荒物屋のお今――今年十七になる
「まア、可哀想に」
「あんな
ドツと
「えツ、寄るな/\、見世物ぢやねえ」
遠い街の灯や、九月十四日の宵月に照されて、眼に沁むやうな娘の死體を、後ろに庇つたなりで八五郎は
「どうしたえ、八、お今がやられたさうぢやないか」
幸ひ親分の錢形平次が飛んで來ました。江戸開府以來と言はれた、捕物の名人が來さへすれば、八五郎の憂鬱は一ぺんに吹き飛ばされます。
「親分、あれだ」
「何て
側に寄つて見ると、路地をひたした血潮の上に、
八五郎と死骸を挾んで、番太の親爺と、お義理だけの町役人が顏を竝べましたが、すつかり顫へ上がつてものゝ役にも立たず。
「
親一人子一人の評判娘が、この虐たらしい最期を遂げては、母親が目を廻すのも無理のないことでせう。
「可哀想に――
平次はさう言つて、路地の外から覗く、物好きな眼の前へ、
「
と、ガラツ八の聲は少し
「そいつは早手廻しだな、誰だい、その縛られたのは?」
「町内の
「成程ね」
「あわてゝ逃出したところを、三輪の萬七親分が通りかゝつて、いきなり縛つてしまひましたよ」
「それつ切りかえ」
「あつしも見たわけぢやありませんが、縛られると、それまで
「はてな?」
平次は考へ込みました。勘六は五十男で、評判のよくない人間には相違ありませんが、十七娘をどうしようといふ歳ではなく、それに、お今は母一人娘一人で、人に
「變でせう、親分、――勘六ほどの惡黨が、人を殺した現場に、ノツソリ血だらけな
ガラツ八にもこれ位の眼があつたのでした。
「三輪の兄哥にも何か
「大根畑の植木屋の
「そつとつれて來る工夫はないか」
「其處に居ますよ、お今のお袋と一緒に」
ガラツ八は死骸を
「あつしが專次でございますが――親分さん」
八五郎につれられて來たのは、二十二三の小意氣な男でした。長ものを着て居るせゐか、植木屋といふ八五郎の觸れ込みがなかつたら、平次も
「專次――といふのかい、このお今とはどうして知り合ひになつたんだ」
平次はお今の死骸を月明りの中に指しました。それを眺める專次の表情を、一つも見落すまいとする樣に。
「この暮には祝言をすることになつて居ましたよ、親分さん」
專次の顏には悲痛な色が動きました。一生懸命、
「お袋も承知か」
「それはもう――何だつたら、本人に訊いて下さい、其處に居りますから」
「當人は?」
平次は重ねて訊ねました。
「當人もそのつもりでした、――この春から」
專次の返事のギゴチなさ、――それは、
「ところで、今晩、一
「明神樣の境内から、金澤町あたりを歩いて居りました。何しろこんなに賑やかですから」
「お今と一緒に歩いてゐるのを、見たものがあるぜ」
「そんな、そんな事が――親分」
專次はすつかりヘドモドして居ります。いや、それより驚いたのは、ガラツ八の八五郎でした。錢形平次は、八五郎のやつた迎ひで、ツイ今しがた自分の家から來たばかりで、そんな噂などを耳に入れる
「この一刻ばかり、何處に何をして居たか、それがはつきりしなきや歸せねえが」
「親分、そりや無理ですよ、こんな人出ですもの、何百人に逢つたか判らないが、そのうちから、あつしの見知り人を搜すなんて、出來ない相談ですよ」
專次は泣き出しさうでした。全く神田明神をめぐつて人間の
「氣の毒だが、その胸の
「これは親分」
專次は自分の胸のあたりを眺めました。成程目立つほどではありませんが、點々として左脇腹へかけて、
「死骸を抱き起した時の血だつて言ふんだらう」
「その通りですよ、親分さん」
「死骸から附いた血なら、そんなに飛沫く筈はねえ」
「でも、お今はその時、まだ息があつたんで」
「息のあるのを介抱もせずに、
平次の問ひは容赦もありません。月にさらされた
「人を呼んで來るつもりで、大急ぎで飛出しましたよ」
專次は出來るだけ輕やかに應答するつもりでせう。頬のあたりに引釣つたやうな笑さへ浮べますが、喉はすつかり
「その後に勘六が來て、
平次は誰へともなくさう言ひます。
「へエ、そ、その通りで」
「それ程判つてゐるなら、勘六が縛られる時、なんだつて一言辯解をしてやらなかつたんだ」
「へエ――」
「それぢや勘六にすむめえ」
「でも、親分さん、勘六はあつしが見付ける前に、お今を殺して、又やつて來たかも知れません」
「自分の殺した娘の死骸を見に來た奴が匕首を拾ひ上げたといふのか」
「――」
「そんな馬鹿なことがあるわけはねえ」
「――」
專次はガタガタ
「八、しよつ引いて行かうか」
平次は靜かに八五郎を顧みました。
「親分」
ガラツ八はもう一度平次の顏色を見ましたが、決然たる樣子を見ると、ツイ袂の中の捕繩に手が掛ります。
「御免下さい、親分さん、――少しばかり申上げたいことがございますが」
「誰だい」
「文吉でございます、へエ」
駄菓子屋の文吉――貧乏人には相違ありませんが、町内では便利のよい五十男でした。
「何だい」
「あの、專次さんは、つい先刻まで、町内の
「へ、へエ――」
「町内の衆と
文吉の話は恐ろしく筋が通ります。
「それは本當かい、專次」
平次もツイ、さう訊かなければなりませんでした。
「へエ――、ブラブラお祭の人出を見て歩いてゐるうちに、足が
專次はゴクリと
「專次さんが立上がつた時、あつしも用事を思ひ出して、後から一緒に立ちました。此處の路地まで來ると、專次さんは路地の中へ入つた樣子でしたが、間もなく眞つ蒼になつて飛んで出て、その後へすぐ勘六さんが入つた樣子です。お今さんを殺す隙なんかありやしません」
「――」
錢形平次もすつかり考へ込んでしまひました。どんな證據があるにしても、こんな確かな
「た、大變ツ、親分」
翌る九月十五日の晩、ガラツ八は
「何が大變なんだ、少し落着いて物を言へ、お
平次は靜かに煙草盆を引寄せました。
「落着いちやゐられませんよ、又やられたんだ」
「何だと?」
「三河屋のお三輪が、
「行つて見よう」
平次は立上がると、寸刻の
踊屋臺は、界隈第一番といふ分限者、大藩のお金御用達を勤める三河屋の横手、久しい間空地になつて居るところへ引込んだまゝ、夜も
その踊屋臺の中、揚幕の蔭に、三河屋の一粒種で、町内の自慢の一つになつてゐるお三輪が、揃ひの祭手拭で、痛々しくも
この娘も、前の晩殺された荒物屋のお今と同じ十七、
三河屋の兩親の歎きは見てゐる方も氣が狂はしくなる位。
「お三輪、お三輪」
「何だつて、死んでくれた」
「誰がこんな目に逢はせたんだ」
「言つておくれよ、お三輪」
半狂亂の兩親は、
五十過ぎて、たつた一と粒種――それも龍宮の
「お今も、お三輪も十七か、變なことだな、八」
平次はそんな事を言ひ乍ら、右往左往する彌次馬を尻目に空地と三河屋と、踊屋臺の位置と、光線の關係などを見窮めて居ります。
「いやな
ガラツ八は何心なくそんな事を言つて、氣がさしたものか四方を眺めました。幸ひ誰も聽いてゐる者はありません。
「表は人通りが多いから、踊屋臺へ忍び込むには、後ろの木戸からだらう。道は二つしかないな、一方は三河屋の裏へ出るのか」
「
「離室には誰がゐるんだ」
「七平と言つて、――足の惡い男で、何でも、三河屋の遠縁の者だとか言ひましたが」
地獄耳のガラツ八は、此邊の消息なら何でも知つて居ります。
「もう一つの道は?」
と平次。
「若い者の休み場の裏へ出ますよ。駄菓子屋の文吉の家を若い衆の
「行つて見ようか、――お前は三河屋へ行つて、お三輪が何だつてあんなところへ行つたか聽いてくれ」
平次は
休み場と言つても、ほんの形ばかり、店には
「親分さん、御苦勞樣で――」
文吉は早くも平次の姿を見て挨拶しました。
「誰も此處から空地の踊屋臺の方へ行つたものはないだらうね」
「あるわけはございません。この人數で見張つて居たんですから」
町内の
「親分」
ガラツ八は後ろから追つかけて來ました。
「何だ、八」
「三河屋へ行つて聽いて來ましたが、お三輪は宵のうちに、あの踊屋臺に
「扇なら下女か何かに取らせりやいゝぢやないか」
「それが自分で行つたといふから不思議ぢやありませんか。しばらく待つても歸らないから、心配になつて、下女をやつて見たんださうで」
平次は
「何も彼も、
お今を殺したのも、お三輪を殺したのも、刄物と手拭の違ひはありますが、ほんの暫らくの間に行はれたことで、人間の注意と注意の間の、僅かばかりの盲點を利用したやり口です。
「此處からは誰も空地の方へ行かなかつたのだな」
平次はまだその事を氣にして居ります。
「誰も行つたものはありません。宵から此處に居たのは顏ぶれが決つて居りました。それに、あつしの寢て居る枕元を通らなきや、裏口から出られやしません」
「寢て居た?」
「へエ、面目次第もございませんが、少し呑み過ぎて苦しいので、
「――」
「
文吉はさう言つてよく禿げ上がつた前額をツルリ撫で上げたのです。五十五六の世馴れた愛嬌者で、少し
「寢込んでしまつて、枕元を誰か通つたのを知らないやうな事はあるまいな」
「それはもう大丈夫で、へエ」
文吉は
三河屋へ行つて見ると、家の中は悲歎の渦でした。老主人夫婦の他には、
主人の嘉兵衞が、涙を納めて、平次を迎へるまでには、たつぷり四半刻もかゝりました。祭りのどよみも靜まり返つてさしもの賑ひも、今日の一段落を告げましたが、三河屋の家の中ばかりは、まだ
「何か、心當りはないでせうか、旦那」
「いや何にも、――扇を取りに踊屋臺へ行つたといふのも後で下女から聽いたことで」
一代身上を築いた嘉兵衞は意志の權化のやうな
「手拭はお孃さんの持物でしたね」
「その通りだよ、親分」
「申上げ憎いことですが、近頃お孃さんが親しくしてゐる男はなかつたでせうか」
「――」
嘉兵衞の首は、胸にめり込みます。
「そんな事でもあつたら。そつと言つて下さい、――お孃さんの敵を取らなきやなりません」
平次は注意深く斯う切り出しました。
「言ひませう、親分、耻も
「――」
「時々娘を誘ひ出しに來たやうだが、男つ振りは好いにしても、あんまり評判のよくない男だから婆さんにさう言つて、固く逢ふのを止めてあつたんだが――」
嘉兵衞はいかにも言ひ憎さうです。
「よく言つて下さいました。それが判れば又何とか考へ樣もあるでせう。ところで、奉公人や近所の衆、御親類の人達等で、旦那かお孃さんを
「それはない」
嘉兵衞の言ふことはピタリとして居ります。
「でも――」
「奉公人は他所より給料を高くしてあるし、仕着せや手當も不自由はない筈だ。それに少しは慈悲善根の心がけ、寄附も、ほどこしも、人樣より少い筈はない」
「――」
「町内で私から
嘉兵衞の言ふのは一々本當です。三河在から、万才の太夫で江戸へ來たといふのは、世間の惡口にしても、兎も角も、此處へ根をおろしてざつと三十年、今では
「とりわけ恩を着せてゐるのは?」
と平次。
「私の口から言つては變だが――番頭にでも訊いて下さい」
平次もそれ以上は押して訊きません。
番頭手代、小僧下女の果まで一應は逢つて見ましたが、何の取立てたこともありません。踊屋臺へ行つて、お三輪の死骸を見付けたといふ下女のお崎は、三十前後の達者な年増で、踊屋臺の揚幕の蔭に、倒れて居たお三輪の美しさ、いたましさ、そして凄さを、
「
「俺もそれを考へてゐたんだ」
三河屋の母屋から、踊屋臺へ行くには、どうしても此處を通らなければならないのが、離室の住人にひどく重要な役割を持たせます。
「七平、――まだ起きてゐるのかい」
ガラツ八は見知り越らしく、親しい聲をかけると、
「誰だい」
暫らくゴトゴトさして、雨戸をガラリと開けたのは、四十五六の蜘蛛のやうな男です。
「俺だよ」
代つて顏を出した平次。
「お、錢形の親分さん」
よく
「遲くなつて濟まなかつたな――ちよいと訊いて置きたいことがあつてね」
「どうぞ、親分さん、こんな時ですから、お役に立てば何でもやりますよ」
七平は縁側の端つこへ出て、月の射し入る中に小さく
「殺された娘の敵が討つてやりたいが、お前、何んか知つて居ることはなかつたかい」
「可哀想に、――良い娘でしたが――時折は、淋しからうつて、菓子を持つて來てくれたり、
七平はツイ眼をしばたゝきます。小さい/\離室で、恐ろしく簡素ですが、古物乍ら一と通りの道具が揃つて、何不自由なく暮して居る樣子です。
「誰か、お三輪を怨んでゐる者はなかつたかい」
「怨んでゐる者――飛んでもない、死ぬほど惚れてゐる者は多勢ありますが」
「例へば?」
「町内の獨り者は皆んなですよ、へエ」
「その中で、親しくしてゐるのはあつた筈だが」
「大根畑の專次とか言ひましたね、あの
七平の激しい調子には、片輪者らしいひがみがあるのを、平次は聞きのがしません。
「今晩は?」
「あつしは早寢で、
「――」
「目が覺めたから、序に
「若い男――?」
「へエ、若い男でなきや、あんなに早く、
「それは、確かに合圖の後だね」
「へエ――」
「合圖をして娘を呼出すのは、大根畑の專次一人だけだらうな」
「いくら大家の
七平の舌には、何となく毒を含みますが、片輪なるが故に、人にも世にも捨てられてゐるせゐでせう。
「お前その口笛をよく聞いて知つて居るだらうな」
「――」
「他の人の口笛と專次の口笛と間違へるやうなことはあるまいな」
「間違ひつこはありません。こんな工合でしたよ」
七平は大きな唇を
「そんな事でよかろう。ところで、もう一つ訊きたいが、三河屋の主人を怨んで居る者はないだらうか」
と平次。
「飛んでもない、あんな佛樣のやうな旦那を怨む者があつたら、第一、十何年越し世話になつて居る、この七平が承知しません」
「お前はどんな引掛りで此處に居るんだ」
「遠縁の奉公人でしたよ。十二三年前、箱根へ旦那のお供をして行つて、
「不自由はないだらうな」
「不自由なんてものは、何處の國の言葉だか知らない位で、へツ、へツ」
七平は泣き出しさうな顏をして笑ふのです。活動的な男が、活動を奪はれて、何不自由なく暮してゐて、
「三河屋さんの世話になつてゐるのは町内に何軒位あるだらう」
「十五六軒はありますよ、
「その中でも一番厄介になるのは?」
「駄菓子屋の文吉なんで、三度も身代限りを助けられてゐますよ、尤も同じ三河の出ださうですが」
これ以上はもう訊くこともありません。平次とガラツ八は外へ出て
「八、あれでもお三輪殺しの下手人は專次ぢやないと言ふのか」
「だつて親分、昨夜から一日一と晩、あつしは專次から目を離しやしませんよ」
八五郎は嚴重に抗議を申込みました。
「變だなア、七平の話を聽くと、下手人は間違ひもなく專次だが」
「そんな筈はありませんが、あの時刻には專次は、お今の家で神妙に
「――」
平次には事件の眞相は次第に判らなくなるばかりです。昨夜は文吉の動かぬ證言はあつたにしても、お今殺しはどう見ても專次の外にないので、平次はガラツ八に命じて、一日一と晩專次を見張らせ、怪しい素振りがあつたら、縛つて了ふやうにと言ひ付けてあつたのでした。
「これから何うしたものでせう、親分」
「まづ、寢ることだな、それからゆつくり考へるさ、
「それぢや、親分」
「明日の夕方までに、專次と勘六と、文吉と七平の身許をよく洗つてくれ、無駄だらうと思ふが――それから、こいつは一番大事だ、三河屋の主人は三河万才だつたといふが、それも本當か嘘か――」
「そんな事ならわけはありません」
「もう一つ、
「親分は?」
「俺は寢てゐて考へるよ」
「へエ――」
勝手なことを言ふ平次と、ガラツ八はつまゝれたやうな心持で別れました。
それからまる一日。
翌る日の
「親分、大變、三人目がやられましたよ」
下つ引の皆吉といふのが、戸口から
「何? 三人目? 誰だそれは?」
平次もガラツ八も立上がります。
「下駄屋のお袖さん」
「そいつは大變、あれも十七だ」
三人は眞つ黒になつて飛んで行きました。金澤町の下駄屋のお袖、町は違ひますが、お今、お三輪と竝んで、界隈の評判娘です。
下駄屋は兩親と兄妹六人暮し、お袖はその一番上で、お今、お三輪とは違つた意味の評判娘でした。綺麗さは二人に
家内の驚きと悲歎の中に驅付けた三人は、お袖の死骸を見て、お今にも、お三輪にもない、不思議な衝動を感じました。あまり豊かでないせゐもあつたでせうが、お祭騷ぎの中にも木綿物で、赤いものはよれ/\の紐一と筋だけ、その紐で絞められた白粉つ氣もない顏は、涙を誘ふ
「これはひどい」
平次もさすがに顏を反けました。
「親分さん、敵を討つて下さい。こんな孝行者を殺すなんて、あんまり、あんまりでございます」
下駄屋の亭主は、悲歎に顏を擧げ兼ねるのでした。
世間が物騷と言つても、まだ宵のうち、外へ出て何彼と用事をしてゐたお袖が、何やら變な聲を出したやうに思つて、父親が飛んで出ると、下駄の材料を入れた物置の前、まだ
家へ擔ぎ込んで一生懸命手當をしましたが、素人の悲しさは、ヘマの上にヘマばかりを重ねて、まだ
「本當に何と言ふことでせう、親分さん、こんな娘を殺すなんて、鬼とも、畜生とも、――」
女房は半狂亂にかき
その空氣の中に、冷靜な調べを進めるのは、平次にしても容易の
「結び目がどうしても解けないので、思ひの外手おくれになり、助けられる娘を殺してしまひました。あの通り力任せに引き千切つた時は、もう――」
下駄屋の親爺は、赤い紐を見て泣くのです。成程引き千切つたのは
「こんなに物を
「――」
平次はそれを八五郎に見せましたが、ガラツ八には想像も付きません。
十七の娘達と、十七の娘を持つた親達は
「この次は油屋のお咲かな、紙屋のお早かな――それとも」
そんな噂が、口から耳へ、耳から口へと、傳はります。
「八、大變なことになつたな、――今晩は町内の十七娘に、寢ずの番をつけるんだ。それから、油屋のお咲と、紙屋のお早に氣をつけろ」
「へエ――」
ガラツ八の八五郎は、平次の息のかゝつた下つ引全部を動員して、湯島一丁目から金澤町、
「親分、一人捕まりましたよ、でも、こいつは見當違ひで、逃してやらうと思ひましたが――」
八五郎がそんな事を言つて來たのは、まだ
「逃しちやならねえ、誰を何處で捕まへたんだ」
「紙屋の裏をウロウロして居る奴があるから、二人で
「何? 馬鹿の音次郎? ――その野郎だツ、お袖の首に紐を卷いて、盲目結びにしたのは」
平次は飛上がるほどの大喜びで、番所へ驅付けました。其處には馬鹿の音次郎が、ポカンとした顏をして、自分の繩目を眺めて居ります。
二十五六の立派な
「野郎ツ、何だつてお袖を
平次はいきなり浴びせかけました。
「だつて親分、十七の娘を十七人殺すと、福があるつて言ふぜ」
恐ろしい言葉が、馬鹿の口から、スラスラと出るのです。
「それぢや、お今や三輪を殺したのも
「違ふよ、親分、あれは、おらぢやねえ、先を
馬鹿の言ふことには
「そんな事を誰から聞いたんだ」
「それは言はねえよ」
「何?」
「言ふと
「言はなきや打つよ」
「――」
「牢へブチ込んで何時までも物を喰はせないが、それでもいゝか、野郎ツ」
「言ふよ、言ふよ、打たれるのは平氣だが、物を食はせないのはひどいや」
「さア、言へ、誰がそんな事を教へた」
「七平だよ、三河屋の
「――」
平次とガラツ八は顏を見合せました。いよ/\探索は筋に乘つて來たのです。
直ぐ樣三河屋の離室の、七平を叩き起し、馬鹿の音次郎に
「馬鹿ほど恐ろしいものはございません。――音の野郎がその邊をブラブラしてゐるから、縁側から聲をかけて、食ひ殘りの
七平はさう言つて、本當に四つん這ひになつて飛出さうとするのを、平次とガラツ八は、どんなに骨折つて止めたことでせう。
「八、いよ/\十手捕繩の御返上だな」
「そんな氣の弱いことを、親分」
「お袖殺し一人は押へたが、馬鹿の音次郎ぢや手柄にならねえ」
「でも、三輪の萬七親分は大喜びで縛つて行きましたよ」
「勘六を縛つた見當違ひを取返したかつたらう、放つて置くがいゝ、――俺は馬鹿などを縛りたくはない」
平次は宵のうちに引揚げて來て、お靜に一本つけさせ、面白くもなささうに盃を
「ところで、親分に頼まれたことがありましたネ」
「何だい」
「文吉、七平、專次、それから三河屋の身許と、
「すつかり忘れて居たよ、そいつを聽かしてくれ」
平次は急に元氣づきました。お袖殺しの一件で、まだガラツ八の報告を聽かずに居たことに氣が付いたのです。
「三河屋の旦那は矢張り三河者ですよ、
「そいつは面白いな、二人が兄弟分とは初耳だよ」
「三河屋の旦那はそれでもよく文吉の世話をしたさうですよ、いくら注ぎ込んでも、貧乏性は仕方のないもので、あの通りその日暮しの
「七平は?」
「あれは三河屋の遠縁の
「そんな事だらうな、あの
「それから
「何時だ」
「十日ばかり前」
「どんな職人だ」
「頬冠りをして居て人相は判らなかつたが、
「しめたツ、八、來いツ」
平次は又大きなヒントを掴んだ樣子です。續く八五郎、何處へ行くのかと思ふと、眞一文字に妻戀坂を登つて湯島の方へ――
大根畑[#「大根畑」は底本では「大畑根」]の植木屋から、專次を縛つて來るのは、平次に取つては一擧手一投足の
「親分さん、恐れ入りました。お今を殺したのは、このあつしに違ひありません。あつしが三河屋のお三輪さんと心易くなつたのを
斯うべら/\と白状してしまひました。が、
「お三輪を殺したのは誰だ」
と突つ込むと、
「それは一向知りません。あつしでない事は
三河屋の聟になる氣で居た專次が、お三輪を殺す筈のないことはあまりにも明かです。
「よし/\、それで大抵判つた。ところでもう一つ訊くが、あの晩、御神酒所なんかには行かなかつた筈だな」
「へエ――」
「縁臺へ腰を掛けた覺えもあるまい」
「――」
「文吉がお前を
「いえ、ろくに顏も知りません」
「よし/\」
平次は一人で呑み込むと、專次を奉行所
其足で直ぐ、平次は一丁目の駄菓子屋に踏込んで文吉を縛り、更に三河屋の
「親分、これはどうしたことでございます」
驚き呆れる文吉へ、
「野郎、默つて歩けツ、お前のやうな太い奴はないぞ、そんなひどい事をして知れずに濟むものか、神樣も佛樣も見放したんだ、覺悟するがいゝ」
平次の言葉は、いつもに似氣なく
「親分」
「言譯があるなら、お
「――」
「翌る晩、醉つた振りをして屏風の蔭に入り、そつと拔出して、同じやうな
「――」
「どうだ、恐れ入つたらう」
平次の聲は
「翌る日になつて、お三輪殺しの罪を被せる積りでゐた專次が、一日一と晩八五郎に見張られて居たと知つて、手前達は
平次がこんなに怒つたのを、ガラツ八も滅多に見たことはありません。
「親分、でも、二人の身になる、と
と、ワナ/\顫へ乍ら、文吉は顏を上げます。
「何が口惜しい、何度も/\三河屋さんの世話になつて居るぢやないか、たつた一人の娘を殺すほどの
「三十年前三河から一緒に出た兄弟分の私に、三度で十二三兩は
「貰ふ者は、いくら貰つても足りないのだ」
と平次。
「くれる方は、一文二文でも恩にきせますよ、親分、あつしは遠縁で、三河屋のために
七平は太々しく
「それで十七になる娘を殺したといふのか、手前達は?」
「三河屋夫婦を殺したんぢや蟲が
「何と言ふ奴等だ」
平次は暗然として涙を呑みました。
× × ×
二人を送つた歸り――。
「八、厭な
「三人を四人で殺したわけだね、親分」
とガラツ八はあさつての事を考へて居る樣子です。
「人間の心は恐ろしい。俺は坊主にでもなりたくなつたよ」
「でも、良い人間もあるぜ、親分」
「ガラツ八のやうに、な」
平次は淋しく笑ひました。