「親分は? お靜さん」
久し振りに來たお品は、挨拶が濟むと、
取つて二十三のお品は、物腰も思慮も、苦勞を知らないお靜よりはぐつと老けて見えますが、長い交際で、二人は友達以上の親しさでした。
「何んか御用?」
お靜はお茶の支度に餘念もない姿です。
「え、少しむづかしい事があつて、親分の智惠を借り度いと思つて來たんだけれど――」
「生憎ね、急の御用で
「親分がお留守ぢや仕樣がないねえ。――八五郎さんにでもお願ひしようかしら」
お品は淋しく笑ひました。ガラツ八の八五郎の人の良さと、頼りなさは、知り過ぎるほどよく知つて居ります。
「八五郎さん、ちよいと」
お靜が聲を掛けると、いきなり大一番の
「お品さんいらつしやい」
ヌツと長んがい顏を出すのです。
「まア、八五郎さん其處に居なすつたの。あんまり靜かにしてゐるから、氣が付かないぢやありませんか」
お品は面白さうに笑ふのでした。
「あつしでも間に合ひますかえ」
「まあ、惡かつたわねエ。――八五郎さんが來て下さると本當に有難い仕合せで――」
ガラツ八は
お品が持込んで來た事件といふのは、お品の家とは背中合せの、同じ本所石原町に長く質屋渡世をし、本所分限者の一人に數へられてゐる
「家の新吉が下つ引を二三人連れて行つたけれど、こね廻すだけで判りやしません。そのうちに三輪の親分の耳にでも入つたら、どうせ默つて見ちや居ないだらうし、――本當に八五郎さんが行つて下さると助かりますよ」
お品の調子はしんみりしました。
「うまく言ふぜ、お品さん」
そんな事を言ひ乍らも、八五郎はお品と一緒に石原町まで
「それでは八五郎さん」
吾妻屋の入口から別れて歸らうとするお品。
「お品さんも現場を見て置く方が宜いぜ」
「でも、私が顏を出しちや惡いでせう。さうでなくてさへ娘御用聞とか何んとか、嫌な事を言はれるんですもの――」
「近所附合ひだ。見舞客のやうな顏をして行く
「さうね」
お品は
「お、八五郎親分」
迎へてくれたのは利助の子分で、兎も角も十手を預かつてゐる新吉でした。
「大層厄介な事があつたんだつてね。一寸覗かして貰ふぜ、新吉兄哥」
八五郎はひどく好い調子です。
吾妻屋金右衞門はその時六十一、生涯を物慾に
そんな事から日常生活が恐ろしく神經質になり、半歳ほど前からは、我慢がなり兼ねて、
主人金右衞門の死骸は
お喜多は豊麗な感じのする娘で、年の頃十九か二十歳。悲しみも
「――」
思ひの外
首筋のあたりを見ると、間違ひもなく
「繩も紐もなかつたよ。――自分でやつたのぢやない」
新吉は
「一番先に見付けたのは?」
「私で御座います」
お茶道具を片付けてゐた下女のお石は、少し事務的にハキハキと答へました。
「どんな樣子だつた」
とガラツ八。
「何時ものやうに、南側の雨戸を開けて聲を掛けましたが、お返事がありません。障子を開けて見ると――」
お石はさすがに息を呑みます。
「
「床から
「どんな恰好で」
「お寢卷のまゝ、
「確かに俯向だらうな」
「え、最初は居眠りして居らつしやるのかと思つた位です」
「繩も紐もなかつたのだな」
「え」
「東側の窓は?」
「半分開いたまゝで、朝陽が一パイに射して居ました」
お石の知つてゐるのは、それだけのことです。
一應間取りの具合を見ましたが、二階は八疊一間だけ。階下は
「曲者は何處から入つたんだ」
ガラツ八が思はず
「それだよ、八五郎親分」
新吉は八五郎の顏に擴がる
「雨戸は?」
「其處は念入りに閉めてあつたさうだ。用心棒の力松と下女のお石と番頭の周助の口が揃ふからこいつは疑ひやうはねえ。
新吉は狹くて高い庇や、梯子の跡などはない中庭の
「此方は開いて居たんだね」
東の方は腰高窓、其處を開けると、これは隨分塀傳ひに登れないことはありません。
「主人の金右衞門が
新吉の言葉には妙に思はせ振りなところがあります。
「それぢや、曲者は此處から入つたと言つてゐるやうなものぢやないか」
八五郎の高くない鼻は少し
「ところが、窓一杯に張つた
「――」
「今朝來て見た時からそいつがあつたんだ。どんな器用な曲者だつて、蜘蛛の巣を
ガラツ八は一言もありません。陽を受けてキラキラと光る美しい蜘蛛の巣は、
殘るのは梯子段が一つ、その下には用心棒の力松が、一と晩
「すると?」
「
新吉は自分の智慧を小出しに見せ付けて、ひそやかなる優越感にひたつてゐる樣子です。
「一番後で主人に逢つたのは?」
「力松だよ。――尤も日頑丈夫でない主人は二三日前から寢たり起きたりしてゐたさうだ。現に昨日も氣分が惡いからと、晝過ぎから床を取らせて、晩飯も拔きにしたといふから、誰も日暮前から二階へは行かなかつたらしい」
さう言はれるといよ/\怪しくなるのは用心棒の力松です。
「た、大變ツ」
「親分、ちよいと來て下さい」
階下から、急に、
「何んだ/\」
八五郎と新吉が階子段を轉がるやうに降りて行くと、六疊では用心棒の力松を中心に、番頭の周助以下五六人の者が、何やら
「力松が腹を切るつて言ふんです」
「止めて下さい。親分」
見ると大肌脱になつた力松の手から、五六人の者が
「止せ。――止さないか、力松」
新吉が聲を掛けると、力松はさすがにがつくり首をうな垂れます。
「相濟みません。――でも親分方、旦那を殺したのは、何んと言つてもあつしの油斷ですぜ。――高い給金を貰つて、旦那の命を預つてゐ乍ら、こんなことになつちや申譯がねえ。せめて腹でも切らなきや」
力松はさう言つて
「お前は本當に寢てゐるうちに曲者が二階へ登つたと思ふのか」
八五郎は要領の良い口を出しました。
「そんな筈はないから、不思議なんで。あつしはね親分、外に取柄は無いが、酒を飮まないのと
今腹を切らうとした力松は、勢ひよく辯じ立てるのです。成程さう言へば、力松に眠り藥でも呑ませない限り、此關所は通れさうもなく、よしんば力松を
「それほど申譯の筋が立つなら、腹を切るにも及ぶまい――ところでお前が此處に雇はれた筋道はどうなんだ」
新吉は一歩踏込みます。
「あつしの叔母が、大旦那の里親だつたんで、毎年の出代り時には、今でも叔母の子――あつしの
「さうか」
さう聽けば、力があつて、少しは武術の心得のある百姓の伜力松が、並の雇人の三倍の給料で、用心棒に
娘のお喜多は、たゞおろ/\するだけ、昨日の晝から父親に逢はないといふ以外には、何んの役に立つことも言つてくれません。
番頭の周助は五十年配の
「昨夜は何んか變つたことがなかつたのか」
ガラツ八の一應の問ひに對して、
「へエ、何んの變つたことも御座いません。旦那樣はお加減が惡いといふことで、晝過ぎから離屋へ參るのを遠慮して居りました。店は五つ半頃に閉めましたが、それから帳合をして私は
念入り過ぎる答へですが、此の言葉からは少しの怪しい節も見出されません。
「主人を
「さア、それは一々申すわけにも參りませんが――
「商賣の外にも怨みを買つたさうぢやないか」
「へエ――」
「若旦那はどうしたんだ」
「若旦那の金五郎樣は、親御樣と仲違ひなすつて、木更津の御親類にいらつしやいます」
「仲違ひ?」
「何んと申しても、お若いことですから」
番頭の周助も吾妻屋の家庭の事については容易に口を開きませんが、これは隣に住んでゐる新吉から後で
伜の金五郎の家出の原因といふのは、少し遊び過ぎただけの事で、大した問題ではありませんが、それより吾妻屋に取つて
その上文次郎と吾妻屋の娘お喜多が
二十八になつて、背負呉服屋に身を落した上、お喜多[#「お喜多」は底本では「お多喜」]との仲まで割かれた文次郎は、血の氣の多い男で、隨分それ位のことはやり兼ねないやうに、町内の人達からも思はれて居るのでした。
翌る日、石原町へ行つたガラツ八は、思ひも寄らぬ事件の展開を聽かされました。
「八五郎親分、困つたことになつたぜ」
新吉は言ふのでした。
「何がどうしたんだ」
「三輪の萬七親分が乘り出して、用人棒の
「へエ――、證據があがつたのかい」
「證據のないのが證據だといふんだ。二階の南側の縁側からは入れず、東窓にはでつかい
新吉もこの理論には爭ひやうがなかつたのです。
「それだけのことか」
とガラツ八。
「だから變ぢやないか」
「力松は何が望みで主人を殺したんだ。年に十二兩といふ大金を下さる主人だぜ」
「俺もさう言つたが、萬七親分は、力松の野郎は
「それでも力松が下手人だといふのか」
「三輪の親分には、別に考へがあるんだらう。それにしても
新吉はつく/″\さう言ふのです。ガラツ八の八五郎では、何んとしても力になりません。
「氣にするなつてことよ、此方で本當の下手人を擧げりや宜いんだらう」
「それだよ。――俺は隣の――田島屋の文次郎が怪しくて仕樣がないんだが」
「そいつを當つて見ようぢやないか」
「
「――」
「その上、あの日の晝頃、文次郎は裏の空地でお喜多と逢引してゐる。――あの晩、忍び込んで一と思ひにやらないとは限るまい、空地の上は直ぐあの東窓だ」
「
「その蜘蛛の巣が、新しくてやけに丈夫だ」
新吉はまた、蜘蛛の巣に頭を突つ込んでしまつたのです。
「兎も角、文次郎に逢つて見ようぢやないか」
ガラツ八は新吉を
背負呉服の細い商賣で、
「親分さん方、後生だからお話は外で願ひます。年を老つたお袋に苦勞をかけ度くはありません」
と手を合せぬばかりにするのです。
二十七八の苦味走つた好い男、血の氣の多い氣象者らしいところはありますが、それでも年寄の母の氣持を考へて、御用聞を外へ誘ひ出すと言つた心やりはあります。
「あの日お前はお喜多さんと逢つてゐた相ぢやないか」
「へエ――」
新吉の問は
「まだお前達は附き合つてゐたのか」
「へエ――、面目次第も御座いません。――親御(金右衞門)のお
「お前は吾妻屋を
「へエ――」
お喜多の父親に對する怨みとも
「あの晩お前は何處へ行つて居たんだ。夕方から留守だつた相ぢやないか」
「少しばかりの
「掛は、何處と何處で集めたんだ。――風呂は何處のだ」
「さア」
文次郎は困惑した樣子です。
「數の多いことですし、度々のことで、よくは覺えては居ません」
「思ひ出して置くが宜い。その證明が立たなきや、お前にも人殺しの疑ひが懸るよ」
「――」
文次郎の顏はサツと血の氣を失ひましたが、それつきり口を
蜘蛛の巣さへなければ、この男を助けて置くのでは無かつたと言つた不思議な
「八五郎さんは」
飛込んで來たのは、『娘御用聞』のお品と、田島屋文次郎の母親でした。
「お品さん、何んか變つたことでも――」
八五郎は頼まれ事の
「新吉が文次郎さんを縛つてしまひましたよ。おつ母さんに泣き込まれて、私も弱つてしまひました。新吉へ彼れ
お品は餘程困つた樣子です。その後から、
「八五郎親分、伜を助けて下さい。伜は氣の早い男だけれど、お喜多さんのお父さんを殺すやうなそんな惡い人間ぢやありません。新吉さんは――、あの晩伜が何處に居たか、はつきりしないから怪しいつて言ふさうだけれど、私はよく知つて居ります。伜はお喜多さんに呼出されて、裏の空地で話して居たんです」
涙乍らに言ふ老母の言葉の、妙に辻褄の合つた眞實性が、八五郎の胸に
「よし、行つて見るとしよう、何んかの間違ひだらう」
飛出した八五郎は、一氣に石原町へ――、利助の家には、幸ひ新吉も居りました。
「新吉兄哥、大變なことをやつたんだつてね」
八五郎の調子は頭ごなしです。
「何が大變」
新吉は少し
「文次郎を擧げた相ぢやないか。――あの男は下手人ぢやあるまい、現に
「俺もあの蜘蛛の巣に頭を突つ込んで、三日といふものを無駄に過したんだ。ところが、その間に三輪の萬七親分は、力松を
石原の利助の
「それでも蜘蛛の巣が――」
「蜘蛛の巣は――八五郎親分も知つての通り、新しくて綺麗だつた。前の晩張つたものに違ひない――あの邊は陽當りが良いから、どうせ陽のあるうちに蜘蛛は働く氣遣ひはない。八五郎親分に
「――」
「文次郎は薄暗くなるのを
新吉の顏には
「こいつは弱つたなア」
見掛けに寄らぬ弱氣の八五郎は、神田に歸るに歸られず、そのまゝ、ろくなお小遣もない癖に、親分の平次を迎ひに、品川の方へ
× × ×
川崎で平次に逢つた八五郎は、其儘
「待ちなよ、何んといふ事だ。長い旅から歸つたばかりぢやないか。女房も待つて居るだらうし、こんな顏でも見せて安心さしてよ、それから出直したところで遲くはあるまい」
そんな事を言ふ平次も、到頭ガラツ八の熱心に負けてしまつた事は言ふ迄もありません。
吾妻屋へ
自分の家へ歸つて、一と風呂浴びて來て、久しぶりで一本、女房の
「親分、石原町の吾妻屋殺しはどうなつたんです」
「心配するな、もう解つたよ」
「下手人は」
「これだよ」
平次が
「その扱帶が下手人?」
八五郎の驚きやうはありません。
「さうだよ。――お前には解るまい、ざつと話さう。力松が下手人なら、僞の證據をうんと拵へて置くよ。庭へ
「――」
「文次郎はあの晩東窓の下の空地でお喜多と逢引して居たんだ。何處に居たか言はれなかつた筈さ。あの男は好きな女の父親を殺すほどの惡人ぢやない。――それに
「すると」
「下手人は此
「すると」
「
「切れた
「翌る朝あの部屋へ一番先に入つた下女のお石が隱したのさ。見覺えのあるお孃さんのお喜多の扱帶で主人が絞め殺されて居ると思ひ込んだんだ。何が何んでも、こいつは隱さなきやなるまいと思つた」
「力松や又次郎が縛られて默つて居たのは?」
「二人共萬に一つ
「するとどうしたものでせう」
「放つて置くが宜い。お石ぢやないが力松と文次郎はもう歸るだらう――。歸らなきや明日にも八丁堀へ行つてやらう。三輪の親分や新吉兄哥に
平次は杯をあげて、カラカラと笑ふのでした。下手人を出さなくて如何にも良い心持さうです。