錢形平次捕物控

美少年國

野村胡堂




源氏長屋の怪


 いつものやうに、この話は、八五郎の早耳帳はやみゝちやうから始まります。
「ところで親分」
「何が『ところで』なんだ、やぶから棒に」
 棚の落ちたのも吊れないやうな、不器用な平次が、唐紙の穴をつくろいながら、鳴り込むやうに入つてくる八五郎を迎へました。片襷かただすき――それは女房のお靜に、たもとへ糊がつくからとこぼされて、お靜自身のを拜借した赤いの。なか/\に甲斐々々しい姿ですが、やにさがりのくは煙管ぎせる、これも女房をビクビクさせながらの剃刀かみそり使ひは、どう考へても器用な手つきではありません。
「錢形の親分が、唐紙の繕ひをしてゐるんだから、天下靜謐せいひつにきまつてゐるぢやありませんか、そんなにひまで/\しやうがないなら、ちよいと智惠を貸して下さいよ――ところで――と來るわけで」
「話は順序を立てなくちやわからないよ、――ところで――どうしたんだ」
 平次は向き直つて、煙管をポンと叩きました。まだ剃刀かみそりは持つたまゝです。
「危ねえな、どうも。その剃刀が氣になつて、あつしの智惠は人見知りをするから、話の繼ぎ穗を忘れてしまひましたよ」
「だから、八さん、そんな危ない細工をめて下さいな。御自分の顏も當れない人なんですから、何處か切りはしないかと、宜い加減ヒヤヒヤしますよ」
 それは女房のお靜でした。平次が小細工を始めると、不器用でそゝつかしいから、切出しや削刀が青江村正ほどのわざをするのです。
「お前は默つてゐろ、――横町の御浪人は、鎧通よろひどほしで内職の妻楊枝つまやうじけづつてるぢやないか、御用聞き風情が、唐紙の穴を塞いだところで、御政道の瑕瑾かきんにはならないよ」
「御尤もで――ところで――」
「その――ところで――の後を聽くんだつけ。手つ取早く打ちまけなよ、――金を貸せと言つたつて、驚きやしないから」
「その口は別にお願ひするとして、へツ/\、うつかりねだると、ねえさんがまた裏口から質屋へ飛出す」
「嫌な野郎だな――お小遣を借りるのに、糸脈いとみやくを引いてやがる」
「ところで、親分」
「あれ、まだ本題に入らないのか、氣の長げえ野郎だ」
「早速本題に入りますがね。谷中三崎町から谷をへだてて向うの、千駄木螢澤ほたるざはに、源氏長屋といふのがあるのを御存じですか」
「何? 源氏長屋? 聽いたことのねえ名前だな、――其處には九郎判官義經公でも隱れてゐるのか?」
「そんな武骨なんぢやありませんよ。水も垂れさうな良い男ばかり揃つてゐるから、源氏長屋」
「理窟だな。平家がにみたいな野郎ばかり住んでゐるから、向柳原のお前の叔母さんの住んでゐるところは平家長屋さ。あの隣りの研屋とぎやの親爺と、家主のデコボコは凄い顏だぜ」
「そんな事を言ふと怒られますぜ、――ところで、その源氏長屋に、近頃變なことがあるから、あつしにも引越して來て、仲間になつてくれといふんですが、どうしたものでせうね」
「あれ、お前も光る源氏の仲間へへえるのか」

 八五郎と平次の話は、いつもの調子で發展するのでした。相變らずの無駄と遊びの多い話し振りですが、この調子でないと、かへつてテンポが惡いのですから、誠に厄介な人達です。
「まア、そんなことで、――源氏長屋の主人鈴川主水もんどといふ人が――」
「待つてくれ、それは、鈴木主水の間違ひぢやないのか、口説き歌の文句にあるぢやないか、――鈴木主水といふ侍は、今日も明日もと女郎買ひめさる――といふ」
「そいつは青山のお侍でせう。こつちは東海道鈴川の宿の鈴川で三十四、五の御浪人だが、良い男ですよ。金は馬に喰はせるほど持つてゐるが、恐ろしい癇症かんしやうで、醜男ぶをとこと女は大嫌ひ、螢澤に浪宅を構へて、男ばかりの世帶。主人の弟の佐野松は、二十歳はたちを越したばかりの、こいつは本當に光る源氏のやうな男で、相手は間違ひもなく男と知りながら、本當に惚々ほれ/″\しますよ」
「フーム」
蒼白あをじろい生え際、唇が珊瑚さんご色で、横顏の綺麗さは、歌舞伎役者にも、あんなのはありません」
「――」
「それから、かゝうどきね太郎。まだ十六、七の若衆姿で、きりゝとした、苦味走つた良い男。人によつては、此方の方が良いといふかも知れません」
「それつきりか」
「まだありますよ、下男の猪之松ゐのまつ。この男ばかりは、無口で、頑固で、人付きが惡くて、誰にも嫌はれるといふ、不思議な男で。尤も眼鼻立ちはそんなに惡くはなく、一人だけ多勢の中に突き出せば、隨分良い男で通るでせうが、ハタが良い男揃ひだから、ひどく損をしてゐるわけですね」
「ところで、お前のその講中にならうといふのか。大した出世ぢやないか」
「そんなわけぢやありませんがね、主人の鈴川主水のいふことには――良い男ばかり集つてゐると陰間宿かげまやどだの、色子いろこ女衒ぜげんだのと、世間の噂がうるさくて叶はない。そんなイヤなものでないことは、此家こゝに三日も泊つてゐればわかることだ。あしたに武藝をはげみ、ゆふべ孔孟こうまうの教へを聽く、修業の嚴しさも一と通り見て貰ひたい。是非來て泊つて下さるやうにと、折入つての頼みだ」
「すると、たまには良い男でないのも泊めて、世間の評判を誤魔化さうといふ計略ではないのか」
 平次は何處までも茶化ちやくわし氣味です。
「いろ/\訊いて見ると、近頃その源氏長家[#「長家」はママ]に變なことが續くんですつて」
「はてね」
「主人の弟の佐野松が、妙にソハソハして來たと思ふと、次第々々に影が薄くなつて、痩せが眼につくといふから唯事ぢやありません」
「――」
「主人の鈴川主水が、いろ/\氣をつけてゐると、離屋はなれになつてゐる佐野松の部屋へ、夜な/\通つて來る女があるといふから穩やかぢやないでせう」
「よくある話だな」
「狐狸のわざなら、退治して後のわざわひを防ぐもあるが、魔物や鬼神のわざでは手に了へない、そこで、螢澤の家へ三、四日泊つて、その正體を見屆けて貰ひたい――とかういふ頼みなんで」

 八五郎の話には、何んとなく常識で割りきれない、途方もなさがありました。源氏長家[#「長家」はママ]とやらの主人の身許も怪しく、三人も四人もの良い男をそろへるのもどうかしてをり、狐狸妖怪こりえうくわいが、美女に化けて通ふなどといふことは、まさに黄表紙ものの筋書です。
「そいつは、岩見重太郎の畠ぢやないか」
「岩見――つて、何處の良い男です」
「馬鹿だなア、滅法強い武者修行の武家だよ」
「あ、あの※々ひゝ[#「けものへん+非」、U+7305、10-11]退治の小父さん――講談で聽きましたよ」
 かう言つた八五郎です。
「だがな、八。そんなところへ飛込んで、人の戀路の邪魔をする奴は、昔から犬に食はれて死ねば宜い――といふことになつてゐるぜ」
「それは心得てますがね、――鈴川主水もんどの家中の者が心配をして、――一つは嫉妬やきもちのせゐもあるんでせうが、離屋を表裏から見張つてゐても、怪しい女は、何處からともなく、スルリと入ると言ふから變ぢやありませんか」
「隱し戸か何んかあるんだらう」
「そんなものはありやしません。口惜くやしがつて、離屋の縁側に灰をいて置くと、翌る朝その灰の上に、一面のけだものの足跡」
「――」
「最初のうちは、面白がつて邪魔をした人達も、近頃は氣味を惡がつて寄りつかないから、逢引はもう大つぴらだ」
「?」
「雨戸の隙間から、スーツと入つて、薄ドロ一つ鳴らずに、引拔いて綺麗な姉樣になる圖なんかは、付き合ひきれねえぢやありませんか。家中は總腰拔かしの、時分どきになると、蚊帳かやを吊つて線香を立てて、お念佛だ」
「夕立ぢやあるめえし、――それにしても、當の佐野松とやらに、意見をする者はないのか」
「親分ほどの人も、この道にかけては、まるつきり素人しろうとで、戀の意見は、何を言つたつて聽きやしません。強いことを言ふと、佐野松が家出をしますよ――主人の鈴川主水に取つては兄弟とは言つても義理の弟、左樣なら御自由に御引取り下さいと言つてもゐられない」
「成程そんなこともあるだらうな、――ところで、お前に何をしろといふのだ」
あつしが行つて睨んだら、怪しい女の正體もわかるだらうし、次第によつては、その岩見重太郎一と役を買つて出て、女※々ひゝ[#「けものへん+非」、U+7305、12-2]を取つて押へようといふ寸法で」
「寸法通りに行きや宜いが、――ところで、その源氏長家[#「長家」はママ]の主人の鈴川主水とやらは、ヤツトウの方はいけないのか」
「色男金と力はなかりけり――のけりの方で。生つ白くて力のあるのは、芝居の二枚目だけ。尤も鈴川主水、金はうんとありますよ」
「何處でその金をこさへたんだ」
「其處まではわかりませんよ。いづれ筋の良い金山でも持つてゐるんでせうよ」
「妙に氣になる話だな。兎も角行つて見るが宜い。良い男の仲間に入つて、その長んがいあごを並べるのも洒落れてゐるだらう。その代り、時々は樣子を知らせるんだぜ」
 平次の同意を受けると、八五郎は喜び勇んで色男の仲間入りに飛んで行きました。

お葉の茶屋


 それから二、三日、秋の長雨に降り込められて、錢形平次も鬱陶うつたうしく籠つてをりました。このまゝ冬に滑り込んで、秋の行事も行樂も、皆んなフイになるのではあるまいかと思つてゐると、十月近くなつて、或る朝のこと、江戸の空は拭つたやうに晴れて、もう一度夏が來たやうな素晴らしい陽ざし、――狸穴まみあなへ菊でも見に行かうか、それとも、はぎ寺にしようかと、ムラムラと謀叛氣むほんぎが起きてゐるところへ、
「親分、お早やうございます。いや、驚いたの、驚かねえの」
 と、八五郎が唄ひ込むのです。
「たま/\お天氣になつて驚いたのか、蛞蝓なめくぢみてえな野郎だ」
「蛞蝓にもなりますよ。あつしの頬ぺたを見て下さいな、火ぶくれになりやしませんか」
「蛞蝓が火ぶくれを拵へるものか。三河島の火葬場で、火屋ほやの中に首でも突つ込んだのか。あそこで、時々燒場團子を盜まれるさうだぜ」
「嫌になるなア、あつしの行つたのは千駄木ですよ。尤もそれから谷中三崎町で引留められて、三日三晩の責苦せめくに逢ひましたがね」
「それ見な、谷中から、火葬場は遠くはねえ」
「まだ火葬場にこだはつてゐるんですね。あつしが行つたのは谷中の女世帶、新造しんぞと娘と、娘と新造と、交る/″\出て來ちや頬つぺたを嘗めるんですもの、あれがゲヂゲヂなら、大概丸坊主になる」
「何んだ、蛞蝓なめくぢぢやなくてゲヂゲヂか」
「弱つたなア、――先づ聽いて下さいよ。螢澤ほたるざはの源氏長屋へ行つて見ると、その日の夕方、使の者が手紙を持つて來たぢやありませんか。天地紅の色つぽい結び文、押し開けると、プーンと掛け香の匂ひ、女文字の散らし書きで『ぜひ/\お出で下されたく、命にかけて御待申上參らせ候』と、まゐらせの字が、小首をかしげて、うれひふくんでゐる」
「名前は?」
「――えふ――とだけ、使の小娘に訊くと、ついて來ればわかるといふ。若い女に呼出しをかけられて行かないとあつちや男の耻だ」
「若いか、年を取つてるか、手紙ではわかるまい」
「源氏長屋にゐるあつしを呼出すんだから相手は若いにきまつてゐますよ」
「その氣だからお前は皆樣に可愛がられる」
「兎も角も、あの雨の中を、十三、四の小娘と相合傘あひあひがさで、行つて見ましたよ。坂を登つて二つ三つ路地を拔けて、何處へ行つたと思ひます、親分?」
「サア、あの邊には變なのが澤山あるよ。いろは茶屋に、ろくろ長屋、山を下りると、惣嫁そうかの巣もある」
「そんな嫌なんぢやありませんよ、谷中三崎町のお葉の茶屋」
「なんだいそれは?」
えふと書いてお葉と讀むんですつてね。お寺詣りのお年寄を目當ての水茶屋だが、女主人はお葉と言つて三十前後、商賣人上がりらしい、青黒く白粉燒けのした年増。眼が大きくて滅法めつぽふあだつぽい。ほかにお舟とお小夜と言つて、十九と十七の茶汲み娘。文使ひをしたのはお玉さんと言つて十三、ちよいと可愛らしい」

「それから、どうした」
 八五郎の話は、馬鹿々々しいうちにも、底の知れない怪奇さがありました。平次がツイ乘出したのも無理はありません。
「それつきりですよ。四人の女を相手に、昔ばなしをしたり、※(「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2-78-13)まりをついたり、草双紙くさざうしを讀んだり、綾取りをしたり、雨降り續きでお客がないから、何しろ退屈でせう、――頬つぺたを嘗められたのはおまけですが、三度々々が店屋物てんやもの、店は閉めたも同樣、日が暮れると一本つけて貰つて、たうとう二日三晩暮してしまひましたよ――尤も、何べんか歸らうとしたけれど、よくまア、毎日降りましたね。駕籠かごを呼ぶと御近所の人の目に立つし、濡れて歸しちや、万一風邪かぜでも引くと惡いし。と、うまく引止められるものだから、たうとう」
「呆れた野郎だ。千駄木の源氏長屋の方はどうした」
「バツが惡くなつて、到頭行かず仕舞ひ。今朝起きて見ると、この通りの天氣でせう。顏を洗ふことにして、裏の共同井戸に飛出すと、そのまゝ水下駄を突つかけて逃げ出しましたよ」
「女護ヶ島から逃出して來たのか、冥加みやうがな野郎だ。ところで、その女どもは、何んだつてお前を止め置いたんだ。見當ぐらゐはつかないのか」
「それが、そのね」
「馬鹿野郎、あごなんか撫で廻しやがつて、お前の男つ振りが良いせゐなものか、ほかのワケがあるに極つてゐるぢやないか」
「それが、その、少しもわからないから、いやになるぢやありませんか」
「女主人のお葉は何をしてゐるんだ」
「店は小女に任せつきり、大店の女隱居見たいですよ。化粧も何んにもしない、青黒い白粉燒けのした素顏で、――客にお愛想を一つ言ふぢやなし、店はさびれ放題。でも暮し向は思ひのほか豪勢でしたよ」
「そんな家へ入つて、三日も呑み倒して來る、お前の膽つ玉は大したものだよ」
「でも、女主人あるじのお葉は、あつしに命を助けられたことがあるといふ話で」
「命を? はてね」
「三年前、思案にあまることがあつて、兩國橋から身を投げようとしたとき、後ろから抱き止めてその不心得を散々言ひ聽かせた上、『財布さいふまで下さらうとしたが、私は極りが惡くなつて、その手を振りきつて逃げてしまひました。お陰で今日まで、無事に生き延びた』――と、本人のお葉が言ふんです」
「フーム、そんな事があつたのかえ、――少しも知らずにゐたが」
「さう言はれると極りが惡いが」
「人を助けて、默つてゐるのは、出來ないことだよ。フーム」
 平次がしきりに感心するのです。
「ところがどうも、あつしにはそんな覺えがないんで」
「覺えがない? よく思ひ出して見ろ。お前はそゝつかしいから、忘れてゐるのかも知れないよ」
「親分と一緒に身投げを助けたことはあるが、一人で助けたのは子供達にいぢめられてゐる、猫の子を助けただけで」
「心細い野郎だな」
「でも、人の命を助けたことなんか、こゝろすみつこに、しまひ忘れる筈はないぢやありませんか」
 八五郎はさう言つて、自分の懷ろなどを搜してゐるのです。

 女護ヶ島のやうな、あやしくも美しい女世帶に飛込んで勸められるまゝに、二日三晩も顎を撫でて暮した八五郎の膽力たんりよくには、錢形平次も膽をつぶしましたが、その所置振りが並大抵でなく、氣の弱い八五郎が、振りきつて逃げ出せなかつたところを見ると、何にか、重大な仔細しさいがなくては叶ひません。
「その間に、變つたことがなかつたのか」
「何んにもありませんよ。たゞもう、食べて呑んで、騷いだだけ――命の恩人といふものは、大したものですね」
「助けた覺えがないのに、命の恩人扱ひは變ぢやないか。人違ひではなかつたのか」
あつしも、たゞ御馳走になつては、くすぐつたくて、極りが惡いから、根拙り[#「根拙り」はママ]葉掘り訊きましたよ――何んでも、三年前の十月の初め月のない晩だつたさうで、二世を契つた男には捨てられ、借金は山のやうにかさむ、思案に餘つて、兩國橋の上に立つたんですつて、兩方のたもとには小石を拾つて入れ、下駄を脱いで揃へると、一と思ひに飛込まうとすると、――後ろから、ま、待つた、と帶際を取つて引戻したものがある」
「それがお前だつたのか」
「ちよいと顎は長いけれど、良い男の八五郎親分を、見違へる筈はない――と、かうお葉は言ふんで」
「良い男の八五郎親分とね。まア、大負けに負けて良い男にして置かう。それから」
「死ななきやならないわけを話すと、いろ/\とその不心得を言ひ聽かせた上、これは少しだが、何んかの足しに――と、財布ごと私に下すつた――と當人が言ふんですよ」
「フーン」
「中味はかなり重かつたから、十兩や二十兩は入つてゐたかも知れない。極りが惡くなつて、死ぬのは思ひ止つたけれど、財布は返して逃げ出した。そのはずみに、橋の上に落ちて、小判が何枚か、バラバラと散つて、山吹色やまぶきいろに光つた――とこれもお葉の話で」
「お前は、そんな大金を持つて歩いた覺えがあるのか」
「それがどうも思ひ出せませんよ、――それからお葉は命の恩人の八五郎親分のことを一ときも忘れたことはない。尤も、一度死なうと思つたのをたうげに、それからトントン拍子に運がよくなり、今ではかうして、子供三人まで抱へて、淋しい場所だけれど水茶屋の店を出し、どうやら無事に暮してゐる。その恩返しをしたいから、五日でも十日でも、一生でも此處にゐて下さいと、首つ玉にかじり付いて離れない」
「嘘をつきやがれ」
「まア、嘘でも何んでも。二日三晩、浦島太郎が龍宮へ行つたやうな心持で、チヤホヤされて來たんだから、――こいつはうそや冗談では出來ないことでせう」
「さう言へば、その通りだが」
 平次はまだ腑に落ちない顏をしてをります。
 丁度ちやうど、こんな夢のやうな話の眞つ最中でした。路地の中へ驅け込んだ一人の男。
「八五郎親分が來てゐるでせう、千駄木から急の使ひですよ。螢澤ほたるざはの鈴川樣のところに、大變な間違ひがありました。直ぐ來て下さるやうに、出來れば、錢形の親分も御一緒に」
 と息せき切つての報告です。

佐野松の死


 螢澤の鈴川家の騷ぎといふのは、朝になつて發見されたことですが、主人の弟の佐野松が、密閉された離屋はなれの中で、喉笛のどぶえを掻き切られて虫のやうに死んでゐたことでした。
 平次と八五郎が行き着いたのはもう晝近い頃でした。
「おや、錢形の親分。飛んだ人騷がせで、相濟まんことぢや」
 迎へてくれた主人鈴川主水もんどは、三十五、六の立派な男でした。滑らかな皮膚の色、高い鼻、精練された聲など、年はとつても、何樣一とかどの美男で、藝人などによくあるタイプの男前です。
「お氣の毒なことで、――離屋とやらへ、御案内を願ひます」
「こちらになつてゐるが――、八五郎殿が見張つて下されば、こんなことにならなかつたかも知れない」
 さう言つて鈴川主水はチラリと八五郎を見るのです。
「八五郎は他に御用がありましたので」
 平次はさう取りなして、これも照れ臭さうな八五郎の顏をチラリと見ました。當の八五郎は長んがい顎をくひらせて、精一杯むづかしい顏をしてをります。
「何分、弟は我儘者わがまゝもので、朝も人並には起き出してくれない。ツイ陽が高くなつてから、下男の猪之松に聲をかけさせると、内から締つてゐて返事がないといふので、驚いて私ときね太郎が驅けつけ、道具箱まで持出して、雨戸を一枚コジあけると、この有樣だ」
 鈴川主水は庭先の離屋を指さすのです。七坪か八坪の小さい家、コジあけた雨戸は庭にはふり出して、多勢の者が立ち騷いでをります。
「お、錢形の親分だ」
 誰かが聲をかけると、五、六人が道をあけてくれました。武家と言つても、久しい浪人暮しの、主人も祿ろくもない鈴川主水は、町役人や土地の御用聞に立ち合つて貰ひ、一應弟佐野松の死骸の始末をしてゐるのでした。
 平次は先づ、死骸を調べることにして、離屋の中に入りました。六疊と四疊半の二た間、元隱居家に建てたものらしく、木口もしつかりしてをり、調度もなか/\に立派です。主人の弟の佐野松は、六疊の眞ん中に敷いた、布團の中に、あけに染んで冷たくなつてをりましたが、縁側から見ると、壁に面した向う向き、傷は上から掻き切つたのどの側面、鋭利な薄刄の跡で、恐らくは剃刀かみそりでやつたものでせう。
 剃刀で大の男の頸動脈を掻き切つて、聲も立てさせずに殺すのは、これは容易ならぬ手際でなければよく顏見知りの、――例へば仲の良い女などが、首つ玉に抱きつくやうにして、思ひきり深々とやつたものでせう。
 それにしても、平次を驚かしたのは、この佐野松さのまつの死に顏の美しさでした。
 これは本當に男であらうか――? と、さう疑つたほどの端整な顏立ちです。少し死の色にかれて、蒼く黄色に沈んでをりますが、芝居の色子の老けたのか、女が男に化けたのか、何んと言つても、一方ならぬ美しさです。
 年は二十二歳と聞きましたが、小意氣な野郎額やらうびたひ、眉も、眼の切れも長く、少し高目の鼻も線の柔かさで緩和されて、顎の丸さに、少し青髯あをひげの跡がなかつたら、平次も本當に女と間違へたかも知れません。

「親分、贅澤ぜいたくなものですね」
 八五郎は鼻の穴をふくらませてをります。
こちとらと比べものになるものか、金があり過ぎて、困つてゐる樣子だ」
「そんなばちの當つた野郎もゐるんですね。この江戸といふところには」
「何を腹を立てるんだ。佛樣の前で餘計なことを言つちや、岡つ引はたしなみが惡いと思はれるぜ」
 平次は一應たしなめました。八五郎は遠慮がないから、何を言ひ出すかわかりません。
「でも、こんな寢卷は公方樣くばうさまでもなきや着ませんよ。羽二重だか綸子りんずだか知らねえが、物が良いから、血を浴びると一倍凄くなりますね」
「なるほどなア、――晝の着物でないことは柄や帶の樣子でも確かだが、――待てよ、八」
「へエ」
 平次は四方あたりを見廻しました。幸ひ案内してくれた主人も席をはづし、敷居のそとの彌次馬も、遠慮して遠退いた樣子、二人の内證ないしよ話を妨げる者もありません。
「下着を贅澤にするのは、道樂者に限るといふぢやないか」
「さう言ひますね。煮〆にしめたやうな汚ない襦袢じゆばんに、腐つたやうなふんどしぢや、華魁おいらん買の恰好はつきませんからね」
「お前の言ふことは一々ブチこはしだよ。もう少しお品がよくならないものかな」
「尤も豪勢な寢卷で、行燈あんどんに羽織を掛け、枕元に香をくと、戀の圖になりますね」
「香もなまめかしいのが良いな。おや、香盒かうがふもあるやうだ。道具立ては揃つてゐるぜ」
「成る程、通つて來る女を待つてゐたんですね――畜生ツ」
「また下司げすな口をきく、少しは氣をつけろ」
「へエ」
「ところで、待人はなか/\來なかつたらしい。水差もそのまゝ、座布團もしわ一つなく、懷紙も、疊んだまゝ、行儀よく並べてある。古い小唄にもあるだらう」
「?」
「宵は待ち夜中は恨み――」
「なるほど、待ちくたびれて、ツイ、ウトウトとしたところへ、戀人が入つて來て、寢相の惡さに愛想を盡かして、プツリとやつてしまつた」
「そんな馬鹿なことがあるものか。寢相が惡くて殺された日には、お前なんか一年に三百六十の命があつてもたまるまい」
「へエ、成程、晝寢で火鉢を蹴飛ばすこともある」
「ふざけちやいけない、――兎も角も、待ちくたびれて、うと/\したところをやられたといふ、お前の見立ては面白い。顏も至つて柔和で、驚いたかも知れないが、もがいた樣子も、苦しんだ樣子もない」
 その時の樣子が、平次の言葉で次第に再現されるのです
「布團のえりにひどく血が附いてゐますね、どうしたわけでせう。その血の附いた布團の襟は、足の方にハネのけてあるのに」
喉笛のどぶえを切つて、すぐ口をふさいだのさ。聲を立てさせないためだよ」
「そんなことをしたら、死物狂ひでハネ返しはしませんか」
 八五郎も死骸には馴れてゐるので、なか/\要領の良い問ひを出します。

「喉笛を切つて、す早く口を塞ぐ、――これは手輕に出來さうだがなか/\むづかしい、餘つ程力のあるものでなきや」
「すると、下手人は、待たれた女ぢやありませんね」
「女にも強いのがあり、男にも弱いのもあるよ、――それから、今朝死骸を見付けた時、行燈の有明がいてゐたかどうか、ちよいと訊いて來てくれないか。消えてゐたにしても、夜中に吹き消したものか、油がなくなつて、曉方あけがた消えたものか――いや行燈の皿に油は殘つてゐるやうだから、滅多に獨りで消える筈はない。丁子ちやうじがたまつても、放つて置けば燃え續けてゐた筈だ」
「へエ、ちよいと待つて下さい」
 八五郎は飛出しました。が、平次は後に殘つて、窓を調べたり、雨戸を引いて見たり、長押なげしの上を撫でたり、欄間らんまをのぞいたりしてをります。
 その間平次は、何度か立止つて首を曲げて獨り言を言つてをりました。何やら、ひどくに落ちないものがある樣子です。
「親分、今朝下男の猪之松がこの離屋の雨戸をはづして飛込んだとき、行燈は消えてゐたさうですよ」
 八五郎が戻つての報告です。
「誰がそんなことを言つた」
「猪之松本人が言ふんだから確かでせう。もつとも、御主人の鈴川主水さんは、行燈は吹き消したのではなくて、獨りで消えたのかも知れない。二本の燈心が油の中に落ちてゐたからと――私を追つ驅けて、さう言ひました」
「それは、面白いな、八」
「何が面白いんです」
 八五郎には、それだけのことでは、一向に面白くも何んともない樣子です。
「暗いところで、手のんだ殺しが出來るわけはない。手さぐりでは何んにも出來ないから、――最初は行燈が灯いてゐたに違ひあるまい。曲者が入つた時は、佐野松はあかりをつけたまゝよく寢てゐたことだらう。お前が下手人だつたら、その時、どうする?」
「人なんか殺しませんよ」
 まことに八五郎は達觀してをります。
「成程な、お前は人殺しにはなれまいよ。だが、お前が下手人だとしたら、灯のついた部屋へ入つて、どうすると思ふ」
「さア?」
「相手を殺す氣で入つたものなら、寢てゐる佐野松の樣子をとくと見定めてから、先づ灯を消すだらう。誰にも顏を見られたくないはずだ。首尾よく殺してしまつても、死人に顏なんぞ見られたくないだらう。万一やり損くなつたとしたら、顏を見られると大變だ、――もつとも、顏を見てゐて不意に殺したくなれば別だが」
「へエ、親分がやつたやうですね」
 八五郎はまた途方もないことを言ひます。
「馬鹿なことをいへ、――もつとも、人を殺したものは、百人のうち九十九人まで、いや、万に一つも逃れやうはない。どんな上手に仕遂しとげたつもりでも、人の命でも絶たうとするやうな無法な人間は、必ずどこかに手ぬかりをするものだ。毛ほどの證據でも殘せば、必ず捕まるにきまつてゐる。人間は誤魔化ごまかしても神樣は誤魔化せない、血にまみれた手は洗つても、心にしみついた、自分の惡事の想ひ出は忘れやうはない」
 平次はいつになく妙なことをいふのです。

牡丹刷毛


「八、雨戸を皆んな締めてくれ」
「何をやらかすんで?」
「下手人は何處から入つて、何處から逃げたか、それを見窮みきはめて置きたい」
 平次がさう言つたのも無理のないことでした。離屋はいつも嚴重に締めてゐて、岡燒きどもが、どんなに注意しても、佐野松さのまつが女を引入れた樣子はなく、出て行く姿を見たものもないといふのに、良い男の佐野松が、時々女を引入れて、人知れず逢引を重ねてゐたことは疑ひもなかつたのです。
「合圖をして、戸を開けて貰つて入つたのぢやありませんか」
「いや、雨戸も窓も、いつでも締つてゐるさうだ、――それに、佐野松は昨夜に限つては、誰も引入れた樣子はなく、獨りで眠つてゐたところを殺されてゐる」
「成程ね」
 八五郎は立ち上がつて、離屋の雨戸を全部締めてしまひました。ほかに格子を打つた窓が二カ所、これは釘が嚴重にびついてゐて、外から人間がもぐれさうもありません。
 離屋は六疊と長四疊の二た間、六疊の方には狹い濡れ縁があり、四疊の方は半分物置になつて、雨戸は三枚と二枚、その三枚の雨戸の外の濡れ縁は、いつぞや灰をいて置いたところ、幾晩目かに無氣味な獸の足跡があつたと、これは八五郎の報告にもありました。
 雨戸はなか/\の良い建具で、平次の家や八五郎の宿のやうに、板が反つくり返つて、瀧縞たきじまの光線が漏るやうなことはなく、そのうへ一枚々々印籠いんろうばめになつて、さんがおりた上に輪鍵をかけてしまへば、外からは簡單に開けられません。現に今朝主人に言ひつけられた下男の猪之松が、大のみを持出して、玄能げんのうで叩いて、無理をしてコジ開けた新しい損傷きずが、敷居にも雨戸のかまちに麗々と殘つてゐるのです。
「すつかり締めきりましたよ。六疊の外の三枚の雨戸は、鵜の毛の尖端さきで突いた程のきずもありませんね。棧もしつかりしてゐるし」
 八五郎は言ふのです。
「成程これぢや、お化けの入る節穴もない」
 平次も少しがつかりした樣子です。
「長四疊の外の、二枚の雨戸には、夕空の星ほど、ボツボツ穴がありますね」
「そいつは、板を打ちつけた釘の拔けた穴だよ」
 此方の方はさすがに木が荒れてをりますが、それは南陽みなみびをしつかり受けるせゐでせう。
「それにしても、この穴は少し大きいやうで――」
 八五郎は、雨戸の引手のあたりきりの先ほどの穴から漏れる光線を氣にしてをりました。
「八五郎親分の前だが、これくらゐの小さい穴では、重い雨戸を外から開けたり締めたりすることはむづかしからう。上下の棧のほかに、輪鍵を掛けることになつてゐるから」
 後ろから聲をかけたのは、下男の猪之松でした。色の黒い、たくましい男ですが、眼鼻立は立派な方で、隨分良い男で通るでせうが、二十三、四の若い盛りのくせに、何處か年寄り染みた、一こく者らしい口をきく男です。
「今朝、お前さんが開けた時、上下の棧も輪鍵も、無事に掛つてゐたのか」
 錢形平次はそのまた後ろから聲をかけました。

「間違ひもなく、上下のさんも、輪鍵も無事でしたよ、――尤も私がコジ開けたのは、六疊の前の三枚の雨戸のうち、柱寄りの方だが、――此方の二枚の雨戸はあとで旦那樣が明けなすつたから、御本人に訊いて下さい、――誰が開けたにしても、締りには間違ひなかつた筈で」
 猪之松はかう言ひきるのです。尤も、後で主人の鈴川主水もんどにも確かめましたが、猪之松の言ふことに間違ひはありません。
 天井にも屋根にも變つたところがなく、縁の下の土はよくならされてゐて、人の這ひ出した跡もないのですから、離屋は全くルレタビーユの『黄色い部屋』です。この密閉された部屋に入つて、佐野松を殺し、そつと脱け出して、もとの通り嚴重に閉めきつて置くといふことは、なか/\容易ならぬ手際と工夫を必要としたことでせう。それにも拘はらず、現に昨夜殺されたに違ひない、良い男の佐野松の死骸は、平次の前に横たはつてゐるのです。
「これは驚いた。狐か狸かは知らないが、剃刀かみそりを持つて、あのきりの先ほどの穴からもぐり込み、人一人殺して、煙のやうに逃出したことになるぜ」
 平次も此處まで來ると、手のつけやうもありません。
「不思議なことがあるものですね、親分」
 猪之松は、平次にさう言はれてはつきり不思議に突き當つたやうに、不愛想な顏をふり仰ぐのです。
「何にか、氣の付いたことはないのか、猪之さん」
 平次はさう馴々なれ/\しく呼んで、猪之松の傍に寄りました。
「さア、私のやうな素人は、何が何やら少しもわかりませんが――」
「例へば、殺された佐野松をうらんでゐる者はなかつたか、――佐野松の引入れた女の素姓が、少しでも見當が付かないか――」
「佐野松さんは、あの通りの良い男で、隨分ずゐぶん女には騷がれましたが、御主人がやかましいので、深入りはしなかつたやうです。尤も御主人と申しても義理の御兄弟ですから、お互ひに我儘もあつたが、遠慮もあつたわけで」
 猪之松の言ふことは、何が何やら、含みがありさうで、簡單にはわかりません。
「通つて來た女の素姓は?」
「それもわかりませんが、私は妙なものを拾つたことがあります?」
「妙なもの?」
「ほんの二、三日前ですが、お庭をいてゐて、植込みの間からこれを見付けたのでございます」
 猪之松は腹掛のどんぶりに手を入れて反古紙ほごがみに包んだものを取出しました。
「どれ?」
 猪之松の取出したのは、白粉とあぶらの沁み込んだ使ひ古しの牡丹刷毛ぼたんばけだつたのです。
「女の化粧道具のやうですが――」
「牡丹刷毛だよ。うんと土埃つちほこりが付いてゐるが――」
「何んに使つたものでせう、此家こゝは一人も女のゐないのが御自慢ですが」
「その濡れ縁に乾いた土をいて見るが宜い。この牡丹刷毛を短かく持つて、三本指の指先と一緒に突いて行くと、どんなことになるのか」
「あ、成る程」

 八五郎と猪之松は、早速實驗に取りかゝりました。猪之松が持つて來た灰、それを猪之松ゐのまつの記憶をたどつて、いつぞやの晩と同じやうにくと、平次は牡丹刷毛を四本の指で押へて、縁側の上へ、適當な間隔を置いて突いて行くのです。
「あ、この通りでしたよ。猫にしては少し大きい足跡、狐か狸か知らないが、そつくりこのまゝでしたよ」
 猪之松が先づ大きい聲でわめくのです。
「すると、妖怪變化と見せて、實は人間樣の美い女だつたのか、畜生ツ」
 などと、佐野松の死骸が、ツイ其處にころがつてゐるのも忘れて、八五郎ははずみます。
「こんな細工をしたのは誰だらう。お前には見當がついてゐる筈だが――」
 平次は下男の猪之松の顏を眞つ正面から見るのでした。
あつしは何んにも存じませんが、――佐野松さんところへ、あやしい女が通ふことは、家中で知らない者はありやしません。その時の灰だつて、旦那樣のお指圖で、あつしきね太郎さんが撒いたことで」
 猪之松はひどく困惑してをります。二十二、三と見えますが、陽にけて、下男奉公をしてゐるので、年よりはふけては見えますが、實は一つ二つは若いかも知れず、顎の張つた四角な感じの顏ですが目鼻立の整つた、なか/\の立派な男振りです。
 猪之松の口の堅さうなのを見ると、平次は諦らめた樣子で母家へ引あげました。この上は主人の鈴川主水もんどと、かゝりうどの杵太郎に逢つて、訊けるだけを聽き出し、それから證據を手繰たぐるほかはありません。
「八、お前に頼みがあるが」
「何んです? 親分」
「熊手があるだらうと思ふが、それを借りて、縁の下から庭一面を掻き出して見てくれ」
「へエ、熊手をね。高砂たかさごじよう見たいに」
 八五郎は甚だ不服さうな顏でした。
「得物を搜すんだよ。ワケを言はなきや、お前にはピンと來ないだらうが」
「?」
「佐野松の喉の傷は、糸よりも細い。匕首あひくちを使つても、少しは傷のハゼるものだ。あんな工合になるのは、剃刀かみそりのほかにないが、剃刀だつて、みねが邪魔になるから人の肉へ五分とは切り込めない。そこで自害をする商賣人の女などは峰が邪魔にならないやうに、合せ剃刀を使ふのだが、――吉原の心中騷ぎなどでよく見るだらう。ところが合せ剃刀は思ひのほか刄が厚いから、傷跡の肉のハゼるもので、この佐野松の傷の樣子では、使ひ込んで磨ぎへらした剃刀の、峯のなくなつた奴を使つたに相違あるまい」
「へツ」
 八五郎は膽をつぶしました。平次の慧眼けいがんは、少しの疑ひを挾む餘地もありません。
「そんな道具を、血の付いたまゝ、持つて歩く筈はない。曲者は用の濟んだ後で、縁の下か庭の藪の中の、土の柔かいところへ深々差し込んで行つたに違ひあるまいと思ふ」
「あ、成程」
「この邊は場末で、ろくな下水もなく井戸に沈める手もあるが、水を呑む者は不氣味だし、流れなどにはふり込むとすぐ見付かる。細くて小さい剃刀なら大地に突つ立てて隱すのが一番手輕ぢやないか」

 平次は母屋おもやに入つて行きました。女氣のない家で、これほどの騷ぎにも、親類の者が一人顏を出すのでもなく町役人や土地の御用聞は、猪之松ともに、佐野松の死骸を置いた離屋はなれへ行つてをり、其處には主人の鈴川主水と、掛り人のきね太郎が、何を話すでもなく、大きい運命を背負つてゐるものの不安さで、つくねんとして相對してゐるのです。
「暫らく杵太郎さんに伺ひたいことがありますが」
 平次がさう言ふと、
「ハイ、ハイ、どうぞ、御自由に。私はもう一度離屋へ行つて、佐野松のとむらひの仕度もしなきやなりません」
 主人の鈴川主水は、一禮して引あげました。身のこなし、物言ひ、すべてのことが節度に叶つてなか/\の人柄です。
 後に殘つた杵太郎は、精々十六、七、これは小柄で骨細で、良質のひのきに、名工が腕を揮つてきざみ、急所々々に桃色のくまいたやうなガツチリした美少年でした。芝居の色子や湯島、芳町の陰間かげまにも、こんなすぐれた美少年は見當らないでせう。それに、色子や陰間に見るやうな、不潔な化粧や、不純なこびもなく、身扮みなりも思ひのほかに堅實で、武者人形にあるやうな清潔な可愛らしさです。
「折入つて訊きたいが、何事も隱さずに話して下さい」
「ハイ」
 大きい前髮が搖れて、あをずんだ生え際の美しさ。聲はもう大人になりかけて、僅かに聲變りの響を留めてをります。
「第一に、御當家の御主人、鈴川主水樣の御身分」
 平次は靜かに、だが、嚴重に切出しました。
「御身分は御武家――御浪人といふことになつてをりますか、實は中國筋のさる大藩にお抱への御能方おのうかたでございました」
「いかにも」
 士分に取立てられた能役者の成れの果、――いかにも、さう言へば思ひ當る節が澤山あります。
「これは、旦那樣も仰しやつてゐることで、隱すほどのことでは御座いませんが、藝道の家元へのはゞかりもあり、舊藩には敵も多いことで、その邊のことは申上げ兼ねます」
「?」
 平次はうなづいて見せます。杵太郎は兩手を膝に揃へた、端然とした姿で續けるのです。お能の子方と言つた、お品の良い態度でした。
「さる年、主家に御家騷動があり、公儀のきこえを怖れて、無事に濟みましたが、敵味方の主立つた人達は、それ/″\身を退いて浪人いたしました。旦那樣もそのお一人、藝道御名譽の方で、それで一流一派をてられることもいと易いが、御家元に義理を立て、舊藩にもはゞかつて、江戸の場末に隱れました。御退身の時の御手當てがあつた爲に、このやうに、豊かに暮してゐられます」
 きね太郎の話は、いかにもはつきりしてをりました。そこで鈴川主水は義弟の佐野松と、愛弟子の杵太郎と、下男の猪之松だけを從へ、偏僻へんぴな千駄木螢澤ほたるざはに隱れて、再び芽の出る日を待つてゐたのでせう。鼓も鳴らさず、うたいも口ずさまず、世間はたゞもう、品の良い美男が四人まで、裕福に暮してゐるのを不思議に思つてゐたのです。

剃刀の主


「親分、見付けましたよ」
 不意に八五郎は、縁側の外から張りあげるのです。
「刄物が見付かつたのか」
 平次もツイ乘出しました。この兇器は、なか/\雄辯な證據になりさうです。
「この通り、――親分はさすがに目が高けえ。峰の減つた、使ひ古しの剃刀かみそりとうを卷いた柄が、少し地べたの外へ顏を出してゐたのが、曲者の大縮尻おほしくじり天罰てんばつてきめんといふところだ」
 八五郎はすつかり有頂天になつて、泥のついたまゝの剃刀を振り廻はすのです。
「何處で見付けたんだ」
「縁の下ややぶの中ばかり搜してゐると、何んのことだ、雨落の庭石の側に差してありましたよ、燈臺下暗しだ」
「暗いのはおめえの眼だつたのさ。まア宜い、見付けさへすれば大手柄だ。ところで、誰の持物だ?」
「そこまでは、わからねえが――」
 八五郎が行詰つたところで、後ろから杵太郎が聲を掛けました。
「ちよいと、見せて頂きたい、――ひどく泥が附いてるやうですが見覺えがあります」
「さア、どうぞ」
 八五郎の手から受取つた剃刀を平次は杵太郎に取りつぐのです。
「間違ひはありません。これは私の手慣てなれた剃刀かみそりで」
「えツ」
 驚いたのはむしろ平次でした。
「刄の減り具合、籐の卷きやう間違ひもありません」
 杵太郎は平然として説明するのです。
「この剃刀の減りやうでは、五年や十年使つたくらゐでは、かうなりません。少くとも、三十年か、五十年とか、幾人もの人が使はなければ?」
「――亡くなつた姉に貰つたものでございます。姉は母から、母は祖母から讓られたものでせう」
 切れ味の良い剃刀を、かうして親から子へ、姉から弟へと、何代も傳へるのが、昔の人のならはしでした。
「この削刀で、佐野松さんは殺されたのですぜ」
 平次は一本、釘を打ちました。
「それが不思議でなりません。ぎ癖がつくのが心配で、誰にも貸さなかつた品ですが」
 きね太郎の顏には、一種苦澁な色が浮かぶのです。
「八、兎も角も大事な證據だ、――洗つちやいけないよ。そつと紙にでも包んで、お前が預かつてくれ」
「へエ」
「ところで、杵太郎さん」
「ハイ」
 八五郎が離屋の方へ引き揚げると、平次は杵太郎の方に改めて向き直りました。
「お前さんは、佐野松さんを怨んではゐなかつたでせうか」
「いえ、そんなことは御座いません。佐野松さんこそ、近頃は私を怨んでをりました」
「それは?」
「旦那樣が、ひどく私を――」
 杵太郎はさう言つて、十六歳の美しい頬を染めるのです。

 平次はもう一度離屋に引返しました。
「親分、剃刀かみそりは此處で見付けましたよ。庭石の側に突つ込んであつたが、の方が一寸以上も出てゐたから、熊手にも及ばなかつたわけで――」
 八五郎の指さしたところを見ると、よく掃き清められた庭。青苔あをごけの美しくした、雨落のところに据ゑた、まがい物ながら大きい鞍馬石くらまいしの根に、ポカリと小さい穴があいてゐるのです。
「土は柔かいな」
 平次は少し指で突いて見て、八五郎を振り返りました。
あつし拳骨げんこつぐらゐは、もろに入りますよ。剃刀を押し込めない筈はないと思ひますが」
 八五郎がさう言ふのも無理のないことです。庭石の側に、とうを卷いたまゝの剃刀の柄が出てゐれば熊手に及ばずすぐ見付かるでせう。
 その時、主人の鈴川主水は、八五郎と平次の話の中へ、不安さうな顏を出しました。
「何にか、見付かつたやうで」
 小腰をかゞめて、八五郎の手の中を覗くのです。
「この剃刀ですよ。佐野松さんは、これでやられたに違ひありませんが」
「へエ、怖いことで」
「剃刀は、杵太郎さんのものとわかりましたが、それについて、何にか思ひ當ることは御座いませんか」
「いや、何んにも、第一杵太郎は佐野松を殺すわけはありません。あれは至つて弱氣な子で」
 鈴川主水は以ての外の首を振るのです。
「佐野松さんのところに、通つて來る女があつたさうですが、御主人はその女を見かけたことはございませんか」
「狐、狸のたぐひでもあらうか、私は知らないが、女が通つて來ることは、杵太郎も猪之松も知つてゐる。夜中に人の氣はひがして、離屋に人の聲が聽えるといふのだ。だが、佐野松はよひから雨戸を締めて、叩いても開けてはくれなかつたさうだ。雨戸には上下のさんのほかに、輪鍵まで掛けてあるといふ話だ、――これは猪之松が言つてゐたやうに思ふ」
 鈴川主水はさう説明するのです。
「そのあやしい女の人相は、見當もつかなかつたでせうか」
「杵太郎は、聲だけ聽いたが、少し年を取つた女のやうであつたと言ひ、猪之松は、若い女に違ひないと言つてゐたやうに思ふ。いづれにしても、狐狸妖怪こりえうくわいだとすると、五音ごいんをはづれてゐるから、聲が若くも、年寄にも聽えやう」
 主人の鈴川主水は、矢張り尤もらしいことを言ふのです。
「若しか、――若しか、御主人は谷中三崎町の、おえふといふ女を御存じありませんか、――要屋かなめやとかいふ小料理の看板を上げてゐる」
「いや、いや、一向に知らない」
「此處からは谷一つへだてた、眼と鼻の間ですが――」
「いや、噂を聽いたこともないが」
 鈴川主水はさう答へて、そゝくさと、平次らに背を向けるのです。心なしか、その端正な顏が蒼くなつて、心持ち、うたひきたへた、素晴らしい次低音バリトーンも顫へてゐるやうです。

謎の年増


 平次と八五郎は、次の舞臺を覗くことになりました。言ふまでもなく、谷中三崎町の女世帶、水茶屋とは名ばかりの、お葉の家だつたのです。
 その頃の谷中は、今の常識からかけ距れた存在で、かなりの賑やかな土地でした。一代の嬌名けうめいうたはれた、美女お仙の茶屋は、明和の頃の谷中の名物であり、それより古くは、感應院門前のいろは茶屋が、軒を並べて僧俗の客を呼んだこともあり、やゝ下つては、一代の美僧日當が、延命院えんめいゐんで艶名をとゞろかしたのも谷中の舞臺です。
 それは兎も角、お葉といふ凄い年増が、谷中三崎町に蜘蛛くもの巣を張りめぐらし、人の良い八五郎を喰らひ込んで、三日も外へ出さなかつたのは、何が何んでもわけがありさうです。
要屋かなめやのお葉は、昨夜ゆうべ一と晩外へ出なかつたのか、――大事なことだ、よく考へてから返事をしろ」
 道々、平次は訊ねました。
「夜つぴて見張つたわけぢやありませんが、どうも出た樣子はありませんよ」
「心細い野郎だな。お前はお葉と前からの知り合ひか」
「顏ぐらゐは知つてますがね。もつとも、江戸中の良い女は一と通り知つてるつもりで――でも眤懇ぢつこんといふわけぢやありませんよ」
「そのあんまり親しくもないお前を呼び寄せて、三日も引留めて置いたのは何んのためだと思ふ」
「へツ、へツ」
 かう訊かれると、八五郎は、長んがいあごを撫でてニヤリニヤリと笑ふのです。
「馬鹿だなア、お葉ほどのしたゝか者が、お前をどう思つたわけぢやあるめえ」
「へエ、さうでせうか」
「まだ氣が付かないのか、――お葉がお前を引きり込んで、三日も御機嫌を取つて置いたのは、お前といふものの十手に用事があつたのだよ」
「へエ?」
「お前を用心棒にする氣だつたかも知れない。どうかすると、もつとたちの惡いことを考へてゐたのだよ」
「?」
「まだわからねえのか、お前を活證人いきしようにんにしたかつたのさ、――私は三日の間一と足も外へ出ません。その證據には、八五郎親分が三日間私の家に泊つてゐて、私を離してくれなかつたんです。――と、かう言ひたかつたんだ。ダシに使はれるお前が間拔けさ」
「本當でせうか、それは」
「本當過ぎて氣の毒だよ。折角良い男のつもりでゐたのに」
「畜生ツ、どうしてくれやう」
 八五郎の忿怒ふんぬも、少し冗談じみますが、お葉に一杯かつがれたと知つて、その照れ臭さは救ひやうがありません。
「ところで話はもとへ戻るが、お葉は昨夜ゆうべ、確かに外へ出なかつたのだな」
「奧には女子供が雜魚寢ざこねをしてゐるし、その隣はお葉の部屋で、あつしは入口の三疊一パイになつて寢たんだから、引窓からででもなきや、夜中に外へ出られやしません。女の子達の部屋のガタピシの雨戸は、ちよいとかしても家中に響きまさア。お葉の部屋は格子窓一つで、外へは出られない」
 八五郎がかう言ふのは、滿更の嘘とも思えません。

「この先の右へ入つたところがお葉の茶屋で。行つて見ませうか、親分」
 八五郎は坂の上に立ち止りました。長んがい顎、拔群のノツポ、十手を腰に極めて七三に彌造をこさへた恰好は、どう買ひ冠つたところで、凄い年増のお葉が、自分の巣へ三晩もとめて置く男つ振りではありません。
「俺は暫らく樣子が見たい、お前一人で行つて見るが宜い。一年も逗留たうりうするやうなつらで、ドツカと腰を据ゑるんだ」
「そんなことをしても構ひませんか」
「構はないとも、――次第によつては、平次のところから、當分の暇をもらつて來たとか何んとか」
「やつて見ませうか、お葉は喜びますぜ」
「さううまく行けば宜いが」
「昨夜あたりは、全く變な心持でしたよ。口説くどかれさうで、口説かれさうで。何しろ、あの年増つ振りでせう」
 八五郎は本當にこんな心持でゐたのでせう。
「さうだらうとも」
「現に、本人がさう言ひましたよ、――十手捕繩を返上して、此處へ轉げ込んで來る氣はありませんか、見事私は達引たてひいて、八五郎親分を、くはへ楊枝やうじで過さして見せる――つてね」
「さう/\その氣で行くことだ。こんな時、お前といふ人間は遠慮がなくて、あつらへ向きだ」
 平次にさう言はれると、何んのわだかまりもなく、お葉の茶屋へ立ち向ひ、刷毛はけ先で暖簾のれんをわけて、
「お、今歸つて來たよ。お葉姐さんはどうしたえ」
 などと入つて行く八五郎です。
 平次はその後ろ姿を見送つて、寺の門前の捨石に腰をおろしました。男世帶と相對して、谷一つへだてた女世帶。八五郎がその間に介入して、一脉の關係があることは、最早疑ふべくもありません。
 お葉の茶屋のことを訊かれた時、鈴川主水がさつと顏色を變へたのも尋常ではなく、それにもかゝはらず、『お葉などといふ女は、噂を聽いたこともない』と、頑固にかぶりを振つたのも、甚だ不自然らしく見えました。疑ひは疑ひを生じますが、それは單なる想像で、事件を解く糸口にはなりさうもありません。
 やがて八五郎は、
「いや、驚いたの驚かねえの」
 遙か向うから、額を叩いたり舌を出したり、身振り澤山に戻つて來ました。あれから、まだ煙草三服ほども經つてはゐません。
「どうした、八。お葉にうんと怨まれたか、――逃出すなんて、お前さんはひどいとか何んとか」
「大違ひ、――あれは、氣の知れない女ですね」
「世間の女は、大概たいがい氣が知れないよ。どうしたのだえ」
「鼻も引つかけませんよ。昨夜まであんなにチヤホヤしたお葉が、あつしの顏を見ると、――おや、八五郎親分、何んか御用? ですつて」
「はつきりしてゐるな」
「またやつて來たよ――と言ふと」
「何んか忘れ物でもありましたか、煙草たばこ入も紙入も空つぽのまゝ、持つて歸つたぢやありませんか――といふ言ひ草だ」
 八五郎は腹を立てる張合もない樣子です。

「それでお前は、ハイ左樣でござい――と戻つて來たのか」
 平次も少しからかひ氣味でした。
「兎も角も家の中へ入りましたよ。入口で通せん棒をしてゐる、小女のお玉をかき退けて」
「すると?」
「おや、御用なら入口で仰しやつて下されば宜いのに――と來やがる」
「面白いな」
「ちつとも面白かありませんよ。しやくにさはるから――今度は永逗留ながとうりうのつもりで、差し迫つての御用は皆んな片付けて來た、そのつもりで付き合つてくれ――といふと、お葉のやつ、フヽンと鼻で笑ひました」
「よく/\甘く見られたんだな」
「そのうへ言ふことが氣に入らねえ、――此處は女世帶で、こんな綺麗なのばかりをりますから、お泊りは勘辨して下さい。この節はお上の取締りはやかましいんですから――と吐かしやがる。癪にさはるぢやありませんか、現にこのあつしがお上の御用を勤めてゐることも承知のくせに」
「まア、宜い、怒るな、――薄情な女のところへ、しやくなんざ持つて歩かない方が宜い。お葉に取つては、昨夜までお前といふものが入用だつたのさ。今日になると、八五郎親分に用はねえ。そんな長んがい顎を、御神燈の下でブラブラさせられちやかなはねえから、ツイ愛想つ氣のねえことも言つたんだらう」
「それにしても、ふざけた女ぢやありませんか」
「この上ふざけちやゐられなかつたのさ。兎も角、昨夜までお前に用事があつたといふ、そこが面白いところだ」
「昨夜までうまの日で、今日ひつじの日、そんなことですか」
「そんな話ぢやないよ。尤も、午の日が過ぎたとたんに、八五郎の顏を忘れた――などは洒落しやれになる」
「冗談ぢやない」
「兎も角、行つて見よう。八五郎親分を安く扱はれちや、町方一統の恥だ」
「それ程でもありませんがね」
 平次が先に立つて歩くと、八五郎はその後に續きました。甚だ氣の進まない樣子ですが、此處から歸るわけにも行かず、トボトボと顎でかぢを取ります。
「御免よ」
 平次は店先に顏を出しました。縁臺の毛氈まうせんまでいで、ひつそり靜まつてをりましたが、平次の聲を聽くと、さすがに店の中はザワめきます。
「いらつしやいまし」
 女の子の一番若いお玉でした。疊敷の店から降りて、そゝくさと赤い鼻緒はなをを突つかけます。
「お女將かみさんはゐるだらうな、神田の平次が來たと言つてくれ」
「あの――先刻出かけましたが」
 小女はモヂモヂしてをります。
「冗談ぢやないぜ、おい。ツイ今しがたまで、この俺と話してゐたんだ」
「あ、八五郎親分」
 平次のすぐ後ろに、この長んがい顎が續いてゐることに氣がつかなかつたのです。
「つまらねえことをすると、御奉行所の差し紙がつくぜ。え、おい」
 八五郎はプンプンとしてをります。

「ま、錢形の親分さん、――お玉は彼方あつちへ行つてお出でよ――時々變なのが來るものですから、滅多な人には逢はないことにしてをります。飛んだことを申しあげました」
 お葉はあわてて奧から飛んで出ました。三十前後の大年増、白粉おしろい燒けのした、蒼黒い女ですが、顏立はまさしく美人系に屬した素晴らしい出來で、默つてゐると、何んの變哲もないのが、物を言つたり、表情が活溌に動いたりすると操り人形に魂が入つたやうに、活々いき/\としたあだつぽさと美しさを發揮するのです。
 かういつて、動的な良さを持つた女は、商賣人によく見かけますが、お葉はそのうちでも、非常にすぐれた素質を持つており、八五郎をつかまへて、三日も側から離さなかつただけの魅力は十分です。
「暫らく邪魔をするぜ」
 平次は靜かに受けて、縁臺に腰をおろしました。それを見ると小女は、あわてて、座布團を持つて來ます。
「ところで、どんな御用でせう。錢形の親分さん」
 お葉の顏は緊張して異樣に輝やきます。三十といふ大年増でも眉も落さず、鐵漿かねもつけず、氣が立つと若やぐせゐか、娘々した匂ひの殘るのも、一つの特色でした。
「八五郎を三日も泊めてくれたさうで、飛んだ厄介だつたね」
 平次は切出しました。
「いえ、ツイ淋しかつたもので――惡うございました。御用が多くて、忙しいといふのを承知で、引留めたりして」
「たつたそれだけのことか」
「ま、そんなことで、それに八五郎親分は調子が良いし、お話が面白いから、子供達も離しやしません」
「それはそれとして、今日になつて急に不愛想ぶあいさうになつたのは、どういふわけだ」
「――」
「嫌になつたのか、邪魔になつたのか。それとも、耻をかゝせる氣か」
「そんなわけぢやございませんが」
入用いりえうのときだけ、チヤホヤして引留めるのは、隨分殺生せつしやうだと思はないのか。八五郎はまだ三十そこ/\、あの年で獨り者だぜ」
「――」
「もう一つ訊きたいことがある」
「?」
 お葉はすつかりしをれてしまひました。八五郎一人なら、口先一つで何んとでも誤魔化ごまかして追つ拂ふでせう。錢形平次はさすがにその手ではいけません。
「お前は、螢澤ほたるざはの鈴川主水さんを知つてるのか」
「いえ、ちつとも」
 お葉はあわてたやうに首を振ります。
「もとは能役者だつたさうでね、――何處の藩に仕へたか、調べさへすれば、直ぐわかることだが」
「――」
「その鈴川主水さんの弟の、佐野松といふ人が、昨夜ゆふべ人手にかゝつて殺されたんだぜ」
「――」
「とたんに、八五郎が役濟みになつたのはどういふわけだ」
 錢形平次はこの二つの事件に緊密な關係のあることを疑はなかつたのです。

「そんなことはございません、親分」
 お葉は躍起やくきとなつて抗辯するのですが、平次はそれに構はず續けました。
「お前は少し、八五郎を遊び過ぎたよ。人間は甘いやうでも、十手捕繩を預つてゐる男だ。それを玩具おもちやにするのは、子供の火惡戯ひいたづらのやうなものぢやないか」
「親分、私は惡かつたかも知れません、八五郎親分を三日も引留めて置いて。でも、それは私のせゐばかりぢやございません。お舟も、お小夜さよも、お玉も、そりや八五郎親分びいきだつたんです。八五郎親分は、女の子を相手に遊んで下すつても、決して疲れるやうな顏もしません。あんな氣の良い人は皆んなにチヤホヤされたつて、私のせゐばかりぢやないぢやありませんか」
 お葉は一生懸命に辯ずるので、それを聽きながら、チラチラ八五郎の顏を見る、平次の眼の面白さ、八五郎はたうとうたまらなくなつて、
「ね、おい、お葉さん、頼むから止してくれ。言へば言ふほど、このあつしが馬鹿見たいに聽えるぢやないか」
 お葉の眼の前に、八ツ手の葉つぱのやうな大きなをかざすのです。
「ま、それはそれとして、――八五郎が照れてゐるから、宜い加減にして、お前は三年前に、八五郎に命を助けられたさうだね」
「――」
「三年前の十月一日とか言つたね。兩國橋から身を投げようとしたところを、八五郎に抱きとめられたんだつてね。そして、財布まで貰つたとか言つたね」
「――」
「俺はまた、意地が惡いほど物覺えが良いのだよ、――お前が兩國橋から身を投げようとした、三年前の十月一日、暦の上から考へても闇の夜だ。その上、あの晩は大變なドシヤ降りで、江戸中洪水こうずゐ騷ぎをやつたぢやないか。その晩八五郎は、俺と一緒に八丁堀へ行つて、夜更けに神田へ歸り、明神下の俺の家へ泊つた筈だ。なア、八、お前も覺えてゐるだらう。呑み足りないとか何んとか言ひ出して、大雨の中を女房が酒を買ひに行つたことまで、――八、お前もよく知つてるだらう」
「へエ、よく覺えてゐるやうな、忘れたやうな」
「兩國橋の上で、このお葉さんを助けたのは、お前の幽靈でなきや僞者にせものだ」
「――」
 お葉は完全に沈默させられてしまひました。八五郎を引入れた口實は、完全にうそになると、八五郎を何にかに利用しようとしたことだけが、大きな疑問として浮き出して來ます。
「さあ、この上は、正直なことを聽かう。何んだつて八五郎を留めて置いたか、昨夜ゆうべ何をやつたか」
「――」
「言ひにくかつたら、俺が代りに言つてやらうか、――お前は何にかのわけがあつて、時々姿を變えて、螢澤ほたるざはに通ひ、鈴川家の弟佐野松さのまつと逢つてゐた。お前が厚化粧に描き眉毛まゆげで、夜中螢澤へ通ふ現場を見たわけではないが、俺には、大方わかつてゐるつもりだ。お前はそれくらゐのことの出來る女だ」
 平次の論告は次第に峻烈しゆんれつになるのです。

猪之松登場


「嘘だ、嘘だ。そんな馬鹿なことを、この私が」
 お葉は激しく手を振つて、平次の言葉をさへぎりました。ズルズルと平次の論告に引入れられるのが恐ろしかつたのです。
「いや、嘘ぢやない。螢澤ほたるざはの鈴川家に通つて、離屋に一人で寢てゐる佐野松と逢引する、狐狸妖怪こりえうくわいの正體はお前だつたのだ。お前はまだ若い、濃い化粧をして、夜中にそつと出かけると、フト見掛けた人は、若い娘とも妖怪とも間違へたに違ひない」
 平次は疊みかけて言ふのです。
「違ふ、私ぢやない、皆んなに訊いて見るが宜い。夜になつてからは、私は此家ここを一足も出たことはない。現にこの三日は八五郎親分が見張つてゐて、日が暮れてから、表へ出る隙などはなかつた」
 お葉は必死と辯解しましたが、平次は意地が惡いほど、それを承服しなかつたのです。
「いや、出た筈だ。出なければ八五郎などを泊めて置く筈はない」
證據しようこは? 證據は、親分。證據もないことを言はないで下さい。いくら錢形の親分でも、――そんなことを言はれちや、私は口惜くやしい」
 お葉は泣くのです。どつと頬を洗ふ涙、口惜しさがこみ上げて、暫らくは袖を噛みます。
「證據といふほどのものではないが、佐野松の部屋の外で、こんなものを拾つたよ」
「――」
「女でなければ使はない牡丹刷毛ぼたんばけだ。赤く塗つたつまみのところに、墨で小さく『えふ』と書いてある、間違ひもなくお前の手だ。八五郎へやつた手紙にも『えふ』と書いてあつたから、これは比べて見ればすぐわかる」
「そんなもの、誰が盜んで行つて捨てたかわかるものか」
「おつと、それは逃げ口上だ。廣い江戸の中を、お前の化粧道具の中から牡丹刷毛ぼたんばけつて、縁もゆかりもない、鈴川家の離屋へ、わざ/\捨てに行くものがあるだらうか」
「でも、あの家の猪之松さんが、しつこく此處へ遊びに來ます」
「猪之松?」
 新しい名が、お葉の口から出て來ました。
「え、猪之松さんですよ。あの人はそりやしつこいつたら、三年越し私を口説くどき廻して、時々は眼の色が變るんです。私はあの人の顏を見ると、いつかは手ごめにされさうで、氣味が惡いくらゐ」
「近頃も此處へやつて來るのか」
「三日にあげず遊びに來ますよ。金離れが良いし、酒もあまり呑まないし、こんな商賣をしてゐると、斷わりやうはありません。現に昨日もやつて來て、抱きついたり、頬を撫でたり、いやなことばかりするから、八五郎親分を呼ぶと、あわてて逃げ歸つてしまひました。嘘だと思つたら、八五郎親分に訊いて下さい。――それね、八五郎親分も笑つてるでせう。清水寺の清玄せいげん見たいで、私はあんな人は大嫌ひ」
 お葉はプリプリしてをります。
「若い男が、水茶屋の女にからかふにしても、大概たいがいほどのあるものだ。お前は猪之松に、弱い尻でも押へられてゐるのか」
「いえ、何もそんな」
 お葉の答へは、妙に曖昧あいまいなものがあります。

 牡丹刷毛ぼたんばけは、猪之松の腹掛のどんぶりから出た筈です。が、あの精力的で氣の強さうな下男が、牡丹刷毛を指でつまんで、猛獸の足跡をこさへるほどの、行屆いた智惠があらうとも覺えません。
「だが、それだけのことでは、お前が、夜な/\、忍び出なかつたといふ言ひ譯にはならないぜ」
 平次はなか/\に追及の手をゆるめません。
「口惜しいね。こんな家から、若い娘三人と、八五郎親分に見張られてゐて、どうして私は外へ出られるだらう」
 さう言へばまさにその通りです。入口の三疊には、八五郎がフン反り返つて寢てをり、次の部屋には、三人娘が十姉妹じふしまつのやうに寄り添つてゐるとすると、お葉はその隣りの、窓がたつた一つしかない四疊半の部屋に寢てゐて、格子からでももぐらなければ、外へ出る工夫はなかつた筈です。
 平次はその部屋を見せて貰つて、念のため格子をゆすぶりました。嚴重に釘付けになつてゐて、こいつは容易にはづれさうもなく、こゝまで來ると、平次もお葉の抗辯に負けるほかはなかつたのです。
「待てよ」
 もう一度格子を搖すぶつて見ました。格子ごと、そつくりはづして曲者の外へ出た例は、二つ三つ平次の記憶にもあります。此處の格子もハメ込みになつてゐて、上下さんを引拔くと、そつくりそのまゝはづれるやうになつてをり、女手一つでも、樂に出入りが出來る筈ですが、不思議なことに、古い木の棧のほかに、新しいくぎが二本まで打ち込んであり、拔かうとしても大きい音をたてないと、それはちよいとは拔けないのです。
「おや、この釘は頭が少し出てゐるぢやないか、隨分變なことをしたものだね」
 格子を留めた釘の頸は二、三分づつは拔け出してをり、うつかり手でも引つかけたら、ひどい怪我をすることでせう。
「まア、誰がこんなことをしたんだらう」
 顏を出したのは、お葉でした。お葉自身もこれには氣がつかずにゐた樣子です。
 お葉が知らずにゐるとすると、これは容易ならぬ細工です。
昨日きのふ、あの大雨の中で、皆んな店の方にゐるとき、お勝手の方で變な音がすると思つて、飛んで來て見ると、チラリと人影が射しましたよ。でも、それつきり、盜られた物もなし、お勝手の戸もよく締つてゐるから、何んにも言はずにをりましたが」
 三人娘の一人のお舟は言ふのです。
「まア、あのどしや降りの中を」
 お葉は少しあきれてをりました。別に思ひ當ることもなささうです。
「さう言へば、昨日は、大變な降りでしたね。底が拔けるやうな大雨が、夜になつても續きましたよ」
 八五郎は、お葉のために助け舟を出すのでした。三日泊めて貰つて、生證人いきじようにんの足しにならなければ十手の手前は兎も角、お葉への義理が濟まないやうに思ふのでせう。さう言つた八五郎です。
「さう/\あのどしや降りは何よりの證據ぢやありませんか。女の私があの中を何處へ行けるものでせう。行つたにしても、濡れたものを、どう始末するんです」
 お葉は急に活氣づいて、平次にさかねぢを食はせるのでした。

主水の女房


「親分、驚きましたね。佐野松殺しの下手人は一體誰でせう」
 その晩、二人は二た手に分れて八方を調べ廻つて、明神下の平次の家で落合つたのは、もう亥刻よつ近い頃でした。
 一本つけさして、輕く晩飯をすまして、さて八五郎は言ふのです。
「まだわかるものか、佐野松は色男氣取りで、隨分罪も作つてゐるから、誰にうらまれてゐたか、これから調べなきや」
 平次はまだ迷つてゐる樣子です。
「ところで、厚化粧で佐野松のところに通つたのは、矢張りお葉ですね。あの邊には、夜中に谷中から千駄木に通ふ女の姿を見たといふものは、三人や五人ぢやありません」
「それがどうしてお葉とわかるんだ」
「片袖で顏を隱して、人に見られないやうにしてゐたが、背が高くて、身體が輕くて、お化けでなきや、踊の名人か何んか、餘つ程きたへた者に相違ないといふことで、――ところで、あの女は踊がうまいんですつてね、それに」
「――」
「三人の娘達が言つてゐましたよ、お女將かみさんは、あの齡をして、毎晩濃く寢白粉をつけるんですつて、――だから白粉燒けで、かへつて、蒼黒い顏色になるんですね」
「お前の聽いたのは、それだけか」
「まだありますよ、鈴川主水は能役者崩れだが、大變な金持なんださうですよ。そのくせ、女道樂は大嫌ひで、――妙な野郎ですね」
「女道樂が嫌ひなら妙な野郎か」
「取つかへ、引つかへ、綺麗な子方こがたや芝居の色子いろこを飼つて置くさうですよ。佐野松だつて、世間體は弟といふことになつてゐるが、あれも能役者上がりで、何んだかわかつたものぢやありません。尤も近頃はきね太郎とかいふ、陰間かげまのやうな若いのに、夢中だといふことだが」
 八五郎の調子はいかにも苦々しさうでした。言ふまでもなくこの男は、大のフエミニストで、吉原禮讃者で、そして、歌舞の菩薩ぼさつ渇仰者かつがふしやだつたのです。
「それくらゐのことはわかつてゐるが、ほかにはないのか。お前の調べは、たつたそれだけか」
「これつきりですよ、――尤もあとで考へると、親分の言つたことにも、嘘はありますね」
「何が嘘なんだ」
「三年前の十月一日、江戸は大雨で、あつしと親分と八丁堀の組屋敷へ行つた――なんて、ありや大嘘ですね」
「さうかなア」
「その日は丁度、親分と一緒に狸穴まみあなの菊を見に行つて、麻布で一杯呑んで、夜遲くなつてから、フラフラと神田へ戻つたぢやありませんか。良い秋日和で」
「そんなこともあつたかなア」
あつしがお葉を兩國橋で助けたのもうそなら、江戸は大雨、八丁堀で呑んだのも嘘ですね」
「ハツ、ハツ、ハツ、それで宜いのだよ。お前さへ菊人形のことをよく思ひ出せば、俺は餘計な嘘をつかなくても宜かつたんだ」
「へエツ」
「お蔭で、閻魔ゑんまの廳で、餘計な舌を拔かれるぢやないか」
「呆れたものだ」
 これはまさに八五郎も一本食はされました。

「ところで、俺の方の手柄話をしようか」
 平次は少し改まりました。
「何んです。その手柄話といふのは?」
 膳を引かせて番茶を入れて、八五郎は呑み足りなさうな舌嘗したなめずりをします。
「大した手柄といふわけぢやない。順序を立てて、鈴川主水の身許を調べただけさ」
「へエ?」
「あれは、能役者だと言つた、――そこで、お能方五家の家元を調べる氣で出かけると、二軒目でわけもなくわかつた。流派は遠慮するが、あの鈴川主水といふのは、家柄いへがらは低いが、大層な藝達者で、中國筋のさる大名のお抱へになつてゐた」
「へエ」
「たま/\その家中にお家騷動があり、鈴川主人も惡人方に荷擔かたんして、お拂ひ箱になり、藝名を隱して母方の姓を名乘り、散々の惡事で取込んだ金を持つて、螢澤ほたるざはといふ偏僻へんぴなところに籠り、氣に入りの色子を集めて、勝手氣儘に世を送つてゐる」
「隨分イヤな野郎で」
「お前とはそりが合ひさうもないが、パツパと金をくから、近所の評判は決して惡くないよ」
「たつたそれだけで、へツ」
「俺の眞似をするな、これからが大事なんだ」
「へエ?」
「鈴川主水、良い男で、藝も達者だつたから、女には騷がれた、――あのおえふも講中の一人さ、――踊の上手で、その頃柳原の藝子だつたお葉が、押しかけ女房見たいに入り込んで女房になつた」
「へエ、するとお葉は鈴川主水のお神さんだつたわけで、へエ」
 八五郎の鼻の下は長くなります。
「それは、たつた三年前のこと。お葉は鈴川主水に捨てられて、身投げぐらゐは、やる氣になつたかも知れないよ。もつとも兩國でお前が助けたといふのは嘘八百だが」
「――」
 鈴川主水は、一種の變質者でした。踊の達者で仇つぽくて、この上もなく結構な女房のお葉がだん/\厭になり、内弟子で弟分にしてゐた、佐野松が、次第に好きになつたのはせんないことでした。
「鈴川主水が佐野松を好きになればなるほど、女房のお葉を嫌ひになつたのは、氣の毒でもあるが馬鹿々々しい成行きだつた。ゐたたまれなくなつて、お葉が飛出したのは、それは三年前の秋」
「すると?」
「待つてくれ、お前は早合點がてんしさうだが、佐野松とお葉は、その頃からわけがあつたのではなく、内弟子の佐野松や下男の猪之松に取つては、言はばお葉は主人のやうなものだ。その頃まで何事もなかつたらしいが、お葉が鈴川主水と別れて、一人立ちをすることになり、谷中やなか三崎町に茶店を開いたのは、そんなに遠いことではない」
「――」
「佐野松との仲は、誰も知らないが、佐野松が母屋を嫌つて離屋に引つ越したのは、丁度ちやうど一年ほど前のことだから多分その頃ではないかと思ふ。お葉はもとの夫の鈴川主水への面當てにお氣に入りの佐野松をたぶらかし、腕によりをかけて若作りをし、夜な/\通つた心持はわからないではない――尤もこれは皆んな俺の當て推量だよ」

忍術


 その翌る日、平次は、與力笹野新三郎の御供をして、甲府へ出かけてしまひました。御用金の間違ひがあつて、勘定奉行御差遣はしの與力と、暫らく旅廻りをしなければならなかつたのです。
 留守中、八五郎たつた一人。千駄木から谷中三崎町あたりを調べましたが、八五郎一人では一向にらちがあきません。眼も耳も、人並み以上に働く八五郎ですが、その材料をかき集めて、動きの取れない證據に組み立てる段になると、どうも、八五郎の智惠では、密室殺人の謎は解けさうもありません。
 その間に土地の御用聞などが首を突つ込んで來て、事件を益々わからないものにしてしまひました。そして、平次が戻つて來た時は、事件を混沌こんとんたる迷宮入りにしてしまつたのです。
「八、千駄木の鈴川家の一件はどうなつた」
 十二日目で、神田明神下の自分の家の六疊に旅裝を脱いで、女房のお靜の汲んでくれた澁茶に喉をうるほした平次の、最初の問ひはかうでした。
「へ、それが、その」
 いつもは大木戸まで迎ひに來てくれる八五郎が、明神下の平次の家の、路地の外に迎へたのは、不精を極め込んだせゐばかりではなかつたのです。
「今頃は、佐野松殺しの曲者は三尺高けえ木の上から、房州の山々でも眺めてゐる頃だと思ふが」
「相濟みません。曲者はどうして、佐野松の部屋へ入つたか、そればかり考へてゐるうちに、十日も經つてしまひましたよ」
 かう言つた八五郎です。
「それで、十日目にわかつたのか」
「まア、ほかに手段てだてはないから大方そんな事だらうと見當はつけましたが――」
「どんな見當だ。後學のために話してくれ」
「曲者は、佐野松が引入れたに違ひないとわかつたんで」
「へエ、恐ろしい智惠だな、お前は」
「内から締められると、あの離屋は、鐵の箱見たいなもので、外からは入る場所はありません。すると、曲者は佐野松と心易い人間で、――情婦いろをんなだか、友達だか知らないが、兎も角も、外から聲を掛けて、中にゐる佐野松に開けて貰ひ、ヌツと入つたに違ひないことになるでせう」
「えらいツ、其處までわかるのは大したものだ。おいお靜、八五郎親分に上げるんだ、一本つけてくれ」
 平次にさう言はれると、お勝手のお靜は心得てお酒の支度に取りかゝつた樣子です。
「からかつちやいけません。それくらゐのことなら、あつしだつてわかりますよ」
「ところで、あとの二日は何をした」
「曲者は何處から出たか考へましたよ」
「成る程」
「入つたものなら出なきやならないでせう。入る時は殺された佐野松に入れて貰つたとして、佐野松を殺して外へ出た後で、誰が戸を締めたでせう? まさか死骸が戸を締める筈はないでせう」
「當り前だ」
「すると、誰か締めなきやならない。あつしはそれを、二日考へましたよ」
 まことに、んびりした話です。

「二日も考へたら、見當ぐらゐはつくだらう。戸の隙間から出たとか、縁の下を掘つたとか?」
 平次は少しからかひ氣味でした。
生憎あいにく、そんなでつかい隙間もないし、床下の土には、土龍もぐらの這つた跡もありません。あの離屋の雨戸を締めきつて、二日がかりで考へて見ましたが、まるつきり見當はつきませんよ、――こいつは忍術か何んかですね、木遁もくとんの術といふのがあるでせう」
「馬鹿だなア、それは忍術使ひが、木立や林に身をひそめる術で、雨戸の隙間から煙のやうに潜る話ぢやないよ」
「さうでせうか」
 八五郎はまだ、に落ち兼ねた樣子です。
「いづれ、俺が考へ出すよ。曲者はあの離屋から脱け出したに違ひないから、やつて出來ないことはあるまい」
「へエ、親分も、木遁の術を心得てゐるんで」
「そんなものは知らねえが、人間のやつたことは、他の人にも必ず出來るに違ひない。劍術の名人が、眞劍で勝負をする時、どう斬り返すか、どう受けるか、どう變化するか、それでさへ、皆んな理づめだ。そのむづかしい變化を、一瞬轉しゆんてんの間に考へて、臨機應變にやるのが名人で、二日も三日も、いや一年も十年も考へるのが凡人さ。尤も思ひ付いた時は、もう斬られてゐる、――一生考へてもわからないのは馬鹿さ」
「へエ、あつしなんか、その馬鹿の方で、まる二日考へたが、あの離屋から拔け出す工夫は見付かりませんよ」
「それで宜いのだよ」
「あの、鈴川の下男の猪之松の野郎もさう言ひましたよ、――この離屋から、戸を締めたまゝ脱け出すのは、八五郎親分にはむづかしからう――つてね。すると、鈴川の主人の良い男の主水とか言ふのが、ウハツハツハツハと『にてさふらふ』の調子で笑ひましたよ」
「何んだい、その『にて候』てえのは?」
「狂言には、そんな間拔けな笑ひがあるんですつてね、――しやくにさはるのなんのつて」
「つまらねえことが癪にさはるんだな」
「だつて、笑はれたのはあつしでせう」
「まア、諦らめるが宜い」
 平次は何を考へたか、相手にもしません。が、八五郎にしては、それがまたもどかしく何んとかして、平次の敵愾心てきがいしんをかき立てたくてたまらない樣子です。
「あのお能の主人が、親分のことも言ひましたよ」
「何を言つたんだ」
「錢形の平次とか何んとか、江戸の町人どもは大層なことに言ふけれど、いざとなれば、小盜人こぬすつとほどの智惠もあるまい。人でも殺さうといふ、太い野郎の、惡巧わるだくみを見破るなどとは、どうしてどうしてとブルンブルンと首を振るぢやありませんか」
「――」
「すると下男の猪之松も、――世間の評判といふものは、先づ、そんなものだ――と言やがるから、あつしは二つ三つ横つつらを食はせようかと思ひましたが――」
「まさか、そんな亂暴はしなかつたことだらうな」
「あの頬桁ほゝげたを張り飛ばすのは、やさしいが、喧嘩になつた揚句、親分が、あの離屋から脱け出す工夫がつかなかつたら、飛んだ恥を掻くでせう」

「ところで、ほかに變つたことはなかつたのか」
 平次は話題を變へました。八五郎の不平などに付き合つてゐては際限もありません。
「大ありですよ」
たとへば?」
「話すのはワケもないが、こいつは矢つ張り親分の眼で見て貰つた方が確かだ。谷中まで行きませう、親分」
「待つてくれ、八。俺はたつたいま甲州から歸つたばかりだぜ」
「それぢや、たつた一と晩ですよ、親分。明日の朝は迎ひに來ますから」
 八五郎は面白さうに笑ひながら出て行きました。何やら、容易ならぬことがありさうです。
 そのあくる日は、薄寒い風が吹いてをりましたが、江戸の紅葉もみぢはもう色づいて、正燈寺も海曇寺もまばらながら客を引きつけ、上野から谷中への道も、何んとなく賑やかでした。
「何處へつれて行くんだ、八」
「少し凉し過ぎるが、良い日和ぢやありませんか。これから直ぐ正燈寺へのして、刷毛序はけついで仲町なかを覗きたいくらゐのもので」
「馬鹿なことを言へ、御用をどうするんだ」
「へツへツ、それは冗談ですが、近ごろ谷中にも張り見世が出來たといふ騷ぎですよ。驚いちやいけませんよ」
 八五郎が案内したのは、三崎町のお葉の茶屋。遠くから見ると、提灯が三つ四つ、紙でこさへた紅葉の枝を軒にさして、晝を過ぎたばかりといふのに、店のあたりが何んとなくざわめきます。
「妙に陽氣ぢやないか」
「一里四方、妖氣が棚引たなびいてゐるくらゐのもので。ま、ちよいと覗いて見て下さい」
 紙の紅葉の枝の下、ひよいと葭簾よしずの中を覗いて、
「フーム」
 錢形平次、まさに膽をつぶしました。それはまさに、安つぽく、仇つぽく、吉原の小格子こがうしの店先を覗いた時のやうな、異樣な惡どさと、手のつけやうのない色つぽさを感じさせるのです。
「入らつしやいませ」
 たじろぐ平次に、黄色い聲の大合唱です。八五郎が谷中にも張り見世と言つたのは、この上もない適切な言葉で、お舟、お小夜、お玉の三人娘が、赤前垂まへだれの赤だすき、それを片はづしに、貫入くわんにふの入つたやうな厚化粧、此處を先途と、地獄の三丁目まで屆きさうな嬌聲を發するのです。
「お葉姐さんはゐるかい」
 八五郎は、心得た風でズイと入りました。
「奧でお客樣のお相手よ。ちよつと待つて下さいな」
 氣のきいたお玉が新粉しんこまみれた廿日鼠のやうに、チヨロチヨロと奧へ入りました。が、肝腎かんじんのお葉はなか/\出てくる樣子はありません。
「ね、親分。この客は誰だと思ひます」
「知るものか」
「錢形の親分を、小半刻待たせる客といふのは、驚いちやいけませんよ」
 二人はもう退屈しかけてゐる時でした。
「あらさう、濟まなかつたわねえ」
 などと、前觸れのお世辭を先登に、お葉が出てくるのです。

隱し男


「おや、錢形の親分。八五郎親分も御一緒で、お早やうございます」
 お葉の調子は、そこいら中をクワツと明るくしました。三十女がかうも綺麗になれるものか、平次も暫らくは挨拶に困つたほどです。
「お早やう、――と言ひてえが、もう晝過ぎだぜ。それにしても、大層な變りやうだなお葉さん。女は化物だといふが、全く十歳とうは若く見えるぜ」
「まア、親分、お世辭の良い」
「世辭なものか、一體何を發心ほつしんしての紅白粉だ。膽をつぶさせるぜ」
 錢形平次が、どんなに驚いても驚き足りないほどの、それは素晴らしい變化でした。蒼黒い顏に、厚化粧が乘つて、描き眉毛も濃い口紅も、そして、こればかりは派手に過ぎない、たしなみの良い着物も、若い娘にはない、不思議な仇つぽさです。
「でも、段々年を取ると心細くなつて、もう一度、一生の思ひ出に若作りがしたくなりますよ、――何んと言つても、女の弱さね」
 お葉はさう言ひながら、二人を招じ入れて、赤い毛氈まうせんの上、煙草や茶を運ばせるのでした。
「そんなものかなア、――俺はまた、女は男が出來ると綺麗になるものと聽いてゐるから、お前もてつきり良い人が出來たのかと思つたよ」
「あら、そんなこと」
 お葉は團扇うちはでちよいと打つ眞似をするのです。川柳の『團扇では憎らしいほど叩かれず』と言つた風情です。
「まア宜い、女の綺麗になるのは、惡いことぢやない」
「まア、――でもね、親分。女は年を取つてから、若い時着た嫁入衣裳などを箪笥たんすから出して見ると冗談などを言ひながら、もう一度着て見たくなるものださうです。私は仲人なかうどを立てて、三々九度をした覺えはないから知らないけれど、昔々大昔藝者だつた頃、一本になつて突き出された時のことを思ひ出すと、ツイ、お人形のやうに着飾つて、存分に化粧をして見たくなります」
「もう辯解いひわけは澤山だ、――思ひきり若作りで惱ませるが宜い。尤もお葉の茶店が繁昌し過ぎると、いろは茶屋から毆り込みが來るかも知れないぜ」
「まア、親分、――では、御ゆるりと。お舟にお相手させますから」
 お葉は妙に落着かない樣子で、三人娘のうちの、一番年嵩としかさのお舟を呼んで、二人の親分を任せ、自分は滑るやうにはづして、暖簾のれんの奧に身を隱してしまひました。
 平次と八五郎は、それから暫らくの間、粘つてをりましたが、奧からは何んの挨拶もなく、三人の娘が、チヨロチヨロと店の中を動いてゐるだけのこと。
「この店も、妙に繁昌して來たぢやないか」
 出たり入つたりする客を見ながら、平次は獨り言を言つてをります。
女將おかみの心掛け一つですよ。お葉が派手作りになると、三人の娘も張り合つて客扱ひがよくなる」
「だが、俺達二人は煙たがられてゐるらしいぜ。ろくに寄り付きもしない、――男同士で澁い茶を呑んだつて、面白くないな。八、歸らうか」
「待つて下さい、親分。氣になることがあるから」

 八五郎はいきなり立上がつて、店の外へ出て行くのです。相變らずの氣紛きまぐれらしい樣子に、平次は大した氣にも留めず、煙草を呑んで茶をすゝつて、お墓詣りらしい三崎町の往來を眺めてゐると、
「ちよいと親分」
 八五郎が葭簾よしずの間からあごを出すのです。
「待つてくれ、お茶の飮み逃げもなるまいから」
 懷ろをさぐつて、穴のあいたのを五、六枚、盆の隅に置いて外へ出ると、八は少し先、お葉の茶屋の裏に廻つて小手招ぎをしてゐるのです。
「親分、此方ですよ」
ふうが惡いよ、八。垣の外から覗いたりして」
「シーツ」
 八五郎の樣子の物々しさに、平次もツイ釣られました。埃溜ごみための山を登つて、破れた竹垣の根に近寄ると、成る程、お葉の茶屋の奧座敷、四疊半の一と間が、眼の前に展開するのです。
 その四疊半の入口にゐるのは、まぎれもない厚化粧のお葉で、なまめかしく居崩れて、此方へ向いた顏が、心持興奮してゐるのも、素晴らしい魅力でした。
 それと相對して、窓際にゐるのは、前髮立の若い男。首筋の青い、生際の美しい、それは少年と言つても宜いほどの桃色の肉付です。
 無地熨斗目のしめの、拜領物らしい振袖、はかまは脱いで疊んであり、横顏の端麗さは非凡でした。平次はフト、この少年には見覺えがあると思つたのも無理はありません。それは鈴川主水のところに養はれてゐる、美少年杵太郎の、薄化粧さへした顏ではありませんか。
 身扮みなりの物々しさから見て、それは、何處かお大名へでも使ひに行つた歸りか、谷中の寺へ墓參にでも來たものでせう。主人の眼をかすめてお葉の茶屋に立寄り、大年増のお葉と暫しの逢ふ瀬を樂しんでゐるものでせう。
 二人は何やらひそ/\と話して溶け入るやうに、ニツコリとします。妖麗無比な年増と、もぎ立ての桃のやうな美少年が、向ひ合つてほゝ笑み交す圖は、八五郎をすつかり夢中にしてしまつたのも無理のないことでした。
 女の頬と男の頬が、お互ひに吸ひ寄せられたやうに、ピタリと合ひます。手と手がからみ合つて、暫らく無言のエキスタシーに浸るとまた思ひ出したやうに、うは言の囁きが始まるのです。
「畜生ツ、見ちやゐられねえや」
 八五郎はたうとう、我慢がなり兼ねたものか、埃溜ごみだめを飛越えて、三崎町の往來の方へ逃げてしまひました。
「どうした八、氣が弱いぢやないか」
「へツ、くそでも食らへだ」
 八五郎はぺツ/\と唾ばかりをしてをります。
「お葉の樣子が、ソハソハして變だと思つたが。まさか、あんな若いのを引入れてるとは思はなかつたよ」
「店先に、變な履物があると思つて、裏へ廻ると、あの圖ぢやありませんか、――あの樣子ぢや、佐野松もあの手でやられたんですね、年増は怖い」
 八五郎は大袈裟げさに身ぶるひなどして見せるのでした。

「八、あれに氣が付かないか」
 平次は八五郎の袖を引きました。二人はまだ、お葉の茶店の前にゐたのです。
「何んです、親分?」
「西棧敷さじきにも、お客樣がゐたよ」
「へエ?」
 八五郎には、その意味がわからない樣子でした。
「俺達二人は、此方側の竹垣の破れからのぞいて、すつかり胸を惡くしてゐたが、もう一人、向う側の縁側の障子の穴から、覗いてゐた奴があつたのさ」
「へエ」
「それ、向うへ逃げて行くぢやないか。しまあはせを着て、羽織を頭から、引つ冠つた男――背の高い」
「あ、成る程」
 八五郎が氣の付いた時は、相手はもう、坂の下の方へ、町角を曲つて、姿を隱してをりました。
「サア、行かう。未練らしくウロウロしてゐたところで、大した獲物もあるめえ」
「何處へ行くんで」
「知れたこと、久し振りに千駄木の鈴川家を覗いて見るよ。佐野松殺しの下手人も、まだ擧がらなかつた筈だ」
「違えねえ、――でも、あの家へ行くのは氣が進みませんね」
「何が?」
「あの能役者崩れの主人が、高慢で、つむじ曲りで、無愛想で、話をしてゐると、腹ばかり立ちますよ」
「そんな事を氣にするがらでもあるめえ。サア、急がうぜ」
 螢澤ほたるざはの鈴川家に着いたのは、それから間もなく、半纒はんてんを着て庭木の手入をしてゐた下男の猪之松が、
「おや、親分方、入らつしやい」
 などと、いつになく愛想よく迎へてくれました。背は高くないが色の淺黒い立派な男です。
「御主人の鈴川樣がゐらつしやるかい。けふは、折入つて伺ひたいことがあるんだが」
「へエ、ゐらつしやいます、御書見のやうで」
 猪之松は庭から廻つて、奧の一と間へ、障子越しに聲をかけます。
「何? 錢形の親分が見えた。丁度宜い、私も訊きたいことがある」
 さう言つて、煙草盆を持つたまゝの、主人の主水が縁側の日向ひなたに顏を出しました。
 デツプリ肥つた、長身の中年者で、見てくれも立派ですが、多年うたひきたへたせゐか、凛として、素晴らしい次低音バリトーンです。
 家には誰もゐない樣子で、庭から入つた猪之松が、及び腰に座布團を引寄せて、縁側の上に、三人の座を作りました。四方を壓するのは、千駄木の林、あちこち紅葉して、秋の日射しは、春よりもうらゝかです。
「またお邪魔をいたします。私もやうやく甲府の旅から戻りましたので、新規しんきき直しで、佐野松さん殺しの下手人を搜したいと思ひます。何彼と、おうるさいことでせうが」
 平次は腰を低くして、一應の挨拶をしました。
「いや、もう、まことに迷惑、私も甚だ困りますよ。どうだらう、親分。このくらゐにして、もう探索をしては」
 思ひもよらぬことを、鈴川主水は言ふのでした。

果し状


「何を仰しやるので? 調べはこれから本筋に入りますが」
 平次も、きつとなりました。主人鈴川主水の口吻くちぶりには、妙な含みがあるのです。
「いや、これから始められてはかなはない、――さう言つては濟まないが、この曲者は何年調べたところで、――地獄の底まで搜し拔いても、つかまる當てはあるまいと思ふがな、親分」
 主水は煙草の煙を輪に吹きながら、泰然として、こんなことを言ふのです。
「それは、どういふわけで?」
 平次も氣色ばみました。『にて候』の調子で、存分な嫌味を言はれては、錢形平次の顏が立ちません。
多寡たくわが人殺し、神變不可思議の術がある筈もないと思ふが、江戸一番の御用聞と言はれる錢形の親分が、肝膽かんたんを碎いて搜しても、曲者はあの離屋へ、どうして入つたか、どうして拔け出したか、それさへわからないといふやうでは」
 主人は煙管きせるを叩いて、疊の上に輕蔑けいべつしきつた小皺こじわを寄せるのです。
「?」
 平次は默つて唇を噛みました。素人も素人、恐ろしくのんびりした能役者などから、これだけ痛烈な皮肉を言はれようとは、夢にも思はないことだつたのです。
「尤も曲者の入つた樣子はわかつてゐる。佐野松が自分で雨戸を開けて呼び込めば、何の變哲もないことだが、あの通り、さんがおりて輪鍵まで掛つてゐる密室から、佐野松を殺した曲者は、どうして逃げ出したか、それが解らないとは情けないではないか」
「――」
「私が申すことは、決して言ひ過ぎではあるまいと思ふ、どうぢやな」
 これを『にて候』の調子で、落着き拂つてやるのです。平次は默つて聽いてをりましたが、八五郎の樣子といふものは大變でした。拳骨を固めたり、鼻の頭を撫でたり、足踏みをしたりつばを吐き散らしたり。
「八、少し靜かにしろ」
 平次がたしなめたのは、よく/\のことです。
「だつて親分、口惜しいぢやありませんか、そんな事を言はれて」
「默つてゐろよ、曲者は此方の上を越す智惠者だ――成るほど、出入りのからくりも解らなくて、曲者を取つて押へようとしたのは、此方の間違ひかも知れない、――御主人」
「何んぢやな、諦めて歸るか」
 鈴川主水は自若としてをります。
「飛んでもない、此處で手を引いては、曲者は何をするかわかりません」
「――」
「あつしのはぢなんざ三年でも五年でも我慢しますが、この樣子では曲者は、次の惡企わるだくみを考へてゐるに違ひありません」
「で、どうしようと言ふのだ」
「この事は申し上げたくはなかつたのですが、木偶坊でくのばう扱ひにされちや、町方の名にも係はります。曲者の逃げ出した場所が、それほど氣になると仰しやるなら、隨分搜してお目にかけませう」
「何? 曲者の逃げ路が、わかると言ふのか」
 平次は到頭、果し状を突き付けられた形になりました。

「曲者の逃げ路が、わかつたといふわけぢやございません。大方そんなことだらうと、見當が付いただけのことで」
 平次は一應言葉を緩和くわんわしましたが、相手はもう、それを受けつけようともしません。
「面白いなア、是非その逃げ路を見せて貰はう。天井裏から床下まで、隨分念入りに調べたつもりだ」
「――」
「さア、早速見せて貰はうか。陽が暮れるまでに、曲者の逃げ路がわからなければ、氣の毒だが引拂つて貰はうか、――曲者の入つた場所も逃げた路もわからなければ佐野松は自害したことになる。それで宜いではないか、下手人のない人殺しといふものはない。このうへ町方のお役目を笠に被て、荒されてはかなはない」
 鈴川主水は、能役者とは言つても、苗字めうじ帶刀たいたうを許され、將軍の御前にまで出られる、立派な士分でした。今は浪々の身であつても、町方の御用聞に、かれこれ言はせないだけの見識はあつたのです。
「では、離屋を拜見いたします」
 平次が腰を浮かすと、
「猪之松、離屋を開けて、親分を案内するのだ」
「へエ」
 何處からか、精悍せいかんな感じのする猪之松が出て來て、先に立つて歩き出しました。
「妙なことになりましたね、親分」
 振り向いた猪之松も、苦が笑ひを噛み殺してをります。
「これで良いのだよ、張合ひになつて、ダラリダラリと調べてゐると何日經つてもらちがあかない。かう彈みがつくと、私でもツイ一生懸命になるだらうから」
 その癖平次は、一向に屈託くつたくのない顏をしてゐるのです。
 雨戸を一枚、二枚とあけると、中はもうすつかりきよめられてゐて、此處で人殺しがあつたとも思はれませんが、新しく替へた疊の青さ、貼り直した唐紙の白さにも、いやに物々しさがあります。
「親分、大丈夫ですか、あんな事を言つて」
 後ろから、ウロウロとついて來たのは八五郎でした。心配と忿怒ふんぬがコビリ附いて、兩の頬をヒクヒク痙攣けいれんさしてをります。
「兎も角やつて見るよ。俺が離屋へ入つたら、窓も雨戸もしつかり締めてくれ。一寸一分の隙間もあつちやならない」
「へエ、こんな具合にですか」
 平次が離屋に入ると、八五郎と猪之松は、それを鐵桶てつとうの如く締めきつてしまひます。
あつしも入つちやいけませんか、親分」
「邪魔だよ、お前は人間は良いが、口が惡くていけない。それにたつた一とときでも、物を言はずにゐられない人間だ」
「へエ、いけませんかねえ」
「中で手をつまで、開けちやいけないよ。外から聲を掛けてもいけない。退屈だつたら、その邊で一杯呑んで來るが宜い」
「飛んでもない」
「暗くなつても、聲も掛けず、手も鳴らなかつたら、お前は家へ歸るが宜い」
「親分は?」
「泊るかも知れないよ」
「へエ」
 八五郎の心細さうな顏といふものはありません。

 離屋の中に入つて、嚴重に雨戸を締めさせた平次は、暫くは、物音一つ立てずに、くわんの中に入つた佛樣のやうに、全く靜まり返りました。
 それから小半日――いや實は四半刻はんとき(三十分)とも經たないのですが、外で待つてゐる八五郎には、小半日ほどの長さに感じたのです。その間、煙草を吸つたり、爪を噛んだり、縁側へ腰をかけたり、ブラブラ歩いたり、いろんなことをやつて見ましたが、中ではコトリとの音もせず、やがて夕陽が、千駄木の森に隱れさうです。
「八五郎親分、退屈だね」
 振り向くと、それは下男の猪之松ゐのまつでした。庭木の手入れで、少しほこりつぽくなつてゐますが、この男もなか/\良い男で、四角なたくましい顏にも、昔の美少年の面影が匂ふのでした。
「――」
 八五郎は肩をそびやかして、反抗的な顏を擧げました。足許を見られたやうな氣がしたのです。女を待つてゐる戀人――母親を待つてゐる子供が、人にからかはれて、フト反抗的な氣持になるのと同じ心理状態です。
「錢形の親分は何をしてゐるんだらう? まさか、晝寢ぢやあるまいね」
 さう言ふ猪之松の唇の隅には、妙にからかひ氣味の冷たい笑ひがほころびます。
「飛んでもねえ、錢形の親分は晝寢などをするものか、――コトリとも音のねえのは、それ、その座禪ざぜんを組んでゐるのだよ。坊さん見たいに、大胡坐あぐらいてよ、おへそのあたりにいんを結ぶと、親分の胸は地獄の繪の中にある、閻魔大王えんまだいわうの照魔鏡見たいに、惡い野郎のしたことは、何んでも映る」
「へえ、そいつはこはいね。でもそんなうまい具合に行きますかね」
「行かなくてさ。親分が座禪を組むと、例へばだね、俺が昨夜ゆうべ、吉原へ冷かしに行つたことまで、ちやんと判る」
 八五郎はたうとう變なことまで言つてしまひました。全く、八五郎に取つて、仲町なかへ冷かしに行つて、腹を減らして、大引け過ぎにねぐらに歸るのが、唯一の秘密であつたのです。
「へエ――、恐れ入つたね。錢形の親分の家ぢや、お神さんがつまみ食ひも、ほまちも出來ないわけだ」
「馬鹿にしちやいけねえ」
 どうも、猪之松の方が、役者が一枚上のやうです。
 また暫らく經ちました。離屋の雨戸に西陽が一パイにして、クワツと明るくなつてゐるあたり、コトリと音がして、内から戸を開けると、錢形平次が顏を出しました。まぶしさうな顏です。
「親分、もう宜いんで?」
「見當だけはついたよ。中へ入つて見るが宜い」
 八五郎は少し氣味が惡さうに、離屋の中へ入りました。
あつしも見ちやいけませんか」
 物好きさうな顏をして、猪之松がのぞいてをります。
「あ、宜いとも、序に御主人にも見て頂かうか。ちよいと呼んで來てくれ」
「へエ、へエ」
 猪之松は氣輕に飛んで行きました。平次の自信に引摺られた恰好です。

 人數は揃ひました。平次と八五郎と、鈴川主水と、下男の猪之松と、四人離屋に入ると、平次の手で、内から嚴重に締めきり、暫らく息を呑んで、平次の次の言葉を待つたのです。
「よく出來た普請ふしんですね。これだけの明るい夕陽を受けて、大きい隙間も節穴もないとは驚きましたよ」
 平次がさう言ふのも無理のないことです。ぜいを盡して建てた、昔の隱居部屋で、木口も建て付けも申分なく、節穴一つないのは當り前のことですが、雨戸は印籠いんろうばめ、板にも少しのりもないので、殆んど針ほどの隙間も見付からない有樣。
「かうしたところで、何にか氣の付いたことはありませんか、――この前一度、この離屋に入つて、雨戸を閉めきつて調べたときとは少し違つたところは、ありやしませんか」
「――」
 平次の問ひに、誰も答へるものはありません。何處からともなく入る光線で、中は馴れると薄明るく感じますが、兎も角も、人の顏もよく見えないやうな、閉めきつた離屋の中で、お互に息を呑むだけのことです。
「何處か違つてゐる筈ですが、あまり些細ささいなことで、氣が付かないのかも知れません、――實は、この離屋の中は、少し暗過ぎるのです、夕陽を一パイに受けた部屋の中で、いくら閉めきつてゐても、もう少しは明るかつた筈です」
「――」
「はつきり申上げると、前には、雨戸の板に、釘の拔けた小さい穴などがあつた筈です。それがほんの一寸の間――私が甲府へ行つて來る間に、皆んなふさがつてしまひました。誰がそんな細工をしたか、御存じありませんか、御主人」
「いや、少しも知らない」
 主人の鈴川主水は、重々しく應へました。
「御主人が御存じないうちに、雨戸の釘穴くぎあなを皆んな塞いだといふのは、そりや少し變ぢやありませんか」
「?」
「八、戸袋の側の雨戸を、一枚はづして見るが宜い。さう、さう、それでよし」
 八五郎が雨戸を一枚外すと、沈みかけた夕陽が、光の洪水のやうに、ドツと部屋中に氾濫はんらんするのでした。
「この通り、ゆるんだ釘は締めてあり、拔けた釘穴は丁寧に埋めてある。新しい釘を打ち込んだのもあり、大き過ぎる穴は杉箸すぎばしで埋めて、兩方を切り取つたうへ、一寸見ただけではわからないやうに墨とほこりで汚してある、――尤も、素人の細工だから大したことはない。裏から押せば、杉箸でこさへた詰めが除れて、これ、この通り、小さい穴があく」
 平次は二つ、三つの穴から、その詰めを取つて見せました。素人の細工には違ひありませんが、なか/\に精巧です。
「誰がそんなつまらないことをしたのだらう」
 主人鈴川主水も、少しばかり困惑した樣子です。
母家おもやから、そんなに遠くはありません。御主人は、これに氣の付かない筈はないと思ふのですが」
「いや、少しも氣がつかなかつた」
 平次の追及を逃れるやうに、鈴川主水は手を振るのです。

「御主人の氣のつかないうちに、これだけの細工さいくをしたのは、餘つ程のワケがある筈です、――例へば、下手人が、何んかの都合で、雨戸に一つ穴をあけた」
「?」
 平次は靜かに説き進むのを、鈴川主水も高慢のつのを折つて、默つて聽いてをります。
「何んのための穴か、それはわからないが、雨戸一面に散らばつてゐる釘穴、――大空の星のやうにすかせばわかる、小さい釘穴とは違つて、その輪鍵の傍のは、人の手で拵へた穴に違ひない。釘穴よりは大分大きく、その上、太いきりであけた穴だから、その錐目を隱すために、穴のへりを黒く塗つて、ちよいと見たくらゐでは、わからないやうにしてある」
「?」
 主人の主水と他の二人も差し覗きました。
「少し大きくて、よく眼につく穴を一つ隱すために、曲者は雨戸の穴を皆んなふさいでしまつた。――ところで、その曲者が隱した穴は一つではなかつた。いろ/\調べたうへ、漸く見付けましたよ、御主人。曲者が隱したかつた穴は、間違ひもなく輪鍵の右と左に二つあつた」
 平次はさう言つて、一番端つこの雨戸、はづしたばかりのを夕明りにすかして、かまちの中程に打つた、輪鍵の横のあたりを、十手の鍵の先でトンと叩くと、直徑二分ほど、長さ一分にもみたぬ木のせんが、輪鍵の右と左から拔けて、ポコリと落ちるのです。
「?」
 三人は眼を見張りました。手品の種あかしを見せられた、惡戯いたづらつ兒のやうな顏です。
「丁寧に、そくひまで附けて、滅多なことでは落ちないやうにしてある。大變な手のこんだ細工だ、――が、何んだつて、こんな念入りの細工をしなければならなかつたか?」
「?」
「人でも殺さうといふ、大それた奴でなければ、こんな厄介なことをする筈はない」
「親分、あつしには、どうも腑に落ちないことがあるんだが」
 八五郎はちよつかいを出しました。平次の話を、一から十まで感服してゐるのは、他の二人の聽き手の手前、少しは不見識なやうな氣がしたのでせう。
「何んだえ、お前にも腑なんてものがあつたのか」
「曲者が、締めきつてある離屋はなれに入るための細工なら解つてゐるが、相手を殺してしまへば、あとは野となれ山となれ、一寸でも早く逃げ伸びたくなるでせう。それを便々と居殘つて、何處から逃げたかわからないやうにするといふのは、餘計な手數ぢやありませんか」
 八五郎はかう言つてしたり顏をするのです。
「それも一應尤もだが、曲者はこの平次と四つに組んで見たかつたのだよ」
「へエ?」
「離屋の中の佐野松は、女に殺されたやうに思はせたが、女が逢引に來たのなら、トロトロとしても、合圖をきくと起き直つて雨戸を開けてやるだらう。ところが、佐野松は起き出した樣子はなく、寢たまゝ殺されてゐる」
「――」
「曲者は、自分で開けて忍び込み、戀人を待ちくたびれて、トロトロと眠つてゐる佐野松を殺したのだ」

馬の尾


「ちよいと待つて下さいよ、親分」
 八五郎は急にウロウロして、平次の話の腰を折りました。
「何んだ、お前にも、結構な智惠があるのか」
「そんなわけぢやありませんが。あれを見て下さいよ」
「?」
此處ここに皆んな揃つてゐることに氣が付かないんだね。生垣いけがきの外に立つて、まだいちや付いてやがる」
「?」
「お葉の阿魔が、此處まで男を送つて來たんですよ。別れが惜しいとさ、馬鹿にしてやがる」
 八五郎がプリプリするのも尤もでした。谷中三崎町から此處まできね太郎を送つて來たお葉が、いきなり杵太郎の首に噛り付いて、別れを惜しむの圖を、はゞかる色もなく夕陽の往來に展開してゐるのです。
「成る程、年上の情婦いろは耻を知らないから、扱ひにくさうだ、――丁度宜い、二人を此處へ呼び入れてくれ。見せたいものがある」
「何を見せるんです。あんな具合に逆上のぼせてゐちや、意見をしたつて無駄ですよ」
「何をつまらねえ、意見なんかするものか。あの女は、いろんなことを知つてるに違ひないから、人殺し野郎の仕掛けを見せて、モノを考へさしてやる」
 平次は何を考へてゐるか、もとより八五郎にはわかる筈もありません。兎にも角にも、履物はきものを突つかけて、生垣の外へ廻ると、杵太郎とお葉の退路を遮斷しやだんしたらしく、何やら激しく言ひ合つてをります。
 やがて八五郎が勝つたらしく、
「さア/\錢形の親分が、人殺しの仕掛けを見せてやるといふんだ。後學のために見て置くが宜い」
 さう言ひながら八五郎は、しかとお葉の袖を抑へてゐるのです。
「まア、嫌ねえ、人殺しの仕掛けですつて。私はこの世の中に殺したい人なんかないんだもの、見せてもらつても無駄よ」
 お葉は十分にしぶりながらも、かなりの好奇心を燃やしてゐるらしく、八五郎に引かれて庭を迂廻うくわいして、離屋の前に立つてゐるのです。
 一枚だけはづした離屋の雨戸、其處から、内の三人と、外の三人が顏を合せました。内の三人といふのは、平次と主人の主水と、下男の猪之松で、外の三人といふのは、八五郎とお葉と、そしてかゝり人の杵太郎です。
 わけても、主人の鈴川主水と、派手作りのお葉の、はからざる對面は見事でした。二人は押かけ嫁ではあつたにしても、かつて一度は夫婦であつたに違ひなく、そのお葉の出現に、男の方の主水はさすがに面食らつたらしく、ハツと顏をそむけて、眼の隅から、チラチラ樣子を見てをります。去つた女房か去られた女房かはわかりませんが、曾ては一緒に生活くらした女の、おとろへるどころか、更に磨きのかゝつた美しさに、妙な心持なつたのも無理のないことでした。
「サアサア皆んな中へ入つた/\、これから人殺し野郎の種あかしをしてやらう」
「何にか手傳ふことはありませんか」
 かうなると八五郎も、ステージに立つたやうな心持で、平次の傍に顏を寄せます。

「先づ、この雨戸を見て下さい。先刻も言つた通り、あの晩、この戸は確かに閉つてゐた。上下のさんは、落ちてゐなかつたかも知れないが、この頑丈な鐵の輪鍵は、夜になると、いつでも掛けて置くものらしい。その證據は、外から戸を開けようとしても、この離屋は田螺たにしのやうにふたが閉つて、敷居に傷をつけるか、かまちをはづさなければ、どうにもならない」
「――」
 さう言つて平次は、佐野松の死骸が發見された朝、この戸をのみでコジ開けた、猪之松の顏を振り返りました。猪之松は、默つてうなづいて、平次の言葉に、眼で合槌あひづちを打ちます。
「これだけ念入りに締めてある離屋へ入るには、何にかの仕掛けがあるに違ひない。――尤も、輪鍵に細くて丈夫なひもを一本掛けて、その紐の端を、節穴から外へ出して置けば、手輕に開けられる――その仕掛けはいつか麻布の六軒長屋の殺しで、この眼で見たことがある。その時は、輪鍵に紐をからんで置いて外から強く引けば輪鍵が掛り、それから紐をゆるく引けば、絡んだ紐がほぐれて外へ拔ける仕掛けになつてゐた――が、今度のは違ふ」
「――」
「外から――中にゐるものに氣付かれないやうに開けて入つて、人一人殺したうへ、外へ脱出して、今度は外から雨戸を締め、内にある輪鍵まで掛けて置くのだから、容易な手數ではない。幸ひあつしは、良いものを拾つた――運がよかつたのだ」
 平次はさう言つて、懷中から二つ折りにした半紙を出して、それを開いて皆んなの眼の前に差出すのです。
「何んにも見えないが、何んです。それは?」
 八五郎がまた鼻を寄せます。
「黒くて細いから、見えないだらうが、これは馬の尾だよ――敷居際に落ちてゐたのだ」
「へエ」
 それはあまりに變つてゐて、一つの判じものとしか思へません。
天蚕糸てぐすでも宜いわけだが、てぐすは水の中でないとかへつて眼につくから、曲者は骨を折つて馬の尾を搜して來た。尤もこの邊は、田舍が近いから、活き馬の尻尾を引つこ拔けば、一本や二本はわけもなく手に入るだらう」
「それをどうするんです? 親分」
 八五郎は、皆んなを代表したやうに、話の先を促します。
「先づ戸を締めて輪鍵を掛けてくれ。皆んな中へ入つて――もつとも中からでもよく見えるやうに、窓の戸は、開けて置く方が宜からう。宜いか、この馬の尾を、輪鍵にくゞらし、その二本の端を左の釘穴から外へ出して置くのだ」
 平次一人を外に殘して、五人は離屋の六疊に入り、窓からの明りで、問題の雨戸と、馬の尾をワクにして通した、輪鍵を見詰めてをります。輪鍵は間違ひもなく嚴重に掛つてをります。
「宜いか、お見落しのないやうに、頼むぜ」
 平次は手品つかひの口上のやうな事を言ふと、輪鍵にくゞらせた馬の尾が外の釘穴からの操作で、スルスルと動いたと思ふと、なんの不都合もなく、細くて強靭きやうじんな紐に代りました。財布か、肌守の紐を利用した樣子です。
 やがて、馬の尾と代つた紐が強く引かれたと思ふと、それをからんだ輪鍵が、受けからコトリと外れて、雨戸は苦もなく外から開けられるのです。

「驚きましたね、親分。これぢや戸締りをしたところで、何んにもならない。馬の尾一本で、苦もなく開けられちや」
 八五郎は舌を卷いてをりますが、立合つた四人も、顏見合せて、默つてしまひました。
「ところで、今度は、人を殺して外へ出た曲者が、外から雨戸を締める工夫くふうだ、――と言つたところで、勿體ぶるほどのことぢやなく、仕掛けは同じことだ」
 平次はさう言ひながら、紐を馬の尾に替へて、今度はその端つこを、輪鍵の右の釘穴から雨戸の外へ出しました。
「――」
 八五郎はこの手品にすつかり有頂天で、いろ/\世話を燒いたり、皆んなの顏を見比べたりしてをります。
「宜いか。手拍子てびやうしを一つ頼むぜ、八」
 平次が外から聲をかけると、八五郎は心得て、
「よし來た」
 八つ手の葉つぱのやうな大きいを、バタリバタリと叩くのです。
 と、馬の尾がまた、スルスルと細い紐に代りました。そしてその紐が激しく動くと、はづされたまゝの輪鍵は、先刻とは反對に動いて、輪鍵の受けの上へ、活き物のやうに、コトリと納まつてしまひ、この魔法を演じた細い紐は、もとの穴からスルスルと戸の外へ消えてなくなるのでした。
「やんや、やんや」
 八五郎はツイはやしてしまひます。もとより誰もそれに應ずる者はありませんが。
「馬鹿野郎、見世物ぢやねえ。それより早く戸を開けて、俺を入れろ」
「へエ」
 内から雨戸をあけると、平次は靜かにもとの座にかへりました。そして、
「御主人、――御覽の通り、曲者はどうして離屋に入つたか、人を殺してから離屋を拔け出し、あとを締めて置いたか皆んなおわかりでせう」
 靜かではあるが、嚴重に一むくいたのです。
「いかにも、さすがは、錢形の親分――と言ひたいが、それを解くものと、それを考へ出すものと、智惠にまさおとりはない。言はば、曲者と錢形の親分と、今のところ互角の勝負と言つて差支へはあるまい」
 鈴川主水はこんなことを言ふのです。この男には、何やら暗い影があつて、町方の者を特に嫌ふ樣子が見えるのは何んとしたことでせう。
「成る程、曲者と私と互角、さう言はれても、いたし方はありませんが――」
 平次は苦笑ひしながら續けました。
「――この牡丹刷毛ぼたんばけは、どなたのでせう」
 懷中から、いつか猪之松が庭で拾つたといふ、牡丹刷毛を出して見せました。
 大して古くはありませんが、白粉とあぶらが浸みて、外の空氣に觸れただけでも、四方あたりなまめかしい香氣を發散しさうです。
 皆んな默つてしまひました。うつかりしたことは言へないと言つた警戒心が、素早く行きわたつたやうです。
「御主人は、御存じありませんか」
 平次は、牡丹刷毛を持つたまゝ鈴川主水を追及しました。
「いや、何んにも知らぬ」
 鈴川主水は頑固ぐわんこに首を振りました。

三人の内に


「私から申上げても宜いでせうか」
 後ろからおえふが口を出しました。大分躊躇ためらつた樣子です。
「宜いとも、どんなことでも」
 平次はさり氣ない調子で應じました。
「その前に伺ひますが、その牡丹刷毛ぼたんばけの持主が、佐野松さん殺しの疑ひでも受けてゐるのでせうか」
「いや、飛んでもない、――牡丹刷毛などといふものは、人殺しの道具にはならないよ。安心するが宜い」
 平次は場所柄も構はず、面白さうに笑ふのです。
「これを御覽下さいな」
「――」
 お葉の差出した縫つぶしの、洒落しやれた紙入。小型ではあるが、少し嵩張かさばつた感じのを受取つて、平次は銀の小ハゼをはづしました。中には雁皮がんぴに包んだ白粉と、耳掻き、爪切り、紅筆べにふでなど、艶めかしい小道具の入つてゐるのを、一と通り調べて、そのまゝ、お葉の手に返します。
「――その牡丹刷毛は、御覽の通り小型で、鏡臺の引出しに入つてゐる品ではございません。打ち明けて申上げると、もと/\この紙入の中に入つてゐたものでございます」
「それがどうして?」
「母親の形見でございます、――御殿奉公をしてゐた母親と違つて、藝子や踊り子に身を落した私には、品が良過ぎると申しませうか、――正直に申上げると野暮やぼつたくて氣が引けるのですが、一生の大事と思ふ時は、守り袋の代りに、それを持ち歩きます。いつぞやの晩も――」
 お葉は急に口をつぐみました。男に逢ふのを一生の大事と考へるやうな、冒涜ばうとく的な習慣を身につけたことが、フト極りが惡かつたのでせう。
「それを、何時、どこでなくしたのか、覺えがあるだらうな」
「――申しませう、極りが惡いけれど。それは、佐野松さんの惡戯いたづらでした。私の牡丹刷毛を借りて、縁側にいた灰の上へけだものの足跡を拵へたのですが、それつきり私は、牡丹刷毛をしまひ忘れて歸りました。翌る日はもう、何處を搜してもなかつたんですもの」
 さう言ひながら、かつては自分の夫だつた、主人鈴川主水の顏を盜み見る、お葉のこびは非凡でした。
 自分を捨てた男に、かう面と向つて、少しのたじろぎも感じないお葉は心のうちに、少なからざる優越感を持つてゐるに違ひなく、その清麗な眼や、わだかまりのないほゝ笑みに迎へられて、たじ/\となつたのは、反つて捨てた夫の鈴川主水だつたのは、言ふに言はれぬ面白い皮肉です。
 その掛け合の面白さを他所よそに、きね太郎と八五郎は暫らく座をはづしましたが、何處からかフラリと戻つて來た杵太郎は、
「お師匠樣」
 主人の鈴川主水にかう言ふのです。
「何んぢやな」
 主水は、立派な顏をねぢ向けました。
「あの、今晩から、私は、この離屋で休みたいと思ひますが」
「何を申すのだ、――危ないではないか」
「いえ、少しも怖いことはございません。私は、少し見極めたいことがございますので」
 杵太郎は、何を考へたか、押し返して執拗しつあうに言ふのです。

 神田明神下に歸る途々、八五郎は平次にからむのでした。
「ね、親分にはもう、佐野松殺しの下手人はわかつてゐるでせう」
「そんなことがあるものか」
「下手人がわからなきや、親分は馬の尻尾しつぽの仕掛けなんかを、皆んなの前で話すわけはないでせう――あれを聽いたときあつしはさう思ひましたよ、『ハハア、親分はもう、大詰おほづめへ來てゐるんだな――』と」
「つまらねえことに氣が付くんだな。ところが、今度といふ今度はさじを投げたよ。曲者の方が、俺より餘つ程惡賢わるがしこい」
「へエ、鈴川主水もそんなことを言ひましたよ」
 ヌケヌケとこんなことが言へる八五郎です。
「だが、折角だから、これだけのことを言つて置かうよ。佐野松殺しの下手人は、男二人、女一人のうちに違ひないといふことを――」
 平次は四方あたりを氣にしながら、そつと、それだけのことを言ふのです。道は千駄木から藍染あゐぞめ川に沿つて、水戸樣のお下屋敷の裏へ出るところ、木立が濃くなつて、遠く不忍の加賀樣の屋根が見られます。
「へエ、三人ね。誰と誰です? それは」
 八五郎は乘出しました。
「お前に教へる分には差支へあるまいが、間違へても人に言ふな」
「へエ、それはもう大丈夫で、名題の地獄耳で」
 八五郎は大袈裟げさに、自分の耳などをほじつて見せるのです。
「佐野松を怨んでゐる者は、三人あつたことは、お前にもわかるだらう」
「?」
「第一は、鈴川主水だ」
 平次の言葉は、全く八五郎に豫想外です。
「どういふわけです、親分」
「鈴川主水の女房はお葉だぜ――去つた女房にしても、その女と逢引を重ねてゐる佐野松さのまつが、憎くないことはあるまい」
「さうでせうか」
「お葉はまだ若くて、あの通り綺麗だ。去つた女房でも、佐野松に親しくなつたり、きね太郎とイチヤイチヤされちや、鈴川主水良い心持はしないだらう。現にお葉と連れ立つて來た杵太郎を見た眼の色は、容易ではなかつたぞ」
「へエ」
 さういはれると、八五郎にも思ひ當る筋がないではありません。
「その次に佐野松を殺したくなつたのは、矢張りお葉だよ」
「?」
「あの女は容易ならぬ女だ。亭主に追ひ出されたら、並大抵の女なら、世間體も惡いから、出來るだけ遠くへ逃げて、もとの夫に見付からない工夫をするだらう。それが、螢澤ほたるざはから谷一つの谷中三崎町に巣を構へ、綺麗首を三人も飼つて、三十過ぎての厚化粧三昧だ」
「――」
「そのうちにたうの立つた美男――佐野松が嫌になつた。最初はもとの夫の鈴川主水への面當てに、弟子分の佐野松と逢引などをして見せたことだらうが、陰間かげま崩れのニヤけた佐野松が、いかにも小汚なく頼りなく見えたことだらう。お葉はさういつたたちの女だ」
 平次の説明は、年増女の心の秘密にまで食ひ入ります。

「でも、あの女は、お化けの振りまでして、佐野松に通ひ詰めましたよ」
 それは並大抵の仲ではない筈です。牡丹刷毛ぼたんばけまで使つたあの詭計トリツクは、戀の冒險にしても、なかなかにあざやかです。
「賢こい女は、自分の智惠に溺れるのだよ。多分、鏡臺の上にこぼれた白粉を、牡丹刷毛でくかどうかして、けだものの足跡そつくりの形が出來て、面白がつたこともあるだらう。佐野松の離屋の縁側に灰を掃かれて、ちよいと惡戯いたづらをする氣になつた」
「さうかも知れませが[#「さうかも知れませが」はママ]、そんなことは、お葉が佐野松を嫌になつた證據にはなりませんね」
「今日は、なか/\手嚴てきびしいな、お前も。だが、考へて見るが宜い、佐野松が死んで、三七日も經たないうちに、お葉はもう次の男を引摺り込んで、あんなことをしてゐるぢやないか。その次の男といふのは、同じ仲間のきね太郎だ。お葉はお前が考へたやうに貞女なんかぢやないやうだよ」
「成程ね。ところで、殘る一人の男といふのは?」
 八五郎は兎も角も平次の論理に聽從して、次の一人を訊ねました。
「杵太郎だよ」
「へエ? 杵太郎?」
 それは八五郎に取つても豫想外な名前でした。
「何を驚くんだ。この良い男の杵太郎は、ちよいとやさしいが、どうしてどうして、なか/\性根のしつかりした男だ」
「あの陰間かげま野郎は、佐野松を殺したところで、仕樣がないぢやありませんか」
「いや、お葉は佐野松と杵太郎の兩天秤てんびんをかけて、良いほどに扱つてゐたのだ。若い杵太郎は、二人の逢引を知つてゐて、我慢が出來なくなつたんだらう。ありさうなことぢやないか」
「尤も、佐野松を殺したのは、杵太郎の剃刀かみそりだといふことですね」
「それだけは杵太郎らしくない證據だよ」
「へエ?」
「何も、自分の持物で殺さなくたつて、刄物も道具も澤山あるだらう。それに、剃刀はわざと拔け出したやうに、庭石の傍に首を出してゐた」
「待つて下さい親分。あつしもあの剃刀の拔け出しやうが變だと思つて、あとで庭石の傍を調べて見ましたが、あの邊に、剃刀を突つ立てたやうな穴が、二つも三つもありましたよ」
「本當かいそれは?」
「引返して見て下さい――と言つたところで、あれから日が經つてゐるから、今では埋まつてしまつたことでせうが、――親分が旅に出てから、あつしは、あの庭をめるやうに搜しましたよ。すると、庭石の向う側に剃刀を一度突つ立てたに違ひない、細長くて深い穴があるぢやありませんか」
「それは?」
「誰かが、佐野松を殺した上、血だらけの剃刀を、土の中へ深く突つ込んで隱したのを知つた奴が、あとで剃刀かみそりを引拔いて、すぐ見付かるやうに、頭を半分土の上へ出して置いたのぢやありませんか」
「八、もう止した方が宜い。誰か後をつけてゐるやうだよ」
 平次は八五郎をたしなめましたが、この發見には、平次も全く承服しないわけに行きません。

火の中


 その晩から、杵太郎は離屋に休むことになりました。佐野松が殺された後の離屋は、充分無氣味であるべき筈ですが、それにもかゝはらず、進んで離屋に寢泊りすることを望んだのは、主人鈴川主水もんどの眼をのがれて、自由自在に女を引入れられる、飛んでもない自由さがあつたからです。
「猪之松、離屋の雨戸を直して置け」
 鈴川主水は、さり氣なく、二度の凶變にそなへさせました。さんの左右に開けられた穴をふさぎ、このうへ妙な仕構けはさせないやうにして置きたかつたのです。
「へエ、今度は大丈夫で」
 猪之松は手馴れた大工道具を持出して、器用に雨戸をつくろひました。
 ついでにもう一つの入口も見廻り、念には念を入れて、曲者の細工や詭計トリツクを封じました。
 丁度その時でした。錢形平次が、御用のついでといふことにして、螢澤ほたるざはの鈴川家へ立寄り、何んとはなしに樣子を見廻つてくれます。
「お、錢形の親分。この通り、戸締りを直させたから、今度は滅多なことでは開けられないと思ふが」
 主人の鈴川主水も、近頃はいくらか氣が折れたらしく、平次に對しても、あまり無愛想ではありません。
「へエ、これなら大丈夫で、――ところで、妙なことを伺ひますが」
 主水を物陰に誘ふと、平次は聲をひそめました。
「?」
「ほかぢやございませんが、お葉さん――あのもとの御内儀いや、おめかけだつたかも知れませんが、あの人が、御當家を出られたのは、わけのあることでせうか」
「左樣」
 主水は答へ澁りました。心持不機嫌になります。
「大事なことですから、是非お伺ひいたしたいんで、――例へば、佐野松さんとか、杵太郎さんと、目に餘ることがあつた、とか何んとか」
「いや、そんなことはない。以前は至つて身持の良い女であつたが、――どうしてあんなことになつたか、とんと合點が行かないくらゐだ」
 主水にもそれは解き難い謎であつた樣子です。
「他に、下男の猪之松とは?――あれもなか/\の良い男で、近頃は三崎町の茶屋へ入りびたると聽きましたが――」
「あれはまことに始末の惡い男でな。お葉がこの家にゐる頃から、主人の妾とわかつてゐるのに、しつこく追ひ廻したやうで」
「それに、御主人はお小言も仰しやらなかつたわけで」
「猪之松は下男ではあるが、ちと私には恩があつて、少々の我儘は見過ごしてゐる、――そんなことからツイ女を側に置くのが面倒臭くなつて、お葉にも暇をやつたやうなわけだ」
「成程」
「あの女は、性根のしつかりした女で、猪之松風情ふぜいを相手にしないことと思ふが――尤も近頃の樣子ではな」
 鈴川主水は、何やら割り切れない表情でした。この口吻くちぶりから察すると、主人の主水は、下男の猪之松に恩義があるか、おどかされてゐるのか、兎も角容易ならぬ弱い尻をつかまれてゐる樣子です。

 その夜、千駄木の一角に、惡魔の舌のやうなほのほがありました。その焔は、二條、三條まで、厚い森をつんざいて、赤々と深夜の空を染めます。
 火事は、螢澤ほたるざはの鈴川家でした。しかもその離屋が、三方から火を發して、アツといふ間もなく、魔の焔が、小さい離屋を一片の木つ葉のやうに燃やし盡さうとします。
 遠くの半鐘が鳴つて、近くの人達がつぶてのやうに飛んで來ました。が、火の廻りがそれよりも早く、火消人足が驅けつける前に、家も人も、一瞬にして、劫火ごふくわの餌食になることでせう。
 その中に泊つてゐる筈の、杵太郎はどうなつたことか、杵太郎がゐるとすれば、三崎町のお葉も、そこへ來てゐたかも知れません。若しも二人が、誰はゞからずに逢引をしてゐたとしたら、渦卷くのろひの火焔車は、若い男女を載せたまゝ地獄の火の中へ眞つ逆樣に落ちて行くことでせう。
 中から、二度三度、激しく雨戸はゆすぶられましたが、どうしたことか、それはビクともせず、あわやと思ふ間もなく、今度は男の手で、反對側の窓の格子を、内から叩きます。
 と、その手に從つて、格子はバラバラにはづれ、かなめの取れた扇のやうに口を開くと、先づ男が一人、窓の中から飛出しました。
 それは前髮姿の、良い男の杵太郎でなければならない筈ですが、何んと、南部駒なんぶごまのやうに強健で、天城山から生捕つた、野猪ゐのししのやうに野蠻やばんな八五郎ではありませんか。
「八、お前が先に逃出す法があるか、女を助けろ」
 焔の叫ぶ聲に交つて、八五郎の面上に叩きつけたのは、何處から響いて來るか、それは錢形平次の聲にまぎれもありません。
「あ、いけねえ」
 八五郎は飛出した窓に飛付くと、もう一度猛火の中へ取つて返すのです。さう言つた八五郎です。
 家の中は、さながらの坩堝るつぼでした。中からはほのおもよくは見えませんが、綿のやうな烟が渦を卷いて、クワツとしたものが引つ叩くやうに顏を打つのです。
「お葉さん、何處だい。お葉」
 返事はありません。身近に迫る焔の舌は、音もなくあらゆるものをめ盡して、煙に醉つた八五郎までも、不氣味な陶醉にさそふのでした。
「お葉さん」
「――」
 見付かりました。最初は正體もつかめませんでしたが、それはやがて、若い女のうづくまる姿で、八五郎のすぐ目の前に、何やら掻き抱いて、身に迫る、死の焔を待つてゐるのです。
「お葉、逃げるのだ」
「――」
「早く、おい、早くしろ。燒け死ぬぜ」
「私は死にたい」
「何、何を言ふんだ」
 お葉は何やら抱きしめて、一寸も動かうとはしません。
「八五郎親分、私に構はず、早く逃げて下さい。私はもう」
「何をつまらねえ、來やがれ」
 事面倒と見た八五郎は、お葉を横抱きに、窓格子まどがうしを蹴つて、離屋の外にパツと飛出しました。一瞬の差で、後ろには、棟木むなぎの落ちる音、火花が中空にパツと散ります。

 八五郎とお葉は、それつきり氣をうしなつてしまつたのです。それを、ズルズルと井戸端まで引摺つて行つたのは、何處から現はれたか、錢形平次ときね太郎の姿でした。
「大丈夫、怪我はないやうだ。早く飛出しや宜いのに」
 平次はさう言つて、釣瓶つるべに水をくみあげると、八五郎の頭から、ザブリと一つ浴びせたのです。
「ワツ、ぶる/\。もう呑めねえ」
 身顫みぶるひして正氣づいた八五郎、
「馬鹿野郎、振舞ひで酒でも呑んでゐる氣でゐやがる。しつかりしろ、八」
 さう言ふ平次も、漸くホツとした樣子です。
「お葉は? 親分」
 八五郎はまだキヨトンとしてをります。
「お前の後ろで笑つてゐるよ」
「そいつは有難い。あれだけあぶられても、笑へるくらゐなら本物だ」
「何を」
 さうは言ふものの、平次は腹も立ちませんでした。きね太郎危ふしと見て、八五郎に言ひ含めて、身代りの僞首にせくびに仕立てたのですが、曲者を少し甘く見過ぎて、驅けつけるのが遲かつたばかりに、危ふく八五郎とお葉を死なせるところだつたのです。
 そのうちに、とびの者も、彌次馬も飛込んで來ましたが、三方から燃え上がつた火は、消すより燃えるのが早く、またゝく間に離屋を燒き盡してしまひましたが、幸ひそれつきりで消えてしまひ、夜が明ける頃は、餘燼よじんも冷たくなつて、何事もなかつたやうに、ウラウラと朝陽が射し始めました。
 主人の鈴川主水の指圖を受けて下男の猪之松はよく働いてをります。お葉は人に隱れるやうに、谷中三崎町に歸り、平次と八五郎は暫らく四方あたりの靜まるのを待つてをりました。
 丁度晝頃。平次の指圖で母屋おもやの主人の部屋に、關係者が全部集りました。主人の鈴川主水、内弟子の杵太郎、下男の猪之松、錢形平次と八五郎、それに呼び寄せられて、三崎町のお葉も、極り惡さうに加はりました。
「錢形の親分が、話があるといふから、皆んな集めて見たが、――話なんかどうでも、早く曲者を縛つてもらひたい。佐野松が殺されたり、離屋を燒かれたり、このうへともこんな災難が續いちや叶はない」
 主人の鈴川主水は、苦りきつた顏をするのです。
「御尤もですが、相手は大變な曲者で、たしかな證據もないのに縛るわけには參りません。このうへは、私の心の中に殘る、いろ/\の疑ひを解いて、下手人を取つて押へるために、御主人も皆さんも、ひた隱しに隱してゐることを打ちあけて頂きたい」
「といふと?」
「御主人はどういふわけで、千駄木の淋しいところに引込んだか――御内儀だかおめかけだつたか知らないが、どうしてお葉さんを出されたか」
「?」
 平次は一座の顏を讀みながら言葉を續けました。
「世間の惡い評判にも構はず、何んだつて佐野松さんや杵太郎さんを飼つてゐられたか。下男の猪之松に、何んの義理があつて、不都合だらけなのを承知で家に置くか。そんなことを皆んな打ちあけて頂きたいので」
 平次はかう、思ひきつて問ひかけるのです。

曲者の正體は


「そんな事を話さなきや、人殺しの下手人は縛れないといふのか」
 鈴川主水もんどは相變らず、冷たい顏をこはばらせて、思ひきつたことをいふのです。
「いたし方がありません。めくら滅法に探しちや、ふくろの中の物だつて出せはしません。曲者はこの後何をやり出すかわからないが、曲者の狙ひがわからなきやあつしは手を引いて、高見の見物をするほかはありません」
 錢形平次も、なか/\に思ひきつたことを言ふのです。
「それでは手を引いて貰はう、――錢形とか何んとか、大層らしい評判だけれど、たつたこれだけのことがわからなくて、尻尾を卷いて逃げ出すとは――」
 鈴川主水の言葉には、恐ろしい毒を含んでをります。顏立ちが立派で、態度が莊重で、うたひきたへた聲が堂々としてゐるだけに、この男の調子は、いかにも暴慢で尊大で、冷酷無殘にさへ響くのです。
「親分、あんなことを言はせて默つてゐるんですか」
 腹を据ゑ兼ねたのは八五郎でした。腕まくりなんかして、いざと言はばの、喧嘩構へにさへなるのです。
「默つてゐろ、お前の知つたことぢやない」
「でも、あんなことを言はれて引込んぢや、町方一統の耻になりますぜ」
「――」
「明日から千駄木界隈かいわいへ足も踏み込めなくなつたら、何んとします、親分」
「馬鹿ツ」
「親分、何んとか言つて下さい。曲者の尻尾もつかめないとは、しやくにさはる言ひ草ぢやありませんか親分」
 八五郎はすつかり興奮して、泣き出しさうに詰め寄るのです。平次は靜かに受けて、
「曲者がわからないとは言はないよ」
「それね、親分には、下手人がちやんとわかつてゐるんでせう。それを言つて、あの小高い鼻柱を叩き折つて下さい。このまゝ引込んぢや、あつしは二、三日寢つかれませんよ」
「嘘をつけ、そんな事で寢つかれないお前ぢやあるまい」
「頼むから親分」
五月蠅うるさいな、――曲者はわかつてゐるよ。だが、まだ早い、その名前を言ふには言ふまでの段取りがある」
 平次はなか/\口を開かうともしないのです。が、八五郎よりも鈴川主水がその言葉を聽きとがめました。
「曲者がわかつてゐると言ふのか、面白いな。さすがは錢形と言ひたいが、そいつは嘘だらうよ」
「いや、平次は嘘は言はない」
「では聽かうか、佐野松を殺し離屋を燒いたのは誰だ」
 鈴川主水は、平次の智惠を見くびつたか、かさにかゝつて詰め寄るのです。
「それでは言はう、――が御主人、物が後先きになるけれど、曲者の名を言つたら、先刻さつきあつしが訊ねたこと、皆んな話して下さることでせうな」
 平次は僅かに妥協だけふしました。靜かながらきつとした調子です。
「よし、何んなりと、訊かれるだけ話さう。が、その前に曲者の正體だ。それを聽かう」
 鈴川主水は最早、一寸も引かぬ氣色です。

 鈴川主水と錢形平次は、引くに引かれぬ勢ひでした。下手人の名前を言ふか、お辭儀をするか、平次の途はこの二つを選ぶほかはなく、主水もまた、此處まで追ひつめられると、耻も外聞も、その口實にはならなかつたのです。
「さア、聽かうか――、錢形の親分、――佐野松を殺して、離屋に火をつけたのは、誰だといふのだ」
 平次が言ひ澁るのを見ると、鈴川主水はなほもかさにかゝるのです、良い男の中年者、たしなみがよくて、物腰が格にはまつてゐるだけに、この男の攻撃はなか/\に猛烈です。
「言ひませう、――八、お前は入口をかためろ。逃げ出す奴があつたら、用捨なく縛るのだ」
「へエ」
 八五郎は横つ飛びに入口を固めました。この男が頑張つてゐれば大概たいがいの曲者も、通れることではありません。
あつしの口から言はせるまでもなく、本人に名乘つて貰ひたかつたが、どうしても言へと言ふなら、仕方がない、――曲者はその男だ」
 平次の指はピタリと、下男の猪之松の胸のあたりを指すのです。
「あツ」
 指された猪之松は、鐵砲てつぱうで打ち拔かれたやうに飛び上がりました。が、四方あたりをキヨトキヨト見まはしたところで、入口を八五郎に固められて、咄嗟とつさの間に逃げ出す隙もありません。
「何を言ふのだ、途方もない」
 鈴川主水は眞つ蒼になつて、頬のあたりがピリピリふるへてをります。恐ろしい激怒に、ハツと自制心を取はづした樣子です。
「いや、動かぬ證據があつて言ふのだ。間違ひもなく、下手人は猪之松」
「何を證據にそんな事を言ふ、――次第によつては、錢形とは言はさんぞ」
 鈴川主人は、膝を浮かしました。能役者くづれと言つても、大藩のお抱へ、苗字めうじまで名乘つて士分に準ずる待遇を受けたには間違ひありません。
「證據のないことを言ひませうか」
 平次はかへつて落着きました。主水の興奮に對して、これは冷靜過ぎるほど冷靜な態度です。
「それを聽かう」
「佐野松が殺された晩は、あの通りの大雨、お葉さんは一足も外へ出なかつた。最初はあつしも、お葉さんを疑つたが、三崎町には八五郎が頑張つてゐた上に、あの雨だ」
「――」
「それにもう、一つ大事なことはその二、三日前に猪之松が三崎町の茶店へ行つて、お葉さんが夜中にそつと出られないやうに、格子かうしに釘を打つてしまつた。猪之松はお葉さんが夜中に忍び出して、佐野松に逢ふのが氣に入らなかつた――お葉さんはまた、猪之松が怖かつた。何をやり出すかわからないと思つたので、八五郎を引ずり込んで三日も泊めた」
 平次の話は廻りくどいやうですが、事件の外廓ぐわいくわくをピシピシときめて行かうとする樣子です。
「そんな事は、猪之松が下手人といふ證據にはなるまい」
 鈴川主水の額には激しい癇癖かんべきが走ります。恐怖とも、焦躁せうさうとも言へる、五體の震へは去つて、潮のやうな興奮に、蒼い顏がサツと紅くなるのです。

「ま、靜かに聽いて下さい。佐野松の死んだあくる日、あつしがあの邊を調べてゐると、猪之松は庭で拾つたといふ、牡丹刷毛ぼたんばけを、自分の腹掛のどんぶりから出して見せた、――二日も三日も前に拾つた牡丹刷毛、その柄に『えふ』と書いてあるのを、それまで隱して置いて、あつしに見せたのは念入りだ。牡丹刷毛は紙に包んで、お護符まもりのやうに大事にしてゐた」
「そんな馬鹿なことが、人殺しの證據か」
 主水はもう一度激しく突つかゝるのです。
「まだありますよ、――佐野松を殺した剃刀かみそりは、此處にゐる杵太郎に疑ひをかけるやうに出來てゐたが、どんな馬鹿でも、自分の持物と――皆んなに知られてゐる刄物で人を殺し、それをその場に置いて來る者はない筈だ」
「――」
「その剃刀が、庭石の側に突き差し半分頭を出して『見てくれ』と言つたやうになつてゐたが、その石の裏側には剃刀が隱れるほどの深い穴があつた、――實を言ふと私が素知らぬ顏で見てゐると、その深い穴の中に、隱れてゐた剃刀を拔き出して、同じ石の裏側に半分ほど差し込み、あつしに見せてくれたのは、ほかならぬ猪之松だ」
「――」
「まだある。猪之松の言つたことは、皆んな違つてゐたばかりでなく、その樣子にも變なことが多かつた。あつしと八五郎が三崎町の茶屋の裏で、お葉さんと杵太郎さんが話してゐるのを立聽きしたとき、表の方にも一人、それを聞いてゐた男があつた。その男といふのは、ほかならぬ猪之松だつた。あつしと八五郎が螢澤ほたるざはへ來ると、一と足先に歸つて、身扮みなりまで變へてすましてゐたが、私の眼に狂ひはない。猪之松は、お葉さんと杵太郎さんを見張つてゐたのだ」
「もう止さう、平次。そんなことが、人殺しの證據になるだらうか、馬鹿々々しい」
 鈴川主水は、平次の持札を讀むと、すつかり安心したものか、頭ごなしに平次をやつつけるのです。
「いや、もう一つある――、昨夜の火事は、杵太郎さんとお葉さんを燒き殺さうとした放火つけびだが、あの離屋には、外から心張棒をかつて、内からは開けられないやうに仕掛けてあつた」
「えツ」
 鈴川主水もさすがに、平次の慧眼けいがんに驚いた樣子です。
「人の住んでゐる家の雨戸へ、外から心張を當てるのは容易のことではない。外から當てた心張棒は、すぐはづれるからだ。ところがあの雨戸には、誰の細工か、外からのみで深い刻みを入れてあつた。一昨日をとゝひまでは、そんな細工はなかつた筈だから、昨日のうちに誰かが雨戸のかまちに心張を噛ませる細工をしたに違ひない」
「――」
「昨日、あつしはその細工を見たから、杵太郎さんの代りに八五郎を入れた。そして、雨戸はそのまゝにして、内から窓の格子を三本まではづさせ、いざと言へば、窓から飛出せるやうにして置いた」
 八五郎が火事の最中、窓格子を蹴飛ばすと、格子はかなめのこはれた扇のやうにバラバラになつて口をあいたのはそのためであつたのです。

親と子


「もう澤山だ、馬鹿々々しい」
 鈴川主水はなほも抗議しますが、平次の論告に言ひ負かされて、さすがに激しくも突つかゝつては來ません。
「前の日、雨戸を直したのは猪之松だ。――これでもまだ、たしかな證據は一つもないと言ふならもう一つ、動きの取れない證據を教へてやらう。――昨夜この平次は、離屋に火をつける男の姿を、向うの森の下で見てゐたのだ。その男は、離屋の三方に積んだ枯柴かれしばに火をつけて、離屋の四方を廻りながら、氣狂ひのやうにをどり狂つてゐた、――あつしは直ぐ飛込んで來た。いや、飛込むつもりだつたが、途中にお屋敷の塀があり、大きな池もあつた。近いやうでも、大廻りに廻つて來る間に、火は燃え上がつてどうすることも出來なかつた」
「――」
「その男は踊り狂ふうちに、物につまづいて倒れた筈だ。膝頭をひどく打つて、暫らくは起き上がれなかつた。その男の膝頭には、間違ひもなく打ち身の傷が殘つてゐるに違ひない」
「――」
「八、何を愚圖々々してゐる。お前の鼻先に、火附け人殺しの大罪人がゐるぢやないか、それツ」
 平次の手が擧がると、八五郎が動くのと、猪之松が逃げ出すのと一緒でした。まことにそれは、咄嗟とつさの出來事です。
 身體がよくて敏捷びんせふな猪之松は、一歩先に庭へ飛出すと、生垣を一と跳に、千駄木の往來に逃出します。
「野郎ツ」
 八五郎はそれを追ひました。
「御主人、あの通り、千駄木には八方に網が張りめぐらされてゐる。猪之松が縛られるのは、もう間違ひはない、――この邊で、本當のことを話されてはどうだ」
「――」
「御主人、猪之松が逃げ了せると思つたら、大變な間違ひですぜ。あの通り」
 指さすあたり、木立を縫ひ、田圃を横ぎり、猪之松一人を追つて思ひも寄らぬ捕物陣が、千駄木を舞臺に發展して行くのです。
「もう宜い、平次親分」
 鈴川主水の顏は、苦澁の色が漲り、その端正な額は歪むのです。
あつしにも、大方の見當はついてをります。御主人はどうしてあんなに猪之松をかばはなきやならなかつたか」
「――」
「思ひきつて申しませうか、――御主人と猪之松は、切つても切れぬ、親と子」
「もう宜い、平次親分、――私は皆んな白状する。佐野松を殺し、離屋を燒いたのは、この私、鈴川主水のやつたことだ。猪之松をいぢめるのは止してくれ。この通り、私はもう覺悟をしてゐる」
 主水は脇差わきざしを後ろに押しやると兩手を後ろに廻して、靜かに眉を垂れるのです。
御白州おしらすでも、さう言はれるでせうな」
「それは、言ふまでもない」
「や、八の野郎、また縮尻しくじりやがつたかな。おや、おや」
 平次は縁側に出て伸び上がりました。千駄木の森の上に、バラバラと集つた、七、八人の捕り方、八五郎を中心に、ザワザワと此方へ引揚げて來る樣子です。

「歸らうか、八」
 八五郎が戻つて來ると、平次はもう立ち上がつて、歸りの仕度をしてゐるのです。その前に坐つた鈴川主水は、膝に手を置いて、地頭ぢがしらでも勤めるやうに、謹しみ愼しんで差控へます。もう先刻さつきまでの、高ぶつた氣色などは微塵みぢんもありません。
「曲者はどうしたものでせう、――何處へもぐつたかわかりませんが、この家の八方へ張らせて置けば、どうせ出て來るにきまつてゐますがね。生き物は、因果いんぐわと腹も減れば、のどかわく」
 八五郎にして見れは、突然消えてなくなつた猪之松は、あまり遠くないところに隱れてゐるに違ひないと思ひ込んで、少々主人の主水に當てつけたのです。あまり賢こくないやうでも、八五郎には、長い間の經驗で體得した、一つの鋭どい勘があります。
「もう宜いよ、俺は下手人を搜せば氣が濟むんだ。縛るか縛らないかは、その日の出來心さ」
「呆れたものですね、だから笹野の旦那もさう言ひましたよ。平次の勘は恐ろしいが、モノにつては、あの男に任されないこともある――とね。親分が氣が進まなきや、あつしが縛つてしまひます。猪之松は確かに下手人でせうね、親分」
 八五郎にしては、此處まで追ひ込んだ曲者を逃す、平次の押しの弱さが齒痒はがゆくてならなかつたのでせう。
「佐野松殺しの曲者は、猪之松ぢやないよ――そんなに驚くことはない。下手人はわかつてゐる、火の燃えあがるのを見て、踊り狂つて、膝小僧を怪我した筈だ。お前がどうしても下手人を縛りたかつたら、千駄木中の湯屋の番頭に頼んで、ひざの下に怪我をしてゐる達者な男を搜すが宜い。――尤もお前見たいに、湯の嫌ひな奴もあるといふのか、そいつは大笑ひだ。町の入口出口に關を構へて、通るほどの男の膝をまくり上げて見るか」
 平次はそんなことを言つて、草履ざうりを突つかけるのです。其處にはもうきね太郎も、お葉も、間が惡かつたのか、姿を隱して顏も見せません。
「錢形の親分」
 鈴川主水は後を追つて、庭木戸のところまで來ました。
「まだ御用事で、――あつしの方にはもう用事はないのだが。あ、さう、さう。猪之松が戻つて來たら、暫らく上方へでも行つて修業して來いと言つて下さいよ」
「親分、この通り」
 鈴川主水はこの時初めて、庭苔にわごけの上へヘタヘタと坐り込んで、平次を拜むのです。あの高慢な男がそれさへも、お能の仕草の一とこまのやうで、平次は兎も角、八五郎はたまらずに、プーと吹き出すのです。
「親分、――私といふ人間は、藝道に打ち込み過ぎました」
「そして、女といふものの心持がわからなかつたのですね」
「一言もない、平次親分」
「世の中には、女の心を知り過ぎて、藝事と言へば、鼻へ紙捻こよりを入れてクシヤミをする藝當しか知らない奴もゐますよ、――この八五郎見たいに」
「何んのことです、それは親分」
 何が何やらわからずに、八五郎は訊き返すのです。

「これはどうしたことなんです、親分。あつしには見當もつかないが」
 千駄木から戻つて來ると、女房のお靜を走らせて、三合ばかり買はせた平次は、乾物か何んかかじりながら、陶然たうぜんとしたところで、八五郎に問ひかけられました。
 酒は二人とも強くはなく、三合くみ交すと、八五郎などはもう、宜い加減目出度くなります。が、醉は發しましたが、この間から惱ませられた螢澤ほたるざはの件が、頭の底にこびり付いて離れなかつたのです。
「お前は口だけは固いな、八」
「へエ、ゆるいのは財布のひもだけで、毎々叔母さんに小言を言はれますよ」
 八五郎はさう言つて、自分の懷中を覗いて、財布の紐の存在を確かめると、兩手を宙に泳がせながら、得意氣な顏をするのです。
「それなら下手人を教へてやるが、間違つても人に言ふな」
「へエ、それはもう大丈夫で、石を抱かされても、言ふことぢやありません」
「實はな、佐野松を殺したのは、鈴川主水だよ」
「そんな馬鹿なことが、親分」
 八五郎はきもをつぶしました。鈴川主水の自白を聽かなかつた八五郎にとつては、これはあまりにも豫想外な話です。
「お前が驚くのも無理はないが――自分の跡まで繼がせようと思つた、大事の弟子が、女房同樣のめかけと不義をしてゐるのを見て、鈴川主水は、どんな心持だつたと思ふ」
「そんな心持は、あつしには覺えがないからわかりませんが」
「お前に覺へがあつてたまるか、馬鹿だなア」
「へエ」
「その淫奔者いたづらもののお葉が、腹立ちまぎれに飛び出す。と、ツイ眼と鼻の間の――谷中三崎町に巣を構へ、相變らず佐野松と逢引をしてゐる。それも見えないところでやるのならまだしも、妙な細工をして、自分の家の離屋はなれに引ずり込み、散々ふざけてゐるのを、あの高慢で見識ばつた鈴川主水が、默つて見てゐられるだらうか」
「成程ね」
「佐野松といふのは、藝は大したものであつたに違ひない。その邊の人に聽くと、いづれは、師匠をしのぐ名人になるだらうと言はれてゐたさうだ。もとの主人を縮尻しくじつて、同流の人からも白い眼で見られるやうになつてゐた鈴川主水は、弟子の佐野松ときね太郎を立派なものにして、同流の人達にアツと言はせたかつた」
「――」
「惡評の限りを浴びながら、精一杯に弟子を取立ててゐるし、二人とも大した男つぷりなのがわざはひして、もろくもお葉の惡戯いたづらに引つかゝり、耻かしい逢引を、化物ごつこのつもりでやり通してゐる。それを見て一番腹を立てたのは、鈴川主水の伜の猪之松だ」
「あれは下男ぢやありませんか、親分」
「いや、本當の親子だ。わけがあつて、鈴川主水の子と名乘れなかつたかも知れないが、それよりも、猪之松は生得の不器用で、どうしても藝が覺えられなかつた。藝道で立つ家に取つて、下根げこんの子ほど荷厄介なものはない。もつとも子供の時から、親のもとを離れて、里親の手で育てられたせゐもあるが、兎も角も、藝を繼ぐことの出來ないものは、自分の子で自分の子でない。さう言つた、きびしい考へを鈴川主水は持つてゐた」

 錢形平次の話は續くのです。
「猪之松は、藝は下手で、父親にも可愛がられなかつたが、正直者で生一本な男だつた。その一てつ者の猪之松に睨まれて、お葉はこはくて仕樣がなかつた。ツイ二、三日前にも、猪之松は三崎町へ行つて、お葉の部屋の格子を釘付けにしたりしたので、お葉は用心棒にお前を呼んだ、――一方猪之松にしては、お葉が若作りにした佐野松のところへ通ふのがしやくにさはつてたまらなかつたし、父親の主水の怒りも容易でないことを知つたので、格子を釘付けにする氣になつたのかも知れない」
「そんなことですかねエ、へエ」
 八五郎には、まだ呑込み兼ねるものばかりです。
「そんな事が積つて、鈴川主水はたうとうお葉と佐野松を殺す氣になつた。雨戸の細工は心得てゐたので、すぐ開けて入つたが、その晩お葉は來ずに、佐野松一人待ちくたびれて眠つてゐた。自分の大事な弟子ではあるが、女を待つてゐる姿のだらしのなさにツイ殺す氣になつてしまつた」
「でもあの牡丹刷毛ぼたんばけ剃刀かみそりは?」
 八五郎はまだそれにこだはつてをります。
「牡丹刷毛は芝居氣のあるお葉の細工で、うつかり落したのを、猪之松が搜し出したまでのこと、剃刀は、――あれは少しむづかしい」
「?」
「主水が佐野松を殺したのは杵太郎の剃刀ではなく他の道具だ。庭石の側に深く埋めてあつたのを、猪之松が見付けて、父親を救ふためにそれを隱してしまひ――こいつは行き過ぎだが、――その代り、杵太郎の剃刀を盜み出して、同じ庭石の側に、今度はわざと半分頭を出して差し込んで置いた」
ふてえ野郎で」
「父親を助けたかつたのだ、――その後で三崎町へ行つて覗くと、お葉は今度は杵太郎を引ずり込んで、あの有樣だ。お前も見た通り」
阿魔あまも太過ぎますね」
「あの女は、さう言つた女だ。それに主水に放り出されたうらみもあるので、弟子といふ弟子を皆んな迷はすつもりだつた、――かも知れない」
「すると、雨戸に外から心張を當てる細工をして、お葉と杵太郎を燒殺さうとしたのは?」
「それは猪之松が、放つて置けば、父親がそんな事をするに違ひないと思つたのだよ」
「へエ、すると」
「幸ひ杵太郎はお前と入れ代つて助かつた。が、主水もこれ以上は諦めるだらうし、猪之松も當分江戸へは歸るまい。お葉はうんとおどかして置いたから、當分は千駄木を鬼門きもんにして、寄りつく氣遣ひはあるまい」
 平次の説明は、かゆいところに屆きます。
「膝を怪我したのは?」
「離屋へ火をつけた猪之松だよ。自分の膝がどうかしてゐるなら、主人の主水はそれを俺に見せない筈はない、――伜の孝行が身に沁みたやうだ」
「驚きましたね、どうも」
「俺も驚いたよ、こんな馬鹿々々しい事が滅多めつたにあるわけはない。それにしても、藝道も大事だが、女房の氣も知らずに、良い男の弟子ばかり可愛がつたり、本當の伜を下男扱ひにするなどは、人間の心持にはづれたことに違ひはあるまい」
「お葉は良い年増としまでしたね、あつしなら毎日朝に晩に拜んでやる」
「馬鹿だなア」
 二人はたうとう笑ひ話にしてしまひました。





底本:「錢形平次捕物全集第二十二卷 美少年國」同光社
   1954(昭和29)年3月25日発行
初出:「報知新聞」
   1953(昭和28)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年1月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「けものへん+非」、U+7305    10-11、12-2


●図書カード