錢形平次捕物控

麝香の匂ひ

野村胡堂





「旦那よ――たしかに旦那よ」
「――」
 盲鬼めくらおにになつた年増藝妓のおせいは、板倉屋伴三郎の袖を掴んで、斯う言ふのでした。
「唯旦那ぢや解らないよ姐さん、お名前を判然はつきり申上げな」
 幇間たいこもちの左孝は、はだけた胸に扇の風を容れ乍ら、助け舟を出します。
「旦那と言つたら旦那だよ、この土地で唯旦那と言や、板倉屋の旦那に決つてるぢやないか。幇間たいこもちは左孝で藝妓はお勢さ、ホ、ホ、ホ――いゝ匂ひの掛け香で、旦那ばかりは三間先からでも解るよ。お前さんが側へ來てバタバタやつちや、腋臭わきがの匂ひで旦那がまぎれるぢやないか、間拔けだねエ――」
「何て憎い口だ」
 左孝は振り上げて大見得を切つた扇で、自分の額をピシヤリと叩きました。此時大姐御のお勢が、片手にひしと伴三郎の袖を掴み乍ら、大急ぎで眼隱しの手拭をかなぐり捨てたのです。
 伴三郎の思ひ者で、土地の賣れつお勢に對しては、左孝の老巧さでも、二目も三目も置かなければなりません。
「それ御覽、旦那ぢやないか」
 お勢は少しクラクラする眼をこすりました。二十二三でせうが、存分におきやんで此上もなく色つぽくて、素顏に近いほどの薄化粧が、やけな眼隱しにくづれたのも、言ふに言はれぬ魅力です。
「盲鬼は手でさぐつて當てるのが本當ぢやないか。匂ひを嗅いで當てるなんて、犬ぢやあるまいし――私はそんな事で鬼になるのは嫌だよ」
 伴三郎はツイと身をかはして、意地の惡い微笑を浮かべて居ります。
 これは三十そこ/\、金があつて、年が若くて、男がよくて、藏前切つての名物男でした。本人は大通だいつう中の大通のやうな心持で居るのですが、金持の獨りつ子らしく育つて居る上に、人の意見の口をふさぐ程度に才智が廻るので、番頭達も、親類方も、その僭上せんじやう振りを苦々しく思ひ乍ら、默つて眺めて居るといつた、不安定な空氣の中に居る伴三郎だつたのです。
「あら、旦那、そんな事つてありませんワ」
 お勢は少し面喰ひました。
「でも、俺は匂を嗅ぎ出されて鬼になるなんか眞平だよ」
「それぢや、もう一度鬼定おにぎめをしようか、その方が早いぞ」
 白旗しらはたなお八は如才なく仲裁説を出しました。昔は板倉屋の札旦那の伜でしたが、道樂がかうじて勘當され、今では伴三郎の用心棒にもなれば、太鼓も打つといつた御家人崩れの、これも三十男です。
「それがいゝそれがいゝ」
 雛妓おしやくや、若い藝妓達――力にさからはないやうに慣らされて居る女達――は、斯う艶めかしい合唱を響かせました。
 杯盤はいばんを片附けた、柳橋の清川の大廣間、二十幾基の大燭臺に八方から照されて、男女十幾人の一座は、文句も不平も、大きな歡喜の坩堝るつぼの中にとかし込んで、唯もう、他愛もなく、無抵抗に、無自覺に歌と酒と遊びとに、この半宵を過せばよかつたのです。
 遊びから遊びへ、果てしもない連續は、伴三郎にも倦怠けんたいでした。――何か面白いことはないか、と、褒美をけて考へ出したのが、この頃の子供達がやる『盲鬼』又は『眼隱し遊び』といふ、凡そ通や意氣とは縁の遠い遊びだつたのです。
 この遊びは刺戟的で馬鹿氣て居て、思ひの外皆なを喜ばせました。盲鬼めくらおにが危ない手付きで追ひ廻すと、伴三郎と直八とそれに幇間ほうかんの左孝、藝妓大小取交ぜて十人あまり、キヤツキヤツと金魚鉢をブチまけたやうに、花束を碎いたやうに、大廣間一パイに飛廻るのです。
 中には、首つ玉へかじり付かれたり、髮を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしられたり、わざと疊に滑つて轉げたり、きはどいことまでして見せました。板倉屋伴三郎は、それを苦り切つた顏で、實は面白くて面白くてたまらない樣子で見て居るのでした。
 雛妓おしやく達も藝妓も皆な並べて、
「――いつちく、たつちく太右衞門どんの乙姫おとひめ樣は、湯屋で押されて泣く聲聞けば、ちん/\もが/\、おひやりこ、ひやりこ――」
 と聲を揃へて歌ひ乍ら數へ、一人づつ拔かして、最後に殘つた一人を鬼にするのです。
 殘つた二人は白旗直八と幇間ほうかんの左孝、二人共、鬼になりたくてなりたくて仕樣のないといふ人間――雛妓を追ひ廻して頬摺ほゝずりするのを鬼の役得と心得て居る人間でした。捕まへて散々厭がらせをした上、わざと名を間違へると、何時までも鬼に居られるといふもあつたのです。


 雛妓おしやく達が若い張りのある聲で『いつちく、たつちく太右衞門どん――』を繰り返しました。鬼にされたのは白旗直八。
「そんな間の伸びた――いつちく、たつちく――があるものか。のけ者にされちや、白旗樣のめえだがこの左孝が不服だ。もう一度やり直して貰はうか」
 幇間ほうかんの左孝は大むくれです。『いつちくたつちく』はたつた二人のうちの一人を選ぶ場合はテムポを伸すか、ちゞめるかの違ひで、奇數にも偶數にもなり、雛妓達が望むまゝの人を選ぶことが出來たのです。
「間の伸びたのは師匠の鼻の下さ、いつちくたつちくだつてけて通るよ」
 お勢は相變らず毒舌です。
「言つたな」
「捕まへられて頬つぺたをめられる方が災難さ。目隱しが低い鼻の上へずつこけて選み討ちに捕まへるんだもの、やり切れないよ。御覽よ、先刻お前さんに嘗められたお駒ちやんの頬が、火膨ひぶくれになつたぢやないか」
 お勢がズケズケとやり乍ら、一番若くて美しい藝妓お駒の頬を指すのでした。
「へツ、自分が嘗められないんで口惜しからう」
「呆れたよ」
 際限もありません。
「もう宜からう。二人が噛み合つてゐると際限もない、――鬼は二人の方が面白いから、左孝も鬼になるがいゝ、その代りあかりを消して捕まへるんだ」
 伴三郎はこんな事を言ひ出します。
「それ旦那があんなに仰しやるぢやないか。鬼になるのは私のやうな佛性ほとけしやうの者に限るとよ」
 左孝と白旗直八は背中合せに立つて目を縛り、同時に廣間中の灯を皆な消しました。
めんないちどり、手の鳴る方へ、――
 丸くなつた男女の輪が、ドツとくづれると、それを追つて二人の盲鬼が、手拍子と、哄笑と、悲鳴の中を泳ぎ廻ります。
 何時の間にやら伴三郎は席をはづし、お勢もお駒も見えなくなりました。左孝の惡ふざけに驚いた女共は、縁側へ、次の間へ、廊下へとあかりを追つてあふれ、それを追つて二人の鬼は、薄暗い中を何處までも、何處までもと追ひすがります。
 が、併しその歡樂も盡きる時が來ました。恐ろしい血の終局カタストローフが、熱狂した興奮から、氷のやうな恐怖へ、十幾人の一座を叩き込んでしまつたのです。
「あツ、た、大變ツ」
 下女の上ずつた聲が、次の間から響くと、恐ろしい豫感に、騷ぎは水をぶつ掛けたやうにしづまりました。
「來て下さい、大變ツ」
 續いてもう一度。
「――」
 十人ばかりのは、一瞬闇の中に顏を見合せると、物をも言はずに隣の室へ突進しました。
あかり」
 眞先のお勢が叫ぶと、二つ三つ先の部屋に片附けた燭臺が誰の手からともなく次の間へ運ばれます。
「あツ、白旗の旦那だ」
 驚いたのも無理はありません。御家人崩れで、今こそ幇間ほうかんとも用心棒ともつかぬ事をして居りますが、まだ/\腕つ節には自信を持つた白旗直八が、盲鬼の目隱しをしたまゝ、自分の脇差わきざしで後ろから頸筋を縫はれて死んで居たのです。


 歡樂くわんらくの馬鹿騷ぎは、重つ苦しい恐怖の騷ぎに變りました。階下したで呑み直す支度をして居た伴三郎も、左孝の惡巫山戯わるふざけを逃避して廊下で凉んでゐたお駒も、重い緊張した顏を持つて來ました。
「左孝は何處へ行つた?」
「先刻から見えないぞ」
 この騷ぎの中へ、剽輕者へうきんものでお先つ走りの左孝が顏を出さない筈はありません。
「彼奴だよ、平常ふだんから白旗の旦那と仲が惡かつた」
 お勢です。
「馬鹿な事を言つちやならねえ、人が聞いたら何うする」
 清川の主人の喜兵衞が驅け付けたのです。
「此處だよ、此處に居るよ」
 下の方から男衆の聲が聞えました。
「何が居るんだ」
「左孝師匠の死骸は此處だよ」
「あツ」
 二度目の變事に度を失つた人々は、雪崩なだれのやうに二階から駈降りました。石燈籠いしどうろうの灯のほのかに照らした中庭――、一疊敷もあらうと思ふ庭石の上へ、目隱しをしたまゝの左孝が、叩き付けられたかへるのやうに伸びて、見事に眼を廻して居たのです。
「番所へお屆だ」
「いや醫者が先だ」
 深刻になり行く騷ぎの中へ、ガラツ八を從へた錢形平次と、お神樂かぐらの清吉を從へた三輪みのわの萬七と、何と言ふことか、裏と表から、一緒に清川の敷居をまたいだのでした。
「お、錢形の、又逢つたね」
「番所に居合せたんでね、三輪の」
 平次は其儘引返さうとしました。
「丁度いゝ。錢形の兄哥には負け續けだ。仕切りから念を入れて、一緒に手を着けたら、滿更負けてばかりも居ないだらう。一緒に敷居を跨いだのをきつかけに、この殺しを二人で扱つて見ようぢやないか」
「――」
 三輪の萬七は大變なことを言ひ出しました。
「盲鬼を二人やつゝけるなんざ、大してたくらみのある仕事ぢやあるめえ。夜の明ける前に下手人を擧げたのが勝といふことにしちや何うだ」
「――」
「今度負けたら、俺は坊主になる」
 萬七は斯うも言ふのでした。
あつしも錢形の親分が負けたら坊主になりますぜ、三輪の親分」
 ガラツ八はたまり兼ねて口を出します。
「坊主つ振りはいゝだらうな、八兄哥あにい。飛んだ罪作りだね、フ、フ、フ」
 萬七の舌は毒を含みますが、貫祿の違ひでガラツ八の八五郎もその上應酬が出來ません。唇を噛んで、少し金壺かなつぼな眼を光らせました。
「三輪の兄哥の前だが、たくらんだ殺しなら、直ぐ解るが、相手が目隱をしたのを見て、急に殺す氣になつたのだと、こいつは容易に解らないぜ、――とても一と晩ぢや」
 平次は首を振りました。偶發的ぐうはつてきに機會を掴んで決行された殺しは、理窟でも手掛りでも、手繰りやうのないのが普通だつたのです。
「兎に角やつて見よう。白旗直八は身を持崩もちくづしてゐるが、元が元だから、女や子供に殺される人間ぢやねえ。左孝を二階から突き落したのと同じ人間なら、直ぐ解る筈だ」
 萬七はそんな事を言つて左孝の手當をして居る部屋へ行きましたが、打ちどころが惡かつたものか思ひの外の怪我で、まだ正氣に返つては居りません。
「八、皆なの身許を洗つて來るんだ。白旗直八や左孝は言ふまでもねえが、板倉屋伴三郎の女出入り、――世間で評判を立ててゐるお勢との仲や、その他の事も、解るだけ洗つて來い。町内の髮結床と湯屋と、番所と、板倉屋の向う三軒兩隣を當つたら、殺しの筋だけでも恰好が付くだらう」
「合點、そんな事なら朝飯前だ」
 ガラツ八は飛出します。
 その後ろ姿を見送つた平次は、靜かに二階へ登ると、主人喜兵衞に案内されて、何より先に間取りの具合を見るのでした。
燭臺しよくだいは何處に置いてあつたんです。板倉屋の旦那は何處に居ました」
 矢繼早な平次の質問を浴びると、
「待つて下さい親分さん。私ぢや解りません、お勢を呼んで來ませう」
 喜兵衞はかぶとを脱ぎます。
「お勢も呼びたいが、――その前に訊きたいことがあります。板倉屋の旦那は、鬼ごつこの途中で階下へ行つたんですね」
「三輪の親分もそればかり氣にして居ましたよ、――板倉屋の旦那が二階から降りたのは、二階の廣間の灯りが消えて暫らく經つてからで、死骸を見付けるほんの少し前でしたよ」
「別に變つた樣子は?」
「いつもの通りで、――やれ/\追ひ廻されるのも樂ぢやない。下で落着いて一パイやるから、そつとお勢を呼んでくれ――と仰しやいましたが、お勢を呼ぶ前にあの騷ぎで――」
「板倉屋の旦那と、白旗直八とは、仲が良くなかつたといふ話もあるが」
 平次の問ひは次第に突つ込みます。
「勘當された札旦那の次男を、義理にからんで引取つたのですが、用心棒とも朋輩ほうばいともつかず伴れて歩きました――」
「いづれ面白くない事があつたとすれば、鞘當さやあて筋だらう」
「へエ――、何方も若くて男がよくて、お金のあるのと、腕の立つのと、我儘なのと、少し惡黨がつたのですから、女は迷ひますよ」
 喜兵衞は當らず觸らずの事を言ひますが、伴三郎と殺された直八の間が、案外世間で見るやうに無事なものでなかつたことは事實のやうです。


 妓共をんなどもは大小こき交ぜて、吹き溜りの落椿おちつばきのやうに、廣間の隅つこに額を突き合せ、疑ひと惱みと不安とにさいなまれた眼を見張つて居りました。
「お勢、――お前の知つてるだけを、皆んな話してくれ。隱したり、かばつたりすると、白旗直八は浮び切れないよ」
 錢形平次は、隣りの部屋に一人づつ呼んで人と人との關係やら、宵からの馬鹿遊びの始末を訊いて居ります。
「親分、これで皆んなですよ。あとは何にもありやしません」
 お勢の妖艶な顏も、さすがに蒼く引緊つて、日頃の寛濶さは微塵みぢんもありません。
「板倉屋の旦那の物好きで、盲鬼めくらおにを始めた、――板倉屋は鬼になるのを嫌つたが、左孝は何べんでも鬼になつた、――不思議なことに白旗直八は鬼が當らなかつた――と言ふんだね」
「え」
「板倉屋は雲南麝香うんなんじやかうの掛け香を持つて居るから、一二間離れて居ても解るので、遠慮して誰も捕まへなかつたと言ふんだらう」
「え」
「それをお前は捕まへた、どうするつもりだつたんだ」
「一度位鬼にし度かつたんですよ」
「板倉屋が嫌がると、又鬼定おにぎめをやつたさうだな、それを言ひ出したのは?」
「白旗さんですよ」
「――いつちく、たつちく――を伸ばして言つて、わざと白旗直八に當てさせたのは誰の細工だ」
「私ですよ、親分、私がこども達に言ひ付けたんです」
「本當かお勢、大事のところだ」
「私の言ふことでなきや、こども達は聞きやしません」
燭臺しよくだいを取拂はせたのは?」
「それは板倉屋の旦那でした。暗くした上そつと階下へ降りて靜かに一杯やらうと仰しやるんで」
 お勢の言葉には何のよどみもありません。
「お前と白旗直八とは、他人ぢやなかつた樣ぢやないか」
 平次は何處で聞いたか、斯う誘導いうだう的な問を持ちかけました。今では板倉屋伴三郎の寵者おもひもので通つて居るお勢が、曾て白旗直八に關係があらうとは、誰も知つては居なかつたのでした。
「何うしてそんな事を?」
「――」
 平次は默つて笑ひます。が、その自信のある眼差は、正面からお勢の表情の動きを見据ゑて居るのでした。
「でも、五年も前のことなんです――私は一本になつたばかり、白旗さんだつて部屋住で、長くは續かなかつたんですよ」
 お勢は眼を伏せました。ふるい悔恨が、チクチクと胸に喰ひ入る姿です。
「板倉屋はそれを知つて居たのか」
「え」
「――」
「でも、板倉長の旦那はそんな事を恨みになんか持つちや居ません。昔の昔の事なんですもの。私共稼業の者にしちや一年は十年で」
「――」
 平次の眼が依然としてなごまないのを見るとお勢は淋しさうに首を垂れました。
「それに、近頃は、お駒さんに夢中なんですもの、――私のことなんか」
「そいつは初耳だ、嘘ぢやあるまいな、お勢」
「嘘なんか言やしません。――そのお駒さんが、白旗さんに氣があつたことも、親分さんは御存じないでせう――でもこんなに皆な言つて了つていゝでせうか」
 お勢は悲しさうでした。この陽氣でおきやんな女の一皮下には、妙な悲劇的な情緒じやうちよのあるのを、平次はまざ/\と見せ付けられたやうな氣がしたのです。


「錢形の兄哥あにい、左孝は口をきいたよ」
 萬七は得意な鼻をうごめかして、平次を迎へ入れました。
「何て言つたんだ、三輪の」
「廊下へ出ると、いきなり、恐ろしい力で突き飛ばされ、欄干らんかん越しに、庭へ落ちたことまでは知つて居るが、その後は、何にも知らねえ――と」
「俺が聞いて見よう」
「それもよからう」
 平次は、萬七の皮肉な目をせなに感じ乍ら、左孝の枕元へ中腰になりました。何うやら斯うやら、人心地付いた左孝は、まだまとまつた事を話せるやうな容態ではありませんが、それでも、眼だけは物憂さうに動かして居ります。
「俺が判るだらうな」
「――」
「お前さんが、二階から突落されたのと、白旗直八が殺されたのと、何方が先なんだ」
「私の方が先で」
 左孝の唇は繃帶ほうたいの中に僅かに動きます。
「どうして解つた」
「私が、廊下へ出たとき、白旗の旦那は、まだ、女共を部屋の中で追ひ廻して居ました」
「お前を突きおとしたのは、男の手に間違ひあるまいな?」
「へエ」
「その時、掛け香の匂ひがしなかつたかい」
「飛んでもない」
「灯を消して盲鬼めくらおにが始まつた時は、二階に男が二人しか居なかつた筈だ。板倉屋の旦那と、白旗直八だ。その白旗直八はお前と同樣目隱めかくしをして居た」
「へエ――」
 左孝はそんな事に始めて氣が付いた樣子です。
「板倉屋でないとすると、白旗直八だ。白旗直八は殺されて居るんだぜ」
「私も殺されかけましたよ、親分さん、――白旗の旦那が私を突き落した後で、誰かに刺されたとしたら、どんなものでせう」
「それも無いことではあるまい。が、白旗直八をうらむのは誰だ」
「お勢ですよ、――親分、大きな聲ぢや言へませんが」
「何だと」
「白旗の旦那は、お駒と板倉屋の旦那の仲を取持つと思つてこの左孝を怨んで居ましたし、お勢は自分の浮氣を棚に上げて白旗の旦那がお駒に氣があるのをいて居ましたよ」
「フーム」
 筋はよく通りますが、そんな簡單な事で、この事件の謎が解かれるでせうか。平次は深々と腕をこまぬきました。
「錢形の兄哥、考へることはあるまいよ、下手人は板倉屋の伴三郎さ。左孝はそれをかばつて居るんだ」
 三輪の萬七は心得て居ります。
「そんな事はあるまい」
「『いつちく、たつちく』と長々と引伸ばして、白旗直八に鬼を當てたのは伴三郎の指圖だ」
「いや、それはお勢だ――お勢がさう言つたぜ、兄哥あにき
「錢形のにも似合はない。お勢は板倉屋を庇つて居るんだよ、妓共をんなどもは伴三郎がお勢に言ひ付けて細工をさせたのを、皆んな聞いて知つて居るぜ」
「フーム」
 平次は完全に萬七にやり込められました。
「白旗直八は御家人の冷飯喰ひだが、腕は相當に出來て居る。眼を開いて居ちや、伴三郎風情に殺される筈はねえ、――それに、居候ゐさうらふくせに女出入りで伴三郎とは仲が惡つたさうだ」
「――」
 萬七の言ふのは一々尤もですが、平次にはまだに落ちない事ばかりです。
「錢形の、引揚げようか。約束の夜明けにはまだ三ときあるが、俺は此處に用事がねえよ」
「えツ」
「今頃は清吉が板倉屋を伴れて、番所へ行つた筈だ。これから行つて一と責め責めて見よう」
 三輪の萬七のほこらしさ。
「そいつはいけねえ、兄哥、板倉屋は唯の金持の旦那だ、人なんか殺せる男ぢやねえ。この世を面白く可笑しく暮す人間が滅多なことで人を殺すものか」
「相變らず道學だうがくの御談義だ。人を殺すに暮し向の事なんか考へるものか」
「だが、板倉屋と白旗直八は、腹の底では敵同志だと言つたね、三輪の」
「その通りさ」
「なら、プンプン麝香じやかうを匂はせた板倉屋が、側へ寄つて自分の刀を拔くのを待つて居る筈はねえ。白旗直八は自分の腰の物で刺されたんだぜ」
 平次は漸く鋭い鋒鋩ほこさきを現はしました。
「そいつは何とも言へねえよ、腰の物はさやごと拔いて、何處かへ置くこともある」
「鞘は白旗の腰にあるんだ、そんな筈はねえ」
「兎に角、俺の見込みが違つたら坊主になるまでだ。錢形の、夜の明ける迄が樂しみさ」
 三輪の萬七はもう一つ皮肉な微笑を殘してさつさと出て行つてしまひました。


「親分さん、――お願ひですが」
「何だ、お勢ぢやないか」
 平次は思ひ詰めた女の眼を見ました。
「板倉屋の旦那などの御存じのことぢやありません。何とかして助けて上げて下さい」
「何を言ふんだ、お勢。俺も板倉屋を疑つて居るんだよ、ことによると、俺の方が坊主になるかも知れない」
 平次は冷靜な笑ひにまぎらせて、奧へ行きさうにするのでした。
「親分さん、待つて下さい、實は、實は――」
「私が殺しました――なんて言はないでくれ、下手人がもう一人増えると、手數が多くなるばかりだから」
「でも本當に私が殺したら、何うしてくれます。親分さん」
「白旗直八が目隱をしたまゝのを刺したのかい」
「え」
「殺すほどの怨は何だ」
「あの男が五年前のことをぺら/\喋舌しやべつたばかりに、私は板倉屋の旦那に捨てられさうになりました。これほど口惜くやしかつたら、殺しても不思議はないでせう」
「よし/\、お前の言ふ事を本當にしよう。が、繩を打つ前に見せたいものがある。ちよいと來るがいゝ」
「――」
 平次はお勢をつれて、死體を置いた部屋へ入つて行きました。
「頸筋のきずは、後ろから刺したんだ。いゝか、ぼんのくぼは大變な急所だが、のどや胸と違つてあまり血が出ねえ、――ところで、少しばかりの血が、目隱の手拭の下へ附いて居るのは何う言ふわけだ」
「――」
「解らないか、お勢、曲者は、白旗直八が目隱しを取つたところを刺し、何か誤魔化ごまかす爲に、殺してから又目隱しをしたんだ、――死骸へ目隱しをして逃げるやうな、手の混んだ藝當は、お前に出來るかい――」
「――」
「一言もあるめえ。この下手人げしゆにんは、三輪の兄哥が睨んだ板倉屋でもなきや、名乘つて出たお前でもないのさ。まア/\俺に任せて置きな」
「親分さん」
 お勢は泣いて居りました。
 平次はもう一度廣間に取つて返すと、妓共を一人々々調べ上げて見ました。が、何にも解りません。解つたことは、眞つ暗な部屋の中で、鬼が何處に居るとも見當もつかないのに、十幾人唯滅茶々々めつちや/\にキヤツキヤツと言つて居たといふだけです。
「お駒は?」
「師匠の世話をして居ますよ」
 まだ一本になつたばかりのお駒が、赤の他人の、初老近い幇間たいこの世話を燒くのは、餘程何うかした心掛でなければなりません。
「あのは、根が優しいから、それ位のことはするでせうよ」
 主人の喜兵衞はそんな事を言つて居ります。
 眞夜中過ぎまで何の變化もなく、檢屍けんしも翌る朝になつたので、一應妓共を歸さうか――とも思ひましたが、若しその中に下手人が交つて居ると、容易ならぬ手落ちになります。
 平次は日頃の遣口にはない事ですが、素知らぬ顏をして廣間の中に不安にをのゝく一團の美しいむれを見て居りました。


「親分、解つた」
「何だ、八」
「夜つぴて飛んで歩くつもりだつたが、いゝ鹽梅に、子刻こゝのつ前に皆な解つたぜ」
 八五郎の顏、――獲物をくはへた獵犬のやうな顏を見ると、平次はそつと物蔭に呼びました。
「順序を立てゝ言へ、先づ、何が解つた」
「白旗直八は御家人の冷飯食ひの癖に、名代の色師いろしだ」
「それは解つてる」
「散々の道樂で勘當になり、板倉屋に轉げ込んだ。最初は伴三郎と似た者同士で仲よく遊び廻つたが、板倉屋の寵者おもひもののお勢が、五年前白旗にだまされて道行までした事があると解つて二人の仲は次第に面白くなくなつた」
「それも解つてる」
「ところが、板倉屋は近頃お駒に夢中で、今度こそは假親かりおやを立て、引き祝もさせて、家へ入れようと言ふところまで話が進んだ」
「フーム」
「板倉屋の親類の手前、お駒の本當の親は、武家とか浪人とか言ふことになつて居るが、それが何うも細工らしい」
「――」
 平次は次第に緊張しますが、八五郎の話は委細ゐさいかまはず續きます。
「それを嗅ぎ付けたのが白旗直八だ。親元のよくねえのをブチまけると言つちや、お駒をおどし、まだ一本になつたばかりで、金つ氣が無いとわかると、色氣の方で行つた」
「フーム」
「白旗といふのは、惡い野郎ですぜ、殺されるのは當り前だ」
「それから何うした」
「お駒は逃げて/\逃げ廻つた。白旗直八はそれを追ひ廻して、板倉屋へ落籍かれる前に射落さうとした」
「待つてくれ、そのお駒の本當の親といふのは何だ、それを聞いたか」
「それが何うしても解らねえ、――柳橋中を聞いて廻つたが誰も知らねえ。母親は藝妓げいしやだつたが、父親は、大家の若旦那だつたとも、武家だつたとも――」
 此處まで來ると、はなはだ頼りがありません。
「八、お前一と走り番所へ行つて、三輪の兄哥を呼んで來な」
「何をやらかすんで」
「ちよいと立ち會つて貰ひたいことがある。板倉屋は清吉兄哥に任せて、ほんの四半刻清川へお顏を貸して下さい――と丁寧に言ふんだぜ」
「へエ――」
 八五郎には何が何やら解りませんが、親分の平次に言ひ付けられた通り、兎にも角にも、もう一度深夜の街へ出て行きました。


「錢形の兄哥あにき、用事てえのは何だい」
 三輪の萬七は勝ちほこつた心持で入つて來ました。夜の明けぬうちに、伴三郎に白状させる見込が立つたのでせう。
「少し聞き込んだ事があるんだが、一人ぢや心細い、兄哥に立ち合つて貰ひてえが――」
「いゝとも、だが――無駄だぜ、錢形の、下手人はどう考へたつて板倉屋だ」
「兄哥の見込みを何うの彼うのと言ふわけぢやねえ。ほんのちよいと、念の爲に當つて置きたい人間があるんだ」
 平次はさう言ひ乍ら、幇間たいこもちの左孝のて居る部屋へ入つて行きました。燒酎せうちう臭い四疊半に、金盥かなだらひを一つ、美しいお駒が甲斐々々しく手拭を絞つては、左孝の額を冷して居るのでした。
「あ、親分さん方」
 入つて來た平次とガラツ八と萬七を見るとお駒の顏色は動搖どうえうします。灯のせゐだつたかも知れません。
「お駒、立つて見な、――何處かへ血が附いて居る筈だ」
「――」
 平次の聲は峻烈しゆんれつでした。お駒の顏は、紙のやうに蒼白くなります。
「お前には殺す氣はなかつた。白旗直八はお前を捕へると、あの部屋に伴れ込み、刀まで拔いておどかした。言ふことを聞かぬと殺すとか何とか言つたらう。お前は思案に餘つて、言ふことを聞くやうな顏をし、白旗直八が刀を其處へ置くといきなり取上げて刺した筈だ――證據は澤山ある」
「親分さん」
「違つて居るとは言へまい。さア、番所へ來い――三輪の兄哥、聞いての通りだ。あつしはこの女を番所へ伴れて行つて、伴三郎と突き合せる。兄哥はすまねえが、ほんの暫らく此處に居て、怪我人を見てやつてくれないか」
 平次は誰にも物を言はせませんでした。スツクと立上がると、
「親分さん、待つて下さい、それは、それは違ふ」
 怪我人けがにんの左孝が重態の床から乘出すのにさへ目もくれず、お駒を引立てゝ、風の如く部屋の外へ出ました。
「錢形の、待つてくれ」
 驚く三輪の萬七、續いて立たうとするのを、
「三輪の親分さん、聞いて下さい――私はどうせ助かりさうもない、何も彼も皆んな申します。白旗直八を殺したのは、お駒ぢやありません」
 瀕死ひんしの左孝は、萬七の袖をひしと掴んで、苦しい聲を振り絞るのです。
「何だ、早く言へ」
 と中腰の萬七。
「白旗直八を殺したのは、この左孝でございます。――お駒などが、飛んでもない」
「何だと、いゝ加減の事を言ふと承知しねえぞ」
「今死ぬ私が、いゝ加減なことを言ふものですか、――何を隱しませう、これはお駒も知らないことですが、私はお駒の爲にはしんの父親――」
「何?」
「お駒は私の娘で御座います」
 左孝の言ふのは全く思ひもよらぬ事ですが、その眞實性は萬七の腰を据ゑさせます。
 苦しい息の下から話したのはうでした。
 左孝がまだ若くて名ある店の若旦那時代に、藝妓と馴染んで生れたのがお駒だつたのです。その後しばらく他國を放浪し落ちぶれ果てた姿で歸つて來ると、お駒は他所よそ[#「お駒は他所よそに」は底本では「およそは他所に」]貰はれて美しく育ち、その母親は十年も前に死んで居りました。
 左孝は、お駒の夢を破らない爲に、永い間名乘りもせずに來ました。父親を大店おほだなの若旦那と思はせて置くのが、幇間ほうかんの左孝には、せめてもの慈悲なのです。
 そのお駒が玉の輿に乘りかけて居る矢先、白旗直八はフト左孝の身の上を嗅ぎ付けて、お駒を脅迫けふはくし、金にも智慧にも餘る難題を持出したのでした。今晩も、鬼になつたのを幸ひ目隱しをはづしてお駒を隣の部屋に引摺ひきずり込み、刀まで拔いて難題を吹掛けるのを見ると、お駒にも知らさずに、父親らしい慈悲の眼を離さずに居る左孝は、その後を追つて部屋に入り、直八がお駒を抱へ込むすきに、其處に置いた拔刀ぬきみを取つて、後ろから刺し、息の絶えるのを見ると、何とはなしに下手人を誤魔化ごまかすつもりで、再び死體に目隱しをさせ、自分も少し位怪我をして、諸人の疑ひの目をまぬかれるつもりで、一と思ひに庭へ飛降りたのでした。
「運惡く庭石の上へ落ちて、こんな大怪我をしたのも天罰てんばつでございませう、――三輪の親分さん、白旗直八を殺したのはこの左孝に違ひございません。娘を助けてやつて下さいまし、お願ひで御座います」
 次第に弱る氣力を勵まして、左孝は兩手をひしと合せました。死の色の濃くなり行く頬には、必死の涙の跡さへ、糸のやうに引いて居るのです。
「よし/\、助けてやる、心配するな」
「それから、娘にはこの左孝が父親だつたとは教へないで下さい、――赤の他人に危ないところを助けられたと思つて、大怪我をした私を介抱するやうな優しい娘で御座います」
 それを聞く三輪の萬七も、鬼の眼の涙ほど睫毛まつげを濡らして居りました。
        ×      ×      ×
 お駒は番所へなど連れて行かれたのではありません。その晩のうちに許された伴三郎と、平次と萬七が仲に入つて、假祝言かりしうげんの話まで進められて居りました。
 何も彼も見盡して、淋しくあきらめたお勢は、
「八五郎親分のところへ押かけ嫁に行きますよ。可愛がつて下さいな」
 そんな事を言ひ乍ら、ポロポロと泣いて居るのでした。
「親分、何だつてあの時お駒を伴れ出したんで。下手人があの左孝とは、親分には前から判つて居たんでせう」
 ガラツ八が斯う切り出したのは、その翌る日でした。
「あんな細工でもしなきや三輪の兄哥が本當に髷を切るよ」
「――」
 ガラツ八は默つて、この世にもすぐれた心構こゝろがまへの親分を見上げました。お蔭で此手柄も錢形の平次はフイにしてしまつたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第十卷 八五郎の恋」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年8月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1936(昭和11)年8月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年4月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード