錢形平次捕物控

唖娘

野村胡堂





「親分」
「何んだ、八。大層な意氣込みぢやないか、喧嘩でもして來たのか」
 錢形平次は氣のない顏を、八五郎の方に振り向けました。
「喧嘩ぢやありませんがね、しやくにさはつて癪にさはつて――」
「癪なんてものは、紙入に入れてよ、内懷うちぶところにしまひ込んで置くもんだ――お前見たいに鼻の先へブラ下げて歩くから、餘計なものにさはるぢやないか」
「へツ、まるで心學の講釋こうしやくだ。親分も年を取つたぜ」
 八五郎は餘つ程蟲の居どころが惡かつたものか、珍しく親分の平次に突つかゝつて行きます。
「ハツ、ハツ、ハツ、八五郎にきめ付けられるやうぢや、全く年を取つたかも知れないよ。ところで何が一體癪にさはるんだ」
 平次は無造作むざうさに笑い飛ばして、縁側にうしろ手を突いたまゝ、空のあをさに見入るのでした。七夕たなばたも近く天氣が定まつて、毎日々々クラクラするやうなお天氣續きです。
「だつて、口惜しいぢやありませんか。三輪の萬七親分が、先刻昌平橋であつしの顏を見ると、いきなり、『おや八兄哥、此邊にブラブラして居るやうぢや相變らず錢形のところに居候かい。俺のところの清吉なんか、八兄哥より二つ三つ若い筈だが、此間から入谷に世帶を持つて、押しも押されもせぬ一本立の御用聞だぜ。――尤も其處まで行くのは容易のことぢやあるまいがね――』とうだ」
「――」
「あんまり腹が立つから、いつそ十手捕繩を返上して、番太の株でも買はうと思つたが――番太の株だつて唯ぢや買へねエ」
 こんなに腹を立ててゐる癖に、八五郎の調子には、吹出さずに居られない可笑味おかしみがあります。
「ハツ、ハツ、ハツ、笑つちや氣の毒だが、腹を立てる度に番太の株を狙ふのは、江戸中の岡つ引にも、お前ばかりだよ。何處かに良い後家附きの株でもあるのかい。――それは兎も角、八五郎だつて立派な一本立の御用聞ぢやないか。今度三輪の親分に逢つたら、さう言つてやるが宜い。親分のところに泊つて居るのは、田舍からめひが來て、向柳原の叔母の家が急に狹くなつたからだ。手頃の貸家があるなら世話して下さいよ、家賃なんかに絲目は附けないから――と言つたやうな具合にな」
「それくらゐのことを言つたんぢや、腹の蟲がをさまりませんよ」
「大層機嫌きげんの惡い蟲だね。ぢや、三輪の兄哥がびつくりするやうな手柄を立ててよ、お神樂の清吉が目を廻すやうな女房を貰ふんだね」
「そんなのはありますか、親分」
「大ありさ、江戸は廣いやね。――綺麗きれいな女房の方は俺の鑑定めがねぢや納まるまいが、大きな仕事なら丁度良いのがあるぜ」
「へエ」
「例へば、近頃三輪の親分が追ひ廻してゐる、あざの熊吉だ。下谷淺草から神田小石川へかけて二三十軒も荒し、人間も五六人斬られてゐるが、どうしてもつかまらねエ」
 平次の言ふのはもつともでした。去年の暮あたりから風の如く去來する怪賊、金高にて二三千兩もかせいだことでせうが、文字通り神出鬼沒しんしゆつきぼつで、江戸中の岡つ引が、たばになつて追ひ廻しても、何んとしても捉まりません。
「そいつはあつしも心掛けて居るが、首筋に火の燃えるやうな眞赤なあざのある人間なんか、滅多めつたに見付かりませんよ」
 兇賊きようぞくは何んの變哲もない小男で、黒い覆面をしたつきり、町人風の小氣のきいた樣子で、大抵よひのうちに入り、往來がまだ賑やかなうちに、何處ともなく逃げうせるのが特徴とされて居ります。
 もう一つの特長は覆面の下から見える左首筋に、小判形の眞赤な痣のあることと、それから、恐しく手のくことと、身體が人間離れがしてゐるほど輕捷けいせふなことです。
「で、まるつきり見當が付かないのか」
「へエ、首筋に痣のある人間さへ見付かればワケはないんだが」
「馬鹿だなア――、何時までもその氣だから、三輪の親分にめられるんだ」
 平次は『此子おしゆべからず』と言つた顏をするのです。
「外に手蔓てづるも引つ掛りもないぢやありませんか」
「ぢやくが、自分の首筋に眞赤な痣のあることを知らない人間はあるだらうか」
「ありませんね、鏡といふものがあるんだから」
「覆面に顏を隱して、人の家へ押込おしこまうと言ふ太い奴が、首筋の赤い痣を隱すことを知らないとはどういふわけだ」
「成程ね」
「痣なんか目當てにさがしちや、熊吉は一生捉まらないよ。――これだけ言つたら、何んとか工夫のつけやうがあるだらう。三輪の萬七親分にあつと言はせるつもりで、熊吉をげて見るが宜い」
「へエ――」
 平次は精一杯の激勵をするのでした。でもなければ、一本立にならうなどといふ望みを起す八五郎ではありません。


 それから八五郎は、神田、淺草、下谷、小石川をくまなく搜し廻りました。が、あざのある人間を搜すのと違つて、痣も何んにもない人間を搜すとなると、砂利じやりの中から石を一つ選り出すやうで、まるつきり見當が付かなくなつて了ひます。
 到頭悲鳴をあげたのは五日目。
「親分、駄目ですよ。痣のない人間は江戸中に多過ぎますよ」
「馬鹿だなア、そんなことぢや何年經つたつて熊吉が擧るものか。何處を一體搜し廻つたんだ」
「神田、淺草、下谷、小石川を一圓」
「熊吉の荒して歩く場所ばかりねらつたのか。――そいつは、無駄だよ。江戸の町には木戸もあり番所もある。泥棒道具を持つて夜更けに歩くのは骨が折れるだらう。痣の熊吉が宵の口ばかりねらつて押し込むのは、遠いところから來て、遲くならないうちに自分の家へ引揚げるためぢやないか」
「成程ね」
 平次の狙ひはさすがに非凡でした。
「俺は痣の熊吉の押込んだ家といふのを、江戸の繪圖面に印を附けて見たが、不思議な事に本郷を眞ん中にして扇形あふぎがたに擴がつてゐる」
「――」
「痣の熊吉は本郷では一軒も荒してゐないだらう。――これはどういふわけだ。解るか、八」
「解りませんよ。――それとも本郷は暗劍殺あんけんさつに當るかな――この方角はよろづの事惡し、火難盜難つゝしむべし――と三世相に書いてある」
「無駄は止せ。――痣の熊吉は本郷に住んで居るんだよ、八」
「へエツ」
「地元を荒すと足が付くと思つて居るんだらう。探すなら本郷を搜せ」
「本當ですか、親分」
「ノラリクラリと暮してゐる、金費ひの荒い野郎を搜すんだ。惡錢身につかずといふくらゐだ。盜んだ金を溜めて置く泥棒はない」
「成程ね。あつしなんか盜んだ覺えはないけれど金が身につかねエ」
「身につく程の金が入つたことはあるめエ」
「違えねエ」
「又掛け合ひばなしになる。――默つて聽け。痣の熊吉は雨戸を外したり、さんを切り取つたり、かなり器用なことをして忍び込むやうだ。宵のうちに、音のしねえやうに細工をするのは、道具の良いのを持つてゐるに違ひない。頑丈なのみ、細い散目鋸ちらしめのこ、廻しきり、――そんなものを持つて歩く奴があつたら容捨をするな」
「――」
「それからもう一つ、熊吉には合棒がある。中へ入つて仕事をするのは熊吉だが、合棒は外に見張つて居て、邪魔があると合圖をしたり、手に餘ると助勢もするやうだ。こいつは柄は大きいが熊吉ほどの腕はない。解つたか、八」
「解りましたよ。――あざのない人間で、二人組で、本郷に住んでゐて、金費ひの荒いノラクラ者で、小道具を持つて歩く野郎で、――そんなことでせう、親分」
「毎晩家をあけることや、身輕で腕達者なことも忘れちやならない」
「それだけ解つてゐれば、つかまへたも同樣ですね、親分」
「そんな手輕なわけにも行くまいよ」
「それぢや、ちよいと行つて縛つて來ますよ」
「馬鹿だなア」
 平次の言葉を背中に聽いて、ガラツ八はアタフタと飛び出しました。


 それから三日目、あざの熊吉は相變らず諸方を荒し廻つて居りますが、ガラツ八の八五郎も、變なことから、思ひも寄らぬものに心を引かれたのです。
 それは、あれほど平次に注意されて、痣のある人間には振り向いても見ないつもりのガラツ八が、本郷お弓町のとある屋敷の前で、痣のある人間に注意をとらへられてしまつたのでした。
 困つたことに、それは十八、九の美しい娘でした。湯から上つたばかりらしい、血色の良い顏に右の頤の下、ふくよかな線の、頬から喉へ流れるあたりに、ほんの四文錢ほどの丸いあざ――それも薄紫色うすむらさきいろをしたのが、はつきり見えてゐるではありませんか。
 ガラツ八はハツと立止りました。が、次の瞬間、この痣は『熊吉でない』といふ證據見たいなものだといふことに氣が付きました。熊吉は左首筋に、小判ほどの眞つ赤な痣があると言はれて居るのに、この娘は、右の頤の下――覆面でもかぶれば、丁度隱れるのどの上に、薄紫の小さい痣があるのです。
 が、ガラツ八の驚いたのは、その痣のみにくさに引立てられるやうな、娘の美しさでした。十八九の、なよ/\とした華奢立ちですが、色白で、眼が大きくて、吸ひ寄せられるやうな、不思議な魅力を感じさせる娘です。
 ガラツ八の足は何時の間にやら、娘の後をけて居りました。それは、職業意識だつたか、それとも浮氣心だつたか解りません。
「おや?」
 娘の入つたのは荒れ果てた門の中でした。もう黄昏時たそがれどき、――ガラツ八は四方の景色の凄まじさに驚いて、狐につままれたのではあるまいかと思つたほどです。
 が、門の中に小綺麗なしもたやがあつて、五十恰好の召仕らしい女がいそ/\と娘を迎へたのを見て、ホツと安心した心持になります。それは矢張り出來の良い人間の娘に間違ひありません。
 路地をグルリと表の方へ廻ると、荒れ屋敷の一方はかなりの構へでその入口に看板が掛けてあつて、『尺八指南、竹齋ちくさい』と讀めます。
「御免よ」
 ガラツ八はもう飛び込んで居りました。
「どなたでございませう」
 破れた障子の蔭から、れた手を拭き/\顏を出したのは、先刻裏の方の家で、美しい娘を迎へたあの老女ではありませんか。
「尺八を稽古けいこし度いんだが」
 咄嗟とつさの間、ガラツ八はさうでも言ふ外はありません。
「近頃は新しいお弟子を皆んなお斷りして居りますよ」
「さう言はずに頼むぜ。尺八を稽古しなきや、男が立たねえことがあるんだ。師匠に取次いでくれ」
「でも」
 老女はかたくなに首を振りました。
「不意に來たからつて怪しい人間ぢやねエ。神田の八五郎といふ者だ。束修そくしうはいくらだえ。――樽代たるだいとか何んとかあるなら、さう言つてくれ。はゞかり乍ら――」
 ガラツ八は懷へ手を入れて財布の中の錢を讀みました。『憚り乍ら金に絲目は附けねエ――』とやるところでしたが、財布の中に殘つて居るのは、四文錢がたつた六枚。これぢやろくな蕎麥そばも喰へません。
「おい、お六。折角さう仰しやるなら、お通し申すんだよ」
 奧からさびのある男の聲が掛りました。
 やうやく通されて見ると、中の調度の思ひの外立派なのにガラツ八はきもを潰しました。家も外は思ひきり荒れて居りますが、中は疊建具は言ふに及ばず、床も天井も張り直して、眼の覺めるやうな清々しさ。
「尺八が執心しふしんなさうで、及ばず乍ら御相談相手になりませう。――前々から大分おやりでせうな」
 主人は三十二三、大町人の若隱居わかゐんきよが、遊藝に打込んで、贅澤三昧の日を送つて居ると言つた樣子です。物言ひの柔かさ、恰幅の立派さ、相對してゐるガラツ八は、何んとなく壓倒され氣味です。
「いや、あつしは遊藝が大嫌ひで、何んにもやつたことはありませんよ」
 ガラツ八はツイ正直なところを言つて了ひました。本當に法螺ほらも吹けない男です。
「それはどうも」
 主人の竹齋もこと/″\く痛み入ります。
「ところで入門料はいくらでせう」
 八五郎は懷の四文錢六枚で足りなかつたらどうしよう――と言つた當り前過ぎることを考へ乍らう脈を引いて見ました。
「それには及びませんよ。どうせ道樂でやつて居ることで、――この節は御存じの通り、金があるからと言つて、唯で喰つて居られる世の中ではございません」
 主人の竹齋はホロ苦い笑ひを笑ひました。その頃は浪人や無宿者の取締りがやかましく、足腰の達者な男は、何か活計たつきの立つやうな名目だけでも持つてゐなければならなかつたのです。
「それはどうも」
 ガラツ八はもぞ/\しました。四文錢六枚が助かつたのは良いが、斯う座つてゐると、シビレがきれてやりきれません。
 不意に、後ろのふすまがあいて、默つてお茶を出したものがあります。
「――」
 ガラツ八は危ふく聲を出すところでした。それは二十二三の中年増で、色の淺黒い、目鼻立の整つた申分のない美女が、横顏を見せて逃げるやうに立去つたのです。
「これはどうも、へツ、へツ、へツ」
 ガラツ八はすつかり恐悦きやうえつしてしまひました。先刻表から入つた痣の娘も、今の中年増もこの家の者だとすると、全く妙なところへ飛び込んで了つたことになります。


「八、近頃は火吹竹ひふきだけの稽古ださうだな」
 平次は早くもそれを聽き込んだ樣子でした。
「へツ、變なことになりましたよ、親分」
「何が變なんだ。その火吹竹の師匠には、綺麗な妹が二人もあるといふぢやないか、さぞ八五郎の稽古も精が出ることだらう」
「そんなわけぢやありませんがね」
 ガラツ八は照れ臭く耳の後ろばかりいて居ります。
「尋常に申上げた方が宜いぜ。又變なのに引つかゝると、叔母さんの心配の種だから」
「そんな怪しげなのぢやありませんよ。間違ひもなく大店おほだなの若隱居が、道樂に尺八の師匠をして居るんで、竹名は竹齋といふが、本名は山城屋瀧三郎といふんださうですよ」
「山城屋瀧三郎? 店は何處だ」
「大阪で」
「何んだ上方の衆か、上方なまりはあるかい」
「ありませんよ。江戸の水が戀しくつて、弟に世帶を讓つて此方へ來たといふくらゐだから」
「妹二人も江戸言葉か」
「へエー、小さい妹――あごあざのあるお雪といふのが十九で。これはよく話しますが、姉の方の多與里たよりは二十三ださうですが、可哀想に物が言へません」
「フーム」
おしですよ、親分」
「そいつは氣の毒だな」
「飛んだ良い娘が、可哀想ぢやありませんか。一人は痣があつて、一人は唖で」
「若い女は蟲齒の痛いのまで可哀想に見えるんだらう。――ところで、そんな金持のくせに、尺八の師匠は物好きだな、弟子はあるのかい」
「四五人來るやうです。門次、伊之助、三太、由松なんてのが」
「皆土地の者か」
「いゝえ、此邊では顏を見たこともない人間で」
「まア宜い、せい/″\火吹竹の稽古をすることさ。――總領は尺八を吹く面に出來――か、川柳せんりうは面白いことを言ふぜ。八五郎の顏も、鼻の下が段々伸びて來るから妙さ」
「冗談でせう」
 八五郎は平手でブルンと鼻の下をこき上げました。
「ところで、近頃は他國者がやかましい。ましてそんな豪勢な暮しをする者は、何んとしても目に立つから、氣が付いて默つて居ちやお上へ惡からう。大阪へ問ひ合せて、一應身許を調べるから、山城屋の町所を訊いてくれ、大阪の弟のやつて居る店だよ」
「へエ」
 ガラツ八は不足らしい顏をして出て行きました。
 神田から本郷お弓町へ――。朝行つて晝過ぎに行つて、近頃は宵にもう一度行く熱心さですが、竹齋の瀧三郎は大して持て餘した顏もせず、尺八も吹けば法螺ほらも吹くと言つた氣樂さで、ガラツ八相手の一日を送つて居るやうな有樣でした。
 その時はもう酉刻半むつはん近い頃、夏の日もとうに暮れて、四方は薄暗くなる時分でした。お弓町まで行くと向うへ行く男の姿が、何んとなく見覺えがあるやうで、――近寄つて聲をかけると、まぎれもないそれは竹齋の瀧三郎です。
 その頃流行つた風俗ですが、一くわんの尺八を腰に差して、寛濶くわんたつな懷ろ手、六法を踏む恰好で歩くのは花道から出て來る花川戸の助六や御所の五郎藏と通ふものがあります。
「お、八五郎親分、丁度宜い鹽梅に逢ひました。一と足違ひで出かけるところで――」
 さう言ひ乍ら瀧三郎は、脇差にした尺八をグイと後ろに廻します。太くたくましい一管で、それならば喧嘩道具にもなりさうです。
「此處でも話の出來ないことはないが――」
「まア/\さう言はずに入つて下さい。一人で淋しいから出かけたところで、親分が來て下されば丁度好い幸ひに一本つけさせますよ」
 愛想の宜い瀧三郎は、豪勢な居間に通して、お六に酒の用意を命じます。
ほかぢやないが、近頃浪人と無宿者の取締りがやかましくなつて、他國者は皆んな身許を書き上げなきやならない。いづれ師匠のところへも調べに來る筈だが、あつしの手から屆けて置くと、うるさいことがなくて濟むかも知れない。――師匠の實家といふのは、大阪の何處だらう。町所を言つてくれさへすれば宜いが――」
 八五郎の言葉に、瀧三郎はハツと顏色を變へました。
「それはわけもないが――」
「言つて困ることでもあるのかな、師匠」
「いや、困るほどの事でもないが身分はなるべく包んで置き度い。山城屋の主人と知れると、江戸には孫店も取引先も多いことだし、何彼とうるさい事にもなるから――」
 それは暗い言ひ譯でした。八五郎の物を信じやすい心にも、四方あたりの贅澤な空氣と對照して、主人の言葉の曖昧さが、大きな謎のかたまりになるのでした。
「――」
「せめて明日まで待つて下さい。妹達とも相談して、身分を明して宜いものか、惡いものか、はつきり極めませう」
「さうして上げ度いが、それが出來ない。といふのは、師匠も知つての通り、あつしは御上の御用をうけたまはるものだ」
「――」
「師匠の暮し向きの派手なのが、ツイ人の噂に上つて、この暮しに費ふ金が何處から出たか、錢形の親分も變に思つて居るのさ。今になつて、うつかり素姓を隱したり、金の出所を言はなかつたりすると、どんな疑ひを受けるかも解らないが、宜いだらうな師匠」
 二人の美しい妹が、隣で息を殺して居るのを感ずると、八五郎もツイこれだけの事を教へてやる氣になつたのです。


「それぢや、言ひ憎いことだが、何も彼も打ち明けませう。聽いて下さい、八五郎親分」
 瀧三郎の竹齋は、膝に手を置いたまゝ、ヂツと耳を澄しました。
 夏の宵はまだ薄明るく、外を通る人の跫音あしおとが、何んとなくあわたゞしいのさへ、此家一軒が、十重二十重に取圍まれて居るやうな錯覺さつかくを起させます。
「實は八五郎親分」
 竹齋は續けました。
「この家は慶安けいあんの春、謀叛むほんくはだてて御處刑になつた、丸橋忠彌の道場の跡だ」
「えツ」
 丸橋忠彌の道場がお弓町にあつた事は、語り傳へに聽いて居りますが、この敷地がさうとは、八五郎思ひも及ばなかつたのです。
「私が此家へ入つたのは一年前。いろ/\修覆しうふくして居るうちに、床下に穴藏のあるのを見付け、何心なく入つて見ると、由比正雪の一味が隱したものか、中には千兩箱が三つ」
「――」
 八五郎もあまりの奇怪な話に口をつぐんでしまひました。
「早速屆出るつもりでゐたが、そこは凡夫ぼんぷの淺ましさで、金を見るとついフラフラとした心持になり、五兩費ひ、十兩取り、今では半分ほども、費つてしまひました。大阪の山城屋と言つたのは全くの出鱈目でたらめ、私は矢張り江戸の生れで、唯の尺八の師匠竹齋に相違ございません」
「――」
「穴倉の中にはまだ二千兩近い金が殘つて居ります。それをそつくり、親分に差上げませう、さア」
 これほどの重大事を、何んのわだかまりもなく言つてのけて、瀧三郎は手燭てしよくを取つて先に立ちました。
 その後から二三歩廊下へ出た八五郎、
「――」
 後みからそつと袖を引く者があるのです。
 振り返ると小さい妹――あざのあるお雪が、泣き出しさうな顏をして、八五郎を拜んで居るではありませんか。
 兄の瀧三郎を助けてくれと言ふのか、それとも、穴倉へ行つては八五郎が危いと言ふのか、それは判りませんが、兎にも角にも、八五郎ほどの男も、恐しい豫感にゾツと身内の顫へを感じないわけには行きません。
「待つてくれ師匠。――そいつは俺が貰ふにしても、今直ぐといふわけには行かねエ。明日改めて貰ひに來るから、一と晩だけは其儘にして置いてくれ」
 お雪の物悲しい瞳に引摺ひきずられるやうに、八五郎は出口の方へ外れました。
「本當に貰つて下さるか、八五郎親分」
「宜いとも、二千兩とまとまれば、何んかの足しになるだらう」
 何にかの足しどころではありません。その時分の二千兩は、今の二千萬圓にも通用するでせう。八五郎などは一生のうちに一度もお目にかゝることの出來ない大金です。
「でもちよいと見て下さい。――親分」
「見るだけなら――」
 卑怯ひけふと思はれ度くないで一ぱいの八五郎は、瀧三郎の後から又穴倉の入口に引返しました。
 物置の床をいで、暗い段々を下ると、中は石と材木で疊んだ道で、それを二三間行つたところにかしち果てた扉があつて、押し開けると中は四疊半ほどの黴臭かび臭い穴倉、一方の隅に寄せて、四つ五つ重ねた箱があります。
「この通り、二千兩くらゐはあるだらう。これは皆んな親分のものだ。持つて行きなさるとも、此處へ預かるとも勝手だが、この事だけは内々にして下さい。頼みますよ、親分」
 箱の中から、山吹色も眞新らしい小判をザクザクとすくひあげて、瀧三郎は拜むのです。
 もう一度八五郎の袖を引くもの、――振り返ると此處までいて來たお雪は、大きな眼に一パイの悲しみをたゝへて、八五郎をさし招くのです。


「親分、驚いたの驚かねエの」
 八五郎は息せききつて平次の家に飛び込みました。
「どうした、八?」
「大變ですよ、親分。ちよいと來て下さい」
「何をあわてるんだ。――お前があんまり尺八にるから、先刻下つ引の辰をけさせたが、逢つたか」
「その辰に逢つて、お弓町の家を見張らせて來ましたよ。――何しろ小判で二千兩でせう。いや驚かねエの」
「俺の方が驚くぜ、尺八にかれたり、小判に憑かれたり」
「先づ聽いて下さいよ、親分。斯うだ」
 ガラツ八は夕方からの事をくはしく話しました。大阪の實家の事を訊かれて竹齋の瀧三郎が面喰つた樣子、上役人や錢形平次が眼をつけてゐると知つて、觀念したものか、丸橋忠彌の穴倉に案内してガラツ八に二千兩の袖の下を掴ませ、事件をウヤムヤにさせようとした經繹いきさつ、わけても妹のお雪が、兄をかばふのか、八五郎の身の上を心配するのか、涙を流さんばかりに拜んだ話まで――八五郎の口から聞くと、尾鰭が付いて、なか/\に面白くなります。
「そいつは大變だ。何んだつて瀧三郎を縛らなかつたんだ」
「丸橋忠彌の穴倉から金を出して費つたかどで縛るんですか、親分」
「馬鹿だなア、丸橋忠彌の道場はとうの昔に取潰して、床の下まで掘り返した筈だ。そんな穴倉なんか殘つて居るものか、そいつは盜み溜めた金に決つて居るぢやないか」
「盜み溜めた?」
「瀧三郎といふ奴は、あざの熊吉か、その一味だよ。さア、案内しろ、俺が行つて見る」
「痣の熊吉は、左首筋に赤い痣のある小男でせう。――瀧三郎はホクロ一つない大男ですよ、親分」
「そんな事はどうだつて都合が付くよ。うして居るうちに、ずらかつたらどうするんだ。さア、來い、八」
「だつて親分」
 何時もは獵犬のやうに勇む八五郎が、二の足も三の足もむのは、お雪と多與里たより姉妹の平和な生活を驚かすに忍びなかつたのです。
 しかし、親分の平次が行くのを、八五郎は引止めやうはありませんでした。
「辰、變りはないか」
 お弓町に着くと、竹齋の家の前に、番犬のやうに頑張つて居る下つ引の辰に、平次は聲を掛けました。
「何んの變りもありませんよ、親分」
「出た者も入つた者もないだらうな」
「へエ」
「さア、八、威勢よく叩くんだ。――辰は裏へ廻れ、一人も外へ出すんぢやないよ」
「へエ」
 平次は八五郎に叩かせましたが、何時までやつて居ても、中からは返事もなく。開けてくれる者もありません。
「八、戸を打ち壞せ――構はないとも、後は俺が引受る」
「よしツ」
 平次の氣組にはげまされて、八五郎はでつかい身體をドシンと雨戸に叩き付けました。
 暫くの骨折で、どうやら斯うやら雨戸を押し倒して入ると、中は何んの變哲もなく、彼方此方に灯さへ點いて人の氣配もなく、更けて居ります。
「八、穴倉へ案内しろ」
「へエ」
 物置へ行つて見ると、床はいだまゝ、灯の用意をして無氣味な中へ入ると、穴倉のかしの戸のところへ、もうプーンと生血の臭ひ――
「あつ、遲れたか」
 差し出した灯の中に、鮮血に染んで斬り殺されてゐるのは、思ひきや、主人の竹齋こと瀧三郎の無殘な姿です。
「あつ」
「八、小判は無くなつて居る筈だ。見てくれ」
「ありませんよ、親分」
 穴倉の隅の箱は空つぽ、八五郎は呆氣あつけにとられて居るばかり、
「狹い穴倉の中で、良い手際だ。――これ程の男も、聲を立てずに死んだらう」
 穴倉から出て奧の部屋へ行くと、平次が想像した以上の贅澤な調度の中に、姉娘の多與里は、滅茶々々めちや/\に縛られておつ轉がされて居ります。
「あ、多與里さん」
「ア、ア、ア」
 近寄る八五郎の顏を見て、唖娘は涙を流すばかり。
「待て/\、八。その繩を解いちやならねエ」
 平次は近寄つてよく/\繩の具合を見た上、靜かに解いてやりました。
「お雪とお六はどうしたでせう、親分」
「心配するな。裏の方の家でふるへて居るよ」
「行つて見て來ますよ」
 飛んで行つたガラツ八。其處には平次の豫言に少しも違はず、妹娘のお雪は、婆やのお六と眞つ蒼になつて、唯うろ/\して居るのでした。


「八、こいつはお前の手柄だ。よく落着いて考へろ」
「へエ――」
 平次はお雪、多與里、お六の三人を下つ引の辰に見張らせ、駈け付けた近所の衆を、町役人と番所と、土地の御用聞のところへ馳けさせて、さて改めて八五郎にう言ふのでした。
「先づ、あの穴倉の金は、丸橋忠彌ののこした金ぢやねエ。痣の熊吉が盜み溜めた金だらう。――それを瀧三郎は折端詰せつぱつまつて、お前にやつて口をふさがうとした」
「へエ――」
「お前といふ人間の正直さを知らなかつたのだ。その瀧三郎のヘマさ加減かげんを見て、あざの熊吉は腹を立てた。こんな相棒を生かして置いちやどんな失策しくじりをやらかすか解らないと思つたから、一と思ひに殺して、お前にやると言つた金を隱して了つた。それは、辰に表を見張らせてゐる、ほんの半刻ほどの間のことだ」
「――」
「お前には見當が付かないか、痣の熊吉は誰だ」
「瀧三郎ですよ、親分」
「どうして瀧三郎が痣の熊吉だ」
「外に男つ氣がないぢやありませんか。それに瀧三郎の腰に差してゐた尺八は、あんまり太すぎると思つたら、こいつは仕掛けもので、中に散目鋸ちりめのこのみと廻しきりが入つて居ましたよ」
「そんな事もあるだらう。――それぢや瀧三郎を殺したのは誰だ」
「――」
「穴倉の中であれほどのわざの出來る奴、小柄で、首筋に眞赤なあざのある奴、――八、その紙入の中を見ろ。女持の可愛らしい品だが中には大變なものが入つて居る筈だ」
「へエ――」
 疊の上に落ちてゐた赤い羅紗らしやの紙入を開けると、小菊が二三枚と、粉白粉と、萬能膏ばんのうかうの貝と、小判形の赤い呉絽ごろの布と――その布の裏には、ベツトリ膏藥が付いて居るではありませんか。
「あツ」
 驚く八五郎、間髮を容れず、
「熊吉、御用だツ」
 平次が一かつを喰はせるのと、巨大な赤い鳥のパツと飛ぶのと、部屋の灯が消えるのと、下つ引の辰が悲鳴をあげるのと一緒でした。
「八、曲者は外へ逃げた。お前は表へ行け、俺は裏から廻るツ」
 平次の※(「口+它」、第3水準1-14-88)しつたにつれて、八五郎の身體は獵犬のやうに動きます。幸ひの月夜、疾風しつぷうの如く逃げ廻る曲者は、次第に逃げ路を失つて、平次と八五郎の狹めて行く輪の中に入ります。
「八、氣をつけろツ」
 言ふ間もありません。
 脇差がとんで八五郎の眉間へ來るのを、かわすのが精一杯、
「野郎ツ、神妙にせいツ」
 二た太刀目が八五郎の咽喉笛のどぶえを狙つて來る前に錢形平次の手からは久し振りの錢が飛びました。二つ、三つ、五つ、曲者は額と頤と、てのひらを打たれひるむところを、力自慢の八五郎が、後から無手むずと組み付いたのです。
        ×      ×      ×
「痣の熊吉が、あの年増女の多與里たよりとは氣が付かなかつた。驚いたね親分」
 一らつが濟んでから、ガラツ八は今度ばかり九分通り自分の手柄にして貰つて、すつかり好い心持になつて居るのでした。
「俺も判らなかつたよ。だが、あの家は最初から怪しいとは思つた。――良い男は女に化けられるだらうが、聲だけはどうすることも出來ない。おしになつて居るのは面白い考へだが、僞唖といふものはむづかしいものだ。多與里は隨分上手に化けては居たが、氣をつけて見て居ると、物音がする度に、瞳が動く。――耳が聞える證據だ」
「成程ね」
「瞳が動くのは本人も氣が付かなかつたらう。――それからあの縛つた結び目は非力な女だ。お雪かお六にやらせたと直ぐわかるぢやないか。――さう思ふと、女に化けきつて居るが、多與里の身體にはどうしても女でないやうなところがある」
 多與里の繩を解いた平次は何も彼も見拔いて居たのです。
「成程ね」
「赤いあざは最初からこさへ物と判つたが、お前の口からお雪の右の頤の下に小さい薄紫の痣があると聽いて、熊吉はそれを手本にしたと判つたよ。手近のところに手本がなければなか/\そんなうまいは思ひ付かないものだ」
「お雪はどうなるでせう。熊吉の隱した二千兩の隱し場所を教へたのはあの娘ですが、親分」
「お前はそればかり心配してゐるが、熊吉の妹ぢやどうにもなるまい。氣の毒だが在所の遠い親類へ歸す外はあるまいよ。あの娘は何んにも知らなかつたらしいが」
「それに私を助けてくれましたよ」
 ガラツ八はそれが忘れられなかつたのです。熊吉の多與里とお雪は兄妹ですが、瀧三郎は赤の他人で、それが穴倉へ八五郎をさそひ込んで、どうかしようとしたのを、どんなに骨を折つてさまたげてくれたことでせう。
「お前のいふのももつともだが――」
 平次は考へ込みました。兇賊痣の熊吉の妹では、まさか八五郎の女房にはなりません。
 斯うして八五郎は、一世一代の大手柄に、拭へども消えぬ悲しい記憶きおくを燒きつけてしまつたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第二十三卷 刑場の花嫁」同光社
   1954(昭和29)年4月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1941(昭和16)年8月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年6月10日作成
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