錢形平次捕物控

幻の民五郎

野村胡堂





「親分、梅はお嫌ひかな」
「へえ?」
 錢形平次も驚きました。相手は町内でも人に立てられる三好屋の隱居、十とくまがひの被布ひふかなんか着て、雜俳ざつぱいに凝つて居ようといふ仁體じんていですが、話が不意だつたので、平次はツイ梅干を聯想れんさうせずには居られなかつたのです。
「梅の花ぢやよ、――巣鴨すがものさる御屋敷の庭に、大層見事な梅の古木がある。この二三日は丁度盛りで、時にはうぐひすも來るさうぢや。場所が場所だから、ぞく風雅ふうがも一向寄り付かない。御屋敷の新造が解つた方で、――三好屋の知合ひで、風流氣のある方があつたら、是非御一緒に――と斯う言ふのぢや、何うだな、八五郎兄哥あにい
 三好屋の隱居は、相變らず日向に寢そべつて、自分の身體一つを持て餘して居るガラツ八の八五郎に聲を掛けました。
「梅の花といふと、花合せの赤丹あかたんを思ひ出すやうな人間に、風流氣なんかあるわけはありません。御隱居さん、無駄ですよ」
 平次は苦笑ひをして居ります。
「お言葉だがネ親分、梅の花なんざ、小汚こぎたねえばかりで面白くも何ともねえが、御馳走と新造付なら考へるぜ」
「馬鹿野郎、何て口の利きやうだ」
「いゝやね、親分、八兄哥は正直だ、――それに向うぢや、平次親分を伴れて來て下されば、恩に着ますつて言ふ位だから、御馳走の方は俺が引受けますよ」
 三好屋の隱居は、何心なく筋書の底を割つて了ひました。
「へツ、御名指おなざしと來やがる、お安くねえぜ、親分」
 とガラツ八。
「そんな事だらうと思ひましたよ、御隱居さん、話が筋になりさうだ、御供しませう」
「行つて下さるか、親分」
 三好屋の隱居は有頂天でした。何か餘程甘い話がありさうです。
 すぐ支度に取掛つて、三人連れの無駄話に興じ乍ら、巣鴨の屋敷に着いたのは、彼れこれ未刻半やつはん刻。
 藁葺わらぶき洒落しやれた門を入つて、右左に咲き過ぎた古木の梅を眺め乍ら、風雅な入口のはんを叩くと、
「――」
 美しい女中が現はれて、行儀正しく式臺に三つ指を突きます。
 何だか、晝狐ひるぎつねにつまゝれたやうな心持、平次はもとより、お喋舌しやべりのガラツ八も、毒氣を拔かれて默り込んで了ひました。
「神田の三好屋が、平次親分を連れて參りました。御新造樣に御取次を願ひます」
 三好屋の隱居は茶人帽ちやじんばうを脱いで、よく禿げた前額をツルリと撫で上げました。襟へ落ちる柔かい春の陽、梅の匂ひに燻釀くんぢやうされたなごやかな風、すべてが靜かに、平和に、そして一脈のさびをさへ持つた情景でした。
「暫らく御待ち下さいまし」
 芝居の御腰元の外には見たこともないやうな、しとやかな女中が姿を隱すと、
「へツ、三ツ指で、――御待ち下さいまし――と來やがつた、親分、惡い心地はしないネ」
「馬鹿」
 平次は睨む眞似をして見せます。
 道々、三好屋の隱居が話してくれましたが、この梅屋敷といふのは、三千五百石取の大旗本、本郷丸山の荻野左仲をぎのさちうの別莊で、住んで居るのは、愛妾あいせふお紋の方。左仲との中に、男の子を一人生みましたが、仔細あつて左仲にうとまれ、巣鴨の梅屋敷に遠ざけられて、女中を相手に豪勢な暮しをして居るのでした。


「まア三好屋さん、御骨折でしたねえ、平次親分、よくいらつしやいました」
 お紋は下へも置かぬ待遇あしらひでした。年の頃二十七八、あぶらの乘り切つた美しさで、被布ひふも着ず、裾も引かず、縞物しまものを町家風に着た無造作な身扮みなりのうちに、愛嬌と魅力がこぼれて、誰にでも好感を持たせずにはおかない年増振りです。
「初めて御目にかゝります。あつしは神田の平次で、お言葉に甘えて、飛んだお邪魔をいたします」
「まア、そんな改まつた事を仰しやらずに、遠縁のめひの家へでも來たつもりで、ゆつくりくつろいで下さい。八五郎さんもまア、眞四角に坐つたりして、ホ、ホ、ホ、ホ」
「へエ――」
 氣が付いて見ると、ガラツ八の狹いあはせから、膝つ小僧が喰み出して居るのです。
「今自慢の料理をお目にかけます。ちよつと、御待ち下さいまし」
 身をかへすとお紋は、大きい揚羽あげはてふのやうに、ヒラリと襖の蔭へ隱れました。多分お勝手の指圖でせう。
「ね、萬事あの通りさ、恐れ入つたらう、親分」
 三好屋の隱居は、人の好ささうな眼をしばたゝいて見せました。
「御新造の元の身分は?」
 平次はそつと囁きました。
「何でも、町藝妓だつたといふことだが、くはしいことは誰も知りませんよ。荻野左仲樣が見染めて三千五百石のお部屋樣に直して――」
「シツ」
 話の最中に、
「まア、内證話? 私の棚卸たなおろしなんか嫌ですよ」
 朗らかさと、美しさをき散らして、お紋は入つて來ました。
 それから酒――。
 お紋は元が元だけに、すつかり三人を潰して了ひました。灯が入つた時は、もう玉山崩ぎよくざんくづれて、足の踏み場もないほどの有樣です。
 何時もの平次なら、斯んなになる前に歸つて了つたでせうが、お紋の取なしの底に、何か重大な意味がありさうで、ツイ立ちそびれて暗くなつて了つたのでした。
 ガラツ八と三好屋の隱居が、すつかり潰れて正體も無いのを尻目に、平次はそつと庭へ下り立ちました。
 あつらへたやうな銀鼠色の朧月夜おぼろづきよ、春のもやに蒸された梅が匂つて、飮み過ぎた頭のしんが痛むやうな中を、なんの心もなくそゞろ歩いて居ると、道は不意に盡きて、目の前にかなり大きな離屋はなれが建つて居ります。
「何うぞ此方へ――」
 何處から現はれたか、小腰を屈めたのは冷たい美しい女中、雪洞ぼんぼりを左手に移して、離屋の柴折戸しをりどをそつと開けました。
 默つて入ると、中には籠行燈かごあんどんが點いて、座蒲團が二つ、平次が來るのを待つて居たやうな心憎い用意です。尤も、夜風に吹かれて庭を歩いたのは出來心ですから、そんな都合にならなければ、そつと座をはづさして、此處へ案内するつもりだつたのでせう。
「親分、こんな折を御待ちして居りました」
「あ、御新造」
 女中に呼ばれて驅け付けたらしいお紋は、少し息をはずませて、お品の惡くない程度に、なゝめに坐るのでした。灯を背にして、ほの白い顏、岩佐又兵衞の繪から拔出したやうな、妖艶な姿態ポーズが、相手を苛立たせずには措きません。
 三千五百石取の旗本の妾――の町藝妓が匂ふにしても、何となく不思議な魅力みりよくを持つた女です。
「御新造、ざつくばらんに申しますが、あつしを此處へ呼んで下すつた御用といふのは何です」
 平次は大して醉つて居ませんでした。打ち寛いだうちに何となく事務的ビジネスライクに、斯う片腕を膝に突きます。
「聞いて下さい、親分、――私は世にも恐ろしい者につけ廻されて居ります」
「――と仰しやると?」
「あの姿のない大泥棒、近頃御府内を騷がせて居るまぼろしの民五郎に」
「えツ」
「親分、私を助けて下さい。私ばかりぢやありません、丸山の御屋敷に殘して來た、若樣の御身の上も何うなるかわかりません」
くはしく承はりませう、一體何うしたと言ふのです」
 平次は事の重大さに膝を乘出しました。
 幻の民五郎といふのは、一年ほど前から江戸中を荒し廻る不思議な怪盜で、錢形の平次も、こればかりは手を燒いて居た相手だつたのです。
 幻の民五郎の正體は、誰も確かに見たと言ふ者はありませんが、大家や大町人を手當り次第に襲ひ、現金だけを盜んで歩く怪盜で、うつかりそれをさまたげたり、追掛けたりしようものなら、蟲のやうに刺殺されることを覺悟しなければならなかつたのでした。
 姿を見た者をきつと殺す――それが幻の民五郎の流儀だつたのです。
 幻の民五郎は、唐紙や屏風びやうぶの繪の中へも溶け込み、衣桁えかうや衣紋竹の着物の中へも消えて無くなると言はれました。兎に角、不思議な術を心得た怪盜で、一年越し、江戸中を人もなげに荒し廻り乍ら、南北の與力よりき五十騎、同心二百四十人、その配下の岡つ引は何百人とも知れませんが、誰にも指も差させなかつたのでした。
 錢形の平次ほどの者も、幻の民五郎には二目も三目も置かされました。今までも隨分手を盡して追ひ廻しましたが、足跡一つ、髮の毛一本搜し出すことが出來なかつたのです。
「――」
 平次はもう一度強く點頭うなづきました。
 江戸中の御用聞の中から、選りに選つて、幻の民五郎の挑戰てうせんを受けたやうな氣がしたのです。
 それは實に、一刻一瞬の油斷もならぬ、命がけの挑戰でもあつたのです。


「親分、聞いて下さい。私は丸山の屋敷からはふり出された上、何にも知らない若樣――私の腹を痛めた勇太郎樣まで――命を狙はれて居ます」
 お紋の話はまことに混み入つたものでした。――町藝妓をして居たお紋は、受出されて丸山の荻野をぎの家に入り、本妻亡き後は、奧方同樣の侍遇たいぐうを受け、二年前に跡取の勇太郎まで生みましたが、亡くなつた本妻の弟で、變人扱にされてゐる高木銀次郎が、用人の大澤幸吉と腹を合せて、事毎にお紋母子をおとしいれようとしたといふのです。
 高木銀次郎は兵法忍術に凝つて三十過まで荻野家の世話になつて居るやうな人間ですが、義兄荻野左仲の眼を盜んで、お紋を執念しつこく追廻し、手嚴しく耻しめられたのを根に持つて、惡事の仲間を語らつて、お紋の素姓をあばき立て、到頭荻野家にも居られないやうな事にして了つたのでした。
 お紋の素姓――と言ふのは、さすがに本人は言ひしぶりましたが、訊き上手の平次が、いろ/\鎌をかけて引出したところでは、將軍秀忠の命を狙つたといふ疑ひで、宇都宮十五萬石を召上げられ、先年出羽の配所で死んだ本多上野介正純かうずけのすけまさずみ――その謀士で、釣天井つりてんじやうの仕掛を拵へたと思はれて居る、河村靱負ゆきへこそは、お紋の本當の父親だつたのです。
 謀叛人むほんにんの娘として、お紋は艱難辛苦を嘗めました。淺草の乳母に引取られて育つた上、その乳母にも死別れ、町藝妓になつたところを、荻野左仲の目に留つて、暫らく湯島に圍はれ、本妻が死んでから丸山の屋敷に入つて、跡取の勇太郎を生んだ――と言ふのです。
 お紋の異常な美しさも、その魅力の裏に潜む品位も、河村靱負の娘と聞けば、成程うなづけないことはありません。
「私は幸ひ父親の遺した物や、荻野家の御手當で何不自由なく暮して居ります。此儘ち果てゝも怨とは思ひませんが、謀叛人の娘の腹を藉りた子に、三千五百石の由緒ある旗本の家は繼がせられないと言つて、高木銀次郎、大澤幸吉の一味が、私の手から父河村靱負ゆきへの形見――短刀と系圖けいづを奪ひ取つて、それを證據に勇太郎樣を追ひ出さうとして居るのは我慢がなりません」
「――」
「親分、そんな理不盡なことがあるでせうか。親は謀叛人でも、その娘の私になんのとががありませう。まして勇太郎樣はまだほんの三つ、あんまりお可哀想ぢやありませんか」
 お紋はそつと涙を拭きました。居崩れた膝を直して、下から平次を仰ぐ顏は、何う見ても三十近い大年増ではありません。
 母屋おもやの方からはガラツ八と三好屋の隱居の歌ふダミ聲。
「ところで御新造、幻の民五郎の話が出たやうだが、彼奴は何うかしましたか」
 平次は耐へ兼ねて訊きました。
「昨夜何者とも知れず忍込んで、手文庫の中から手紙の束を盜んで行きました」
「その父上の形見とやらを?」
「いえ、それは袋戸棚に入れてあつたので幸ひ助かりました。盜られたのは、高木銀次郎から私へくれた戀文が七本」
 お紋もさすがに極りが惡さうでした。
 俯向いてほのかに笑ふと、片面がかげつて、何とも言へない淋しさが湧きます。
「何で、そんな物を持つて居なすつた、燒きも捨てもせずに」
 と平次。
「萬一、高木銀次郎が私を相手に正面から來た時は、あのけがらはしい戀文に物を言はせるつもりでした。頼る者もない女は何彼につけて、用心深くなります」
「フム」
「父親の形見の短刀と、系圖は無事でしたが、いづれ今晩あたりは又盜りに來ませう。姿も、形も無い曲者が、嚴重な締りを開けて入つて、好きな物を盜つて、衣桁えかうの着物に溶け込むやうに隱れたのですもの、幻の民五郎とでも思はなければ、この眼がどうかして居ります」
「――」
「形見の短刀と系圖が向うの手に入れば、勇太郎樣は蟲のやうに押し殺されるか、野良犬のらいぬのやうに追ひ出されるに決つて居ります。親分、お願ひで御座います。私を助けるつもりで、今晩は此處へ泊つて下さいまし」
 お紋は寄り添つて、平次の裾でも、帶でも掴みたさうでしたが、さすが、年にも身分にも耻ぢて疊へ手を落したまゝ、がつくり首を垂れるのでした。
「幻の民五郎には一年越馬鹿にされて居る。勝つか負けるか解らないが、兎に角及ぶだけの事はして見ませう、――ところで、民五郎は、何うして高木や大澤と一緒になつたか、心當りはありませんか」
「何にも、――尤も高木銀次郎は武藝兵法につて、わけても忍術は自慢ですが」
「フム」
 何うやら其邊がキナ臭いやうでもあります。


 いゝ加減醉つ拂つて居るガラツ八は、追つ立てるやうにして宵のうちに神田へ歸しました。
 それは、お靜が待つて居るといけないと思ふ、平次の心やりからでした。
 三好屋の隱居は、止めるのも聞かずに、亥刻よつ過ぎ急に思ひ立つて歸ると言ひ出します。
「大丈夫、駒込へ出る前に駕籠を拾つて行く、年は取つてもシヤンとして居るぞ」
 そんな事を言ひ乍ら、茶人帽を阿彌陀あみだに、足元危ふく巣鴨の夜の闇へ出たのです。
 平次は母屋の奧の一と間、八疊のぜいを極めた部屋に、生れて初めての絹夜具に包まれてやすみました。有明の絹行燈は、少し艶めかしく枕屏風の影を青疊に落して、馴れない平次には結構過ぎて寢心地が惡い位。
 枕元の小机の上には、帛紗ふくさに包んで、お紋の父河村靱負の形見と言ふ短刀、――主君本多上野之介が、東照權現樣から頂いて、靱負に預けた儘になつたと言ふ、三つ葉葵の紋を散らした因縁いんねん附の短刀――を置いて、何べんも寢返りを打ち乍ら、惱ましい眠に落ちました。
 お紋は慎み深く、それつ切り姿を見せず、美しい女中達も遠く退つて銘々の部屋へ入つた樣子、巣鴨の夜は、滅入るやうに、たゞ深々と更けて行きます。
「野郎ツ」
 平次はガバと起きました。
 何やら魍魎あやかしが、自分の喉首を狙つて居るのを、夢心地に氣が付いたのです。
 巨大な怪鳥のやうなものが、平次の胸の上をヒラリと飛びました。
「御用ツ、神妙にせい」
 平次は何やら掴んでグイと引くと、一の黒いものが手に殘つて、曲者はパツと飛びました。恐ろしい輕捷けいせふな身のこなし。
 追ひすがる平次は、枕屏風にハタとつまづく間に、曲者の身體は、眞に一片の黒雲のやうに、平次の袷を掛けた衣桁へ、サツと消え込んで了つたのでした。
「己れツ」
 續いて飛付きましたが、手答もなく衣桁は倒れて、平次が抱き付いたのは、脱ぎ捨てた自分の袷だけ。
「何うなさいました」
 やゝ暫らく經つてから、物音を聞付けたらしい主人のお紋は、女中に手燭てしよくともさせて驅け付けました。
「あ、御新造、到頭」
「――」
「幻の民五郎は、短刀を奪つて行きましたよ」
「えツ」
「面目次第もないが、少し油斷しました」
 錢形の平次も、すつかり恐縮して髷節まげぶしを叩いて居ります。
「親分、何うしませう」
 お紋は根も力も拔けて了つたやうに、冷たい疊の上へ、ヘタヘタと坐り込んで了ひました。派手な長襦袢ながじゆばんの上へ、大急ぎで羽織つたらしい小袖の紫が、冷たく美しい女中の差出す手燭の中に、又となく艶めかしく見えるのでした。
「一度はやられたが、今度は――」
 平次はせはしく袷を引つかけると、部屋の外へ飛出しました。左手には有明の行燈を提げて、曲者の通つたらしい道を、めるやうに進んで行きます。
「お、此處から入つたのか」
 縁側の戸が一枚、物の見事に外されて、其處から點々たる泥足の跡が、平次の寢室まで眞つ直ぐに續いて居るのでした。
「親分、何か見付かりましたか」
 お紋と二三人の女中が、恐る/\廊下を覗いて居ります。
「御新造、不思議な事だらけですよ」
「――」
「この樣子ぢや幻の民五郎は、思ひの外甘い野郎かもわかりません」
「まア」
「すぐ捕まりませう、御安心なさいまし」
 平次の聲は妙に自信に滿ちて居ります。
「どうか、早く捕へて下さい、あの短刀はざらにある品ぢやありません。さやは三つ葉葵の紋散らしで御公儀に書上げのある品、本多上野之介樣の御品と判り切つて居ります」
「――」
「おや、泥足の跡は、入つたのばかりで、出たのがないのは何うしたことでせう」
「――」
 お紋は妙なことに氣が付きました。
「それにこんな大きな足の人間はあるものでせうか」
「――」
 平次はそれには答へず、其邊中をせはしく見廻して居ります。
「親分、まだ幻の民五郎が家の中に居たら何うしませう、搜して見て下さいませんか」
「大丈夫ですよ、御新造、その大きな足跡は大一番の草鞋わらぢを穿いて附けた跡で、歸りにはそれを脱ぎ捨てゝ了ひましたよ」
「まア」
「一寸待つて下さい」
 平次は庭下駄を突つかけて、暫らく縁の下から庭の植込を搜して居りましたが、やがて、仁王樣の草鞋のやうな、大きな泥草鞋を一足ブラ下げて歸つて來ました。
「まア」
 女達の驚きは見物みものでした。
「この足跡はひどい内輪ぢやありませんか」
 お紋は鋭い女でした。平次が氣が付いて居るか居ないかわかりませんが、兎に角、先をくゞるやうにいろ/\の事に氣が付きます。
「それが面白いところですよ、御新造」
「女――まさか」
 お紋はぞつとした樣子で肩をすぼめました。
「幻の民五郎が女に化ける筈はありません。これは忍術の方の忍びの足取りです」
 平次は腰を浮かして、内輪に爪立つた忍び足をやつて見せました。
「忍術?」
 お紋はギヨツとした樣子です。


 騷ぎは、これがほんの序幕じよまくでした。
 翌る朝、巣鴨の往來――一寸人に氣付かれない塀の蔭に、三好屋の隱居が突殺されて居るのが發見され、續いて、お紋の家の隣、界隈の物持で通つて居る植木屋へ、型の通りの怪盜幻の民五郎が入つて、小判で二百兩あまりの金を奪つた上、主人惣吉の土手つ腹をえぐつて逃げ失せたのです。
 騷ぎは一刻も經たぬうちに、巣鴨中を煮えくり返らせました。名主五人組が立會つて檢屍けんしを受け、土地の御用聞大塚の重三が、委細ゐさい呑込んで探索にかゝりましたが、其處に居合せた錢形の平次の器量の惡さと言ふものはありません。
 三好屋の隱居を殺したのも、植惣の主人を刺したのも、同じ匕首あひくちらしく、唯一と突で急所を誤らなかつたのは、何と言つても恐ろしい手際です。
 たつた一つの手掛りと言ふのは、植惣の庭に落ちて居た帛紗ふくさでこれはお紋の家から、短刀を包んで盜み出した品ですから、植惣の曲者は、お紋の家を襲つた曲者、即ちまぼろしの民五郎に間違ひありません。
 平次が曲者を追掛けた時、手に殘つたのは少し羊羹色やうかんいろになつた羽二重の羽織で、紋は、丸にたかの羽の打つ違ひ、ざらにある紋ですが、――高木家の定紋もこれと同じもの――と、お紋はそつと平次に囁きました。
「親分、大變な事が始まつたんだね」
「お、八か」
「錢形の親分が幻の民五郎にめられだつて巣鴨中の評判だぜ。俺は口惜しくつて、口惜しくつて、先刻から、そんな事を言ふ野郎を、二三人毆り飛ばしてやつたが――」
「何て事をするのだ」
 飛んで來たガラツ八の遠慮のない聲を聞くと、平次はさすがに顏をそむけました。
「俺が頑張つて居さへすりや、こんな事がなかつたんだ。神田へ歸つたのが一代の不覺さ」
「つまらねえ事を言ふな、それより手を貸せ、刄物を捨てゝ行つたかもわからない」
「刄物なんざ、何だつて構やしない。幻の民五郎が匕首あひくちへ本名でも書いて居りや占めたものだが」
「何を、くだらない」
 平次は取り合ひませんでした。梅屋敷から植惣の庭のあたり、やぶみぞも、木立も、塀の下も、念入りに見て歩くと、梅屋敷の大根畑の中に、何やら新しい足跡。
「おや」
 よく見ると黒い土の間に、キラリと光るものがあります。
 土をかき退けるやうに、掘り出して見ると、見事な短刀が一口ひとふり、柄のさめがすつかり血に汚れて、刄もひどい血曇りですが、何うしたことかさやが見當りません。
「あれだ」
 まぎれもない、昨夜平次が枕元から盜られた短刀。曲者はこれで植惣をあやめた後、三つ葉葵を散らした鞘だけは持つて歸つたのでせう。
 その間に、お紋の説明を聽いた大塚の重三は、
「よしツ、それぢや下手人は高木銀次郎とか言ふ浪人に決つた。旗本の食客ゐさふらふぢや始末が惡いが、幻の民五郎の正體と判つちや放つて置けまい。若年寄方と掛合ひごつこを始めちや鳥が飛んで了ふ、構ふ事はねえ、外へ出たところを縛れ」
 無法な奴があつたもので、其儘子分を伴れて、本郷丸山へ飛んで行きました。
 旗本は勿論のこと、武家は町方の手で無闇に縛れなかつたのですが、浪人となると、話が違ひます。高木銀次郎、武家には相違ありませんが、お主も係累けいるゐもない、天涯孤獨の浪人。近頃は義兄の荻野左仲のところにも居憎くなつたと見えて、食扶持くひぶちだけを貰つて、ツイ屋敷外の長屋に、鰥暮やもめぐらしの氣樂さを樂しんで居るのでした。


「相手は兵法と忍術に凝つて居るんだ、油斷をしちやならねえ」
「心得たよ、親分」
「腰の物を預けたら、直ぐ飛込んで、口上を言ふんだよ」
「へエ」
「腰の物は番臺に居る娘が持つて逃げる手筈だ、ドヂを踏むな」
「合點」
 大塚の重三は、十五六人の子分を伴れて、もう一刻も前から、丸山湯の路地に身を潜めて居ります。
 お紋は、謀叛人むほんにんの娘と言ふ自分の素姓は言ひませんでしたが、高木銀次郎の怪しい事は、重三へも平次と同じやうに話して居たのです。
「そら、來たぞ」
「シツ」
 羊羹色の着流し、不精らしく懷手をして、一刀を落した浪人體の男は、大通りから入つて、丸山湯の方へ差掛つたのでした。
 三十二三の痩ぎす乍ら見事な恰幅かつぷく。少し月代さかやきが伸びて、青白い顏も凄みですが、身のこなし、眼の配り、何となく尋常ではありません。
 浪人者は丸山湯の暖簾のれんを肩で分けて、ヌツト中へ入りました。
「大層空いて居るな」
 番臺へ一べつ
「ハ、ハイ」
 娘は一ぺんに顫へ上がつて了ひました。
 刀をさやごと拔取つて、娘に渡さうとして、ハツと氣が付いた樣子。
「可怪しな娘だ。逃げ腰になつて腰の物を受取る奴があるものか、――それに大層ふるへて居るではないか」
「――」
 思はず、今入つて來た入口の方へ眼を移すと、暖簾のれんの間から、鉢卷、たすきと言つた扮裝いでたちの人間が、押し重つて覗いて居るではありませんか。
「おや」
 浪人は一度渡しかけた刀を引つたくるやうに、ピタリと左腰に差しました。プツリと鯉口こひぐちを切つて居ります。
 斯くと見た暖簾の外の一隊。
「それツ、氣が付いたぞ、取逃すなツ」
「おツ」
 職業意識を眞つ向に振りかざして、バラバラと土足の儘飛込みました。
「御用」
「神妙にせい」
 殺到する十手、捕繩、十五六の肉塊にくくわい
「人違ひするな、俺は高木銀次郎、繩目を受ける覺はないぞ」
 浪人――高木銀次郎は、飛退くと積んだ小桶をたてに、流しの眞ん中に、身構へました。
「その高木銀次郎を召捕るのだ、神妙にせい」
「何? 高木銀次郎と知つて縛ると云ふのか、俺は縛られるのが嫌ひだ」
 ギラリと引拔いた一刀、陸湯をかゆにスーツと入れて、振り被ります。
 恐ろしい落着きと、心得た態度に、十何人の捕方は、ギヨツとして立停りました。
「御用」
「神妙にせい」
「馬鹿奴ツ、何の理由わけがあつて縛る。それを聞かないうちは、不淨ふじやう役人の儘になる俺ではない、命の要らぬ奴は來い」
 振り被つた一刀は、毒蛇どくだの如くりゆうと閃めきます。
「高木銀次郎こと、まぼろしの民五郎とは其方に相違ない、訴人があつて確かだ、神妙にお繩を頂戴せい」
「何、幻の民五郎」
 あまりの事に高木銀次郎、一歩退きましたが、運惡く流しのぬめりに足を取られて、ハツとすべるところへ、待ち構へた小桶四つ五つ、三方から狙ひ打に飛びました。
「あツ」
 それを避けるはずみに、高木銀次郎の身體は、物の見事に引くり返ります。
「それツ」
 疊みかけて五六人、斯うなると馴れた物が勝です。兵法にも忍術にも及ばず、あツと言ふ間に高木銀次郎、高手小手に縛り上げられて了ひました。


「親分、高木鋭次郎は白状しないつて言ひますぜ」
「さうだらう」
 平次は近頃すつかり憂鬱いううつでした。お紋のところからは三日に一度位づつ誘ひ出しの手紙が來ますが、あの晩の縮尻しくじり以來家に籠つて考へ事ばかりして居たのです。
 親分思ひのガラツ八は、すつかり心配して、お靜と心をあはせていろ/\慰めもし、勵ましもしましたが、平次は頭を振るだけで、一向相手にもならなかつたのです。
 そのうちに、高木銀次郎の長屋の天井裏から三つ葉葵の紋を散らした短刀の鞘が現はれて、徳川の祿をむ役人達の神經をすつかり尖らせて了ひました。
 平次が曲者から剥いだ羽織は、紛れもなく高木銀次郎のものと解つた上、家搜しをして見ると、幻の民五郎が諸方から盜んだ品――現金以外は滅多に手をかけない民五郎でしたが――財布さいふや胴卷や金入れといつたやうなものや、荻野左仲の食客に似氣ない大金が、床下、押入の奧などからぞく/\現はれて來たのです。
 大塚の重三はすつかり得意でしたが、肝腎の高木鋭次郎は、骨が舍利しやりになつても白状しません。
「八、もう一度運試しにやつて見ようと思ふが、何うだらう」
「有難い、親分がその氣なら、あつしは命を投出しますぜ」
「一か、八か、――兎に角、もう一度やつて見なきア、俺にはに落ちない事ばかりだ」
「何をやらかしやいゝんで、親分」
「耳を貸せ」
 何やら打合せて平次は、羽織を引つかけると、何處へ行くとも言はずにフラリと飛出して了ひました。
 最初は本郷丸山町の荻野左仲の屋敷。
 丁寧な口上を取次がせて、用人大澤幸吉に逢ひ、一刻餘りも話し込んだ上、其處を出ると、巣鴨の荻野家の別莊――今はお紋の宿へやつて來ました。
 その時はもう夕景。
「あら、平次親分、隨分久し振りぢやありませんか」
 お紋は相變らず機嫌よく迎へてくれて、奧の一と間へいそ/\と案内しました。
「御新造、すつかり御無沙汰しました。曲者は逃す、幻の民五郎は重三兄哥あにいつかまへられる、いやもう平次も散々の體で、一時は十手捕繩をお上へ返上しようかと思ひましたよ」
 平次は本當に悄氣しよげて居る樣子でした。
「そんな事はありやしません。平次親分は、曲者の羽織を掴んで、動きの取れぬ證據を押へたり、足跡や草鞋わらぢから、いろ/\の事を言ひ當てなすつたり、畠の中から短刀まで搜し出したぢやありませんか。御遠慮も場合によります、お目にかゝつてお禮を申上げたいと思つて、何べんお迎へを差上げても、いらつしやらないんで、どんなにお怨み申上げたことか――」
「――」
「幸ひ私も、近いうちに、丸山町に歸ることになりました。それもこれも、親分の御骨折の御蔭、今晩はどうぞ御ゆつくり召し上つて下さい」
 本當に下にも置かぬ待遇もてなしでした。
 平次はいつもになく落着き歸つて杯を擧げ、宵のうちから大分ろれつが怪しくなつて居ります。
「御新造、高木銀次郎は此處へ來たことがあるでせうか」
「飛んでもない、あんな奴を寄せ付けることぢやありません」
「それにしちや、雨戸を開けて迷ひもせずにあつしの泊つて居る部屋へ來たのは變ですね」
「え?」
「變と言へば、變なことだらけですよ、御新造」
 平次はもう眼の色さへあやしくなつて居ります。
「何が變でせう」
 凝と平次を見詰めた女の眼、――一と息に猪口ちよくをあけると、平次の手に持たせて銚子を上げます。
「足跡も變でせう。人の家へ泥棒に入るのにわざ/\泥を付けた草鞋わらぢを穿かなくたつていゝわけだ。あの晩は雨なんか降つちや居なかつたでせう」
「――」
「草鞋を植込に捨てたのに、庭に足跡がないのは可怪しいと思ひませんか。曲者は縁側から草鞋を植込へ抛り込んで、そつと元の廊下を引返し、裏から植惣うゑそうへ行つて植惣の主人を殺し、又引返して此處に入つて、大根畠へ短刀を隱して行つたことになりますね、ゲープ」
「――」
「何う考へても腑に落ちない事だらけでさアね。御新造、あの晩、此家の裏口に血が――ほんの少し血が付いて居たのを御存じですか」
「えツ」
「曲者は大根畠に短刀を隱して、それから又此家へ引返したことになるのは變ぢやありませんか」
「――」
「それとも、宵のうちに三好屋の隱居を殺して、此處へ引返したかな」
「――」
 平次の舌は次第に冷靜に事件の核心かくしんに觸れて行きますが、身體は反對にすつかり醉拂つて、他愛もなくフラリフラリと搖れるのでした。


「今晩も泊つて下さるでせうね、親分」
「冗、冗談言つちやいけません。御新造はもう丸山町のお屋敷に歸んなさる身體だ、――男を泊めたとあつちや、ブープ」
 平次は立上がらうとしましたが、腰が拔けたやうにヘタヘタと坐つて、口ほどになくフウフウ言つて居ります。
「外ならぬ親分ですもの、誰が何と言ふものですか、さア、私が寢んねさして上げませう」
「――」
 お紋は肩を貸して、漸く平次を抱き起すと、女中――いつぞやの冷たく美しい女中に灯を持たせて、この前平次が泊つた部屋に連れ込みました。羽織を脱がし衣桁えかうへかけて、平次の身體を床の中へ横たへると、上から蒲團を掛けて、トントン二つ三つ輕く叩きます。
「ゆつくりお休みなさいまし、――灯は消して置きませうね。御用があつたら、お手を鳴らして下さい、私か女中が參りますから」
 姉らしく囁くのに、平次は返事もせず、もういびきをかき始めました。
 それから一刻ばかり。
 何やら怪しい者、――一の黒雲のやうなものが、平次の寢屋に忍び込みました。鼾も何にも聞えませんが、手探りで床の側に這ひ寄ると、盲目めくら搜りに蒲團を剥いで、闇にもキラリと閃めく刄。
 平次の胸と覺しきあたりを存分に刺したのです。
 音も何にもありませんが、身をひるがへした曲者は、サツと、闇の中の衣桁へ――。
 が衣桁の中には先客があつたのです。飛込んで來る曲者を迎へる樣に、ガバと組付くと、其儘ねぢ倒して膝の下へ。
 曲者は僅かな聲をあげましたが、蛇の樣に身體をくねらせると、平次の腕を拔けてサツと廊下へ、
「己れツ」
 何と言ふ早い足でせう。雨戸を一枚蹴開けひらいて、其儘朧銀おぼろぎんの夜の庭へ、怪鳥の如く飛降りるのを待つてましたとばかり、下から無手むずと飛付いたものがあります。
「野郎つ、逃すものか」
 腕力だけは人の二倍もある、ガラツ八事、わが八五郎が、平次の旨を受けて、宵から其處に待つて居たのです。
「八、逃すな」
「何の」
「俺は眷屬けんぞくを捕まへて來る」
 平次は引返して奧へ、其邊にうろ/\する女中、美しく冷たいのを見付けると、有無を言はさず繩を打つて、元の縁側へ引返しました。
「親分、こいつは人違ひぢやありませんか」
「何?」
此家こゝの御新造――お紋さんですぜ」
「あツ、逃しちやならねえ」
 ガラツ八の手が緩むと曲者はサツと脱け出すのを、追ひすがつて平次。
「卑怯だぞ民五郎、――俺は滅多に人を縛らねえが、手前のやうな惡黨は勘辨して置けねえ」
 ピシリと肩を打つと、お紋は其儘根芝ねしばの上に崩折れて了ひました。
        ×      ×      ×
 翌る日――。
「親分、お紋が幻の民五郎だつたんですかえ。俺にはどうも解らねえ、繪解をしておくんなさい」
 八五郎は日向ぼつこをし乍らこんな事を言ひます。
「その通りさ、あの女は生れ付きの惡黨だ。身輕で無慈悲で、人を殺すことを何とも思はないが、自分の子だけは可愛かつたんだ」
「へエ――」
「あの子だつて荻野をぎの左仲樣の子か何うか解つたものぢやねえ。高木銀次郎といふのは解つた人で、お紋の素姓を怪しいと睨んで、義兄あにに勸めて遠ざけたんだ。お紋はそれを根に持つて高木銀次郎を縛らせ、自分が荻野家へかへる筋書を作つたのさ」
「親分を引張り出したのは」
「錢形の平次の鼻を明かしたい爲さ。惡黨は自惚うぬぼれると、ついそんな氣を起して、わなに陷ちるものだよ」
 平次もさすがに感慨深さうです。
「お紋は本當に河村靱負ゆきへの娘でせうか」
「それも解つたものぢやない、いづれお白洲しらすで白状するだらう。あの短刀も細工の一つだらう」
「三好屋の隱居は可哀さうですね」
「知らなくていゝ事を知つたばかりに殺されたのさ。男は怪しい女の内證事を嗅ぎ出さうとしちやならねえよ。ハツハツハツ」





底本:「錢形平次捕物全集第九卷 幻の民五郎」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年7月20日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1934(昭和9)年4月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年3月16日作成
2014年12月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード