「親分、元飯田町の騷ぎを御存じですかえ」
「何んだい、元飯田町に何があつたんだ」
ガラツ八の八五郎がヌツと入ると、見通しの縁側に
江戸中に
「なアに、つまらねえ物盜りなんだが、怪我人があるから、
ガラツ八がつまらねえと片付ける事件に、飛んだ大物のあることを平次は時々經驗して居ります。
「大吉親分がやつきとなるやうぢや馬鹿にはなるまいよ。誰が怪我をして、何を
「元飯田町の加島屋――親分も御存じでせう」
「後家のお嘉代といふのが荒物屋をやつて、内々は高利の金まで廻してゐるといふ名題の
「その加島屋へ宵泥棒が入つたんで」
「フーム」
「手代の與之松は使ひに出た留守、伜の文次郎は町内の風呂、娘のお桃はお勝手でお仕舞の最中、後家のお嘉代がたつた一人で金の勘定を濟ませ、
「財布にいくら入つてゐたんだ」
「三百兩といふ大金ですよ」
「それからどうした」
「物音に驚いてお勝手から娘のお桃が飛んで來ると、母親は血だらけになつて眼を廻してゐる。曲者は
「八五郎なら叔母さんから貰つたお中元の小錢でも、用心深く便所の中へ持込んで勘定する」
「冗談でせう」
「ところで加島屋の
相變らず冗談を
「ひどい傷だが、氣丈な女で、手當をさせ乍ら、いろ/\指圖をしてゐますよ。外科の話ぢや、唯突いた傷なら急所を
「僞者の姿を見なかつたのかな」
「チラと見たやうな氣がするが確かなことは判らないといひますよ」
「それつきりぢや仕樣が無い。兎も角、暫くの間見張つてゐるが宜い。
「何を見張るんで? 親分」
「三百兩の金を易々と盜つた手際は、充分狙つた仕事だ。加島屋の家の者と、出入の者、それから近所の衆に氣をつけるが宜い。もう少し念入りにするには、伜のなんとか言つたな――」
「文次郎ですよ。先妻の子で、お嘉代には繼しい仲だが、一寸好い男で――
「その文次郎の出入りを調べて見るが宜い。繼母との仲が良いか惡いか、金の要ることは無いか、騷ぎのあつた時刻に、本當に風呂に行つてゐたかどうか、
「へエ――」
「
「へエ――」
「
「へエ――、判つたやうな判らねえやうな、まア行つて見ますよ、親分」
そんな心細い事を言ひ乍ら、ガラツ八はもう一度元飯田町へ飛んで行きました。
この見かけの極めて
「サア、大變ツ、親分」
ガラツ八の八五郎が飛込んで來たのはそれから二日目でした。
「到頭大變が來やがつた。皿小鉢を片附けるんだ、靜」
一向驚く樣子もなくそれを迎へる平次。
「落着いちやいけませんよ、親分。
「母親が刺された
「どうしてそれを? 親分」
「そんな事だらうと思つたのさ。それから何うした」
「文次郎も若い盛りだから、少しは借金があるやうで」
「それで母親の虎の子を狙つたといふのか」
「なアに借金は五兩や十兩で濟むが、日頃繼母のケチなのが氣に入らなくて、友達にもこぼし拔いてゐたといふから、つい疑はれるぢやありませんか」
「後家のお
「
「それで
「どんなに
「傷はどうだ」
「段々
「手代は?」
「與之松といふ遠縁の者で、――二十八といふ男盛りだが、少し足りない方で、使ひ走りと店番の外には役に立ちません」
「その日は確かに外に居たんだらうな」
「日本橋の店へ使に行つて、こいつは確かに留守でした」
「近所に變つたことは無いか」
「隣の九郎助といふのは町内での物持で、しもたや暮しをしてゐるが、人の物などに眼をつける人間ぢやありません。その娘のお菊といふのが文次郎と變な噂のある女で、これはちよいと
「
「後家のお嘉代は九郎助と仲が惡くて、若い二人の仲をあまり喜ばないさうですよ」
「八、誰か
不意に、平次は話半分にして、入口の方を覗くのでした。
「加島屋のお桃さんが來てゐますよ。親分に會つて、是非お願ひがし度いつて」
「なぜ入れないんだ。――つまらない遠慮ぢやないか」
「へエ――、會つて下さるんですか、親分」
「會ふも會はないもあるものか、俺にそんな
「へエ――」
驚いて飛んで出た八五郎、格子を勢ひよく開けて、バアと外へ顏を出しましたが、其處には誰も居ません。
「おや?」
「どうした八」
「居ませんよ、
「だから餘計な細工をするんぢやないと言ふんだ」
口小言を言ひ乍ら、平次も
「どうしたんでせう、親分」
「行つて見よう。なんか變つたことがあるのかも知れない」
平次と八五郎は、支度もそこ/\、お桃を追ふともなく、宵闇の中を、元飯田町まで駈けました。
加島屋の入口に差しかゝると、中から手代與之松に送られて出て來た、中年輩の武家と
「あれは?」
平次は與之松に訊ねました。
「中坂の御家人藤井重之進樣で」
與之松は答へます。これは二十七八の如何にも氣の拔けたやうな男です。
「用事は?」
「私には判りませんが、――へエ」
「よし/\、それぢや主人に訊かう、容體はどうだ」
「少し疲れたやうですが、大したことはございません」
さう言ふ與之松に案内させて、荒物屋の店の奧、
「お神さん、錢形の親分だよ」
八五郎が先廻りをして言ふと、
「あ、錢形の親分さん、有難う御座います。親分さんなら伜を助けて下さるでせう。お願ひでございます、親分」
「起きるんぢやない、――其儘が宜い、その儘が。――ところで、飛んだ災難だつたな、お神さん。三百兩といふのは容易ならぬ金だ、それを盜られた上
「有難う御座います。それもこれも私の油斷からで御座います。伜に疑ひがかゝるなんて、飛んでもないことで御座います」
繼母のお嘉代はひたむきに伜の文次郎の
「ところで、三百兩の大金は、不似合と言つてはをかしいが、
「大丈夫で御座います。お蔭樣で傷の方は一日々々快くなるやうで、もう少し位話しても障るやうなことは御座いません。それに、錢形の親分さんなら、是非お耳に入れて置き度いことも御座います」
お嘉代は熱心に平次を見上げました。
「フーム、俺も訊いて置き度いことがある」
「まづ、三百兩の金を用箪笥へ入れて置いたわけで御座います。それは、あの翌る日、その金をそつくり人樣にお渡しする約束が御座いました」
お嘉代は少し息が切れる樣子でしたが、それでも思ひの外元氣に續けます。
「拂つてやる先?」
「今しがた親分さん方は、店先でお武家樣にお逢ひぢやありませんか――立派なお武家樣に」
お嘉代は『立派』といふ言葉に力を入れました。
「逢つた、中坂の藤井なんとかいふ――」
「藤井重之進樣で御座います。三百兩の金は、あの翌る日、あの方に差上げる筈で御座いました。――私の油斷から、あの金を盜られて了つては、
お嘉代はさう言つて、ガツクリ首を垂れるのです。ぐつしより枕をひたす涙、人知れず今までも、幾度か泣いてゐたのでせう。
「それはどういふわけだ、お神さん」
「聽いて下さい、親分さん方、これには深い
「――」
手負乍ら、お嘉代の
「伜を武家にする手段は、此上たつた一つ、御家人の株を買ふ外は御座いません。が五十俵三十俵の御家人の株でも、御存じの通り三百兩は要ります。――それから十五年の長い間、私は喰ふものも喰はず、年頃の娘に着せるものも着せず、必死となつて金を溜めました。荒物を賣つた
「――」
「藤井重之進樣は、身にも命にも代へられない大事で、三百兩の金が入用だと申します。あの翌る日は、――今日から二日前に、あの三百兩をお屆けして、伜の文次郎を名儀だけの養子に屆出、藤井家の御家人の株を私が讓り受ける約束で御座いました。――三百兩の金が無くなつては、それも
藤井重之進が此處へ來たわけが、それで
「それは氣の毒だ。――が、まア氣を大きく持つが宜い。人の運が何處にあるかもわからず、御家人の株を買つたから仕合せになると限つたわけでもあるまい」
平次はさう言つた生温い慰めの言葉をくり返す外はありません。
「親分變なことになつたぢやありませんか」
ガラツ八は涙を横なぐりに拭いて、平次の後を追ひます。縁側から
「唯の荒物屋のお神さんと思つたのが間違ひさ、大した母親だよ。あの心持を聽いたら、
「へエ――」
「それから、中坂の藤井重之進といふ御家人も
「へエ――、それぢや行つて來ますよ、親分」
「待て/\八、變なものが落ちてるぢやないか、おや」
平次は庭の
「財布ぢやありませんか、親分」
「黄八丈の財布だ。中味はしつかり入つてゐる。この中に三百兩入つてゐると話が面白くなるぜ、八」
平次は財布を持つて、部屋へ引返しました。行燈の下には手負のお嘉代が、
「お神さん、盜られた財布はこれですかえ」
八五郎は聲を張りあげます。
「おや?」
お嘉代は半身を起しかけて、傷の痛みにそのまゝ床の中に埋もれました。苦痛と好奇と
「それですよ。盜られた財布はそれに相違ありません。何處から出て來ました、親分」
「庭の隅に落ちてゐたんで、――中には小判で確かに三百兩」
平次は
「三百枚――確かに三百兩」
平次は最後の一枚をチーンと鳴らします。
「そんな筈はありません。中に小判は二百九十二兩、八枚足りない分は、翌る日髮の道具と腰の物を賣つて三百兩になる筈で御座いました」
お嘉代の調子は
「考へ違ひぢやないかお神さん、小判は確かに三百兩あるんだが」
「いえ、二百九十二兩で御座いました。間違へやう筈はありません」
「さア判らねえ」
平次は高々と胸を組みました。その眞似をするともなくガラツ八も、
「すると、その八兩は何處から
「俺に訊いたつて判るものか」
「財布は確かに盜まれた品なんだね、お神さん」
と八五郎。
「それに間違ひございません、私が
「もう一度外へ出て見よう、八」
平次は八五郎を
して見ると、財布の持込まれたのは暗くなつてからで、あの事件があつてから、木戸はよく閉めて置くやうですから、外から投げ込んだものと見るのが當然です。
「盜る方には用心はあるが、金を投り込む方には用心は無い。こいつは大分わけがありさうだよ、八」
平次は八五郎を眼で
「御免よ」
遠慮なく表の格子を開けます。
「へエへエどなた樣で」
格子を開けて招じ入れたのは、五十二三の實體な男でした。
「俺は神田の平次だ」
「へエ、錢形の親分さんで」
「この財布を知つて居るだらうな」
「――」
九郎助の顏色はサツと變りました。
「親分さん、お疑ひは
九郎助は灯から顏を反けるやうに、たゞおろ/\と辯解するのです。見る影もない中老人で、半面に
「いや、隣のお神さんを刺したのはお前とは言はない。――あの晩まで木戸を閉めずに居たやうだから、
平次は九郎助の顫へる
「――それに、あの財布を盜んだ奴が投り込んだのなら、金高が二百九十二兩になつて居る筈だ。八兩多くなつて丁度三百兩入つてゐるのはどういふわけだ」
「――親分さん、それは――」
「まだ言ふのか九郎助。――お前は何處かで見た事のある顏だ――。その
平次に圖星を指されて、逃げ腰になる九郎助を、八五郎は後から追つ冠せるやうに押へました。
「恐れ入りました、親分」
「お前は
一時海道筋から江戸へかけて、惡名を
「恐れ入りました。錢形の親分さんと聽いて、あつしもう觀念して居りました。――でも七年前に惡事の足を洗つて――それからは人樣の物
涙と共に疊に額を
「人の物塵一つ盜らなくたつて、人の庭に三百兩も投り込むのは穩かぢやないぜ。どうしたといふのだ、七」
「親分、――親馬鹿で御座います、笑つて下さい」
惡黨らしくもなく、
それによれば、隣の伜文次郎と、自分の娘お菊との仲を薄々氣が付き乍ら、七助の九郎助は若い二人の心持を汲んで、とがめる氣にもならず、出來ることなら無事に
文次郎とお菊は、素より繼母の深い心も知らず、唯もうお嘉代の世にも
お菊の父親七助も、お嘉代の
間もなく
その時フト自分の家の庭の植込の中から、黄八丈の空財布を見付けました。多分お嘉代を刺した曲者が、盜んだ財布の中味を拔いて、生垣の中に空財布だけを突つ込んで行つたのを、犬でも
無くなつた金は大掴みに三百兩と聽いた七助は、その金が御家人の株を買ふ金であつたとも知らず、
「恐れ入りました親分、人の爲め惡かれと思つてやつた事ではございません。娘可愛さに飛んだことをして了ひましたが、どうかお許しを願ひます」
「人の物を取るのも惡いが、無分別に人へ金をやるのも良い事では無いよ」
「へエ――」
「ところで、あの晩、隣の荒物屋に入つた曲者を、お前は見て居る筈だと思ふが」
七助の
「へエ――」
「文次郎は風呂に居なかつたさうだが、文次郎なら自分の家に忍び込むのに、生垣を飛び越して入つたり、空財布を庭へ捨てるやうなことはあるまいと思ふが」
「それで御座います親分さん、私もどうしても文次郎さんを疑ふ心にはなれませんでしたが――」
平次の助け船に七助は膝を進めました。
「思ひ當ることがあるだらう。後さきのことを
「あの晩お隣の文次郎さんは、風呂へ行つたことにして、私の娘と
「そんな事だらう」
「それに、私は曲者の逃げる姿をチラリと見掛けましたが、生垣を飛越した樣子が、大抵の身輕さぢや御座いません。私も若い時分は
七助から聽き出したのは、大方そんな事だけ。
「それだけでも大變役に立つよ。――ところで、言ふ迄もないことだが、逃げたり隱れたりするやうなことはあるまいな。鼬の七助といふ名前は事と次第では此の場限り忘れてやるが」
「有難う御座います、親分さん」
歸つて行く平次を、もう一人、隣の部屋で拜んでゐる者がありました。鼬の七助には似もやらぬ美しい娘。――それはお菊の泣き濡れた痛々しい姿です。
「さア、判らねえ、親分」
それから二三日經つて、ガラツ八はいきなり
「うるさい奴だな。――お
錢形平次は事もなげに
「へエ、――誰です、そいつは?」
「人を刺して、いきなり
「?――」
「加島屋に三百兩の金がなくなるとホツとする人間がある。――その曲者は多分加島屋の娘のお桃に顏か身體を見られたと思つて居るんだらう。お桃を
「すると、親分」
「俺はもう、中坂の藤井重之進の
「なんて太てえ事をしやがる、行きませう、親分」
「相手は小身でも直參だ。町方の岡つ引ぢや手が出せねえ」
「そんなわからねえ事があるものか、親分、あの娘が可哀想ぢやありませんか」
ガラツ八の八五郎は、
「金は戻るまい。――があの娘だけは助けてやり度い。お前手紙を持つて行つてくれるか」
「
はやるガラツ八を
手紙の内容は、加島屋の曲者の殘した證據の數々を擧げて、お桃が今晩中に歸らなければ、龍の口評定所に同じ文面で訴へ出ると書いただけですが、弱い尻を持つた藤井重之進は、お嘉代が助かつたと見て、急に
× × ×
「相手が惡いから、此の上取つて押へ樣は無いが、惡事を働いて長い正月はあるめえ。天道樣のなさる事を見てゐることだ。――その
平次はさう言つて、病床のお嘉代を慰めるのでした。文次郎も繼母の深い心に打たれて、すつかり良い息子になり、やがてお菊と祝言した事は言ふ迄もありません。『人の惡いは飯田町』と言はれた飯田町の安御家人の中には、こんな性の惡いのがうんとあつたのです。