錢形平次捕物控

懷ろ鏡

野村胡堂





「親分、面白い話があるんだが――」
 八五郎のガラツ八が、長んがいあごを撫でながら入つて來たのは、正月の十二日。屠蘇とそ機嫌からめて、商人も御用聞も、仕事に對する熱心を取り戻した頃でした。
「暫らく顏を見せなかつたぢやないか。どこをあさつて歩いてたんだ」
 錢形の平次は縁側から應へました。湯のやうな南陽みなみにひたりながら、どこかの飼ひうぐひすらしいさえずりを聽いてゐたのです。
 凝つとしてゐると、梅の香が流れて、遠くの方から、時々ポン、ポンと忘れたやうなつゞみの音が聽えて來るといつた晝下りの風情は、平次の神經をすつかりなごめてゐたのでせう。
「親分、はゞかりながら、今日は申し分のない御用始めだ。野良犬が掃き溜めを漁るやう言つて貰ひたくねえ」
「大層なことを言ふぜ。どこでお屠蘇の殘りにありついたんだ」
 平次はまだ茶かし加減でした。かう紫に棚引く煙草のけむりを眺めて、考へごとをするでもなく、春の光にひたりきつてゐる姿は、江戸開府以來の捕物の名人といふよりは、暮しの苦勞も知らずに、雜俳ざつぱいの一つも捻つてゐる、若隱居といふ穩やかな姿でした。
「親分、神樂坂の浪人者殺し、あの話をまだ聽かずにゐるんですか」
「聽いたよ、――が、二本差りやんこと鐵砲汁は親の遺言でもちゐないことにしてある」
「へツ、こいつはたまらねえ御用始めですぜ。親の遺言は暫く鐵砲汁の方だけにしちやどうです」
 ガラツ八は何時の間にやら、日向一パイに塞がつて、お先煙草を立て續けにくゆらしてゐるのでした。
「ことと次第ぢやね、――話して見な、どんな筋なんだ」
 暮からあぶれてゐる平次は、まんざらでもない樣子です。全く松のうちから江戸中を驅けずり廻つて、親分のために素晴しい御用を嗅ぎ出さうとしてゐた、ガラツ八の心意氣を知らないわけではなかつたのでした。
「ね、親分。幽靈が人を殺すでせうか」
「何を下らねえ」
「生靈、死靈てえ話は聽いたが、足のねえ幽靈が、後ろから脇差で人を殺すなんてことがあるでせうか」
「馬鹿も休み/\言ふがいゝ。そんな物騷なエテ物が、箱根の此方にゐてたまるものか」
 平次は頭からけなしつけますが、その癖ガラツ八の話に、充分過ぎるほどの興味を動かした樣子でした。
「本當ですよ親分。川波勝彌かはなみかつやつて年は若いが、恐ろしくヤツトウのうまいのが、神樂坂でいものやうに刺されてゐるんですぜ。側には川波勝彌を怨んで死んだ娘の、懷ろ鏡が落ちて割れてゐるなんざ、そつくり怪談ものぢやありませんか」
「成程、そいつは面白さうだ。最初から筋を通して見な」
 平次は大分乘氣になりました。
「かうですよ、親分」
 ガラツ八は吐月峰をやけに引つ叩くと、煙管を引いて物語らんの構へになります。


 牛込さかな町に町道場を開いてゐる、中條流の使ひ手紫田彈右衞門、一年前から輕い中風にかゝつて、起居も不自由ですが、門弟達が感心に離散しなかつたので、この正月も、恒例の十一日に稽古始めを行ひ、鏡餅を開いて深夜まで呑みました。
 門弟と言つても、筋の良いのは一人もありません。紫田彈右衞門は恐ろしく氣樂な男で、門弟の身分などに選り好みを言はなかつたのと、百姓町人といへども、身のたしなみに一應の武技は心得て置くべきであるといふ建前で、門人の半分以上は町の若い者達に、無祿の浪人共、それにほんの少數の裕福でない御家人の子弟がまじつてゐるといふ程度のものでした。
 門弟の中で、川波勝彌と林彦三郎は拔群の使ひ手で、この二人が紫田彈右衞門に代つて稽古をつけてやつてをりました。勝彌は二十八、彦三郎は二十六、どちらも浪人で、どちらも元氣者で、その外には、町人側に大工の柾次まさじ、植木屋の五助、御家人の子の岸松太郎、大原幸内などは、いづれも若くて腕つ節の良いところでした。
 紫田彈右衞門には娘が二人、姉をお類と言つて二十三、妹をお半と言つて二十歳。どちらも美しく生ひ立つて、門弟達の魅力になつてゐましたが、姉のお類は去年の秋、仔細は解らず、武家の娘らしく懷劍で自害して相果てました。高弟の川波勝彌と娶合めあはせてこの道場を繼がせる心算だつたのが、紫田彈右衞門が癈人同樣になつて、道場の前途がはなはだ心細くなつた上、川波勝彌が近頃望まれて、さる大身の養子になることになつたので、お類との約束を反古にし、お類はそれを悲しんで自害したのだといふ噂も傳はりました。
 それは兎も角、川波勝彌はそんなことは知らぬ顏に、毎日道場にやつて來て、少し人の好い林彦三郎と共に、門弟達の相手をしてをりました。正月十一日の稽古始めにも、吉例の勝拔一本勝負をやり、見事大原幸内、岸松太郎、林彦三郎の三人を叩き伏せて、優勝をかちえ、心ある者から代稽古ともあるものが、大人氣ない――と思はれたりしてゐたのです。
「その晩鱈腹たらふく呑んで、亥刻半よつはん(十一時)頃飯田町の家へ歸るところを、神樂坂の路地の中でやられたんで。こいつは因縁事ぢやありませんか。ね、親分」
 ガラツ八の八五郎は説き了つてかうちうを入れました。
「因縁事ぢやそれ程の腕利きを一人殺せないよ。いくら醉つてゐたにしても、脇差で背中からゑぐられるまで知らずにゐる筈は無い」
 平次はもう事件の中へ頭を突つ込んで行きます。
「だから、林彦三郎が一番臭いといふことになるでせう。川波勝彌を芋のやうに刺せるのは、林彦三郎の外にはない。おまけに、その日一本勝負でひどい負けやうをしてゐる」
「それつきりの話なら、わけはないぢやないか。強いと言つたところで、浪人者の一人や二人、縛つて縛られないことはあるまい」
「その通りで、手に余るから親分の力を貸して下さいつてわけぢやありません。借りたいのは親分の智慧の方で」
「お安い御用見たいだが、小出しの智慧は出拂つてるよ」
「ね、親分。その林彦三郎は、川波勝彌よりも呑んで、ベロンベロンに醉拂つて、下男部屋へ轉げ込んで、泊まつてしまつたとしたらどんなもので」
「フ――ム」
「下男の熊吉、――こいつは五十そこ/\だが、生れたまゝの獨り者で、尤も松皮疱瘡まつかははうさうで二た目とは見られない顏だが、道場の誰れ彼れに聽いて見ると、正直者で通つてゐるといふことです。この熊吉が宵から林彦三郎の介抱をして、小用場へまで一緒に行つてやつたと言ふんだから、こいつは嘘ぢやないでせう」
「外には?」
「岸松太郎と大原幸内は宵のうちに歸つて、家から一と足も出ません。五助や柾次は飮み足りなくて神樂坂で一杯やつてゐたさうだし、困つたことに、川波勝彌を殺しさうなのは一人もありませんよ」
「死骸の側に懷ろ鏡があつたといふぢやないか」
「ギヤーマンの懷ろ鏡で、こいつは二朱や一分で買へる代物ぢやありません。赤い羅紗らしやの鏡入にはさんだまゝ、死骸の側に落ちて割れてゐたんですぜ、親分」
「變な聲を出すなよ、蟲が起るぢやないか」
「捨てられて死んだ師匠の娘、お類のわざとでも思はなきやこいつは見當もつきませんよ」
「幽靈が脇差を持つて歩いて、人間を芋刺しにするのかい」
「惡い流行物はやりものだ。行つて見て下さいよ、親分」
「師匠の紫田彈右衞門といふ人は?」
「氣の毒なことに、昨日まで床の上に起上つてゐたが、今朝の騷ぎでとりのぼせたものか、まるつきり正體もありません。大鼾おほいびきをかいて寢てゐる側で二番目娘のお半さんが介抱だ」
「大鼾? そいつはいけない。氣の毒だが當り返したんだ」
「可哀想なのはお半さんだ。良い娘ですよ、親分」
「そんなものがゐるから、八五郎がいきり立つたんだらう」
 平次はニヤニヤ笑ひながら、それでも外出の仕度に取りかゝりました。


 飯田町の川波勝彌の浪宅へ行つて見ると、神樂坂から死骸を持込んだばかりのところで、町内五人組の老人達と、勝彌の友達らしいのが二三人、何彼と世話を燒いてをります。
 家の中の調度も一と通り、裕福らしくはありませんが、そんなに困つてゐる樣子もなく、雇人やとひにんは下男一人、婆やが一人。いづれも近在の者で、給料さへ滿足に貰へば、何んの不平なく勤めると言つた肌合らしく見えるのでした。
「御免よ」
「あ、錢形の親分さん」
 顏を知つてゐるのが多いのは、平次のためには仕合せでした。相手は武家で、町方には苦手ですが、幸ひ文句を言ふ者もなく、心のまゝに調べは運びます。
 川波勝彌は腕前も男つ振りも申し分はなく、少しばかり薄情なところも、若い女には一つの魅力だつたかも知れません。傷は後ろからたつた一と突きにやられたもので、一流の使ひ手の背後に忍び寄つて、これだけのわざをするのは、余つ程膽のすわつた、腕のできるものでせう。
 川波勝彌は、見た人の話によると、右手を一刀の柄にかけ二三寸拔きかけたまゝ、こと切れてゐたさうです。
 一と通り家の中も見せて貰ひましたが、余つ程學問が嫌ひだつたらしく、史書經書は言ふまでもなく、庭訓ていきん往來一册ないのはサバサバしてをります。
「八、近所の衆の噂を聽いて見な」
 平次は顎をしやくります。
「散々ですよ。借りは拵へる、飮み倒しはする、家賃だつて五つも溜つてゐまさア」
 八五郎は酢つぱい顏をして見せました。
「女出入りはないのか」
「男前と腕前に自惚があつたものか、その道には恐ろしく勘定高かつたやうで」
「女出入りに勘定高いつて奴があるものか。お前なんか、勘定低い方だ」
「へツ、違えねえ」
「本人がさう思ひ込んでゐりや世話アねえ」
もつとも柴田の跡取娘を狙つたり、何んとか言ふ大身に聟入むこいりする話があつたんだから、少しは氣をつけたんでせうよ」
「八五郎だつても、狙つた穴がありや」
「解りましたよ、親分」
「もう少し身が持てるだらうよ」
 無駄を言ひながらも、平次の探索はピシピシとつぼにはまつて行きました。
 半刻(一時間)あまり後、何も彼も見盡して、川波勝彌が恐ろしい喰はせ者であつたことまで逐一解りました。
「さア、今度はむづかしいぞ。現場を覗いて、肴町さかなまちの道場へ行くんだ」
「合點」
 平次が號令をかけると、八五郎は忠實な獵犬のやうに飛び出します。錢形流の神速主義でこの事件を一氣に片付けようと言ふのでせう。


 川波勝彌が殺されてゐたのは、神樂坂の裏道で、滅多に人の通らないところ。死骸を見付けたのは夜が明けてからですが、殺されたのは多分眞夜中だらうと言ふことでした。
 往來はき清めて、何んの跡も殘らず、近所で訊いても少しの手掛りもありません。
 平次と八五郎は、いゝ加減に締めて、肴町の道場に向ひました。
「御免下さい」
 平次はお勝手口から腰を低く入つて行きましたが、相手はそれ以上心得て、
「錢形の親分か、さア/\入るがいゝ。お前が來るだらうと思つて、心待ちに待つてゐたよ。土地の御用聞は、幽靈を縛る心算つもりでゐるんだから、手のつけやうはない」
 そんなことを言つて迎へてくれます。二十五六の若い浪人者、これが林彦三郎といふのでせう。身體は大きいが、あまり智慧のありさうな男ではありません。
「飛んだことでございましたな、――旦那は林さんと仰しやるんで」
「さうだよ、川波氏に昨日手ひどく負けた一人だ」
 そんなことを言つて、彦三郎はカラカラと笑ふのです。
「先生は容體が惡いさうぢやございませんか」
「それで困つてゐるんだ。半身不自由と言つても、昨夜まであんなに元氣でゐた人が今日はもう正體もない」
 彦三郎の顏はさすがに曇ります。
「ちよいと、御容體だけでも――」
「あ、いゝとも。疑念の殘らないやうに、よく見て行くがいゝ」
 彦三郎は、先に立つて、サツサと奧へ入つて行きました。奧と言つても、至つて質素な家屋で、大きな道場をのぞくと、人間の住めさうな部屋は幾つもありません。昨夜林彦三郎が醉つ拂つて下男部屋へもぐり込んだと言ふのももつともなことでした。
「お半殿、町方の御用を勤める平次親分が來たが――」
「どうぞ」
 物の氣はひがして、中から靜かに障子を開けたのは、十九か――精々二十歳はたちとも見える、綺麗な娘でした。去年の秋自害して果てたといふ姉のお類は知りませんが、妹のお半の美しさと高貴さは、平次も一寸立ち止つたほどです。
「――」
 平次は自分の職業的な姿や氣持に、妙に淺ましさを感じてそつと一禮して、默つたまゝ部屋の中に滑り込みました。
 主人の紫田彈右衞門は、五十六七の中老人で、まだ老朽おいくちた年ではありませんが、半歳の病氣にむしばまれて、少しむくんだ、鉛色の顏などを見ると、卒中性のいびきを聞かなくても、人などを殺せる容體ではないことは余りにも明かです。
「昨日までは起きてゐなすつたんですね、お孃さん」
 平次は少し尻ごみをしながら訊きました。
「え、昨日まで床の上へ起上つて機嫌よく話してをりました――今朝起きて見るとこの通り」
 お半は涙を呑みます。
「左半身は不自由だと言つても庭ぐらゐへは出られたさうですよ」
 ガラツ八は町内の醫者から聽いた通りを補つてくれました。
「ところで、この道場の跡は、どなたが繼ぐことになつてゐたんでせう」
 平次の問ひは當然の筋道です。
「さア、――私には解りません」
 お半はさう言つて、心細くも林彦三郎をかへりみます。
「亡くなつた川波氏が、これも亡くなつたお類殿と一緒になつて、この道場を繼ぐ筈ではあつたが――」
 林彦三郎にもそれ以上のことは解らなかつたのでせう。
「中條流の免許皆傳といふやうなものは、どなたが讓り受けられるのです」
「――」
 お半と彦三郎は顏を見合せたつきりこれも返事はありません。
 平次は調子を變へて、
「お孃さん、昨夜何にか變つたことに氣がつきませんか、夜中に出た者があるとか、歸つた者があるとか」
「いえ何んにも」
「今日は?」
「皆んな一度づゝは出たやうです」
 これでは何んの手掛りにもなりません。
「死骸の側で割れてゐたといふ懷中鏡ふところかゞみは、平常ふだんどこに置いてあるんで」
「お佛壇の中に入れてあります」
 後ろの方で、ガラツ八がそつと肩をちゞめました。話が怪談がゝると、大の男のくせに恐ろしく敏感です。
「林さんは昨夜大層醉ひなすつたさうですね」
「いやもう滅茶々々、前後不覺に下男部屋に轉げ込んだよ」
「今朝まで、何んにも御存じなかつたのですね」
「面目ないが、その通りだ。本當に水も飮まなかつたよ」
 林彦三郎は苦笑ひするばかりです。
 平次と八五郎はそれつきり引揚げるより外はありません。道場の前を通つて、下男部屋を覗くと、大痕痘おほあばたの熊吉が、庭の掃除をすませ、手焙てあぶりを股火鉢にして、これだけは贅澤らしい煙草をくゆらせてをります。
「熊吉と言つたね」
「へエ――親分さん方、御苦勞樣で」
「川波さんが殺されたことについて、何にか心當りはないかえ」
 平次は我ながら平凡なことを、平凡な調子で訊きました。
「天道樣は見通しでございますよ、親分さん」
 熊吉はみにくい顏をゆがめました。
「それはどう言ふわけだ」
「あの方のために、お孃さん――お類さんは死んでしまひました。若い娘一人を殺して、ろくなことがあるわけはありません」
「昨夜、川波さんの歸つたのを知つてゐるかい」
「よく知つてをります。亥刻半よつはん(十一時)少し廻つた頃で、大層な機嫌でしたよ」
「それから誰も出たものはないのか」
「犬つころ一匹出ません。表戸はこの私が閉めたんですから」
「裏から出る手もあるぜ」
「裏は宵のうちに閉めてしまひましたよ」
「林さんは大層醉つてゐたさうだね」
「へエ――、こゝへ轉げ込んで、到頭泊つてしまひました」
「こゝでまた飮んださうぢやないか」
「飛んでもない、こゝにはろくな茶もありません」
 平次の仕掛けたわなは見事に外れました。


 平次はそれつきり引揚げたのです。
「親分、何んだつてあの野郎を縛らなかつたんで」
「誰だい」
「下手人は林彦三郎とか言ふ浪人者に決つてゐるぢやありませんか。あの熊吉と口を合せて、昨夜どこへも出なかつたことにしてゐるに違ひないぢやありませんか」
 ガラツ八は不平で一パイでした。
「さう判つてゐるなら、戻つて縛るがいゝ。あの林彦三郎といふのは、中條流の使ひ手だ。丸橋忠彌を擧げるほどの手數を覺悟するがいゝ」
「ぢや親分は、怪我が大きくなりさうだから、見す/\怪しい野郎を放つて置くんで」
「馬鹿ツ」
「へエ」
「何んと言ふ口の利きやうだ」
 平次の叱咤は峻烈しゆんれつを極めました。十手捕繩を預つて、錢形のとか何んとかうたはれる平次には、相手の腕つ節を恐れないだけの自尊心はあつたのです。
「相濟みません」
「林彦三郎を縛るには、縛るだけの手順が入用だ。俺はあの男の腕つ節が怖いんぢやない、――死骸の側に落ちてゐたギヤーマンの懷ろ鏡が怖いんだ」
「すると矢つ張り幽靈?」
「佛壇の中にある、懷ろ鏡を、林彦三郎が持つて行く筈はない」
「成程」
 平次が深々と腕をこまぬくと、それを眞似たやうに、八五郎ももつともらしく腕を組むのでした。
「もう一度引返して、熊吉の身許と、奉公人達の樣子、林彦三郎とお半の仲を訊いて來てくれ。熊吉が給金を溜めてゐるかどうか、主人父娘に受けが良いか惡いか。それから林彦三郎とお半がどんな心持でゐるか。お半は辨天樣のやうに美しいが、彦三郎はあまり美い男ぢやない。が、人間は惡くないな」
 平次の獨り言を背に聽いて、ガラツ八は引返しました。叱られた腹癒はらいせに、素晴らしいネタを擧げて來ようと言ふのでせう。
 その晩、
「親分、骨を折らせたぜ」
 ガラツ八がヘトヘトになつて歸つたのは戌刻いつゝ(八時)過ぎでした。
「どうだ解つたか」
 深い思案から呼び覺されたやうな平次。
「道場や武家屋敷は苦手だ。突つ込んだことを訊くとジロジロ人の顏を見ながら腰の物などをひねくりやがる」
 八五郎は足の埃を叩いてにじり上つて、お靜の汲んでくれるぬるい茶にのどをぬらしました。
「どうしたんだ」
「林彦三郎といふ浪人者にちよつかひを出して、いづれお半さんとわけがおありでせう――て言ふと馬鹿を申すなツお孃さんはそんな方ぢやない。重ねてそのやうなことを言ふと許さんぞツ、と來た」
「フーム、余程手嚴しくやられたと見えるな」
「手嚴しいのなんのつて、あつしは拔いたんぢやないかと思ひましたよ」
「お前の話ぢやない。林彦三郎が手ひどく彈かれたといふのさ」
「へエ――」
「それから、熊吉はどうした」
「あの野郎は溜める一方、五十くらゐに見えるが、實は三十七八だらうと言ふ話ですよ。四十前で金を溜める氣になるのも、あの松皮疱瘡まつかはばうさうのせゐでせう」
「八五郎が溜らないのは、男つ振りのいゝせゐかい」
「無駄を言つちやいけませんよ、親分」
「ところで、今朝一番先に外へ出たのは誰だ」
「熊吉ですよ、――それから彦三郎」
「柴田彈右衞門の容體は?」
「惡い一方、町内の本道(内科)も首を捻つたさうで」
「困つたことだな」
「何が困るんで? 親分」
「下手人は容易に擧がるまいよ。まア、時節を待つんだ」
 平次は諦めた樣子で、大きな欠伸をしました。


「た、大變つ」
 その翌る朝。疾風の如く飛び込んで來たのはガラツ八のあわてた姿です。
「どうした八。大概大變が舞ひ込む時分だと思つて、その邊を片付けさしたところだ」
 平次はさして驚く色もありません。
「あれ、驚かないんですかい、親分」
「林彦三郎が自首して出たんだらう。それくらゐのことは見透しさ」
「有難いツ、――錢形の親分にも見込み違ひがあるんだ。それがなかつた日にや、こちとらが助からねえ」
 ガラツ八はピヨイと飛んで、自分の額を叩きます。
「何が違つたんだ」
「彦三郎は自首なんかしませんよ、――今朝神樂坂の裏路地で、今度は下男の熊吉が殺されてゐたんで、――川波勝彌が殺されたのと同じ場所だ」
「刄物は?」
「今度は匕首」
「前からか、後ろからか」
「前から喉笛を一と突きにやられてゐますよ」
「解つた、――それぢや大急ぎで、肴町の道場に見張りを置け。下つ引を何人でも狩り出すんだ」
「合點」
「ちよつと待つてくれ、八」
「へエ――」
「熊吉を殺した匕首は、死骸の側にあつたんだらうな」
「喉に突つ立つたまゝですよ」
「そいつは誰のだ」
「熊吉のですよ」
「自分の匕首で殺されたのか」
「因果な野郎で」
「よし、行け」
「へツ」
 ガラツ八は宙を飛びます。平次はそれから一としきり考へて、悠々と身仕度をして、神樂坂へ行きました。熊吉の死骸は取片付けて、近所の衆は何んにも知らず、平次はそのまゝ肴町の道場へ、手繰られるやうに行くより外に工夫もありません。
「親分」
「何んだ」
 遠くの方から聲をかけたのは八五郎でした。
「矢つ張り親分の勝だ」
「何を言やがる」
「林彦三郎は自首して出ましたよ」
 さう言ふ八五郎の聲には、得意らしさが、あふれてをりました。親分の見込み違ひを喜び了せるにしては、八五郎はあまりに正直過ぎたのです。
「どこにゐるんだ」
「神樂坂の番所ですよ」
「よしツ、來いツ」
 平次は飛んで行きました。續くガラツ八。
 番所には見廻り同心賀田もく左衞門、土地の御用聞、赤城の藤八などが、雁字がんじがらめにした林彦三郎を護つて、與力の出役を待つてゐるのでした。自首して出たと言つても、中條流名譽の遣ひ手、万一のことを心配しての手當でせう。それを心から受け容れた樣子で、林彦三郎默々としてうな垂れてをります。
「お、平次か。よく來てくれたな」
 同心賀田杢左衞門は、自分の腕に自信がないだけに、錢形平次の顏を見るとホツとした樣子です。
「賀田の旦那、――繩は少しきびし過ぎはしませんか」
 いきなり平次の言つたのはこんな言葉でした。
「どうして?」
「自首して出たくらゐの林さんです。繩にも及ばないでせうが、念のためと言ふなら、腰繩くらゐで澤山で」
「だが」
「この平次にお任せ下さいませんか。林さんを縛つただけぢや、この事件はらちがあきません。ね、赤城の親分」
 平次は赤城の藤八にも賛成を求めます。
「勝手にするがいゝ。だが、俺は知らないよ」
 賀田もく左衞門はそつぽを向きました。
 平次はその間に林彦三郎を縛つた繩を解いて、ほこりまで拂つてやり乍ら、そこに腰をおろしました。
「ね、林さん。貴方は熊吉を殺したと仰しやるのですね」
「その通りだ」
「何んだつて匕首あひくちなんかで殺しなすつたんです。不都合があるなら無禮討ちにしたつて構はない相手ぢやありませんか」
「匕首を拔いて向つて來るから、奪ひ取つて突いたのだ」
「返り血はひどかつたでせうね」
「いや、大したことはなかつた」
 二人は暫く默りこくつて了ひました。ほんの幾瞬轉いくしゆんてんの間ですが、激しい搜り合ひが腹と腹とで行はれてゐる樣子です。
「川波勝彌さんを殺したのは、あれは誰でせう」
 平次は第二段の問ひに入りました。
「それもこの林彦三郎だよ」
「理由は?」
「武士として許し難きことがあつた」
「それだけで?」
「それで澤山だ」
「武士として許し難きことがあつたのなら、なぜ名乘つて果し合ひをなさらなかつたのです。醉つぱらつた者を後ろから突いて殺すのも、武士として、許し難いことぢやございませんか」
「――」
 彦三郎はくちびるを噛みました。一言もない姿です。
「脇差はどうなさいました」
「お濠へ投げ込んだよ」
「鏡は」
「――」
「死骸の側に落ちてゐた鏡は、あれはどうしたのでせう」
「俺は知らぬ、――川波勝彌が持出したのだらう」
「それでお白河しらすが通るでせうか」
「――」
 林彦三郎はもう一度唇を噛みます。
「八」
「へエ」
 平次は八五郎をさし招くと、
「道場へ行つて、みんなにさう言ふがいゝ。林彦三郎さんが自首して出ました、御安心なさいますようにつて、――川波勝彌殺しも、熊吉殺しも、林さんに違ひありません。と、かう言ふんだ。奧まで通るやうに、なるべく大きな聲を出すんだよ、いゝか」
「へエ――」
 八五郎は飛んで行きました。さぞ、さかな町中に響き渡るやうに張り上げたことでせう。
 それから一刻(二時間)ばかり、掛り與力、笹野新三郎出役、賀田もく左衞門や、藤八、平次などの報告を聽いて、
「それで相解つた。自首して出た林彦三郎は、一應宿元へ引取らせ、家主に預け置くがよからう」
 笹野新三郎も、平次と同じやうに、林彦三郎を疑ふ心持はなかつたのです。
「恐れ入りますが、旦那」
「何んだ平次」
「林彦三郎は矢つ張り、下手人としてお引立てになつた方がよろしう御座います」
「さうかな」
「あの通り八五郎がぼんやり戻つて參りました。道場へ知らせてやつても、誰も何んとも言はないやうぢや、他に下手人げしゆにんがあるわけはありません」
 笹野新三郎は默つて顏を擧げました。その旨をけて、下つ引が二三人。
「立てツ」
 林彦三郎の三方からバラバラと取卷きます。
「どうだ八、――存分に張り上げて見たか」
 平次はガラツ八を迎へてかう訊きました。
「節分の豆撒まめまきほどに張り上げましたよ。岸松太郎も、大原幸内も、默つて顏を反けたつきりさ。武家なんてものは薄情だね」
「お孃さんのお半さんは」
「何んにも言はねえ、お面のやうな顏をしてゐましたよ。あの娘は綺麗だが、優しいところのねえ女だ。嬉しさうな顏もしなきや、悲しさうな顏もしねエ」
 ガラツ八の註澤山な報告を聽きながら、林彦三郎は淋しく引立てられて行きました。


 それから幾日か經ちました。
「親分、あの一件が、どうも氣になつてならねえ。どうしたんでせうね、一體」
 ガラツ八は變なことを言ひ出します。
「道場の一件か」
「エ、川波勝彌殺しに熊吉殺し、あれは矢つ張り自首した林彦三郎が下手人でせうか」
「解らないよ」
あつしは、あの娘ぢやないかと思ふんだが、――あの娘が、姉の敵打ちの心算つもりで、川波勝彌を殺し、それを知つて強請ゆすりがましいことを言ふんで、熊吉を殺したんぢやありませんか」
「さア」
「林彦三郎は、娘を助けたさに、身に覺えのない罪を背負つて名乘つて出たんぢやありませんか」
 ガラツ八のうたがひは尤もでした。が、平次は、
「あの娘に川波は殺せないよ」
 まるつきり取り合ひません。
「後ろから不意に刺したとしたら?」
「川波勝彌は余つ程使へたさうだ。一流の達人が、醉つぱらつてゐたくらゐのことで、女子供に一刀で仕留められるものではない――それに」
「それに――」
「林彦三郎がお半の身代りに縛られたのなら、お半が默つてゐない筈だ。彦三郎が縛られたと聽いても、お半は驚きも歎きもしなかつたのは變ぢやないか」
「成程ね」
 感心した所で、ガラツ八にも何が何やら見當がつきません。
「林彦三郎は口書くがき拇印ぼいんも濟んで、傳馬町へ送られるといふ話だ、困つたことだな」
 何にかしら、平次にも鬱陶うつたうしい日が續いたのです。
 二月になつて、ある薄寒い日の夕方のことでした。
「お客樣ですよ、お前さん」
 お靜は半分目顏に物を言はせて取次ぎます。
「どんな方だ」
「若い、お武家方のお孃さんで」
「丁寧にお通し申すんだ」
 平次はたうとう來るものが來たやうな氣がしたのです。
「親分、道場の一件でせうね」
「そんなことだらうよ」
 八五郎は急に坐り直しました。狹い着物から、膝小僧がはみ出します。
「親分、飛んだ御迷惑を掛けました」
 そつと滑り込むやうに、疊へ兩手を落したのは、矢張り柴田彈右衞門の二番目娘お半です。
「あ、お孃さん、お父さんは」
くなりました。――今朝ほど」
「矢つ張り、ね」
「あと/\のことは、門弟衆にお頼みして參りました。私を縛つて下さいまし」
「――」
「熊吉を殺したのは私でございます」
「すると?」
「熊吉は、私をさそひ出して無體なことを申します。最初は胸をさすつて歸らうかと思ひましたが、匕首あひくちまで拔いて私をおどかしますので、ツイ得物を奪ひ取つて――」
「刺したといふのですね、お孃さん」
「へイ」
「返り血を浴びた筈だが」
 平次は一歩突つ込みました。
「林樣が始末をして下さいました。どこか土でも堀つて埋めたことでせう」
 お半は神妙に言ひきつて、美しい顏を擧げました。
「川波勝彌を刺したのは?」
 平次はそれも聽きたかつたのです。
「あれは存じません」
「え?」
「私ではございません」
ふとこかゞみは?」
「あれは私のでございます」
「さア解らない。もう少しくはしく話して下さい、お孃さん」
「川波勝彌は惡い人でございました。姉が自害したことが世上の噂に上り、大身への聟入むこいりの許も破談になると、今度は、私へ無體なことを申しました」
「成程」
 お半の美しさを見てゐるとそれは全くありさうなことでした。
「あまりのことに手嚴しく申しますと、父上の手文庫から中條流の傳授書を持出し、この道場を取潰すと申します」
「フーム」
「それはあの晩のことで御座いました。若し、傳授書が返して貰ひたかつたら、一緒に來いと言ふのです」
「――」
「私は兎も角も後を追ひました。言はれた通り神樂坂の裏道へ入ると、道の眞ん中に倒れてゐる者があります。月明りにすかして見ると、川波勝彌の死骸」
「――」
「後ろから脇差で刺されてをりましたが、見ると、脇差は柴田家のもの――父上御祕藏の一口ひとふりではございませんか」
「――」
「私は夢中でそれを屍體から拔き取りました。それから日頃姉上の形見と思つて身に着けて置いた鏡――亡き姉上のうらみの籠つた懷ろ鏡を、敵討ちを果した心算つもりで、死骸の側に割つて置きました。あの世まで姉を追はせたくなかつたので御座います」
「その脇差を下男の熊吉に始末させたばかりに、それを種に今度は熊吉に強請ゆすられたと言ふのですね」
「その通りです、親分」
 お半の顏は玲瓏れいろうとして一點の陰影もありません。
「それで判つた」
「川波勝彌を殺したのは誰とも判りませんが、熊吉殺したのはこの私に違ひ御座いません。このまゝ私を縛つて、林樣を許して上げて下さいまし」
 お半は神妙に、兩手を後ろに廻すのでした。
「もういゝ、お孃さん。――熊吉を刺したのは、不忠な家來を無禮討になすつたのだ。お孃さんの罪ぢやない。川波勝彌が殺されたのは天罰だ。お孃さんにも、林彦三郎さんにも罪はない」
「親分」
「林さんは何んとかして助けて上げませう。お孃さんは道場へ歸つて、何んにも言はずに葬式さうしきの仕度をして下さい」
「親分」
 お半は泣いてをりました。疊に突つ伏した顏はなか/\上りません。
「八、もう日が暮れたらう。お孃さんをさかな町まで送つて上げろ」
「へエ――」
「俺は八丁堀まで行つて、笹野の旦那に申上げて、林さんの繩を解いて上げる」
 三人はお靜に送られて路地を出ました。
「お孃さん」
 平次は往來に立つて牛込の方へ行くお半を呼び留めました。
「――」
「林さんは立派な武士だ。嫌つたりしちや濟みませんよ」
「――」
「あの方は、默つて死罪になる氣でゐた。この恩返しはお孃さんの胸にあることだ。お解りでせうね。お孃さん」
 お半は首をれた樣子です。梅二月、寒い風が吹いて、さうさせたのかも知れません。
        ×      ×      ×
「ね、親分あつしはどうしても解らねえ、川波勝彌を殺したのは誰でせう」
 事件が落着して、お半は林彦三郎を聟に迎へたと聽いた時、八五郎は繪解きをせがみました。
「解らないのかえ」
 と平次。
「へエ――」
「呑氣な御用聞だね」
「お半でなし、林彦三郎でなし」
「もう一人ゐるぢやないか」
「あ、あの中氣病みの――」
「さうだよ、柴田彈右衞門だよ。中氣が當つたと言つても半歳程前のことで、近頃は庭へも出られるやうになつてゐたんだ。川波勝彌のすることが彈右衞門には門弟ながら憎くてたまらなかつた。それが少しの油斷から手文庫の傳授書を奪はれ、その上大事の二番目娘お半までおびき出されさうになつたので、死物狂ひで追ひすがつて、脇差で背後から刺したのさ。流石さすがに中條流名譽の腕前だ、名乘つて正面から向つてはかなはなくとも、後ろからなら門弟の一人くらゐは成敗できる。そのまゝ歸つては來たが、心と身體を使ひ過ぎて二度目の中氣にやられた」
「成程ね」
「その後へお半が行つて脇差の始末をし、姉の怨みを晴らす心算で、形見の懷ろ鏡を死骸の側で割つて來たのさ。若い娘だから、後に證據の殘ることなどは考へない。あの世とやらへ行つて、川波勝彌と姉のお類の縁が切れなきや困るだらうとでも考へたんだらう」
「――」
 ガラツ八も固唾かたづを呑みました。妙に身につまされた心持です。





底本:「錢形平次捕物全集第二十三卷 刑場の花嫁」同光社
   1954(昭和29)年4月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1940(昭和15)年2月号
※「紫田」と「柴田」の混在は、底本通りです。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年6月21日作成
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