「八、今のは何んだい」
「へエ――」
錢形の平次は、後ろから
「人樣が見て笑つてゐるぜ、でつかい
「へエ――相濟みません」
八五郎はヒヨイと頭を下げました。
「お辭儀しなくたつていゝやな、――腹が減つたら、減つたといふがいゝ。八幡樣の前で余つ程晝飯にしようかと思つたが、朝飯が遲かつたから、ツイ油斷をしたんだ。家までは
「へエ――」
「へエーぢやないよ。
「へツ」
八五郎は長んがい
「どうにもかうにも保ちさうもなかつたら、その邊で詰め込んで歸るとしようよ。魚の
平次はそんなことを言ひながら、その邊のちよいとした家で、一杯やらかさうと考へてゐるのでした。
「犬は大丈夫だが、橋詰の
「呆れた野郎だ」
二人は橋を渡りきつて、御船手屋敷の方へ少し歩いた時。
「あツ、危ねエ、氣を付けやがれ、間拔け奴ツ」
飛んで來て、ドカンと突き當りさうにして、平次にかはされて、クルリと一と廻りした男、八五郎の前に踏止つて遠慮のないのを張り上げたのです。
「何をツ、其方から突つかゝつて來たぢやないか」
「八、放つて置け。空き腹に喧嘩は毒だ」
平次は二人の間に割つて入りました。
「あツ、錢形の親分」
「何んだ。
「相濟みません。少しあわてたもんで、ツイ向ふ見ずにポンポンとやる
「恐しい勢ひだつたぜ。火事はどこだい。煙も見えないやうだが」
「からかつちやいけません、ね親分。こゝでお目にかゝつたのは、丁度いゝ
「何が始まつたんだ。喧嘩ぢやあるまいね。夫婦喧嘩の仲裁なんざ。御免
「殺しですよ、親分」
「へエ、松の内から、氣の短い奴があるぢやないか」
「殺されたのは、新堀の廻船問屋、三文字屋の大旦那久兵衞さんだ。たくらみ拔いた殺しで、恐ろしく氣の長い奴の
「成程、そいつは
「だからちよいと覗いて下さい。さう言つちや濟まねえが、富島町の島吉親分ぢや、こね廻してゐるばかりで、何時まで經つても
「八幡樣が迷惑なさるから、こんな馬鹿なことは言はないことにしてくれ。外ならぬ島吉兄哥が困つてゐるなら、ちよいと手傳つてやつてもいゝ。案内してくれるかい、鳶頭」
平次は思ひの外氣輕に引受けました。滅多に人の繩張りに足を踏込んで、仲間の岡つ引に恥をかかせるやうなことをしない平次ですが、富島町の島吉は先代から
「道が違やしないかえ、鳶頭」
八五郎は先刻の
「三文字屋のお店は南新堀だが、大旦那は
「その隱居家に凄いのを圍つてあるといふ寸法かい」
と八五郎。
「飛んでもない、三文字屋の大旦那と來た日にや、江戸一番の堅造だ。
「その下女が――」
「三十過ぎの出戻りで、稼いで溜めて、在所へ歸るより外に望みのねえ女だ」
そんな話をするうちに、三人は隱居所の前、何んとなく穩かならぬ人立の中に立つてをりました。
三文字屋の隱居所といふのは、靈岸島町の裏に置き忘れたやうに建てた、たつた三間の家で、知らない者では、これが廻船問屋で万兩分限の隱居所とは、氣の付きやうもない程粗末なものでした。
「あゝ、錢形の親分さん」
三間に
「島吉兄哥は?」
平次はその中から、若い島吉を物色しました。
「奧にゐますよ」
案内役に立つたのは、三文字屋の縁續きで、手代をしてゐる幾松でした。二十四五の小意氣な男で
平次は默つて次の間に入つて行きました。
「おや、錢形の親分」
島吉は顏を擧げました。主人久兵衞の無殘な死骸を前にして、番頭の市助と何やら話し込んでゐたのです。
「永代で鳶頭に逢つて聽いたが――、たいへんだね。目星は?」
「判らない。――怪しい奴が多過ぎる」
島吉は首を振りました。
兎も角久兵衞の死骸を見せて貰ふと、薄い寢卷を着たまゝ、
「死骸は縁側にあつたが、部屋の中には床が敷いてあつた。――隱居家で、こゝには一兩と
島吉は半日の探索で調べ上げたことを話しました。
「刄物は?」
「脇差だらうと思ふけれど、曲者が持つて歸つたと見えてこゝにはない」
「紛失物は一つもなかつたんだね」
と平次。
「何んにもなくなつたものは御座いませんよ」
番頭の市助が引取りました。五十前後の
「主人を怨んでる者は?」
平次は至つて常識的なことから踏出しました。
「結構な御主人で、人樣から怨まれるやうな筋はございません」
「町内の岩田屋の福次が、
島吉は
「主人が死んでトクになる人は?」
「――」
番頭は口を
「養子の小三郎だらう。近頃大旦那と折合がよくなかつたさうだから」
これも島吉が引取りました。
「呼んで貰はうか番頭さん、こゝで話しを聽きたいが――」
殺された久兵衞の前で、養子の小三郎はどんなことを言ふか平次は試したかつたのです。
「私が小三郎ですが、親分さん」
唐紙の陰から、そつと顏を出したのは、幾松と同年輩か、どうかしたら一つ二つ若からうと思ふ男でした。色の淺黒い恰幅の立派な青年で、一本調子で突つかゝつたやうな物の言ひ方をするところなどは、決して人に好感を持たせる
「お前さんは、何にか大旦那としつくり行かないことがあつたさうだね」
「そんなことはありません」
「昨夜は一と晩店の方にゐたんだね」
「いえ」
「どこへ行つたんだ」
「――」
小三郎は唇を噛みました。正直者らしいやうですが、典型的な多血質で、カーツとなつたら、
「昨夜店にゐなかつたのは小三郎だけか」
平次は番頭の方を振り返りました。
「へエ――」
市助は唯おろ/\するばかりで、ろくな返事もできません。
「親分、幾松も店にゐなかつたさうですよ」
ガラツ八はその間にも、いろ/\な人の噂をかき集めて平次に報告したのです。
「こゝへ呼んでくれ」
「へエ――」
「それから、外に三文字屋の者が來てゐるなら皆んなこゝへ呼ぶんだ。――主人の死骸の前では、器用に嘘も
ガラツ八は平次の言葉を半分聽いて飛び出すと、ものの煙草二三服ほどのうちに、幾松の外に若い娘を一人つれて來ました。
「お前さんは?」
「お孃さんのお美乃さんですよ」
番頭の市助が代つて答へました。
「さうか、――お氣の毒な事だね。一人殘されちや
「――」
お美乃は默つて涙を拭きました。そんなに綺麗といふ程ではありませんが、素直に清らかに育つてゐるらしく、見よげな娘です。
「ところで、お前に訊いたら一番よく解るだらう。父親が
「いえ」
お美乃は言下に應へましたが、その後でひとわたり一座の者の顏を、そつと見渡しました。
「跡取りは決つてゐるだらうね、番頭さん」
「へエー、この正月の末には、祝言をする筈で、その
「小三郎とお美乃とだね」
「へエ――」
「それは氣の毒だね」
若い二人を見比べて、平次もツイ
晝を少し廻つた陽が縁側から入つて、六疊の部屋がクワツと明るいのも、妙に物淋しさを誘ひます。
「縁側の雨戸は開いてゐたんだね、番頭さん」
「へエー、内から
「曲者は主人に戸を開けさして入つたといふわけだな」
「ところでもう一度訊くが、小三郎は昨夜どこへ行つたんだ」
「――」
改めて平次は訊ねましたが、小三郎は俯向いたきり應へようともしません。
「宵から朝までゐなかつたのか」
「いえ――夜中過ぎには歸つたやうでございます」
番頭の市助は取りなし顏に言ひました。
「どうしても昨夜行つた先を言ひたくないのか」
「――」
漸く擧げた小三郎の顏には、悲しい苦惱が
「主殺しの疑ひを受けることになるが、構はないだらうな」
「親分さん」
と小三郎、
「言つて了つちやどうだ」
「言つても本當にしないでせうし、できることなら言ひたくありません」
小三郎はさう言つて、ガツクリ首を垂れるのでした。
「それぢや幾松に聞くが、お前も家を開けたさうぢやないか」
平次の眼は小三郎から幾松に轉じました。少し
「へエ――」
苦い微笑が唇に浮んだと思ふと、サツと拭き取つたやうに消えました。
「どこかの稽古所へでも潜り込んでゐたんだらう。言ひ憎いことがあつても、隱さない方が身のためだぜ」
「親分さん、私は大旦那なんかを殺しやしませんが――」
「それはさうだらうよ」
「どうしても昨夜の行先を言はなきやなりませんか」
「言ふ方が無事だらうよ」
平次はひどく冷靜です。
「弱つたなア」
幾松は小三郎ほど絶望的ではありませんが、困惑しきつてゐることは違ひありません。
「
「――」
「隱したつて隱し了せるものぢやない。言ふ
「――」
幾松も默りこくつてしまひました。かうなつては、手の付けやうがありません。
平次はいゝ加減に諦らめて、一とわたりお勝手の方を覗いて見ました。
「お前はお作といふのだね」
「へエー」
「國はどこだ」
「
「昨夜何にか變つたことがなかつたか」
「ありましたよ、――何時もお店から來なさると、そのまゝ默つてお床に入る大旦那樣が昨夜はわざ/\私を呼び止めて、『お作、人の心といふのは解らないものだな。俺はこの年になつて、飼犬に手を噛まれるとは思はなかつたよ』と仰しやつて、淋しさうに笑つておいでになりました」
「飼犬に手?」
平次は考へ込みました。飼犬といふ言葉の意味は、誰を指すのか判りませんが、少くとも三文字屋を怨んでいるといふ、岩田屋福次でないことだけは明かです。
下女のお作は、
平次は八五郎に小三郎と幾松の見張りを言ひつけ、島吉と一緒に三文字屋に行つて見ました。
こゝにはお磯といふ親類の娘の外に小僧二人と下女が二人ゐるだけ。お磯の外の者は、何を訊いても大した役に立ちさうもありません。
「主人と一番仲の惡いのは誰だえ」
「小三郎さんですよ」
お磯の答へは簡單で豫想外でした。
「それはどう言ふわけだ」
「小三郎さんは、どこかの船頭の子ださうで、十三の時親知らずの約束で貰ひ、それから十年の間丹精して育てた上、お美乃さんと一緒にして、この大身代の跡取にすることになつてゐるのに、あの通りのわからない人で、大旦那を怒らせてばかりゐるんです」
「フ――ム」
「幾松は?」
「幾松さんは三文字屋の遠い
「幾松の方が好い男ぢやないか」
「え、好すぎるんで、浮氣が大變です」
「成程そんなこともあるだらうな」
「近頃主人と小三郎と言ひ爭ひでもしたことがなかつたのか」
「昨日もやつてゐたやうです。
「幾松は?」
「あの人は人に
「お前は?」
「――」
お磯は默つてしまひました、二十五六にもなるでせうか、
「お前は昨夜どこにも出なかつたのか」
「え」
お磯は言下に應へましたが、この女の底意地の惡い物言ひや、顏の冷たい感じなどがひどく平次を焦立たせた樣子です。
「小三郎と幾松と、番頭と、――奉公人の部屋を見せて貰はうか」
「――」
お磯は默つて立ちました。それに
「こゝに小三郎さんと幾松さんが休みますよ」
暗い四疊半の入口にお磯は立ちました。中へ入ると、窓は嚴重な格子で、店かお勝手へ出なければ、夜中に外へなどは出られません。
「荷物は」
「その押入にあるでせう。上は小三郎さんで。下は幾松さんが使つてゐるやうです」
平次と島吉は幾松の
「おや、變なものを持つてゐるぜ」
島吉が底から搜し出したのは、
「どれ/\」
平次はそれを受取つて、
「錢形の、――こいつは人間を斬つた
島吉はさゝやきます。脇差の刄は油を引いたやうに薄く曇つてゐるのでした。
「生々しい脂だ。一應洗つて拭き込んだ樣子だが――」
兇器がこんなにも
「この脇差は誰のだ」
島吉は脇差を鞘に納めると、部屋の外に持つて出ました。
「小三郎さんのですよ」
「何?」
「小三郎さんの自慢の脇差ですよ。何んとか言ふ船頭が、遠州
お磯の言葉は相變らず毒を
「それが幾松の行李に入つてゐたのはどう言ふわけだ」
「まア」
「おい/\小僧さん、この脇差は誰のか知つてるかい」
「若旦那のですよ」
二人の小僧は聲を揃へました。
「こいつは變だぞ。島吉
平次と島吉は、押入の上の段の行李を出して念入りに調べましたが、そこには何んにも變つたものがありません。
「親分、到頭口を割りましたよ」
わめき込んで來たのは八五郎でした。
「何んだ、下手人が白状でもしたといふのか」
と平次。
「そんな大したことぢやねえが、――幾松は到頭昨夜行つた先を言ひましたぜ」
「何んだ、そんなことであわてて飛んで來たのか、見張つてゐろと言つたのに」
「大丈夫、下つ引に見張りを頼んで來たから、變な素振りを見せると、すぐ縛つてしまひます」
「で、幾松は昨夜どこへ行つたんだ」
「それが大變なんで、――お美乃さんなんかの前ぢや言へなかつたわけでさ」
「どこだ」
「一番たちの惡い場所、――一番極りの惡いところで、へツ」
「江戸中にそんな恥ツ掻きな場所があるのかい」
「今にも
ガラツ八は無暗に
「まアいゝやな、怒るな。――ところで相手の名ぐらゐは聞いて來たんだらう」
「おえのといふ女ださうで、名前からして意氣ぢやありませんよ」
「黒い頭巾に
「心得てゐますよ」
ガラツ八はもう一度飛んで行きました。
「これで大方眼鼻が付いたらう。俺は最初幾松が臭いと思つたが、高瀬舟や
「
「何んの、こんな事くらい」
平次はそれつきりこの事件との關係を斷つたのです。恩人の子の島吉に手柄を立てさせて、蔭で知らぬ顏をして見てゐるのが、平次に取つては、たまらない樂しみだつたのでせう。
外へ出るともう夕刻、平次は晝飯を食ひ損ねたことに氣が付きました。急に腹の減つたことに氣が付くと、八五郎の強健な胃の腑が、今頃どんなことになつてゐるかと思ふと、獨り笑ひが空き腹からコミ上げて來ます。
それから二月經つてしまひました。三文字屋殺しは養子の小三郎と決つて、下手人を擧げた手柄は
「親分、大變なことがありましたよ」
ガラツ八の八五郎が何時もの調子とは違つて、ひどく沈んだ顏を持つて來ました。
それは三月三日――江戸は桃も櫻も咲き揃つて、すつかり春になりきつた晩のことです。
「何が大變なんだ。ドブ板を蹴返さないと、大變らしい心持にならないぜ」
「ね、親分。あの三文字屋の娘――お美乃とか言ふのが、南の御奉行所へ駈け込み訴へをやりましたぜ」
「何?」
平次も何にか
「氣の毒なことに、門前で喰ひ止られて、泣く/\歸つたさうですが、いづれ
「親殺しのお主殺しだ。あの小三郎だけは助けやうはないよ。駈け込み訴へもモノによりけりだ」
平次はさう言ひきつて、心の底から淋しさを感じてをりました。島吉に縛られたにしても、小三郎を
「でも、思ひ詰めて死ぬやうなことはないでせうね。可愛らしい娘だつたが」
八五郎までが妙に
「お前さん」
「何んだい」
「お前さん、ちよいと」
女房のお靜が、敷居際から妙に聲を顫はせてをります。
「何んだい、そんなとこに突つ立つて――借金取りでも來たのかい」
「お孃さんが、お勝手で、泣いてゐらつしやるんですよ」
さう言ふお靜も、すつかり泣き濡れて、極り惡さうに、顏を反けながら話すのです。
「お孃さんが――?」
平次はお勝手を覗くと、薄暗い行燈の下。上り
「お美乃さんぢやないか」
平次は不思議な空氣の壓迫を感じながら板の間に
「親分さん、――小三郎さんを助けてやつて下さい。お願ひ――」
半分は
「そいつは無理だ。今しがた俺が言つたことを、こゝで聽いてゐたんだらうが、親殺しや主殺しは、御奉行樣でも助けやうはない。そればかりは諦らめた方がいゝぜ」
「違ひます。親分さん。小三郎さんは、決して、父さんを殺しはしません、――
「お美乃さんがさう思ふのは無理もないが、小三郎が縛られるには、縛られるだけのわけがあつたんだ。――證據は山程ある上に、あの日島吉兄哥が隱居所へ引返して行くと小三郎は一と足違ひで逃げ出したといふぢやないか。幸ひ翌る日捕まつたからいゝやうなものの、さうでもなきや、島吉兄哥は飛んだ
平次は
「親分さん、どんな證據があつても、小三郎さんは、本當の親を殺す筈はありません」
「何? 眞實の親?」
「え、小三郎さんは、父さんの――三文字屋久兵衞の血をわけた本當の子だつたんです。私こそ反つて義理のある娘だつたんです」
お美乃の言葉は、平次に取つても驚きです。
「それはどう言ふわけだ、
平次は到頭お勝手の板の間に坐り込んでしまひました。
その後ろに八五郎、その横にはお靜が、たゞわけもなく固唾を呑みます。
「小三郎さんは父さんの本當の子ですが、母親は深川の藝者で、親類の手前や、
「本人は?」
平次は一番大事な問ひを忘れませんでした。
「小三郎さんは何も彼も知つてゐますが、あの通り正直一
「すると小三郎とお美乃さんは兄妹になるわけぢやないか」
「いえ、小三郎さんは三文字屋の血を引いた人ですが、私は三文字屋の二度目の嫁の連れ子で、父さんの本當の娘ではございません」
「成程、それで久兵衞さんが、小三郎を養子にして、お前と添はせて三文字屋の跡を繼がせる氣になつたのも判る。だが、それだけぢや、小三郎が無實の證據にはならない。あの晩――正月五日の晩、小三郎はどこにゐたんだ。それが判つて、生證人でもなきや、今となつては小三郎が無實と知つても助ける工夫はない」
「小三郎さんは、あの晩、養ひの親の浪五郎に逢つてゐたんです」
「何?」
「浪五郎は若い時から船頭で、幾度も難破したのを、水天宮樣を信心して助かつたと言つて、月の五日の
「なぜ、お白洲でそれを言はなかつたんだ。それを言ひさへすれば、助かる見込みがあつたのに」
平次はお美乃の話から、不思議な事件の展開を見たのでした。
「それができなかつたのです。――浪五郎は仲間の者の
「――」
「ですから、月に一度そつと江戸へ來て、水天宮樣へお詣りして、小三郎さんに逢つて行くのを、何よりの樂しみにしてゐるんです。小三郎さんはあの通りの人ですから、自分が
「フーム」
あまりの怪奇な話に、平次も只
「惡者はそれを知つて、五日の晩を選つて父さんを殺し、小三郎さんに罪をなすつたに違ひありません。可哀さうに小三郎さんは、幸ひ親に義理を立てて、親殺し、主殺しで死んで行くんです。どうぞ助けてやつて下さい、浪五郎に迷惑のかゝらないやうに。錢形の親分さんなら、きつとそれができます。お願ひでございます」
お美乃はたしなみも恥かしさも忘れて、精一杯に口説くのでした。
「ね、お前さん」
お靜まで泣き聲を挾みました。
「お前は默つてゐろ。――ところでお美乃さん、もう聽いてゐるだらうが、お處刑は明後日の正
「それはもう親分さん」
「若い娘がそれだけ信用するなら、大抵間違ひはあるまい。
「――」
「ところで、お美乃さん」
「ハ、ハイ」
「お前さんは、小三郎をどんなことをしても救ひたいと言ふのだね」
平次の聲には、激しい意途が潜んでをりました。
「え、どんなことをしても、どんなことがあつても」
「命を捨てても」
「命を捨てても」
「万人の前に恥をさらしても」
「え、万人の前に恥をさらしても」
お美乃は平次の言葉を
「明後日、お處刑の日は丁度五日だ。浪五郎が赤羽橋の水天宮樣へ、お詣りに來る日だらうな」
「雨が降つても、槍が降つても、正午の刻にはきつと來る筈です」
「鈴ヶ森の處刑も正午の刻、赤羽橋のお詣りも正午の刻」
平次は深々と腕を
その晩平次と八五郎は
が、何んといふ不運でせう。おえのは十日ばかり前に大酒を呑んで頓死し、
その死んだ日か、前に來た客のことを訊きましたが、下等な船比丘尼の客などは誰も氣に留めず、そこにも探索の
「この上は五日の晝頃、浪五郎といふ船頭を捕まへる外に
平次はそんな頼み少ないことを言ふのです。
その翌々日、たうとう三月五日といふ日が來てしまひました。
親殺しの主殺し、五逆五惡の大罪人小三郎は、裸馬に乘せられて、幾十人の
その日は
「退け、退け、退けツ」
バラバラと駈けて來る役人小者。
「お願ひ、お願ひの者でございます」
「何んだ/\」
「小三郎の許嫁、美乃と申すものでございます。親の遺言を果すため、御處刑前に、祝言をさせて下さいませ。お願ひでございます」
駕籠の中から轉げるやうに出たのは、
「ワ――ツ」
竹矢來を圍む數千の群衆は、ドツと
「ならぬ/\、こゝを何んと心得る」
役人二三人、押つ取り刀で美乃を取卷くと、役目大事と威猛高になりました。
「
「馬鹿なことを申せ」
「これは助命の願ひではございません。どんな
一生懸命さが言はさせる處女の雄辯に言ひ捲られて、役人小者も顏を見合せるばかり、暫くは、日頃用ひ
「ならぬ/\」
「お願ひでございます。御處刑になる罪人には、今はの際に、たつた一つだけは望みを叶へさせると承りました」
「えツ邪魔だツ、退かぬと力づくで退かせるぞツ」
二三本の六尺棒が前後からお美乃の白無垢を押へました。
「たつてならぬと仰しやれば、こゝで自害をいたします。せめて夫の先に死んで、死出三途の案内をいたしませう」
お美乃は帶の間から用意の懷劍を取出すと、キラリと拔いて、我とわが胸に切尖を當てるのでした。一本の指でも加へたら、そのまゝズブリと突き刺して、白無垢を紅に染めるでせう。竹矢來を取卷く見物は、高潮する劇的なシーンに醉つて、時々ドツ、ドツと
そのうちに時刻は經ちました。裸馬に乘せられて、
一方は錢形平次と八五郎、赤羽橋有馬屋敷の角、お堀端の
浪五郎がお詣りした頃は、月の五日でも參詣の者はほんの數へるくらゐ、その中に船頭風の男が交つてゐさへすれば、平次と八五郎の眼を
それから二た刻近い間、平次と八五郎がどれほど氣を揉んだことでせう。
「八、あれだツ」
平次が濠端をやつて來る、
「お前さんは、船頭の浪五郎と言ふんだね」
「えツ」
八五郎に胸倉を掴まぬばかりにされて、老船頭はのけ反るばかりに驚きました。が、氣を取直すと、
「いかにも、船頭の浪五郎はこの俺だ。さア、お繩を頂戴しよう。――身に覺えのないことだが、もう命が惜しいほどの年ぢやない」
後ろに手を廻して觀念の眼さへつぶるのです。
「違ふ/\お前を縛るんぢやない。三文字屋の小三郎が、親殺しの罪で、今日、今、
「えツ」
「一月五日の晩、お前と一緒に船の中で一晩過したといふ
「そいつは知らなかつた。俺は海の上にばかりゐる人間だ。サア、どこへでもつれて行つてくれ。一月五日には永代の下で、一晩この俺と小三郎は話してゐた」
用意した三挺の駕籠、三人は先づ
「それツ」
新に人足を代へて、三挺の駕籠は鈴ヶ森へ――
平次と八五郎が、赦免状と生證人をつれて鈴ヶ森に乘込んだ時は、
お美乃の努力にも限度があります。六尺棒で押し
「お願ひ、お願ひ」
竹矢來の外から必死と叫ぶお美乃の聲も
「お美乃さん、私は嬉しい」
磔柱の上から、目隱しをされたまゝ、小三郎は僅かに聲を張り上げます。
「小三郎さん」
「この小三郎が下手人でないことは、お美乃さんだけはよく知つてゐる。――あの人に逢つたら、さう言つて下さい」
「小三郎さん、お願ひだから。言つて下さい。みんな言つて下さい」
「それツ」
合圖をすると、二本の
「小三郎さん」
ドツと動搖み打つ群衆の聲に呑まれて、お美乃のか弱い聲ももう聞えません、あなやと思ふ時でした。
「待つた。――その御處刑待つた」
「御赦免状だぞツ」
平次と八五郎と浪五郎は、大波のやうに搖れる群衆の中へ、眞一文字に飛び込んで來たのでした。
× × ×
幾松はその日のうちに主殺しの下手人として、島吉に縛られました。安宅のおえのの家から三十兩の金が、幾松の財布に入つたまゝ現はれたのと、おえのに毒洒を持つて行つたのが、見知り人があつて幾松と知れ、主人久兵衞殺しまで幾松の
「五日の晩、わざと遠方の安宅長屋へ行つて、人に知れると恥になるやうな證據を拵へたのは、幾松の並々ならぬ惡智慧だ。その場にゐない證據に、船比丘尼などを出すのは人情の裏を行つた
平次はガラツ八にせがまれて、繪解きをしてやりました。事件が落着して四五日のことです。
「成る程ね」
「小三郎の脇差で久兵衞を殺し、一と一通り洗つて自分の
「何んだつて幾松は主人を殺す氣になつたんでせう」
「幾松にして見れば、赤の他人の小三郎が三文字屋を繼ぐことになつたのが
さう言はれると、幾松が下手人らしくなります。
「もう一つ解らないことがあるんだが――」
「何んだい」
「お磯は何んだつて小三郎をひどく言つたんでせう」
「お美乃に取られたやうな氣がして口惜しかつたのさ」
「小三郎は飛んだ果報者だね」
「あんな肌合の男が反つて娘に好かれるんだらう。愛嬌があつて如才がなくて、觸りの滑らかな幾松は、腹が黒いから娘達に打ち込まれないのさ」
「へエ――」
「大層感心するぢやないか、――お前なんかも一本調子だから娘達には人氣のある方さ。用心するがいゝぜ」
「冗談でせう。ところで、お美乃を花嫁姿で鈴ヶ森へやつたのは親分の指圖でせう」
「飛んでもない。岡つ引がそんなことをしていゝか惡いか考へて見ろ」
平次の言葉には
「でも、島吉兄哥は親分のお蔭で大手柄でしたよ。喜んでゐましたぜ」
「飛んでもない、もうすこしで取返しのつかない
平次はそんな氣になつてゐるのでした。