「親分、大變な野郎が來ましたぜ」
ガラツ八の八五郎は、
「大變な野郎――?」
錢形の平次は、岡つ引には過ぎた物の本に吸付いて、顏を擧げようともしません。
「
「馬鹿野郎、御武家を野郎呼ばはりする奴があるものか、無禮討にされても俺の知つたことぢやないぜ」
「でもね親分、立派なお武家が二人、敷居を
ガラツ八は、
「御身分の方だらう、丁寧にお通し申すんだ。――その馬鹿笑ひだけなんとか片附けろ、呆れた野郎だ」
小言をいひ乍ら平次は、取散らかした部屋の中を片附けて、少し
「これは、平次殿か、飛んだ邪魔をいたす。拙者は石津右門――」
「拙者は大垣伊右衞門と申す者」
二人の武家は開き直つて挨拶するのです。――石津右門といふのは、五十前後の鬼が
大垣伊右衞門といふのは、それより四つ五つ若く、これは美男と言つてもいゝでせう、
「私が平次でございますが――御用は?」
平次は靜かに顏をあげました。
「外ではない。町方の御用を勤める平次殿には、筋違ひの仕事であらうが、人間二人三人の命に係はる大事、折入つて頼みたいことがあつて參つた――」
石津右門は口を切るのです。
「拙者はさる大藩の國家老、こゝに居られる大垣殿は江戸の御留守居ぢや。耻を申さねば判らぬが、三日前、當江戸上屋敷に、
四角
「旦那、お言葉中でございますが、あつしは町方の御用聞で、御武家や御大名方の
平次が尻ごみしたのも無理はありません。腹を切り損ねて飛込んで來た武家などには、どうも附き合ひ切れないと思つたのです。石津右門の
「――待つた。平次殿、その言葉は一應尤もだが、これは何分にも大事の上の大事だ。二十萬石の大々名が
「承はりませう、旦那、それ程迄に仰しやるなら、兎も角、そのお話を承はつてあつしでできることなら、何なりと致しませう」
平次も度胸を決めました。この二人の武家はウンと言ふ迄、
「それは辱けない、
「おだてちやいけません」
「實は斯う言ふわけだ――」
石津右門は語り出しました。
奧州のさる大藩の居城で、去年の
ところが、その頃の徳川幕府は、大名の浪人を召抱へることゝ、新城を
豊家恩顧の大名は代變り乍らまだ諸國に殘つて居る時なり、その上、天草騷動、由比正雪の
もう一つ、運の惡いことは、石津右門等の藩といふのは、幕府に睨まれて奧州へ轉對させられたばかり、外樣のうちでも、一番警戒されて居た家柄だつたのです。居城修復のため、江戸から神田末廣町の
明日はその繪圖面を龍の口に持參、公儀のお許を願出ようと言ふ時、棟梁の藤兵衞は、自分の引いた繪圖面の中に氣に入らないところがあるから、ほんの暫らく拜見したい――と、石津右門の
「それから三日間、藤兵衞の家は言ふに及ばず、上屋敷まで調べたが、繪圖面の行方は
石津右門は斯う語り進みます。
「――」
事の重大さに、平次も
「それを聽いて、棟梁の藤兵衞は今朝自害して相果て、御上屋敷に於ても、奧方樣始め下々まで、安き心はない。折柄主君は御在國中、此上の思案も盡きて、平次殿の智慧を拜借に參つたのぢや」
「平次殿、一藩の危急、
大垣伊右衞門も疊に手を落しました。
「成程、承はれば何百人何千人の難儀にもなる大事。いかにも、私で出來るだけの事はして見ませうが――」
「それは
「大垣樣のところへ投り込んだといふ手紙と、僞の繪圖面を拜見出來ませんか」
「これぢや、幸ひ用意して參つたが」
取出したのは、
「結び文は隨分下手な手蹟だが――いづれ文字などには馴れない者の仕業であらうな」
と差覗く石津右門。
「これは
「釣筆?」
「筆蹟を隱す爲に、
「成程」
石津右門と大垣伊右衞門は、先づ出發點から、平次に感服してしまひました。
「この僞の繪圖面には棟梁柏木藤兵衞とありますね」
「左樣、――それから、弟子、良助、太吉と書き添へてある」
「兎も角、末廣町へ參つて見ませう」
「御上屋敷は?」
大垣伊右衞門です。
「末廣町の棟梁が、お屋敷へ繪圖面を持つて參つて、お二人にお目にかける迄、誰か手を掛けた者がなかつたでせうか」
「藤兵衞の家では、どんな事があつたか知らぬが、御上屋敷へ持參したのは藤兵衞と弟子の良助の二人で、我等兩人と逢ふ迄、繪圖面は二人の側に引付けて、
「それぢや、繪圖面は
平次は立ち上がつて、もう出かける支度をして居ります。
末廣町の藤兵衞といふのは、
平次とガラツ八が二人の武家に伴れられて行つたのは、この騷ぎの眞つ最中、血潮と線香の匂ひの
「もう一度家搜しをしようか、平次殿」
大垣伊右衞門は江戸者らしい氣さくな調子で平次を顧みます。
「いえ、それには及びません。三日の間搜して解らない品が、あつしが搜したところで出て來る筈もございません」
「成程」
「それより、一人、一人、家の者や奉公人に逢つて見ませう、人相を見たら、又何とか思案も浮びませう」
平次は一應出入口や間取りの工合を見た上、先づ五、六人の奉公人を集めて、一わたり顏を見ました。何の用意があるわけでもありませんが、斯うして生きた人間の表情の動きを見てゐるうちに、何か
「死んだ棟梁が氣の毒だと思ふなら、皆んな隱さずに知つて居ることを話してくれ」
「――」
平次の斯う云ふ意味は、よく奉公人達に通じた樣子でした。
「ところで、失くなつた繪圖面がたつた一晩此處へとめられた時、何處にどんな工合に置いてあつたか、皆んな知つて居るだらうな」
「それはよく知つてゐますよ、親分さん」
五、六人の聲は一緒でした。物を隱すことを知らない正直な人達の顏を、平次は
「それを話してくれ。何でも知つて居ることを、皆んなぶちまけてくれさへすれば、棟梁の敵は俺が討つてやる」
平次の誘ひの
「お前は?」
始終默つて居る一人の娘を、平次は指しました。
「あの、私は、何にも知りません」
「何と言ふ」
「私の名で? ――杉と申します」
十七、八の素直さうな娘ですが、すつかり
「仕事は?」
「お孃さんの身の廻りのお世話をしたり、いろ/\の事をして居ります」
お城大工の柏木藤兵衞は、早く
「
「お杉さんですよ、親分」
誰やら後ろの方で言ふ者があります。
「その晩に限つて、神棚の下に寢た棟梁だ。その床の世話をしたお前が、繪圖面に氣がつかなかつたと言ふのか」
「ハイ、イーエ」
お杉は青くなつてしまひました。
「一晩繪圖面の番をした棟梁でも、朝になれば
「お杉さんですよ、親分」
又誰やらが聲をかけます。
多勢の弟子職人の間には、
その中で神棚に近づいたのはたつた二人、藤兵衞の身の廻りの世話をしたお杉と、娘のお勇の外にはありません。平次は
「お勇さん、親が命を投出したほどの大事だ。この繪圖面を搜し出さなきや、大名が一軒
「――」
「知つて居ることを隱しただけでも、どんなに罪が深いか知れない。打ち明けて話してくれまいか」
誰も聽かないところで、平次は娘のお勇へ斯う説いたのです。下女のお杉は何か知つてるに違ひありませんが、弱々しく頼りないやうに見えるくせに、何と責めても口を
「――では、この場限りでございますよ、親分さん」
お勇はたうとう口を割りました。その頃にしては少し
「惡氣でした事でなければ、決して人に言つたり、お前を罪に落すやうな事はしない、――一體どんな事があつたんだ」
「――」
さう言はれると、お勇はさすがに氣が
「手紙を書いたんぢやあるまいな、大垣伊右衞門樣へ――」
平次は先刻の手紙――
「いえ、そんな事は存じません」
「では?」
「申しませう。却つて變な疑ひを受けては困ります」
「その通りだよ、お勇さん」
「今では後悔して居りますが、お杉に言ひ付けて、父さんが御飯のうちに、神棚の
「――」
「親分さん、びつくりなすつたでせう。本當に惡いことをしました。でも、その繪圖面が、どんなに大事なものか、薄々は知つて居ましたので、私の部屋の
「直ぐ?」
「何か氣がかりで、凝として居られませんでした。そつと元の神棚のところ行つて見ると――神棚には、ツイ今しがたお杉に取らせて、自分の部屋へ置いて來たばかりの
「――」
お勇の話はかなり變つて居ります。
「暫らくは
「――」
「そのうちに父さんは、神棚の繪圖面を取りおろして、お屋敷へ行つたので、その儘になつてしまひました。誰か、私がウロウロして居るうちに、私を
「――」
「お杉に訊いても、良助に訊いても、そんな事は知らないと言ひますが――」
良助といふのは、太吉と共に、死んだ藤兵衞の大事な弟子であつたことは
「何うして、神棚から繪圖面を取る氣になつたんだ、誰に頼まれたんだ」
不思議な娘心を、平次も
「父さんが、あんまりだつたんです、三年も前からの約束を、
「――」
平次は
奉公人達の心持や口裏を探ると、――お勇と三年前に約束したのは、内弟子の良助で、いづれは
到頭嫁入の時を遲らせて、
「親分――曲者は同じやうな
とガラツ八の八五郎、なか/\に
「その通りさ、――たゞ、同じやうな
と平次。
「でも、どんなに企らみが深くても、
ガラツ八の今日の頭の良さ。
「――」
平次は默りこくつて考へて居ります。
それから、藤兵衞の死體を納めた一間を覗いて見ました。まだ
何方も二十七八、坐り馴れない樣子でモヂモヂして迎へましたが、良助といふのは、娘のお勇が執心するだけの好い男、太吉といふのは、堅い一方といつた、職人にしては、眞面目過ぎる位の平凡な男です。
「
平次は二人を等分に見ました。――
「あつし共二人一緒でしたよ、親分」
良肋は膝つ小僧を揃へました。
「一緒といふことはあるまい、少しは遲い早いがあるだらう」
「見付けたのは私で、――大きな聲を出すと、
太吉は
「その時はもう息が絶えて居たのだね」
「
良助はさう言つてゴクリと
「
平次の自信に充ちた調子が、すつかり二人を驚かした樣子です。
「兄哥」
「――」
太吉は良助を顧みました。
「出した方がいゝぜ。つまらねえことをして、痛くもない腹を探られるのも
太吉の落着いた聲が、妙に人を動かします。
「親分、濟みません、ツイふら/\と隱してしまひました。あつしには我慢が出來なかつたので――」
良助は立ち上がると、部屋の隅の
「どれ/\」
平次も、石津右門も、大垣伊右衞門も首を
「
平次は良助の恐れ入つた顏を
「飛んでもない、親分。そんな事を言はれる筈もありません」
これが、良助と太吉から得た全部です。
平次はいろ/\考へました。
藤兵衞が隣の部屋で食事をしてゐる間に、誰かゞ藤兵衞に知れないやうに神棚に僞の
神棚のある部屋から、お勇の部屋に行く通路を研究して見ましたが、お杉やお勇に姿を見せずに、そんな器用なことをやり遂げるのは、藤兵衞自身の外にはありません。つまり、藤兵衞に姿を見られずに、疊紙を
「旦那方、これはあつしの手に了へません。少し考へさして下さいませんか」
半日無駄にした上、平次は到頭音をあげてしまひました。
「曲者の見當も付かぬと言ふのか」
石津右門と、大垣伊右衞門の顏の暗さ。
「見當は付いて居ります」
「誰ぢや」
と石津右門。
「疊紙を置換へられるのは、死んだ藤兵衞の外にはありません」
「藤兵衞が――、自分で繪圖面を
「だから變ぢやございませんか、もう一度考へ直して見ませう」
「フーム」
平次はそれつ切り引揚げました。この上
「親分」
歸りを急ぐ途々、ガラツ八の不服さうな顏といふものはありません。
「何だ、八」
「何だつて投げてしまつたんで、――親分らしくもないぢやありませんか」
「世の中には
「へエ――」
平次の言葉は
「死んだ藤兵衞へ繩を打つ法はあるまい」
「藤兵衞が本當に
「多分、そんな事だらう」
「自分の手にある繪圖面を、僞物と換へるのはわけが解らないぢやありませんか。それも
ガラツ八は一生懸命に藤兵衞の爲に辯じます。
「その通りだよ。だがな八、同じやうな疊紙を急に手に入れて、
「でも變ぢやありませんか」
「それに、藤兵衞ほどの者が、神棚から疊紙をおろしたまゝ一應中を改めずに、上屋敷へ持つて行く筈はない」
「成程ね」
「藤兵衞が自分でやつたとなると事面倒だ。うつかりすると、飛んだことになる」
「サア解らねえ、何が飛んだことでせう、親分。第一、藤兵衞が自分の手許にある繪圖面を僞物と換へて、眞物を何處へやつたでせう」
ガラツ八には益々解らなくなる事ばかりです。
「ね、八、藤兵衞は
「――」
「解らないのか、八」
「
「シツ、大きい聲ぢや言へねえが、
「――」
ガラツ八は仰天しました。平次の話があまりに
「多分一日か二日で藤兵衞の手へ返すつもりだつたろう。藤兵衞はそれを待つて三日頑張つたが、繪圖面は返らぬ、――疊二枚ほどもあつて、其上念入りに
「親分、それは本當でせうか」
「嘘かも知れない、――いや嘘であつてくれるとよい。若し本當なら、
平次はまだ腑に落ちないものがある樣子です。
繪圖面事件は、これがほんの
江戸開府以來の名御用聞と言はれた平次も、この時ほどひどい
それから三日目。
「親分、大變なことになりましたぜ」
飛込んで來たのは、早耳のガラツ八でした。
「何だ、お前の大變は食ひ飽きて居るが」
「冗談ぢやねえ、――末廣町の藤兵衞棟梁のところの太吉が殺されたことを御存じですかい、親分」
「何? 太吉が殺された。しまつた、八」
平次は何も彼も投り出して立上がりました。
「驚くでせう、親分」
「最初からやり直しだ、八。行つて見よう」
「へエ――」
八五郎に否も應もありません。二人は宙を飛んで末廣町へ――。
柏木では主人藤兵衞が死んで、三日目の此の騷ぎに、眞に上を下への
「太吉は昨夜家を明けて、曉方歸つて來た樣子でした。殺されたのは、それから間もなくでせう」
さう言つて案内してくれたのは、太吉とは兄弟分の――
「これは?」
平次は木戸を押しあけ、
傷は一刀の下に斬下げた、見事な後ろ
「八、死骸の懷中を見てくれ」
「へエ――」
八五郎はさすがに
「おや」
ズルズルと引出したのは、紐の長々と付いた財布、中には小粒が少しばかり、別に大した品もありません。
「すまねえが、太吉の部屋を見せて貰はうか」
「へエ――」
良助に案内されて行つたのは、裏の三疊、大して
「荷物を見たいが」
「へエ――」
押入を開けて引出したのは、
中の物を皆んな出して、底に張つた紙を剥すと、
「あツ」
ガラツ八が驚いたのも無理はありません。葛籠の底から出た小判は、ざつと五、六十枚、
(太吉がこんな大金を持つてゐる筈はない)
平次の頭腦は急速に
お城大工の弟子が、どんなに堅い人間であつたにしても、十兩と溜めて居る筈はありません。續いて浮ぶ考へは、
(誰か太吉へ金をやつた者があるに違ひない)
といふことでした。
(どうかしたら、繪圖面を賣つた金かも知れない)
併し、賣る爲には繪圖面を手に入れなければなりませんが、あの朝、太吉は良助達と一緒に仕事場に居たことは明かで、どう考へても、藤兵衞やお勇の眼を盜んで、繪圖面を手に入れる工夫はなかつた筈です。
(では、
此處まで考へると平次は、
「八、死んだ藤兵衞が、繪圖面がなくなつてから死ぬまで三日の間、外へ出たことが無いか、誰か藤兵衞を訪ねて來た人はないか、手紙か何か、使ひ屋に頼まなかつたか、それだけのことを訊いて來てくれ」
「へエ――」
「出來るだけ
「へエ――」
ガラツ八は何が何やら解らぬ乍ら、忠實な
平次はそれ以上踏み止つては居ませんでした。其足ですぐ、石津右門の居る、大名の上屋敷へ向つて行つたのです。
名乘るとすぐ通してくれたのは、奧まつた一室、石津右門相變らず鬼の
「何うした。平次殿」
「『殿』は困りますよ、旦那、冷かされて居るやうで――」
「そんな事は何うでもいゝ、繪圖面は何うした」
「急には出て來ませんが、――實は
「何? 公儀隱密?」
「大丈夫ですよ、旦那や隱密なら太吉に
「太吉が何うした?」
「殺されましたよ。後ろ袈裟にバツサリ、曲者は餘つ程の
「それは大變」
石津右門も驚いた樣子ですが、事件には何の判斷もつきません。
「ところで、殿樣は何時頃御參府でせう」
平次は妙なことを問ひました。
「それが解らぬ。何分公儀へは御病氣の御屆が出て居る位だから」
「うんと
「何を申す、平次」
「それから、一寸伺つて置きますが、石津の旦那は、殿樣の御一門でせう」
「遠い/\血筋を引いてゐる」
「大垣の旦那は、奧方の叔父さんで?」
「その通りだ」
「お二人で一生懸命お國許の殿樣御參府をお願ひして御覽なさいまし」
「毎度やつて居るぞ」
「今度は繪圖面が
「よし/\」
石津右門は、さしたる自信もなくうなづきます。
「親分、たうとう
ガラツ八はプリプリして歸つて來ました。
「良助を縛つたらう?」
と平次、三輪の萬七ならそんな事をやり兼ねないと思つたのです。
「何處で聽きました、親分」
「聽かなくたつて解つてゐるよ。良助が藤兵衞の
「その通りですよ、親分。まるで
「三輪の兄哥のやりさうなことだ。でも、後で氣の毒になるから、お前、これだけの事を言つてやるがいゝ。あの
「あつしもそれを言ひましたよ。それに刀が見つかりません」
「で――?」
「三輪の親分は相手にしませんよ」
「ところで、先刻頼んだ事は解つたか」
平次は題目を變へました。
「大抵解つた積りです。藤兵衞は上屋敷から歸つた晩から、
「フーム」
「石津樣と大垣樣の外には、人も手紙も來なかつたし、使ひ屋を頼んだこともないさうです」
「有難い、それで解つた」
「何が解つたんで? 親分」
「繪圖面を手に入れたのは、隱密でも何でもないと解つたのさ」
「へエ――」
「馬鹿だな、八、あんな
「へエ――」
何を叱られてゐるのか、ガラツ八には一向見當もつかぬ樣子です。
「隱密の仕業なら藤兵衞から
「――」
「隱密なら、御用人の大垣さんへ、あんな底を割つた結び文などを
「――」
「隱密なら、太吉へあんな大金をやる筈もなく、――太吉を殺す筈もない。太吉を手先に使つたものなら、此先ももう少し使ふ筈だ」
「解りましたよ、親分、繪圖面を換へたのは、藤兵衞ぢやないと言ふんでせう」
「その通りさ。八、何だつて今迄さう言つてくれないんだ」
「親分の氣の付かないやうな事が、あつしに解る道理がないぢやありませんか」
「どう致しまして」
二人は顏を見合せて
「で、親分、繪圖面を置き換へたのは、矢張り太吉で――?」
「それは違ふ、太吉にはそんな事が出來なかつた筈だ」
「すると」
「來るがいゝ。俺には漸く曲者の正體が解つたよ。――
二人はもう一度末廣町へ。
――その時はもう、春の陽が暮れて、街々に
「あつ、危ない。――見られたくない人間が居る、そつと身體を隱せ」
平次に
二つ三つ小さい
間もなく裏木戸が開いて、チヨロチヨロ出たのは、一と廻り小さい人影、
「――」
押し潰されたやうな聲がします。眼を擧げると、
「八、生命がけだぞ、來いツ」
平次は
「御用ツ」
――後から續くのは、八五郎自慢の

「――」
平次は頃合を
「あツ」
曲者は、
「御用ツ、神妙にせいツ」
八五郎の聲に驚いて、バラバラと飛んで來たのは、藤兵衞の弟子、喧嘩と彌次馬では、斷じて引けを取らないのが十五、六人。
「逃げるか、野郎」
追ひすがる八五郎の鼻先へ、一刀を
「御用ツ」
追ひすがる八五郎。
「八、止せ――捕まへちや惡いことがある」
平次の聲に、獵犬のやうにいきり立つ八五郎は、漸く足を踏み
「大丈夫ですか、親分」
「正體は判つて居る、安心するがいゝ。それよりは此方が大事だ」
裏口のドブ板の上に倒れて、半死半生の姿になつて居るのは、下女のお杉、あの氣のきいた十八娘の
曲者に
「よし/\、氣が落着いたなら言ふがいゝ。あの人に遠慮することはないよ、今頃はもう腹でも切つて居るだらうから」
平次はひどく心得たことを言ふのです。それから間もなく、平次とガラツ八は、上屋敷の石津右門を訪ねて居りました。
「心配をかけたが、繪圖面は戻つたよ」
石津右門の
「大垣樣は、腹を召されたでせう」
と平次。
「お察しの通りだ。が、何うしてそれを」
何も彼も見透した平次の言葉に、石津右門も
「大垣樣の細工は、
「それに大垣氏は、奧方の御身の上や一藩の運命も氣遣つたのぢや。内聞にしてくれるであらうな、平次殿」
石津右門は又疊の上へ手を突きさうです。
國元の
「では、これでお暇いたします」
「飛んだ骨折であつた喃、平次殿、恩に
「――」
平次は默禮した儘八五郎を促して引下がりました。
× × ×
その歸り途。
「親分、下女のお杉が大垣の手先になつてゐたとは氣がつかなかつたね」
ガラツ八は繪解がして貰ひたさうです。
「娘のお勇に頼まれて、贋物の繪圖面の入つた
「娘の部屋から眞物をさらつて、大垣へ渡したのでせうね」
「その通りだ。あのお杉といふ娘は、思ひの外の智慧者さ。でも藤兵衞が自害したので、すつかり
平次もこんな馬鹿な
「太吉を殺したのは、どうしたんでせう、親分」
「何でもないよ、太吉は何んかの都合で大垣の仕業と知つて、
さう聽けば、何の疑ひも殘りません。
「お杉は?」
「明日行つて訊くがいゝ、――多分、大垣の
平次は薄寒さうに襟をかき合せました。櫻の