錢形平次捕物控

佛喜三郎

野村胡堂





「八、久しく顏を見せなかつたな」
 錢形の平次は縁側一パイの三文盆栽ぼんさいを片付けて、子分の八五郎の爲に座を作つてやり乍ら、煙草盆を引寄せて、甲斐性のない粉煙草をせゝるのでした。
「へエ、相濟みません。ツイ忙しかつたんで――」
「金儲けか、女出入か」
からかつちやいけません」
「まさかあの案山子かゝしが差したやうなのにつてゐるんぢやもるまいな」
「何んです、その案山子に魔がさしたてエのは」
「白ばつくれちやいけない、踊だよ。水本賀奈女かなめとかいふのが、大變な評判ぢやないか。お前の伯母さんの近所に住み着いて、二年ばかりの間に町内の若い男をすつかり氣狂ひにしてしまつたといふ評判だぜ」
「へツ」
「變な聲だな、すつかり言ひ當てられたらう。――惡い事は言はないから、あれだけは止す方が宜いぜ。縮緬ちりめんの手拭なんか持つて歩くと、野郎は段々縁遠くなるばかりだ」
「それですよ、親分」
「何がそれなんだ。眼の色を變へて膝なんか乘出しやがつて」
「その水本賀奈女師匠が、思案に餘つて錢形の親分さんにお願ひして、ちよつとれて來てくれと――」
 ガラツ八の八五郎は、急に居住ひを直して、突き詰めた顏になるのです。
「御免かうむるよ、踊の師匠の用心棒は俺の柄にないことだ」
 平次は自棄やけに煙管を叩くと、煙草のけむりを拂ひ退けるやうに手を振るのでした。
「でも、水本賀奈女師匠が人にねらはれてゐるんですぜ。幾度も/\變なことがあつたんで――、怖くてかなはないから――」
「變なこともあるだらうよ。近頃は向柳原へ行くと、男達は皆んな魔がさしたやうにソハソハして居るつていふぢやないか」
 平次はまるつ切り相手になりません。
「親分」
「もう澤山だ、歸つてくれ。――水本賀奈女にさう言ふが宜い、踊の師匠の看板かんばんを外して、紅白粉べにおしろいを洗ひ落し、疣尻卷いぼじりまきにして賃仕事でも始めて見ろとな。世の中に怖いことがなくなるぜ」
 ガラツ八はスゴスゴと歸つて行きました。まさに一言もない姿です。
 しかし、事件はこれを切つかけに、大變な發展をしてしまひました。それから三日目の夕方――。
「さア、大變ツ、親分」
 息せき切つて飛込んだガラツ八。
「今日の大變は荒つぽいやうだな、何が始まつたんだ、八」
 平次は相變らず驚く樣子もなく植木のから眼をらさうともしません。
「師匠がめ殺されたんですぜ、親分」
 ガラツ八は少し喰ひ付きさうです。
「水本賀奈女かなめがかい?」
「だから言はないこつちやない、あの時親分が行つて下されば――」
「怒るな八、殺されたのは氣の毒だが、岡つ引が十手を突つ張らかして、評判のよくない踊の師匠のところへ行けるか行けないか、考へて見ろ。一體どうしたんだ」
「可哀想ですよ、親分。――晝湯から歸つて來て、大肌脱おほはだぬぎになつて化粧して居るところをやられたんだ」
「誰も居なかつたのか」
「内弟子のお秋は味噌漉みそこしを下げて豆腐たうふか何んか買ひに出かけた留守。――曲者は表の格子を開けて入つて、後ろから――、そのまゝ裏へ拔けた樣子で」
 ガラツ八の話は手眞似が入ります。
「兎も角行つて見よう」
 平次は立ち上がりました。


「野郎ツ、來やがれツ」
「何をツ、おめえこそ逃げるなツ」
「その手を離せ、畜生ツ」
「誰が離すものかツ」
 からみ合ひ、いがみ合ひ乍ら、旋風せんぷうのやうに路地を入つて來た二人の若い男、錢形平次が出かけようとする出會ひ頭、開けた格子の中へ二匹の猛獸のやうに飛び込んだのです。
「あツ、何んといふ事をするんだ」
 さすがにひるんだ錢形平次。
「親分、此野郎だ、師匠を殺したのは」
「何をツ、人殺しは此野郎に間違ひはねエ、あつしが此眼で見たんだから」
 二人はまた齒をき出して、新しい爭ひを捲き直すのでした。
「半次に助七ぢやないか、こいつは一體どうした事なんだ」
 ガラツ八の八五郎は、二人の間へ割つてはひつて、何うやら彼うやら引離し、二頭の高麗犬こまいぬのやうに平次の前にゑました。
「ね、八五郎親分。此半次の野郎が、師匠に振り飛ばされて、うんとうらんでゐたことは、親分も知つての通りだ」
 と助七、
「何をツ、師匠を死ぬほど怨んでゐたのはうぬぢやないか」
 とやり返す半次。八五郎はやうやくそれをなだめて、兎も角も二人の言ひ分を盡させました。
 そのこんがらかつた二人の言葉を整理して聽くと、半次は――ツイ先刻、賀奈女の家の木戸から庭へ廻つて、何心なく聲を掛けると、當の賀奈女は大肌脱になつたまゝ、鏡臺の前に倒れ、助七が次の間――入口の三疊でまご/\して居たと言ひ、一方助七に言はせると、師匠に用事があつて、入口から聲を掛けたが返事がない、心易立こゝろやすだてに入つて次の間を覗くと、賀奈女は絞め殺されて、縁側に半次がウロウロして居た――といふのです。
 それから騷ぎになつて、折柄通りがかりの八五郎が飛込み、錢形平次に報告されましたが、半次と助七は、日頃の鞘當筋さやあてすぢで、これを切つかけに憎惡が燃え上がり、『お前だ』、『いやうぬだ』、『何をツ』、『錢形の親分のところへ來いツ』と、もつれ合ひ乍ら、到頭此處まで練り込んで來たと言ふのです。
「よし/\、二人で相談してやつたんでなきや、二人共下手人げしゆにんぢやあるめえ。――少し落着いて話せ」
 平次は漸くいきり立つ二人を宥めました。二人で相談して賀奈女を殺し、二人で相談してこんな芝居を打つといふ微妙びめうな細工は、半次や助七の智惠では出來さうもなく、それほど深いたくらみがないとすれば、お互に疑はれた業腹さで、相手より強く/\とのしかゝつて爭ひ續けてゐたのでせう。
 半次は床屋の下剃したぞりで二十三、助七は質屋の手代で二十七、どちらも若くて無分別で、水本賀奈女のあやつあやしい糸のまに/\、平次の所謂いはゆる魔のさした案山子かゝしのやうに踊つてゐた仲間です。
「ところで、二人が表と裏から入つて行くとき、誰にも逢はなかつたのか」
 平次はあらためて問ひました。
「逢やしませんよ。――だから此野郎が殺したに違げえねエと――」
 半次がまくし立てると、
「逢つたのは、このひよつとこ野郎だけですよ、親分」
 助七も敗けては居ません。
「もう宜い、二人が喧嘩をしてゐるうちに、本當の下手人は何んな細工をするか解らない――歩きながら聽くとしよう」
 平次は半次と助七を引つ立てるやうに、薄暗くなりかけた街へ飛出し、向柳原へ急ぎ乍ら續けました。
「――二人は別として、水本賀奈女かなめをうんと怨んでゐた者が他にあつた筈だ、心當りはないのか」
「そりや、澤山ありますよ」
たとへば?」
「師匠と一年でも半歳でも一緒に暮した、伊勢屋新兵衞などは、良い身上しんしやうつぶした上、女には棄てられ、女房には死なれ、日傭取ひようとりのやうなことをし乍らそれでも遠くへも行かず、賀奈女の阿魔が誰かに殺されるのが見たいと、恥を棄てて町内に噛り付いてゐますよ。なアに、有りやうは、他所乍よそながら師匠の顏が見てゐたいんで――」
 助七はそんな事を言ひ乍ら、ニヤリニヤリと笑ふのです。


 向柳原の水本賀奈女かなめの家といふのは、町の懷ろの中へしまひ込んだやうな深い路地の奧で、小體乍ら裕福に暮してゐたらしく、みがき拔いた格子にも、一つ/\の調度にも、妙に艶めかしさと不健康な贅澤さとが匂ひます。
 家は入口の三疊の外に、賀奈女が殺されてゐた居間の六疊、あとは踊舞臺を置いた八疊と、納戸なんど代りに使つてゐる暗い三疊、それに臺所だけ。灯りを一パイに點けて、ザワザワと人が集まつて居りますが、あんなに喰ひ附いてゐたおほかみ連は薄情にも顏を見せず、町内附合ひで仕樣事なしの老人達が、型通りの仕度をとゝのへて檢屍を待つて居るのでした。
「おや、錢形の親分」
 ほぐれる人の渦の中へ、平次は入つて行きました。死體はまだそのまゝ、鏡臺はハネ飛ばされて、座布團の上から引摺ひきずりおろした恰好に、賀奈女の死體は横たはつて居ります。
 骨細ですが、よく引緊ひきしまつた肥りじし、――所謂いはゆる凝脂が眞珠色に光つて、二十五といふにしては、處女のやうな美しい身體を持つた女です。
 首に卷いたものは、赤い扱帶しごきでもあることか 無殘な荒繩。
「フーム」
 錢形平次は死體の顏を一と眼、思はずうなりました。これが八丁荒しと言はれた魅力の持主で、神田中の若い男々氣狂ひのやうにしたとは思はれない惡相です。
「本性が出たんだね、親分。――怖いものぢやありませんか」
 八五郎は囁きます。
「お前も講中の一人だつたぢやないか――うなりや佛樣だ、惡く言つちや濟むめえ」
 平次は有合せの浴衣を顏へ掛けてやつて、神妙に双掌もろてを合せるのでした。
「さう思つて、先刻からふんだんに線香を上げてますよ」
 無駄を言ひ乍らも、二人は念入りに家の中を調べ、死體の位置と、出入口の關係を見、集まつた人達の噂などを集めました。
「なくなつた物は一つもなし、――家の中には少し泥が落ちてゐた――もつともこれはわざとやつたのかも知れない――。繩も何處にでもある、三つ繰りの藁繩わらなはだ。――後ろから近寄るのに氣が付かない筈はないから、知つてる者に違ひあるまい――。多分振り向きもせずに、鏡の中でニツコリしたんだらう。其處を――」
 錢形平次は殘された事情の上に、見事な假想を組み立て乍ら、犯罪の現場を再現して行くのです。
「親分、下手人の見當は?」
「待て/\、――路地の外は天下の往來だ、人通りは澤山ある。夕方路地を入つた人間を一々覺えて居る人はあるまいからいても無駄だ。庭から裏へ拔けると路地を通つて横町へバアと出る。左手は横田若狹わかさ樣のへいか、五千五百石の御旗本だ。其處へ消えるはない――。先づ表から入つて、賀奈女かなめを殺して、裏へ逃げたと見るのが本當らしいな。直ぐその後へ半次と助七が裏表から來て鉢合せをした。――ところで内弟子のお秋を呼んでくれ、少し訊き度いことがある」
「へエ」
 間もなく八五郎に引立てられて來たのは、十六七の踊の弟子といふよりは、摘綿つみわたの弟子によくある型の、少し野暮つたい、そのくせ存分に氣取つた、頑丈な娘でした。
「お前か、お秋といふのは?」
「ハ、ハイ」
「先刻あの騷ぎのあつた時、何處に居たんだ」
「あの、豆腐とうふを買ひに出ました」
「その豆腐は何處にある」
「お勝手に置いてあります」
「よし/\持つて來なくつたつて宜い。――ところで、路地を入つた時誰にも逢はなかつたのか」
「え」
「家に入つた時、一番先に眼についたのは何んだ」
「半さんと助さんが、睨み合つてゐました。そして、氣が付くとお師匠さんが――」
「泣かなくつたつて宜い」
 シクシクと手放しで泣出すのを、平次は少し持て餘し氣味です。
「あの――」
「何んだ」
「殺したのは誰でせう」
「そいつはわからないが、――お前には良い師匠だつたのか」
「――」
 お秋は默り込んでしまひます。
「下手人を擧げるためには、いろ/\訊き度いことがある、正直に言つてくれるか」
「え」
「第一番に、師匠――賀奈女をうんとうらんでゐたのは誰だ」
「伊勢屋さんですよ。往來で私の顏を見ると、師匠はまだ生きて居るか。――なんて言ふんですもの」
「他には」
「さア」
「此處へ一番よく來たのは誰だ」
「半次さんと助七さんですよ。どんな日も一度づつは來ました。多い時は二度も三度も――」
「大層精が出るんだな」
 平次はガラツ八を振り返ります。これもどうかしたら日參した口かもわかりません。
「へツ」
 八五郎はその視線をけるやうに首をちゞめます。この小娘が何を言ひ出すか、危なくて危なくてたまらない樣子でした。


 近所の衆から一と通り訊きましたが、何んの手掛りもなく、路地を入つた者も出たものも、半次、助七、お秋の外には見たものもありません。
 それに、死人に對する遠慮があつたにしても、水本賀奈女かなめの評判はまことに散々です。
「これだけ評判が惡いと、死に花ですね。――皆んなをこんなに喜ばせるんだから」
 ガラツ八はまた飛んでもない事を言ひます。
「馬鹿野郎、何んといふ口をきくんだ」
「へエ」
 ガラツ八の無遠慮な口をたしなめ乍ら、その晩は引揚げる外はありません。
 翌る日、朝の内に賀奈女の家へやつて來た平次は、思ひも寄らぬ事を發見しました。
「八、此處は路地の奧で何處からも見えまいと思つたら、横田若狹わかさ樣邸内の火の見やぐらから一と眼だね。――昨夜は暗くて氣が付かなかつたが――」
 縁側に立つた平次は、左手に近々と建つてゐる、火の見櫓を見上げるのでした。
「賀奈女もそれを氣にしてゐましたよ。でも、あの調子だから、火の見櫓から見下ろされるのを承知で大肌脱か何んかで化粧してゐたんでせう」
 とガラツ八。
「横田樣の火の番をお前知つてるか」
「喜三郎といふのが居ますよ。伊勢屋の死んだ女房の親爺おやぢで、佛喜三郎と言はれる好い人間で」
「行つて會つて見ようよ」
 平次は其處から直ぐ、横田若狹の邸内――板塀とすれ/\に建てた火の見の下にやつて行きました。賀奈女の部屋から二十間とは離れて居ません。
 八五郎に聲を掛けさせると、氣さくに、
「ほい、何んか用事かい」
 さう言つて裏木戸から顏を出したのは、五十七八の馬面うまづらの老人、大して賢さうではありませんが、その代り此上もなく人は好ささうです。
「お前は喜三郎といふんだね、あつしは、平次だが――」
「へエ、よく存じて居ります。錢形の親分で」
「早速だが、昨日隣の踊の師匠のところに騷ぎがあつたんだが――」
「さうですつてね、實はあつしも少し引つかゝりがあつて、あの師匠を怨んでゐましたが、天罰てんばつと言つちや濟まないが、――恐ろしいことですね」
「引つ掛りといふと」
「なアに、大したことぢやありません。伊勢屋の死んだ女房が、私の娘で、へエ――」
「さうか」
 平次も相手の正直さに、反つて話の腰を折られた形です。
「ところで、御用と仰しやるのは?」
 喜三郎はわだかまりのない長い顏を擧げます。
「火の見からはよく見えるだらうと思ふが、昨日何んか變つたことがなかつたのか」
「いろ/\見えましたよ。私はこんな稼業かげふをしてゐる位ですから、年にしちや眼の良いのが自慢で、師匠が毎日晝湯へ入つて來て、大肌脱で化粧する圖には當てられ續けて居りますが――」
「昨日は」
「相變らず鏡の中の自分の容貌きりやうに見とれ乍らせつせとみがいてゐましたよ。そのうち、表から誰か來た樣子で、師匠は坐つたまゝニツコリして、聲を掛けると、男の人が入つて來ましたよ――あの愛嬌は大したものですね。その先をよく見てゐると私の手柄になるんですが、障子を半分締めてゐるので、何が何やら解りません。暫く私も眼をらして、違つた方角を眺めて、ヒヨイト眼を返すと、頬冠ほゝかむりをした中年の男が座敷から庭へ飛び降りて、追つかけられるやうに裏の方へ駈けて行くぢやありませんか」
「その顏を見なかつたのか」
 平次は少しじれ込みます。
「色の黒い、背の高い頑丈な男で」
「身なりは?」
「茶がかゝつた萬筋まんすぢの古い袷のやうでしたが」
「それつ切りか」
「その男が見えなくなると、半次さんと助七さんが裏表から入つて、いきなりいがみ合ひを始めましたよ。あれは大笑ひで、へツ/\」
 喜三郎の笑ひはゆがみます。


「色が黒くて、背が高くて、頑丈で、茶がかつた萬筋の古袷を着てゐるのは誰だえ」
 平次は家へ入つて來ると、近所の衆に訊きました。
「そいつは伊勢屋さんぢやありませんか。――師匠と一緒に暮した伊勢屋新兵衞そつくりですよ」
「その伊勢屋は今どうして居るだらう」
「家は近所ですが、二三日見えませんよ」
 口は大抵揃ひます。
 早速八五郎を出してやつて、心當りをくまなく搜させましたが、伊勢屋新兵衞は何處へ行つたか、日が暮れるまで到頭見付かりません。
 この伊勢屋新兵衞といふのは、かつては向柳原の大きな雜穀問屋で、三四代續いた老舖しにせでしたが、主人の新兵衞がお今といふ女房があるのに、水本賀奈女かなめに夢中になり、一年ばかり一緒に住んでゐるうちに、數千兩の身代を費ひ果した上、賀奈女には小氣味よく捨てられて、スゴスゴと自分の家へ歸つた時は、女房のお今は重なる苦勞に打ちひしがれ、もう起つことも出來ない重態だつたのです。
 その後間もなくお今は死にました。事情が事情だつたので自殺だといふ噂も立ちましたが、事實はひどい懊惱あうなうと貧苦のために、癆症らうしやうが重くなり『歸つた夫』を迎へて、もう一度以前の平和な生活を樂しむことも出來なかつたのです。
 その日も何んの發展もなく暮れて、平次が引揚げの支度をして居る時、
「親分、伊勢屋新兵衞が來て、入口で威張ゐばつてますよ」
 近所の衆が苦々しく取次いでくれます。
「構はないから、此處へ通さう」
「大丈夫ですか、少し醉つてるやうですから、佛樣の前で何を言ひ出すか、わかりませんよ」
「言はせるのも功徳だらうよ」
 ガラツ八は心得て行くと、間もなく三十二三の色の黒い頑丈な男を連れて來ました。――高い背、よれ/\の茶萬筋の袷――。
「あ、錢形の親分」
 伊勢屋新兵衞の顏には、一しゆん躊躇ちうちよの色が浮びましたが、思ひ定めた樣子でくわんの側に近づくと、暫く物も言はずに突つ立つて居りました。やがてどつかと膝を突くと、線香を一と掴み、ムラムラと立ち昇る煙の中にガツクリ首を垂れました。
 念佛一つとなへるでも、拜むでもありませんが、中年男の眼からは、大粒の涙がボロボロとこぼれます。
「見ろ言はないこつちやない――」
 新兵衞の唇からは、罵倒ばたうといふよりは、泣言とも愚痴ぐちともつかぬ言葉が突いて出ました。
「――俺があれほど言つたぢやないか、――私がゐなきや、生きてゐられないといふ男が、町内だけでも十人はあるとお前が言つたが、――見るが宜い、お前が死ねば、一人も顏を出しやしない、皆んな此先呑氣に生きて行ける證據だ。――俺はな、この伊勢屋新兵衞はな、お前がこんな姿になるのを、此眼で見たいばかりに、家も身上しんしやうくしてしまつた町内に、耻を忍んで踏み止つてゐたんだぞ。――馬鹿なツ」
 伊勢屋新兵衞は吐き出すやうに言ひ終つて、線香をもう一と掴みくゆらし、さて平次の方を振り返つてピヨコリお辭儀をするのです。
「伊勢屋、お前は泣いてるぢやないか、矢張り悲しいのか」
 平次はそれを迎へて言ひます。
「悲しい? 冗談でせう、馬鹿々々しくつて、可笑しくつて、涙が出ますよ」
「さうかなア」
「私はね、親分。此女のために、町内一番の身上しんしやうをいけなくして、こんなざまになりました。皆んな私の不心得から出たことで、身上なんざ、どうなつたつて構やしません、私一人が耻さへ忍べば、又かせいで溜める工夫もあります。たゞね、親分、――」
「――」
 伊勢屋新兵衞はガツクリ頭を下げると、又も黒く痩せた頬を、涙がハラハラと洗ふのです。
「私の道樂を苦に病んで、死んで了つた女房が可哀想でなりません」
「――」
「親分、私は、金や身上なんざどうなつたつて構やしません。女房さへ達者で生きて居てくれたら、死んだ氣になつて又稼ぎ溜め、元の伊勢屋の半分でも三分一でもこさへて、あの――馬面の見つともない女房――その癖佛樣のやうに氣の良い女房に、安心をさせてやり度かつた――、それが口惜しくて泣くんですぜ、親分」
「――」
「女の中にも賀奈女のやうな、自分の容貌と才智と愛嬌に自惚うぬぼれ切つて、世間の男を夢中にさせ、それが嬉しくてたまらない樣なのもあれば、――見つともなくて、無口で無愛嬌で、自分の亭主へ意見一つ言ふことも出來ず、そのくせ佛樣見たいな素直な心持で、默つて死んで行くお今のやうな女もあります」
「――」
「賀奈女のために死んだ男や女は二人や三人ぢやねえ。内弟子のお秋さんの許婚いひなづけだつて、やつぱりその一人――」
「何? お秋の許婚がどうした」
 平次は聞きとがめました。
「そんな噂もありますよ。町内の衆だつて、賀奈女の容貌と愛嬌と踊には感心し乍ら、腹の中ぢやぎつねだと思つてゐる。――死んだつて泣く者なんか一人もねえ、ザマア見やがれ」
「――」
「私は賀奈女の死んだのさへ此眼で見れば、もう思ひおくことはない。死んだ氣になつて働いて、もう一度伊勢屋の身上を建て直し、あの世の女房に見せてやりますよ。――女房はそればかり言ひ續けて死にました。――私はうなつても誰も怨みはしない。お前さんさへ元のお前さんになつてくれゝば、唯私達の代になつて伊勢屋をつぶしたとあつては、あの世へ行つても御先祖樣に合せる顏はない。お願ひだから、死んだ氣になつて働いて、元の身上の半分でも拵へて下さい――つて」
「――」
「私は坊主になつた氣で働きますよ、――賀奈女にもいよ/\これで縁切りだ。心の隅に殘つた未練みれんも、さつぱりとなくなつてしまひました。それぢや親分」
 歸つて行く伊勢屋新兵衞、ガラツ八がいくら眼顏で知らせても、平次は縛らうとも呼び戻さうともしません。


「お秋は? 親分」
「あの女ぢやない、許婚がどうしたか知らないが、――あの女ではあるまいよ」
「師匠を殺して置いて、豆腐を買ひに出たんぢやありませんか、その後へ半次と助七が來たとしたら」
 八五郎もなか/\うまいところを考へます。
「あの女には、荒繩で賀奈女は殺せない。賀奈女の方が力も才智もある。――それに、師匠を殺して、豆腐を買つて來る膽力たんりよくはあるまい。――豆腐はちやんと買つて來てゐる。――本當に殺す氣なら、まだ外に折があつた筈だし、もう少し騷ぎ立てるわけだ」
「そんなものですかね」
「それより、庭へ喜三郎が來てゐるぢやないか、――外へ出て話を聽かう――。八、お前も一緒に來るが宜い」
 平次は草履ざうりを突つかけて、大急ぎで庭へ出ました。生暖かい春の宵、朧乍おぼろながら屋並の上には月も出て居ります。
 ポクポクと影を引く老人の後に跟いて、平次と八五郎は河岸ツ端まで歩きました。
「親分さん、よく氣が付きましたね」
「それは稼業だもの」
 迎へるやうに立止つて淋しく笑ふ喜三郎、平次はその影の前の捨石に腰をおろしました。
「私は今朝飛んだことを申上げてしまひました。――賀奈女を殺した者を見たなんて、あれは皆んなうそで御座いますよ」
「――」
「私はあの時火の見やぐらから降りて居ました。何んにも見たわけぢや御座いません」
 喜三郎老人の話は飛んでもないものでしたが、それを聽く平次は、別に驚く樣子もありません。
「さうだらう、お前の言ふことはあんまり明瞭めいれう過ぎたよ。いくら眼がよくつたつて、火の見の上から鏡の中の賀奈女の顏がニツコリ笑つたのが見える筈もないし、頬冠りの男の顏の色まで判る筈はない」
「私は伊勢屋が憎かつたので御座います。あんな良い娘をもだえ死にさせた婿の新兵衞が憎くてたまらなかつたので御座います」
「お前は伊勢屋を賀奈女殺しの罪におとしたら死んだ娘のお今が歎くだらうと氣が付かなかつたのか。――お前の娘乍ら、伊勢屋の女房は貞女だつた」
 平次の調子は低いが身にみます。
「面目次第も御座いません。親分さん、私は先刻さつき、庭に立つて伊勢屋の話を聽いてしまひました。見下げ果てた男だと思つた婿の伊勢屋新兵衞が、私などよりは餘つ程良い男と判つて、私は穴へでも入り度い心持で御座いました。一たんのあやまちから、賀奈女などにおぼれたのは、惡いには違ひありませんが、死ぬ程の目に逢ひ乍らそれを許してやつた娘も立派なら、今となつて娘の貞女に思ひ當り、死んだ氣で働かうといふ伊勢屋も立派な男で御座います。それに比べると。私は、私は――」
「あ、待つた」
 言ふ間もありませんでした。駱駝らくだのやうな感じの喜三郎老人は、思ひの外敏捷びんせふに立ち上がると、平次と八五郎が留める間もなく、身をひるがへしてざんぶと川の中へ――。
「八、飛込め」
 朧月おぼろづきが影をくだいて浮きつ沈みつする喜三郎。
「駄目だ、あつしは御存じの徳利で」
「仕樣のない奴だ、泳ぎ位は稽古して置け」
 クルクルと裸になつた錢形平次は、場所を見定めて同じ春の水へパツと飛込んだのです。
        ×      ×      ×
 それから十日二十日と日が經ちますが、踊の師匠水本賀奈女かなめを殺した下手人は到頭擧がらず、平次は神田ツ子と八丁堀の役人から散々小言を言はれ乍ら、尻をあげようともしません。
「親分、賀奈女殺しはどうしたんです?」
「解つてるぢやないか」
 八五郎の鼻のキナ臭いのを、平次は面白さうに見て居るのでした。
「ちつとも解りませんよ、――下手人は誰でせう」
「西國巡禮に行つたよ。――お前も餞別せんべつを一朱はずんだぢやないか」
「えつ、あの火の番の喜三郎?」
「野暮な聲を出すなよ。聽いてるのは幸ひお靜だけだが――」
「本當ですか、親分。どうして縛らなかつたんで」
「一度水へ飛込んで亡者になつたぢやないか」
「へエ――」
「誰にも言ふな。――もつとも西國三十三ヶ所の靈場を廻つて、何處で死ぬか判らないから、二度と江戸には歸らないと言つてゐたが」
「呆れたね、あれが下手人で、へエ――」
「何を感心するんだ。あの親爺は娘の敵を討つ氣だつたのさ。婿むこの伊勢屋をあんなにして、娘を殺したのは、賀奈女の仕業と思ひ込んでゐたんだ。その化狐の賀奈女が、毎日ぬけ/\と晝湯へ入つて、年寄の喜三郎を馬鹿にしたやうに、眼の前で大肌脱になつて化粧してゐるんだ。この女のために、何人の男が身上しんしやうつぶし、何人の女が命を捨てたかも知れない。此先もまだ/\あの樣子では罪を作るだらう。さう思ふとたまらなかつたんだらう。火の見やぐらから降り、木戸を開けて庭に入つて行くと、賀奈女は相手の氣も知らずに、ニツコリして愛嬌を振り撒いたんだらう。さう言つた女だ。木戸の外には荒繩がうんとある。後ろ向になつて合せ鏡をするところを、喜三郎はムラムラとなつて飛込んで殺してしまつたんだらう」
「へエ――」
 八五郎はきもを潰してばかり居ります。
「現場を見極めた證人(目撃者)だと思つたから、俺も最初は少しも疑はなかつた。が、伊勢屋が憎くて言つたこしらへ事に、おやと思つた」
「――」
「あとは知つての通りさ。――意見を言ふわけぢやないが、容貌と愛嬌と才智だけで何んでもやり遂げようと思ふ女には氣をつけろよ。ハツハツハツ、まアさう言つたやうなわけさ。恐ろしく突き詰めた顏をするぢやないか、八」
 平次はさう言つてカラカラと笑ふのです。





底本:「錢形平次捕物全集第十七卷 權八の罪」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年10月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1943(昭和18)年4月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード