錢形平次捕物控

八千兩異変

野村胡堂





「親分」
 ガラツ八の八五郎が、泳ぐやうに飛込んで來たのは、江戸中の櫻が一ぺんに咲き揃つたやうな、生暖かくもうららかな或日の朝のことでした。
「なんだ八、大層あわててゐるぢやないか」
 錢形平次は朝飯の箸を置くと、大して驚く樣子もなく、煙管きせるを取上げて、粉煙草をせゝります。
「落ついて居ちやいけませんよ。釜屋で又殺しがあつたんで」
「釜屋?」
「北新堀の釜屋、――ツイ十日ばかり前に主人の半兵衞が鐵砲でたれて死んだ――」
「誰が殺されたんだ」
 平次もさすがに愕然がくぜんとしました。拔荷の鐵砲を百梃、三千兩でさる大名に賣り込まうとした釜屋半兵衞が、うらみのある女中に殺され、鐵砲百梃は平次の働きで公儀に沒收ぼつしうされたのは、ツイ此間のことです。
「番頭の伊八が、離屋はなれで金の番をしてゐてやられたんで、奪られた金はざつと八千兩」
「釜屋は闕所けつしよになる筈ぢやなかつたのか」
「それが、明日役人に引渡すといふ前の晩だ。際どいことをするぢやありませんか」
 ガラツ八が舌を卷くのも無理のないことでした。(密輸入)をあつかつた釜屋は、主人のとむらひが濟む間もなく、跡取の初太郎は番頭伊八と共にお奉行所に呼び出され、通三丁目の店と北新堀の住家は言ふ迄もなく、おびたゞしい家財を沒收の上、江戸から追放といふ峻烈しゆんれつきはまる言ひ渡しを受け、明日は役人が乘込んで來て、かまどの下の灰までも引渡すことになつてゐるのでした。
 その前の晩、町役人の監視かんしの下に一と晩だけ現金の番人をしてゐた番頭の伊八が、因縁いんねん付きの離屋で蟲のやうに殺され、睨めつこをしてゐた筈の八千兩の小判が、宵から曉方までの間に、煙の如く消え失せたのでは放つて置けません。
「そいつは容易ならぬことだ、直ぐ行くとしよう」
 平次は自分もいくらかの掛り合ひがあるせゐか、何時になく氣輕に御輿みこしをあげました。
 北新堀の釜屋へ行くと、町役人が詰めかけた上、土地の御用聞が二三人、靈岸島の瀧五郎の采配さいはいで、裏表を嚴重に固め、出入りを一々檢査して、水もらさぬ大警戒です。
「瀧五郎親分、大變なことになつたね」
「錢形の、今度といふ今度は驚いたよ。今日は御上に引上げる筈の金が八千兩だ、番頭を殺して持出すにしても、一人や二人のわざぢやねえ、――まア見てくれ」
 瀧五郎は此邊を繩張りにしてゐる自分の責任の重大さにおびえて、錢形平次の助勢を心から頼母たのもしく思つた樣子です。
 二人は八五郎や二三人の下つ引と一緒に、裏の離屋の方に廻りました。拔け荷を扱つて暴富をほこつた釜屋の構へは、嚴重の上にも嚴重を極めて、忍び返しを打つた凄まじい塀の中には、城郭じやうくわくのやうな家造りが物々しくも軒を連ねて居ります。
潜戸くゞりどや木戸は開いてゐなかつたのかな」
 平次は誰にともなく訊きました。
「へエ、皆んな内から締つて居りました。一々かんぬきや輪鍵がかけて――」
 背後で應へたのは、三十前後の狐のやうな感じの男――それは通三丁目の釜屋の店から、主人の死後北新堀の住居の方へ手傳に來てゐる手代の與之助と後で判りました。
「戸締りは誰がするんだ」
くなつた番頭の伊八さんで、――もつとも朝戸を開けて、庭を見廻るのは小僧の乙松おとまつの仕事で、へエ――」
「その時は何んの變つたこともなかつたのか」
「へエ――」
 手代の與之助の答へを後ろに聞いて、平次と瀧五郎は離屋の外に立つて居りました。
「足跡はないぜ、何しろこの天氣續きだ」
 沓脱くつぬぎのあたりを見廻して居る平次に、瀧五郎は先輩せんぱいらしく聲を掛けます。
「雨戸は?」
「輪鍵は掛けてなかつたが、内から締つて居たさうだ。小僧の乙松が外から聲を掛けても返事がないので、番頭を呼んで押し倒して入つたといふ。――その通りだね」
 瀧五郎は後ろに居る與之助をかへりみました。
「へエ――、それに相違御座いません。陽は高くなつたし、中からは返事がなし、先の事でりて居りますから、乙松と二人がかりで、中程の雨戸を一枚押し倒して入りましたが、あの通り滅茶々々で――」
 與之助の指した方を見ると、成程一枚の雨戸はかまちが折れ、板が剥れたまゝ、縁側に立てかけてあります。
「それから」
 平次は先をうながしました。
「飛込んで見ると、取つ付きの六疊は血の海で、番頭さんが――」
「雨戸はどんな工合に締つて居たんだ」
「下のさんだけおりて居りました」
「確かにその通りか」
「何しろあわてて居たもので、へエ。もつとも輪鍵は確かに掛つて居りません」
 それを聽き乍ら、平次は一歩六疊へ入つて居ります。


「フーム、これはひどい」
 平次のうなつたのも無理のないことです。六疊は文字通り血の海で、番頭の伊八は仰のけ樣に倒れて居りますが、死骸の位置から見ると、八千兩の金と睨めつこをして居るところへ、後ろから近寄つた曲者が、鋭利えいり匕首あひくちか何んかで、その喉笛のどぶえを掻き切つたのでせう。
「刄物は?」
「なかつた」
「番頭の死に切るのを待つて、死骸の袖で血刀を拭いた樣子だ。落ちついた野郎だな」
 平次は伊八の袖に殘る細刄の兇器の跡を指しました。
背後うしろから曲者の近寄るのを知らずに居たのかな、――寢ずの番をするつもりのが、ツイ居眠りをして居たところへ、曲者が忍び込んだのかも知れない」
 瀧五郎は自分の想像を組み立てました。
「いや、曲者が入つたのは、まだ宵のうちだ、――この通りお茶も呑まずに居るし、よく掃除さうぢした煙草盆には、灰殼はひがらも殘つては居ない。――曲者は多分伊八のよく知つて居る人間だらう。後ろから聲を掛け乍ら入つて來たから、ツイ油斷をして、振向きもせずに八千兩の小判と睨めつこをしてゐた。――其處を不意に背後うしろから、匕首あひくち逆手さかてに喉を掻き切り――その上八千兩の小判を持つて逃げた――」
 平次の想像はその上へ確りした足場を組み立てるのです。
「八千兩の小判は、はだかで三十二三貫目あるぜ、一人や二人ぢや持ちきれまい」
 瀧五郎は小判を其邊に隱してあるに相違ないといふ見込みで、今朝から縁の下、物の蔭、井戸の中などを、下つ引を督勵とくれいして、必死と搜し續けましたが、陽が高くなつてもまだ、小粒一つ見付からなかつたのです。
「八千兩の小判は、其邊には隱しきれまいよ。ところで、俺は曲者はどうして入つて、何うして逃出したか、腑に落ちるまで調べ度い。――八、雨戸を閉めて見てくれ」
「へエ」
 八五郎は離屋の雨戸を全部閉めて見ました。言ふ迄もなく、外から押し倒したといふ壞れた雨戸は、壞れたまゝに溝へ入れたのです。
「敷居に血が流れ込んで、さんの入る穴にも少し溜つて居るが――」
 平次はそんな事を言ひ乍ら、一番最後の雨戸を外して、その棧の樣子を調べました。六疊から流れ出した血が、縁側に筋を引いて、敷居に流れ込んだにしても、その量が少なかつたせゐか、それとも時が經つて血が凝固こりかたまつたためか、さんの下は大して汚れては居らず、少しばかり血が附いて居るにしても、敷居の穴に棧を密着させる程ではありません。其時、
「變な事を聽いたんだが――」
 ガラツ八はそつと平次に囁やきます。
「何が變だ、言つて見ろ」
「昨夜亥刻よつ少し過ぎ(十時過ぎ)小僧の乙松おとまつ離屋はなれの前で嫁のお袖に逢つたさうですよ。月は良かつたし、間違ひはないつて言ふが」
「小僧がそんな事を言つたのか」
「あの小僧はすつかりあつしと仲好しになりましたよ」
 ガラツ八の開けつ放しな態度や、その人の好さが若い乙松を信用させたのも無理はありません。
「それがこさへ事でなきや面白い手掛りだが」
「まだ外にも、いろんな事を言ひましたよ。――昨日薄暗くなつてから、若い武家が、店の前を幾度も/\通るやうな恰好で、家の中を覗いたといふ話や」
「その若い武家は、乙松の知らない人か」
「見たことのない武家ださうで、――若くて好い男で、身扮みなりも惡くなかつたが五へんも六遍も店を覗く樣子は變だつたさうですよ」
「それから?」
「此家の嫁のお袖は、芳町の藝者上がりで、若旦那の初太郎が身請みうけをして、假親を立てて家へ入れたが、くなつた親旦那は大の不承知で、ツイ此間まで、出すの引くのといふ騷ぎがあつたこと――」
「それから」
 平次はうながしました。順風耳のガラツ八の鼻が、何やら意味深くうごめくのです。
「ありますよ――番頭の伊八は年甲斐もなく飛んだ道樂者で、若旦那が身請みうけする前は、お袖の客筋で、うるさく附け廻して居たんだつて言ひますよ」
「――フム」
 平次はうなりました。いろ/\な證據をきづき上げて、次第に曲者の外形がまとまつて來る樣子です。


昨夜ゆうべ、宵のうちに外へ出た筈だが――」
「いえ、うちに訊いて下さい。私は御飯が濟むと自分の部屋へ引籠つて、それつきり朝まで一と足も出ません」
 お袖は以ての外の頭を振るのです。もう二十一と聞きましたが、もとがもとだけに飛んだ愛嬌もので、何處か人を外らさないところがあり、それに肉體的の健康から來る明るさが、少しばかり下品ではあるが、何にか知ら人をひき付けずにかない魅力になつて發散します。
「小僧の乙松おとまつが、離屋はなれの前で逢つたといふが――」
「そんな事はございません。あの子は嘘つきで出鱈目でたらめですから」
 お袖は美しい眉をひそめるのでした。
 若夫婦の部屋といふのは、母屋おもやから突き出して建てた六疊と四疊半の二間で、少し亂雜な調度のなかにも、若い女の息が通ふなまめかしさがあり、六疊の窓からは、障子を開けさへすれば、狹い庭も、離屋の出入りもよく見えます。
「番頭の伊八は、芳町に居る時分、お前の客だつたと聽いたが――」
「え、嫌な人でしたが――」
 お袖はそれつきり言葉を濁しました。
「お前の實の親といふのは何をして居るんだ」
「――それが判らないんです。私は生れた場所も、親の名も存じません。里親から里親へ渡り歩いて、芳町へ賣られた時は、目黒の百姓の娘といふことになつて居りました」
 お袖の明けつ放しな顏も、此時ばかりはさすがに曇りました。
「その百姓の名は?」
「御不動樣の近所で、石松とけばすぐ判ります。――でも石松夫婦のところに養はれたのは、十二か十三までほんの一年足らずで」
「その前は?」
「大久保のお勘婆さん。――その前は板橋の駄菓子屋で千之助。――その前は――」
「もう宜い」
 錢形平次もこれでは手のつけやうがありません。
 お袖を宜い加減かげんにして、それから若旦那の初太郎に逢つて見ましたが、これは父親の横死から、家の沒落、番頭の死、八千兩の紛失ふんしつ、戀女房のお袖にふりかゝる恐ろしい疑ひなどに顛倒して、何を訊いてもしどろもどろです。
「昨夜お袖はたしかに外へ出ないと言つたな」
「へエ――、夕方から氣分が惡いと言つて、此部屋に籠つたきり、一と足も外へは出ません。私が側に附いて介抱したのですから、間違ひは御座いません」
 この男なら隨分、一晩が二晩でも、女房の介抱をしきることでせう。
「昨夜はよく寢たか」
「飛んでもない、――この家に寢るのも、今晩限りと思ふと、眼がえて眠られるどころの沙汰さたぢやございません。それにお袖も一晩寢付けなかつたやうで、――もつと曉方あけがたから疲れが出て私もついウトウトしました、眼を覺した時はもう陽は高くなつて、お袖は起きて居りました」
「昨日店の前を變な武家がウロウロして居たさうだな」
「へエ――、乙松おとまつに言はれて、私も覗いて見ましたが、まだ若い立派なお武家で」
「全く知らない顏か」
「へエ――」
 あとは乙松や下女のお元や、近所の衆にまで訊ねましたが、何んの得るところもなく、兎も角も平次と八五郎は、近所の瀧五郎の家へ一たん引揚げ、あとは土地の御用聞や、瀧五郎の子分達に任せて、暫く樣子を見ることになりました。
 今日を限りの釜屋の退轉も、そんな事で愚圖ぐづ々々になり、曲者の捕まるまで、或は八千兩の行方がわかるまで、兎にも角にも、釜屋の一家は、そのまゝ町内預けにする外はなかつたのです。


「どうしたものだらう、錢形の、俺には少しも見當が付かないが、――あの嫁を擧げたものだらうか、それとも」
 靈岸島れいがんじまの瀧五郎も、袋路地に突き當つたやうな顏をするのです。
「俺にも解らない、――が、曲者は外の者に違ひあるまい」
「何處から逃出したんだ」
「それがわからないのだよ。宵のうちに忍び込んでゐたに違ひはない。――多分伊八が顏見知りの者だらう。伊八を殺して、八千兩の小判をありを運ぶやうに、庭木戸まで持出し、外に居る仲間の者に渡した。それから離屋の雨戸を閉めて、外へ出た。――」
「雨戸のさんが敷居の穴の血にこびり附いては居なかつたぜ。――棧は穴の中の血の乾いた上へそつと落ちて居た。――それに入口も裏木戸も、庭口も皆んな内から閉つて居たし、へいは一丈もある上、忍び返しは恐ろしく嚴重だ。飛越える手掛りも足掛りもない」
 瀧五郎の反駁はんばくこと/″\くもつともです。
「離屋の雨戸や、庭口の潜りを締めたのが、今頃になつてからだとしたらどうだ」
「誰がそんな事をしたんだ」
「解らない」
「矢張りあの嫁が下手人ぢやないか」
「そんな事はあるまい。暗くなつてから、ほんの一寸でもあの女が外へ出たら、初太郎は大變な騷ぎをするだらう。離屋へ行つて番頭を殺して、八千兩の金を運び出すうち、あの男は自分だけ一人默つて待つて居る筈はない」
「曉方からウトウトしたと言つたが――」
「いや、殺しは宵だ、血があんなに固まつて、戸のさんにさへ附かない程だ。それに夜が明けちや、八千兩の金を運び出す工夫はない」
「手代の與之助は臭くないか」
「人相は惡いが、それほど大それた人間とも思はれない。それに夕方から店に坐つて、今日引渡す筈だつた目録もくろくを作つて居たし、あの目の早い乙松おとまつに隱れて、外へ出る工夫はあるまい」
「すると何ういふことになるのだ」
 瀧五郎は到頭投げてしまひました。
「手段は二つしかない。瀧五郎親分は、氣の毒だが下つ引を五六人り出して、目黒の石松と、大久保のお勘婆アと、板橋の千之助を當つて見てはくれまいか」
「?」
「お袖の身許を突き留め度い、いくら里子にやられた娘でも、そんなに渡り歩くのは容易のことぢやない。何んか仔細しさいがあるだらう。板橋の駄菓子屋で判らなければ、それからそれと手繰たぐつて行くのだ」
「宜からう、それ位のことなら明日一日で何んとからちがあくだらう」
 瀧五郎も今は平次の指圖に從ふ外はなかつたのです。
「八五郎は龍の口の邊をうろ付いて――」
うろ付くんですか親分」
「不足らしい顏をするなよ。お前の顏を利かせる氣ぢやブチこはしだ。町方の者とさとつたら最後、何んにも教へちやくれまい。それより評定所や下馬先や、大名方のお供の大勢集まるところへ首を突込んで、精一杯お前の耳を働かせるんだ」
「へエ――?」
「まだわからないのかな。――近頃何處かの大名屋敷で、江戸家老とか御側用人とか、筋の通つた御家來衆で、腹を切つたのがないか、それを聽き出すんだ」
「?」
「百梃の鐵砲を買ひそこねて、三千兩の大金を棒に振りや、大概たいがいの武家は腹を切るよ。五百や一貫費ひ込んで、尻喰ひ觀音くわんのんをきめ込むこちとらとはわけが違ふ」
「成程ね」
「腹を切つた武家があつたら、その妻子はどうなつたか念入りに訊き出すんだ」
「腹を切らなかつたら何うします」
「百梃の鐵砲は公儀に取上げられてしまつた。どう工夫したつて二度と戻る氣遣きづかひはない。あれだけやり損ねると、百の九十九までは腹を切る」
「――」
「さうかと言つて、唯のお武家ぢや、十日や一と月の間に、三千兩の大金はつぐなひきれない」
「成る程ね」
 平次の明察の前に、ガラツ八も承服しないわけには行きません。


「親分、驚いたの驚かねえの――」
「何を驚くんだ」
 翌る日の夕刻、平次の家へ飛込んで來たのは、八五郎の勝誇かちほこつた姿でした。
「親分の言つた通り、下馬先のあたりを半日うろ付くと――」
「何にか聞き込んだか」
「親分の天眼通に驚いたぜ」
「何をつまらねえ、――腹を切つたのは、何處の家來だ。早くそれを言ひな」
飛騨ひだ高山三萬八千石の城主、金森長門守ながとのかみ樣の御用人、五百石取の富崎左仲といふ方が、今から丁度十日前に、お長屋で腹を切つて死んでゐる」
「それから」
「伜の佐太郎といふ二十五になるのが、永の御暇おいとまになつて、母親と一緒に退轉した」
「落ついた先は?」
「それを訊き出すのに骨を折つたぜ。眼と鼻の間、――神田お臺所町とは氣が付かないでせう」
「フーム」
「まだあるぜ、親分。今から感心しちや早い」
「何があるんだ」
「その佐太郎が、たつくちの金森屋敷を退轉してから三日目、――といふと丁度昨日のことだ。佐太郎の使と言つて、金森家重役に莫大ばくだいの金子を差出した者がある」
「その金はいくらだ」
「其處までは解らねえが、兎も角莫大だ。莫大といふと親分の前だが、五兩や三兩ぢやないでせう」
「何をつまらねえ」
踏込ふみこんで、その佐太郎を縛つたものでせうか、金森家を浪人すれば、もう遠慮はありませんぜ」
「馬鹿、その富崎左仲といふ人が、鐵砲の買手ともきまつて居らず、その伜の佐太郎が、何んの爲に何處から出した金を持つて行つたかも解らないぢやないか、――もう少し樣子を見てくれ、俺は一寸靈岸島れいがんじままで行つて來る」
 ガラツ八をもう一度お臺所町へやつた平次は、ゆつくり夕食を濟ませて外へ出ました。
 柳原土手は宵から淋しく、花時の人間は向島、飛鳥山あすかやまに集中して、此處はあまり人通もありません。
 あたらし橋の袖のあたりまで來ると、
「待て/\」
 柳の蔭から出た一人の若い武家。
あつしで――」
 振り返る平次へ、
「覺えがあらう」
 拔き討にサツと浴びせたのです。それは實に凄い手際でしたが、幸ひ平次にも油斷がありません。
「あツ、何をする」
 二つ三つ、かはして柳を小楯こだてに取りました。
「平次、覺悟ツ」
 なほも追及するやいば、それは實に火の出るやうな激しさですが、平次はたくみに逃げて、
「えツ、平次と知つての暗討か。名乘れツ、何處の何奴だ」
「――」
 相手はそれに返事もせず、何も疊みかけて來るのを、あしらひ兼ねた平次。思はず懷をさぐつて手馴れた四文錢が二三枚、
「えツ、聞きわけのない奴だ」
 パツと投つたのが、一つは曲者の拳へ、一つはあごへ、
おのれツ、卑怯ひけふツ」
「卑怯は其方そつちだ。名乘らなきや眼へ行くぞツ」
 三つの錢が飛ぶ前に、バラバラと駈けて來たのはガラツ八の八五郎でした。
「親分、――あつしが來りやもう大丈夫だ。その野郎をフン縛つてしまひませう」
 ふところから白磨きの十手、たもとからはくり出す捕繩ほじやう。七つ道具をふりかざした八五郎は、孫悟空そんごくうのやうにをめき叫んで飛かゝるのです。
 形勢不利と見たか、刄を引いてきびすを返す曲者。
「野郎ツ、逃げるかツ」
「止せ/\、八」
 平次の止めるのは耳にもかけず、くんずるやうな春の夜のおぼろを縫つて、曲者も八五郎も飛びました。


「錢形の親分、此方から行かうと思つてゐたよ。見透みとほしの通り、あのお袖といふ女には、不思議なことが附きまとつてるぜ――」
 靈岸島の瀧五郎は、平次を待ち構へての話しです。
「――それはうだ。お袖の親の素姓も、生國もわからないが、兎に角あの女が子供の時育てられた家といふのを五軒まで調べて見たが、あの通り容貌きりやうよしだし、人にも可愛がられるたちだが、氣味の惡いことがあつて、どうも長くは置けなかつたさうだ。何處からともなく、びつくりする程の金や物をみついで來るのは宜いが、何んとも素姓の知れない者が、何時でもお袖を見張つてゐて、お袖を泣かせたり、ひどい目に逢はせたりする者は、きつと倍増しの復讐ふくしうをされるんださうだ。だからお袖は可愛いが、長く育てては置けない。自然人手から人手に渡つて、十三になる年には、芳町へ賣られてゐたといふぜ」
 瀧五郎の話は奇怪です。
「そんな事だらうと思つたよ。矢張りあの女だ」
 平次は思ひも寄らぬことを言ふのです。
「あの女が下手人だといふのか」
「さうとでも思はなきや、解らない事ばかりだ。――矢張りあの女だよ、伊八は後ろから來る人に氣を許して殺された――八千兩と睨めつこをしてゐる伊八が、夜中後ろから來る人の氣はひに平氣で居られるのはあの女の外にはない。――仲間の者に八千兩の小判を持出させて、内から潜戸くゞりを閉めて置けるのもあの女だ。雨戸は外から締めただけでも、下のさんがひとりでおりる」
「初太郎は――お袖は一と足も外へ出なかつたと言つたぜ」
「亭主が女房をかばつたんだ。それに氣が付かないではないが、俺はあの初太郎といふ男を見くびり過ぎて居たよ。一所懸命になると、あの男でも隨分それ位の細工さいくはするだらう」
「で、親分は?」
「俺は龍の口へ行つて訊き出すことがある。お袖の方は頼むぜ。――もつとも今晩はいけない。明日の朝、あまり早くない方が宜い、正面から釜屋へ乘込んで繩を打ち、八丁堀まで引いて行つてくれ。泣いてもわめいても手加減てかげんをしちやならねエ。あの女は大變な女だ。二つ三つは打つても構はないから、諸人への見せしめ、存分にやつてくれ」
「大丈夫かな」
 瀧五郎には呑み込めない事ばかりですが、若いながら日頃その智惠や手腕に心服する平次の言葉にはそむきやうのない理窟があります。
 平次が神田の家へ歸つて來ると、丁度ガラツ八の八五郎も、汗とほこりだらけになつて戻つて來ました。
「どうした八、大層勢ひ込んでゐるぢやないか」
「あの野郎、足の早いには驚きましたよ」
「でも逃げも隱れもせずに、眞直ぐにお臺所町へ歸つたらう」
横着わうちやくな野郎ぢやありませんか」
「それで宜いのさ。ところで、お前の耳でもう一つ聞出して貰ひ度いことがあるんだが――」
「何んです、親分」
「富崎佐太郎が、金森家へ返した金がいくらか、確かな事が知り度いんだ。浪人物の工面なら多寡たくわが知れてゐるが、若し三千兩とまとまつてゐたら、すぐ飛んで來てくれ。――佐太郎自身で持つて行つたか、使の者をやつたか、それも聞出すんだ」
「やつて見ませう」
 疲れを知らぬ八五郎は、そのまゝ夜の街へ飛出しました。
 八五郎がその報告を持つて來たのは翌る日の朝。
「親分、大名屋敷は苦手だぜ。八方から手を入れて、やうやく判つたのはたつた今だ。富崎佐太郎の使が金森家用人へ持込んだ金は、確かに小判で三千兩だ。長門守ながとのかみ樣もその話を聞いて、すつかり考へ直したつて言ふぜ。いづれ近い内には歸參ものだらう」
「さうか、それで何も彼も判つた。これから先は少しむづかしい掛合事だが、お前も一緒に行くか」
「何處までも行きますよ、親分」
 八五郎は相變らず疲れを知りません。
        ×      ×      ×
 此話はまだ/\長いのですが、殘念乍ら筆を止めて、ざつと荒筋だけを辿たどり、思ひも寄らぬ下手人を登場させます。
 平次がお臺所町の富崎佐太郎浪宅を訪ね、――親の敵――といきり立つ佐太郎をなだめて訊くと、金森家へ三千兩の小判を返し、佐太郎の父親の罪をつぐなつたのは、全く佐太郎の知らぬことと判りました。
 佐太郎の方でも一時は父親を自殺にみちびいた錢形平次をうらみましたが、平次は御禁制の鐵砲買込みのくはだてをさまたげた外には他意がなく、詮索せんさくすればわけもなく知れた筈の鐵砲の買主をかばひ、自分の手柄をフイにしてまで、金森家の名譽を救つてくれた事を聽いてすつかり氣がくじけてしまひをした。
 佐太郎は疊に兩手を突いて平次へびるのです。父の自害した後、三千兩に心引かれて、釜屋の前をウロついたり、昨夕は平次の後をつけて、柳原土手で斬りかけたりしましたが、それが間違つた考へであつたと解ると、武士の額を疊に埋めて、何んのこだはりもなく岡つ引風情に詫びる佐太郎だつたのです。
 平次が富崎佐太郎をつれて、八丁堀の組屋敷へ行つた時、丁度靈岸島れいがんじまの瀧五郎は、泣き濡るゝお袖に繩を打つて、おろ/\する初太郎を後ろに、最も派手に八丁堀へ乘込んで來た時でした。お袖の濃艶な美しさと、その淺ましく取亂した姿が、たぎり返る釜の中に、紅の花を一輪投り込んだやうに、物見高い江戸中の噂の焦點せうてんになつたことは言ふ迄もありません。
 その日の晝過ぎ、をとりさそはれた美しい鳥のやうに、
「釜屋の番頭伊八を殺して、八千兩の小判を盜んだのはこの私だ。サア何んとでもしておくれ」
 恐ろしい勢ひで八丁堀の組屋敷へ駈込みうつたへをしたのは、目のさめるやうな美女――それは一しきり江戸中を騷がせた兇賊きようぞく黒雲の彌十郎の娘。おいくといふ二十四五の凄い女でした。
 お幾とお袖は本當の姉妹。父親の黒雲の彌十郎は、せめてお袖だけでも、眞人間にするつもりで、堅氣かたぎの商人に育てさせ、蔭乍かげながらその生長を見張つて居りましたが、父彌十郎が十年前に刑死して、姉のお幾も若過ぎて妹を救ふ手が及ばず、お袖は見す/\藝子に賣られましたが、その後も二人の間にひそかに文通が續き、世間並の姉妹以上の親しい心持で生長したのでした。
 お幾お袖の母――黒雲彌十郎の女房――は、富崎家に奉公して、佐太郎の乳母うばを勤めたことがあり、彌十郎も幾度か富崎左仲に助けられて、恩の上にも恩を重ね、富崎家萬一の場合には、命を投出しても――と彌十郎お幾父娘はちかつて居たのです。
 はからずも金森家の鐵砲賣込のことから、恩人の富崎左仲が切腹し、伜の佐太郎は三千兩をつぐなふ由もなく、恥を忍んで主家を退轉したと、――妹のお袖から聞いた姉のお幾は、昔の仲間を語らつて釜屋に忍び込み、お袖とよく似た顏容を利用して、金の番をしてゐる伊八を殺しました。
 小僧の乙松おとまつが、宵暗の離屋はなれの入口で見たのは、お袖ではなくて、この姉のお幾だつたことは言ふ迄もありません。
 さて、離屋へ忍び込んだお幾は、明日は公儀に沒收ぼつしうされる三千兩だけ持出して、富崎佐太郎のために、父親の罪のつぐなひにするつもりでした。しかし八千兩の小判を目の前に見ると、ツイ昔のくせが出て八千兩そつくり持出して了ひ、そのうち三千兩を、早速佐太郎の名で金森家に返し、殘る五千兩を仲間の者にけてやつたのでした。
 お袖は一切のことを姉のお幾の仕事と知り、翌る日の朝早々、離屋の雨戸を外から締め、庭の潜戸くゞりを閉ざして出來るだけ證據を隱しました。
 それはせめても、妹のお袖に出來る、精一杯のことだつたのです。
 お袖が縛られ、富崎佐太郎も八丁堀へ引かれたと聞いて、お幾がたまらなくなつて自訴したのは、まさに平次の思ふつぼでした。お袖を出來るだけ痛々しく扱はせて、江戸中の評判になるやうにする爲には、頑固ぐわんこで一國な瀧五郎に、お袖を下手人と思ひ込ませる外はなかつたのでせう。
 これは錢形平次一生に一度の意地の惡い詭計きけいでした。
 お幾は處刑され、お袖と初太郎は無事に小田原に落ち、富崎佐太郎は金森家に歸參しました。
 しかし、後年金森家が取潰とりつぶされたのは、こんなつまらない事が幾つも/\重つて、公儀の心證を惡くしたこともその原因の一つだつたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第十八卷 彦徳の面」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年10月20日発行
初出:「文藝讀物」文藝春秋社
   1944(昭和19)年4月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年3月4日作成
2017年3月4日修正
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