先づ出發點から、平次に感服してしまひました。
「この僞の繪圖面には棟梁柏木藤兵衞とありますね」
「左樣、――それから、弟子、良助、太吉と書き添へてある」
「兎も角、末廣町へ參つて見ませう」
「御上屋敷は?」
 大垣伊右衞門です。
「末廣町の棟梁が、お屋敷へ繪圖面を持つて參つて、お二人にお目にかける迄、誰か手を掛けた者がなかつたでせうか」
「藤兵衞の家では、どんな事があつたか知らぬが、御上屋敷へ持參したのは藤兵衞と弟子の良助の二人で、我等兩人と逢ふ迄、繪圖面は二人の側に引付けて、寸刻すんこくも眼を離さなかつたと言ふことだ」
「それぢや、繪圖面は棟梁とうりやうの家で無くなつたに決つて居ります。早速末廣町へ參りませう」
 平次は立ち上がつて、もう出かける支度をして居ります。


 末廣町の藤兵衞といふのは、かつては御大工頭中井主水の配下で、お城大工としては、江戸でも名譽の大棟梁、その後扶持ふちに離れて、諸藩の御用を承はり、多勢の弟子を養つてをりますが、繪圖面の紛失に、よく/\思ひ詰めたものか、この日の朝、磨ぎすましたのみで、喉を突いて相果てたのです。
 平次とガラツ八が二人の武家に伴れられて行つたのは、この騷ぎの眞つ最中、血潮と線香の匂ひの瀰漫びまんする中へ踏込んで、さすがの平次も胸を痛めましたが、背後には、もつと大きな災害が控へて居ることを考へて、委細構はず探索の手を擴げたのでした。
「もう一度家搜しをしようか、平次殿」
 大垣伊右衞門は江戸者らしい氣さくな調子で平次を顧みます。
「いえ、それには及びません。三日の間搜して解らない品が、あつしが搜したところで出て來る筈もございません」
「成程」
「それより、一人、一人、家の者や奉公人に逢つて見ませう、人相を見たら、又何とか思案も浮びませう」
 平次は一應出入口や間取りの工合を見た上、先づ五、六人の奉公人を集めて、一わたり顏を見ました。何の用意があるわけでもありませんが、斯うして生きた人間の表情の動きを見てゐるうちに、何か暗示ヒントを掴むのが、平次の一つのやり口でもあつたのです。
「死んだ棟梁が氣の毒だと思ふなら、皆んな隱さずに知つて居ることを話してくれ」
「――」
 平次の斯う云ふ意味は、よく奉公人達に通じた樣子でした。
「ところで、失くなつた繪圖面がたつた一晩此處へとめられた時、何處にどんな工合に置いてあつたか、皆んな知つて居るだらうな」
「それはよく知つてゐますよ、親分さん」
 五、六人の聲は一緒でした。物を隱すことを知らない正直な人達の顏を、平次はしたしい心持で見渡します。
「それを話してくれ。何でも知つて居ることを、皆んなぶちまけてくれさへすれば、棟梁の敵は俺が討つてやる」
 平次の誘ひのつぼにはまつて、――藤兵衞は四日前の晝過ぎ疊紙たゝうがみに入れた大きな物を、風呂敷に包んで歸つた事や、それを夜中まで擴げて、首を捻つたり、手を入れたりした上、元の通り疊んで神棚に供へ、自分は一晩その下で寢た事、翌る日は辰刻半いつゝはん頃(九時)、包みのまゝ持つてお屋敷へ行つたことまで、手に取る如く解りました。
「お前は?」
 始終默つて居る一人の娘を、平次は指しました。
「あの、私は、何にも知りません」
「何と言ふ」
「私の名で? ――杉と申します」
 十七、八の素直さうな娘ですが、すつかりおびえて、小さくなつてしまひます。
「仕事は?」
「お孃さんの身の廻りのお世話をしたり、いろ/\の事をして居ります」
 お城大工の柏木藤兵衞は、早く配偶つれあひを失つて娘のお勇一人を相手に、淋しく暮して居たのです。曾つては御作事奉行の下に、十人扶持をんだ藤兵衞ですから、娘もお孃さん育ちだつたのに、何の不思議もありません。
棟梁とうりやうの床は誰がとる?」
「お杉さんですよ、親分」
 誰やら後ろの方で言ふ者があります。
「その晩に限つて、神棚の下に寢た棟梁だ。その床の世話をしたお前が、繪圖面に氣がつかなかつたと言ふのか」
「ハイ、イーエ」
 お杉は青くなつてしまひました。
「一晩繪圖面の番をした棟梁でも、朝になれば手洗てうづも使ひ、飯も食ふだらう。その間神棚の下に居たのは誰だ」
「お杉さんですよ、親分」
 又誰やらが聲をかけます。


 多勢の弟子職人の間には、棟梁とうりやうに叱られた者も、怨んで居るものもないとは限りませんが、その晩から朝へかけて、棟梁の部屋に入つた者も、神棚の下に近づいた者もありません。
 その中で神棚に近づいたのはたつた二人、藤兵衞の身の廻りの世話をしたお杉と、娘のお勇の外にはありません。平次はてんじて娘のお勇に訊ねました。
「お勇さん、親が命を投出したほどの大事だ。この繪圖面を搜し出さなきや、大名が一軒つぶれるぜ」
「――」
「知つて居ることを隱しただけでも、どんなに罪が深いか知れない。打ち明けて話してくれまいか」
 誰も聽かないところで、平次は娘のお勇へ斯う説いたのです。下女のお杉は何か知つてるに違ひありませんが、弱々しく頼りないやうに見えるくせに、何と責めても口をかず、この娘をこんなに強情にするのは、戀人か主人の外にはないと見込んだ平次は、取あへず、藤兵衞の娘お勇の口から、事件のかぎを引出さうとしたのでした。
「――では、この場限りでございますよ、親分さん」
 お勇はたうとう口を割りました。その頃にしては少したうの立ちかけた二十歳はたち、さして美しくはありませんが、育ちのせゐか垢拔あかぬけがして、娘らしい魅力に申分はありません。
「惡氣でした事でなければ、決して人に言つたり、お前を罪に落すやうな事はしない、――一體どんな事があつたんだ」
「――」
 さう言はれると、お勇はさすがに氣がくじけます。言つて退けようか、言はずに濟まさうか、暫らくは迷つて居る樣子でした。
「手紙を書いたんぢやあるまいな、大垣伊右衞門樣へ――」
 平次は先刻の手紙――釣筆つりふでで書き乍ら、何となく女の筆跡らしいのを思ひ出したのです。
「いえ、そんな事は存じません」
「では?」
「申しませう。却つて變な疑ひを受けては困ります」
「その通りだよ、お勇さん」
「今では後悔して居りますが、お杉に言ひ付けて、父さんが御飯のうちに、神棚の繪圖面ゑづめんを取らせたのは私でございます」
「――」
「親分さん、びつくりなすつたでせう。本當に惡いことをしました。でも、その繪圖面が、どんなに大事なものか、薄々は知つて居ましたので、私の部屋の置床おきどこの上へ置いて、直ぐ元の神棚へ行つて見ると――」
「直ぐ?」
「何か氣がかりで、凝として居られませんでした。そつと元の神棚のところ行つて見ると――神棚には、ツイ今しがたお杉に取らせて、自分の部屋へ置いて來たばかりの疊紙たゝうに入つた繪圖面が供へてあるではございませんか」
「――」
 お勇の話はかなり變つて居ります。
「暫らくは呆氣あつけに取られて居りましたが、念の爲に私の部屋へ歸つて見ると、其處に置いた筈の繪圖面がございません」
「――」
「そのうちに父さんは、神棚の繪圖面を取りおろして、お屋敷へ行つたので、その儘になつてしまひました。誰か、私がウロウロして居るうちに、私をこらしてやるつもりで、私の部屋の繪圖面を取つて、神棚へ返したことゝばかり思ひ込んで居りました」
「――」
「お杉に訊いても、良助に訊いても、そんな事は知らないと言ひますが――」
 良助といふのは、太吉と共に、死んだ藤兵衞の大事な弟子であつたことは僞繪圖面にせゑづめんに書いた名で平次も知つて居ります。
「何うして、神棚から繪圖面を取る氣になつたんだ、誰に頼まれたんだ」
 不思議な娘心を、平次も追及つゐきふせずには居られません。
「父さんが、あんまりだつたんです、三年も前からの約束を、反古ほごにする氣なんですもの。――私はツイ、繪圖面を隱して、ほんの半日でも父さんを困らせ、三年前の約束を思ひ出させたかつたんです」
「――」
 平次は二十歳はたち娘の盲目な戀を火のやうに近々と感じて居りました。が、追及つゐきふしたところで、これ以上は言はなかつたでせう。
 奉公人達の心持や口裏を探ると、――お勇と三年前に約束したのは、内弟子の良助で、いづれは婿むこに容れて、藤兵衞のあとを繼がせる口約束までしましたが、男振に似合はず、腕の鈍い良助は、次第に藤兵衞に愛想あいそを盡かされて、近頃は努めて、娘をやる約束を、忘れさせようとして居る樣子だつたのです。
 到頭嫁入の時を遲らせて、二十歳はたち島田の歎きを見たお勇が、近く此家このやから放り出されさうな良助の爲に、大事な繪圖面を隱して、一か八かの大論判を、父親と開くつもりだつたのでせう。


「親分――曲者は同じやうな疊紙たゝうを用意して、お杉が出た後、僞繪圖面を神棚へ供へ、大急ぎでお勇の部屋から眞物ほんものを掻つ拂つたのだね」
 とガラツ八の八五郎、なか/\に穿うがつたことを言ひます。
「その通りさ、――たゞ、同じやうな疊紙たゝうまで用意するのは、たくらみが深いな」
 と平次。
「でも、どんなに企らみが深くても、そとから持つて來たのではないでせう。疊紙の中に入つて居たのは、此家このうちの仕事場の抽斗ひきだしに入つて居た、寺や屋敷の下繪圖面だと言ふから」
 ガラツ八の今日の頭の良さ。
「――」
 平次は默りこくつて考へて居ります。
 それから、藤兵衞の死體を納めた一間を覗いて見ました。まだ入棺にふくわんもせず、北枕に寢かして、さか屏風びやうぶを廻した前に、弟子の良助と太吉がしきりに香をひねつて居ります。
 何方も二十七八、坐り馴れない樣子でモヂモヂして迎へましたが、良助といふのは、娘のお勇が執心するだけの好い男、太吉といふのは、堅い一方といつた、職人にしては、眞面目過ぎる位の平凡な男です。
棟梁とうりやうが自害したのを一番先に見付けたのは、誰だとか言つたね」
 平次は二人を等分に見ました。――自害じがいを見付けたのは、早起はやおきの良助と太吉、雨戸を繰つて、春の朝風を入れる時、この慘事さんじに氣がついた――といふことは、先刻他の奉公人達から聽いたことでした。
「あつし共二人一緒でしたよ、親分」
 良肋は膝つ小僧を揃へました。
「一緒といふことはあるまい、少しは遲い早いがあるだらう」
「見付けたのは私で、――大きな聲を出すと、兄哥あにきが飛込んで、親方を後ろから抱き起しました」
 太吉はちうを入れます。
「その時はもう息が絶えて居たのだね」
着換きがへをして床の上へ坐つたまゝ、のみのどを突いて居りましたが、――」
 良助はさう言つてゴクリと固唾かたづを呑みました。
遺書かきおきがあつた筈だが――」
 平次の自信に充ちた調子が、すつかり二人を驚かした樣子です。
「兄哥」
「――」
 太吉は良助を顧みました。
「出した方がいゝぜ。つまらねえことをして、痛くもない腹を探られるのも業腹ごふはらだ」
 太吉の落着いた聲が、妙に人を動かします。
「親分、濟みません、ツイふら/\と隱してしまひました。あつしには我慢が出來なかつたので――」
 良助は立ち上がると、部屋の隅のふすまの引手を一つ外しました。中から引出したのは、半切に書いた遺書かきおきが一通。
「どれ/\」
 平次も、石津右門も、大垣伊右衞門も首をあつめました。が、遺書は一向平凡なもので、繪圖面紛失のせめを負つて死ぬことゝ、娘のお勇は、良助を諦めて、親類方の決めてくれる婿を容れ、柏木藤兵衞の跡を立てゝくれるやうに――といふことで終つて居ります。
遺書かきおきを隱したことを、お勇は知つて居るのか」
 平次は良助の恐れ入つた顏をかへりみました。
「飛んでもない、親分。そんな事を言はれる筈もありません」
 これが、良助と太吉から得た全部です。


 平次はいろ/\考へました。
 藤兵衞が隣の部屋で食事をしてゐる間に、誰かゞ藤兵衞に知れないやうに神棚に僞の疊紙たゝうがみを置いて、直ぐお勇の部屋へ引返し、置床の上から、眞物ほんものの疊紙を持つて行くことが出來るでせうか。
 神棚のある部屋から、お勇の部屋に行く通路を研究して見ましたが、お杉やお勇に姿を見せずに、そんな器用なことをやり遂げるのは、藤兵衞自身の外にはありません。つまり、藤兵衞に姿を見られずに、疊紙を置換おきかへられるのは、お杉とお勇以外は藤兵衞自身が一番都合が良いと言ふことになるのです。藤兵衞が疊紙を置換へたり盜んだりすることがあり得るでせうか。
「旦那方、これはあつしの手に了へません。少し考へさして下さいませんか」
 半日無駄にした上、平次は到頭音をあげてしまひました。
「曲者の見當も付かぬと言ふのか」
 石津右門と、大垣伊右衞門の顏の暗さ。
「見當は付いて居ります」
「誰ぢや」
 と石津右門。
「疊紙を置換へられるのは、死んだ藤兵衞の外にはありません」
「藤兵衞が――、自分で繪圖面をへたといふのか」
「だから變ぢやございませんか、もう一度考へ直して見ませう」
「フーム」
 平次はそれつ切り引揚げました。この上頑張ぐわんばつて居ても、何の手掛りも見つかりさうはなかつたのです。
「親分」
 歸りを急ぐ途々、ガラツ八の不服さうな顏といふものはありません。
「何だ、八」
「何だつて投げてしまつたんで、――親分らしくもないぢやありませんか」
「世の中には詮索せんさくして良いことゝ惡いことゝあるよ」
「へエ――」
 平次の言葉はなぞのやうでした。
「死んだ藤兵衞へ繩を打つ法はあるまい」
「藤兵衞が本當に疊紙たゝうを置き換へたんでせうか」
「多分、そんな事だらう」
「自分の手にある繪圖面を、僞物と換へるのはわけが解らないぢやありませんか。それも奧州下あうしうくんだりまで行つて骨を折つて描いた繪圖面ぢやありませんか」
 ガラツ八は一生懸命に藤兵衞の爲に辯じます。
「その通りだよ。だがな八、同じやうな疊紙を急に手に入れて、眞物ほんものと掏り換へるなんてことは、外の者には出來ないよ。藤兵衞なら前から用意して置ける筈だ」
「でも變ぢやありませんか」
「それに、藤兵衞ほどの者が、神棚から疊紙をおろしたまゝ一應中を改めずに、上屋敷へ持つて行く筈はない」
「成程ね」
「藤兵衞が自分でやつたとなると事面倒だ。うつかりすると、飛んだことになる」
「サア解らねえ、何が飛んだことでせう、親分。第一、藤兵衞が自分の手許にある繪圖面を僞物と換へて、眞物を何處へやつたでせう」
 ガラツ八には益々解らなくなる事ばかりです。
「ね、八、藤兵衞は御作事おさくじ奉行附棟梁とうりやうで、近頃まで十人扶持を頂いて居たんだよ」
「――」
「解らないのか、八」
隱密おんみつ?」
「シツ、大きい聲ぢや言へねえが、石津いしづさんの御主人といふ殿樣は、大公儀から睨まれ通しだ。近頃はお國元に引籠り、病氣の御屆を出して、容易に參府もしないと言ふ噂ぢやないか。異心のありさうな大名の城やほりの繪圖面を、藤兵衞から無理にでも借り出すのは誰だと思ふ――」
「――」
 ガラツ八は仰天しました。平次の話があまりに大袈裟おほげさです。
「多分一日か二日で藤兵衞の手へ返すつもりだつたろう。藤兵衞はそれを待つて三日頑張つたが、繪圖面は返らぬ、――疊二枚ほどもあつて、其上念入りに細密さいみつな繪圖面だから、二日や三日では、うつし切れなかつたのだらう」
「親分、それは本當でせうか」
「嘘かも知れない、――いや嘘であつてくれるとよい。若し本當なら、公儀こうぎに睨まれてゐるあの御藩中は、今に大變なことになるだらうよ」
 平次はまだ腑に落ちないものがある樣子です。


 繪圖面事件は、これがほんのじよで、これから、思はぬ方向へ展開して行きました。
 江戸開府以來の名御用聞と言はれた平次も、この時ほどひどい失策しくじりをやつたことはありません。
 それから三日目。
「親分、大變なことになりましたぜ」
 飛込んで來たのは、早耳のガラツ八でした。
「何だ、お前の大變は食ひ飽きて居るが」
「冗談ぢやねえ、――末廣町の藤兵衞棟梁のところの太吉が殺されたことを御存じですかい、親分」
「何? 太吉が殺された。しまつた、八」
 平次は何も彼も投り出して立上がりました。
「驚くでせう、親分」
「最初からやり直しだ、八。行つて見よう」
「へエ――」
 八五郎に否も應もありません。二人は宙を飛んで末廣町へ――。
 柏木では主人藤兵衞が死んで、三日目の此の騷ぎに、眞に上を下への顛倒てんだうぶりです。
「太吉は昨夜家を明けて、曉方歸つて來た樣子でした。殺されたのは、それから間もなくでせう」
 さう言つて案内してくれたのは、太吉とは兄弟分の――たゞしあまり仲のよくない良助です。
「これは?」
 平次は木戸を押しあけ、むしろを拂つて驚きました。まだ檢屍のすまぬ太吉の死骸は、薄濕うすじめりの大地の上に、朱を浴びた襤褸切ぼろきれのやうに倒れて居たのです。
 傷は一刀の下に斬下げた、見事な後ろ袈裟げさ虚空こくうを掴んで仰反のけぞつた太吉の顏は、おびたゞしい出血に、紙よりも白くなつて居ります。
「八、死骸の懷中を見てくれ」
「へエ――」
 八五郎はさすがに躊躇ちうちよしましたが、それでも平次にうながされる前に、死骸の懷中へ深く手を差込みました。
「おや」
 ズルズルと引出したのは、紐の長々と付いた財布、中には小粒が少しばかり、別に大した品もありません。
「すまねえが、太吉の部屋を見せて貰はうか」
「へエ――」
 良助に案内されて行つたのは、裏の三疊、大してきたなくはありませんが、地味で實際的な太吉の部屋らしく、何の飾りもない殺風景極まるものでした。
「荷物を見たいが」
「へエ――」
 押入を開けて引出したのは、葛籠つゞらが一つ、蓋を拂つて見ると、半纒はんてん股引もゝひきの外は、ほんの少しばかりの着換があるだけですが、葛籠の目方が、見てくれより少し重いことに平次は氣がつきました。
 中の物を皆んな出して、底に張つた紙を剥すと、
「あツ」
 ガラツ八が驚いたのも無理はありません。葛籠の底から出た小判は、ざつと五、六十枚、燦然さんぜんたる眞新しい山吹色が、部屋一パイに咲きこぼれます。
(太吉がこんな大金を持つてゐる筈はない)
 平次の頭腦は急速に旋回せんくわいを始めました。
 お城大工の弟子が、どんなに堅い人間であつたにしても、十兩と溜めて居る筈はありません。續いて浮ぶ考へは、
(誰か太吉へ金をやつた者があるに違ひない)
 といふことでした。
(どうかしたら、繪圖面を賣つた金かも知れない)
 併し、賣る爲には繪圖面を手に入れなければなりませんが、あの朝、太吉は良助達と一緒に仕事場に居たことは明かで、どう考へても、藤兵衞やお勇の眼を盜んで、繪圖面を手に入れる工夫はなかつた筈です。
(では、強請ゆすつて取つた金ではないか)
 此處まで考へると平次は、
「八、死んだ藤兵衞が、繪圖面がなくなつてから死ぬまで三日の間、外へ出たことが無いか、誰か藤兵衞を訪ねて來た人はないか、手紙か何か、使ひ屋に頼まなかつたか、それだけのことを訊いて來てくれ」
「へエ――」
「出來るだけくはしい方が宜い。奉公人達一人殘らず當つて見ることだよ」
「へエ――」
 ガラツ八は何が何やら解らぬ乍ら、忠實ないぬのやうに飛んで行きました。
 平次はそれ以上踏み止つては居ませんでした。其足ですぐ、石津右門の居る、大名の上屋敷へ向つて行つたのです。
 名乘るとすぐ通してくれたのは、奧まつた一室、石津右門相變らず鬼の霍亂くわくらん見たいな顏に、鬱陶うつたうしいしわを刻んで出て來ました。
「何うした。平次殿」
「『殿』は困りますよ、旦那、冷かされて居るやうで――」
「そんな事は何うでもいゝ、繪圖面は何うした」
「急には出て來ませんが、――實は公儀隱密こうぎおんみつの手に入つたことゝ思ひ込んで、心配いたしましたが、滿更さうでもなかつたやうで――」
「何? 公儀隱密?」
「大丈夫ですよ、旦那や隱密なら太吉に強請ゆすられる筈もなく太吉にあんな金をやる筈もありません」
「太吉が何うした?」
「殺されましたよ。後ろ袈裟にバツサリ、曲者は餘つ程の手利てきゝでせう」
「それは大變」
 石津右門も驚いた樣子ですが、事件には何の判斷もつきません。
「ところで、殿樣は何時頃御參府でせう」
 平次は妙なことを問ひました。
「それが解らぬ。何分公儀へは御病氣の御屆が出て居る位だから」
「うんとおどしておやんなさいまし、殿樣が江戸へ出てゐらつしやると、繪圖面も大抵戻ります」
「何を申す、平次」
「それから、一寸伺つて置きますが、石津の旦那は、殿樣の御一門でせう」
「遠い/\血筋を引いてゐる」
「大垣の旦那は、奧方の叔父さんで?」
「その通りだ」
「お二人で一生懸命お國許の殿樣御參府をお願ひして御覽なさいまし」
「毎度やつて居るぞ」
「今度は繪圖面が紛失ふんしつして、お家の安危にかゝはるから、つて御出府を願ひたいと仰しやればいいんで――」
「よし/\」
 石津右門は、さしたる自信もなくうなづきます。


「親分、たうとう三輪みのわの親分が乘出しましたぜ」
 ガラツ八はプリプリして歸つて來ました。
「良助を縛つたらう?」
 と平次、三輪の萬七ならそんな事をやり兼ねないと思つたのです。
「何處で聽きました、親分」
「聽かなくたつて解つてゐるよ。良助が藤兵衞の遺書かきおきを隱したのを、太吉に素破すつぱ拔かれた上、日頃仲が惡いから、太吉を殺したに相違ないと言ふんだらう」
「その通りですよ、親分。まるで天眼通てんがんつうだ」
「三輪の兄哥のやりさうなことだ。でも、後で氣の毒になるから、お前、これだけの事を言つてやるがいゝ。あの袈裟斬けさぎりは手際が良過ぎるから、良助ぢやあるまい――とな」
あつしもそれを言ひましたよ。それに刀が見つかりません」
「で――?」
「三輪の親分は相手にしませんよ」
「ところで、先刻頼んだ事は解つたか」
 平次は題目を變へました。
「大抵解つた積りです。藤兵衞は上屋敷から歸つた晩から、自害じがいする日まで、一歩も外へ出なかつたさうです」
「フーム」
「石津樣と大垣樣の外には、人も手紙も來なかつたし、使ひ屋を頼んだこともないさうです」
「有難い、それで解つた」
「何が解つたんで? 親分」
「繪圖面を手に入れたのは、隱密でも何でもないと解つたのさ」
「へエ――」
「馬鹿だな、八、あんなつまらねえ事に感心しやがつて、手前が感心なんかするから、俺までられて、飛んでもない方へ行くぢやないか」
「へエ――」
 何を叱られてゐるのか、ガラツ八には一向見當もつかぬ樣子です。
「隱密の仕業なら藤兵衞から眞物ほんものの繪圖面を受取つた筈だ。ところが藤兵衞は外へも出ず、人にも逢はない」
「――」
「隱密なら、御用人の大垣さんへ、あんな底を割つた結び文などをはふり込む筈はない」
「――」
「隱密なら、太吉へあんな大金をやる筈もなく、――太吉を殺す筈もない。太吉を手先に使つたものなら、此先ももう少し使ふ筈だ」
「解りましたよ、親分、繪圖面を換へたのは、藤兵衞ぢやないと言ふんでせう」
「その通りさ。八、何だつて今迄さう言つてくれないんだ」
「親分の氣の付かないやうな事が、あつしに解る道理がないぢやありませんか」
「どう致しまして」
 二人は顏を見合せてくすぐつたく笑ひました。
「で、親分、繪圖面を置き換へたのは、矢張り太吉で――?」
「それは違ふ、太吉にはそんな事が出來なかつた筈だ」
「すると」
「來るがいゝ。俺には漸く曲者の正體が解つたよ。――神棚かみだなの繪圖面を僞物と置き變へた人間の、顏を見せてやる」
 二人はもう一度末廣町へ。
 ――その時はもう、春の陽が暮れて、街々におぼろの夜が裾を引き始めて居りました。


「あつ、危ない。――見られたくない人間が居る、そつと身體を隱せ」
 平次にさゝやかれると、そんな事には馴れたガラツ八は、早くも塀の蔭に身をひそめました。
 柏木かしはぎ棟梁とうりやうの家――死んだ藤兵衞の家の裏口のあたりに、ゆらりと動く人影、錢形平次の早い眼が、それを見付けたのです。
 二つ三つ小さい拍手かしはでが鳴ります。何かの合圖でせう。
 間もなく裏木戸が開いて、チヨロチヨロ出たのは、一と廻り小さい人影、そとに待つて居る影にピタリと寄り添つたと思ふと、不意に――
「――」
 押し潰されたやうな聲がします。眼を擧げると、おぼろの中に、必死と揉み合ふのは、内と外から合圖をして逢つた二つの影法師かげぼふしではありませんか。
「八、生命がけだぞ、來いツ」
 平次は疾風しつぷうの如く飛びました。
「御用ツ」
 ――後から續くのは、八五郎自慢の※(「口+它」、第3水準1-14-88)しつたです。大きい影は、この形勢を見ると、小さい影を突放して、キラリと一刀を拔きました。
「――」
 平次は頃合をはかつて足を止めると、たもとを探つて取出した得意の青錢、右手はさつと擧ります。朧をつて飛ぶ投げ錢、二枚、五枚、七枚。
「あツ」
 曲者は、ひぢを打たれ、刄を打たれ、最後に額を打たれました。
「御用ツ、神妙にせいツ」
 八五郎の聲に驚いて、バラバラと飛んで來たのは、藤兵衞の弟子、喧嘩と彌次馬では、斷じて引けを取らないのが十五、六人。
「逃げるか、野郎」
 追ひすがる八五郎の鼻先へ、一刀をひらめかした曲者、身をひるがへしたと見るや、路地の外へ、バラバラと逃げ出します。
「御用ツ」
 追ひすがる八五郎。
「八、止せ――捕まへちや惡いことがある」
 平次の聲に、獵犬のやうにいきり立つ八五郎は、漸く足を踏みとゞめました。
「大丈夫ですか、親分」
「正體は判つて居る、安心するがいゝ。それよりは此方が大事だ」
 裏口のドブ板の上に倒れて、半死半生の姿になつて居るのは、下女のお杉、あの氣のきいた十八娘の可憐かれんな姿でした。
 曲者にのどを絞められて、既に危ふいところでしたが、平次の救ひが間に合つて、からくも命を取り止めたのです。小半刻經つて漸く元氣になつてから、多勢で責め問ひましたが、お杉は泣いてばかり居て何にも言はうとしません。
「よし/\、氣が落着いたなら言ふがいゝ。あの人に遠慮することはないよ、今頃はもう腹でも切つて居るだらうから」
 平次はひどく心得たことを言ふのです。それから間もなく、平次とガラツ八は、上屋敷の石津右門を訪ねて居りました。
「心配をかけたが、繪圖面は戻つたよ」
 石津右門のみにくい顏は、二人を迎へて、沈痛にゆがみます。
「大垣樣は、腹を召されたでせう」
 と平次。
「お察しの通りだ。が、何うしてそれを」
 何も彼も見透した平次の言葉に、石津右門もしたを卷いた樣子です。
「大垣樣の細工は、參覲さんきん交代をおこたらせられる殿樣の御身の上を安じての事、人間二人の命をちゞめ、その上、氣の毒な娘までも手に掛けようとしたのは許し難いことですが――お氣の毒でございます」
「それに大垣氏は、奧方の御身の上や一藩の運命も氣遣つたのぢや。内聞にしてくれるであらうな、平次殿」
 石津右門は又疊の上へ手を突きさうです。
 國元のめかけの愛に溺れて、病氣と稱して參覲を怠る殿樣、公儀の思惑おもわくはかり、めひの奧方の悲歎を察し、繪圖面を隱して、殿の參府をうながさうとした、大垣伊右衞門の苦衷は、善惡は兎も角、同情してやりたい平次でした。
「では、これでお暇いたします」
「飛んだ骨折であつた喃、平次殿、恩にるぞ」
「――」
 平次は默禮した儘八五郎を促して引下がりました。
        ×      ×      ×
 その歸り途。
「親分、下女のお杉が大垣の手先になつてゐたとは氣がつかなかつたね」
 ガラツ八は繪解がして貰ひたさうです。
「娘のお勇に頼まれて、贋物の繪圖面の入つた疊紙たゝうを盜み、その後へ大垣に頼まれた疊紙へ、在り合せの僞の下繪圖を入れて置いたとは氣がつかなかつたよ、――お勇に頼まれなければ、唯眞物と僞物を代へて置く積りだつたらう」
「娘の部屋から眞物をさらつて、大垣へ渡したのでせうね」
「その通りだ。あのお杉といふ娘は、思ひの外の智慧者さ。でも藤兵衞が自害したので、すつかり顛倒てんだうして居たよ、――俺はあの時氣がつく筈だつたが――藤兵衞を疑つたばかりにお杉には氣がつかなかつたのは不覺さ。まさか眞物を盜んで、僞物を置くとは思はないからなア」
 平次もこんな馬鹿な盲點まうてんに引つ掛つてだまされたことはありません。
「太吉を殺したのは、どうしたんでせう、親分」
「何でもないよ、太吉は何んかの都合で大垣の仕業と知つて、強請ゆすつたのさ。相手は、惡者ならもう少し考へるだらうが、大垣のやうな肌合の人間だから、我慢がならなかつたらう。一度は金をやつたが、二度目には斬られたのは自業自得といふものだらう」
 さう聽けば、何の疑ひも殘りません。
「お杉は?」
「明日行つて訊くがいゝ、――多分、大垣の縁故えんこの者だらう。金づくでやれる仕事ぢやないよ。あんな危ない仕事をさした上、口をふさぐ氣になつたのは、大垣も少し血迷つたのだらう。家も屋敷も大事には相違ないが、妾狂ひの殿樣を江戸へ呼ぶ爲に、殺さなくともいゝ人間を蟲のやうに殺すのは少し罪が深いね」
 平次は薄寒さうに襟をかき合せました。櫻のつぼみのふくらむやうな生温い春の宵です。寒いのは多分平次の氣持のせゐでせう。





底本:「錢形平次捕物全集第九卷 幻の民五郎」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年7月20日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1937(昭和12)年4月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年3月7日作成
2016年5月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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