いつものやうに、この話は、八五郎の
「ところで親分」
「何が『ところで』なんだ、
棚の落ちたのも吊れないやうな、不器用な平次が、唐紙の穴を
「錢形の親分が、唐紙の繕ひをしてゐるんだから、天下
「話は順序を立てなくちやわからないよ、――ところで――どうしたんだ」
平次は向き直つて、煙管をポンと叩きました。まだ
「危ねえな、どうも。その剃刀が氣になつて、あつしの智惠は人見知りをするから、話の繼ぎ穗を忘れてしまひましたよ」
「だから、八さん、そんな危ない細工を
それは女房のお靜でした。平次が小細工を始めると、不器用でそゝつかしいから、切出しや削刀が青江村正ほどの
「お前は默つてゐろ、――横町の御浪人は、
「御尤もで――ところで――」
「その――ところで――の後を聽くんだつけ。手つ取早く打ちまけなよ、――金を貸せと言つたつて、驚きやしないから」
「その口は別にお願ひするとして、へツ/\、うつかりねだると、
「嫌な野郎だな――お小遣を借りるのに、
「ところで、親分」
「あれ、まだ本題に入らないのか、氣の長げえ野郎だ」
「早速本題に入りますがね。谷中三崎町から谷を
「何? 源氏長屋? 聽いたことのねえ名前だな、――其處には九郎判官義經公でも隱れてゐるのか?」
「そんな武骨なんぢやありませんよ。水も垂れさうな良い男ばかり揃つてゐるから、源氏長屋」
「理窟だな。平家
「そんな事を言ふと怒られますぜ、――ところで、その源氏長屋に、近頃變なことがあるから、あつしにも引越して來て、仲間になつてくれといふんですが、どうしたものでせうね」
「あれ、お前も光る源氏の仲間へ
八五郎と平次の話は、いつもの調子で發展するのでした。相變らずの無駄と遊びの多い話し振りですが、この調子でないと、
「まア、そんなことで、――源氏長屋の主人鈴川
「待つてくれ、それは、鈴木主水の間違ひぢやないのか、口説き歌の文句にあるぢやないか、――鈴木主水といふ侍は、今日も明日もと女郎買ひめさる――といふ」
「そいつは青山のお侍でせう。こつちは東海道鈴川の宿の鈴川で三十四、五の御浪人だが、良い男ですよ。金は馬に喰はせるほど持つてゐるが、恐ろしい
「フーム」
「
「――」
「それから、
「それつきりか」
「まだありますよ、下男の
「ところで、お前のその講中にならうといふのか。大した出世ぢやないか」
「そんなわけぢやありませんがね、主人の鈴川主水のいふことには――良い男ばかり集つてゐると
「すると、たまには良い男でないのも泊めて、世間の評判を誤魔化さうといふ計略ではないのか」
平次は何處までも
「いろ/\訊いて見ると、近頃その源氏長家[#「長家」はママ]に變なことが續くんですつて」
「はてね」
「主人の弟の佐野松が、妙にソハソハして來たと思ふと、次第々々に影が薄くなつて、痩せが眼につくといふから唯事ぢやありません」
「――」
「主人の鈴川主水が、いろ/\氣をつけてゐると、
「よくある話だな」
「狐狸のわざなら、退治して後の
八五郎の話には、何んとなく常識で割りきれない、途方もなさがありました。源氏長家[#「長家」はママ]とやらの主人の身許も怪しく、三人も四人もの良い男を
「そいつは、岩見重太郎の畠ぢやないか」
「岩見――つて、何處の良い男です」
「馬鹿だなア、滅法強い武者修行の武家だよ」
「あ、あの
かう言つた八五郎です。
「だがな、八。そんなところへ飛込んで、人の戀路の邪魔をする奴は、昔から犬に食はれて死ねば宜い――といふことになつてゐるぜ」
「それは心得てますがね、――鈴川
「隱し戸か何んかあるんだらう」
「そんなものはありやしません。
「――」
「最初のうちは、面白がつて邪魔をした人達も、近頃は氣味を惡がつて寄りつかないから、逢引はもう大つぴらだ」
「?」
「雨戸の隙間から、スーツと入つて、薄ドロ一つ鳴らずに、引拔いて綺麗な姉樣になる圖なんかは、付き合ひきれねえぢやありませんか。家中は總腰拔かしの、時分どきになると、
「夕立ぢやあるめえし、――それにしても、當の佐野松とやらに、意見をする者はないのか」
「親分ほどの人も、この道にかけては、まるつきり
「成程そんなこともあるだらうな、――ところで、お前に何をしろといふのだ」
「あつしが行つて睨んだら、怪しい女の正體もわかるだらうし、次第によつては、その岩見重太郎一と役を買つて出て、女
「寸法通りに行きや宜いが、――ところで、その源氏長家[#「長家」はママ]の主人の鈴川主水とやらは、ヤツトウの方はいけないのか」
「色男金と力はなかりけり――の
「何處でその金を
「其處まではわかりませんよ。いづれ筋の良い金山でも持つてゐるんでせうよ」
「妙に氣になる話だな。兎も角行つて見るが宜い。良い男の仲間に入つて、その長んがい
平次の同意を受けると、八五郎は喜び勇んで色男の仲間入りに飛んで行きました。
それから二、三日、秋の長雨に降り込められて、錢形平次も
「親分、お早やうございます。いや、驚いたの、驚かねえの」
と、八五郎が唄ひ込むのです。
「たま/\お天氣になつて驚いたのか、
「蛞蝓にもなりますよ。あつしの頬ぺたを見て下さいな、火ぶくれになりやしませんか」
「蛞蝓が火ぶくれを拵へるものか。三河島の火葬場で、
「嫌になるなア、あつしの行つたのは千駄木ですよ。尤もそれから谷中三崎町で引留められて、三日三晩の
「それ見な、谷中から、火葬場は遠くはねえ」
「まだ火葬場にこだはつてゐるんですね。あつしが行つたのは谷中の女世帶、
「何んだ、
「弱つたなア、――先づ聽いて下さいよ。
「名前は?」
「――えふ――とだけ、使の小娘に訊くと、ついて來ればわかるといふ。若い女に呼出しをかけられて行かないとあつちや男の耻だ」
「若いか、年を取つてるか、手紙ではわかるまい」
「源氏長屋にゐるあつしを呼出すんだから相手は若いにきまつてゐますよ」
「その氣だからお前は皆樣に可愛がられる」
「兎も角も、あの雨の中を、十三、四の小娘と
「サア、あの邊には變なのが澤山あるよ。いろは茶屋に、ろくろ長屋、山を下りると、
「そんな嫌なんぢやありませんよ、谷中三崎町のお葉の茶屋」
「なんだいそれは?」
「えふと書いてお葉と讀むんですつてね。お寺詣りのお年寄を目當ての水茶屋だが、女主人はお葉と言つて三十前後、商賣人上がりらしい、青黒く白粉燒けのした年増。眼が大きくて
「それから、どうした」
八五郎の話は、馬鹿々々しいうちにも、底の知れない怪奇さがありました。平次がツイ乘出したのも無理はありません。
「それつきりですよ。四人の女を相手に、昔
「呆れた野郎だ。千駄木の源氏長屋の方はどうした」
「バツが惡くなつて、到頭行かず仕舞ひ。今朝起きて見ると、この通りの天氣でせう。顏を洗ふことにして、裏の共同井戸に飛出すと、そのまゝ水下駄を突つかけて逃げ出しましたよ」
「女護ヶ島から逃出して來たのか、
「それが、そのね」
「馬鹿野郎、
「それが、その、少しもわからないから、いやになるぢやありませんか」
「女主人のお葉は何をしてゐるんだ」
「店は小女に任せつきり、大店の女隱居見たいですよ。化粧も何んにもしない、青黒い白粉燒けのした素顏で、――客にお愛想を一つ言ふぢやなし、店は
「そんな家へ入つて、三日も呑み倒して來る、お前の膽つ玉は大したものだよ」
「でも、女
「命を? はてね」
「三年前、思案にあまることがあつて、兩國橋から身を投げようとしたとき、後ろから抱き止めてその不心得を散々言ひ聽かせた上、『
「フーム、そんな事があつたのかえ、――少しも知らずにゐたが」
「さう言はれると極りが惡いが」
「人を助けて、默つてゐるのは、出來ないことだよ。フーム」
平次がしきりに感心するのです。
「ところがどうも、あつしにはそんな覺えがないんで」
「覺えがない? よく思ひ出して見ろ。お前はそゝつかしいから、忘れてゐるのかも知れないよ」
「親分と一緒に身投げを助けたことはあるが、一人で助けたのは子供達にいぢめられてゐる、猫の子を助けただけで」
「心細い野郎だな」
「でも、人の命を助けたことなんか、
八五郎はさう言つて、自分の懷ろなどを搜してゐるのです。
女護ヶ島のやうな、
「その間に、變つたことがなかつたのか」
「何んにもありませんよ。たゞもう、食べて呑んで、騷いだだけ――命の恩人といふものは、大したものですね」
「助けた覺えがないのに、命の恩人扱ひは變ぢやないか。人違ひではなかつたのか」
「あつしも、たゞ御馳走になつては、
「それがお前だつたのか」
「ちよいと顎は長いけれど、良い男の八五郎親分を、見違へる筈はない――と、かうお葉は言ふんで」
「良い男の八五郎親分とね。まア、大負けに負けて良い男にして置かう。それから」
「死ななきやならないわけを話すと、いろ/\とその不心得を言ひ聽かせた上、これは少しだが、何んかの足しに――と、財布ごと私に下すつた――と當人が言ふんですよ」
「フーン」
「中味はかなり重かつたから、十兩や二十兩は入つてゐたかも知れない。極りが惡くなつて、死ぬのは思ひ止つたけれど、財布は返して逃げ出した。そのはずみに、橋の上に落ちて、小判が何枚か、バラバラと散つて、
「お前は、そんな大金を持つて歩いた覺えがあるのか」
「それがどうも思ひ出せませんよ、――それからお葉は命の恩人の八五郎親分のことを一
「嘘をつきやがれ」
「まア、嘘でも何んでも。二日三晩、浦島太郎が龍宮へ行つたやうな心持で、チヤホヤされて來たんだから、――こいつは
「さう言へば、その通りだが」
平次はまだ腑に落ちない顏をしてをります。
「八五郎親分が來てゐるでせう、千駄木から急の使ひですよ。
と息せき切つての報告です。
螢澤の鈴川家の騷ぎといふのは、朝になつて發見されたことですが、主人の弟の佐野松が、密閉された
平次と八五郎が行き着いたのはもう晝近い頃でした。
「おや、錢形の親分。飛んだ人騷がせで、相濟まんことぢや」
迎へてくれた主人鈴川
「お氣の毒なことで、――離屋とやらへ、御案内を願ひます」
「こちらになつてゐるが――、八五郎殿が見張つて下されば、こんなことにならなかつたかも知れない」
さう言つて鈴川主水はチラリと八五郎を見るのです。
「八五郎は他に御用がありましたので」
平次はさう取りなして、これも照れ臭さうな八五郎の顏をチラリと見ました。當の八五郎は長んがい顎をくひ
「何分、弟は
鈴川主水は庭先の離屋を指さすのです。七坪か八坪の小さい家、コジあけた雨戸は庭に
「お、錢形の親分だ」
誰かが聲をかけると、五、六人が道をあけてくれました。武家と言つても、久しい浪人暮しの、主人も
平次は先づ、死骸を調べることにして、離屋の中に入りました。六疊と四疊半の二た間、元隱居家に建てたものらしく、木口も
剃刀で大の男の頸動脈を掻き切つて、聲も立てさせずに殺すのは、これは容易ならぬ手際でなければよく顏見知りの、――例へば仲の良い女などが、首つ玉に抱きつくやうにして、思ひきり深々とやつたものでせう。
それにしても、平次を驚かしたのは、この
これは本當に男であらうか――? と、さう疑つたほどの端整な顏立ちです。少し死の色に
年は二十二歳と聞きましたが、小意氣な
「親分、
八五郎は鼻の穴をふくらませてをります。
「こちとらと比べものになるものか、金があり過ぎて、困つてゐる樣子だ」
「そんな
「何を腹を立てるんだ。佛樣の前で餘計なことを言つちや、岡つ引はたしなみが惡いと思はれるぜ」
平次は一應たしなめました。八五郎は遠慮がないから、何を言ひ出すかわかりません。
「でも、こんな寢卷は
「なるほどなア、――晝の着物でないことは柄や帶の樣子でも確かだが、――待てよ、八」
「へエ」
平次は
「下着を贅澤にするのは、道樂者に限るといふぢやないか」
「さう言ひますね。
「お前の言ふことは一々ブチこはしだよ。もう少しお品がよくならないものかな」
「尤も豪勢な寢卷で、
「香もなまめかしいのが良いな。おや、
「成る程、通つて來る女を待つてゐたんですね――畜生ツ」
「また
「へエ」
「ところで、待人はなか/\來なかつたらしい。水差もそのまゝ、座布團も
「?」
「宵は待ち夜中は恨み――」
「なるほど、待ちくたびれて、ツイ、ウトウトとしたところへ、戀人が入つて來て、寢相の惡さに愛想を盡かして、プツリとやつてしまつた」
「そんな馬鹿なことがあるものか。寢相が惡くて殺された日には、お前なんか一年に三百六十の命があつてもたまるまい」
「へエ、成程、晝寢で火鉢を蹴飛ばすこともある」
「ふざけちやいけない、――兎も角も、待ちくたびれて、うと/\したところをやられたといふ、お前の見立ては面白い。顏も至つて柔和で、驚いたかも知れないが、もがいた樣子も、苦しんだ樣子もない」
その時の樣子が、平次の言葉で次第に再現されるのです
「布團の
「
「そんなことをしたら、死物狂ひでハネ返しはしませんか」
八五郎も死骸には馴れてゐるので、なか/\要領の良い問ひを出します。
「喉笛を切つて、す早く口を塞ぐ、――これは手輕に出來さうだがなか/\むづかしい、餘つ程力のあるものでなきや」
「すると、下手人は、待たれた女ぢやありませんね」
「女にも強いのがあり、男にも弱いのもあるよ、――それから、今朝死骸を見付けた時、行燈の有明が
「へエ、ちよいと待つて下さい」
八五郎は飛出しました。が、平次は後に殘つて、窓を調べたり、雨戸を引いて見たり、
その間平次は、何度か立止つて首を曲げて獨り言を言つてをりました。何やら、ひどく
「親分、今朝下男の猪之松がこの離屋の雨戸をはづして飛込んだとき、行燈は消えてゐたさうですよ」
八五郎が戻つての報告です。
「誰がそんなことを言つた」
「猪之松本人が言ふんだから確かでせう。
「それは、面白いな、八」
「何が面白いんです」
八五郎には、それだけのことでは、一向に面白くも何んともない樣子です。
「暗いところで、手の
「人なんか殺しませんよ」
まことに八五郎は達觀してをります。
「成程な、お前は人殺しにはなれまいよ。だが、お前が下手人だとしたら、灯のついた部屋へ入つて、どうすると思ふ」
「さア?」
「相手を殺す氣で入つたものなら、寢てゐる佐野松の樣子をとくと見定めてから、先づ灯を消すだらう。誰にも顏を見られたくないはずだ。首尾よく殺してしまつても、死人に顏なんぞ見られたくないだらう。万一やり損くなつたとしたら、顏を見られると大變だ、――もつとも、顏を見てゐて不意に殺したくなれば別だが」
「へエ、親分がやつたやうですね」
八五郎はまた途方もないことを言ひます。
「馬鹿なことをいへ、――もつとも、人を殺したものは、百人のうち九十九人まで、いや、万に一つも逃れやうはない。どんな上手に
平次はいつになく妙なことをいふのです。
「八、雨戸を皆んな締めてくれ」
「何をやらかすんで?」
「下手人は何處から入つて、何處から逃げたか、それを
平次がさう言つたのも無理のないことでした。離屋はいつも嚴重に締めてゐて、岡燒きどもが、どんなに注意しても、
「合圖をして、戸を開けて貰つて入つたのぢやありませんか」
「いや、雨戸も窓も、いつでも締つてゐるさうだ、――それに、佐野松は昨夜に限つては、誰も引入れた樣子はなく、獨りで眠つてゐたところを殺されてゐる」
「成程ね」
八五郎は立ち上がつて、離屋の雨戸を全部締めてしまひました。ほかに格子を打つた窓が二カ所、これは釘が嚴重に
離屋は六疊と長四疊の二た間、六疊の方には狹い濡れ縁があり、四疊の方は半分物置になつて、雨戸は三枚と二枚、その三枚の雨戸の外の濡れ縁は、いつぞや灰を
雨戸はなか/\の良い建具で、平次の家や八五郎の宿のやうに、板が反つくり返つて、
「すつかり締めきりましたよ。六疊の外の三枚の雨戸は、鵜の毛の
八五郎は言ふのです。
「成程これぢや、お化けの入る節穴もない」
平次も少しがつかりした樣子です。
「長四疊の外の、二枚の雨戸には、夕空の星ほど、ボツボツ穴がありますね」
「そいつは、板を打ちつけた釘の拔けた穴だよ」
此方の方はさすがに木が荒れてをりますが、それは
「それにしても、この穴は少し大きいやうで――」
八五郎は、雨戸の引手のあたり
「八五郎親分の前だが、これくらゐの小さい穴では、重い雨戸を外から開けたり締めたりすることはむづかしからう。上下の棧のほかに、輪鍵を掛けることになつてゐるから」
後ろから聲をかけたのは、下男の猪之松でした。色の黒い、
「今朝、お前さんが開けた時、上下の棧も輪鍵も、無事に掛つてゐたのか」
錢形平次はそのまた後ろから聲をかけました。
「間違ひもなく、上下の
猪之松はかう言ひきるのです。尤も、後で主人の鈴川
天井にも屋根にも變つたところがなく、縁の下の土はよく
「これは驚いた。狐か狸かは知らないが、
平次も此處まで來ると、手のつけやうもありません。
「不思議なことがあるものですね、親分」
猪之松は、平次にさう言はれてはつきり不思議に突き當つたやうに、不愛想な顏をふり仰ぐのです。
「何にか、氣の付いたことはないのか、猪之さん」
平次はさう
「さア、私のやうな素人は、何が何やら少しもわかりませんが――」
「例へば、殺された佐野松を
「佐野松さんは、あの通りの良い男で、
猪之松の言ふことは、何が何やら、含みがありさうで、簡單にはわかりません。
「通つて來た女の素姓は?」
「それもわかりませんが、私は妙なものを拾つたことがあります?」
「妙なもの?」
「ほんの二、三日前ですが、お庭を
猪之松は腹掛の
「どれ?」
猪之松の取出したのは、白粉と
「女の化粧道具のやうですが――」
「牡丹刷毛だよ。うんと
「何んに使つたものでせう、
「その濡れ縁に乾いた土を
「あ、成る程」
八五郎と猪之松は、早速實驗に取りかゝりました。猪之松が持つて來た灰、それを
「あ、この通りでしたよ。猫にしては少し大きい足跡、狐か狸か知らないが、そつくりこのまゝでしたよ」
猪之松が先づ大きい聲でわめくのです。
「すると、妖怪變化と見せて、實は人間樣の美い女だつたのか、畜生ツ」
などと、佐野松の死骸が、ツイ其處に
「こんな細工をしたのは誰だらう。お前には見當がついてゐる筈だが――」
平次は下男の猪之松の顏を眞つ正面から見るのでした。
「あつしは何んにも存じませんが、――佐野松さんところへ、
猪之松はひどく困惑してをります。二十二、三と見えますが、陽に
猪之松の口の堅さうなのを見ると、平次は諦らめた樣子で母家へ引あげました。この上は主人の鈴川
「八、お前に頼みがあるが」
「何んです? 親分」
「熊手があるだらうと思ふが、それを借りて、縁の下から庭一面を掻き出して見てくれ」
「へエ、熊手をね。
八五郎は甚だ不服さうな顏でした。
「得物を搜すんだよ。ワケを言はなきや、お前にはピンと來ないだらうが」
「?」
「佐野松の喉の傷は、糸よりも細い。
「へツ」
八五郎は膽をつぶしました。平次の
「そんな道具を、血の付いたまゝ、持つて歩く筈はない。曲者は用の濟んだ後で、縁の下か庭の藪の中の、土の柔かいところへ深々差し込んで行つたに違ひあるまいと思ふ」
「あ、成程」
「この邊は場末で、ろくな下水もなく井戸に沈める手もあるが、水を呑む者は不氣味だし、流れなどに
平次は
「暫らく杵太郎さんに伺ひたいことがありますが」
平次がさう言ふと、
「ハイ、ハイ、どうぞ、御自由に。私はもう一度離屋へ行つて、佐野松の
主人の鈴川主水は、一禮して引あげました。身のこなし、物言ひ、すべてのことが節度に叶つてなか/\の人柄です。
後に殘つた杵太郎は、精々十六、七、これは小柄で骨細で、良質の
「折入つて訊きたいが、何事も隱さずに話して下さい」
「ハイ」
大きい前髮が搖れて、
「第一に、御當家の御主人、鈴川主水樣の御身分」
平次は靜かに、だが、嚴重に切出しました。
「御身分は御武家――御浪人といふことになつてをりますか、實は中國筋のさる大藩にお抱への
「いかにも」
士分に取立てられた能役者の成れの果、――いかにも、さう言へば思ひ當る節が澤山あります。
「これは、旦那樣も仰しやつてゐることで、隱すほどのことでは御座いませんが、藝道の家元への
「?」
平次はうなづいて見せます。杵太郎は兩手を膝に揃へた、端然とした姿で續けるのです。お能の子方と言つた、お品の良い態度でした。
「さる年、主家に御家騷動があり、公儀の
「親分、見付けましたよ」
不意に八五郎は、縁側の外から張りあげるのです。
「刄物が見付かつたのか」
平次もツイ乘出しました。この兇器は、なか/\雄辯な證據になりさうです。
「この通り、――親分はさすがに目が高けえ。峰の減つた、使ひ古しの
八五郎はすつかり有頂天になつて、泥のついたまゝの剃刀を振り廻はすのです。
「何處で見付けたんだ」
「縁の下や
「暗いのはお
「そこまでは、わからねえが――」
八五郎が行詰つたところで、後ろから杵太郎が聲を掛けました。
「ちよいと、見せて頂きたい、――ひどく泥が附いてるやうですが見覺えがあります」
「さア、どうぞ」
八五郎の手から受取つた剃刀を平次は杵太郎に取りつぐのです。
「間違ひはありません。これは私の
「えツ」
驚いたのは
「刄の減り具合、籐の卷きやう間違ひもありません」
杵太郎は平然として説明するのです。
「この剃刀の減りやうでは、五年や十年使つたくらゐでは、かうなりません。少くとも、三十年か、五十年とか、幾人もの人が使はなければ?」
「――亡くなつた姉に貰つたものでございます。姉は母から、母は祖母から讓られたものでせう」
切れ味の良い剃刀を、かうして親から子へ、姉から弟へと、何代も傳へるのが、昔の人の
「この削刀で、佐野松さんは殺されたのですぜ」
平次は一本、釘を打ちました。
「それが不思議でなりません。
「八、兎も角も大事な證據だ、――洗つちやいけないよ。そつと紙にでも包んで、お前が預かつてくれ」
「へエ」
「ところで、杵太郎さん」
「ハイ」
八五郎が離屋の方へ引き揚げると、平次は杵太郎の方に改めて向き直りました。
「お前さんは、佐野松さんを怨んではゐなかつたでせうか」
「いえ、そんなことは御座いません。佐野松さんこそ、近頃は私を怨んでをりました」
「それは?」
「旦那樣が、ひどく私を――」
杵太郎はさう言つて、十六歳の美しい頬を染めるのです。
平次はもう一度離屋に引返しました。
「親分、
八五郎の指さしたところを見ると、よく掃き清められた庭。
「土は柔かいな」
平次は少し指で突いて見て、八五郎を振り返りました。
「あつしの
八五郎がさう言ふのも無理のないことです。庭石の側に、
その時、主人の鈴川主水は、八五郎と平次の話の中へ、不安さうな顏を出しました。
「何にか、見付かつたやうで」
小腰を
「この剃刀ですよ。佐野松さんは、これでやられたに違ひありませんが」
「へエ、怖いことで」
「剃刀は、杵太郎さんのものとわかりましたが、それについて、何にか思ひ當ることは御座いませんか」
「いや、何んにも、第一杵太郎は佐野松を殺すわけはありません。あれは至つて弱氣な子で」
鈴川主水は以ての外の首を振るのです。
「佐野松さんのところに、通つて來る女があつたさうですが、御主人はその女を見かけたことはございませんか」
「狐、狸のたぐひでもあらうか、私は知らないが、女が通つて來ることは、杵太郎も猪之松も知つてゐる。夜中に人の氣はひがして、離屋に人の聲が聽えるといふのだ。だが、佐野松は
鈴川主水はさう説明するのです。
「その
「杵太郎は、聲だけ聽いたが、少し年を取つた女のやうであつたと言ひ、猪之松は、若い女に違ひないと言つてゐたやうに思ふ。いづれにしても、
主人の鈴川主水は、矢張り尤もらしいことを言ふのです。
「若しか、――若しか、御主人は谷中三崎町の、お
「いや、いや、一向に知らない」
「此處からは谷一つ
「いや、噂を聽いたこともないが」
鈴川主水はさう答へて、そゝくさと、平次らに背を向けるのです。心なしか、その端正な顏が蒼くなつて、心持ち、
平次と八五郎は、次の舞臺を覗くことになりました。言ふまでもなく、谷中三崎町の女世帶、水茶屋とは名ばかりの、お葉の家だつたのです。
その頃の谷中は、今の常識からかけ距れた存在で、かなりの賑やかな土地でした。一代の
それは兎も角、お葉といふ凄い年増が、谷中三崎町に
「
道々、平次は訊ねました。
「夜つぴて見張つたわけぢやありませんが、どうも出た樣子はありませんよ」
「心細い野郎だな。お前はお葉と前からの知り合ひか」
「顏ぐらゐは知つてますがね。
「そのあんまり親しくもないお前を呼び寄せて、三日も引留めて置いたのは何んのためだと思ふ」
「へツ、へツ」
かう訊かれると、八五郎は、長んがい
「馬鹿だなア、お葉ほどの
「へエ、さうでせうか」
「まだ氣が付かないのか、――お葉がお前を引き
「へエ?」
「お前を用心棒にする氣だつたかも知れない。どうかすると、もつと
「?」
「まだわからねえのか、お前を
「本當でせうか、それは」
「本當過ぎて氣の毒だよ。折角良い男のつもりでゐたのに」
「畜生ツ、どうしてくれやう」
八五郎の
「ところで話はもとへ戻るが、お葉は
「奧には女子供が
八五郎がかう言ふのは、滿更の嘘とも思えません。
「この先の右へ入つたところがお葉の茶屋で。行つて見ませうか、親分」
八五郎は坂の上に立ち止りました。長んがい顎、拔群のノツポ、十手を腰に極めて七三に彌造を
「俺は暫らく樣子が見たい、お前一人で行つて見るが宜い。一年も
「そんなことをしても構ひませんか」
「構はないとも、――次第によつては、平次のところから、當分の暇をもらつて來たとか何んとか」
「やつて見ませうか、お葉は喜びますぜ」
「さううまく行けば宜いが」
「昨夜あたりは、全く變な心持でしたよ。
八五郎は本當にこんな心持でゐたのでせう。
「さうだらうとも」
「現に、本人がさう言ひましたよ、――十手捕繩を返上して、此處へ轉げ込んで來る氣はありませんか、見事私は
「さう/\その氣で行くことだ。こんな時、お前といふ人間は遠慮がなくて、
平次にさう言はれると、何んの
「お、今歸つて來たよ。お葉姐さんはどうしたえ」
などと入つて行く八五郎です。
平次はその後ろ姿を見送つて、寺の門前の捨石に腰をおろしました。男世帶と相對して、谷一つ
お葉の茶屋のことを訊かれた時、鈴川主水がさつと顏色を變へたのも尋常ではなく、それにも
やがて八五郎は、
「いや、驚いたの驚かねえの」
遙か向うから、額を叩いたり舌を出したり、身振り澤山に戻つて來ました。あれから、まだ煙草三服ほども經つてはゐません。
「どうした、八。お葉にうんと怨まれたか、――逃出すなんて、お前さんはひどいとか何んとか」
「大違ひ、――あれは、氣の知れない女ですね」
「世間の女は、
「鼻も引つかけませんよ。昨夜まであんなにチヤホヤしたお葉が、あつしの顏を見ると、――おや、八五郎親分、何んか御用? ですつて」
「はつきりしてゐるな」
「またやつて來たよ――と言ふと」
「何んか忘れ物でもありましたか、
八五郎は腹を立てる張合もない樣子です。
「それでお前は、ハイ左樣でござい――と戻つて來たのか」
平次も少しからかひ氣味でした。
「兎も角も家の中へ入りましたよ。入口で通せん棒をしてゐる、小女のお玉をかき退けて」
「すると?」
「おや、御用なら入口で仰しやつて下されば宜いのに――と來やがる」
「面白いな」
「ちつとも面白かありませんよ。
「よく/\甘く見られたんだな」
「そのうへ言ふことが氣に入らねえ、――此處は女世帶で、こんな綺麗なのばかりをりますから、お泊りは勘辨して下さい。この節はお上の取締りはやかましいんですから――と吐かしやがる。癪にさはるぢやありませんか、現にこのあつしがお上の御用を勤めてゐることも承知のくせに」
「まア、宜い、怒るな、――薄情な女のところへ、
「それにしても、ふざけた女ぢやありませんか」
「この上ふざけちやゐられなかつたのさ。兎も角、昨夜までお前に用事があつたといふ、そこが面白いところだ」
「昨夜まで
「そんな話ぢやないよ。尤も、午の日が過ぎたとたんに、八五郎の顏を忘れた――などは
「冗談ぢやない」
「兎も角、行つて見よう。八五郎親分を安く扱はれちや、町方一統の恥だ」
「それ程でもありませんがね」
平次が先に立つて歩くと、八五郎はその後に續きました。甚だ氣の進まない樣子ですが、此處から歸るわけにも行かず、トボトボと顎で
「御免よ」
平次は店先に顏を出しました。縁臺の
「いらつしやいまし」
女の子の一番若いお玉でした。疊敷の店から降りて、そゝくさと赤い
「お
「あの――先刻出かけましたが」
小女はモヂモヂしてをります。
「冗談ぢやないぜ、おい。ツイ今しがたまで、この俺と話してゐたんだ」
「あ、八五郎親分」
平次のすぐ後ろに、この長んがい顎が續いてゐることに氣がつかなかつたのです。
「つまらねえことをすると、御奉行所の差し紙がつくぜ。え、おい」
八五郎はプンプンとしてをります。
「ま、錢形の親分さん、――お玉は
お葉はあわてて奧から飛んで出ました。三十前後の大年増、
かういつて、動的な良さを持つた女は、商賣人によく見かけますが、お葉はそのうちでも、非常にすぐれた素質を持つており、八五郎をつかまへて、三日も側から離さなかつただけの魅力は十分です。
「暫らく邪魔をするぜ」
平次は靜かに受けて、縁臺に腰をおろしました。それを見ると小女は、あわてて、座布團を持つて來ます。
「ところで、どんな御用でせう。錢形の親分さん」
お葉の顏は緊張して異樣に輝やきます。三十といふ大年増でも眉も落さず、
「八五郎を三日も泊めてくれたさうで、飛んだ厄介だつたね」
平次は切出しました。
「いえ、ツイ淋しかつたもので――惡うございました。御用が多くて、忙しいといふのを承知で、引留めたりして」
「たつたそれだけのことか」
「ま、そんなことで、それに八五郎親分は調子が良いし、お話が面白いから、子供達も離しやしません」
「それはそれとして、今日になつて急に
「――」
「嫌になつたのか、邪魔になつたのか。それとも、耻をかゝせる氣か」
「そんなわけぢやございませんが」
「
「――」
「もう一つ訊きたいことがある」
「?」
お葉はすつかり
「お前は、
「いえ、ちつとも」
お葉はあわてたやうに首を振ります。
「もとは能役者だつたさうでね、――何處の藩に仕へたか、調べさへすれば、直ぐわかることだが」
「――」
「その鈴川主水さんの弟の、佐野松といふ人が、
「――」
「とたんに、八五郎が役濟みになつたのはどういふわけだ」
錢形平次はこの二つの事件に緊密な關係のあることを疑はなかつたのです。
「そんなことはございません、親分」
お葉は
「お前は少し、八五郎を遊び過ぎたよ。人間は甘いやうでも、十手捕繩を預つてゐる男だ。それを
「親分、私は惡かつたかも知れません、八五郎親分を三日も引留めて置いて。でも、それは私のせゐばかりぢやございません。お舟も、お
お葉は一生懸命に辯ずるので、それを聽きながら、チラチラ八五郎の顏を見る、平次の眼の面白さ、八五郎はたうとうたまらなくなつて、
「ね、おい、お葉さん、頼むから止してくれ。言へば言ふほど、このあつしが馬鹿見たいに聽えるぢやないか」
お葉の眼の前に、八ツ手の葉つぱのやうな大きな
「ま、それはそれとして、――八五郎が照れてゐるから、宜い加減にして、お前は三年前に、八五郎に命を助けられたさうだね」
「――」
「三年前の十月一日とか言つたね。兩國橋から身を投げようとしたところを、八五郎に抱きとめられたんだつてね。そして、財布まで貰つたとか言つたね」
「――」
「俺はまた、意地が惡いほど物覺えが良いのだよ、――お前が兩國橋から身を投げようとした、三年前の十月一日、暦の上から考へても闇の夜だ。その上、あの晩は大變なドシヤ降りで、江戸中
「へエ、よく覺えてゐるやうな、忘れたやうな」
「兩國橋の上で、このお葉さんを助けたのは、お前の幽靈でなきや
「――」
お葉は完全に沈默させられてしまひました。八五郎を引入れた口實は、完全に
「さあ、この上は、正直なことを聽かう。何んだつて八五郎を留めて置いたか、
「――」
「言ひにくかつたら、俺が代りに言つてやらうか、――お前は何にかのわけがあつて、時々姿を變えて、
平次の論告は次第に
「嘘だ、嘘だ。そんな馬鹿なことを、この私が」
お葉は激しく手を振つて、平次の言葉を
「いや、嘘ぢやない。
平次は疊みかけて言ふのです。
「違ふ、私ぢやない、皆んなに訊いて見るが宜い。夜になつてからは、私は
お葉は必死と辯解しましたが、平次は意地が惡いほど、それを承服しなかつたのです。
「いや、出た筈だ。出なければ八五郎などを泊めて置く筈はない」
「
お葉は泣くのです。どつと頬を洗ふ涙、口惜しさがこみ上げて、暫らくは袖を噛みます。
「證據といふほどのものではないが、佐野松の部屋の外で、こんなものを拾つたよ」
「――」
「女でなければ使はない
「そんなもの、誰が盜んで行つて捨てたかわかるものか」
「おつと、それは逃げ口上だ。廣い江戸の中を、お前の化粧道具の中から
「でも、あの家の猪之松さんが、
「猪之松?」
新しい名が、お葉の口から出て來ました。
「え、猪之松さんですよ。あの人はそりや
「近頃も此處へやつて來るのか」
「三日にあげず遊びに來ますよ。金離れが良いし、酒もあまり呑まないし、こんな商賣をしてゐると、斷わりやうはありません。現に昨日もやつて來て、抱きついたり、頬を撫でたり、いやなことばかりするから、八五郎親分を呼ぶと、あわてて逃げ歸つてしまひました。嘘だと思つたら、八五郎親分に訊いて下さい。――それね、八五郎親分も笑つてるでせう。清水寺の
お葉はプリプリしてをります。
「若い男が、水茶屋の女にからかふにしても、
「いえ、何もそんな」
お葉の答へは、妙に
「だが、それだけのことでは、お前が、夜な/\、忍び出なかつたといふ言ひ譯にはならないぜ」
平次はなか/\に追及の手をゆるめません。
「口惜しいね。こんな家から、若い娘三人と、八五郎親分に見張られてゐて、どうして私は外へ出られるだらう」
さう言へばまさにその通りです。入口の三疊には、八五郎がフン反り返つて寢てをり、次の部屋には、三人娘が
平次はその部屋を見せて貰つて、念のため格子を
「待てよ」
もう一度格子を搖すぶつて見ました。格子ごと、そつくりはづして曲者の外へ出た例は、二つ三つ平次の記憶にもあります。此處の格子もハメ込みになつてゐて、上下
「おや、この釘は頭が少し出てゐるぢやないか、隨分變なことをしたものだね」
格子を留めた釘の頸は二、三分づつは拔け出してをり、うつかり手でも引つかけたら、ひどい怪我をすることでせう。
「まア、誰がこんなことをしたんだらう」
顏を出したのは、お葉でした。お葉自身もこれには氣がつかずにゐた樣子です。
お葉が知らずにゐるとすると、これは容易ならぬ細工です。
「
三人娘の一人のお舟は言ふのです。
「まア、あのどしや降りの中を」
お葉は少し
「さう言へば、昨日は、大變な降りでしたね。底が拔けるやうな大雨が、夜になつても續きましたよ」
八五郎は、お葉のために助け舟を出すのでした。三日泊めて貰つて、
「さう/\あのどしや降りは何よりの證據ぢやありませんか。女の私があの中を何處へ行けるものでせう。行つたにしても、濡れたものを、どう始末するんです」
お葉は急に活氣づいて、平次に
「親分、驚きましたね。佐野松殺しの下手人は一體誰でせう」
その晩、二人は二た手に分れて八方を調べ廻つて、明神下の平次の家で落合つたのは、もう
一本つけさして、輕く晩飯をすまして、さて八五郎は言ふのです。
「まだわかるものか、佐野松は色男氣取りで、隨分罪も作つてゐるから、誰に
平次はまだ迷つてゐる樣子です。
「ところで、厚化粧で佐野松のところに通つたのは、矢張りお葉ですね。あの邊には、夜中に谷中から千駄木に通ふ女の姿を見たといふものは、三人や五人ぢやありません」
「それがどうしてお葉とわかるんだ」
「片袖で顏を隱して、人に見られないやうにしてゐたが、背が高くて、身體が輕くて、お化けでなきや、踊の名人か何んか、餘つ程
「――」
「三人の娘達が言つてゐましたよ、お
「お前の聽いたのは、それだけか」
「まだありますよ、鈴川主水は能役者崩れだが、大變な金持なんださうですよ。そのくせ、女道樂は大嫌ひで、――妙な野郎ですね」
「女道樂が嫌ひなら妙な野郎か」
「取つかへ、引つかへ、綺麗な
八五郎の調子はいかにも苦々しさうでした。言ふまでもなくこの男は、大のフエミニストで、吉原禮讃者で、そして、歌舞の
「それくらゐのことはわかつてゐるが、ほかにはないのか。お前の調べは、たつたそれだけか」
「これつきりですよ、――尤もあとで考へると、親分の言つたことにも、嘘はありますね」
「何が嘘なんだ」
「三年前の十月一日、江戸は大雨で、あつしと親分と八丁堀の組屋敷へ行つた――なんて、ありや大嘘ですね」
「さうかなア」
「その日は丁度、親分と一緒に
「そんなこともあつたかなア」
「あつしがお葉を兩國橋で助けたのも
「ハツ、ハツ、ハツ、それで宜いのだよ。お前さへ菊人形のことをよく思ひ出せば、俺は餘計な嘘をつかなくても宜かつたんだ」
「へエツ」
「お蔭で、
「呆れたものだ」
これはまさに八五郎も一本食はされました。
「ところで、俺の方の手柄話をしようか」
平次は少し改まりました。
「何んです。その手柄話といふのは?」
膳を引かせて番茶を入れて、八五郎は呑み足りなさうな
「大した手柄といふわけぢやない。順序を立てて、鈴川主水の身許を調べただけさ」
「へエ?」
「あれは、能役者だと言つた、――そこで、お能方五家の家元を調べる氣で出かけると、二軒目でわけもなくわかつた。流派は遠慮するが、あの鈴川主水といふのは、
「へエ」
「たま/\その家中にお家騷動があり、鈴川主人も惡人方に
「隨分イヤな野郎で」
「お前とは
「たつたそれだけで、へツ」
「俺の眞似をするな、これからが大事なんだ」
「へエ?」
「鈴川主水、良い男で、藝も達者だつたから、女には騷がれた、――あのお
「へエ、するとお葉は鈴川主水のお神さんだつたわけで、へエ」
八五郎の鼻の下は長くなります。
「それは、たつた三年前のこと。お葉は鈴川主水に捨てられて、身投げぐらゐは、やる氣になつたかも知れないよ。
「――」
鈴川主水は、一種の變質者でした。踊の達者で仇つぽくて、この上もなく結構な女房のお葉がだん/\厭になり、内弟子で弟分にしてゐた、佐野松が、次第に好きになつたのは
「鈴川主水が佐野松を好きになればなるほど、女房のお葉を嫌ひになつたのは、氣の毒でもあるが馬鹿々々しい成行きだつた。ゐたたまれなくなつて、お葉が飛出したのは、それは三年前の秋」
「すると?」
「待つてくれ、お前は早
「――」
「佐野松との仲は、誰も知らないが、佐野松が母屋を嫌つて離屋に引つ越したのは、
その翌る日、平次は、與力笹野新三郎の御供をして、甲府へ出かけてしまひました。御用金の間違ひがあつて、勘定奉行御差遣はしの與力と、暫らく旅廻りをしなければならなかつたのです。
留守中、八五郎たつた一人。千駄木から谷中三崎町あたりを調べましたが、八五郎一人では一向に
その間に土地の御用聞などが首を突つ込んで來て、事件を益々わからないものにしてしまひました。そして、平次が戻つて來た時は、事件を
「八、千駄木の鈴川家の一件はどうなつた」
十二日目で、神田明神下の自分の家の六疊に旅裝を脱いで、女房のお靜の汲んでくれた澁茶に喉を
「へ、それが、その」
いつもは大木戸まで迎ひに來てくれる八五郎が、明神下の平次の家の、路地の外に迎へたのは、不精を極め込んだせゐばかりではなかつたのです。
「今頃は、佐野松殺しの曲者は三尺高けえ木の上から、房州の山々でも眺めてゐる頃だと思ふが」
「相濟みません。曲者はどうして、佐野松の部屋へ入つたか、そればかり考へてゐるうちに、十日も經つてしまひましたよ」
かう言つた八五郎です。
「それで、十日目にわかつたのか」
「まア、ほかに
「どんな見當だ。後學のために話してくれ」
「曲者は、佐野松が引入れたに違ひないとわかつたんで」
「へエ、恐ろしい智惠だな、お前は」
「内から締められると、あの離屋は、鐵の箱見たいなもので、外からは入る場所はありません。すると、曲者は佐野松と心易い人間で、――
「えらいツ、其處までわかるのは大したものだ。おいお靜、八五郎親分に上げるんだ、一本つけてくれ」
平次にさう言はれると、お勝手のお靜は心得てお酒の支度に取りかゝつた樣子です。
「からかつちやいけません。それくらゐのことなら、あつしだつてわかりますよ」
「ところで、あとの二日は何をした」
「曲者は何處から出たか考へましたよ」
「成る程」
「入つたものなら出なきやならないでせう。入る時は殺された佐野松に入れて貰つたとして、佐野松を殺して外へ出た後で、誰が戸を締めたでせう? まさか死骸が戸を締める筈はないでせう」
「當り前だ」
「すると、誰か締めなきやならない。あつしはそれを、二日考へましたよ」
まことに、
「二日も考へたら、見當ぐらゐはつくだらう。戸の隙間から出たとか、縁の下を掘つたとか?」
平次は少しからかひ氣味でした。
「
「馬鹿だなア、それは忍術使ひが、木立や林に身を
「さうでせうか」
八五郎はまだ、
「いづれ、俺が考へ出すよ。曲者はあの離屋から脱け出したに違ひないから、やつて出來ないことはあるまい」
「へエ、親分も、木遁の術を心得てゐるんで」
「そんなものは知らねえが、人間のやつたことは、他の人にも必ず出來るに違ひない。劍術の名人が、眞劍で勝負をする時、どう斬り返すか、どう受けるか、どう變化するか、それでさへ、皆んな理づめだ。そのむづかしい變化を、一
「へエ、あつしなんか、その馬鹿の方で、まる二日考へたが、あの離屋から拔け出す工夫は見付かりませんよ」
「それで宜いのだよ」
「あの、鈴川の下男の猪之松の野郎もさう言ひましたよ、――この離屋から、戸を締めたまゝ脱け出すのは、八五郎親分にはむづかしからう――つてね。すると、鈴川の主人の良い男の主水とか言ふのが、ウハツハツハツハと『にて
「何んだい、その『にて候』てえのは?」
「狂言には、そんな間拔けな笑ひがあるんですつてね、――
「つまらねえことが癪にさはるんだな」
「だつて、笑はれたのはあつしでせう」
「まア、諦らめるが宜い」
平次は何を考へたか、相手にもしません。が、八五郎にしては、それがまたもどかしく何んとかして、平次の
「あのお能の主人が、親分のことも言ひましたよ」
「何を言つたんだ」
「錢形の平次とか何んとか、江戸の町人どもは大層なことに言ふけれど、いざとなれば、
「――」
「すると下男の猪之松も、――世間の評判といふものは、先づ、そんなものだ――と言やがるから、あつしは二つ三つ横つ
「まさか、そんな亂暴はしなかつたことだらうな」
「あの
「ところで、ほかに變つたことはなかつたのか」
平次は話題を變へました。八五郎の不平などに付き合つてゐては際限もありません。
「大ありですよ」
「
「話すのはワケもないが、こいつは矢つ張り親分の眼で見て貰つた方が確かだ。谷中まで行きませう、親分」
「待つてくれ、八。俺はたつたいま甲州から歸つたばかりだぜ」
「それぢや、たつた一と晩ですよ、親分。明日の朝は迎ひに來ますから」
八五郎は面白さうに笑ひながら出て行きました。何やら、容易ならぬことがありさうです。
その
「何處へつれて行くんだ、八」
「少し凉し過ぎるが、良い日和ぢやありませんか。これから直ぐ正燈寺へのして、
「馬鹿なことを言へ、御用をどうするんだ」
「へツへツ、それは冗談ですが、近ごろ谷中にも張り見世が出來たといふ騷ぎですよ。驚いちやいけませんよ」
八五郎が案内したのは、三崎町のお葉の茶屋。遠くから見ると、提灯が三つ四つ、紙で
「妙に陽氣ぢやないか」
「一里四方、妖氣が
紙の紅葉の枝の下、ひよいと
「フーム」
錢形平次、まさに膽をつぶしました。それはまさに、安つぽく、仇つぽく、吉原の
「入らつしやいませ」
たじろぐ平次に、黄色い聲の大合唱です。八五郎が谷中にも張り見世と言つたのは、この上もない適切な言葉で、お舟、お小夜、お玉の三人娘が、赤
「お葉姐さんはゐるかい」
八五郎は、心得た風でズイと入りました。
「奧でお客樣のお相手よ。ちよつと待つて下さいな」
氣のきいたお玉が
「ね、親分。この客は誰だと思ひます」
「知るものか」
「錢形の親分を、小半刻待たせる客といふのは、驚いちやいけませんよ」
二人はもう退屈しかけてゐる時でした。
「あらさう、濟まなかつたわねえ」
などと、前觸れのお世辭を先登に、お葉が出てくるのです。
「おや、錢形の親分。八五郎親分も御一緒で、お早やうございます」
お葉の調子は、そこいら中をクワツと明るくしました。三十女がかうも綺麗になれるものか、平次も暫らくは挨拶に困つたほどです。
「お早やう、――と言ひてえが、もう晝過ぎだぜ。それにしても、大層な變りやうだなお葉さん。女は化物だといふが、全く
「まア、親分、お世辭の良い」
「世辭なものか、一體何を
錢形平次が、どんなに驚いても驚き足りないほどの、それは素晴らしい變化でした。蒼黒い顏に、厚化粧が乘つて、描き眉毛も濃い口紅も、そして、こればかりは派手に過ぎない、たしなみの良い着物も、若い娘にはない、不思議な仇つぽさです。
「でも、段々年を取ると心細くなつて、もう一度、一生の思ひ出に若作りがしたくなりますよ、――何んと言つても、女の弱さね」
お葉はさう言ひながら、二人を招じ入れて、赤い
「そんなものかなア、――俺はまた、女は男が出來ると綺麗になるものと聽いてゐるから、お前もてつきり良い人が出來たのかと思つたよ」
「あら、そんなこと」
お葉は
「まア宜い、女の綺麗になるのは、惡いことぢやない」
「まア、――でもね、親分。女は年を取つてから、若い時着た嫁入衣裳などを
「もう
「まア、親分、――では、御ゆるりと。お舟にお相手させますから」
お葉は妙に落着かない樣子で、三人娘のうちの、一番
平次と八五郎は、それから暫らくの間、粘つてをりましたが、奧からは何んの挨拶もなく、三人の娘が、チヨロチヨロと店の中を動いてゐるだけのこと。
「この店も、妙に繁昌して來たぢやないか」
出たり入つたりする客を見ながら、平次は獨り言を言つてをります。
「
「だが、俺達二人は煙たがられてゐるらしいぜ。ろくに寄り付きもしない、――男同士で澁い茶を呑んだつて、面白くないな。八、歸らうか」
「待つて下さい、親分。氣になることがあるから」
八五郎はいきなり立上がつて、店の外へ出て行くのです。相變らずの
「ちよいと親分」
八五郎が
「待つてくれ、お茶の飮み逃げもなるまいから」
懷ろをさぐつて、穴のあいたのを五、六枚、盆の隅に置いて外へ出ると、八は少し先、お葉の茶屋の裏に廻つて小手招ぎをしてゐるのです。
「親分、此方ですよ」
「
「シーツ」
八五郎の樣子の物々しさに、平次もツイ釣られました。
その四疊半の入口にゐるのは、
それと相對して、窓際にゐるのは、前髮立の若い男。首筋の青い、生際の美しい、それは少年と言つても宜いほどの桃色の肉付です。
無地
二人は何やらひそ/\と話して溶け入るやうに、ニツコリとします。妖麗無比な年増と、もぎ立ての桃のやうな美少年が、向ひ合つてほゝ笑み交す圖は、八五郎をすつかり夢中にしてしまつたのも無理のないことでした。
女の頬と男の頬が、お互ひに吸ひ寄せられたやうに、ピタリと合ひます。手と手が
「畜生ツ、見ちやゐられねえや」
八五郎はたうとう、我慢がなり兼ねたものか、
「どうした八、氣が弱いぢやないか」
「へツ、
八五郎はぺツ/\と唾ばかりをしてをります。
「お葉の樣子が、ソハソハして變だと思つたが。まさか、あんな若いのを引入れてるとは思はなかつたよ」
「店先に、變な履物があると思つて、裏へ廻ると、あの圖ぢやありませんか、――あの樣子ぢや、佐野松もあの手でやられたんですね、年増は怖い」
八五郎は大
「八、あれに氣が付かないか」
平次は八五郎の袖を引きました。二人はまだ、お葉の茶店の前にゐたのです。
「何んです、親分?」
「西
「へエ?」
八五郎には、その意味がわからない樣子でした。
「俺達二人は、此方側の竹垣の破れから
「へエ」
「それ、向うへ逃げて行くぢやないか。
「あ、成る程」
八五郎が氣の付いた時は、相手はもう、坂の下の方へ、町角を曲つて、姿を隱してをりました。
「サア、行かう。未練らしくウロウロしてゐたところで、大した獲物もあるめえ」
「何處へ行くんで」
「知れたこと、久し振りに千駄木の鈴川家を覗いて見るよ。佐野松殺しの下手人も、まだ擧がらなかつた筈だ」
「違えねえ、――でも、あの家へ行くのは氣が進みませんね」
「何が?」
「あの能役者崩れの主人が、高慢で、つむじ曲りで、無愛想で、話をしてゐると、腹ばかり立ちますよ」
「そんな事を氣にする
「おや、親分方、入らつしやい」
などと、いつになく愛想よく迎へてくれました。背は高くないが色の淺黒い立派な男です。
「御主人の鈴川樣がゐらつしやるかい。けふは、折入つて伺ひたいことがあるんだが」
「へエ、ゐらつしやいます、御書見のやうで」
猪之松は庭から廻つて、奧の一と間へ、障子越しに聲をかけます。
「何? 錢形の親分が見えた。丁度宜い、私も訊きたいことがある」
さう言つて、煙草盆を持つたまゝの、主人の主水が縁側の
デツプリ肥つた、長身の中年者で、見てくれも立派ですが、多年
家には誰もゐない樣子で、庭から入つた猪之松が、及び腰に座布團を引寄せて、縁側の上に、三人の座を作りました。四方を壓するのは、千駄木の林、あちこち紅葉して、秋の日射しは、春よりもうらゝかです。
「またお邪魔をいたします。私も
平次は腰を低くして、一應の挨拶をしました。
「いや、もう、まことに迷惑、私も甚だ困りますよ。どうだらう、親分。このくらゐにして、もう探索を
思ひもよらぬことを、鈴川主水は言ふのでした。
「何を仰しやるので? 調べはこれから本筋に入りますが」
平次も、
「いや、これから始められては
主水は煙草の煙を輪に吹きながら、泰然として、こんなことを言ふのです。
「それは、どういふわけで?」
平次も氣色ばみました。『にて候』の調子で、存分な嫌味を言はれては、錢形平次の顏が立ちません。
「
主人は
「?」
平次は默つて唇を噛みました。素人も素人、恐ろしくのんびりした能役者などから、これだけ痛烈な皮肉を言はれようとは、夢にも思はないことだつたのです。
「尤も曲者の入つた樣子はわかつてゐる。佐野松が自分で雨戸を開けて呼び込めば、何の變哲もないことだが、あの通り、
「――」
「私が申すことは、決して言ひ過ぎではあるまいと思ふ、どうぢやな」
これを『にて候』の調子で、落着き拂つてやるのです。平次は默つて聽いてをりましたが、八五郎の樣子といふものは大變でした。拳骨を固めたり、鼻の頭を撫でたり、足踏みをしたり
「八、少し靜かにしろ」
平次がたしなめたのは、よく/\のことです。
「だつて親分、口惜しいぢやありませんか、そんな事を言はれて」
「默つてゐろよ、曲者は此方の上を越す智惠者だ――成るほど、出入りのからくりも解らなくて、曲者を取つて押へようとしたのは、此方の間違ひかも知れない、――御主人」
「何んぢやな、諦めて歸るか」
鈴川主水は自若としてをります。
「飛んでもない、此處で手を引いては、曲者は何をするかわかりません」
「――」
「あつしの
「で、どうしようと言ふのだ」
「この事は申し上げたくはなかつたのですが、
「何? 曲者の逃げ路が、わかると言ふのか」
平次は到頭、果し状を突き付けられた形になりました。
「曲者の逃げ路が、わかつたといふわけぢやございません。大方そんなことだらうと、見當が付いただけのことで」
平次は一應言葉を
「面白いなア、是非その逃げ路を見せて貰はう。天井裏から床下まで、隨分念入りに調べたつもりだ」
「――」
「さア、早速見せて貰はうか。陽が暮れるまでに、曲者の逃げ路がわからなければ、氣の毒だが引拂つて貰はうか、――曲者の入つた場所も逃げた路もわからなければ佐野松は自害したことになる。それで宜いではないか、下手人のない人殺しといふものはない。このうへ町方のお役目を笠に被て、荒されては
鈴川主水は、能役者とは言つても、
「では、離屋を拜見いたします」
平次が腰を浮かすと、
「猪之松、離屋を開けて、親分を案内するのだ」
「へエ」
何處からか、
「妙なことになりましたね、親分」
振り向いた猪之松も、苦が笑ひを噛み殺してをります。
「これで良いのだよ、張合ひになつて、ダラリダラリと調べてゐると何日經つても
その癖平次は、一向に
雨戸を一枚、二枚とあけると、中はもうすつかり
「親分、大丈夫ですか、あんな事を言つて」
後ろから、ウロウロとついて來たのは八五郎でした。心配と
「兎も角やつて見るよ。俺が離屋へ入つたら、窓も雨戸もしつかり締めてくれ。一寸一分の隙間もあつちやならない」
「へエ、こんな具合にですか」
平次が離屋に入ると、八五郎と猪之松は、それを
「あつしも入つちやいけませんか、親分」
「邪魔だよ、お前は人間は良いが、口が惡くていけない。それにたつた一と
「へエ、いけませんかねえ」
「中で手を
「飛んでもない」
「暗くなつても、聲も掛けず、手も鳴らなかつたら、お前は家へ歸るが宜い」
「親分は?」
「泊るかも知れないよ」
「へエ」
八五郎の心細さうな顏といふものはありません。
離屋の中に入つて、嚴重に雨戸を締めさせた平次は、暫くは、物音一つ立てずに、
それから小半日――いや實は四
「八五郎親分、退屈だね」
振り向くと、それは下男の
「――」
八五郎は肩を
「錢形の親分は何をしてゐるんだらう? まさか、晝寢ぢやあるまいね」
さう言ふ猪之松の唇の隅には、妙にからかひ氣味の冷たい笑ひが
「飛んでもねえ、錢形の親分は晝寢などをするものか、――コトリとも音のねえのは、それ、その
「へえ、そいつは
「行かなくてさ。親分が座禪を組むと、例へばだね、俺が
八五郎はたうとう變なことまで言つてしまひました。全く、八五郎に取つて、
「へエ――、恐れ入つたね。錢形の親分の家ぢや、お神さんがつまみ食ひも、ほまちも出來ないわけだ」
「馬鹿にしちやいけねえ」
どうも、猪之松の方が、役者が一枚上のやうです。
また暫らく經ちました。離屋の雨戸に西陽が一パイに
「親分、もう宜いんで?」
「見當だけはついたよ。中へ入つて見るが宜い」
八五郎は少し氣味が惡さうに、離屋の中へ入りました。
「あつしも見ちやいけませんか」
物好きさうな顏をして、猪之松が
「あ、宜いとも、序に御主人にも見て頂かうか。ちよいと呼んで來てくれ」
「へエ、へエ」
猪之松は氣輕に飛んで行きました。平次の自信に引摺られた恰好です。
人數は揃ひました。平次と八五郎と、鈴川主水と、下男の猪之松と、四人離屋に入ると、平次の手で、内から嚴重に締めきり、暫らく息を呑んで、平次の次の言葉を待つたのです。
「よく出來た
平次がさう言ふのも無理のないことです。
「かうしたところで、何にか氣の付いたことはありませんか、――この前一度、この離屋に入つて、雨戸を閉めきつて調べたときとは少し違つたところは、ありやしませんか」
「――」
平次の問ひに、誰も答へるものはありません。何處からともなく入る光線で、中は馴れると薄明るく感じますが、兎も角も、人の顏もよく見えないやうな、閉めきつた離屋の中で、お互に息を呑むだけのことです。
「何處か違つてゐる筈ですが、あまり
「――」
「はつきり申上げると、前には、雨戸の板に、釘の拔けた小さい穴などがあつた筈です。それがほんの一寸の間――私が甲府へ行つて來る間に、皆んな
「いや、少しも知らない」
主人の鈴川主水は、重々しく應へました。
「御主人が御存じないうちに、雨戸の
「?」
「八、戸袋の側の雨戸を、一枚はづして見るが宜い。さう、さう、それでよし」
八五郎が雨戸を一枚外すと、沈みかけた夕陽が、光の洪水のやうに、ドツと部屋中に
「この通り、ゆるんだ釘は締めてあり、拔けた釘穴は丁寧に埋めてある。新しい釘を打ち込んだのもあり、大き過ぎる穴は
平次は二つ、三つの穴から、その詰めを取つて見せました。素人の細工には違ひありませんが、なか/\に精巧です。
「誰がそんなつまらないことをしたのだらう」
主人鈴川主水も、少しばかり困惑した樣子です。
「
「いや、少しも氣がつかなかつた」
平次の追及を逃れるやうに、鈴川主水は手を振るのです。
「御主人の氣のつかないうちに、これだけの
「?」
平次は靜かに説き進むのを、鈴川主水も高慢の
「何んのための穴か、それはわからないが、雨戸一面に散らばつてゐる釘穴、――大空の星のやうに
「?」
主人の主水と他の二人も差し覗きました。
「少し大きくて、よく眼につく穴を一つ隱すために、曲者は雨戸の穴を皆んな
平次はさう言つて、一番端つこの雨戸、はづしたばかりのを夕明りに
「?」
三人は眼を見張りました。手品の種あかしを見せられた、
「丁寧に、そくひまで附けて、滅多なことでは落ちないやうにしてある。大變な手のこんだ細工だ、――が、何んだつて、こんな念入りの細工をしなければならなかつたか?」
「?」
「人でも殺さうといふ、大それた奴でなければ、こんな厄介なことをする筈はない」
「親分、あつしには、どうも腑に落ちないことがあるんだが」
八五郎はちよつかいを出しました。平次の話を、一から十まで感服してゐるのは、他の二人の聽き手の手前、少しは不見識なやうな氣がしたのでせう。
「何んだえ、お前にも腑なんてものがあつたのか」
「曲者が、締めきつてある
八五郎はかう言つてしたり顏をするのです。
「それも一應尤もだが、曲者はこの平次と四つに組んで見たかつたのだよ」
「へエ?」
「離屋の中の佐野松は、女に殺されたやうに思はせたが、女が逢引に來たのなら、トロトロとしても、合圖をきくと起き直つて雨戸を開けてやるだらう。ところが、佐野松は起き出した樣子はなく、寢たまゝ殺されてゐる」
「――」
「曲者は、自分で開けて忍び込み、戀人を待ちくたびれて、トロトロと眠つてゐる佐野松を殺したのだ」
「ちよいと待つて下さいよ、親分」
八五郎は急にウロウロして、平次の話の腰を折りました。
「何んだ、お前にも、結構な智惠があるのか」
「そんなわけぢやありませんが。あれを見て下さいよ」
「?」
「
「?」
「お葉の阿魔が、此處まで男を送つて來たんですよ。別れが惜しいとさ、馬鹿にしてやがる」
八五郎がプリプリするのも尤もでした。谷中三崎町から此處まで
「成る程、年上の
「何を見せるんです。あんな具合に
「何をつまらねえ、意見なんかするものか。あの女は、いろんなことを知つてるに違ひないから、人殺し野郎の仕掛けを見せて、モノを考へさしてやる」
平次は何を考へてゐるか、もとより八五郎にはわかる筈もありません。兎にも角にも、
やがて八五郎が勝つたらしく、
「さア/\錢形の親分が、人殺しの仕掛けを見せてやるといふんだ。後學のために見て置くが宜い」
さう言ひながら八五郎は、
「まア、嫌ねえ、人殺しの仕掛けですつて。私はこの世の中に殺したい人なんかないんだもの、見せてもらつても無駄よ」
お葉は十分に
一枚だけはづした離屋の雨戸、其處から、内の三人と、外の三人が顏を合せました。内の三人といふのは、平次と主人の主水と、下男の猪之松で、外の三人といふのは、八五郎とお葉と、そしてかゝり人の杵太郎です。
わけても、主人の鈴川主水と、派手作りのお葉の、
「サアサア皆んな中へ入つた/\、これから人殺し野郎の種あかしをしてやらう」
「何にか手傳ふことはありませんか」
かうなると八五郎も、ステージに立つたやうな心持で、平次の傍に顏を寄せます。
「先づ、この雨戸を見て下さい。先刻も言つた通り、あの晩、この戸は確かに閉つてゐた。上下の
「――」
さう言つて平次は、佐野松の死骸が發見された朝、この戸を
「これだけ念入りに締めてある離屋へ入るには、何にかの仕掛けがあるに違ひない。――尤も、輪鍵に細くて丈夫な
「――」
「外から――中にゐるものに氣付かれないやうに開けて入つて、人一人殺したうへ、外へ脱出して、今度は外から雨戸を締め、内にある輪鍵まで掛けて置くのだから、容易な手數ではない。幸ひあつしは、良いものを拾つた――運がよかつたのだ」
平次はさう言つて、懷中から二つ折りにした半紙を出して、それを開いて皆んなの眼の前に差出すのです。
「何んにも見えないが、何んです。それは?」
八五郎がまた鼻を寄せます。
「黒くて細いから、見えないだらうが、これは馬の尾だよ――敷居際に落ちてゐたのだ」
「へエ」
それはあまりに變つてゐて、一つの判じものとしか思へません。
「
「それをどうするんです? 親分」
八五郎は、皆んなを代表したやうに、話の先を促します。
「先づ戸を締めて輪鍵を掛けてくれ。皆んな中へ入つて――
平次一人を外に殘して、五人は離屋の六疊に入り、窓からの明りで、問題の雨戸と、馬の尾をワクにして通した、輪鍵を見詰めてをります。輪鍵は間違ひもなく嚴重に掛つてをります。
「宜いか、お見落しのないやうに、頼むぜ」
平次は手品
やがて、馬の尾と代つた紐が強く引かれたと思ふと、それを
「驚きましたね、親分。これぢや戸締りをしたところで、何んにもならない。馬の尾一本で、苦もなく開けられちや」
八五郎は舌を卷いてをりますが、立合つた四人も、顏見合せて、默つてしまひました。
「ところで、今度は、人を殺して外へ出た曲者が、外から雨戸を締める
平次はさう言ひながら、紐を馬の尾に替へて、今度はその端つこを、輪鍵の右の釘穴から雨戸の外へ出しました。
「――」
八五郎はこの手品にすつかり有頂天で、いろ/\世話を燒いたり、皆んなの顏を見比べたりしてをります。
「宜いか。
平次が外から聲をかけると、八五郎は心得て、
「よし來た」
八つ手の葉つぱのやうな大きい
と、馬の尾がまた、スルスルと細い紐に代りました。そしてその紐が激しく動くと、はづされたまゝの輪鍵は、先刻とは反對に動いて、輪鍵の受けの上へ、活き物のやうに、コトリと納まつてしまひ、この魔法を演じた細い紐は、もとの穴からスルスルと戸の外へ消えてなくなるのでした。
「やんや、やんや」
八五郎はツイ
「馬鹿野郎、見世物ぢやねえ。それより早く戸を開けて、俺を入れろ」
「へエ」
内から雨戸をあけると、平次は靜かにもとの座に
「御主人、――御覽の通り、曲者はどうして離屋に入つたか、人を殺してから離屋を拔け出し、あとを締めて置いたか皆んなおわかりでせう」
靜かではあるが、嚴重に一
「いかにも、さすがは、錢形の親分――と言ひたいが、それを解くものと、それを考へ出すものと、智惠に
鈴川主水はこんなことを言ふのです。この男には、何やら暗い影があつて、町方の者を特に嫌ふ樣子が見えるのは何んとしたことでせう。
「成る程、曲者と私と互角、さう言はれても、いたし方はありませんが――」
平次は苦笑ひしながら續けました。
「――この
懷中から、いつか猪之松が庭で拾つたといふ、牡丹刷毛を出して見せました。
大して古くはありませんが、白粉と
皆んな默つてしまひました。うつかりしたことは言へないと言つた警戒心が、素早く行きわたつたやうです。
「御主人は、御存じありませんか」
平次は、牡丹刷毛を持つたまゝ鈴川主水を追及しました。
「いや、何んにも知らぬ」
鈴川主水は
「私から申上げても宜いでせうか」
後ろからお
「宜いとも、どんなことでも」
平次はさり氣ない調子で應じました。
「その前に伺ひますが、その
「いや、飛んでもない、――牡丹刷毛などといふものは、人殺しの道具にはならないよ。安心するが宜い」
平次は場所柄も構はず、面白さうに笑ふのです。
「これを御覽下さいな」
「――」
お葉の差出した縫つぶしの、
「――その牡丹刷毛は、御覽の通り小型で、鏡臺の引出しに入つてゐる品ではございません。打ち明けて申上げると、もと/\この紙入の中に入つてゐたものでございます」
「それがどうして?」
「母親の形見でございます、――御殿奉公をしてゐた母親と違つて、藝子や踊り子に身を落した私には、品が良過ぎると申しませうか、――正直に申上げると
お葉は急に口を
「それを、何時、どこでなくしたのか、覺えがあるだらうな」
「――申しませう、極りが惡いけれど。それは、佐野松さんの
さう言ひながら、
自分を捨てた男に、かう面と向つて、少しのたじろぎも感じないお葉は心のうちに、少なからざる優越感を持つてゐるに違ひなく、その清麗な眼や、
その掛け合の面白さを
「お師匠樣」
主人の鈴川主水にかう言ふのです。
「何んぢやな」
主水は、立派な顏をねぢ向けました。
「あの、今晩から、私は、この離屋で休みたいと思ひますが」
「何を申すのだ、――危ないではないか」
「いえ、少しも怖いことはございません。私は、少し見極めたいことがございますので」
杵太郎は、何を考へたか、押し返して
神田明神下に歸る途々、八五郎は平次に
「ね、親分にはもう、佐野松殺しの下手人はわかつてゐるでせう」
「そんなことがあるものか」
「下手人がわからなきや、親分は馬の
「つまらねえことに氣が付くんだな。ところが、今度といふ今度は
「へエ、鈴川主水もそんなことを言ひましたよ」
ヌケヌケとこんなことが言へる八五郎です。
「だが、折角だから、これだけのことを言つて置かうよ。佐野松殺しの下手人は、男二人、女一人のうちに違ひないといふことを――」
平次は
「へエ、三人ね。誰と誰です? それは」
八五郎は乘出しました。
「お前に教へる分には差支へあるまいが、間違へても人に言ふな」
「へエ、それはもう大丈夫で、名題の地獄耳で」
八五郎は大
「佐野松を怨んでゐる者は、三人あつたことは、お前にもわかるだらう」
「?」
「第一は、鈴川主水だ」
平次の言葉は、全く八五郎に豫想外です。
「どういふわけです、親分」
「鈴川主水の女房はお葉だぜ――去つた女房にしても、その女と逢引を重ねてゐる
「さうでせうか」
「お葉はまだ若くて、あの通り綺麗だ。去つた女房でも、佐野松に親しくなつたり、
「へエ」
さういはれると、八五郎にも思ひ當る筋がないではありません。
「その次に佐野松を殺したくなつたのは、矢張りお葉だよ」
「?」
「あの女は容易ならぬ女だ。亭主に追ひ出されたら、並大抵の女なら、世間體も惡いから、出來るだけ遠くへ逃げて、もとの夫に見付からない工夫をするだらう。それが、
「――」
「そのうちに
平次の説明は、年増女の心の秘密にまで食ひ入ります。
「でも、あの女は、お化けの振りまでして、佐野松に通ひ詰めましたよ」
それは並大抵の仲ではない筈です。
「賢こい女は、自分の智惠に溺れるのだよ。多分、鏡臺の上にこぼれた白粉を、牡丹刷毛で
「さうかも知れませが[#「さうかも知れませが」はママ]、そんなことは、お葉が佐野松を嫌になつた證據にはなりませんね」
「今日は、なか/\
「成程ね。ところで、殘る一人の男といふのは?」
八五郎は兎も角も平次の論理に聽從して、次の一人を訊ねました。
「杵太郎だよ」
「へエ? 杵太郎?」
それは八五郎に取つても豫想外な名前でした。
「何を驚くんだ。この良い男の杵太郎は、ちよいとやさしいが、どうしてどうして、なか/\性根の
「あの
「いや、お葉は佐野松と杵太郎の兩
「尤も、佐野松を殺したのは、杵太郎の
「それだけは杵太郎らしくない證據だよ」
「へエ?」
「何も、自分の持物で殺さなくたつて、刄物も道具も澤山あるだらう。それに、剃刀はわざと拔け出したやうに、庭石の傍に首を出してゐた」
「待つて下さい親分。あつしもあの剃刀の拔け出しやうが變だと思つて、あとで庭石の傍を調べて見ましたが、あの邊に、剃刀を突つ立てたやうな穴が、二つも三つもありましたよ」
「本當かいそれは?」
「引返して見て下さい――と言つたところで、あれから日が經つてゐるから、今では埋まつてしまつたことでせうが、――親分が旅に出てから、あつしは、あの庭を
「それは?」
「誰かが、佐野松を殺した上、血だらけの剃刀を、土の中へ深く突つ込んで隱したのを知つた奴が、あとで
「八、もう止した方が宜い。誰か後をつけてゐるやうだよ」
平次は八五郎をたしなめましたが、この發見には、平次も全く承服しないわけに行きません。
その晩から、杵太郎は離屋に休むことになりました。佐野松が殺された後の離屋は、充分無氣味であるべき筈ですが、それにも
「猪之松、離屋の雨戸を直して置け」
鈴川主水は、さり氣なく、二度の凶變に
「へエ、今度は大丈夫で」
猪之松は手馴れた大工道具を持出して、器用に雨戸を
丁度その時でした。錢形平次が、御用の
「お、錢形の親分。この通り、戸締りを直させたから、今度は滅多なことでは開けられないと思ふが」
主人の鈴川主水も、近頃はいくらか氣が折れたらしく、平次に對しても、あまり無愛想ではありません。
「へエ、これなら大丈夫で、――ところで、妙なことを伺ひますが」
主水を物陰に誘ふと、平次は聲をひそめました。
「?」
「ほかぢやございませんが、お葉さん――あのもとの御内儀いや、お
「左樣」
主水は答へ澁りました。心持不機嫌になります。
「大事なことですから、是非お伺ひいたしたいんで、――例へば、佐野松さんとか、杵太郎さんと、目に餘ることがあつた、とか何んとか」
「いや、そんなことはない。以前は至つて身持の良い女であつたが、――どうしてあんなことになつたか、
主水にもそれは解き難い謎であつた樣子です。
「他に、下男の猪之松とは?――あれもなか/\の良い男で、近頃は三崎町の茶屋へ入り
「あれはまことに始末の惡い男でな。お葉がこの家にゐる頃から、主人の妾とわかつてゐるのに、
「それに、御主人はお小言も仰しやらなかつたわけで」
「猪之松は下男ではあるが、ちと私には恩があつて、少々の我儘は見過ごしてゐる、――そんなことからツイ女を側に置くのが面倒臭くなつて、お葉にも暇をやつたやうなわけだ」
「成程」
「あの女は、性根の
鈴川主水は、何やら割り切れない表情でした。この
その夜、千駄木の一角に、惡魔の舌のやうな
火事は、
遠くの半鐘が鳴つて、近くの人達が
その中に泊つてゐる筈の、杵太郎はどうなつたことか、杵太郎がゐるとすれば、三崎町のお葉も、そこへ來てゐたかも知れません。若しも二人が、誰
中から、二度三度、激しく雨戸は
と、その手に從つて、格子はバラバラにはづれ、
それは前髮姿の、良い男の杵太郎でなければならない筈ですが、何んと、
「八、お前が先に逃出す法があるか、女を助けろ」
焔の叫ぶ聲に交つて、八五郎の面上に叩きつけたのは、何處から響いて來るか、それは錢形平次の聲に
「あ、いけねえ」
八五郎は飛出した窓に飛付くと、もう一度猛火の中へ取つて返すのです。さう言つた八五郎です。
家の中は、さながらの
「お葉さん、何處だい。お葉」
返事はありません。身近に迫る焔の舌は、音もなくあらゆるものを
「お葉さん」
「――」
見付かりました。最初は正體もつかめませんでしたが、それはやがて、若い女の
「お葉、逃げるのだ」
「――」
「早く、おい、早くしろ。燒け死ぬぜ」
「私は死にたい」
「何、何を言ふんだ」
お葉は何やら抱きしめて、一寸も動かうとはしません。
「八五郎親分、私に構はず、早く逃げて下さい。私はもう」
「何をつまらねえ、來やがれ」
事面倒と見た八五郎は、お葉を横抱きに、
八五郎とお葉は、それつきり氣を
「大丈夫、怪我はないやうだ。早く飛出しや宜いのに」
平次はさう言つて、
「ワツ、ぶる/\。もう呑めねえ」
「馬鹿野郎、振舞ひで酒でも呑んでゐる氣でゐやがる。
さう言ふ平次も、漸くホツとした樣子です。
「お葉は? 親分」
八五郎はまだキヨトンとしてをります。
「お前の後ろで笑つてゐるよ」
「そいつは有難い。あれだけ
「何を」
さうは言ふものの、平次は腹も立ちませんでした。
そのうちに、
主人の鈴川主水の指圖を受けて下男の猪之松はよく働いてをります。お葉は人に隱れるやうに、谷中三崎町に歸り、平次と八五郎は暫らく
丁度晝頃。平次の指圖で
「錢形の親分が、話があるといふから、皆んな集めて見たが、――話なんかどうでも、早く曲者を縛つてもらひたい。佐野松が殺されたり、離屋を燒かれたり、このうへともこんな災難が續いちや叶はない」
主人の鈴川主水は、苦りきつた顏をするのです。
「御尤もですが、相手は大變な曲者で、
「といふと?」
「御主人はどういふわけで、千駄木の淋しいところに引込んだか――御内儀だかお
「?」
平次は一座の顏を讀みながら言葉を續けました。
「世間の惡い評判にも構はず、何んだつて佐野松さんや杵太郎さんを飼つてゐられたか。下男の猪之松に、何んの義理があつて、不都合だらけなのを承知で家に置くか。そんなことを皆んな打ちあけて頂きたいので」
平次はかう、思ひきつて問ひかけるのです。
「そんな事を話さなきや、人殺しの下手人は縛れないといふのか」
鈴川
「いたし方がありません。
錢形平次も、なか/\に思ひきつたことを言ふのです。
「それでは手を引いて貰はう、――錢形とか何んとか、大層らしい評判だけれど、たつたこれだけのことがわからなくて、尻尾を卷いて逃げ出すとは――」
鈴川主水の言葉には、恐ろしい毒を含んでをります。顏立ちが立派で、態度が莊重で、
「親分、あんなことを言はせて默つてゐるんですか」
腹を据ゑ兼ねたのは八五郎でした。腕まくりなんかして、いざと言はばの、喧嘩構へにさへなるのです。
「默つてゐろ、お前の知つたことぢやない」
「でも、あんなことを言はれて引込んぢや、町方一統の耻になりますぜ」
「――」
「明日から千駄木
「馬鹿ツ」
「親分、何んとか言つて下さい。曲者の尻尾もつかめないとは、
八五郎はすつかり興奮して、泣き出しさうに詰め寄るのです。平次は靜かに受けて、
「曲者がわからないとは言はないよ」
「それね、親分には、下手人がちやんとわかつてゐるんでせう。それを言つて、あの小高い鼻柱を叩き折つて下さい。このまゝ引込んぢや、あつしは二、三日寢つかれませんよ」
「嘘をつけ、そんな事で寢つかれないお前ぢやあるまい」
「頼むから親分」
「
平次はなか/\口を開かうともしないのです。が、八五郎よりも鈴川主水がその言葉を聽きとがめました。
「曲者がわかつてゐると言ふのか、面白いな。さすがは錢形と言ひたいが、そいつは嘘だらうよ」
「いや、平次は嘘は言はない」
「では聽かうか、佐野松を殺し離屋を燒いたのは誰だ」
鈴川主水は、平次の智惠を見くびつたか、
「それでは言はう、――が御主人、物が後先きになるけれど、曲者の名を言つたら、
平次は僅かに
「よし、何んなりと、訊かれるだけ話さう。が、その前に曲者の正體だ。それを聽かう」
鈴川主水は最早、一寸も引かぬ氣色です。
鈴川主水と錢形平次は、引くに引かれぬ勢ひでした。下手人の名前を言ふか、お辭儀をするか、平次の途はこの二つを選ぶほかはなく、主水もまた、此處まで追ひつめられると、耻も外聞も、その口實にはならなかつたのです。
「さア、聽かうか――、錢形の親分、――佐野松を殺して、離屋に火をつけたのは、誰だといふのだ」
平次が言ひ澁るのを見ると、鈴川主水はなほも
「言ひませう、――八、お前は入口を
「へエ」
八五郎は横つ飛びに入口を固めました。この男が頑張つてゐれば
「あつしの口から言はせるまでもなく、本人に名乘つて貰ひたかつたが、どうしても言へと言ふなら、仕方がない、――曲者はその男だ」
平次の指はピタリと、下男の猪之松の胸のあたりを指すのです。
「あツ」
指された猪之松は、
「何を言ふのだ、途方もない」
鈴川主水は眞つ蒼になつて、頬のあたりがピリピリ
「いや、動かぬ證據があつて言ふのだ。間違ひもなく、下手人は猪之松」
「何を證據にそんな事を言ふ、――次第によつては、錢形とは言はさんぞ」
鈴川主人は、膝を浮かしました。能役者くづれと言つても、大藩のお抱へ、
「證據のないことを言ひませうか」
平次は
「それを聽かう」
「佐野松が殺された晩は、あの通りの大雨、お葉さんは一足も外へ出なかつた。最初はあつしも、お葉さんを疑つたが、三崎町には八五郎が頑張つてゐた上に、あの雨だ」
「――」
「それにもう、一つ大事なことはその二、三日前に猪之松が三崎町の茶店へ行つて、お葉さんが夜中にそつと出られないやうに、
平次の話は廻りくどいやうですが、事件の
「そんな事は、猪之松が下手人といふ證據にはなるまい」
鈴川主水の額には激しい
「ま、靜かに聽いて下さい。佐野松の死んだ
「そんな馬鹿なことが、人殺しの證據か」
主水はもう一度激しく突つかゝるのです。
「まだありますよ、――佐野松を殺した
「――」
「その剃刀が、庭石の側に突き差し半分頭を出して『見てくれ』と言つたやうになつてゐたが、その石の裏側には剃刀が隱れるほどの深い穴があつた、――實を言ふと私が素知らぬ顏で見てゐると、その深い穴の中に、隱れてゐた剃刀を拔き出して、同じ石の裏側に半分ほど差し込み、あつしに見せてくれたのは、ほかならぬ猪之松だ」
「――」
「まだある。猪之松の言つたことは、皆んな違つてゐたばかりでなく、その樣子にも變なことが多かつた。あつしと八五郎が三崎町の茶屋の裏で、お葉さんと杵太郎さんが話してゐるのを立聽きしたとき、表の方にも一人、それを聞いてゐた男があつた。その男といふのは、ほかならぬ猪之松だつた。あつしと八五郎が
「もう止さう、平次。そんなことが、人殺しの證據になるだらうか、馬鹿々々しい」
鈴川主水は、平次の持札を讀むと、すつかり安心したものか、頭ごなしに平次をやつつけるのです。
「いや、もう一つある――、昨夜の火事は、杵太郎さんとお葉さんを燒き殺さうとした
「えツ」
鈴川主水もさすがに、平次の
「人の住んでゐる家の雨戸へ、外から心張を當てるのは容易のことではない。外から當てた心張棒は、すぐはづれるからだ。ところがあの雨戸には、誰の細工か、外から
「――」
「昨日、あつしはその細工を見たから、杵太郎さんの代りに八五郎を入れた。そして、雨戸はそのまゝにして、内から窓の格子を三本まではづさせ、いざと言へば、窓から飛出せるやうにして置いた」
八五郎が火事の最中、窓格子を蹴飛ばすと、格子は
「もう澤山だ、馬鹿々々しい」
鈴川主水はなほも抗議しますが、平次の論告に言ひ負かされて、さすがに激しくも突つかゝつては來ません。
「前の日、雨戸を直したのは猪之松だ。――これでもまだ、たしかな證據は一つもないと言ふならもう一つ、動きの取れない證據を教へてやらう。――昨夜この平次は、離屋に火をつける男の姿を、向うの森の下で見てゐたのだ。その男は、離屋の三方に積んだ
「――」
「その男は踊り狂ふうちに、物に
「――」
「八、何を愚圖々々してゐる。お前の鼻先に、火附け人殺しの大罪人がゐるぢやないか、それツ」
平次の手が擧がると、八五郎が動くのと、猪之松が逃げ出すのと一緒でした。まことにそれは、
身體がよくて
「野郎ツ」
八五郎はそれを追ひました。
「御主人、あの通り、千駄木には八方に網が張りめぐらされてゐる。猪之松が縛られるのは、もう間違ひはない、――この邊で、本當のことを話されてはどうだ」
「――」
「御主人、猪之松が逃げ了せると思つたら、大變な間違ひですぜ。あの通り」
指さすあたり、木立を縫ひ、田圃を横ぎり、猪之松一人を追つて思ひも寄らぬ捕物陣が、千駄木を舞臺に發展して行くのです。
「もう宜い、平次親分」
鈴川主水の顏は、苦澁の色が漲り、その端正な額は歪むのです。
「あつしにも、大方の見當はついてをります。御主人はどうしてあんなに猪之松を
「――」
「思ひきつて申しませうか、――御主人と猪之松は、切つても切れぬ、親と子」
「もう宜い、平次親分、――私は皆んな白状する。佐野松を殺し、離屋を燒いたのは、この私、鈴川主水のやつたことだ。猪之松をいぢめるのは止してくれ。この通り、私はもう覺悟をしてゐる」
主水は
「
「それは、言ふまでもない」
「や、八の野郎、また
平次は縁側に出て伸び上がりました。千駄木の森の上に、バラバラと集つた、七、八人の捕り方、八五郎を中心に、ザワザワと此方へ引揚げて來る樣子です。
「歸らうか、八」
八五郎が戻つて來ると、平次はもう立ち上がつて、歸りの仕度をしてゐるのです。その前に坐つた鈴川主水は、膝に手を置いて、
「曲者はどうしたものでせう、――何處へ
八五郎にして見れは、突然消えてなくなつた猪之松は、あまり遠くないところに隱れてゐるに違ひないと思ひ込んで、少々主人の主水に當てつけたのです。あまり賢こくないやうでも、八五郎には、長い間の經驗で體得した、一つの鋭どい勘があります。
「もう宜いよ、俺は下手人を搜せば氣が濟むんだ。縛るか縛らないかは、その日の出來心さ」
「呆れたものですね、だから笹野の旦那もさう言ひましたよ。平次の勘は恐ろしいが、モノに
八五郎にしては、此處まで追ひ込んだ曲者を逃す、平次の押しの弱さが
「佐野松殺しの曲者は、猪之松ぢやないよ――そんなに驚くことはない。下手人はわかつてゐる、火の燃えあがるのを見て、踊り狂つて、膝小僧を怪我した筈だ。お前がどうしても下手人を縛りたかつたら、千駄木中の湯屋の番頭に頼んで、
平次はそんなことを言つて、
「錢形の親分」
鈴川主水は後を追つて、庭木戸のところまで來ました。
「まだ御用事で、――あつしの方にはもう用事はないのだが。あ、さう、さう。猪之松が戻つて來たら、暫らく上方へでも行つて修業して來いと言つて下さいよ」
「親分、この通り」
鈴川主水はこの時初めて、
「親分、――私といふ人間は、藝道に打ち込み過ぎました」
「そして、女といふものの心持がわからなかつたのですね」
「一言もない、平次親分」
「世の中には、女の心を知り過ぎて、藝事と言へば、鼻へ
「何んのことです、それは親分」
何が何やらわからずに、八五郎は訊き返すのです。
「これはどうしたことなんです、親分。あつしには見當もつかないが」
千駄木から戻つて來ると、女房のお靜を走らせて、三合ばかり買はせた平次は、乾物か何んか
酒は二人とも強くはなく、三合くみ交すと、八五郎などはもう、宜い加減目出度くなります。が、醉は發しましたが、この間から惱ませられた
「お前は口だけは固いな、八」
「へエ、ゆるいのは財布の
八五郎はさう言つて、自分の懷中を覗いて、財布の紐の存在を確かめると、兩手を宙に泳がせながら、得意氣な顏をするのです。
「それなら下手人を教へてやるが、間違つても人に言ふな」
「へエ、それはもう大丈夫で、石を抱かされても、言ふことぢやありません」
「實はな、佐野松を殺したのは、鈴川主水だよ」
「そんな馬鹿なことが、親分」
八五郎は
「お前が驚くのも無理はないが――自分の跡まで繼がせようと思つた、大事の弟子が、女房同樣の
「そんな心持は、あつしには覺えがないからわかりませんが」
「お前に覺へがあつてたまるか、馬鹿だなア」
「へエ」
「その
「成程ね」
「佐野松といふのは、藝は大したものであつたに違ひない。その邊の人に聽くと、いづれは、師匠を
「――」
「惡評の限りを浴びながら、精一杯に弟子を取立ててゐるし、二人とも大した男つぷりなのが
「あれは下男ぢやありませんか、親分」
「いや、本當の親子だ。わけがあつて、鈴川主水の子と名乘れなかつたかも知れないが、それよりも、猪之松は生得の不器用で、どうしても藝が覺えられなかつた。藝道で立つ家に取つて、
錢形平次の話は續くのです。
「猪之松は、藝は下手で、父親にも可愛がられなかつたが、正直者で生一本な男だつた。その一
「そんなことですかねエ、へエ」
八五郎には、まだ呑込み兼ねるものばかりです。
「そんな事が積つて、鈴川主水はたうとうお葉と佐野松を殺す氣になつた。雨戸の細工は心得てゐたので、すぐ開けて入つたが、その晩お葉は來ずに、佐野松一人待ちくたびれて眠つてゐた。自分の大事な弟子ではあるが、女を待つてゐる姿のだらしのなさにツイ殺す氣になつてしまつた」
「でもあの
八五郎はまだそれにこだはつてをります。
「牡丹刷毛は芝居氣のあるお葉の細工で、うつかり落したのを、猪之松が搜し出したまでのこと、剃刀は、――あれは少しむづかしい」
「?」
「主水が佐野松を殺したのは杵太郎の剃刀ではなく他の道具だ。庭石の側に深く埋めてあつたのを、猪之松が見付けて、父親を救ふためにそれを隱してしまひ――こいつは行き過ぎだが、――その代り、杵太郎の剃刀を盜み出して、同じ庭石の側に、今度はわざと半分頭を出して差し込んで置いた」
「
「父親を助けたかつたのだ、――その後で三崎町へ行つて覗くと、お葉は今度は杵太郎を引ずり込んで、あの有樣だ。お前も見た通り」
「
「あの女は、さう言つた女だ。それに主水に放り出された
「すると、雨戸に外から心張を當てる細工をして、お葉と杵太郎を燒殺さうとしたのは?」
「それは猪之松が、放つて置けば、父親がそんな事をするに違ひないと思つたのだよ」
「へエ、すると」
「幸ひ杵太郎はお前と入れ代つて助かつた。が、主水もこれ以上は諦めるだらうし、猪之松も當分江戸へは歸るまい。お葉はうんと
平次の説明は、
「膝を怪我したのは?」
「離屋へ火をつけた猪之松だよ。自分の膝がどうかしてゐるなら、主人の主水はそれを俺に見せない筈はない、――伜の孝行が身に沁みたやうだ」
「驚きましたね、どうも」
「俺も驚いたよ、こんな馬鹿々々しい事が
「お葉は良い
「馬鹿だなア」
二人はたうとう笑ひ話にしてしまひました。