錢形平次捕物控

凧の詭計

野村胡堂





「親分、旅をしませんか、良い陽氣ですぜ」
 ガラツ八の八五郎はまたんな途方もないことを持込んで來たのです。梅の花はもうこずゑに黄色くなつてゐるのに、今年の二月は妙に薄寒くて、その日も行火あんくわの欲しいやうな曇つた日でした。
「旅? 又なんか嗅ぎ出したんだらう。物見遊山には早いし、後生氣ごしやうぎや金儲けで草鞋わらぢをはくがらぢやなし」
 錢形平次は煙管を投り出して、天文を案ずる型になるのでした。
「お察しの通りだ。實はね、親分、川崎の小牧こまき半兵衞が殺されたんで――」
「なんだと? そいつは川崎切つての大金持ぢやないか」
「公方樣お聲掛りの家柄だ。この下手人げしゆにんを擧げなきや、土地の御用聞の顏が立たねえ。錢形の親分の引込思案はかねて承知の上だが、其處をなんとか乘出して貰へまいか――と川崎の孫三郎親分から態々わざ/\の手紙ですぜ」
「そこで旅をしろ――といふのか。川崎や品川ぢや旅といふほどの遠道ぢやあるめえ。ところでお前は孫三郎親分を知つて居るのか」
「知つてゐるの段ぢやありません。去年友達と江の島へ行つた歸り、川崎の萬年屋から使ひをやつて、旅籠代と小遣を借りましたよ。十手のよしみでね」
「飛んでもねえ誼みだ、それは返したんだらうな」
「綺麗に忘れてゐましたよ。――今朝孫三郎親分から手紙を貰つて、そのとたんに一年前の借りを思ひ出したんで、へツ」
あきれた野郎だ、いくら借りたんだ」
「二朱か一分ありやよかつたんで、さう言つてやると、孫三郎親分は自分でやつて來て旅籠屋の諸拂を濟ました上、その晩うんと飮んで江戸へ歸る路用が三兩――」
「川崎から江戸へ行列を組んで八枚で飛ばしたつて、三兩要るわけはねえ。それを默つて借りて來たのか」
「へエ、ツイね、借金に剩錢つりせんは出せねえからそのまゝ」
「馬鹿野郎」
 平次もポンポン言ひましたが、ガラツ八の徹底てつていした呑氣さには腹を立てる張合もありません。しかしこんな事がきつかけで、江戸の御用聞の平次が、八州役人の支配してゐる、川崎まで乘出すことになつたのでした。
 錢形平次と八五郎が、兎も角、土地の御用聞川崎の孫三郎の家に草鞋わらぢを脱いだのは、その日ももう申刻なゝつ近い刻限でしたが、中年者の孫三郎は、下へも置かぬ喜びやうです。
「錢形の親分が來てくれゝば千人力だ。弱音を吐くやうだが、小牧こまきの旦那が死んぢや、いづれ公儀の御耳に入るだらうし、三日經たないうちに下手人げしゆにんを擧げるやうにと、宿役人からも折入つての頼みだ。――どうも俺一人ぢや心配でならねえ。いそがしいのを百も承知で、實は八五郎兄哥あにいにお願ひしたやうなわけさ」
 そんな事を言ふ四十男です。
 やがて平次と八五郎は、孫三郎に案内されて、小牧半兵衞の大きな屋敷。――本陣と向ひ合つて、川崎宿の名物の一つになつてゐる門をくゞりました。中は小大名の下屋敷ほどの構へで、その一番小さいのが金藏で、主人の半兵衞は昨日の朝、その中で殺されてゐたのです。


「これだよ」
 三間に四間ほどの一番小さくて一番嚴重な土藏は、母屋おもやから廊下傳ひに續いて、其處にはおびたゞしい金銀と、數代にわたつてたくはへた骨董こつとう類が入れてあるのですが、三重の扉を開くとムツと腥氣せいきが漂つて、一歩踏み込んだ孫三郎も、思はず足を淀ませました。
「――死骸は檢屍が濟んで、昨日の中に母屋おもやへ移したが、小牧の旦那が此の中でやられたんだ。手燭てしよくを斬り落されてゐるところを見ると、後ろから飛かゝつたやつでもない――」
 孫三郎は陰慘いんさんな土藏のなかで續けるのでした。
「聲はしなかつたのかな」
 と平次。
「誰も氣が付かなかつたさうだ。一昨日をとゝひの晩夜中近い頃、母屋の此方こつち寄りの部屋――土藏に一番近いところに寢て居る主人が、變な物音がするやうだと言つて、寢卷の上に袢纒はんてんを引つかけて、手燭を持つて自分で見廻りに來たんださうだ。年のせゐか寢つきの惡い上に、恐ろしく目ざとい人で、こんなことがちよい/\あると、お内儀が言つて居るが」
「刄物は持たなかつたのかな」
「なんにも持たなかつたらしい。それから半刻はんときつても床へ歸らないから、お内儀が隣の部屋に寢てゐる娘――と言つてもこれは先妻の子だが、――おいうさんといふのを起して、二人で提灯を點けて、恐る/\來て見ると――」
「その時土藏の戸は開いてゐたんだらうな」
「半分開いてゐたさうだ。恐る/\提灯を差し込んで見ると、中は血の海だ。二人は腰を拔かすほどの騷ぎさ」
「傷は?」
「佛樣はまだ母屋にあるから、あとで見てくれ。前から三太刀たちも斬り付けて、喉笛を刺したのがとゞめになつて居る。いやもうひどいやり方で」
「盜られたものは?」
「なんにもないさうだ。――番頭さん、それに相違あるまいね」
「へエ――、それはもう、店からも土藏の中からも、一文も無くなつては居りません」
 五十年輩ねんぱいの老實らしい支配人の忠助は、何時の間にやら後ろへ來て居るのでした。
「道具類とか、書き物には?」
 平次は初めてこの支配人に口をきゝます。
「旦那はそんなものはお嫌ひで、あまりお道具類をお集めになりません。それでも御先祖から持ち傳へたのが、隨分澤山御座いますが先づなんにも無くなつたものは御座いませんやうで」
 土藏の中は整然せいぜんとして、物の亂れた樣子は少しもなかつたのです。
 外へ出て仰ぐと、母屋と五戸前いつとまへの土藏は切褄形きりづまがたの屋根を並べて、二月の空つ風がその間をやいばのやうに吹き拔けますが、何處から飛んで來たか、散々に破れた大きなたこが一つ、金藏の嚴重に閉つた二階窓の扉のくわんに引つ掛つてバタバタして居るではありませんか。
「八、あとであの凧を取つてくれ。絲が鐶にどんな工合に引つ掛つて居るか、それを見たい――」
 平次はそつと八五郎の耳に囁きます。
 それから平次は家の周圍を念入りに調べました。土藏と土藏の間、家の後ろなどには、滅茶滅茶に足跡が亂れて居りますが、霜解しもどけ頃ではあり、多勢の雇人に踏み荒されて、何が何やらわかりません。
「鍵は誰が持つて居るんだ」
 平次は元の金藏の前へ來ると、老番頭に訊きました。
「金藏の鍵は主人の居間に置いて、主人か私でなければ手をつけないことになつて居ります」
「金藏の扉は毎日開けるんだね」
「格子戸とかしの板戸と漆喰しつくひの大扉と三重になつて、中の二枚の戸はそれ/″\のさんがひとりでおりますが、一番外の大扉のは海老錠ゑびぢやうで、その鍵は別にあります。これだけの締りですから、金藏に用事のある時開けるだけで、三日も四日も締め切りのことも御座います。――もつと一昨日をとゝひは遠方から入る金があつて、よひに一寸開けましたが――え、え、それはもう前からわかつてゐたことで御座いますとも」
「すると、りに――假りにだよ、土藏の中に曲者がまぎれ込んでゐたとしても、誰も開けてくれる者がなければ、三日も四日も外へ出られないわけだな」
 平次は妙なことを突つ込みます。
「へエ――、まア、さう言つたわけで、外の大扉には海老錠ゑびぢやうがおりて居りますから、中の二つの戸のさんは内からでも開けられますが――」
 老番頭の忠助は苦笑するのです。
「だが、金藏の戸を開けつ放しにして置くこともあるだらう、半刻や一刻は――」
「それは御座います。屋敷内のことですから物を運ぶ時などは、ツイ扉を開けたまゝ、母屋へ行つて來ることも御座います」
「その間に、曲者は忍び込めないとはかぎるまい」
「忍び込んでも、中から出られません」
「人に開けさせさへすれば出られる筈だ。開ける人がなければ、二階の窓を開けて飛降りるといふもある」
「三間近い高さで御座いますよ。それに、下は忍び返しを打つた塀で」
 忠助は酢つぱい顏をするのです。二階の窓は内から開けられるには相違ありませんが、飛降りるのは容易ならぬ藝當です。しかしそれも程度の問題で、丈夫な繩でもあれば、身輕なものは十分二階の窓から飛降りられないことはないでせう。――平次はそんな事を考へて居る樣子でした。


「刄物は?」
 と平次。
「脇差が捨ててあつたよ。番所へ持つて行つたが」
「持主は?」
「それが、をひの傳七郎といふ男の品だ。もつとも本人は何時の間にやらなくなつたと言つて居るが」
 川崎の孫三郎は、辯解する調子で言ふのです。
「どんな男だ」
「良い男だが、評判はよくない。氣の荒いところがあつてね。それに今度は散々だよ。伯父を殺した脇差ばかりぢやない。縁の下にはあはせが血だらけになつて突つ込んであつたし、自分の床にも血が附いて居た。それに――」
「まだあるのか」
一昨日をとゝひの晩、自分の部屋から、雨戸をそつと開けて外へ出てゐる。奉公人達は皆んな知つて居るが、傳七郎は亥刻よつから先時々自分の部屋をあけることがあるさうだ。本人は町内の師匠のところへ行つたと言つて居るが、町内の女師匠の鶴吉といふ大年増が、長い間傳七郎と深い仲だから、口を合せて居る分にはどんな細工さいくでも出來る」
「フーム」
「もう一ついけないことには、傳七郎はお孃さんのおいうさんと娶合めあはせられて、小牧こまきの後を繼ぐことになつてゐたんだが、師匠の鶴吉との仲が知れて、伯父の大旦那にうんと小言を言はれた上、お優さんと娶合せることも、此の家の跡取にする事も破談にされて了つた」
「成程ね。――そんなに證據が揃つてゐるのに、なんだつて傳七郎を擧げなかつたんだ」
「錢形の親分の前だが、證據がそろひ過ぎるよ。傳七郎はどんなに馬鹿だつて、自分の脇差で伯父を殺し、自分の袷を血だらけにして縁の下にネヂ込み、その晩町内の師匠のところへ轉げ込むやうなことはしないだらう」
 さすがに川崎の孫三郎の推理には、老巧らうかうなところがあります。
「だが、土藏へおびき出して、主人の正面から切つてかゝるのは、餘つ程知つてる者でなきや出來ないことだぜ。そんな人間といふと平常ふだんこの家に居る者で、土藏へ入つても疑はれない者、――性根のしつかりした、腕つ節の強い奴」
 平次にさう數へ上げられると、疑ひは又傳七郎の方へ戻つて來るのです。
「そんな人間は傳七郎のほかにはない。奉公人は多勢居るが、支配人の忠助と、をひの傳七郎と、通ひで帳面をして居る又六の外には、子供や女ばかりだ」
 孫三郎はこんな事を細々こま/″\と説明し乍ら、平次を母屋にみちびくのです。
 主人――小牧半兵衞の死骸は、見るも無殘でした。五十八といふにしては、恰幅も見事、若い時は撃劍げきけんの一と手位はやつたらしく、容易に人に斬られる筈もないのですが、土藏の中で全く不意に襲はれたのでせう。
 平次は線香をあげて佛の前から退くと、
「御主人は土藏へ入つた時、後戸を閉める癖があつたと思ふが――」
 忠助へ訊ねました。
「へエー、その通りで御座います。夜分などは泥棒にけ入られるからと仰有つて中へ入ると必ず後戸を締めました」
「だから、それだけの騷ぎも外へは聞えなかつたんだらう。心得たやり方だな」
 平次は曲者の惡智惠に、舌をくばかりです。土藏の中におびき入れた細工や、主人の習慣をよく知り拔いたやり口は、如何にも憎いほどの行屆きやうです。
「親分さん、御苦勞樣で御座います」
 次の間から入つて來たのは、死んだ主人の後添のちぞへお千世でした。三十五六の素晴しい大年増で、身扮みなりの派手なこと、顏の表情の大袈裟おほげさなこと、化粧の濃いことなど、年齡にも身分にも、場所柄にも不似合の感じです。後ろから覗くやうに小腰をかゞめたのは、その繼娘で小牧家の一粒種、かつては甥の傳七郎と娶合めあはせようとしたお優でせう。これは十八九の目鼻立の美しい、表情の内輪な、いづれかと言へば淋し氣な娘で、繼母のお千世とは全く違つた世界に住む人間の感じです。
一昨日をとゝひの晩のことをくはしく聽かして貰ひませうか、お内儀さん」
「私はまア、何うしませう。こんな事になつて、主人だつてあんなむごたらしい死にやうをしては浮ばれません。どうぞ、お願ひだから下手人げしゆにんを擧げて、敵を討つて下さい」
 お千世は平次の問ひとは凡そ縁の遠いことを恐ろしい勢ひでまくし立てるのです。
「え、目ざとい人で、夜でも夜中でも、氣になることがあると、自分一人で見廻りました。あの晩も夜中頃になつて、金藏の方でそりや變な音がしたんですもの。プーンと言つた鋸引のこぎりびきでもするやうな、あぶが障子の間へ入つたやうな、――私も聽きましたとも。すると主人は飛起きて、絆纒はんてんを引つ掛けて、手燭てしよくと鍵を持つて、廊下傳ひに土藏の方へ行きました。それつ切り半刻經つても歸らないぢやありませんか。あんまり心配だから、隣の部屋に寢てゐる娘を起して、二人で、行つて見ると――」
 土藏の戸は半分開いてゐたこと、中を一目見て悲鳴をあげたこと――お千世は身振り澤山に話すのです。
「ところで、御主人が平常ふだん一番信用して居たのは誰でせう」
「番頭の忠助どんですよ」
 當り前のことと言はぬばかりです。
「それから?」
「通ひ番頭の又六どん」
「傳七郎さんとか言ふ甥御をひごは?」
「さうですね」
 お千世の饒舌ぜうぜつも其の問ひには容易に應へられさうもありません。それからおいうの聟や、この家の跡取のことも訊きましたが、お千世はこの問題にもあまり觸れ度くない樣子です。
 續いて娘のお優にいろ/\話しかけて見ましたが、若さと、恥かしさと、恐ろしさにふるへて、何を訊いてもハキハキとした答へは得られません。唯傳七郎の事を訊いた時だけは、
「あの方も可哀想です。――お父さんはやかましかつたんですもの」
 十分同情のある調子でした。


「親分、この方は、何處どこの人だえ」
 甥の傳七郎の聲はとがりました。二十四五のひげの跡の青い、背の高い、たくましい感じの男で、無暗に笑顏などを人に見せない、――その癖、血の氣の多い若者です。
「錢形の親分だよ」
「あ、さうか、近頃評判の」
 傳七郎は輕くあしらひますが、江戸の御用聞で、川崎まで乘出して、我物顏に振舞ふとでも思つたのか、その反感は顏色にも、聲の調子にもあふれます。
「傳七郎さんとか言ひなすつたね、少し訊き度いが」
 平次はそれに構はず仕事を進めました。
「お前さんには氣の毒だが、證據はあの通り妙に揃つて居る。第一番に御主人を殺した脇差は何時頃からなくなつたんだ」
「知りませんよ。一年ばかり前芳町の刀屋で冷かしそこねて一兩二分で買つた道具だが、用事がないから、押入へ投り込んだきり、三月も半歳も見たことのない品だ」
あはせの方は」
「洗濯を頼んで出して置いたが――」
 傳七郎もさう疊みかけられると、さすがに困惑します。
一昨日をとゝひの晩、何處へ拔け出したか、それも訊かなきやならない」
「何べんも同じことを言ひましたよ。町の鶴吉師匠に訊いて下さい」
 傳七郎は如何にも忌々いま/\しいと言つた調子です。
「孫三郎親分、又六とか言ふ番頭は見えないやうだが」
「又六どんは店に居ますよ。相變らず帳面の方で――」
 お千世は取なし顏に店の方を指しました。其處へ、
「これは親分さん方、御苦勞樣で」
 三十八九、やがて四十年輩ねんぱい小作こづくりの愛想の良い男が入つて來ました。
「お前は又六だね、――劍術をやつたことがあるかい」
 と平次。
「飛んでもない。親分」
 又六は飛上がるほど驚いた樣子です。色白で奢車きやしやで、筆跡の美しい、内氣な又六に、劍術の取合せはあまりに唐突です。
「何時頃から此の店に居るんだ」
「三年になります。その前は日本橋の佐野屋さんの帳場に居りましたが、佐野屋さんが分散した時、此の家の旦那樣に拾はれて參りました、へエ」
「一昨日のことをくはしく聽き度いが――」
「私はどういふものかあの日は朝から熱があつて、赤い顏をして居ると言はれましたが、到頭我慢が出來なくなつて申刻なゝつ(四時)前に歸らして頂きました。晩飯も拔きまして、葛根湯かつこんたうを二杯も呑んで、一寢入りとすると、曉方あけがた御店から小僧が飛んで來ました。旦那樣が――」
「お前の家は何處なんだ」
「この裏で御座います。なアに五丁とも離れては居ませんが」
「お神さんや子供衆はあるだらうな」
「女房に早く死なれて、叔母と二人で住んで居ります」
 この男は訊けばいくらでも話してくれさうです。
 それから一刻あまり、灯が入つて、夕飯の濟むまで、平次は此の上もなく念入りに家の中を調べました。いざ引揚げようといふ時、
「孫三郎親分、傳七郎を擧げてくれまいか」
 平次は孫三郎を物蔭に呼んで囁くのです。
「え? 傳七郎を――あの男が下手人?」
「さうだ。あれだけ證據が揃つちや、放つても置けまい」
「だつて、證據があり過ぎるぜ。傳七郎は一國者だが、惡黨や、馬鹿ぢやない」
「――俺が縛ると事免倒めんだうだ。兎も角頼むぜ」
「そいつはいけないよ、錢形の親分。もう少し本當らしい證據がなきや、俺が笑ひ物になる」
「あれだけ證據が揃つてゐれば申分はないと思ふが――」
「だが、――その證據は皆んなこしらへ物だ」
 孫三郎はぐわんとして聽き入れません。日頃の交際で、傳七郎の正直さをこと/″\く信じ切つて居る爲でせう。
「後悔するやうなことがあるかも知れないが――仕方があるまいな」
 平次は諦らめ兼ねる樣子ですが、それでも自分で縛るほどの氣にはなれなかつたものかそのまま孫三郎の家へ引揚げました。


「親分、金藏の窓のたこを取つて來ましたよ。くわんに絲を通してあつたんで、飛んだ大骨折さ。凧は滅茶々々にこはれて居るが、うなりは立派だ」
 ガラツ八は暗くなつてから凧を持つて孫三郎の家へやつて來ました。
「成程こいつは良い凧だ。第一唸りが良いね、雁皮がんぴで念入りの細工だ」
「ところで親分、今晩なんか仕事がありますか」
「大ありだ。孫三郎親分の子分衆と一緒に、傳七郎の身許を念入りに調べてくれ。師匠の鶴吉とどんな事になつて居るか、金遣かねづかひはどうか、おいうとの間はどんな事になつて居るか。――待つてくれ、それから書き役の又六の方も調べるんだ。あの男の家に若い女が居ないか、化粧道具があるかないか、それを見るが宜い。白粉おしろいでも紅でもあつたら借りて來い。一緒に居る叔母さんはどんな人間か、暮し向はどうか、日本橋の佐野屋に居る時の勤め振りもわかると宜いが、これは急のことではむづかしからう。――どつこい、まだあるよ」
「まだあるんですか、親分」
「後添のお千世、あのお内儀を調べるんだ。こいつは孫三郎親分の方が知つてゐるかも知れないが、身許から身持、此の頃の樣子と言つたところだ」
 このおびたゞしい用事を背負ひ込んだガラツ八は孫三郎の子分二三人と一緒に飛出したことは言ふ迄もありません。
 その晩、夜中近くなつて歸つて來たガラツ八の報告といふのは、――傳七郎は正直者で金離れがよく、一てつで短氣ではあるが、町中の評判の良いことから、師匠の鶴吉とはくされ縁で、本人は手を切りたがつてゐるが、鶴吉の方でなか/\離さないこと、お優との間は平凡な從兄妹いとこ同士で、それ以上に深い關係などがあらうとは思はれないこと、――それから、
「又六の所へは時々若い女も來るらしいが、叔母さんといふのは金聾かなつんぼだから、又六の内證事ないしよごとなんか判りやしません。暮し向は良い方で金もうんと持つてゐるさうです。家の中には紅も白粉もありましたよ。――この通り」
 ガラツ八は懷ろから平次に言はれた通り、又六の家から持つて來た白粉の紙包みと紅皿を出して見せるのでした。中を開けて見ると、白粉は殆んど手もつけて居りませんが、口紅はいくらか使つた樣子で、白い紅皿の肌がほんの一部分げて居ります。
「お内儀は?」
「あれは大變な女で。あんなチヤラチヤラして居るくせに、恐ろしく勘定高くて握りつこぶしで口やかましくて奉公人泣かせですよ。品川の茶屋の娘ださうで、又六とは仲が良かつたやうですが、近頃は妙に睨み合つてるさうです。傳七郎とはそりが合ひません」
 そんな事がガラツ八の搜り出した筋でした。
 それから半夜。翌る朝はまた事件が思はぬ新しい局面を見せて居りました。
「錢形の、大變だ。今度はお孃さんがやられた。命は無事かも知れないが」
「えツ」
 孫三郎の聲に驚いて飛起きた平次は、朝の支度もそこ/\に八五郎や孫三郎と一緒に飛出して居りました。
 小牧の屋敷では重なる騷ぎに煮えこぼれるやう。美しい娘のおいうが、昨夜眞夜中過ぎ、何者とも知れぬ曲者に襲はれて、短刀で二度まで刺され、床から拔け出して氣を喪つたところを、隣の部屋に寢てゐる繼母のお千世に見付けられ、危ない命を助かつたといふのです。得物は箪笥たんすに入れてあつた死んだ主人の短刀。それは血に染んだまゝ投げ捨ててありました。曲者は何處から入つたか、まるで見當もつきません。
「孫三郎親分、昨夜傳七郎を縛つて置けば、こんな事はなかつたんだが」
 平次は傷ついた美しい娘を痛々しく見やつていかにも口惜くやしさうです。
「今からでも宜からう、錢形の」
 孫三郎は昨夜の失策にりて、一擧に傳七郎を擧げようとはやるのでした。
「待つてくれ、親分」
「いや、放つて置けない奴だ。伯父を殺した上に、從妹いとこまで――」
「その前に少し訊いて置き度いことがある。家中の者を皆んな此處へ揃へてくれ」
 平次は孫三郎をなだめて、家中の者を全部奧の一間に集めました。隣りの部屋では傷ついたお優が、外科の手當でうつら/\と眠つて居る樣子。
「皆んな揃つたら訊き度いことがある。隱さずに言つてくれ」
 平次は一同の顏を見渡しました。其處には派手なお内儀のお千世を始め、老番頭忠助、書き役又六、甥の傳七郎を始め、小僧、下女まで十幾人、固唾かたづを呑んでひかへたのです。
「この中で一番器用なのは誰だらう、細工事などのうまい」
「又六どんだ」
 小僧の一人が言下に應じました。
「有難う。ところで、このたこは誰のだえ。誰が拵へたんだ。――なか/\うなりの工合などよく出來てゐるが――」
「傳七郎さんだ」
 小僧の他の一人が答へます。
「實を言ふと、主人を殺したのは此の凧なんだ。凧は金藏の二階の窓のくわんに掛つてゐた。――引つかけて置いたと言つた方が宜いだらう。絲は鐶を通してあつたさうだから。夜になつて風向が變ると、土藏と土藏の庇間ひあはひを吹き拔ける風が、この凧の唸りに當つてブーンと鳴る。――御主人はそれを聽いて驚いて飛起き、土藏へ入つて見ると、中に隱れて居た曲者が飛出して、いきなり手燭を斬り落した。あツと言ふ間もない、三太刀、四太刀、滅茶々々に斬つて到頭とゞめを刺し、土藏から飛出した曲者は、血飛沫ちしぶきで汚れた袷を脱いで縁の下に突つ込んだ。――凧は用事が濟むとすぐ引きおろすつもりだつたが、絲が切れてうまくおろせなかつた――これを窓の鐶に殘したのは曲者の大手ぬかりだ」
 あまりの事に一同は息を呑みました。平次の説明はなほも續きます。
「曲者はあの晩金が入つた土藏を開けることを知つて居た者だ。多分一寸の隙を見て土藏にもぐり込んだのだらう、そしてゆる/\二階の窓のたこの細工をして、風の變るのを待つて居たんだらう」
 平次の言葉が終るか終らぬに、
「野郎ツ、伯父の敵だツ」
 其處にあつた血染の短刀を取つて、パツと又六に飛付いたのは、をひの傳七郎でした。
「あ、待つた」
 止める隙もありません。はやりに逸つた傳七郎の短刀は逃げる又六を追つて、グサツと其の首筋へ。まことに傳七郎は火のやうな激しい氣性の男だつたのです。
        ×      ×      ×
 傳七郎は其の場で神妙に繩を打たれましたが伯父小牧半兵衞を殺し、從妹いとこのお優に傷を負はせた敵――又六を討つた經緯が明白になつて間もなく許された事は言ふまでもありません。孫三郎と平次は一應手ぬかりを叱られましたが、半兵衞殺しの下手人を明白にして、御用聞としての面目の立つたことで滿足したのです。
「半兵衞殺しは、傳七郎か又六か、どつちかに違ひないとは思つたが、どうして傳七郎でないと判つたんです。親分は前の晩傳七郎を縛らせようとしたぢやありませんか」
 事件が落着してから、ガラツ八はいつものやうに平次に説明をせがむのでした、
「あの時、俺はもう下手人げしゆにんは又六と判つてゐたが、困つたことにまだ證據が揃はない、さうかと言つて、傳七郎をあのまゝにして置くと、又六は又なんか惡企わるだくみをするに違ひないと思つたんだ。傳七郎が殺されるか、お内儀がやられるか――まさかお優を殺して傳七郎に疑ひを向ける細工をするとは思はなかつたが――」
「へエ――恐ろしい野郎ですね」
「あの日又六が朝から赤い顏をして居たと聽いて、紅を塗つたんぢやあるまいかと思ひ付いたよ。あの晩金が入つて、宵には金藏を開けると前から判つてゐたから、そんな細工をして、夕方自分の家へ歸つたんだらう。縮尻しくじつて主人が夜中に來なければ、窓から金を持つて逃出して、泥棒のせゐにするつもりだつたのさ。うまく行つたから、主人を殺して置いて、傳七郎が家を脱出した後から入り込んで床へ血など附けて置いた。――お優を斬つたのもそのさ。傳七郎の拔け出した後から忍び込んだに違ひない」
ふてえ野郎ですね」
「金に手をつけないのは、傳七郎に疑ひをかけるだ。主人が死んで傳七郎が處刑しおきになれば、あの家の金は又六の自由になる。番頭の忠助などは木偶でくのやうなものだ。望みは小さくないよ。――だが、あんまり細工が過ぎてかへつて傳七郎の疑ひが薄くなつたのさ。小器用な惡黨は、大概たいがいしなくても宜いことをして尻尾をつかまれる」
「惡い野郎があつたものですね」
「店の金だつて、宜い加減取り込んでゐるのだらう。それにお内儀の樣子があの通りだから、主人が死ねば、自分が後釜に直れると思つたのかも知れない。お千世の浮氣つぽい樣子もよくないよ。女のヂヤラヂヤラしたのは間違を起すもとさ。――性根が固くたつて辯解になるものか」
「へエ、――馬鹿な奴だね」
「惡人は大抵馬鹿だよ。――それにくらべると傳七郎は川崎一番の正直者さ。伯父殺しの下手人が又六と判ると、ツイかつとなつたんだ。あの男も、師匠の鶴吉とのくされ縁はあるが、いづれはおいうさんの聟になつて小牧の跡を取るんだらう」
 平次の説明を聽くと最早疑ひをはさむ節もありません。





底本:「錢形平次捕物全集第十八卷 彦徳の面」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年10月20日発行
初出:「文藝讀物」文藝春秋社
   1944(昭和19)年2月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年3月4日作成
2017年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード