錢形平次捕物控

神隱し

野村胡堂





「親分は長い間に隨分多勢の惡者を手掛けたわけですが、その中で何んとしても勘辨ならねエといつた奴があるでせうね」
 ガラツ八の八五郎は妙なことを訊ねました。
 晩秋のある日、神田の裏長屋の上にも、赤蜻蛉あかとんぼがスイスイと飛んで、凉しい風が、素袷すあはせの襟から袖から、何んとも言へない爽快さうくわいさを吹き入れます。
「それはある」
 平次は煙管を指の先で廻し乍ら、あれか、これかと考へて居る樣子でした。
「滅多に人を縛らない親分が、憎くて/\たまらなかつたといふ相手は一體どんな野郎です」
「主殺し、親不孝、――そんなのは惡いに相違ないが、――本當に憎くてたまらないのは子さらひだよ」
「へエ――?」
梅若丸うめわかまるの昔から、人さらひの種は盡きないが、子供をさらはれた親の歎きを思ふと、俺は斯う息づまるやうな氣がするよ、――世の中にあれほど殺生せつしやうな惡事はないな」
「そんなものですかねエ」
 八五郎は長んがいあごなでて感心して居りました。
「ところで八」
「へエー」
「近頃俺は、誘拐かどはかされた子供を搜してくれと頼まれてゐるんだ」
「搜してやりや宜いぢやありませんか」
「相手がよくないよ」
「へエー」
「二千二百石取の御大身、お旗本の歴々だ。町方の者をゴミ見たいに扱ふから、俺は旗本や御家人は大嫌ひなんだが、跡取の男の子がさらはれたとなると、氣の毒でもあるな」
「氣の毒がる位なら、行つて搜し出してやりませう。金にする氣でさらつたのならまだ何うにかなるが、取還とりかへす手段がなきや、可哀想ぢやありませんか」
 八五郎はやつきとなりました。わがガラツ八はまれに見る女人崇拜者であると共に、かなりセンチメンタルな人道主義者でもあつたのです。
「可哀想には可哀想だが、そのお屋敷には凄いおめかけが一人飼つてあるから、御家騷動がからんでゐさうなんだ。土臺木つ葉旗本などが御大層に――家名を絶やさない爲、――云々うんぬんと勝手な理由をつけて、碌でもない子を幾腹いくはらませるなんざ僭上の沙汰だよ。俺は暇で/\仕樣がないんだが、そんなめ事には首を突つ込み度くないよ」
「成程ね」
 平次の潔癖の前に、八五郎は一應承服しました。が、
「――でも、さらはれた子供と、その母親が可哀想ぢやありませんか。末成うらな冬瓜とうがん見たいな餓鬼がきでも、生みの母親に取つちや掛け替へはない筈で――、暇で/\仕樣がない身體なら、ちよいと覗いてやるのも功徳くどくぢやありませんか」
 と、ガラツ八らしくこね返します。
「ウーム、その通りかも知れないね。女の考へは女に訊くに越したことはない、何うだお靜行つたものかな」
 錢形平次は裏庭で張物をしてゐるらしい、白い姉さん冠りに聲を掛けました。
「八さんの言ふのはもつともですよ。行つて上げたら宜いぢやありませんか」
 まだ充分に若くも美しくもある戀女房のお靜は、子供を持つた經驗はありませんが、それでも女らしく、う思ひやりのある言葉を傳へるのでした。
「何處です、先は」
 八五郎は少し乘出します。
「飯田町――もちの木坂の堀江頼母たのも樣、二千二百石取の旗本だ。此處には奧方のお鈴さんと、お妾のお若といふのがゐる。堀江頼母といふ人は、働き者で良い男だが、中年まで奧方に子供がなかつた。尤も奧方の里方は微祿して、ろくな後ろ楯がなかつた爲に、奧方の押しが利かないせゐもあつたらう。五年前に妾のお若といふのをれ、間もなく徳松といふ子が生れた、――川柳の『來た月を入れてはつはつ位なり』といふ奴だ」
「へツ」
 八五郎は面白さうに額を叩きました。
「ところが、意地の惡いものだ、それから間もなく奧方も懷妊くわいにんして、翌る年同じく男の子を生んだ。それは秀太郎といつて今年四才になる」
「――」
「跡取は歳は一つ下でも本妻の子の秀太郎と、世間でも親類方でも疑はなかつたが、妾のお若といふのがしたゝかで、殿樣に油をかけて御寵愛ごちようあいを一人占めにした。この女は櫓下やぐらしたで叩込んだ古狸で、お芋の煮えたも御存じないやうな、二千二百石の殿樣を手玉に取るなんざ朝飯前だ」
「へエ――よくある節ですね」
「殿樣は近頃本妻のお鈴の方に疎々うと/\しくなつて、家の跡取も、年上といふ理由をつけて、庶腹しよふくの徳松にきめるつもりらしい、――が、それでも奧方が丈夫で光つてゐるし、嫡子の秀太郎が四つといふ可愛盛りで、何んにも知らずに慕つて來るのを見ると、妾の愛におぼれた殿樣でも、手つ取早く決めるわけに行かない」
「――」
「煮え切らない心持で日をくつてゐると、丁度三日前だ、門前で遊んでゐた秀太郎が、何時の間にやら見えなくなつた。屋敷の人達は出入りの者を狩り集めて、大騷動で搜したが、三日經つても歸つて來ない。奧方のお鈴さんは半狂亂で、三度の物も食はずに悲歎にくれてゐる、――何んとかして搜し出してくれ、此儘にして置いては、素姓の知れないお妾のお若の子が、由緒ゆゐしよ正しい堀江家の跡取に直されるかも知れない――と、用人の松山常五郎といふ人がやつて來て、たつての頼みだ」
「そいつは行つてやらなきや男が立ちませんね、親分」
 八五郎は、妙に力瘤ちからこぶを入れます。
「俺は十手を預かる町方の御用聞で、男達をとこだてやくざぢやないが、兎も角行つて見るとしようか」
「さう來なくちや錢形の親分と言はさねエ」
「何をつまらねエ」
 でも、平次は到頭動き出しました。


 餅の木坂の堀江家の通用門からお勝手口へ顏を出した錢形平次と八五郎は、内玄關から疊を敷いた部屋に通されて、茶よ菓子よと、思ひの外の待遇でした。
「平次殿に、八五郎殿か、よく來て下された。殿にも大層なお喜びで、くれ/″\もお禮を申すやうにとのお言葉だ」
 用人の松山常五郎は手を取らぬばかりの喜びやうです。四十五六の用人れのした人柄ですが、平次に言はせると、んなのが案外恐ろしく頑固ぐわんこな主人思ひだつたりすることがあります。
「その後若樣の御便りは?」
「何んにもない、困つたことぢや」
「一應心得のために、御屋敷内の皆樣に御目にかゝり度いと思ひますが」
「宜いとも、早速殿に申上げよう」
 それから暫らく待たされて、若い綺麗なお小間使が、
「どうぞ此方へ――」
 と案内してくれました。この頃の旗本屋敷らしく、天井は低く、窓は小さく、廊下もさして廣くはなく、何んとなく薄暗い感じですが、それでも木口も立派で、よくみがき拔かれてあり、おびたゞしい部屋々々の調度も、一粒選りの良い品で、内福らしさが邸内一パイに漲つた感じです。
 奧の一と間、左右から唐紙を開けると、脇息に寄つて、三十七八の立派な武家が、ニコやかに二人を迎へました。
「平次、八五郎と申したな、いや、御苦勞であつた。伜が誘拐かどはかされては、家内の恥辱になることぢや、それにおくの悲歎が見て居られない、何分頼むぞ」
 二千二百石取りの殿樣にしては如何にも如才ない調子でした。
「精一杯、お搜しいたします。ついては、御屋敷の内外を、自由に調べさして頂き度うございますが――」
「あゝ、宜いとも、何分宜しく頼むぞ」
 口をきいたのはたつたそれだけですが、平次は滿足した樣子で引下がりました。
 續いて奧方の部屋、これは縁側から廻つて聲を掛けると、
「まア、よく來てくれました。どんなにお前方の來るのを待つたことか――」
 さう言つて端居に出て來たのは、三十五六の、少し淋しいが、美しいといふよりは、清潔せいけつな感じのする、品の良い奧方でした。
「お氣の毒で御座います。出來るだけのことは致しますが、少しばかり、お話を願ひ度いと存じますが――」
「宜いとも、何んなと遠慮なく」
「若樣は時々お一人で御門の外へ出られるのでせうか」
「何んと申しても子供のことですから、召使めしつかひにはよく見張るやうに申付けてありますが、時々一人で外へ出て、近所の子供衆と遊んで居ります。ことに隣りの荒物屋の子としたしいやうで――」
「人見知りをなさらない方で?」
「えゝ、誰にでもよくなつきます」
「不斷御屋敷では誰と一番よく遊んでゐらつしやいました」
「小間使のきちや、若黨の三次と仲がよかつたやうで」
「お屋敷の外の方では?」
「荒物屋の子ぐらゐのものでせうね、外には心當りがありません」
 話はそれだけでした。良い加減に切上げると、
「どうぞお願ひ申します、あの子が歸らなかつたら、私――」
 あとはたもとに顏を埋めて、障子の内に入つてしまひました。
 次はおめかけのお若の部屋、それは奧方の部屋よりも明るく大きく、庶腹しよふくの子の徳松が、玩具ぐわんぐを部屋一パイに散らばして遊んで居ります。
「御苦勞ねエ、飛んだ人騷がせをして」
 さう言ふお若は、二十七八のそれは派手な女でした。少し肥りじしで、色の白い、こびを含んだ、妙に素氣ない物言ひも、思はせ振りなところがあつて、男を焦立たせずには措かないと言つた質の女です。
 側で精一杯玩具を散らばして遊んでゐる兒は、大柄でお人形のやうな造作をした顏ですが、何んとなく愚鈍ぐどんさうでもあります。
 此女から何を訊いても恐らく正確な答へを得ることがむづかしいと思つたか、平次はそれつ切り引下がりました。
 あとは用人の松山常五郎をのぞけば、一季半季の奉公人ばかりです。そのうちの一人、先刻案内してくれた綺麗な小間使は、お吉と言つて十九、房州から行儀見習に上がつて居るさうで、
「私は何んにも存じません。でも奧樣がお可哀想です、若樣に若しものことがあつたら、生きては居らつしやらないでせう。――若樣は何方かと言へばかんの強い方で、滅多な人にはなつきませんでした。お屋敷の中でもお相手の出來るのは、私と若黨の三次さん位のもので、外には荒物屋の子が時々遊びに來ましたし、御親類方では、奧樣の御妹樣――お淺樣にはよくなついてゐらつしやいました」
「そのお淺さんとやらは何處に居るのだ」
「市ヶ谷でございます。もう三十を越した方で、御不縁になつて奧樣のお里にゐらつしやいますが、――お里方と申しても、今では弟樣御夫婦の世帶ださうで」
 此處で平次は、奧方と小間使の言葉の間に大きな喰ひ違ひのあることに氣が付きました。
「若樣とお部屋樣(お若)の間は?」
「お仲は宜しい方でございました。お二人の若樣が御一緒に遊ぶので」
「――」
「滅多な人にはなつかない若樣でしたが、お子樣は矢張りお子樣同士で、徳松樣と御一緒に遊び度さに、お部屋樣(お若)の仰しやることはよく聽いたやうでございます」
 お吉はよく話してくれました。何となく氣輕きがるな好感の持てる娘です。
 續いて逢つた若黨の三次は、三十前後の色の淺黒い小柄な男で、
あつしは何んにも知りませんよ、若樣とは大の仲好しでしたがね、これは何處の子供衆も四角几帳面きちやうめんなことを嫌ひだからで、何んの不思議もありません。え、若樣は、滅多な人とは口もきゝません」
 そんな事を言ふ調子が、妙に掛引が強さうで、渡り者らしいしたゝかな感じです。
「それから三日の間に變つたことはないのか――若樣が見えなくなつてからだ」
「奧樣が築土つくど八幡樣へお詣りに行つただけです――え、昨日でしたか、御神籤おみくじを引いたらきようが出たとかで、ひどくしをれてゐらつしやいましたした」
「お供は?」
「お一人のやうでした」
 三次が濟むと、あとは下女のお仲に、飯炊めしたきのお六、どちらも在郷者ざいがうもので、若樣紛失とは關係がありさうにも見えません。が、たゞ二人の口から、若の行方不知しれずになつた夕刻、屋敷から外へ出たものは一人もなかつたことだけは確かめました。
「八、市ヶ谷に廻つて、奧方の里方に居る妹さんに逢つて見てくれ。それから歸り築土八幡樣に廻るんだ、昨日武家の奧方が參詣した時の樣子――誰にも逢はなかつたか何うか、それを訊くんだ」
「へエ――」
「それからもう一つ、あのおめかけの身許を洗つてくれ。あの女は素姓のうるさい女に違ひない、――と、もう一つ、若黨の三次も唯の奉公人にしちや眼端が利き過ぎるやうだ。誰か下つ引をやつて、請人を調べさせてくれ」
「親分は?」
「俺か――ハツハツ、俺に用事がなくなるのが不足だといふのか。心配するな、荒物屋の伜に逢つて、最寄の玩具屋おもちややと駄菓子屋をしらべて家へ歸つて晝寢をし乍ら考へるよ」
「人さらひなら、江戸から出さないやうに、四宿と船の出入りを見張らなきやなりませんね」
 八五郎は常識的なことを言ひます。
「三日も前のことだ、江戸から連れ出すものなら、もう箱根を越して居るよ。だがな八、若樣の秀太郎とかは、あまり良い子柄ではなかつたやうだ。かんが強くて、人付きが惡くて、父親にまであまり可愛がられてはゐなかつた、人さらひの狙ふやうな玉ぢやない。若し又金にする氣で狙つたのなら、とうに何んとか言つて來る筈だ。こいつは間違ひもなくお家騷動さ」
「成程ね、そんなもんですかねエ」
 ガラツ八の定石は一ぺんにけし飛んでしまひました。


 その晩、平次の家へ八五郎がやつて來たのはもう大分けてからでした。平次はそれ迄珍らしく女房のお靜を相手に、晩酌ばんしやくの追加などをして、待つて居た樣子です。
「あ、くたびれた、――江戸中を二三遍駈け廻つたやうな心持ですよ」
「御苦勞々々々、まア一杯やり乍ら話してくれ」
 子分思ひの平次は、自分で立つて盃などを出してやります。
「パイ一も有難いが、それより腹へ底を入れなきや、呑んだやうな氣がしませんよ。朝つから蕎麥そばを二杯食つた切りで、山の手一圓から、芝まで駈け廻つたんで――」
「呆れた野郎だ、またからけつか」
「お察しの通りで」
「お上の御用で、何時何處へ飛ぶかわからない身體だ、せめて二しゆなり一分なり、要心金は持つて居るものだよ、それが御用聞のたしなみだ――と言つても、俺も三百も持つてゐないことはあるがね」
 平次はさう言つて苦笑ひするのです。
「ところで、うでしたよ、――奧方のお里方へ行つて見ると、妹のお淺といふのが、あつしの胸倉をつかまないばかりに、お願ひだから一日一刻も早く若樣を搜し出してくれ、誘拐かどはかした奴は大方わかつてゐるが、いづれ若樣を亡きものにするに違ひない――といふ騷ぎなんで、あの女は、姉の大事な子をさらつたのは、お妾の廻しものに決めてゐる樣子です」
「それから」
「――若樣の行方不知になつたのは、堀江の屋敷から人が來て、その晩のうちに聞いたさうです。もう一つ、奧方は昨日確かに築土つくど八幡樣へお詣りに行つて、お神籤みくじを引いて居ますよ。あの通り目に立つ人で、多勢が見てゐます。もつとも御神籤所で訊くと、奧方のいたお神籤は凶でなくて吉だつたさうで、少し變ぢやありませんか」
「フーム」
 平次はうなりました。何んか知ら妙に喰ひ違ひの多い事件です。
「お妾のお若といふのは、櫓下やぐらしたで鳴らしたしたゝか者で、引拔くと尻尾が九本えてゐる代物ですよ。あの兄貴だと言つて餅の木坂の屋敷に出入りしてゐる林次とか言ふ男だつて、兄貴だか何んだかわかつたものぢやありません。それから若黨の三次、あれは親分のお察しの通り、仲間では評判のよくない渡り者で、三道樂に身を持崩した、大變な代物ですよ」
「よし/\、それでいろ/\のことが判つたよ。俺の方はまるつ切り不漁しけだ――荒物屋の伜の時次郎は、はにかんで何んにも言はないし、神田から番町へかけての、玩具屋にも駄菓子屋にも何んの變りもない。仕方がないから家へ歸つて一生懸命考へたよ」
「結構な智慧が浮びましたかえ」
「うんにや、智慧の方も不漁しけだ。明日もう一度餅の木坂へ行つて、調べ直して見よう」
 平次はさう言つて、大きな欠伸あくびをするのでした。
 事件はしかし、翌る朝を待ちませんでした。
 その晩平次は、
「錢形の親分さん、お願ひ申します。夜更けになつて相濟みませんが、餅の木坂の荒物屋から參りました」
 遠慮勝えんりよがちではあるが恐ろしく緊張した樣子の聲と、格子をたゝく音に眼を覺されてしまつたのです。
「何んだえ、餅の木坂のの荒物屋で何うしたんだ」
 入口の狹い三疊に泊り込んでゐた八五郎が飛起きました。
「伜が夕方から見えなくなりました。八方に手をわけて心當りを搜しましたが、何處にも見えません。堀江樣の坊つちやまのこともあるので、あのお屋敷の御用人に伺つてお願ひに參りました。まことに申兼ねますが、一粒種ひとつぶだねの伜一人を助けると覺召して、お願ひでございます」
 かたむいた月明りにすかして見ると、三十五六の實直さうな男が、格子にすがり付いて泣かぬばかりに訴へて居るのです。
「そいつは氣の毒だが、もう夜明けに間もあるめえ。後から行つて見るから、先へ歸つて待つてくれ」
「さう仰しやらずに親分」
 斯うしてゐるうちにも、五歳になる伜の時次郎が、恐ろしい速力で自分達の手の及ばぬところへ飛んで行つて了ふとでも思ひ込んでゐる樣子です。
「八、そんな氣の長いことを言はずに、今直ぐ一緒に行つて見てやるが宜い、俺も後から追ひ付くから」
「へエ――」
 隣の部屋から平次に聲を掛けられると一も二もありません。八五郎は寢足らぬ顏を水で洗つて、荒物屋の亭主と飛んで行きました。
 飯田町へ駈け付けて見たところで、八五郎が出澁でしぶつたのも無理はなく、夜の明けぬうちは、何處を搜して見る當てもありませんでした。
「いつものやうに、薄暗くなるまで外で遊んでゐました。五つと言つても智慧も柄も六つ七つに見える方で、夕方のいそがしいときは、よく一人で遊んで居ります。お隣の堀江樣の坊つちやまが誘拐かどはかされたといふ話も聞きましたが、あれは身分の方のことで、手前共のきたな餓鬼がきをさらつたところで、百文にもなるわけはなく、安心して眼を離してゐたのが間違ひでございました。こいつは矢張り神隱しとでも申すやうなものでせうか」
 亭主と女房はひどい興奮と焦躁せうさうにかり立てられて、かはる/″\斯う語るのでした。
「江戸の眞ん中で、そんな馬鹿なことがあるわけはない。いづれ人間の仕業だらうが、日頃子供を手なづけて居る者に心當りはないのかな」
「一向心當りは御座いません。どなたにでもよくなつく子で、平常ふだんからそればかり心配して、知らない方と、一緒に遠くへ行かないやう、うつかり物などを貰はないやうにと言ひふくめて置きましたが――」
 女房はさう言ひ乍ら、自分の不行屆を責めてさめ/″\と泣くのです。
 其處へ平次も駈け付けましたが、さて手の下しやうもありません。


 その日の晝過ぎ、荒物屋に一通の手紙を投げ込んだ者があります。取込んでゐた時で、その風體も判らず、小僧が後で店の土間で拾つて騷ぎになりましたが、その時はもう投げ込んだ者の姿もなく、お隣の堀江家の通用門へ女の姿がチラと隱れたのを見たといふ者もありますが、あまり當てにはなりません。
 手紙は小菊こぎくを一枚、小さく疊んだもので、中には文字がたつた三行、
子どもは しばらく あづかる 心配無用 いのちに別條はない
 とう書いてあるのでした。相當に書ける筆跡を隱して荒々しく書いたもので、
「氣をつけて見るが宜い、亂暴に書きなぐつては居るが、角々の滑らかな、假名書かながきのくせと、妙に優しいところがあるだらう。これは間違ひもなく女の書いたものだ」
 平次はさう言ふのです。
 その日一日頑張つて見ましたが大した收獲もなく、平次は八五郎だけを殘して自分の家へ引揚げました。
 その晩も遲くなつて歸つて來た八五郎の報告によれば、荒物屋の方は何んの變つたこともなく、堀江家の方は、姉の奧方を慰めに來たといふ妹のお淺が、日が暮れてから歸つて行きましたが、間もなく若黨の三次が、それを追ふやうに出て行き、酉刻半むつはん頃(七時)お妾のお若の兄といふ林次がやつて來て、一とき近くお若のところで油を賣つて歸つたといふのです。
「持つて來た品か、持出した品はないのか」
 平次は妙なことを訊きました。
「お淺が小さい風呂敷包を大事さうに抱へて行きましたが、あとは空手からてで、人間一人隱して持込んだ樣子はありませんよ」
 八五郎は先をくゞつて斯んな事を言ふのです。
 その翌日は、今度は堀江の屋敷から出入りの職人がちうを飛んで來ました。
「大變、親分、直ぐ來て下さい」
「何んだ、何が大變なんだ」
 居合せたガラツ八が、親分の眞似をして妙に落付き拂ひます。
「若黨の三次が殺されたんです」
「何?」
「お屋敷の塀の外で、辻斬にでもやられたんでせう、眞つ向から梨割なしわりに斬られて死んでゐました」
「そいつは大變だ」
 ガラツ八もさすがに驚きましたが、平次はその掛合を隣の部屋で聽くと、早くも支度をして出て來ました。
「行つて見よう、八」
「へエ――」
 親分と子分と、それから使の者は、物をも言はずに飯田町へ飛んだことは言ふ迄もありません。
 若黨三次の死骸は、堀江家裏手の塀外にありました。
 町役人が二三人と、掛り合の近所の衆と、それに堀江家の用人松山常五郎が出て見張りをして居りますが、何う處置したものか、工夫くふうに餘つて、睨み合ひのまゝ時が經つて行く樣子でした。
「御免、檢屍前によく見て置き度い」
 平次はむしろを取りました。その下にある死骸は、みにくい恰好に崩折れた若黨の三次で、小意氣な男前も斯うなつては慘憺さんたんたるものです。傷は腦天から二三寸斬下げた凄い業、恐らく聲も立てずに死んだことでせう。
「正面からこれだけ斬るのは親分」
「三次が油斷をする相手だ、そして凄い腕前だ、――少し血が少ないとは思はないか」
「さう言へばさうですね」
 平次と八五郎はこんなことを應酬おうしうして居ります。
「昨夕三次は何處へ行つたんでせう」
 平次は用人の松山常五郎に訊ねました。
「毎晩のことだから、わからないが、いづれ何處かの賭場とばへでも潜り込んで居たことと思ふが」
 松山常五郎の調子には、ひどく三次をこきおろすやうな響きがあります。
「遲く歸つた時は何處から入るんです」
「通用門の潜戸くゞりどは何時でも開いてゐるよ」
「念のためにお屋敷の中と、三次の部屋を見せて下さいませんか」
「あ、宜いとも」
 松山常五郎が案内して堀江の屋敷に入りました。
 潜戸を入つて二三十歩行くと、新に芝地を掘り返した畑で、くはの跡も生々なま/\しいところへ、白いものが一つ落ちて居ります。
 拾ひ上げて見ると、それは子供の玩具おもちや――ろくろ細工に彩色いろどりをした兎、しかもその兎には、少しばかり血さへ附いて居るではありませんか。
「近所の子がよく御門内へ入るから喃」
 松山常五郎はそれを見て、辯解らしく言ひます。
 三次の部屋は何んの變哲もなく、持物もひどく少ないのですが、不思議なことに押入から引出した行李かうりの中からは、紙に包んだ小判が十枚ほど出て來たのです。
「大層工面くめんの良い男ですね」
 年に四兩の若黨の給料では、十兩溜めるのは容易のことではありません。
 それに、
「三次は勝負事が好きだと言つたね」
「勝つて來た十兩かも知れませんよ」
「この紙の匂ひを嗅いで御覽、勝負事でまうけた金を、こんな紙に包む奴があるだらうか」
「へエー、こいつは女の匂ひですね」
 八五郎は大きい鼻をヒクヒクさせて居ります。
 紙には高價な化粧品――仙女香せんによかうあたりでなければ眞似られない匂がしみ込んでゐるのでした。


 平次はその間に、多勢のしたぴきと八五郎を動員して、妾のお若の身許と、その兄と言つてる林次の素姓を念入りに洗ひました。
「二人の子供の方は何うなるんです」
「それも追々わかるよ」
「堀江の殿樣が、――今まで、お妾の子にばかりチヤホヤして居たのが、奧方の子がさらはれてから、急に――秀太郎の行方はまだわからぬか、秀太郎はどうしたらう――とそればかり心配するやうになつた樣ですよ、妙なものですね」
「それが親心といふものだらう。――ところで、今晩俺と一緒に市ヶ谷の奧方のお里まで行つてくれ」
「何があるんです」
「何んでも宜い、その時になればわかることだ」
 平次はそんな事を言つて八五郎の好奇心をつて居ります。
 その晩市ヶ谷の月岡某の浪宅――堀江頼母たのもの奧方の里方に集まつたのは、堀江の奧方お鈴、妹のお淺、弟の月岡某夫婦、それに堀江家の用人松山常五郎と、錢形平次、その子分八五郎の七人でした。
 八疊の質素な部屋に、首をあつめるやうに並んだ六人は、何を切出すかわからぬ、錢形平次の話に固唾かたづを呑みます。
「さて、皆樣、わざ/\お集まりを願つたのは、お頼みの堀江樣若樣、秀太郎樣と、荒物屋の伜時次郎の行方がわかつたからでございます」
「――」
 六人は居ずまひを直して互に顏を見合せました。
「本來ならばお屋敷へ申上げるところですが、その前に心得のため皆樣の御耳に入れ度いと存じ、此處にお集りを願ひました」
 平次は何んのたくみもなく、いとも平淡に話を進めました。
「若樣は――母御樣は人なつつこいと仰しやいましたが、どちらかと申すとかんのお強い方で、滅多な方と一緒に、何處へもいらつしやる筈もなく、あの晩お屋敷では外へ出た方もないところを見ると、外から若樣を音も立てずにれ出せる方は、たつた一人しかございません」
「――」
 ハツと首を垂れたのは奧方の妹のお淺でした。
「これは奧方とお話合ひの上で伴れ出しなすつたことで、――奧樣が翌る日外へ出られたのは、若樣とお逢ひになる爲であつたと思ひます。そして築土つくど八幡樣へお廻りになつて、お神籤みくじをお引きになつた、お神簸は吉であつたのに、凶であつたと仰しやいました。――そればかりでなく奧樣の御歎きは、大袈裟おほげさではありましたが、決してお人柄相應のものではなく、多分にお芝居があつたやうに見受けました」
「――」
 平次はズケズケと言つて退けます。今度はハツと首をれたのは奧方のお鈴でした。
「その翌日にお淺さんが飯田町のお屋敷へ來られたのは、若樣がむづかるので、玩具を持つて行く爲だつたと思ひます。四つになる若樣はなか/\なだめ切れない、現にその前の日は、日頃仲好しの荒物屋の伜をつれ出して當分若樣のお相手をさせる氣になつた――これは少しやり過ぎでした」
「――」
「このいきさつを嗅ぎ出した若黨の三次は多分奧方を強請ゆすつたことでせう。先づ十兩の金はお渡しになつたが、二度目の時は、お淺樣のあとをつけて若樣を隱した場所を突きとめ、若樣の玩具――ろくろ細工の兎を持つて來て今度は御用人をゆすつた。御用人は最初此細工を知らなかつたが段々聽いて見ると奧方がお氣の毒になり、それにつけても三次の惡黨振りに我慢がなり兼ねて、裏へつれ出して切つて捨てた。眞つ向から斬つたのは、あの月夜では懇意なものでなければならず、腕のさえから見て、私は御用人の外にないと見拔きました」
 三人目、用人松山常五郎は默つてうなづきました。
「血の跡を隱すために、芝地を掘返して、急に畑にし、死骸は塀外へ取捨てられたが、血の附いた玩具までは氣がつかなかつた」
「――」
「如何でせう。この平次の申上げたことに違つたことや足りないところはなかつたでせうか。私は町方の御用聞で、御大身の御旗本の内證事ないしよごとにまで、口を入れ度くはございませんが、折角のお言葉で、これだけ調べ上げました」
 平次は靜かに言ひ終ります。それを待つてゐたやうに、
「一言もない、まさにその通りだ。萬事は此松山常五郎の不行屆から起つたこと、御免」
「ま、待つておくんなさいまし、二本差は、すぐそれだから大嫌ひさ。ね、松山樣、腹を切つたつて、をさまるものは納まり、納まらないものは納まりません。それより何も彼も打明けて、此處まで追ひ込んだ奧方の御難儀を救ふ氣になりませんか」
 平次はあわてて留めました。この松山常五郎といふ用人は、平次の鑑定通り見かけに寄らぬ純情家だつたのです。
「平次殿、許して下さい。皆んな私が到らぬから起つたことでございます」
 奧方は膝の手を滑らして、疊の上へ崩折れました。
 誰にともなく詫び度い心持でせう、重さうな頭を幾度も/\下げると、はふり落ちる涙が疊を班々はん/\と濡らします。
「妹には、若(秀太郎)が毒害されるかも知れないから、暫らく身を隱させるやうにと頼みましたが、實は――實は――」
「――」
 奧方は言ひしぶりましたが、擧げた顏が平次の熱心な瞳に逢ふと、思ひ切つた調子で、
「さうでもしたら殿樣が、若(秀太郎)やこの私を不憫ふびんと思つて下さるかしらと、淺墓な心持でやつたことでございます。何んといふ馬鹿な私だつたでせう。その爲に荒物屋夫婦にも歎きをかけ、若黨の三次は命をうしなひました。私はもう、私はもう」
 奧方は唯ひた泣きに泣くのです。
「よくわかりました。御心配なさいますな、平次は胸一つに疊んで、この事は生涯しやうがい口にも出しません。若樣と荒物屋の子が、神隱しになつてゐたことにし、今晩築土つくど八幡樣の境内で見附けて來たと言つて、お屋敷へおつれなさいまし」
「それは本當かい、平次。そして此私は、罪の深いこの私は?」
「何んの、罪も、糸瓜へちまもありやしません。夫の心をしつかと押へて、本妻の格式と、一粒種の子供を護り通さうといふ女には、それ位のことは許されて宜い筈です。若黨の三次は舊惡のむくいで、強請ゆすりそこねて斬られたに違ひありません。誰が奧樣をとがめるものでせう」
「有難い、平次、この御恩は」
 奧方も、お淺も、用人常五郎までが思はず手を合せるのでした。
「拜んぢやいけません、佛樣にされるにはまだ早い、――ところで、お妾のお若、あの女の惡い素姓をすつかり洗ひ出しましたよ。林次といふのは兄貴ではなくて、櫓下やぐらしたに居る頃からの深間で、今では亭主も同樣です。あの子――徳松だつて、誰の子だかわかつたものぢやありません。こいつは奧方のお口から申上げにくいでせうから、動かぬ證據を揃へて、あつしから殿樣へ申上げませう」
 一座はたゞ、感激にひたつて言葉もありません。
「サア、八、供揃ひだ。若樣を守護して、餅の木坂のお屋敷へ歸るんだ。――今晩にも殿樣にお目通りを願つて、これにりて安妾なんか置かないやうに申上げよう、神罰はあらたかだぜ」
 平次は斯んな事を言ひ乍ら、しよんぼりと留守宅に平次の歸りを待つてゐる、戀女房のお靜のことを考へてゐたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第十九卷 神隱し」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年11月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1946(昭和21)年11月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年3月4日作成
2017年3月4日修正
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