「八、良い月だなア」
「何かやりませうか、親分」
「止してくれ、
「おやツ、變な女が居ますぜ」
錢形の平次が、子分のガラツ八を伴れて兩國橋にかゝつたのは
野暮用で本所からの歸り、橋の中程まで來ると、ガラツ八がかう言つて平次の袖を引きました。大した智慧のある男ではありませんが、眼と耳の良いことはガラツ八の
「あの女か」
「ありや身投ですぜ、親分」
「人待ち顏ぢやないか、
「逢引が
橋の上にシヨンボリ立つて居た女、平次とガラツ八に見とがめられたと氣が付くと、いきなり欄干を越して、冷たさうな水へザンブと飛込んで了つたのです。
「八、飛込めツ」
「いけねえ、親分、自慢ぢやねえが、あつしは
「馬鹿野郎、着物の番でもするがいゝ」
さういふうちにパラリと着物を脱ぎ捨てた平次、何の
女は一度沈んで浮かんだところを、橋の下にやつて來た月見船が
女は激動の爲に正體もありませんが、幸ひ大して水は呑んで居ない樣子、月見船の客は船頭と力を併せて、濡れた着物を脱がせて、船頭の
蒼い月の光に照らされたところを見ると、年の頃は二十二三、少しふけては居りますが、素晴らしい
「何うだい、氣分は。少しは落着いたか、何だつてそんな無分別な事をするんだ」
平次は素つ裸のまゝで、女を介抱して居ります。近間に居る月見船が二三
「有難う御座います」
顏を擧げた女、平次はそれを正面から眺めて、何うやら見覺えがあるやうな氣がしてなりません。
「違つたら
「えツ?」
女はもう一度心を取直して、
「ね、矢張りお樂だらう?」
「あツ、錢形の親分、
女は
「錢形の親分さんで、――これは良い方にお目にかゝりました。私は長谷川町で小さな質屋をして居る
成程、
「お蔭で一人助けました、飛んだ
と平次。
「功徳には違ひありませんが、町人はこんな時は何の役にも立ちません」
「ところで、お樂、お前のやうな女が、何んだつて又身を投げる氣になつたんだ」
平次は質屋の亭主にはかまはず、船を兩國の方へ
「何も
「何?」
「兄の香三郎が、親分の繩に掛つて、傳馬町に送られてから、世間の人は私を相手にしてくれません」
「――」
「兄は泥棒かも知れませんが、妹の私は何にも知りやしません。それを町内の
「――」
「大泥棒の妹と知れると、何處でも三日と置いてはくれません。三月の間に五軒も越して歩いて少しばかりの
平次も驚きました。その頃江戸中を騷がせた三人組の大泥棒のうち、一人は逃げ、一人は死に、香三郎といふのだけ捕つたのを、今年中の大手柄にして居ると、何時の間にやら、こんな飛んでもないところに罪を作つて居たのでした。
「そいつは氣の毒だ。岡つ引だつて鬼や
「親分、さういつて下さると嬉しいけれど、私はどうせ大泥棒の妹だから」
「さうひがんぢやいけねえ、お前の身の立つやうに、及はず乍ら何とか工夫をしてやらう。もう死ぬなんて、つまらねえ心持は起しちやならねえよ」
「――」
お樂は泣いて居りました。
「親分、土左衞門は何うしました」
「八か、何て口をきくんだ」
「それぢやお
「馬鹿ツ」
こんな
「親分、寒かつたでせうね、――その女は橋番所に引渡して大急ぎで歸りませう。姐御は一本付けて待つてますぜ」
「この人を伴れて歸るんだ、駕籠をさういつてくれ」
「へエ――、お土左を? 物好きだねえ」
「つまらねえ事をいふな、――笹屋の旦那、それぢやこの女はあつしが引取つて參ります。飛んだお世話になりました」
平次がお樂を伴れ込んだのを見ると、女房のお靜は惡い顏をするどころか、自分の
まだ
翌る日。
「此邊へ商賣用で來ました、
そんな事を言つて、笹屋の主人源助が手土産を持つて顏を出しました。
「飛んでもない、あつしこそお禮に上がらなきアならないところで」
平次はあいそよく迎へて、何くれとなく話しました。平次よりは幾つか年上でせうが、
馬が合ふといふものか、二人はすつかり話し込んで、お靜の着替を借りて着たお樂を相手に、到頭日の暮れるまで長話をして了つたものです。
それから源助はチヨクチヨク訪ねて來ました。平次が留守だと、お樂やお靜や、ガラツ八を相手に冗談口をきいて歸ることもあります。
「ありや何だい、質屋の亭主だつていふが、
ガラツ八は、蔭へ廻るとこんな事をいひますが、面と向ふと、まことにだらしもなく引込んで了ひます。物識と通人は、ガラツ八に取つては一番の苦手だつたのです。
もう一人、お樂と源助を嫌ひな人間がありました。
それは、ツイ二軒置いた隣に住んで居る、駄菓子屋の娘お町。お靜と一緒に水茶屋に出て居て、平次に氣があつたのですが、張合つて綺麗に
「八さん、お寄りよ。知らん顏をして通ると、此間、私を
「あツ、お町か、
ガラツ八はさう言ひながらも、惡い心持がしないらしく、縁臺に腰をおろして、お町がくんでくれた
「ね、八さん、あの女は何處の化物さ。平次親分のところへ入り込んで、近頃はお靜さんを使ひ廻して居るツてえぢやないか」
「俺が、そんな事を知るものか。いづれ田舍の
ガラツ八は當らず
「近所にあんなのが居ちや
「其處がお靜さんのいゝところさ、お前とは少しばかり出來合が違ふ」
「何だとえ、もう一度いつて御覽」
「
「畜生ツ、何とでも言ふがいゝ。――ところで、あのお樂とかいふ女は、どうだい」
お町はかう言はれても大して腹を立てる樣子もなく、お樂のことを根ほり葉ほり聞きたがつて居ります。
「あのお樂と來た日には大變さ。唯もうネツトリして、
「嫌だねえ、萬一お靜さんから親分を横奪りするやうな事があつたら、このお町さんが生かしちや置かないつて、さう言つておくれ」
「少し物騷だね」
「何が物騷さ、あんな女に町内を荒される方が餘つ程物騷ぢやないか」
お町はさういつた女でした。お靜と平次が一緒になると、ゲームに負けたやうな心持で、一旦綺麗に引下がつては見たものゝ、横合から變なのが飛出して、平次へちよつかいを出して居るのを見ると、自分がいさぎよく引下がつただけに、打ち殺しても了ひたいやうな、言ひやうのない衝動を感ずる――といつた
四五日は無事に過ぎました。
お靜は相變らずまめに立働いて、何の蔭もないやうに暮して居りますが、氣を付けて見ると、
お樂はガラツ八がいつたやうに、少しねつとりとして居りますが、奉公人のやうに、よく働いて居ります。
「ね、お前さん、ちよいと」
或日、お樂の留守を見定めて、お靜は物蔭に平次を呼び入れました。
「何だえ、誰も聞いちやゐない、用事があるなら其處で話せ」
平次は少し面倒臭さうでした。
「私、こんな事はいふまいと思つたけれど、氣味が惡くて、どうにも我慢がならない。お願だから、お金か何かやつてお樂さんを
「何?」
豫想外なお靜の言葉に、平次は眼を
「――出て貰つたつて、其日に困らせるやうな事さへしなければ、義理は濟むぢやありませんか、お願ですから」
「お前
「あれ、そんな事ぢやありません。近頃私は此儘ヂツとしてゐると、殺されさうな氣がしてならないんです」
「――」
「
「――」
「それから、今朝は物置に入つてゐると、外から戸を締めて、
「――」
お靜のいふのは
「お靜」
「ハイ」
「お前は、俺がお上から十手捕繩を預かる身分と知つて嫁に來た筈だな」
「――」
平次の言葉は以ての外でした。嫁入つてから半歳あまり、ツイ荒い言葉も聞いたことのないお靜は、あまりの事に仰天して、平次の
「縛られたり、打たれたり、顏へ怪我をしてさへ、一言も泣き言をいはなかつたお前が、それ位のことで、お樂を追ひ出せとは何といふことだ。矢張り
「あれ、そんな積りぢや」
「默つてお
「お前さん、そんな、そんな、――私はそんな積りで言つたんぢやありません。堪忍して下さい、死んでも私は此處を動きません」
お靜はあまりの事に
「お靜、見つともない、いひ出した事を
「否、否、私は否、何んなことがあつても、此處を動きやしません。ね、私が惡かつたら堪忍して下さい」
「馬鹿ツ」
「堪忍して下さい、お願」
お靜は平次の
少し
「八、ガラツ八は居ないか」
縁側の方へ聲を掛けるのでした。
「オーイ」
ノソリと立つたガラツ八も、
「氣の毒だがお靜をお袋のところへ連れて行つてくれ。十日經つたら、改めて平次が伺ひますつて、いゝか」
「
「何だと?」
「そんな使は御免蒙らうよ」
「馬鹿ツ、突つ立つて物を言ふ奴があるか」
「立たうと坐らうと勝手だ。こんな
「野郎と言つたな。馬鹿ツ」
「馬鹿の親分は野郎で澤山だ」
「畜生ツ、言やがつたな」
平次は思はず煙草盆を持つて立上がりました。
「あれツ、八さん、お前さんの方が引込んで居てくれなきア、――どうせ私が惡いんだから」
お靜は二人の間に割つて入りました。
「親分、可哀想ぢやありませんか、お靜さんは泣き乍ら行きましたよ。私は丁度横町でバツタリ出會はすと、お靜さんを
お樂はさう言つて銚子を取上げました。お靜が出かけた後、邪魔する者もない心持で、
「お前が來てから、お靜の調子がすつかり變つたのさ。氣の毒だが、御用聞の平次に、
「でもねえ、あんなに騷がれて一緒になつた二人ぢやありませんか。私なんか、遠くから見て居てどんなに
お樂はさう言つて、圓い
「お前も一つやるかい、お樂」
お靜の
「だけど嬉しいねえ、親分とかうして居られるんだから、私はまるで夢のやうな心持よ」
少し
「つまらない事を言つちやいけない。ところで、お前にいろ/\聞きたいことがあるが、――言つてくれるだらうね」
と平次。
「親分には命を助けて貰つた上、こんなに親切にして頂くんだから何もかも言つて了ひますわ、その代り私の願も聞いて下さるでせう?」
お樂は何時の間にやら
「それはもう、
「有難いわねえ、親分、一體、どんなことをお話すればいゝの」
「外でもない、半歳前に江戸中を荒した三人組の大泥棒、一人はお前の兄の香三郎で、これは傳馬町の
「解りましたワ、親分、思ひ切つて言つて了ひませう。房吉は名を變へて、今では江戸の
お樂の手は何時の間にやら平次の腕に卷き付いて、その少しほてつた顏は、妙に惱ましく平次の緊張した顏を見上げるのでした。
「それは有難い。房吉、あの人殺しの房吉といはれた野郎と、兄弟分の三平は何處に居る、教へてくれ、お樂」
「その代り私のお願ひ、――」
「出來ることなら何でも聞く、――房吉は何處だ」
「――」
お樂が何か言はうとした時でした。
「御免下さい」
お勝手の格子が開いて、ソロリと入つて來たのは、石原の利助の娘で、平次には日頃恩にもなり、
「親分、今晩は、ちよいとお靜さんのお留守見舞よ、入つていゝ?」
表からは二軒置いて隣りに住む、昔のお靜の
「あツ、お品さん、――お町もかい」
平次も
「お町もか――はひどいでせう。親分、そのもかが氣に入らないよ」
お町は自分の家のやうに入つて來ました。
「弱つたなア」
「弱つたのはお靜さんよ。あんの可愛らしいお神さんは江戸中探したつて二人とあるものか、お前さんには過ぎものだ。そんな
「お町、口が過ぎるぞ」
「お
お町は一寸も引きさうにありません、――それどころか、長火鉢の向うへ、女だてらに
「さア、親分注いでおくれ。何をキヨトキヨトして居るのさ、これでも此雌猫よりはましだよ。お靜さんに親分を取られた時は器用にあきらめたが、親分を外の女に取られるやうな事があつちや、兩國の水茶屋の名折れだよ」
平次は苦笑ひして立上がりました。後にはお品、
「親分、お靜さんはお里へ歸つたさうですねえ」
「何處から聞いたんだ、お品さん」
「手紙が來ましたよ、頼むから一と晩親分を見張つて下さい――つて」
「どれ、その手紙を見せな」
平次はお品の手から手紙を受取りましたが、見覺えのある
「親分、此處へ泊つても構はないでせう?」
お品までがこんな事を言ひます。これはお町と違つて、叱ることも追拂ふことも出來ないだけが、厄介といふものでせう。
「こいつは面白いや。女三人で親分を眞中に、睨めつこのお
お町はすつかり喜んで居ります。
「親分、あの話は明日にしませう」
と、お樂。これも
「驚いたな、どうも、みんな歸つてくれ。御親切は有難いが、一と晩頑張つて居られちや、俺がたまらない」
と、平次。
「色男には誰がなるつてね、親分、かう新造に騷がれるのも滿更惡い心持ぢやないだらう」
お町は柱にもたれて太平樂を言つて居ります。
錢形の平次もこの晩ほどひどい目に逢はされた事はありません。脂ぎつた妖艶なお樂と、鐵火で
朝になると、飛出して一と風呂、お品が
その晩、町内の錢湯へ行つたお樂が、容易に歸らないと思つて居ると、
「あ、人、人殺しツ」
路地の中で大變な騷ぎが
留守番のお品は飛んで出ました。お町が引揚げて了つた後、さすがにお品一人では淋しかつたのです。
「何だ/\」
彼方此方から人が飛出して來ました。平次の家の近く、通りから少し入つた一間の路地、一方は板塀で、一方は表を
誰か
「あツ」
皆な潮の引いたやうに退きました。恐ろしい血潮の中に、若い女が仰向けに倒れて居るのです。
「平次親分のところに居る人ぢやないか」
誰かゞ言ひます。
平次は朝から留守、何うする事も出來ません。そのうちに誰が言つてやつたか、町役人が見廻り同心を連れてやつて來ました。
後ろから顏を出したのは、何うして
「旦那、申上げます。殺されたのは、此間から平次のところへ入り込んで居る女で、お樂とか言ふさうです。その爲に平次は女房のお靜を出したつて話ですから、いづれ、そんな事で
萬七はすつかり好い心持さうに、お樂の死體を見たり、其邊中の人に當つたり、目まぐるしく活動しては、合間々々に同心に報告して居ります。
「刄物は何だ」
「
「フーム」
「妙な物を見付けましたよ、旦那、死體の側の血の中にこれが落ちてゐました」
萬七の渡したのを見ると、
「これはいゝ手掛りだ」
と同心。
「心當りの者に聞くと、それほどの品ですから間違はありません、平次の女房のお靜の品なんださうで――」
「何? 平次の女房が下手人だといふのか」
萬七の謎を解いて、同心も驚いた樣子です。
「お靜が下手人だとは申しませんが、兎に角、この女の爲に昨夜追出されて、お袋のところへ歸つたさうですから、一應呼出してお訊き下さいまし。こんな人通りのない路地の奧へ入つて、何うして
「フーム」
何うも萬七の言ふ事は一々皮肉です。
「もう一つこれは大した事ぢや御座いませんが、念の爲に申上げて置きます。お靜は餘程
「――」
いよ/\以て萬七の舌は毒を含みます。
併し、同心も直ぐに平次の女房に繩を打たせるわけには行きません。念には念を入れて、路地の内外、湯屋での樣子、それから平次の家に留守番をして居るお品まで調べました。が、お靜を呼出して訊くより外には、下手人の見込も當りも付きさうもないと
「お靜の里といふのは此附近か」
と同心。
「ツい其處で」
「
同心の許が出ると、清吉は飛出さうとしました。
「どつこい、それには及ばねえよ、お靜さんにやましい事があるわけはねえ」
ヌツと顏を出したのは八五郎でした。
「八
萬七は妙に笑ひたいやうな、泣き出したいやうなしかめつ面を見せます。――
「へツ/\、有難いことで、三輪の親分が大層氣の毒がつてゐなすつたと、親分へ申して置きませうよ」
「ところでお靜ちやんは何うなすつたえ」
「これもお氣の毒みたいな話で、ツイ今しがたまで、おツ母アとあつしを相手に、泣いたり笑つたりして居ましたよ」
「本當かい」
「お隣で聞けば解りまさア」
「この
萬七は動かぬ證據の積りで、
「お靜さんのだつたら、何うなるんだ」
「氣の毒だが下手人の疑ひは
「へーエ」
「死體の側、それも血の海の中に落ちて居たんだ」
「さうですかい、もう一つ同じ櫛を持つて居る人があつたら何うします、三輪の親分」
「何だと?」
「ちよつと待つておくんなさい」
ガラツ八は飛んで行きましたが、暫くすると、ベロンベロンに醉拂つたお町を引つ擔ぐやうにして伴れて來ました。
「何だつて? あの
いやもう滅茶々々の機嫌です。
「お町、人一人の命に
ガラツ八は一生懸命でした。萬七の手から受取つた櫛をお町の
「私のだよ、誰が盜んで行きやがつたんだ」
「確かにお前のだね」
「お靜さんと一年前に
「目印はないかえ」
「そんな物があるものか、針で突いた程の傷も付けないのが自慢だつたんだ。誰が一體盜んで行つたんだ」
お町の言ふのは嘘らしくもありません。
「何時盜まれたんだ、
萬七は横合から口を出しました。
「出鱈目、チ、畜生、岡つ引ぢやあるまいし、お町姐さんが出鱈目を言ふかい。櫛は二月前に盜まれたんだ。町奉行所へ屆出なかつたのが惡きア、何うともしやがれ」
お町の大地に崩折れるのを
「八兄哥、お靜さんの疑ひは晴れたとは言へねえな」
萬七はニヤリとします。
「三輪の親分、お靜さんは晝からズーツと此處へ來るまであつしと話して居たんですぜ」
八五郎は少しムツとした樣子です。
「一つ穴だ、
「三輪の、あつしが嘘をついたつて言ふのかえ」
「誰もそんな事は言はねえよ」
「お町は此間からお樂の
「こんな醉つ拂ひに人間一人殺せるわけはねえ。無駄だよ、八兄哥――」
「ぢや何うあつても」
「繩張外で氣の毒だが、平次兄哥では此
三輪の萬七はさう言つて、お
「畜生ツ、そんな事をされちや錢形の親分の名折れだ、お靜さんを調べるなんて、俺が不承知だ」
八五郎は大手を
「馬鹿野郎、
「何を言やがる、
「うるさいツ」
「
「役目の表でもか」
「――」
「馬鹿野郎、ドヂを通らねえと、手前のやうになるとよ、ハツハツハツ」
清吉はこんな
「野郎、突きアがつたな」
飛びかゝらうとする八五郎。
「騷ぐな、八五郎、話は俺がつけてやる」
後ろからそつと肩に手を置いた者があります。
「何をツ」
振り返ると、八丁堀の旦那、吟味與力筆頭笹野新三郎が、微笑を
萬七とガラツ八の爭ひの
調べは又最初からやり直し、何から何まで念入りに繰返しましたが、結局、お樂を殺す動機を持つて居る者は、お靜とお町の二人だけ。落ちて居た
お靜は到頭喚出されて、お町と一緒に調べられることになりました。騷ぎを聞いて丁度其處へやつて來たお靜は、其儘下手人の疑ひを受けて、皆なから冷たい眼で見られなければならなかつたのでした。
丁度其處へ、ノツソリと錢形平次が歸つて來ました。
「あツ、親分、大變な事になつた」
八五郎は飛付きました。萬七の側に
「聞いたよ、お樂が殺されて、お靜とお町が下手人の疑ひを受けてゐるつて話だらう、――お蔭で俺には、何もかも解つたやうな氣がする。旦那、御免なさいまし、三輪の親分、御苦勞樣」
平次はさう言ふと、ツカツカと死體の側に寄り、提灯や手燭の明りで、恐ろしく念入りに調べ始めました。傷口から
「大方見當がつきましたよ、
「えツ」
ガラツ八はいふ迄もなく、お靜も、新三郎も、萬七までもびつくりしました。自分の女房を致命的な疑ひに引入れるやうな言葉です。
「何の邊に落ちてゐたんだ、誰が拾つた? もとのやうに置いて貰はうか、――それで間違はないね、後で間違つたなんて言はれると困るが、何? 目印が付けてあつた? それは有難い」
平次はさう言つてもう一度櫛を取上げながら續けました。
「この櫛には血が着いて居ない、誰も拭きやしませんね、――尤も一度血の着いた櫛なら、拭いても齒の間に血が殘つて居る筈だが、この櫛にはそんな
「――」
皆なは此一言ですつかり平次に征服されて了ひました。互に顏を見合せて、次の言葉を待つばかりです。
「自分の持物を死體の側へ持つて來る者はないから、この下手人はお靜でもお町でもありませんよ」
平次は笹野新三郎の方を向いてかう言ひます。
「――」
皆なホツと
「それから、こんな袋路地の奧へ湯歸りのお樂を連れ込むのは、知つて居る者でなきアならないが、女ぢやありません。後ろから突いたから、一應女と思ふのも尤もだが、女が
「――」
「これは、お樂を胸に抱いて、後ろへ手を廻して
「――」
何といふ明察でせう。萬七は一句もなく首を垂れました。
「一體下手人は誰だ、平次、話して見るがいゝ、お前には解つて居るやうだが――」
笹野新三郎は
「最初から申しませう。九月十三夜に、兩國橋で私は身投女を救ひ上げました。これがお樂で、三人組の大泥棒、香三郎の妹で御座います。側に居た船へ引上げて貰はうとすると、その船の船頭が
「――」
平次の話は奇つ怪でした。調べて見るとお樂は房州生れの
「笹屋源助といふのはお樂の亭主で御座います、それは後で解りました」
平次はかう續けます。
――お樂は平次の家へ入込みましたが、平次に
お品を呼出した手紙を、平次が手を廻して笹屋の亭主の書いたものと比べると、寸分違はぬ同じ筆でした。笹屋の源助は、女房お樂の
――笹屋の源助は三人組大泥棒の首領房吉の變名だつた事は言ふ迄もありません。お樂が自分を裏切つて、自分と三平の
「
平次はかう説明して、一度
「ところでその笹屋の源助といふのは何うした、急いで手配しなければなるまい」
と笹野新三郎。
「それには及びません、あれで御座います」
指す人込の中から、一人の男、身を
「あツ」
ひるむところを、何處を何う飛込んだか、親分の氣を知ることの早い八五郎は、サツと飛込んで後ろから組附きました。
「これが笹屋の源助か」
笹野新三郎は、物優しくさへ見える繩付を
「さうで御座います、三人組の
平次は
「さうと知つたら、逃げるんだつた。
房吉は口惜しさうに
「ガラツ八は最初からお前の側に付いて居たよ、俺の眼の動き一つで、何でも讀むのが八五郎の藝だ。逃げた筈の三平も、今頃は捕つて居るだらう。それも手配をして置いたよ」
平次は事もなげにかう言ひます。
「錢形の親分、お前さんはお靜さんを捨てちやならないよ。お靜さんを泣かせると、このお町が承知しないから」
醉つ拂ひのお町はフラフラと立ち上がると、お靜の頸つ玉に