錢形平次捕物控

女の足跡

野村胡堂





「親分、近頃は胸のすくやうな捕物はありませんね」
 ガラツ八の八五郎は先刻さつきから鼻を掘つたり欠伸あくびをしたり、煙草を吸つたり全く自分の身體を持て餘した姿でした。
「捕物なんかない方がいゝよ。近頃俺は十手捕繩を返上して、手内職でも始めようかと思つてゐるんだ」
 平次は妙に懷疑的でした。江戸一番の捕物の名人と言はれてゐる癖に、時々『人を縛らなければならぬ渡世』に愛想の盡きるほど、弱氣で厭世的になる平次だつたのです。
「大層氣が弱いんですね。あつしはまた、親分の手から投錢なげせんが五六十も飛ぶやうな、胸のすく捕物がないと、かう世の中がつまらなくなるんで――」
「お前は娑婆しやばつ氣があるからだよ。俺は御用聞といふ稼業が、時々嫌で/\たまらなくなるんだ」
「そんなことを言つたつて、御用聞がなかつた日にや、世の中は惡い奴がのさ張つて始末が惡くはなりやしませんか。醫者がなきや病氣がはびこるやうに――」
「醫者と御用聞と一緒にする奴があるかい。醫者は病氣をなほせばいゝが、御用聞は惡い者ばかり縛るとは限らない」
 平次の懷疑は果てしもありません。
「江戸中に惡者がなくなつた時、十手捕繩を返上しようぢやありませんか。それまでは手一杯に働くんですね、親分」
「石川五右衞門の歌ぢやないが、盜人と惡者の種は盡きないよ、――もつとも世の中に病人が一人もなくなつて、醫者の暮しが立たなくなりや別だが」
 平次は淋しく笑ふのです。
「それまでせつせと縛ることにしませうよ。そのうちに、錢形平次御宿と書いて門口へれば、泥棒強請ゆすりが避けて通る――てなことになりますぜ」
鎭西ちんぜいらう爲朝ためともぢやあるめえし」
 無駄な話は際限もありません。丁度その時でした。
「八五郎さん、叔母さんよ」
 平次の女房お靜が、濡れた手を拭き/\、お勝手から顏を出しました。
「へエー、叔母さんがこゝへ來るなんか、變な風の吹き廻しだね。意見でもしさうな顏ですか」
「そんなことわかりませんよ。――お連れがあるやうで」
 とお靜。
「それで安心した。まさか小言こごとをいふのに、助太刀までつれて來る筈はない」
「古い借金取かも知れないぜ、八。思ひ出して御覽、叔母さんへ尻を持つて行きさうなのはなかつたかい」
 平次は少し面白くなつた樣子です。
おどかしちやいけませんよ親分。古傷だらけで、さうでなくてさへビクビクものなんだから」
「ハツハツハツ、八にも叔母さんといふ苦手があるんだから面白い――此方へ通すがいゝ。お連れも一緒なら、お勝手からぢや氣の毒だ、ズツと大玄關へ廻つて貰ふんだ。八は敷臺へお出迎へさ、何? もうお勝手から入つた? それぢや勘辨して貰つて、――」
 平次はさすがにゐずまひを直して襟をかき合せました。生温かい小春日和びより、午後の陽は縁側に這つて、時々生き殘つたあぶだまのやうに飛んで來る陽氣でした。
 ガラツ八の叔母の伴れて來た客といふのは、下谷車坂の呉服屋四方屋よもや次郎右衞門のところに二十年も奉公してゐるお谷といふ六十近い婆やさんで、余つ程の大事があつたらしく、すつかり顛倒てんたうして了つて、物を言ふのさへしどろもどろです。
「親分さん、大變なことになりました。お孃さんのお秀さんが、三輪みのわの萬七親分に縛られさうなんです。あのお孃さんが、そんな人殺しなんかするかしないか、考へても解るぢやありませんか。ね、親分さん、お願ひですから、どうかお孃さんを助けて下さい」
 お谷婆さんは、何べんも何べんもお辭儀をし乍ら、後も前もなくこんなことを言ふのです。
「さア解らない、――一體誰が殺されて、どこのお孃さんが縛られたんだ。少し落着いて、順序を立てて話してくれないか」
 平次は苦笑ひし乍ら、婆さんの話の中から筋を引出しました。


 お谷婆さんの話はかうなのでした。
 今朝起きて見ると、四方屋次郎右衞門の亡くなつた後添の連れつで二十二になるお皆といふのが、自分の部屋で、匕首あひくちで喉笛を突かれて死んでゐたといふのです。
 お皆の部屋は中庭に面した四疊半で、店からもお勝手からも自由に出入りの出來る場所ですが、夜中にそれほどのことがあつたことには誰も氣が付かず、今朝雨戸が開いてゐるので、始めて大騷ぎになつた有樣で、お皆の部屋の隣に寢てゐる先妻の娘のお秀が、日頃仲がよくなかつたばかりに、第一番に下手人げしゆにんと睨まれて、直ぐにも縛られさうになつてゐるのを、萬七と子分とのひそひそ話で知つた婆やのお谷は、お孃樣の大事とばかり夢中になつて八五郎の叔母のところへ駈け付けたのでした。
「親分さん、何んとかして上げて下さい。お谷さんは私のをさ馴染なじみですが、四方屋の先の内儀おかみさんが嫁に行く時お里からついて行つた人で、四方屋にだけでも二十年も奉公してゐる忠義者です。手鹽にかけて育てたお孃さんのお秀さんが縛られさうになつちや、ヂツとして見てゐられなかつたでせう。――八、お前からもよくお願ひしておくれ」
 八五郎の叔母までが一生懸命口を添へるのです。
「三輪の萬七兄哥あにいと張り合ふのはイヤだが、八の叔母さんにまで頼まれちや嫌だと言へめえ。行つて見ようか、八」
 珍しくも平次は氣輕に腰を上げました。
「有難てえ。それであつしの顏が立つといふものだ」
 と八五郎。
「大層な事を言ふな」
 二人は仕度もそこ/\に、お谷婆さんに案内させて車坂に行くことになつたのは、もう未刻やつ(二時)過ぎでした。
「もう少しくはしく聽いちやどうです、親分」
 道々八五郎は、お谷婆さんの後ろ姿を指さし、平次に囁きました。
「無駄だよ、それよりは現場を見ることだ」
 平次はお谷婆さんの説明で先入心を植付けられるよりは、自分の眼で最初から事件を直視する心算でせう。
 車坂の四方屋は東叡山とうえいざん數十ヶ寺の御用を承つて、袈裟けさ法衣は扱ひませんが、かなり大きな呉服屋でした。主人の次郎右衞門は六十前後、これは持病があつて、あまり店の方には出ず、五十年配の番頭平兵衞が采配さいはいを執り、手代喜三郎以下多勢の丁稚でつち小僧を指圖して益々身代を太らせるばかり。お勝手向きの方は殺されたお皆の意志が大きく働いて、誰も正面からはそれにたてつく者もなかつた――といふ程度のことは、道々お谷の問はず語りから綜合そうがふされるのでした。
「御免よ」
 わざとお谷と別れて、お勝手口からズイと入つた平次と八五郎、
「お、錢形の親分、八兄哥もか」
 三輪の萬七の子分、お神樂かぐらの清吉の苦り切つた顏とハタと逢つてしまつたのです。
「ちよいと仔細しさいがあつて繩張り違ひを承知で覗いたんだ。下手人は擧つたかい、お神樂の」
 八五郎は平次を掻き退けるやうに顏を出します。かう宣戰布告をして置かないと、親分の平次が事勿ことなかれ主義で尻込みをするかもわからないと思つたのでせう。
「下手人だらけだよ。錢形の親分だつて、こいつは驚くぜ」
 お神樂の清吉は道を除けました。少し持て餘し氣味の樣子です。
「驚かして貰はうか、――親分、入つて見ませうか」
 八五郎はすつかり鬪爭心をあふられて、平次の先に立つて家の中へ入りました。
 お勝手にもじ/\してゐるのは、下女のおこひだけ。暗い廊下を通つて、閉めた店の中に、手代や小僧達が、不安さうに囁き合つてゐるのを横手に見て、突き當つた最初の部屋が、お皆の殺された問題の場所です。
「錢形の、到頭ぎ出したのかい」
 三輪の萬七は苦々しい乍らも、少しはホツとした樣子でした。事件がむつかしくなつて、自分の手ではどうにも裁きやうがないと思つてきたのでせう。
「ひどくこんがらかつてゐるさうぢやないか」
 平次は一歩血腥ちなまぐさい部屋に入りました。
「下手人と名乘つて出たのが三人さ」
 萬七は大きく舌鼓したづつみを打ちます。
「どれ先づ佛樣を拜んでからにしよう」
 形ばかりの臺の上に乘せた香爐かうろに線香を立てて、平次は膝行寄ゐざりよるやうに、死骸の上に掛けた布を取りました。
「フーム」
 思はずうなつたのも無理はありません。取亂した死顏乍ら、これはまた拔群の美しさです。少し大柄の色白で、眉の太さも、眼鼻立のたくましさも、見やうに依つては少し男顏ですが、それだけ歌舞伎芝居の名女形に見るやうな一種の魅力があつて、成熱し切つた女性の、情熱も意志も人一倍強さうな、不思議な美しさを持つてゐるのでした。
 喉笛にはまだ匕首を突立てたまゝ、顏のけはしさに似ず、血はあまり出てをりませんが、多分一突きで死んだ爲でせう。平次はそつと布をかけて、ひとわたり部屋の中を見廻しました。
 蝋塗りに螺鈿らでんを散らした、見事なさやがそこに落散つて、外に男持の煙草入たばこいれが一つ、金唐革きんからかはかますに、その頃壓倒的に流行つた一閑張いつかんばりの筒。煙管は銀で、煙草は國分らしい上等の刻み、並大抵の人間の持つ物ではありません。
「これは?」
 平次が取上げて萬七に訊くと、
「主人の次郎右衞門の煙草入だよ」
「義理の娘を殺したとでも言ふのか」
「本人が白状したんだから、文句はあるめえ。尤も下手人を買つて出たのが三人もあるが――」
「誰と誰だ」
「娘のお秀と、手代の喜三郎さ」
「フーム、それにしても、人を殺すのに煙草入を持つて投り込んで行くのは念入りだね」
「俺もそれを考へたんだが」
 さすがに三輪の萬七も、こんな證據があるだけに、かへつて主人の次郎右衞門が一番疑はしくないやうな氣がするのでした。


「この匕首あひくちは誰のだい」
「誰のでもないから不思議さ。この家の者はその匕首を見たこともないといふんだ」
「してみると、下手人は外から入つて來たのかな」
「外から入つたものは、こんな間拔けな足跡なんか殘さないよ」
 萬七の指した中庭を見ると、滅多に陽の當ることのないジメジメした土の上に、大きな下駄の跡が往復はつきり付いてゐるのです。
「庭下駄の跡ぢやないか」
「その庭下駄が沓脱くつぬぎの上にチヤンと揃へてあるからお笑ひぐささ、――その上に雨戸を外からコジ開けた樣子もないのに、今朝婆やさんが死骸を見付けた時は、ちやんと開いてゐたといふんだ」
「成程ね」
 さう言はれると、下手人は家の中の者で、外から曲者が入つたやうに、一番氣のきかない細工さいくをしたことになります。
「足跡や雨戸の氣のきかない細工を見ると、下手人は間違ひもなく家の中のものだが、娘ののどに突つ立つてゐる匕首あひくちは、誰も見たことのない品だ」
 老巧な萬七も、こゝまで來て行詰つたところへ、何時でも最後の勝利を持つて行かれる錢形の平次が來たのでした。
「兎に角、家中の者に逢つて見ようか」
「驚かないやうにしてくれ、錢形の。今頃は下手人がもう一人くらゐ殖えてゐるかも知れないぜ」
 三輪の萬七がかう言つたのが、滿更出鱈目でたらめでなかつたことに、平次は間もなく氣が付いたのです。
 主人の次郎右衞門以下、少しでも疑はれる地位にある者は、奧の主人の部屋にまとめられて、下つ引が二人で見張つてをりました。
「あ、錢形の親分さん」
 平次の顏を見て、一番先に聲を掛けたのは次郎右衞門でした。
「皆んな一緒にして置いちや下手人が幾人も出て來るわけだ。八、御主人から順々に一人づつ連れて來てくれ」
 平次は多勢の顏を一と眼見ると、その緊張と不安の底に流れる異常なものを見て取つたらしく、八五郎にこんなことを言ひ付けて、先刻の死骸を置いた部屋へ一人づつ呼び出しました。
 一番先に連れて來たのは、主人の次郎右衞門――六十前後の大店おほだなの主人らしい貫祿ですが、思はぬ打撃に少し顛倒してゐ乍ら、錢形平次が來てくれたので、何にかホツとした樣子です。
「主人の次郎右衞門さんだね」
「へエ――」
「お前さんの煙草入が死骸の側にあつたさうだが、ありやどういふわけだい」
 平次は靜かに始めました。
「お皆を殺したのは、――何を隱しませうこの私でございますよ、錢形の親分さん。三輪の親分はお秀が怪しいと言ひますが、飛んでもないことでございます」
 次郎右衞門は胡麻鹽ごましほになつた頭を掻き乍ら、打ちしをれた顏を擧げました。
「それならそれとして、お皆を殺さなければならなかつたほど、思ひ詰めたことがあつたといふのだね」
「あの娘は、――くなつた私の配偶つれあひの連れつ娘ですが、あれは鬼でございました。母親の生きてゐる内はまだ大したこともございませんでしたが、二年前母親が死んで、この私が病身になると、急にのさばり出して奉公人をいぢめ拔いた上、先妻の腹に生れたこればかりは私の一粒種の娘お秀などは、まるで下女同樣の目にあはされました。その上、死んだ者の惡口を言ふわけぢやありませんが、我儘で、剛情で、自分勝手で、慾が深くて、それだけなら我慢もしますが、お洒落しやれで、浮氣で」
「――」
 平次も驚きました。死んだお皆に對する、次郎右衞門の非難はあまりにも度外れです。
「あんな娘があるものぢやございません。少しばかり顏容かはかたちがよかつたので、男から何んとか言はれるのが嬉しかつたのでせう。四方屋の家風は昔からかたいので評判を取つてをります。あんな女は一日も默つて見てゐるわけに行きません」
「どうして追ひ出さなかつたんだ」
「幾度も出て行けと申しましたが、病身の私を小馬鹿にして、この家を出て行く氣などは毛頭ないばかりでなく、何時の間にやら圖々しくなつて、この身上までうかゞふやうになりました。放つて置いたら娘のお秀をどうかして、私の亡き跡の四方屋を、ぬく/\と取る氣になつたかも知れません」
 次郎右衞門は本當にこんなことを心配してゐた樣子です。自分でさへどうすることも出來なかつたお皆を憎む心持が言葉の外にあふれるのでした。
「それぢや訊くが、あの匕首あひくちはどこから出したんだ」
「――」
 次郎右衞門はハタと絶句しました。買つたことにしても、出鱈目な店の名を言つたら、平次はそれをすぐ調べるでせう。
「どうしたんだ」
「昔から私が持つて居りました。土藏の中にしまひ込んであつたのです」
「それにしちやこしらへが新しいぢやないか。刄の色も近頃いだ上、念入りに手を入れたものらしいが――」
「――」
 次郎右衞門は應へやうもありません。
 それからもう一つ、四方屋の跡は誰に取らせるのかといふ問ひに對しては、手代の喜三郎は遠縁の者で心掛も人柄も惡くないし、お秀との仲も好いから二人を娶合めあはせて跡を取らせる心算つもり。これはお秀のやくが明けてから運ぶ筈で内々仕度までしてゐたといふのでした。
 次に呼出して貰つたのは老番頭の半兵衞。
「へエー、私は通ひで、夜分はこゝにをりませんから何んにも存じませんが――」
 と言つた調子。――商質は賢いが、外のことには一向思ひやりも工夫もない典型的な事務家で、五十そこ/\の、月代さかやきの光澤だけは見事ですが、何んの特色もない人柄でした。
 それに訊くと、四方屋よもやは萬といふ身上で、主人が情け深い上に、跡取娘のお秀は申分のないお孃さんで、殺されたお皆さへゐなければ、奉公人達もどんなに樂をするか判らないと言つた話、こゝでもお皆の評判は散々です。


 手代の喜三郎は二十三四の、久松型の良い男で、平次の前へ連れ出されると、いきなり、
「錢形の親分さん、お皆を殺したのは、御主人やお孃さんぢやございません。――この私でございます。どうか縛つて下さい、お願ひでございます」
 そんなことを言つて、後ろ手に詰め寄ると言つた調子です。
 何を訊いても、すつかり興奮して、纒まつた答へは得られませんが、兎に角、お皆は容易ならぬ人間であつたこと、近頃は自分を誘つて、この家の横領まで、くはだててゐたことを、かなり突つ込んで言ふのです。
「それほどのことを誰にも言はなかつたのか」
 平次は訊き返しました。
「いえ、御主人にも、番頭さんにも申しました。でも、お皆はこの家のことを一人で取仕切つて、誰の手にもへません」
 この世の中には、そんな途方もない女があることを、平次は想像もしたことはなかつたのです。
「お前が殺したといふなら、それもよからうが、――あの匕首はどこから手に入れたんだ」
「昔から持つて居りました」
は何んだ」
さめでございます」
さやは?」
蝋塗ろぬりで」
「寸法は」
「八寸――五分もありませうか」
「皆んな違つてゐるよ。死骸の喉に突つ立つた匕首などは、素人の眼で本當の見極めが付くものぢやない」
「でも私が殺したに間違ひはございません」
「よし/\」
 平次は少し持て餘し氣味です。
 續いて、娘のお秀に逢つて見ました。十九のやくといふにしては初々しく、喜三郎が命まで投げ出さうといふだけあつて、お皆のやうな文法的な美人ではありませんが、いぢらしく、優しく、うるほひと光澤があつて、何んとなく人好きのする娘でした。
「お前も下手人げしゆにんの一人ださうだね」
 平次は冒頭はなつからこんな調子です。
「本當に、私が殺しました。親分さん」
「よし/\、殺したら殺したとして、それほどお皆が憎かつたのか」
「えゝ、お父樣を叱り飛ばしたり、やり込めたり、私や喜三郎をいぢめたり」
 さう言つて平次を見上げる眼は涙をふくんでをりました。繼母の連れつ子に惱まされ拔いたお秀は、自分を下手人にする證據を擧げる氣でもなければ、こんなことを言へさうな人柄ではありません。
「もうよい、――お前さんは人を殺せる柄ぢやない」
「でも、お父樣や、喜三郎さんだつて人などを殺すやうな、そんな恐しい人達ぢやありません」
 お秀は到頭泣き出したのです。
 それをなだめて引退らせると、續いて自分から進んで、掛人かゝりうどの寺本山平といふ浪人者が逢ひたいと言つて來ました。
「錢形の親分、御苦勞で」
 三十二三、色の淺黒い、少し態度に誇張はありますが、立派な男前でした。
「寺本さんで」
「こゝの居候だよ、――この邊は強請ゆすりが多いから、用心棒と言つてもいゝ。あまり結構な身分ぢやないが、主人とは古くからの知合ひで、仕事も仕官の口もなきや、當分來てゐちやどうだと言ふから、人の門口に立つて、下手なうたひうたふよりはと思つて、二年越し世話になつてゐるんだが――」
 そんなことを、少し重い口調で話すのです。
「で、あつしに御用と仰しやるのは?」
 平次はこの浪人者の眞意をはかり兼ねました。
「俺はまさか、下手人だと名乘る氣はない。――名乘つても構はないが、生憎昨夜は山下の馴染の家で宵から飮んですつかりつぶれて了ひ、今朝陽が高くなつてから戻つたやうな始末さ。ハツ、ハツハツ」
 寺本山平は妙なところへ笑ふのです。
「で?」
「錢形の親分ともあらうものが、こんなところに氣が付かない筈もあるまいが、中庭の下駄の跡をもう一度よく調べて見ちやどうだらう。あれは大の男にしては、土の柔かいところを見ると恐しく淺い。それから、足跡の重なり具合で、内から出て、外から入つたに違ひないが、恐しく内輪に歩いてゐる。あんな歩きやうをするのは女だ」
 この浪人者は、柄に似氣なく行屆いた觀察眼を持つてをります。
「で?」
 平次は次をうながしました。
「それからもう一つ、殺されたお皆はタチの惡い女で、店中の者は皆んなうらんでゐたが、とりわけお皆を怨む者が一人ある筈だ。俺の口からは言ひ憎いが、親分が聽き出す分にはわけはあるまい」
「有難うございました、お蔭で本當の下手人の當りも付くでせう。まだ外にお心當りのことがあつたら、遠慮なく仰しやつて下さい。岡つ引を稼業にしてゐても、なか/\そこまでは目が屆くものぢやございません」
「いや、さう褒められると極りが惡いが」
 寺本山平はカラカラと笑つて逃げ出すやうにそこを去りました。
 その後ろ姿を見送つて、
「八」
「へエ――」
 平次は八五郎を小手招ぎしました。
「どうだ、驚いたらう。素人衆にも、あんなのがゐるぜ」
「いよ/\十手捕繩返上したくなりますよ、親分」
 八五郎は二つ三つ首をひねつて見せました。
「足跡はあの寺本さんの言ふ通り、内から出て木戸まで行つて歸つたのだ。往つたのと來たのが判れば、ひどい内輪もよく判る」
 平次は中庭の足跡を指さします。
「庭石のこけがひどくげてますよ」
「それを今俺も考へてゐるんだ。木戸まで踏石が七つ、よくついた石苔がいたんでゐるのはどうしたわけだ」
「外の曲者を入れたんぢやありませんか」
「それも考へられるが、――内の者が庭に足跡を殘して、外から來た者が庭石の上を拾つて歩くのはをかしいぢやないか、――昨夜はお月樣があつたかい」
「四日ですよ」
「まさか提灯を持つて來たわけぢやあるまいな、――石と石の間は遠くて、そのうへ石はこけで滑るから、灯りか月でもなきや無事に渡られる道理はない」
 平次はすつかり考へ込んで了ひました。
「お皆に怨みのある人間を搜しませうか」
「いや、それより、昨夜誰と誰が一緒だつたか、念入りに訊出してくれ。こゝへ忍んで來て、お皆を殺してそつと歸れるのは誰と誰だか」
「そんなことならわけはありません」
「あんまり暢氣のんきに考へちやいけないよ。思ひの外むつかしい仕事だから」
「へエ――」
 ガラツ八は新しい仕事を持つて庭の方へ飛びました。


「親分、大變ですよ」
「何んだ八」
 中庭へ降りて木戸まで行つた平次を、後ろから八五郎が呼び戻しました。
「三輪の親分がお秀を縛つてしまひましたよ」
「えツ」
「あの浪人者の話をみんな聽いて、下手人が家の中の者で女と決つたなら、お秀の外にはない。お秀は喜三郎を取られさうになつて、ひどくお皆を怨んでゐると判つたんで――」
「そんな馬鹿なことがあるものか」
「ね、親分。あの娘は人なんか殺せる柄ぢやないつて、親分も言つたでせう」
「言つた。が、三輪の親分はそんなことぢやお秀を勘辨しないだらう。こいつは弱つたな、八」
「何んとかなりませんかね」
「下手人が家の中の女と言ふことになればお秀の外にない、――餘計なことを聽かせてしまつたな」
 平次もさすがに困つて了ひました。主人次郎右衞門や奉公人達の立ち騷ぐ中を、三輪の萬七とお神樂かぐらの清吉が、得々としてお秀を縛つて行くのを、どうしてもこばみやうがなかつたのです。その時後ろから、
「親分さん、まだ、家の中には女がゐますよ」
「あ、驚いた。婆やさん、何を言ふんだ」
 不意に獅噛しがみ付いたお谷婆さんを、振りもぎりもならず、平次は閉口してをります。
「親分さん、あの女を殺したのは、この私ですよ。――お皆の畜生を殺したのは、私に違ひありません。早く、早く縛つて、お孃さんを助けて下さい。あんな神樣のやうなお孃さんが、蟲一匹だつて殺すものですか」
「何を言ふんだ、婆やさん」
 平次は半信半疑の心持で、お谷婆さんの取亂した姿を眺めました。
「さア大變、到頭四人目の下手人だ」
 ガラツ八は少しばかり面白さうです。
 が、お谷婆さんはそれどころではありません。
「親分さん、私を縛つて下さい。庭下駄を穿いて、足跡をつけたのも、雨戸を開けて置いたのも、この私に間違ひはございません。私だつて、まだ死にたいわけぢやなかつたんですもの、鬼のやうなお皆を殺して、お處刑しおきに上つちや間尺に合ひません。唯もうまぬかれるだけは免れたいと思ひました。――でも、お孃さんが縛られちや、默つてゐられません。私を縛つて下さい、三輪の親分さん」
 平次が容易に取合はないと見るとお谷婆さんは、お秀を引立てて行く三輪の萬七に取縋とりすがるのでした。
「匕首はどこから出したんだ」
 平次は靜かに訊ねました。
「お皆が持つてゐたんです。あの女は何をするか判りません。昨夜自分の行李かうりから匕首を出して、拔いて灯りにすかしてニヤリと笑つたのを私は見てしまひました。あの女はお孃さんを殺す氣だつたに違ひありません。唐紙の隙間から覗いてゐる私が、聲を立てなかつたのが不思議なくらゐです。あんな凄い顏を私は見たこともありません」
「――」
 默つて先をうながす平次。
「匕首を枕の下へ入れて寢るところまで見極めると、私は矢もたてもたまりませんでした。あの女はきつとお孃さんを殺して、喜三郎さんを手に入れ、四方屋よもやの身上を狙ふに決つてをります。私は、私は到頭、夜中に忍び込んで、大變なことをして仕舞ひました」
「――」
 平次も八五郎も、萬七も清吉も、次郎右衞門もお秀も、あまりのことに仰天して、暫くは口をきく者もありません。
「私の孫のお玉は、あの女に殺されました。今年の春、旦那樣にお願ひ申し上げて、兩親に別れた、たつた一人の孫のお玉を、こゝへ伴れて來て育ててゐると、あのお皆といふ蛇心じやしんの女が、妙にお玉を邪魔者にして、毎日々々、子供にできさうもない用事を言ひ付け、散々な目に逢はせて追ひ出さうとかゝりました」
 十二になるお玉が、どんなにお皆に虐待ぎやくたいされたか、それは家中の者が皆んな知つてをりました。
 精神異常者が、どうかすると犬や猫を無闇に虐待するやうに、お皆のうちに潜む恐しい殘酷性が、お玉といふ手頃の對象を見付けて、遠慮もなく發散したのでせう。
 お谷婆さんは、はふり落ちる涙を拂ひもあへずに續けました。
「たうとう、自分の腫物はれものる雪の下の葉を、井戸の中の石垣の間から取つて來いと飛んでもないことをお玉に言ひ付け、幾つ取つて來ても、これでもまだ小さい、これでもまだ小さい、もう少し手を伸ばせば大きいのがある筈だと言つて――」
 お谷婆さんはたうとう涙で絶句してしまひました。たつた一人の孫娘をうしなつた深刻な思ひ出が、この老女の常識もたしなみも滅茶々々にしてしまつたのです。
「雪の下の大きい葉を取る心算つもりで、お玉はたうとう井戸へ落ちてしまひました」
 お谷婆さんは續けました。
「お皆の畜生は誰も知らずにゐるのに、自分だけ心得てゐて、暫く經つて言ふんですもの、助かりつこはありません。引揚げた時はもう、何も彼もおしまひ。――あんなにお玉を邪魔にしてゐたんですもの、間違つて落ちたと言ふのは表向きで、本當は自分が突き落したのかも解りません。誰も見てゐたわけぢやなし、それくらゐのことはやり兼ねない女でした」
「――」
 あまり急激な事件の發展に、平次も萬七も暫くは顏を見合せるばかりです。
「さア、私を縛つて下さい。――最初から私が殺したと言つてしまへば旦那樣やお孃さんに御迷惑はかけなかつたのに、年寄のくせに、まさか死ぬ氣にはなれなかつたばかりに、飛んだ人騷がせをしました。今となつてはもう何んにも思ひ殘すことはありません。お孃さん、旦那樣、それでは――」
 お谷は縁側の板敷に、ガバと身を投げて大泣きに泣くのです。
「婆や、お前はまア、――本當かい」
 萬七の手から放たれて、お秀は婆やのところへ飛んで來ました。
「お孃さん、――飛んでもないことをして了ひました。今となつては皆んな嘘にしたい、これが夢だつたら、どんなに有難いでせう。でも、そんなわけには參りません。私は人殺し、――恐ろしい人殺し婆アになつて了ひました。さはつたりしちやいけません。それぢやお孃さん、もうお目にかゝる折もないでせう。お身體に氣をつけて、お丈夫で暮して下さい」
「婆や、お前に人なんか殺せる筈はない。それは何にかの間違ひだらう。婆や、婆や、行つちやいや、いや」
 お秀は婆やにすがり付いて、赤ん坊のやうに泣くのです。
 三輪の萬七は際限もないと思つたか、お神樂の清吉に眼配せをしました。
「えツ、立てツ」
 清吉の十手はキラリとお谷婆さんの肩のあたりを打ちます。


「親分」
「八」
「矢張りあのお谷婆さんが下手人ですかね」
 二人は暫く經つてやうやく我に返りました。萬七と清吉はお谷婆さんに繩打つて引立てた後、次郎右衞門始め奉公人達一同、たゞ氣拔けたやうに茫然ばうぜんとしてゐる中を、お秀の泣聲が絶々に縫つてをります。
「俺には判らないことばかりだ。八、氣の毒だが先刻頼んだことを念入りに調べて來てくれ。――それから殺されたお皆と親しくしてゐた男がなかつたか。こいつは大事だ、よく訊いて來るんだ」
 平次はそつと囁くと、八五郎と意味の深い眼配せを交して別れ、自分だけ一人、もう一度お皆の死骸を置いてある部屋に歸りました。
 死骸にかぶせた布を取つて、匕首を拔いた後の傷口を、濡れた手拭で丁寧に拭き、それから死骸の胸のあたりを一と通り見た上、今度は死骸を俯向けにして、その首筋のあたりを見ました。
 これほどの傷にあまり血が流れてゐないのも不思議ですが、平次はそれよりも重大なことを發見したらしく、何やらうなづいて、靜かに四方屋を引取つたのは、もう日が暮れてからでした。
 その晩、八五郎が歸つて來たのは戌刻半いつゝはん(九時)過ぎ。
「親分、大したこともありませんよ」
 あまりかんばしい收穫もなかつた樣子です。
「夜中にあの部屋へ人知れずはいれたのは、誰と誰だ」
 と平次。
「主人の次郎右衞門と、娘のお秀と、婆やのお谷と、手代の喜三郎と、それつきりですよ」
「フーム」
「番頭の半兵衞は通ひだし、浪人の寺本山平は離屋に寢てゐるし、丁稚でつち小僧は店二階へ一緒に寢てゐるし、階下のお鯉とおさんは一緒だし」
「よし/\、そんなことでよからう。ところで寺本山平は宵のうちから離屋へ行くのか」
「店が閉つてから、大抵戌刻半いつゝはん(九時)から亥刻よつ(十時)の間ださうです。曲者が家の中に決つてゐるから、離屋に居る寺本山平は勘定に及ばないぢやありませんか。それに昨夜は恐ろしく早く、戌刻いつゝ(八時)前に離屋へ引揚げたさうですよ。――本人は山下の馴染の家で、宵から飮んでゐたといふのは嘘ぢやないでせう」
「さうかも知れない、ところでお皆と關係のあつた男は?」
「幾人あつたかわからないが、近いところぢや寺本山平――」
「何んだと」
「あ、びつくりした。あつしのせゐぢやありませんよ、親分」
「こいつがお前のせゐだつたら大變だ。來いツ、八」
「どこへ行くんで」
「どこだか判るものか。兎に角、鳥が飛んだ後ぢやお谷婆さんの命を助けやうはねエ」
「お谷婆さんを助けるんですつて、親分」
 今度はガラツ八の方が驚きました。
「お谷婆さんが何んと言はうと、お皆を殺した人間は他にあるんだ。――お谷婆さんを下手人げしゆにんにしちや第一お前の叔母さんに濟むめエ」
「違ひねエ。どこへ行つて何をやらかしやいゝんで? 親分」
「寺本山平が昨夜行つた家を搜すんだ」
「それなら判つてますよ」
「どこだ」
「上野山下の闇がり横丁のお余乃よのの家で――」
「何んだいそれは?」
「あんまり筋の良い家ぢやありませんよ」
「行つて見よう」
 平次とガラツ八がお余乃の家といふのに行つたのは、もう亥刻よつ(十時)過ぎでした。
「寢てしまひましたね」
「構はねえから、存分に叩け」
「へエ」
 ガラツ八が榮螺さゞえのやうな拳固げんこで續け樣に叩きまくると、
「ハイハイ、唯今、どなたですか」
 寢入りばならしい女の聲が、戸を開け兼ねて躊躇してゐる樣子です。
「御用だ、早く開けろ」
「ハ、ハイ、今すぐ開けますよ」
 ガラガラと開けて、寢亂れた姿を出したお余乃の前へ、八五郎の十手はピカリと光りました。
「御用だぞ、神妙にせい」
 この時ほど錢形平次は御用風を吹かせたことはありません。寢卷姿のお余乃と下女のお六を二人並べて、
「昨夜寺本山平は何刻に來て、何刻に歸つた。一度外へ出てまた夜中に歸つたか、それとも、遲くなつてから來たか。眞直ぐに申上げないと、お前達二人とも殺しの卷添へで、ガン首が飛ぶぞ」
 こんな時には、八五郎の方がはるかに睨みがきゝます。
 お余乃は一應も二應も澁りましたが、下女のお六は、二つ三つどやし付けられると、他愛もなくベラベラとしやべつてしまひました。
 それに依ると、宵から來た筈の寺本山平は、實は夜中過ぎにやつて來て、したゝかに飮んで寢てしまつたが、
「万一、人に訊かれたら、宵のうちに來たと言へ」
 と半分おどかすやうに頼んで、お六に大枚一兩もくれたといふのです。
「八、それで何も彼も判つた。女二人は生き證人だから逃げ隱れをしないやうに、町役人に預けて、大急ぎで車坂へ行かう」
「親分」
「明日なんて言つちやゐられない」
 二人はお余乃とお六の始末をすると、そこからひと丁場の車坂へ駈け付けます。


 四方屋よもやの離屋、そこには浪人寺本山平が寢泊りしてゐる筈。
「ちよいと、寺本さん、お顏を拜借したいことがありますが」
 八五郎が猫撫聲ねこなでごえで戸を叩くと、
「誰だ、今頃。用事があるなら明日にせい」
 少し機嫌の惡い聲が中から應じます。
「さう仰しやらずに、ちよいとですが、お願ひ申します」
「うるさい奴だな」
 さつと内から開けた戸。と同時に、紫電しでん闇をつんざいて、八五郎の肩先へ――
「わツ、冗談ぢやねエ」
 尻餅しりもちいて、からくも逃れた八五郎の上へ、のしかゝつてもう一と太刀來るのを、
「御用ツ」
 平次の手からサツと錢が飛びました。
「野郎、器用なことをツ」
 錢は刄に鳴つて、寺本山平は拔刀を持つたまゝ、八五郎の頭を越して外に飛出します。
        ×      ×      ×
 何も彼も濟んだのは翌る朝になりました。
 少し薄傷うすでを負はされた八五郎が、寺本山平を送るとすつかり元氣になつて、平次と一緒に家路を急ぎながら、相變らず繪解きを迫ります。
「どうして下手人がお谷婆さんぢやないと解つたんですか、親分」
かんだよ、――それに、死骸の血の出やうの少いのも氣になつたから、傷口を洗つてよく見ると、喉を指で押した跡があるんだ」
「へエ」
「死骸を仰向あふむきにして見ると、首筋にも指の跡がある。――匕首が突つ立つてゐるから、うつかりだまされたが、あれは刺される前に、男の強い力でめ殺されてゐたんだ」
「へ」
「そこへお谷婆さんが忍び込んで來て、枕の下から匕首を引出して死んだとは知らずに、お皆の喉へ突つ立てた。――いや、喉へ突つ立てる心算つもりだつたかも知れないが、實は首筋を外れて枕へ突つ立てたのさ。お谷婆さんは面喰つてゐるから、そんなことに氣が付かない。あわてて部屋から飛出したが、さすがに捕まるのが怖かつたと見えて、面喰つて庭下駄を穿いて木戸のところまで逃げ出したが、思ひ直して又家の中へ歸つた。別に甘い細工をして外から下手人が入つたと思はせる心算ぢやなかつたのさ」
「成程ね」
「翌る日になるとお秀へ疑ひが行きさうになつたから、びつくりして俺のところへ飛んで來た」
「矢張り命が惜しかつたが、お秀も助けたかつたんですね」
「が、お秀がどうしても縛られることになつたので、夢中になつて白状してしまつたのさ」
「で、下手人げしゆにんが寺本山平と判つたのは?」
「あの下手人は男で、それも力の強い者と判ると寺本山平の外にはない。あの浪人者が中庭の下駄の跡で恐ろしく智慧の走ることを言つたが、あれは疑ひをお谷婆さんへ向ける心算だつたのさ。あんなことを言ふから、かへつてこの野郎は臭いと思はせる」
「フーム」
「寺本山平は外へ出るやうな顏をして實は宵のうちから家の中に隱れてゐたんだらう。夜中にお皆の部屋へ行つて殺したところへ、不意にお谷婆さんが入つて來たのさ」
「へエ――」
「多分驚いたことだらうが、横着者だからどこかへ姿を隱してお谷婆さんのすることを見てゐると、婆さんはお皆の枕の下から匕首あひくちを引出し、面喰つて枕に突つ立てて飛出してしまつた。枕に刄物で突いた跡があるから、あとで見るがいゝ。そこで寺本山平はその匕首を死骸ののどに刺し直して庭石傳ひに逃げ出したのさ。あれは、寺本山平が、手當り次第に投り込んだのだらう」
「太てえ奴ですね」
「太てえには相違ないが、散々寺本山平と遊んで、近頃は喜三郎に取入らうとしてゐたお皆の方も惡いよ。あのまゝ放つて置いたら、お秀をどうかして、四方屋よもやを乘取つたかも知れない。女の押の強いのほど恐ろしいものはないな、八」
あつしが意見されてゐるやうですね」
「その氣で附き合ふがいゝ」
 二人は何んとはなしに笑ひました。
「惡い者ばかり居るとは限らない――と親分が言つたのは本當ですね。危ふくお谷婆さんがお處刑臺しおきだいに上げられるところぢやありませんか」
「だから、御用聞は十手捕繩をたより過ぎちやならないのさ。飛んだ罪を作るから」
 秋の朝の風は清々しい心持の二人を家路に吹き送ります。





底本:「錢形平次捕物全集第二十四卷 吹矢の紅」同光社
   1954(昭和29)年4月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1940(昭和15)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年7月1日作成
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