「あら、八五郎親分」
神田お
櫻の
「わつ、びつくりするぢやねえか、いきなり飛付いたりして」
八五郎は立ちどまつて、精一杯の見榮をきりました。
「でも、鼻の頭を
「御遠慮には及ばない、嘗めてもらひたかつたよ」
「でも、ね、
「畜生ツ、いつたね」
八五郎は大きく
名前はお
「本當に、此處で逢つたは百年目よ」
「敵討ち見たいなことをいふな」
「今日こそは錢形の親分に引き合せて下さるでせうね」
「引合せるのは御安い御用だが、お
「私がいひ
「呆れてモノがいへねえ」
「正直で可愛らしいぢやありませんか、ね、連れて行つて下さいよ、八五郎親分」
「御免
「そんなことをいはないで、ね、八五郎親分――これは人の命にかゝはることよ」
お粂は眞劍になりました。キツとなると、百
「何處へ行くんだ、お前は?」
八五郎は、平次の家の前で立ちどまりました。まいた積りのお
「あら、錢形の親分に引合せて下さる筈ぢやありませんか」
「そんなことを引受けた覺えはないよ」
「意地の惡いことを言はないで連れて行つて下さいよ、錢形の親分に逢つてゐる間は、ニコリともしないから」
さう言ふくせに、こぼれる愛嬌を持て
「そんなに逢ひたきア、お前一人で行くがいゝ、お前みたいなものを連れて行つて、あとで親分に
「私が一人で行けるくらゐなら八五郎親分を頼むものですか、去年の秋の大さらひの後で、お友達と附け文ごつこをして、錢形の親分を引き當てたばかりに私はうんと怒られてしまつたんですもの」
町の稽古場、
「おい、八、何をしてゐるんだ、路地の中で、風の惡い」
錢形平次は、格子の外へ顏を出しました。相手は誰であらうと、路地うちの
「長者町のお粂さんが、親分に逢はせろと言つて聞かないんですよ、どうしませう」
「逢つてやらうぢやないか、お取次ぎに及ぶものか、――お粂さんの
「濟みません、――附け文ごつこなんて、
お粂は格子に
「ところで、俺にどんな用事があるんだ、男出入と金のことは御免だよ」
「それどころぢやない、長者町の私の家の者が皆んな殺されかけてゐるんです」
お粂は飛んでもないことを言ふのです。
家中のものが皆殺される――といふのは、言葉は簡單ですが、その意味はいかにも重大です。
「それはどういふわけだ、お粂さん」
平次は八五郎とお粂を六疊に案内して、心靜かに問ひを進めました。
いかに浮氣で、愛嬌もので、少々は嘘つきであつたにしても、長者町の
その時お粂は二十五、出戻りになつてから、
「私がこんな事をいつたと知れたら、どんなに叱られるでせう、でも默つちやゐられません、二人は死にかけたし、一人は怪我をしたんですもの、父さんは
お粂はまくし立てるのです。
「
「それどころぢやありませんよ、去年の夏
「待つてくれ、まるで、おれのせゐみたいぢやないか、誰が一體殺されかけたといふんだ」
「叔父さんの孫三郎――御存じでせう、あの氣むづかしやの」
「知つてるとも、長者町の貧乏神――」
八五郎は口を容れて、あわてて頭を引つ込めました。その長者町の貧乏神といはれた、俵屋の支配人孫三郎の
「その叔父の孫三郎さんがどうしたのだ」
「
「?」
「そればかりなら、叔父さんを怨んでゐる者を搜せば濟むことですが、二三日前には、朝の味噌
まさに容易ならぬことがありさうです。
「お粂さん、一人の思ひつきで俺の家へやつて來たのか」
平次は
「私は前から、錢形の親分にお願ひして、
「お前が此處へ來たことは、その金之助の外には、知つてるものはないわけだな」
「その通りです、それから」
「それからどうした」
「叔父さんを
「女?」
「身のこなしがやさしくて器用だつたし、
「女が何人ゐるんだ、俵屋には?」
「私も入れて三人」
「誰と誰だえ」
「妹の玉ちやんと、私と、母と、あゝそれから、下女のお徳と、このうちに人殺しでもしようといふのは」
「誰だと思ふ」
「母は病氣で
「殘るのは、お前ぢやないか、お
「ま、怖い、――私が」
「まアいゝ、お前は眼で殺す方だ、――兎も角、それだけワザをするのを
「來て下さるの、親分」
お粂の聲ははずみます。事件の輕重はどうあらうと、錢形平次をおびき出せば、それで氣が濟む樣子です。
「尤も、朝の味噌汁の
「さうでせうか」
「明るいうちから、御用聞が乘込んぢや、俵屋の旦那が
平次は到頭この仕事に首を突つ込む相談をしてしまひました。
その晩、思ひも寄らぬ
「親分ほどの人も、たうとうあの女には
八五郎は面白さうに
「人聽きの惡いことをいふな、――お粂の口から聽いただけのことでも、俵屋に
「矢張り惡企みですかね」
「俵屋は金があり過ぎるよ、それに
「さう言はれると、お家騷動の卵があり過ぎますね、お粂さんが心配するのも無理はない」
「あの女も卵の一つかも知れないぜ」
「附け文ごつこで、
「お前が見ると、綺麗で若い女は皆な善人さ」
「
「おや、俵屋に何んかあつたんぢやないか、大騷ぎをしてゐる樣子だが」
長者町へ入ると、向うに見える一
「何んかありましたね、親分、飛込んで見ませう、もう遠慮なんかしちやゐられませんよ」
「よし、來い」
二人は店口から堂々と名乘つて出ました。
「御免よ、何んか變つたことがあつたのかい」
「あ、八五郎親分、大變よ、矢張り私が言つた通り」
飛出したのは、少し取り亂してゐる、出戻りのお粂でした。一度もう
「何がどうしたんだ」
「叔父さんが殺されましたよ」
「何?」
「錢形の親分さんも御一緒で、さア、
横合ひから割込むやうに、店暖簾をかきわけて、二人を案内してくれたのは、
家中の者はあちこちに固まつて臆病らしく眼を光らせるだけ、その中でお粂と金之助だけが、僅かに冷靜を取戻した樣子です。
「この上が、孫三郎樣のお部屋でございます」
「お前が案内してくれるのだらう」
平次は後ろから
「へエ、でも、あまり良い役ぢやございません」
金之助は振り返つて、淋しく苦笑ひするのです。あまり外へ出ないせゐか、病身らしく蒼白い顏ですが、男のくせに笑くぼが寄つて、細面の素晴らしい男振り。
「何んだ、進んで案内したのが今さら怖くなつたのか、こちとらは死人を恐れた日にや稼業にならねえ、おつかねえのは此家にうんとある金ばかりさ」
八五郎はそんな無駄をいひながら、金之助に取つて代つて、階子段を驅けあがりました。
裏二階は六疊と四疊半、孫三郎は主人の義弟で店の支配をしてをり、かなり存分に暮してゐたらしく、調度の末までも、なか/\に
唐紙は開けつ放しのまゝ。一と目、八五郎もたじろぎました。
「こいつは
平次はかきのけて中へ入りました。左横手の押入の
「
「へエ」
八五郎は階子段を飛降りると、まだそこに立つてゐる金之助を促し立て、手燭を持たせて、またも二階へ取つて返します。
その間に平次は、たつた一つの
何しろ大變な血ですが、その
押入にブラ下がつてゐるのは、四十七、八の
「誰がこれを見付けたんだ」
平次は後ろに物の氣はひを感じて、誰にともなく訊ねました。
「お粂さんでした、二階で變な聲がするので、寢卷のまゝ來て見たんださうです――お粂さんの部屋は、丁度この
應じたのは恐る/\ついて來たらしい金之助でした。
「お前はそれを聽かなかつたのか」
平次は
「私は表二階で、旦那樣のお肩を
「旦那はどこが惡いのだ」
「お醫者はいろ/\のことを申しますが、
「それは氣の毒な」
「毎晩寢る前に、身體を揉んであげるのが私の役目になつてをります、女どもでは力がなくていかず、男達は亂暴なので、私が一番宜しいさうで、――揉んであげるとよく寢られると申して喜んでをります」
なるほど、この
「兎も角、お粂さんを呼んでくれ、それから
平次の指圖で、奉公人達は一ぺんに入つて來ました。孫三郎の死骸を押入から取おろして、隣の部屋へ入れると、内儀のお春と、娘のお玉もやつて來て、下男の五助や、手代の金之助や、下女のお徳などを指圖してをります。
内儀のお春は、平次と八五郎に輕く挨拶しただけで、この不氣味な作業に取りかゝりました。年は三十八ときゝましたが、綺麗ではあるにしても、どこかに弱々しい病的なものを感じさせる女です。
娘のお玉は
「親分」
お粂を呼びに行つた八五郎が、ぼんやり戻つて來ました。
「何んだ、八」
「お粂は來ませんよ、あんな氣味の惡い二階なんか嫌だつて」
「勝手な女だ」
「先刻一と眼覗いただけで、血の道が起きたくらゐだから、二度とあれを見せられると、眼をまはすかも知れないんですつて」
「あの女は、そんな事で眼をまはすものか、――でも、お粂の部屋も見ておきたい、
「さうですか、――四の五の言へば、下手人の疑ひで引つ
「そんな殺生なことは止せ、本當に眼をまはされると厄介だ」
平次は氣輕に立つて、階下のお粂の部屋へ行く氣になりました。
「あ、錢形の親分」
驚いて飛起きたお粂は、床の上にまじ/\と坐り直すのです。嫁入道具をそのまゝ不斷用にしたらしい、派手な夜の物も、
「氣持が惡いさうぢやないか、どうしたんだ」
平次はお粂の床から遠く離れて中腰になりました。さすがにその調子には、
「濟みません、親分、私はもう打つ倒れさうなんですもの」
お粂は
「氣持が惡きや、仕方はないが、最初にあれを見付けたといふお前に、訊くだけのことを聽かなきやならない」
「――」
「お前は
「私にはわかりません、わかるはずもないぢやありませんか、――でも叔父さんは、夜中に家中を歩く
お粂の話は、なか/\に奇つ怪です。
「あれだけの傷だから、刺されて間もなく死んだことだらうが、物も言はずに死んだとは思はれない、お前が行つたとき、何んか言はなかつたのか」
「二階で變な物音がしたので、私は、飛起きて
「誰にも逢はなかつたのか」
「誰にも逢ひません、二階の廊下は眞つ暗でしたが、叔父さんの部屋には
「飛込むと、それから、どうした」
お粂は
「やられた、――あの女だ――と叔父さんは言つたやうでした」
「あの女――と言つたのか」
「聲をかけて飛付くと、叔父さんはもう」
「それつ切り息を引取つたのだな」
「私の聲を聽いて、五助とお徳が飛んで來ました。それから母と玉ちやんと、少しおくれて金之助が――」
お粂は自分の肩を抱いて、
「その叔父さんを、うんと
平次は平凡過ぎるほど平凡な問を持出しました。こんな問を出したところで、あまり結構な答へを得たためしはありませんが、それでも相手の語氣や、表情や、言葉の
「皆んな叔父さんを怨んでましたよ」
「?」
「
「――」
「強情で、しみつ垂れで、女は大飯を食つたり着物を買つたり、
「念入りだな」
「そのくせ、時々は安い遊びにも行くやうで、――金之助が
さすが出戻りだけに、お粂はヌケヌケとこんなことまでいふのです。
「その心掛けでは、主人の孫右衞門さんには評判が良かつたことだらう」
「飛んでもない、敵同士でしたよ」
お粂は以てのほかの手を振るのです。
「主人と孫三郎は兄弟ぢやないか、それに主人が床についてからは、隨分役に立つた支配人だらうと思ふが――」
「兄弟と言つても義理のある中で、――以前は良い支配人でしたが、父が
「滅茶々々だな、――他の人達とも仲が惡かつたのか」
「奉公人達には思ひのほか評判がよかつたやうです。どうせ俵屋の
「手代の金之助も奉公人なみだらうな」
「仲が惡くなかつたやうです、尤も下男の五助は、時々叔父さんに
お粂は元氣を取戻して、かなり突つ込んだことまで言つてくれるのです。
平次は
「もう少し訊きたい、構はないだらうな」
平次は念を押しました。
「え、どうぞ、親分と
「二階へは行きたくないと言つたのはどういふわけだ」
「だつて、あれを見せられちや私は
お粂は手の甲を、額に當てるのです。美しいポーズ[#「ポーズ」は底本では「ボーズ」]です。押入からブラ下がつた
「まア、宜い、俺はこの家の皆んなの
「あら、皆んな御存じの癖に、私は浮氣で、出戻りで、
「それは解つてゐるが、主人の孫右衞門の
「その通りです、私は先代の主人の娘、眞實の父が亡くなつて、今の父が母のところに
「その總領娘のお前は、此家の跡取りになるのが順當ぢやないか、他へ嫁に行つたのは、どういふわけだ」
「俵屋の跡取り娘には違ひないけれど、父も母も他人とわかつてゐるくせに、この
「?」
「藝人を
「――」
「それを良い仕合せに、知り合ひを
「身から出た
「妹のお玉は今の母の生んだ娘。
「内儀のお春さんは、大層若いやうだな」
「母と言つても、まだ三十八ですもの、それにあの通り綺麗だから、よく姉妹と間違へられますよ」
お粂は語り終つて、ホツと
二階から降りて來た、内儀のお春を呼び留めて、平次は
「何んか、御用で?」
相手は名ある御用聞、お春は氣味惡さうに
「手間は取らせません、ほんの少しばかり」
「?」
お春は諦めた樣子で、座布團のない、疊の上へ六つかしく坐りました。三十八といふにしては、驚くべき若さです。青々とした眉、大きい表情的な眼、小さすぎる唇から、物を言ふ度に
「孫三郎さんの殺されたことで何んか心當りがあると思ひますが」
平次は少し高飛車でした。この優しく美しい内儀が、病人の主人の代りに、
「さあ、心當りと申しても」
内儀のお春は、ひどく用心深くなつてゐる樣子で、なか/\平次の
「
「あの人は、遠慮がありませんから、それにお粂が家出したときも、男に捨てられた時も、孫三郎さんは、少しも世話をしてやらなかつたやうです」
「そんなこともあるでせうね、ところで、孫三郎さんは、御主人との仲も惡かつたさうですね」
「孫三郎さんといふ人は、自分のことしか考へない人でした」
「
「いづれわかることでせうが、お金も何處かに
「それで」
「これは申していゝことか惡いことかわかりませんが、私も長い間隨分迷惑をしてをりました」
お春はたつたこれだけいふのですが、その口ぶりから察すると、この若くて美しい内儀は、義弟といつても、主人の孫右衞門よりは、二十も年下ですが、自分よりは十も年上の男に、しつこく附き
「?」
平次は先を
「御存じのことでせうが、私はもと
お春はハキハキと思ひ切つたことを言ふのです。世間の噂の先を
「親分さんに、私からお願ひがあるんですが――」
内儀のお春は、平次の態度の穩かさに、いくらか落着きを取戻したらしく、顏の色も次第に冴えて、話の調子も滑らかになつて來ました。
青い襟、黒い帶、膝の上に置いた、白い華奢な手の顫へも止んで、平次を仰ぐ眼には、年増女らしい、複雜な媚に似たものさへ動くのです。
「私に、頼みといふのは」
「他でもございません、――この家で狙はれてゐるのは、孫三郎さんばかりではございません、確かにもう一人、命を狙はれてゐるやうな氣がして――」
お春は右の手で、左の肩を
「それは、容易ならぬことだが」
「今までは、隨分隱してをりましたが、孫三郎さんの死にやうの恐ろしさを見て、私はもう我慢が出來なくなりました」
「――」
「去年の夏、小僧の友吉が
「それは私も聽いたが、どうしろと言はれるので」
「親分のお力で、その惡戯者を調べて頂きたいのでございます。孫三郎さんを殺した下手人と、同じ人かも知れず、違つた人かも知れませんが、お玉が狙はれてゐるやうな氣がして、私はもう氣が變になりさうです」
「お孃さんが狙はれてゐるに違ひないといふ、證據でもあるのかな」
「證據も何んにもありません、でも私は」
「――」
「あの
お春の言葉は
「そいつは困つた、お孃さんを狙つてゐるといふ、相手だけでも判れば、どうにか工夫もあるが――」
「女ですよ、親分、相手は鬼のやうな女ですよ」
「鬼のやうな女」
平次は
「どうして女とわかるのだ」
「石見銀山を白粉の包紙に包んだのを、下男の五助が庭で拾つたこともあります」
「――」
平次は默つてしまひました。疑問は深くなるばかりです。
主人孫右衞門の寢間は、一番奧の、南に突き出した六疊でした。調度は思ひのほか
「旦那は、氣分が宜しいさうで、錢形の親分さんに是非お目にかゝりたいと申してをります、どうぞ」
取次がせた手代の金之助は、薫風を殘して立去りました。
入れかはつて部屋の中へ入つた平次、
「あつしは明神下の平次で、御病中に無理を申して濟みません」
丁寧に挨拶すると、
「いや/\、飛んだお手數で、何んとも申譯のないことでございます、この通りの病人ですが、万事は私の
と枕から首を浮かして恐ろしく丁寧です。
「お氣の毒なことで、孫三郎さんは、餘つぽど、
平次は口を切りました。主人の孫右衞門はそれには急に答へず、
床に就いたまゝ、右手を布團の上へ出してをりますが、
「私には義理の弟で、先代から引續いて店の支配をしてをりますが、
主人孫右衞門は、孫三郎の評判の惡さも承知、その
「隨分、自分の金を溜めたことでせうが、
「さア、其處までは考へたこともありませんが」
孫右衞門は
「孫三郎さんには變な癖があつたさうですね、天井裏を歩いたり、落しへ首を突つ込んだり」
「それは、私もよく存じてをります。以前はそれほどでもなかつたが、私が寢込んでから、誰
「何んのための
「私が、大金を何處かに隱してあるに違ひないと思ひ込んだことでせう、二つの土藏を
「本當に金は隱してあるので?」
「いや、有るやうでないのは金ですよ、大金など、――孫三郎の知らないものが、あるわけはない、淺ましいことで」
孫右衞門は
「それからもう一つ」
平次は
「何んなりと、私も口だけでも達者なうちに、錢形の親分のやうな方に、いろ/\の事を聽いて戴くのが本望ですから」
「では、これだけは是非伺ひたいのですが、俵屋の
平次はこの騷ぎの裏には、万兩分限の俵屋の
「よく訊いて下さいました。世間なみから申せば、私の本當の子ではないが、先代の遺した一人娘のお粂に
「すると?」
「勘當を許せば、お粂は矢張り俵屋の總領娘で、何んにも言ふことはありません、改めて親の私の
「すると、妹のお玉さんは」
「あれは私の娘ですが、妹を家督に直すわけに參りません、何處かへ嫁にやることになりませう、自分の生んだ娘ですから、女房のお春には、兎角の不服もあることでせうが、世間の義理には
孫右衞門は確と言ひ切るのです。
「成程それは立派なことで」
「これは、私の遺言状にも認めて、そつと隱してありますが、孫三郎のやうな不心得者があつて、その遺言状を盜み出さないものでもありません、――よく親分も、お心に留めて、私が死んだ後で、間違つたことをする者がありましたら、はつきり仰しやつて下さるやうにお願ひいたします」
孫右衞門は仰向いたまゝ、シカと眼をつぶつて見せるのです。平次への會釋の積りでせう。
「よくわかりました、お粂さんにもさう言つて置きませう」
「いや、お粂はそれを百も承知の筈ですが、あの娘はお
孫右衞門は苦笑ひをしてをります。
「お仕舞に、御主人は、毎晩あの金之助といふ若い手代を、傍に寢かして置きなさるので?」
「いや、そんな可哀想なことはしません、若い者が、年寄の病人の側を好きなわけはないから、身體を揉んだり、足腰を
恐らくこの
「親分、ちよいと見て下さいよ、大變なものが――」
八五郎が二階から、階子段を二つづつ飛降りて、平次のところへ御注進に來るのです。死に神に
「騷々しい野郎だな、二階は片付いたのか」
平次は死骸の取りおろしと片付けを見張るやうにと八五郎に言ひつけてあつたのです。
「片付けは濟みましたよ、一と通り清めて、佛樣を隣の部屋へ移した後で、
「思つたつて仕樣があるまい、天井裏にあるのは、大概きまつたものだ、それとも鼠の死骸かな」
二階に取つて返しながら、八五郎の少しあわてた緊張を
「金ですよ、親分、小判が何んと五、六百兩、いや、千兩ばかり、
二人はもう、
其處には、八五郎に頼まれて、若い手代の金之助が一人、部屋の中に取り降したボロ片の中に、
「――」
默つて二人を迎へた金之助の眼は、無表情のうちにも、異樣な緊張を示してをります。大金を扱ひなれた金之助も、血潮の
「ね、親分、この通り、――孫三郎が天井裏で何を搜したか、念のため、
八五郎は
「俵屋にしても、これだけの小判が天井裏に隱してあるのは容易ぢやない、もう一度天井裏に
「あ、旦那の方は、私が訊いて參りませう、お心當りがあるかも知れません」
金之助は早くも立ち上がつて、主人の部屋の方へ飛んで行き、八五郎はもう一度、尻を
平次は默つて考へてをりました。孫三郎がこれを搜しに入つたために、殺されることになつたかも知れないのですが、下手人はこれだけのことをして置いて、ツイ死骸の傍にあつた、大金に手を觸れなかつたのはどういふわけでせう。
どうかすると、お粂が二階へ來たのが早過ぎて、下手人は折角狙つたこの大金を、取出す
やゝ暫らくすると、金之助が戻つて來ました。
「旦那樣に申上げると、大層驚いた樣子で、その金は、旦那樣がまだお丈夫なころ、天井裏の大
金之助の報告は、豫想したことではあるにしても、その額の大きいのに驚きました。小判で一兩の値打は今の一万圓以上にも通用するでせう。三千兩といふ金を持つてゐるのは、なか/\の
「三千兩もあつたのか」
平次もつい、釣られます。
「それも千兩箱では目立つていけないと思ひ、三百兩づつ、男手で拵へた、
「あゝ、なるほど、これだ」
布團裏などに使用した花色木綿、男手で拵へた不手際な財布を、ボロ
俵屋孫右衞門はまだ足腰の達者なころ、天井裏を金庫にして、この花色木綿の財布を拵へては、貯へた金を、三千兩までも溜めたことでせう。女房子にも、番頭や手代にも相談せずに、老人獨りで始末したところに、何んかしら、陰慘な空氣と意圖が感じられます。
「まだ、七つ殘つてゐる筈です、私も天井裏へ
金之助はフト尻を
久松型の美少年金之助が、かうしたたしなみや、
その頃の町人達、わけても、現金を相當に用意しなければならぬ、質、兩替、金貸しなどは、現金の保有に、どんなに苦心したことか、想像に餘りあります。金庫もなく、銀行もなく、證券もない時代には、小出しの金は金箱に入れて店に置いたにしても、
「ありませんよ、親分」
八五郎の長い
「念入りに見たのか」
平次は天井へ答へます。
「天井裏は見通しですよ、二人で搜したんだから、このうへは屋根を
八五郎と金之助は、
「男つ振りが代なしぢやないか、手足と顏を洗つて來いよ」
「そんなにひどくなりましたか」
八五郎と金之助が、あわててお勝手へ驅け出すと、それとすれ違ひに、
「まア、八五郎親分つたら、顎から
それはお粂の、いま啼いた烏見たいな陽氣な聲です。
「お粂さんか、氣持はもう
平次は六つかしくそれを迎へました。
「でも、この騷ぎでは
「そいつは氣の毒だつたな、その代り、お前の顏色も良くなつたぢやないか」
「お蔭樣でね、あれを聽くと氣が晴々としますよ」
「ところで、お前も天井裏に大金を隱してあつたことを、薄々は知つてゐたことだらうな」
「
お粂は面白さうに笑ふのです。
「お前も聽いたことだらうが、天井裏に旦那の隱したのは三千兩、三百兩包みが
平次は大事な問に入りました。
「さア、口惜しいけれど、ちよいと見當はつかない――が」
「何んだ、妙に奧齒に物の
「あの人のところに運んだのぢやないか知ら?」
「あの人とは?」
「裏の小間物屋のお辰さん、――女のくせに、高荷を背負つて、
「――」
「叔父さんが、俵屋の
などと、お粂は自分の口に蓋などをするのです。
「そのお辰の家へ行つて見るのだ、八」
丁度顏から手足を洗つて來た八五郎に、平次は言ひつけました。
「行つて見ますが、あの女は
八五郎はそんなことを言ひながら、出て行きました。あとは平次と金之助、
「もう一度、佛樣を」
平次は獨り言のやうに言つて、隣の部屋に行つて見ました。其處には下男の五助と下女のお徳に手傳はせて、孫三郎の死骸を一應清めさせ、形ばかりではあるが、一と通りお通夜の用意までしてあつたのです。
指圖をしてゐるのは、内儀のお春、弱氣で
「ちよいと、お徳どん」
「へエ、へエ、私に御用で?」
下女のお徳は、平次に呼留められて、キヨとんと
「まア、それを下へ置いて、此處へ入つてくれ、少し聞きたいことがある」
平次は下女の持ち
「へえ、どんなことを申上げるんでせう、私は何んにも知らねえだが」
頑丈な
「ほかでもない、旦那とお内儀さんとは仲が良いのか――奉公人のお前が、同じ屋根の下で暮してゐて、それを知らない筈はないと思ふが」
平次は、返事に困つたらしいお徳の顏を見ると、その言ひ
「昔は、そりや仲が良かつたと言ひますよ」
その答へは變哲なものでした。
「今はどうだ」
「何分、お内儀さんは忙しいだよ、帳場も見なきやならないし、金の出し入れ、掛け合ひ事、寄附諸掛りから、町内づき合ひ、それにお勝手を見張つたり、お
お徳はおろ/\と讀み上げる調子です。いつも内儀本人がかうこぼすのを聽いて、一つ覺えに覺え込んでしまつたのでせう。
「お内儀さんが忙しきや、御主人とも仲をよくしてゐられねえといふわけか」
「そんなわけはないけれど、朝から晩まで病人の世話ばかりはしてゐられねえのも、無理はないと――」
「待つてくれ、俺はお前の口から、お内儀さんの
「それはもう、年は三十違つても五十違つても、御夫婦に違ひないから
「
「獨りぼつちでも、隣りの部屋には金之助どんが寢てゐて、呼ばれると行つてやるし、
「お粂さんがか?」
「おの人は[#「おの人は」はママ]口が惡いし
「人は見掛けによらないものだな」
平次はツイ皮肉なことを言つてしまひました。どう考へても、義理の父親などを、親切にしてやりさうもないお粂です。
「何をしやがるのさ、いきなり人の家へ入つて來て、夜中に夜搜しが聽いて
「――」
「岡つ引だ? 嘘をつきやがれ、そんな
「――」
まさに、八五郎がクシヤクシヤに小突き回されてゐる樣子が手に取るやう。
平次は默つて聽いてもゐられず、
「御免よ」
開いたまゝの戸を大きく引開けて、そのまゝ、ヌツと顏を出しました。
中は六疊と二疊のたつた二た間、入口の方から番傘が
三十二、三の大年増で、
「おや、錢形の親分」
「大きな聲だぜ、明神下まで筒拔けだ、八五郎の顏を滿更知らないわけぢやあるまい。見ろ、お前の啖呵に
「相濟みません、女一人を夜中に叩き起して、家搜しといはれると、ツイ、かつとしますよ」
「そいつは濟まなかつたな、ま、勘辨してくれ、お隣の支配人の孫三郎が、ツイ
「そんな、親分」
「それぢや訊くが、お隣の孫三郎が、お前と大層
平次は眞つ向から問ひかけました。
「そんな大金なんか、預かるものですか、死んだもののことをさういつちや惡いけれど、あれはケチで剛情で、長者町の貧乏神といはれた人ですもの?」
「本當か、それは?」
「嘘だと思つたら、搜して下さい、こんな
お辰の
その夜、俵屋の主人孫右衞門は、二度も三度もくり返して起る
「お願ひだから、お母さんを呼んで來ておくれ、こんなとき金之助どんがゐると助かるのだが」
氣丈なお粂も、父親の發作のひどい時は、手を
「金之助どんは、
「困つたねえ、この夜更けぢやお醫者樣も來ては下さるまいし」
そのころの八王子同心は、數も多かつた上に、極めて小祿で、川柳に「八王子ガタガタするがよつく賣れ」などといふのがあり、ろくな刀も買へなかつたことを
「あ、お粂や」
病人の孫右衞門は、僅かに頭をあげました。
「身體を動かすと、また
お粂にあわてて
「少し用事があるのだよ――私はいよ/\助からないのかも知れない――
「そんなことはありませんよ」
「いや、さうぢやない、――どうも死にさうな氣がしてならない、ちよいと、お母さんを呼んでくれ、氣の確かなうちに、言つて置きたいことがある」
「そんなことを、お父さん」
「いや、俵屋の
「まア、そんなことまで」
お粂に取つては、あんな冷淡な繼母のお春に、死にかけてゐる父親の孫右衞門が、かうまで愛着を持つてゐるのが、不思議でたまらなかつたのですが、自分の考へはとも角、死にかけてゐる父親の意志は、何が何んでも尊重しなければなりません。
お粂はすぐ、その
「お前さん、まア、どうなすつたの? まさか、死ぬんぢやないでせうね、――確りして下さいよ」
枕元にペタリと坐つたお春は、孫右衞門の額ににじみ出した汗を拭いてやつたり、
こんな女房が、どうして病人の夫の側に、あまり顏を見せなかつたか、それはお粂の眼にも不思議なくらゐです。
「其處に誰がゐるのだ?」
少し
「誰もをりませんよ、お粂もお徳も、自分の部屋へ歸つて、此處にゐるのは、私一人」
お春は、優しく應へて、そつと
「それならいゝが――この話は誰にも聽かせたくない」
「さう仰しやられると、私は怖いやうな氣がします、――どんなことでせう、旦那樣」
お春は主人の床の傍に、ピタリと寄り添ひました。眞夜中のことで、少し寢亂れてはをりますが、少しばかりの興奮に
「この家の身上のことだよ」
「身上?」
「地所やら家作やら、貸金から手持ちの現金まで、ざつと三萬兩」
「ま、そんなに」
「驚くことはない、もう少しあるかも知れない、が、地所や家作はわかつても、現金のある場所は誰も知らない、金之助の耳に入れても惡いから、今までは言はずに置いたが、この容態では、私も長い命はあるまいから、お前にだけ教へて置かうと思つてな――それには、こんな良い折はない」
「まア、どうしませう、本當に怖いやうな話で」
「怖くはない、嬉しい話だ、その代り、今夜は一と晩、私が丈夫だつたころのやうに、お前に守りをして貰ひたいのだ」
「それはもう、一と晩と言はずに、一生でもお側を離れやしません、晝間は忙しいし、夜は夜で、お玉が一人では淋しがるけれど」
「お玉はもう十八、淋しがる年でもあるまい」
「でも」
お春は
兎も角、それから夜明けまで二た刻(四時間)ばかり、お春は神妙に病人の看護をしました。幸ひ孫右衞門の
鷄の聲、雀の
「――」
孫右衞門がスヤスヤと落着いたのを見ると、お春はそつと起き出しました。何より先づ娘のお玉の樣子を――、
「わツ、誰か來て、お玉が、お玉が」
ヘタヘタと腰を拔かして、部屋の中へ這ひ込んだのです。窓の戸は開いたまゝ、娘お玉は、布團の上に赤い
急使が曉の
「八、起きろよ、大變も大變、古渡り大變だ」
平次は路地の中から、張り上げるのです。
「眞似しちやいけませんよ」
「俵屋の娘が殺されたんだぜ、こいつは驚くだらう」
「どの娘です? お粂か、お玉か」
「お玉だよ」
「あの可愛らしいのが、お
それはまた、八五郎に取つて一つの魅力だつたことでせう。お粂のやうな氣の勝つた女は、八五郎にはどうも扱ひ兼ねるのです。
「さア、行かう、顏なんか歸つて來てからでもいゝ」
「驚いたなどうも、まだ飯も食ひませんよ」
「そんなものは、
「呆れてモノが言へねえ」
そんなことを言ひながら八五郎は、錢形の親分が、わざ/\
俵屋は大變な騷ぎでした。平次が着く前に、土地の御用聞下つ引が二、三人、内も外も、一應の調べが始まつてゐたのです。
「あ、錢形の親分」
店を入ると、飛んで出たのは、姉娘のお粂でした、本當に首つ玉へ噛りつき兼ねまじき勢ひで、
「――何んとかして下さいよ、親分、私がお玉を殺したつて言ふんですもの、私がそんな惡いことするかしないか、錢形の親分が來て下されば解る――と言つたつて聽きやしません、あの通り」
八方から見張る目、平次には顏見知りの仲間でも、
「本當に覺えがなきや、騷ぐまでもあるまいよ」
「でも、私は」
お粂は
「親分、その女の言ふことなんかに取合つちやいけませんよ」
「なんだ、湯島の吉か」
それは平次の息のかゝつた下つ引の一人で、若くて少し
「あつしの見當ぢや、下手人は女ですぜ、この家の中で、お玉を殺しさうな女と言や、それね」
「待つてくれ、何んか、確かな證據でもあつたのか」
「
湯島の吉は、さう言つて、ピタリとお粂の顏を指すのです。
「
お粂は猛然と
「まア、見て下さいよ親分、その赤い扱帶が、
「首を締めた扱帶が女結び?」
それは實に前代未聞です。
「だから、この女が怪しくなるぢやありませんか、あとは母親と下女のお徳だけ」
「待つてくれ、早合點をしちやならねえ、
そんなことを言ひながら、平次と八五郎は、湯島の吉に案内されて、奧の部屋に通されました。主人孫右衞門の部屋とは、全く反對側、東に向いた一角の六疊で、地味ではあるが、なかなかに
一歩踏み込むと、平次は、またも女に抱きつかれました。今度はやゝ年を取つた――と言つても、三十臺の白粉つ氣のない青い
「親分、どうしてくれるんですツ、矢張りお玉が殺されてしまひました、あのとき親分が引受けて下されば――」
お春は遠慮もたしなみも忘れて泣くのです。
「待つてくれ、氣の毒なことになつてしまつたが、俺もこいつは引受けやうはなかつたんだ」
平次も持て餘しました。胸にすがり付いて、泣き
「それぢや、敵を討つて下さい、親分、娘を殺したのは、あの女に違ひない」
「あの女?」
「お玉が生きてゐると、この家の
それは、お玉には
平次は何心なく振り返つて見ました。後ろの方に物の氣はひを感じたのです。
と、八五郎の後ろ、湯島の吉の横手に、こんなにも疑はれてゐる、當のお
「ま、待つて下さいよ、お内儀さん、下手人は名乘つて出たわけぢやない、いづれわかるにきまつたことだから」
平次は内儀をながめながら、それを掻きのけるやうに、お玉の死骸に近づきました。
今朝の騷ぎで、其處までは手が屆かなかつたが、母のお春の
赤い裏の絹布團、それが町人の娘の夜の物だつたのです。この節はもう、金持ちの町人の
その絹布團の上に横たへられたお玉は、死の變貌で不氣味な
「これが、その
平次は床の側にあつた、
「へエ、さうで」
フトその扱帶に手を觸れた平次は、この柔かく細く、
「この扱帶で殺されたのではないよ、死んでから、首へその扱帶を卷きつけられたのだ」
平次は
「すると親分?」
八五郎と湯島の吉は、あわてて問ひ返しました。
「何んで殺したか、それとも頓死でもしたのか、俺にはまだわからない」
「頓死? 頓死した娘の首へ、誰が赤い扱帶などを卷いたでせう」
八五郎はやつきとなりました。
「そんなことがわかるものか、でも、これだけのことが言へるよ、お孃さんが殺されたとしたら、死ぬまでそれに氣がつかなかつたことだらう――といふことと、
「へエ、そんなことがあるでせうか、親分」
八五郎が變な顏をするのも無理のないことです。十八娘が、床に寢たまゝ、につこり相手の顏を迎へるといふのは、容易ならぬことです。
「八、吉、二人手わけをして、このお玉さんに、仲の良い男がなかつたか、それを訊いてくれ、俺は、お内儀さんに用事がある」
平次は八五郎と湯島の吉を追ひやると、母親のお春と、たつた二人、氣まづく相對しました。
「――」
振り仰いだお春は、何んか、モノ言ひたげでもあります。
「ね、お内儀さん、お聽きの通りだ、お孃さんを殺した下手人は、女と限つたわけでもないやうだ、お孃さんと言ひ
「さア、私も其處までは」
「名前がわからなくとも、見當ぐらゐはつくでせう」
平次はなほも追及します。
「私も薄々それに氣がついて、夜分は娘の
お春の話は思ひも寄らぬ方に發展します。
平次はもう一度孫右衞門に逢つて見る氣になりました。が、部屋の入口まで行くと、下女のお徳に止められてしまつたのです。
「親分さん、待つて下さい、とても、お目にかゝれさうな樣子ではございません」
「それはどういふわけだ」
平次はこの心得顏の中年女に押し返しました。
「でも、大變な取り亂しやうで、誰も此方へよこしてくれるなと言ひますだよ、金之助どんでも戻つてくれなきや」
この
「
平次はお徳に構はず、押しのけるやうにして、細目に唐紙を開けました。と、床の上に靜かに横たはつてゐる主人の孫右衞門は、僅かに頭を動かして振り返りましたが、熱つぽい眼は
それを見ると平次は靜かに唐紙を締めました。入つて行つて、これ以上
「親分、親分」
八五郎が戻つた樣子です。相變らず、家中筒拔ける遠慮のない聲です。
「靜かにしろ、佛樣がゐるんだぞ」
「濟みません、兎も角も、親分に聽いて貰ひたいことが一パイでね」
「どんなことがあつたんだ」
「近所の噂をかき集めて見たが、俵屋に遠慮して、
「で?」
「うまいことに氣がつきましたよ、親分も御存じの背負ひ小間物のお辰、あの女はばらがきで遠慮がない上に、うんと俵屋を
「?」
「殺されたお玉と仲のよかつたのは、昔は手代の金之助だつたが、どんなわけがあつたか、近頃は金之助の方から
「――」
「お玉の方も近頃すつかり色氣づいて、裏のお長屋に住む、若い浪人者、
「フーム」
「十八の小娘と二十三の若い男と、人目を忍んで暮し向のことなんか話し込むわけがないぢやありませんか、こいつは唯事でないと思つたから、早速裏の六軒長屋の江柄三七郎の
「そいつは良いところへ氣が付いた、ところで?」
「本人はしよんぼり泣きさうな顏をしてゐましたが――良い男でしたよ、色の淺黒い、背の高い、武藝などは出來さうもないが、女の子には持てますね」
餘計な
「無駄はそれぐらゐにして、浪人者は何んと言つた」
平次は訊ねました。
「お氣の毒でならないが、あの騷ぎの中で俵屋へお
「
「それも
「それだけか」
「もう一つこれは大したことでありませんが、お玉さんは昨夜淺草の叔母さんのところへ行つて泊る筈になつてゐたが、少し
「よくわかつたよ、それで、いろ/\の手掛りを
平次は滿足さうにうなづくのです。
「ところで親分」
「何んだえ、急に改まつて」
「湯島の吉もさう言つてゐましたが、お玉は何んで殺されたんでせう、絞め殺されたのではないとわかつても、毒を呑んだ樣子もなく、傷らしいものもなかつたやうですが、――
「見立て――つて奴があるかい」
「見立てが氣に入らなきや、あつしの見當といふことにしませう、おや、おや、店の方が、急に賑やかになりましたね」
八五郎は話半分にして飛んで行きましたが、やゝ暫らくすると、ボンヤリした顏で戻つて來ました。
「どうした八、面白くねえ顏をしてゐるが」
平次はその間に庭を一と廻り、元のお勝手へ歸つて來ると、
「手代の金之助が歸つて來ましたよ」
「昨夜
「八王子を出たのが遲かつたので、
「それは逆に
「へエ、湯島の吉はどうします」
「ほかに用事がなきや、御苦勞だが淀橋まで行つて、叶屋で
平次は八五郎と吉を出してやると、お玉の殺された部屋へ取つて返しました。
暫らくすると、八五郎はまた平次の後を追つて庭へ出て來ました。平次はそれまで、格子を叩いたり、雨戸を
「親分、何んかわかりましたか」
「わかつたよ」
「へエ?」
「曲者は、外から入つたのではないと、はつきりわかつたよ」
「すると」
「あれだけ嚴重な、
「?」
「敷居に
「縁の下から入る
「それも見たが、床下は掃いたやうに綺麗だ、それから、窓の下にも、一つも足跡はない」
「あの部屋の窓は開いてゐたぢやありませんか」
「曲者は此方から忍び込んで逃げましたといふ
「すると、家の中の者が、
「その通りだ」
「
「どれも、お玉を殺しさうな人間ではない」
「すると、小間物屋のお辰と、浪人の
「それは家の者ぢやない」
「家の者が手引をしたとしたらどんなものです」
「お前は變なことを言ふ、――誰が一體手引をしたといふのだ」
平次はひどく聞きとがめました。
「あつしにはわかりませんよ、錢形の親分がわからないくらゐだから」
――」
平次は默り込んでしまひました。何んか深々と考へてゐる樣子です。
「親分」
「――」
「あつしはイヤなことを聽きましたがね」
「嫌なこと?」
「親分は、これを聽いても怒つちやいけませんよ、――餘つ程、親分に言ふのをよさうかと思つたけれども」
八五郎は頬を叩いたり、
「いやに奧齒に物の
「そんなわけぢやありませんがね」
八五郎はまだ、フン切りの惡い顏をしてるるのです。
「嫌な野郎だな、何を聽いたか知らないが、腹の中に
平次は何んかありさうな匂ひがするので、日頃にもなく
「本當に怒らないでせうね、親分」
「怒らないとも、俺は親の
「そいつは知らなかつた、今日は親分の親の命日だつたんで」
「
「何んだ、あつしはまた、お線香代の
「無駄が多いな、――そのお前が聽いたといふ話は何んだ」
「あ、さう/\忘れちやいけませんよ」
「忘れたのはお前だ」
「
「主人の孫右衞門のところへ行つてるさうぢやないか」
「忠義者ですね、留守中、旦那がどうもしなかつたか、そればかり心配して、私が食ひ下がつて、いろ/\のことを訊くのを振り切るやうに、旦那の部屋へ――」
「それつきりの話か」
「ところが、廊下でお粂につかまつたんで、これは金之助も振り切らなかつたやうで――お前の歸りが遠いから、私まで飛んだ目に逢つたとか、
「そんなことで腹を立てる奴があるものか、まだ孫三郎殺しもお玉殺しも、下手人の見當のつかないのは、我ながら大間拔けだと思つてゐるよ」
平次までが
「そればかりぢやありませんよ、お粂の阿魔までが、それに
「フーム、面白いことを言ふ女だな」
「ちつとも面白かありませんよ、そのうへ言ふことが宜い、いづれ十八になつたばかりの玉ちやんが、酒毒か
八五郎がカンカンに腹を立てるのも、全く無理のないことでした。
「そいつは俺の狙ふ
平次は自信に充ちて、さう言ふのです。
お玉の部屋へ、一番先にやつて來たのは、姉のお粂と、母親のお春でした。それに手代の金之助が續き、下男の五助が、縁側の板敷に、中腰になります。
「お徳は、主人の
お春がさう言ふのに、平次はうなづいて見せながら、
「これで皆んな
「お隣の浪人者と、あのばらがきお辰も呼びませうか」
八五郎は腰を浮かせてをります。
「それにも及ぶまいよ、――ところで、お孃さんがどうして殺されたか、あつしが間拔けになりさへすれば宜いのだから、正直のところこいつは言ひたくなかつた。それを聽かされた
平次は靜かに始めました。母親のお春は、何を言ひ出されるか、その期待に脅えて、そつと丸い肩を押へます。
「――」
「お玉さんの
平次はさう言つて、姉のお粂と母親のお春の方を振り返ります。
「お内儀さん、綺麗な
「――」
内儀のお春は、
その紙の中から、一枚だけ拔いた平次は、死骸の前に置いた
「あツ」
思はず人々は聲を出しました。お玉の死骸の耳から拔いた小菊には、べつとり水にやゝぼけてはをりますが、明かに血がついてゐるではありませんか。
「まア、可哀想に」
母親のお春は、飛付くやうに、お玉の半身を抱き上げて、どつとはふり落ちる涙を、拂ひも
「多分、疊針か、千枚通しか、鋭い
平次は言ひ切つてホツとした樣子です。
「親分、止して下さい、私はもう」
お春は娘の髮に、涙の顏を埋めて、僅かに手を振りました。あまりの痛々しさに、聽くに
「お内儀さん、聽きたくないのも
「三人殺しですつて? 殺されたのは、二人ぢやありませんか」
八五郎が口を
「いや、去年の夏、
「さう言へば友吉は、良い子だつたけれど、盜み食ひをする癖がありましたよ」
手代の金之助は、昔の
「そんな恐ろしい人間を、
「――」
「そんな時、寢てゐる顏の側へ寄つて、耳に
平次はそれが聽きたかつたのです。死顏にほのかに殘る微笑も、夢の
「私か、お粂さんか」
母親のお春はさう言ひかけて、ハツと氣が付いたらしく、
「男ではどんなもので?」
平次は訊き返しました。
「さア」
お春は涙の顏をあげて、さすがに言ひ澁つてをります。
「
それはお粂でした。年増女らしい無遠慮さです。
「まさかね」
お春は
「江柄三七郎さんは、夜釣りに行つてゐる、
平次は獨り言のやうに言ふのです。
「親分、早く
お粂が
錢形平次は
一應明神下に引揚げた平次のところへは、八方から報告が集ります。淀橋の
「今もどりましたよ、親分」
「御苦勞々々、どうだつたえ、あの晩の金之助の樣子は?」
平次はそれを待ち構へてゐたのです。
「本人の言ふ通りで、淀橋へ行くまでもなかつたやうで」
湯島の吉は
「そいつは氣の毒だつたな」
「
「成程、無事過ぎるな、ほかに變つたことは?」
「何んにもありませんが――八王子で集めた二百兩の金は、小粒と小判を取りまぜて、物騷だからと言つて、帳場へ預けたさうです」
「用心深いな、尤も
平次は報告の片言
「八王子の百人同心に、
「それから?」
「さア、そんなことでお
「金之助のことも訊いたことだらうな」
「叶屋の番頭が呑込んだ顏をしてゐるから、改めて訊きませんでしたよ」
「そいつは惜しかつたな、まア宜い、ところで、浪人者の
平次は湯島の吉の子分に訊きました。
「あの浪人者の釣の供をしてゐる、あたけの定吉といふ船頭に逢つて見ましたが、あの晩は船を貸したが、供はしなかつたといふことです」
「?」
「江柄三七郎は
下つ引は
お玉と關係のありさうな、二人の若い男は、兎も角も
「親分、あつしは近頃どうかしてゐませんか」
俵屋を見張らせて、一日に一度は明神下へ報告に來る八五郎は、その日特に長んがい
「どうかしてゐるのは陽氣のせゐだよ、日が長くなりや、お前の顎だつて少しは長くなるよ」
平次はこの男の報告を待つてゐましたが、挨拶だけ聽くと、一向にそんな氣ぶりもありません。
「そんな話ぢやありませんよ、この二、三日、お粂の
そんなことを
「毆るよ、この野郎、それとも水でもブツ掛けてやらうか、お靜、しつかり水を
「ハイハイ」
お靜はお勝手から應じました。
「それには及びませんよ、氣は確かなんだから、――ね、少し聽いて下さいよ、お粂が斯う言ふんです、――私は岡惚れの相手を八五郎親分にきめちやつた、父さんが好きな相手があつたらさう言へ、少しは金をわけて、世帶を持たせてやつても宜い――つて、ウ、フ」
「馬鹿野郎、
「へエ、そんなもんですかねえ」
「
「へエ」
八五郎はひどく不服さうです。
「それよりほかに、何んか變つたことはないのか」
「主人の孫右衞門は、お玉が殺されてから、すつかり不機嫌になつて、容體も惡かつたやうですが、近頃、手代の金之助が、
「それは結構なことだが、機嫌の良いところで、俺はあの人に訊きたいことがあるが」
「で、明日は孫三郎の初七日だから、親類達を呼んで、俵屋の跡取りのことを、
孫右衞門がその氣になれば、俵屋を包む
「俵屋の主人は、跡取りのことを、ひどく氣にしてゐるやうだから、明日の親類方の
平次は改めて八五郎に
「そいつは怖いことですね、――尤も、昨日も變なことがありましたが」
「何んだえ、變なことといふのは」
「つまらねえことで、お粂が物置の中をかき廻してゐて、女物の
「物置の中に袷は變だな」
「それも、埃だらけになつてゐる、古い空樽の中に突つ込んで、
「念入りだな」
「それだけぢやありません、その袷はズタズタに切り
「まつてくれ、その袷に血は附いちやゐなかつたか」
平次は急所を押へて訊きました。
「血なんか附いちやゐません、――が」
「それを切つたのは、
「さア、そいつは氣が付きませんが、何んでも、滅茶々々に切つてあるところを見ると、内儀を
八五郎には、八五郎だけの
「お粂は何んと言つてゐた」
「見付けたのはお粂ですが、あとは氣味を惡がつて、手も出しませんよ、兎も角内儀を呼んで見せると、一と目見て
「どんなに切りきざんでも、模樣か縞を合せると、元の袷になるだらう、そこで、切り取つてなくなつてゐる
「?」
「それは、血の附いたところを切り取つたのだ」
「あ、成る程」
「血が附いたと言つても、ほんの少しばかりなら、すぐ洗ひさへすれば、大抵は綺麗になるものだが、日が經つたり、
平次の觀察は、細かいところまで行屆きます。
「なるほど、そいつは氣が付かなかつた、直ぐ引返して調べて來ませう」
八五郎はもう起ち上がるのでした。
「待て/\八、お前一人ぢや六づかしい、それに、今夜は何んか
珍らしく平次は、自分から乘出しました。
平次と八五郎が、長者町に着いたのは、もう夕方でした。
「暗くなると厄介だ、陽のあるうちに調べたいことがある」
さう言ふ平次の言葉に激勵されて、
「何んの、あつしは馬より早く驅けるが、親分は大丈夫ですか」
八五郎はすつかり張り切つて、俵屋の店へ入つた時は本當に
「
「物置ですよ、親分に見せるまでは、そつとして置かせたんで、尤も氣味が惡いから、誰も手を付けやしません」
「行つて見よう」
俵屋は妙に陰氣で、家族は
「これです、昔は立派だつたでせうね」
年増向きの
「
「へエ」
「下へ置いて、よく
「これぢや
「惜しげもなくやつてゐる――女はどんな時でも、自分の着物を
「切り取つた巾を、何處へ持つて行つたでせう」
「品川の沖か、
「それぢや、待つて下さい」
「待て/\、八」
八五郎は平次の止めるのもきかず飛んで行つてしまひましたが、暫くすると、
「見付かりましたよ、親分、この通りツ」
何やら大事らしく手に持つて、元の物置へ戻つて來ました。
「何が見付かつたんだ」
「幸ひ、あれから風呂を立てたのが一度切りで、忙しいのに
「どれ/\」
風呂の
「八、思ひ付いたことがある、俺は今すぐ旅に出るよ」
平次は飛んでもないことを言ふのです。
「親分、あつしはどうなるんで?」
八五郎の心細がるのも無理のないことでした。明日は親類會議、その前の晩で、何があるかわからないといふ口の下から、
「お前は此處で見張つてゐるのだよ、安心しねえ、誰も取つて食ひはしない」
「心細いなア、湯島の吉の野郎も、内儀の身許を洗つて來ると言つて、木更津まで出かけてしまつたし」
「意氣地のないことを言ふな、――尤も、手代の金之助と、下男の五助は、明日の親類會議に、親類方を集めるのだと言つて、目黒から川崎、神奈川の方まで手わけをして回り、明日でなきや歸らないさうだから、この廣い家に、男の切つ
「家が廣いだけに、留守番も氣味がよくありませんね」
「
「何處へ行くんです、親分」
「安心しなよ、まさか京大阪へ行くわけぢやない、明日は間違ひなく戻つて來る」
「へエ、餘つ程急ぎの用で?」
「その通りだよ、手遲れになると、證據が逃げる、いや、こいつはいひ過ぎだ、ところで、出かける前に、俵屋の家中の
「そんなところはありやしません、まるで
その頃現金を澤山持つた町人は、今日の人の想像も及ばぬ用心深さでした。銀行も金庫もなく、何千兩も何萬兩も、木と紙とで造つた家の中へ置くのですから、戸締りの嚴重さは、言ふも
現に、私がこの眼で見た、半世紀前の東京の下町の大金持でさへ、雨戸の内側に通しの大
平次は家の内外を一と廻りして、外からは絶對に入れないことを確かめました。
「飛んだお邪魔をしました、――でも、お蔭で、曲者が外から入つたのでないことがよくわかりましたよ」
「――」
默つてうなづく主人の孫右衞門に、丁寧な挨拶だけを殘して、平次はこの調べを切り上げたのです。此處まで來ると、このお玉の部屋の窓の開いたのは、曲者が内から開けて外へ逃げたか、それとも殺されたお玉自身が、窓を開けて、曲者を引入れたか、この二つの
「八五郎親分、お
外から聲をかけて、障子へ寄り添ふやうに開けると、身を
「あ、お
八五郎は歡迎の聲をかけました。全く以て退屈し切つてゐたのです。
「見たでせう、親分?」
「何を?」
「手が
さう言ふお粂です。酒の道具を下へ置いて、それを
「その藝當を見たかつたな」
「よく死んだおつ母さんに叱られましたよ、でも障子は足で開ける方が、滑りが宜いでせう」
「呆れたものだ」
「その呆れて
お粂は
「有難てえな、恐ろしく氣がきくぢやないか」
「だつて、ケチな長屋のお通夜だつて、酒ぐらゐは出るでせう、八五郎親分を一と晩
「良い心掛けだが、今晩は呑んぢやゐられないよ」
「義理堅いことねえ、錢形の親分に言ひ含められたんでせう」
「そんなわけぢやねえが」
「それぢや受けて下さいよ、八五郎親分に頼みがあるんですもの、少し醉つて下さらなきや、私は言ひ出し憎い」
そんなことを言つて、お粂は
「お、とゝ、さう
八五郎は警戒しながらも、一本をあけてしまつて、二本めに取かゝつてをります。尤も勸める方のお粂も、お付き合ひに一杯呑み、二杯呑み、八五郎が
「もう少し威勢よくやつて下さいよ、二本目はまだ一杯あるぢやないの?」
「もう宜い加減にしようよ、俺には勤めがあるんだ、ところで、頼みといふのは何んだえ、氣になるぢやないか」
八五郎はとろりとしながらも、お粂の氣持をくみ兼ねて、それにこだはつてをります。
「
お粂はグイと身體を曲げて、八五郎の膝のあたりを、自分の
「あ、宜いとも、お粂さんに口説かれりや本望さ、夜逃げでも心中でもお望み次第何んでも付き合つてやるぜ」
「まア、嬉しいねえ、――だけど、私のお願ひといふのは、そんなことぢやない」
「?」
「今晩、この部屋へ泊めて下さらない? ね、ね、八五郎親分」
お粂は妙なことを言ひ出すのです。
「そいつは有難いが、これでも俺は獨り者だよ」
八五郎は少しうろたへました。隨分いけぞんざいな口は
「八五郎親分は、飛んだ
「驚いたね、どうも」
「驚くことなんかあるものか、酒はいくらでもあるし」
「酒はもう澤山だ、――お粂さんが
八五郎は、部屋の隅に敷いてある、お客用のかなり
「一と組ありや澤山ぢやないの、その布團の上へ、背中合せに寢るのも、
お粂は本當に醉つた樣子です。八五郎の前でクルクルと帶を解いて、
「おい冗談ぢやない、泊つて行つても構はないが、せめて布團だけは持つて來てくれよ」
「そんなことをしたら、皆んなに知れるぢやないの、イヤなこつた」
「そいつは弱るな」
「弱ることなんかないぢやないの、こんな結構な年増が泊つてやらうと言ふんだもの、文句を言ふのは親分の
お粂は布團へもぐり込んだまゝ
「まだ、お見立ても引付けも濟まないんだぜ、おい」
「ウ、フ、八五郎親分は、私が考へた通りの人ねえ、あ、あ、もう一度娘に返つて、そんな男と苦勞がして見たい」
さう言つてお粂は、布團の中で身を
何處まで
だが、
「頼むからお粂さん、歸つておくれよ、俺はまだ若いんだぜ」
「嬉しいねえ」
「お前に
「御自由に、私はどうせ出戻りの勘當娘の」
「下谷一番のお轉婆娘か」
「よく御存じねえ、その氣で、夜つぴて枕元で張番をしていらつしやいよ」
全く手のつけやうがありません。
一方は錢形平次、淀橋の
「江戸は目の前だが、
「入らつしやいませ、お早いお着きで」
などと番頭は平次を裏の小さい部屋に通しました。
江戸は鼻の先と言つても、この頃の淀橋はまた田舍も同樣、
「疲れてゐるから、酒はよく利くぜ、五
平次は下女を相手にすつかり良い心持さうになつてをります。
「――」
「ツイこの間、下谷二長町の俵屋の手代が、八王子歸りに泊つた筈だが、その時出たのは、お前ぢやなかつたか、あの手代はなか/\の良い男だが、叶屋の
平次は陣を敷きました。
「それは、私ぢやありませんよ、多分お房さんだと思ひましたが」
「さう/\お房さんとか言つたよ、あの手代の金之助に、ちよいと頼まれたことがあるんだ、お房さんを呼んでくれないか」
「まア、私ではいけませんの」
「入らつしやいまし、私に何んか御用ださうで」
「俵屋の金之助の
「まあ、うつかりいたしました」
お房は酌などをして、借りて來た猫の子のやうに、チンマリと坐りました。
「俵屋の手代が泊つたのは、何處の部屋だえ」
「一人客は、こゝか、この隣の部屋に御案内いたします、――あの人はたしかこゝだつたやうで」
「若い
「お帳場でも、さう申してをりました、でも」
「半分は捨てたんぢやないか、この
「へエ?」
「大一座の振舞酒ならそんなこともあるだらうが、一人旅の客が、旅籠屋の吐月峯に酒を捨てるのは、
「――」
「お前は何んか隱してゐる樣子だ、――金之助が、いくらか握らせて、お前の口を
平次は
可愛らしい娘――宿屋の下女のお房は、興奮してをりました。美少年の手代金之助に、少しばかり氣があつたかも知れません。
「でも、私は
「それがあの男の惡い癖さ、その手でどんなに、多勢の若い娘を泣かせたことか」
「いえ/\、そんなことぢやございません、あの人は、私に何んにもしたわけではなく、
お房の口は
「お酒を二合呑んで、醉つ拂つたことにしたが、實は
平次の
「でも、私は何んにも知らないんですもの」
「金之助は相手の
「寢たことにして
「
「
「女郎買ひに草鞋履きか、そいつは念入りだ」
「實があるつてあの
お房の舌は滑らかにほぐれて行きます。
「で、
「曉方近かつたやうです、――尤も、窓は開けたまゝで、
「草鞋はどうした、ひどく切れてゐたことゝ思ふが」
「いえ、大して
「途中で
「そんなことはないと思ひます、鼻緒のお
この下女の、なか/\眼の屆くのに、平次は感服してしまひました。
「そいつはよく氣が付いたね、――四、五里も歩くと、大抵の草鞋は
「まだ確かりしてをりました、そんなに歩いた筈はありません」
「
金之助が本當に新宿で一夜を過したとすれば問題はなくなりますが、淀橋から長者町へ飛んで行つて、すぐ引返したとすると、草鞋が無事な道理はありません。
だが、萬々一金之助が下手人だとしたところで、俵屋の家は
翌る朝、下女のお徳は、下谷中一パイに響くほどの悲鳴をあげたのです。
「大變ツ、誰か來て下さいツ」
その聲を聽いて、家中の者が
殺されたのは、言ふまでもなく内儀のお春で、ひどく抵抗をしたらしく、投出して取亂した足が、入口の唐紙を
飛んで來た家中の者と言つても、主人の孫右衞門は身動きも出來ず、手代の金之助と下男の五助は、神奈川まで親類回りに出かけて、現場に顏を出したのは、
「あツ、これは」
八五郎は暫らく立ち
内儀のお春は、これも寢卷のまゝ、
部屋の中は大して取亂した跡もなく、窓の戸は、お玉の殺された場合と同じやうに、一枚だけ開けてあります。其處から
窓の外を覗いて見ましたが、相變らず足跡らしいものもなく、曲者が其處から入つた證據もない代り、此處から逃出したといふ證據も殘つてはをりません。
急を聽いて、町役人達や、物好きさうな近所の衆、それに八五郎とは顏見知りの、土地の御用聞などが集まつて來ました。が、それは、大騷ぎをするだけで、何んの役にも立たず、八五郎の心の中では、此處へ親分の錢形平次が來さへすれば――と言つた一
が、物事はそんなうまい具合には行かず、錢形平次の代りに、事毎に平次と手柄爭ひをする、強引
「おや、八五郎
「――」
八五郎は唇を噛みました。煮えくり返るやうな心持ですが、相手とは貫祿が違ひ過ぎるので、文句の言ひやうはありません。
「それ、清吉、その女を擧げてしまへ、殺された内儀とは敵同士だ」
三輪の萬七は十手を擧げて、お粂の額をビタリと
「あ、その女は下手人なんかぢやありませんよ、三輪の親分」
八五郎はあわてゝお粂を
「何んだと、俺が何んにも知らないと思ふのか、この間から子分達を手一杯に動かして、俵屋のことを、一から十まで探らせてゐたんだ、この女と繼母の内儀と、どんなに仲が惡かつたか、世間樣の方がよく知つてゐるぜ」
「でも、その、お粂さんは
八五郎は一生懸命でした。
「へツ/\、飛んだ
三輪の萬七は中年者の
「さア、來いツ女、言ひわけはお
清吉の手がお粂に觸れると、繩はもうキリキリとお粂の柔かい手首に卷きつくのです。
「八五郎親分、――昨夜は私が殺されるのかと思ひましたよ、私はそれが
「えツ、歩けツ」
間もなく、手代の金之助が、大汗になつて戻つて來ました。續いて、下男の五助、そして晝近くなつて、錢形の平次も歸りました。
「親分、遲かつた」
八五郎はそれを見ると、飛出してすがりつくのです。
「どうした、八」
「お粂さんが縛られて行きましたよ、三輪の萬七親分に」
「縛られた?」
「内儀のお春さんを殺した疑ひで」
「待つてくれ、お前は少しのぼせてゐるやうだ、落着いて
「のぼせもしますよ、お粂は
八五郎は平次の胸にかぶりついて、言ふこともしどろもどろです。
「お前とお粂が、夜つぴて一緒にゐたといふのか」
「その通りですよ、親分」
「嘘だとは言はないが、お粂はあれでなか/\の
平次は妙に
「お粂は私と一と晩、一緒にゐたのは、色戀の沙汰ぢやありませんよ、お粂は昨夜自分の身が危ないと思ひ込み、冗談らしく私の部屋へ飛込んで來て、夜の明けるまで一緒にゐました。夜中に
八五郎は
「成程な、お前の言ふのも尤もだ、が――待てよ、するとあの内儀を殺したのは誰だ、昨夜は此の家にゐたのは、主人の孫右衞門と下女のお徳だけぢやないか」
平次は
「お願ひだ、親分、お粂を助けてやつて下さい、今日中に
八五郎は明神下までついて來て、
「清吉とお前の角突き合ひに、俺まで引合ひに出されてたまるものか」
平次は冷靜に突つ放しますが、お靜がくんでくれた茶にも手を出さず、パクリパクリと煙草ばかり吸つて考へ込んでゐる樣子でした。
「でも、お粂は可哀想です、一と晩あつしと一緒にゐたものが、
「お前が居眠りでもしてゐたんだらう」
「飛んでもない、あんな結構な年増と一と晩睨めつこをして、居眠りが出來るか出來ないか、考へて見て下さいよ」
「一と晩、どんな話をしてゐたんだ、まさか、
「それなんですよ、甘いやうでビリヽとして、柔かいやうで
「何んだつまらない、――尤も、お前などに隙を見せる女ではあるまいよ」
「その代り、良い話を聽きましたよ」
「良い話といふと?」
「繼母のお春は、弱氣で臆病で風が吹けば飛ぶやうに見えるが、
「それは俺も聽いた」
「もう一つ
「お粂はそんなことまで話したのか」
「
「待つてくれ、すると、主人の弟の孫三郎とお春の娘の玉を殺したのは誰なんだ」
「そいつはあつしにもわかりませんよ、お粂は、多分お春だらうと思つてゐる樣子でしたが」
「そのお春も殺されたのだよ」
「それは、その」
八五郎も
「俺には、大方下手人の見當は付いてゐるが――」
「親分が? それは本當ですか、どうして縛らないんです」
「
相變らず平次の潔白さが
「金之助さんといふ方が見えましたよ」
お靜は取次ぎました。
「さうか、丁度宜い、八五郎も來てゐる、三人寄ればの
平次は機嫌よく迎へました。長者町の俵屋の手代金之助は、お靜に案内されて、部屋へ通つて來たのです。
「親分さん、お邪魔をいたします」
少し高いピツチで、折目の正しい
「いや、邪魔どころぢやない、待つてゐたんだ」
平次はいかにもさり氣ない調子でした。
「さう言はれると極りが惡いくらゐで、矢張り馴れないことは仕方のないもので、一向に
「そんなことはあるまい、この仕事はお前に打つてつけだと思つたよ、――なア、八、こちとらは武家が苦手だから、幸ひ隣同士で
平次は八五郎の方を振り返つて二人の氣持を取なすのです。
「御懇意に願つてるには違ひありませんが、いざとなると、江柄さんも感づいたらしくて、大事のところを打ち明けては下さいません、たとへば」
「?」
「あの晩の
「釣の獲物は?」
「何んにも釣れなかつたと申してをります、尤も江柄さんに暗いところがあれば、
金之助は、江柄三七郎のために、
「それは辯解にならないな」
平次は澁い顏して見せました。
「私もそれを申しましたが、江柄さんは一向に取り合ひません」
「仕方があるまい、證據は
平次は諦めた樣子で、話題を換へました。
「それから、下男の五助の身許のことも調べるやうにとお頼みでしたが、あれは
「有難たう、あの男は人殺しとは
平次は押入を開けて、妙なものを持出しました。
「何んです、それは?」
八五郎は物好きさうに乘出しました。
「箱根へ
平次は妙な話を始めました。
「そいつは、
八五郎は、もどかしさうに口を入れました。平次の話は、日頃にない、寛々たるテムポです。
「昔々大昔の話だよ、千年も前の」
「へエ、桃太郎が生れる前のことで」
「無駄を言ふな、――ところで、その話から思ひ付いて、箱根
「成程ね」
「これを俺にくれた人は、中へお祝ひに小粒をいくらか入れたさうだが、さつそく
平次がさう言ふ間にも、八五郎は金箱を受取つて、無闇やたらに叩きました。上から、下から、右から、左から、
「ちよいと拜借いたします」
それを
「俺に開けられないものが、お前に開けられるわけはないよ、――錢形の親分さへ、この箱と二日
さう言ひながら八五郎は、澁々錢箱を金之助に渡しました。今日では何處の湯治場でも賣つてゐるやうな箱根細工の貯金箱で、火打箱の半分ほどしかありませんが、何處に仕掛けがあるのか、八五郎の
「成程よく出來てゐますね」
金之助は箱を受取つて、暫らく調べてをりましたが、やがて、前後左右から、一種の
「どうだえ、開かないぢやないか」
八五郎は少しばかり
「そんな筈はないと思ひますが――おや、おや、小口に釘が打つてありますよ」
「そんな馬鹿なことが」
平次も
「でも、この通りですよ、仕掛けのあるのは構はないが、釘でとめるのは
金之助は箱の隅から發見した隱し釘を拔くと、箱は何んの苦もなく開いて、中に入つてゐる一
「あ、成る程、でも、その釘を見付けたのは、矢張り金之助どんの手柄だよ」
「こんなことは、手柄にもなりません」
金之助は極り惡さうに箱を置きました。
「あつしはまた一生懸命叩きましたよ、馬鹿
八五郎は意味もわからず面白さうです。
その晩平次は、不思議な指令を八五郎に與へました。
「お前は俵屋の金之助と馬が合ふやうだな」
「それほどでもありませんがね」
平次の調子が至極眞面目なので、八五郎もツイ遠慮しました。
「お前と金之助では、どう見ても、まるつ切りあべこべだ」
「へエ?」
「金之助は
「さう言ふとあつしは、間拔けで、ぼんやりで、
八五郎は
「こんなあべこべな肌合ひの人間は不思議に
「褒められてるのか、くさゝれてるのかわかりませんね」
「兩方だと思へ、ところで、今夜金之助をおびき出して貰ひたいのだよ」
「何處へ行くんです」
「それはお前の働きだ、尤もらしい用事を
「谷中あたりのいろは茶屋ぢやいけませんか、近過ぎて」
「宜いとも、その代り
「――」
「氣のない顏をしやがる、それ、これが軍用金だ」
前の日、謎の金箱から出た
「これだけありや、
「そんな氣でゐるから、お前は何時までも若いのだよ」
「どなたもさう仰しやいます」
八五郎は小粒を
「ぢや行つて來るよ、今夜は歸れないかも知れない、お隣の小母さんでも頼んでおくが宜い」
お靜の心配さうな顏を後に、下谷長者町に向ひました。
たつた一人だけ、ものゝ役に立つ手代の金之助は、多分八五郎が
平次は家を一と回り、主人孫右衞門の部屋の窓の外に立ちました。
平次の立つたのは俵屋の
窓の下に立つたまゝ、平次は物を考へてをりました。これからやつて見る自分の冒險の、結果の恐ろしさを案じてゐるのでせう。
暫らくすると、平次は腰高窓の戸に近づいて、爪立ち氣味に外からその戸を叩くのです。三つづつ、三つづつ、三つ、
平次は暫らく待ちました。――恐ろしい待遠しさです。内から何んの反響もなければ、その次はどうしたものか、平次も其處までは考へなかつたらしく、窓を眺めて
と、不意に、恐ろしいことが起つたのです。平次は何んの手も加へないのに、窓の戸は内から、靜かに開いて、
「――」
窓の内の老人の顏は、手燭の
「お前は誰だ」
老人は、いふまでもなく、俵屋の主人の孫右衞門でした。身動きも出來ないといはれた重病の老人が寢卷の上に
「明神下の平次ですよ、ご主人――變なところから御挨拶申しますが」
「何んの用事だ」
「ご主人が自分の手でこの窓を開けると氣がついたのは、少し遲過ぎました」
「それは何んのことだ」
「御主人が曲者を此處から引入れて、二人まで殺させたとは思ひも寄らなかつたのです。
「――」
平次の論告の前に、主人孫右衞門は、床の上へ、ヘタヘタと
「たつた一つ伺ひませう、御主人は、なんだつて、あの鬼のやうな男を引入れて、義理の弟や、たつた一人の娘御を殺させたのです」
平次は主人孫右衞門の床の前に中膝になつて、逃れる
「いや、違ふ、殺したのは俺だ」
「?」
孫右衞門は飛んでもないことを言ひ出しました。
「弟の孫三郎も、女房のお春も、娘のお玉もこの俺の手で殺したのだ、――あれは俺にとつては、弟でも女房でも娘でもない、皆んな敵同士だ」
主人の擧げた顏は紫色の
主人孫右衞門の抗議の
「今になつて卑怯ですぞ御主人、證據はあり過ぎるほどある、たゞ、御主人が同腹とは氣がつかず、その御主人が窓を開けて、あの鬼のやうな
「いや、
「嘘ではない、御主人は押入へ這ひ上がつて孫三郎を殺す力もなく、
平次は最早容赦はありませんでした。この燃え立つ
「親分、もう澤山だ、――どこ/\までも、あの子を
「すると、御主人は?」
「いかにも、私は金之助を庇ひ過ぎた、が、私ももう生きてはゐられまい、
「金之助は、何者です、御主人」
精一杯の努力で話し續ける孫右衞門に、平次は心せく樣子で最後の問を投げかけたのです。この老人の樣子を見ると、生命の力を費ひ果して、何時どんなはずみで、ポキリと折れて仕舞ふかもわからなかつたのです。
「私の子だよ」
「えツ」
「あれ一人だけが、私の本當の子だよ、お
「――」
それは恐ろしいことでした。さすがの平次も、受け答へも出來ないほど、人の憎しみの恐ろしさに、
「あの子は、町の遊び女に産ませた、私の本當の子だ、母に別れて、男の子に仕立てられ、
「男の子に仕立てられ?」
平次は聞きとがめました。老人は妙なことを言つたのです。
「金之助は男ではない、あれは女の子だよ」
「あツ」
平次はこの時ほど驚いたことはありません。さう言へば金之助の美少年振りに、何處か線の柔か過ぎるところがあり、
「あの子は男姿で育つたためか、年頃になつても男姿が好きで、それで押し通して、娘姿になれと言つても聽かなかつたのだよ」
主人孫右衞門の話は益々奇怪になります。
「それに、困つたことに、女房のお春は、世にも珍らしい
老人は苦しい息を繼ぎながら
「孫三郎を殺したのは」
平次はそれをレールの上へ引き戻しました。
「放つた置けば[#「放つた置けば」はママ]、孫三郎は床屋の
「お玉さんを殺したのは」
「あれは私の子ではない、――金之助のお金にとつては敵同士のやうなものであつた」
「内儀を殺したのは?」
「金之助はお春を憎んでゐた、――お春はまた、近頃
「その内儀を、一度は介抱にこと寄せて、御主人が助けたぢやありませんか」
「私はお春が憎かつた、何年越し私のところへは寄りつきもしなかつた、でも、その晩金之助に殺されるとわかると、氣の毒にもなり、少しばかり
「その時、危ふくお
主人孫右衞門と、錢形平次は、互に
「だが、私はあの子が可愛いゝ、が、怖ろしい、人を殺すことを、何んとも思はない、鬼のやうな娘だ」
主人孫右衞門は床の上に仰向けになつたまゝ、靜かに眼を閉ぢるのです。
「御主人」
「靜かにしてくれ、私はもう、精も根も
「御主人」
丁度その時でした。谷中のいろは茶屋へ行つたはずの、手代の金之助と、子分の八五郎が、少し醉つたらしい足取りで、バタバタと入つて來たのです。
「親分」
「
二人は
「旦那樣」
金之助がその傍に寄つて手を添へると、
「お
「えツ」
「俺はもう死ぬ、――これうへお前に罪を重ねさせたくない、――せめてお
「何んといふことをしたんだ、父さん」
死にかけてゐる父親の
孫右衞門はその晩のうちに死んで、金之助のお金は間もなく
俵屋に
「まア、何んといふことだらう、あの良い男の金之助が、女だつたりして」
お
「でも、俵屋の
平次はつく/″\さういふのです。
「あつしにはわからないことばかりだが、繪解をしてくれませんか、親分」
八五郎がさういふと、
「皆んなわかつてゐるぢやないか、どこが呑込めないんだ」
「あの鐵の箱のやうな、締りの嚴重な俵屋へ、夜中にどうして親分はもぐり込んだのです?」
「主人の孫右衞門の部屋の窓を、外から叩いて開けて貰つたのさ、三つづつ三つ叩く暗號を見付けたんだ」
「どうしてそんな手品を?」
「金之助に箱根
「へエ?」
「つまり、叩き
この考へ方の微妙さは八五郎の太い神經ではわかりませんが、金之助が三拍子型のリズムを好む癖を知つて
「
「
「あ、成る程」
「目黒から川崎へ回つた時も、同じ
「へエ」
「何にしろイヤなことだよ、尤もお粂といふ女は見直したが――」
さう言ひながら平次は、お勝手のお靜に合圖を送つて、一本つけさせるのでした。