錢形平次捕物控

吹矢の紅

野村胡堂





 錢形平次はお上の御用で甲府へ行つて留守、女房のお靜は久し振りに本所の叔母さんを訪ねて、
しいちやんのは鬼の留守に洗濯せんたくぢやなくて、淋しくなつてたまらないから、私のやうなものを思ひ出して來てくれたんだらう」などと、遠慮のないことを言はれながら、半日油を賣つた歸り途、東兩國の盛り場に差しかゝつたのは、かれこれ申刻なゝつ(四時)近い時分でした。
 平次と一緒になる前、一二年こゝの水茶屋で働いてゐたお靜は、兩國へ來ると――往來の人の顏にも兩側の店構へにも、いろ/\と古い記憶が蘇生よみがへります。今の幸福さに比べて、それは決して甘い思ひ出ではなかつたにしても、その記憶の中に織込まれてゐる平次の若いおもかげや、今は行方も知れなくなつた多勢の朋輩ほうばい達のことなどが、涙ぐましく懷しく思ひ出されるのです。
「まア」
 その中にも、輕業かるわざの玉水一座の繪看板がお靜の注意をひきました。花形の太夫は小艶こえんといふ二十四五の女で、かつては水茶屋のお靜と張合つた兩國第一の人氣者。身持の方は評判の良い女ではありませんでしたが、藝と容貌は拔群で、わけてもその綱渡りは名人藝でした。
 もう一人小染といふのが同じ玉水一座にをります。もう二三年會つたこともありませんが、お靜とは年齡のへだたりを越えての仲好しで、藝の修業のつらさを、泣きながら訴へた小娘時代のことが、昨日のことのやうに思ひ出されます。もう十九か二十の立派な女太夫になつてゐることでせう。これは吹矢の名人で、數十歩を隔てて木綿糸に吊つた青錢の穴に射込むといふ凄い藝の持主でした。
「おや?」
 お靜は物におびえたやうに立止りました。
 輕業小屋の中は煮えくり返るやうな騷ぎで、一パイに入つたお客は、興奮しきつた顏をして木戸から外へ追ひ出されてをります。
「可哀想ぢやないか、あんな結構な太夫を殺して、――あやまちでちたのかと思つたら、こめかみへ吹矢が突つ立つてゐたんだつてネ」
「過ちで落ちるやうな太夫ぢやないよ、綱の上で晝寢をしたといふ小艶だ」
 そんな群集の話を聽くと、お靜はハツと立ちすくみました。玉水一座の花形太夫小艶が、綱の上で何にか間違ひをしたのでせう。小艶が渡つた高綱、――舞臺の上六七間もあるところへ張り渡して客の頭の上まで乘出したのから落ちては、怪我くらゐでは濟まなかつたでせう。その上、こめかみの吹矢といふ言葉が妙にお靜の神經を焦立いらだてます。
 樂屋裏の方へそつと廻ると、こゝには表にもおとらぬ人立ちで、
「寄るな/\見世物ぢやねエ」
 四ツ目の銅八の子分衆が、威猛高になつて彌次馬を叱り飛ばしてをります。曾ては平次と張り合つた御用聞――石原の利助が死んで、娘のお品が山の手に引越してからは、子分衆もすつかり四散して了ひ、この邊は四ツ目の銅八が乘出して、錢形平次などには、指も差させまいとしてゐるのでした。
 お靜は人垣の後ろから背伸びをしてゐると、
「退け/\」
 あかい大顏の銅八の叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)につれて、どつと二つに割られた群集の間を何やら女の繩付が送り出された樣子です。
「あれが下手人だとさ」
「綺麗な顏をしてゐる癖に、まあ怖い」
「吹矢はお手のものだもの、口惜しさが高じてツイやつたんだよ」
 勝手な囁きの中を、繩付はお靜の方に近づきました。
「あつ、お染ちやん」
 一と目で、お靜は聲を立ててしまひました。豫期したことであつたにしても、舞臺化粧のまま、肩衣かたぎぬだけ取つて、派手な振袖の上から、キリキリ縛られたのは、お靜には昔友達、小染のお染ちやんだつたのです。
 小染はフト顏を擧げました。鬘下かつらしたのよく似合ふ、眼の大きい顏が、恐怖と焦燥とに顫へながら、群集の中から何やら搜してゐる樣子でしたが、やがてお靜の眼と眼が會ふと、
「あ、お靜さん、――助けて、――お願ひ、――私ぢやない、――私は何んにも知らなかつたんだから」
 救ひを求むる言葉が、笹紅さゝべにを含んだ小染の唇からほとばしりました。
「えツ、默らないか」
 繩尻がピシリと鳴りました。
 その後から跟いて來た銅八の赭い顏は、疾風迅雷的に下手人を擧げた自分の手柄に陶醉しながら群集の中へ搜るやうに瞳を射かけます。繩付の小染が救ひを求めたのは、どこの誰だらうと言つた顏です。
 お靜は幸ひ人混に隱れて、銅八の視線を避けました。が、平次が甲府から歸るのは何時のことやら判らず、お靜の手一つでは、小染を救ふ工夫も付きません。
 哀れ深い繩付きの後ろ姿を見送つて、お靜の重い足は、兩國橋を渡つて、自分の家――平次の留守中近所の耳の遠い婆さんを頼んで留守番をさしてゐる家――へ急ぎました。その途中、向柳原の荒物屋の二階を借りて不精な男世帶を持つてゐるガラツ八の八五郎のことを思ひ出しました。


「八五郎さん、お願ひがあるのですが――」
 店先へガラツ八を呼出して、お靜はかう切り出しました。
「留守見舞にも行かずに、姐御に歩かしちや濟んませんね」
 ガラツ八の八五郎は、晝寢起きらしいんがい顎を撫でて、それでも世間並のことを言ふのです。まが唐棧たうざんの袖口がほころびて、山の入つた帶、少し延びた不精髯――叔母さんが見たら、さぞ悲しがるだらうと思ふ風體でした。
「姐御だけは止して下さいよ。お靜とか何とか、言ひやうがあるのに――」
 幾つになつても、初々しさを失はないお靜は、姐御――と言はれると、ゾツと身を顫はせるたちの女だつたのです。
「ところで用事といふのはどんなことです」
 八五郎は取散らした自分の二階へ案内するよりはと思つた樣子で、狹い店先にしやがみました。
「他でもないけれど――」
 お靜は兩國でツイ今見て來たことを一と通り話して、
「――お染ちやんが可哀想だから何とかしてやつて下さい。あの人は正直で、素直でそりや心掛の良い人だから、人なんか殺せる筈はないし、それに、多勢の中にゐる私を見付けて、一生懸命でさう言ふんだから」
 一生懸命に説き進むお靜を、ガラツ八は少し持て餘し氣味に押へました。
「よくわかりましたよ。何とかしてやりたいが、――石原の親分が達者なうちなら兎も角も、近頃では四ツ目の銅八が羽を伸ばして、錢形の親分を眼の敵にしてゐるから、親分の留守にうつかり本所あたりへ乘込むと、どんなことになるか解らない――」
 ガラツ八は日頃にもない尻込みをするのです。
「そんなことを言はずに、何んとかしてやつて下さいよ、八五郎さん。お染ちやんが可哀想で、私は見てゐられない――」
「弱つたなア」
「いつも八五郎さんが、さう言つて引込み思案のうちの人をさそひ出すぢやありませんか。――どんな證據があるか知らないけれど、あんな氣の良いお染ちやんが、人なんか殺すもんですか。默つて見てゐちや御用聞冥利みやうりが盡きますよ」
「驚いたなア、どうも」
 八五郎は妙なところで敵を討たれて、頬を撫でたり、額を叩いたり、小鬢こびんを掻いたりするばかりです。
 でも、お靜が歸ると直ぐ、八五郎並の武者振りを整へて、フラリと兩國へ出かけました。大きな彌造を二つ拵へて、肩で調子を取つて玉水一座の裏からヌツと入ると、これが四ツ目の銅八の手柄をデングリ返させる氣でやつて來たとは、誰の目にも見えません。
「おや? 八五郎兄哥」
 そこに關を据ゑたのは、銅八の右の腕と言はれた、小梅の定吉でした。三十そこ/\、小意氣な男で、八五郎のノツソリとしたのとは、巧まざる面白い對照です。
小艶こえんが殺されたさうぢやないか。滿更知らない仲ぢやないから、くやみを言ふ心算つもりで來たが、まだゐるかい」
 ガラツ八は顎をしやくりました。
「皆んなゐるよ。ゐないのは下手人の小染だけさ」
「小染が下手人? へエ、――あの好い新造がネ」
「新造だつて年増だつて、人を殺さないとは限るまい。まア入つて線香の一つも上げて行つてくれ。岡惚れが一人でも來てくれると、死んだ小艶も喜ぶだらう」
「ぢや、ざつと拜んで行かうか」
 ガラツ八はさり氣ない調子で入りました。
 客は皆んな追ひ出して、木戸を締めきり、いづれ二日や三日は休んで、小屋をきよめなければならないでせうが、人氣者の綺麗なのを一時に二人失つて、太夫元は言ふに及はず[#「及はず」はママ]、一座の者もすつかりしをれ返つてをります。
 綱から落ちて死んだ小艶の死骸は、舞臺裏の小さい仕度部屋に入れて、さゝやかな弔ひの營みは用意してをりますが、一座の者はすつかり、轉倒して了つて、殆んど寄り付く者もありません。
 仕度部屋は案外明るく、外は暮れかけてをりますが、あかりなしに、何うやら見當だけは付きます。
 線香にも及ばず、片手拜みに小道具物の屏風を押し退けると、薄い蒲團の上に、無殘、自分の樂屋着を掛けたまゝ美しい小艶は横たはつてをります。
「六間以上の高さから、眞つ逆樣に舞臺に落ちたんだ。ひとたまりもないよ」
 定吉は後ろから覗きました。
「猿が木から落ちたやうなものだ」
「猿は木から落ちるかも知れないが、名人と言はれた小艶が綱から落ちる筈はないよ。こめかみへ吹矢でも射込まれなきや――」
 定吉の指さしたのを見ると、小艶の右のこめかみに深々と吹矢の突つ立つた跡があつて、襟まで流れた血が、玉蟲たまむし色に固まりかけてをります。
「吹矢は?」
「繩付と一緒に番所へ持つて行つたよ。油で痛めた古竹のしんへ、美濃紙の羽根を卷いた凄いやつさ」
「どこから吹き付けたんだ」
「舞臺裏さ、來て見るがいゝ」
 ガラツ八は定吉とつれ立つて、直ぐ傍の舞臺へ行つて見ました。假り小屋の到つて粗末なものですが、骨組だけは嚴重で、舞臺の上から客席の天井を通つて、向う棧敷さじきまで張つた綱の高さは、全く六間以上もあるでせう。
「客の頭の上に落ちなかつたのが、まだしも仕合せさ」
 定吉は頭の上を走る綱を見上げました。


 小艶が落ちたあたり、舞臺の上には血がこぼれて、いろ/\の大道具、小道具が取散らしてあります。
 天井からは幾つかの鞦韆ブランコがブラ下り、衝立、小机、竹馬、大小の箱、むち、それに何に使ふか見當も付かないものが舞臺一パイに竝べてあり、その蔭――丁度小艶の死體の入れてある小部屋の前に問題の吹矢筒が投げ出されてあつたといふことです。
「この一座には、どんな人間がゐるんだ」
 ガラツ八は心安立てに、定吉に訊くのでした。
「殺された小艶こえんと、口上言ひの一寸法師の玉六と、道化の玉吉は舞臺にゐたさうだ。竹乘りの玉之助は、太夫元の權次郎と少し離れた裏口で立話をしてゐると、丁度騷ぎが起つたと言ふよ、――權次郎は毎日二度晝少し過ぎて、夜の興行がねる頃樣子を見に來るんだ」
「それから」
「下座は一人休んで、半助とお百といふ夫婦が忙がしく働いてゐる。綱渡りが始まると、女房の三味線に亭主のかねで傍見もできない」
 ガラツ八を甘く見て、定吉は何んの隱すところもなく話してくれるのです。
「それつきりか」
「あとは木戸番だが、こいつは勘定に入れるまでもあるまいよ。客の中を泳いで、樂屋まで人殺しに來られるわけはないから」
「成程な」
「ところで、たつた一人でゐたのは、あの小部屋で休んでゐたといふ小染だ。そのくせ騷ぎのあつた時、道具裏の暗いところで、ウロウロしてゐたんだから變ぢやないか、本人は小部屋から出たところを誰かに頭から蒲團を冠せられて、しばらくは聲も立てられなかつたといふが、その蒲團が押入の中にチヤンと納まつてゐるからをかしからう」
「フーム」
「それから吹矢だ。――六間も上の綱を渡つて居る人間に道具裏から吹矢を飛ばして、こめかみへ一寸も射込むのは、小染の外にない、どうだ」
 さう言はれるとまさに一言もありません。
「一應係り合ひの者に會つて見たいが――」
 ガラツ八は諦め兼ねました。
「錢形の親分が後から來るのかい」
「いや、親分は甲府へ行つて、何時歸るか解らない。親分がゐちや、こんな出過ぎたことはさせないから、ちよいと後學のため四ツ目の親分の調べやうを見て置くのさ」
 ガラツ八は一世一代の智慧をしぼる氣――とはさすがに言ひません。
「いゝとも、錢形の親分が夫婦連れで來たつて、他に下手人は擧がるわけはない。さア、かう來るがいゝ」
 定吉に伴れられて、形ばかりの大部屋へ行くと、そこは百鬼夜行の有樣でした。白粉おしろいを塗つたの塗らないの、派手な舞臺衣裳を着たの、小汚い不斷着のまゝの、いろ/\の男女が六七人、吹溜りのやうに部屋の隅の、火のない火鉢を圍んで、脈絡みやくらくも系統もないことを、ポソポソ話してゐるのです。
「お前は?」
 ガラツ八はその中でも一番たくましさうな三十前後の男を捉へました。
「玉之助でございます」
 竹乘りの名人で、小艶、小染と共にこの小屋にはなくて叶はぬ人氣者です。柄は大きくありませんがキリリと締つた鐵のやうな四肢と、よく發達した胸を持つ男で、成程これなら、一本の竹の上で千變万化の輕業を見せてくれるでせう。
「小艶は誰かに怨まれてゐたんだらう」
 ガラツ八は先づこんな定石を布きました。
「皆んな怨んでゐましたよ。何しろ、藝がうまくて、女がよくて、こゝで一番古い人ですから、齒の立つ人間なんかありやしません」
 玉之助は酢つぱさうな頭をしました。張つた顎、切れの長い眼、何んとなく精悍せいかんな感じのする男です。
 小艶の増長と我儘は、ガラツ八も散々聽かされてをりますが、女が美しくて藝がよかつただけに、太夫元も見て見ぬ振りをし、一座にも、正面はたてをつく者はなかつたのでせう。
「小艶と仲のよかつたのは?」
「女同士で、矢張り小染ちやんが馬が合ふやうでしたよ。もつとも人氣者同士で、藝も張り合つてゐたから腹の中ぢやどう思つてゐたか解りませんが」
 何にかしら、とげのあるものの言ひやうです。
「この一座で、小染の外に吹矢のいけるのはないのか」
「皆んな眞似事で少しはやりますが、六間も上にゐる人間のこめかみを射る名人はありません」
 さう言はれると、小染以外の者を疑ふだけが馬鹿のやうです。
「お前はその時どこにゐたんだ」
「裏口で親方(權次郎)と給金の掛合ひ最中でした。少し不義理な借りをこしらへてしまつて、前借でもしなきや首を取られさうで。へい/\、尤も、道具裏なんかにウロウロしてゐると、あつしが一番先に縛られたかもわかりません。小艶に小當りに當つて、小つぴどくはね飛ばされた口ですから――あの女は玉の輿に乘る氣でしたよ」
 竹乘りの玉之助はそんなことまでツケツケ言ふのです。
 道化役の玉吉は、二十七八の若い男。有平糖あるへいたうのやうなかみしもを着て、鼻の下に白粉を塗つたまゝ、手拭を首つ玉に卷いた姿で、ガラツ八の前へヒヨイとお辭儀をしました。恰好も仕業も舞臺そのまゝの可笑味で、ガラツ八は危ふく吹き出しさうになります。
「お前は舞臺にゐたんだね」
 と八五郎、
「へエ、玉六さんに口上を言はせて、衝立にからんで所作をしてをりました。――するといきなり頭の上から小艶さんが落ちて來たぢやありませんか。いや驚いたの驚かないの」
「それから」
「飛び付いて介抱しましたが、こめかみを吹矢で射られた上、六間も高い所から落ちたんですから助かりつこはありません」
 こんなことで一向要領を得ません。
 口上言ひの玉六は、一寸法師といふほどではありませんが、ひどく小柄な男で福助かつらを冠つて、これもかみしもを着けてをりました。
「私はこんな生れ損ひですから、小艶さんには隨分からかはれました。でも、小艶さんが死んで了つちや、この興行も立ち行かなくなるでせうから、今ぢや途方に暮れてゐますよ」
 尤も至極なことを言ひます。これは柄は小さくとも、四十の坂を越してゐるかもわかりません。口上言ひの外物眞似が上手で、役者の聲色こわいろや、人の口眞似などは堂に入つた藝でした。
「お前も舞臺にゐたんだね」
「へエー、道化の玉吉さんが衝立へ這ひ上がる眞似なんかして、お客樣を笑はせたり、衝立の蔭へ首を突つ込んで唄を歌つてゐる間、私は傍で時々口上を言つてをりました。そこへドシーンと來たんです」
「小艶も小染も獨り者だね」
「へエー」
「男はなかつたのか」
「小艶さんは見識けんしきが高くて、小屋の者なんか相手にもしませんし、小染さんは堅い一方の人でしたから」
 こんなことではなんにもなりません。
 囃子方はやしかたの半助お百夫婦にもいろ/\訊ねて見ましたが、これは貧乏疲れのした中年者で、何んにも知らず、
「綱渡りが始まると囃子の方は二人で手一杯ですよ」
 さう言ふだけのことです。
 最後にガラツ八は、太夫元の權次郎に當つて見ましたが、これは竹乘りの玉之助の不在證明を裏書するだけのことで、
「困つてしまひましたよ、小艶は一座中から憎まれてゐましたが、それだけ藝達者でした。小艶に死なれた上、近頃人氣の出て來た小染が縛られりや、當分小屋を休むより外はありません。何とか親分のお力で、小染だけでも助けて下さい。恩にますが」
 そんなことを言ふのです。少しくらゐは金を出しても、小染の繩を解かせろといふ謎でせう。ガラツ八は素知らぬ顏をして、木戸番や、彌次馬や、近所の衆の噂をかき集めました。
 それを綜合そうがふすると、小艶の増長は全く惡魔的で、一寸法師の玉六などは、惡戯つ子のやうにたれることさへあり、――玉之助は一度「女房になつてくれ」と言つたばかりに、人樣の前で、滅茶々々に耻をかゝされ、道化の玉吉は舞臺で自分の引立てやうが惡いから、追ひ出すやうにと太夫元へねぢ込んでゐるといふ噂さへもありました。
 それにくらべると、小染には惡い評判はなく、人氣は近頃メキメキと小艶をしのいでをりますが、唯正直一途で、道化の玉吉に耻をかゝせたり、竹乘りの玉之助の不正を見て見ぬ振りができなかつたり、變なところで怨みを買つてゐたことも事實です。
 騷ぎのあつた時、――小艶こえんは綱の上へ眞つ直ぐに立つてゐたこと、道化の玉吉は衝立の蔭に首を突つ込んで、良い聲で唄を歌つてゐたこと――、玉六はそれに調子を合せながら、尤もらしい調子で口上を言つてゐたこと、百人が百人の口はこと/″\く合ひます。
 すると小艶へ吹矢を飛ばせるのは、矢張り小染の外にはないことになります。
 ガラツ八はがつかりして了ひました。


「誰だい、その野郎は?」
 八五郎が小屋の者を調べてゐる最中、ノソリと入つて來たのは、四ツ目の銅八でした。四方は薄暗くなつたと言つても、八五郎の顏と調子が判らない程ではなかつたでせうが、自分の仕事に足を踏込まれると、かう言はずには居られない戰鬪意識の旺盛わうせいな銅八であつたのです。
 本所の四ツ目に住んで、四ツ目の銅八と言はれるに不思議はありませんが、自分だけは、他人の二倍物を見えるから、四ツ目の銅八と言はれてゐる心算つもりだつたでせう。錢形平次の、江戸に鳴り響く噂が、しやくで/\たまらないと言つた人柄でした。
「錢形の親分ところの、八五郎兄哥ですよ」
 小梅の定吉はとりなし顏で言ひました。
「何? ガラツ八兄哥か、そいつは氣の毒だ。三輪の萬七兄哥とは違ふから、俺の仕事のあとをせゝつたところで手柄になるめえ」
「そんなわけぢやありませんよ、四ツ目の親分」
 八五郎はあわてて辯解しました。
「當りめえだ、そんなわけでたまるものか。お互にお上から十手捕繩を預かる身體だ。鼻の明かし合ひや、手柄の奪ひ合ひをされてたまるものか」
「――」
 銅八の調子は次第に猛烈になるばかりです。
「そんなしみつたれな三下野郎を相手ぢや役不足だ。手柄爭ひをする心算つもりなら、平次に出て來いつて言へ。はゞかりながら四ツ目の銅八だ、見込んだ下手人に間違ひがあるもんか。萬一小染が下手人でなかつたら、あんまり綺麗な細工ぢやねエが、たつた一つしかねエこの雁首がんくびをやると言ふがいい。糞面白くもねエ」
「錢形の親分は甲府へ行つて留守ですよ、だからあつしが――」
「だからあつしてエ面かい。出直しやがれ、間拔けめ」
「――」
 ガラツ八は指をくはへてだまつて引下がる外はありません。四ツ目の銅八と自分とでは、あまりにも貫祿が違ひます。
 その晩、平次の留守宅へ行つて、お靜に一部始終を話したガラツ八は、あまりの口惜しさに、ボロボロと涙をこぼしてをりました。
「いくら四ツ目の親分だつて、人を襤褸ぼろつ糞に言やがる。あんまり癪にさはるから、何とかしようと思つたが、小梅の定吉が目顏で留めるから、胸をさすつて引揚げて來ましたよ」
「まア、氣の毒な」
 人の好いガラツ八がボロボロと泣くのを見ると、お靜はどうしていゝか解らなかつたのです。
「この仕返しには小染が下手人でないと解けばいゝんだが――」
「で、どうなつたの八五郎さん」
「困つたことに、誰が見たつて、小染の外に下手人はありませんよ。六間以上ある綱の上――大搖れに搖れる小艶のこめかみに、下から吹矢を射るやうな名人は、江戸中に二人とあるわけはない――」
 ガラツ八は高々と腕をこまぬくのです。
 それから三日、必死の探索も何んの役にも立たず、小染は口書き拇印を取られて、いよ/\送られるばかりになりました。
 平次はまだ歸つて來ません。
「面白いことを聽き込みましたよ」
 ガラツ八が踊るやうに飛び込んで來たのは四日目でした。
「どうしたの、八五郎さん」
「こんなことを聽いたんです。小染といふ女は吹矢の名人だが、矢を吹くとき一つ變な癖があつた。それは、矢の羽根――美濃紙みのがみを卷いて、末廣の袋なりにとがつた方を、口で一寸喰ひ千切る癖があつたでせう」
「え、え、お染ちやんにはそんな癖がありましたよ」
「さうすると袋羽が平になつて、よく飛ぶらしいと言ふんで、――ところが、小染は濃い口紅を附けてゐたから、喰ひ千切つた時、美濃紙の羽根へチヨツピリ紅が附く」
「え、それがお染ちやんの愛嬌だつたんです」
 お靜もよくそんなことを知つてゐました。
「ところが、小艶のこめかみに突つ立つた吹矢の羽根は、無疵むきずの美濃紙で、喰ひ切つた跡もなく紅も附いちやゐません、――役所で見せて貰つたんだから、こいつは間違ひありません」
「まア」
 お靜の顏も活々いき/\と輝きました。
「あの吹矢は小染が飛ばしたんぢやないと言つて見たが、――駄目でしたよ。小染だつて人一人殺す時だから、あわててもゐるだらう。羽根を喰ひ切らなくたつて、そんな事は證據になるものか――と銅八親分は以ての外の劍幕だ」
「まア」
 お靜は慰めやうもありません。


 錢形平次が旅から歸つて來たのは、それから、三日經つてからでした。
 お靜とガラツ八が、交る/″\報告する輕業小屋の不思議な殺しの顛末、平次は默つて聽いてをりましたが、
「馬鹿野郎、何といふヘマばかりするんだ」
 少し苦々しく舌打をします。
「親分、何うしたものでせう。このまゝ引込んぢや、私は構はないが、親分の顏にもかゝはります」
 八五郎は膝つ小僧を揃へて、ピヨイとお辭儀をしました。この上もなくしをらしい恰好です。
「ね、なんとかして上げて下さい。私が八五郎さんに頼んだから始まつたことですから」
 お靜も少し泣き出しさうでした。
「八の仕出かしたことを、俺が始末してやつちや、銅八兄哥に濟まねえ。こいつは矢張り八がもうひと働きした方がよからう」
 平次はそんなことを考へてゐるのでした。
「親分、あつしでできることなら、今まで胸をさすつて待つちやゐません。三日も前に本當の下手人を擧げて、銅八の汚いガン首を貰ひに行つたんだが」
「馬鹿だなア」
「どうにもあつしぢや見當が付きません。小染が下手人でないといふことは解つてゐるんだが」
「どうして小染が下手人でないと解つたんだ」
「小染が下手人なら、吹矢なんかは使ひはしません。それに、羽根に紅が――」
「よし/\、そこまで判つてゐれば、あとはほんのちよいとだつたんだ。これから直ぐ小屋へ行つて小艶こえんこめかみに突つ立つた吹矢は、眞つ直ぐだつたか、下向きになつてゐたか、それをなるべく多勢の人から聽いて來てくれ」
「へエー」
「それから、あの舞臺には後見人がゐるかゐないか、――黒衣くろごを着る人間がゐるかゐないかそれを聽くんだ」
「へエー」
「もう一つ、舞臺か舞臺裏から天井の綱へ登る梯子はしごが幾つあるか、それを見極めて來るんだ。見物から見られずに、天井へ登る道があるだらうと思ふが」
「それは判ります。舞臺の上手に繩梯子があつて、太夫はそれを手繰たぐつて六間も上の綱へ登るんです」
「客から見えるのか」
「小艶が派手な樣子をして登るところも一つの見物で――」
「フーム、そいつは困つたな。まア、もう一度念入りに調べて見るんだな。道具裏に何か手掛りか足掛りがあるだらう」
「それぢや親分」
「念入りに調べるんだぜ。俺はその間にひと風呂入つて、ひと寢入りしてゐる」
 平次の智慧を借りると、ガラツ八は魂を吹き込まれたやうに飛出しました。
「大丈夫でせうか」
 お靜は旅疲れを慰める氣の手料理をしながら、心配さうな顏をお勝手から出しました。
「俺にはからくりが解るやうな氣がする。八五郎が二三度歩くうちに何とかなるだらうよ」
 平次は手拭を下げて、ブラリと風呂へ出かけました。
 その晩意氣込んで歸つたガラツ八は、
「まア一杯附き合ひながら話すがいゝ」
 平次の差した盃を下に置いたまゝ、辯じます。
「親分、吹矢は小艶のこめかみへ眞直ぐに立つてゐたさうですよ。六間も上の綱の上にゐる人間のこめかみへ、下から吹きつけた吹矢が、眞つ直ぐに立つ筈はないでせう」
「その通りさ、俺はそれを知りたかつたんだよ。それから黒衣くろごは」
「黒衣は衣裳いしやう戸棚にありますが、黒衣を着る後見人は二年もないさうです。藝人が皆んな馴れて、黒衣が要らなくなつたんださうで、これは權次郎の自慢でしたよ」
「その黒衣を見たのか」
「いゝえ」
「それだから無駄な骨を折るんだ。明日でいゝから、もう一度行つて見て來るがいゝ。二年も着たことのない黒衣なら、さぞほこりがひどからう、疊み目をよく見るんだ。――それから梯子は?」
「矢張り舞臺の隅に、見物から見えるのが一つあるだけですよ」
「そんな筈はない」
「尤も道具裏にも繩は幾本も下がつてゐますが」
「その繩を手繰つて上へ登れる筈だ。これも明日よく見て來るがいゝ。一座の者は皆んな身體がきくんだぜ。繩が一本ありや、五間や六間は苦もなく登る」
「成程ね」
「まア、そんなことでよからう。明日もう一度行つて、衣裳戸棚をさがすがいゝ。黒衣があつたら念入りに見るんだぜ。それから道化の衣裳――有平樣あるへいたうのやうなかみしもがもう一と揃ひある筈だ。それも見て來るがいゝ」
「へエー」
 ガラツ八にも、何にか次第に事件の眞相が判るやうな氣がしたのです。


 翌る日、ガラツ八の報告は、平次の考へたことと、ピタリピタリと合つて行きました。
 第一番に、二年も使はないといふ黒衣が、埃を冠つてをりますが、疊み目も崩れて衣裳棚へはふり込んであり、道具裏には天井から下がつた太繩が三筋も四筋もある上、壁や羽目に足掛りがあつて、輕業師ならずとも、繩を手繰つて容易に登れさうだと言ふのです。
 道化の赤縞あかじまかみしもは、平次が考へたやうに、同じものが二た組ありました。しかもその一と組は衣裳戸棚の底へ、團子にしてねぢ込んで、容易に見付からないやうにしてあつたのでした。
「それでいゝ、――染ちやんは助かつたよ、お靜」
 平次は勝手へ聲を掛けました。
「まア」
 お靜は前掛でれた手を拭き/\、ベタリと敷居際に坐り込んでしまひます。
「八、今度はむづかしいぞ。玉之助や玉吉では手に了へまい。お前の工夫で、一寸法師の玉六をおびき出すんだ。あの男は思ひの外しつかり者らしいから、容易に口を割るまいが、うんとおどかしたら、何とか眼鼻がつくだらう。――俺は小染に會つて、いろ/\聽きたいことがある」
 平次とガラツ八は手分けをして出かけました。が、約束の夕刻、平次は小染の口からいろ/\のことを訊き出して歸つたのに、ガラツ八は氣拔けのしたやうに引揚げて來たのです。
「親分、玉六は昨夜からゐませんよ。どこかへらかつたんぢやありませんか」
「いや、そんな筈はない。玉六は下手人ぢやない、――それにあの身體ぢや高飛びしたつて、三日經たないうちに捕まる」
「變ですね」
「こいつは、飛んだことになつたかも知れないよ、八」
「へエー」
 平次の豫感は當りました。その翌る朝、一寸法師の玉六のでき死體は、百本ぐひから揚つたのです。
「やつたな」
「親分」
「かうなればはうつては置けない。來い、八」
「どこへ行くんで」
「小艶と玉六を殺した下手人を擧げるんだ。銅八兄哥への氣兼ねなんかしちやゐられない」
 二人は兩國へ飛びました。
「御用ツ」
 飛び込んで平次が組み伏せたのは、竹乘りの玉之助でした。
「何をツ」
 非凡の怪力でハネ返して、逃げ出さうとするのを、
「野郎ツ」
 と八五郎が羽掻締はがひじめに喰ひ止めたのです。
「八、任せたぞ」
 さう言つて平次は、奧へ飛込んで、逃げ道を搜してゐる道化の玉吉をとらへたのです。
「神妙にせい」
「親分、小艶こえんを殺したのは、玉之助ですか、それとも玉吉ですか」
 二人の惡者を送つた歸り、ガラツ八は例によつて繪解きをせがみます。
「道化の玉吉だよ」
「衝立の蔭へ首を突つ込んで唄を歌つたのは?」
「玉吉と玉六さ」
「へエ――」
 ガラツ八にはまだ解りません。
「三人で相談してやつたのさ。竹乘りの玉之助は小染に蒲團を冠せてグルグル帶で縛つたまゝ、道具裏に突つ轉がし、時分をはかつて裏口で權次郎と話をしてゐたんだらう。――道化の玉吉は衝立の後へ首だけ入れると見せて、大急ぎで黒衣を着て、道具裏の繩を傳はつて天井に登り、近いところから吹矢で小艶を射たのさ」
「歌つたのは?」
「一寸法師の玉六だよ、あの一寸法師は物眞似聲色こわいろの名人だ。衝立の蔭にもう一つの道化のかみしもをチラ付かせて、玉吉の聲色で歌つてゐたんだ。見物の衆は天井の綱渡りに氣を取られてゐるからそんなことには氣が付かないのさ。小艶が綱から落ちた頃、小染はやうやく蒲團から拔け出して舞臺へ飛出したんだらう。玉之助は後から行つて蒲團を丁寧に疊んで置いたんだらう」
「へエ――すると、玉六は?」
「お前がおびき出して口を割りさうだと見たから、多分力の強い玉之助が誘ひ出して大川へ沈めたんだらう。お白洲しらすで皆んなわかることさ。ところで、下手人は小染でないからなんて、銅八親分のところへ首なんか貰ひに行つちやならねエよ」
「へエ、あつしは貰ひに行く心算つもりでしたが」
「そんな心掛だから何時まで經つても腕が上がらないんだ。銅八親分はもう散々耻を掻いてゐる。この上嫌がらせをしちやならない。人の心持を察してやるやうになれば、人の心を見拔くことも覺えるのさ」
「へエ――」
 ガラツ八は正に一言もありません。
「それより、小染が歸つたら、お靜が逢ひたがつてゐるから、お前が行つてつれて來てくれ。あの娘は心掛がいゝから、堅氣にしてよめにやりたいつて、お靜は一生懸命だよ。どうだ八」
 平次はガラツ八をかへりみて面白さうに笑ふのです。この男、一體何時になつたら嫁を貰ふ氣になるでせう。





底本:「錢形平次捕物全集第二十四卷 吹矢の紅」同光社
   1954(昭和29)年4月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1941(昭和16)年2月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年6月10日作成
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