「親分、近頃は胸のすくやうな捕物はありませんね」
ガラツ八の八五郎は
「捕物なんかない方がいゝよ。近頃俺は十手捕繩を返上して、手内職でも始めようかと思つてゐるんだ」
平次は妙に懷疑的でした。江戸一番の捕物の名人と言はれてゐる癖に、時々『人を縛らなければならぬ渡世』に愛想の盡きるほど、弱氣で厭世的になる平次だつたのです。
「大層氣が弱いんですね。あつしはまた、親分の手から
「お前は
「そんなことを言つたつて、御用聞がなかつた日にや、世の中は惡い奴がのさ張つて始末が惡くはなりやしませんか。醫者がなきや病氣が
「醫者と御用聞と一緒にする奴があるかい。醫者は病氣を
平次の懷疑は果てしもありません。
「江戸中に惡者がなくなつた時、十手捕繩を返上しようぢやありませんか。それまでは手一杯に働くんですね、親分」
「石川五右衞門の歌ぢやないが、盜人と惡者の種は盡きないよ、――
平次は淋しく笑ふのです。
「それまでせつせと縛ることにしませうよ。そのうちに、錢形平次御宿と書いて門口へ
「
無駄な話は際限もありません。丁度その時でした。
「八五郎さん、叔母さんよ」
平次の女房お靜が、濡れた手を拭き/\、お勝手から顏を出しました。
「へエー、叔母さんがこゝへ來るなんか、變な風の吹き廻しだね。意見でもしさうな顏ですか」
「そんなことわかりませんよ。――お連れがあるやうで」
とお靜。
「それで安心した。まさか
「古い借金取かも知れないぜ、八。思ひ出して御覽、叔母さんへ尻を持つて行きさうなのはなかつたかい」
平次は少し面白くなつた樣子です。
「
「ハツハツハツ、八にも叔母さんといふ苦手があるんだから面白い――此方へ通すがいゝ。お連れも一緒なら、お勝手からぢや氣の毒だ、ズツと大玄關へ廻つて貰ふんだ。八は敷臺へお出迎へさ、何? もうお勝手から入つた? それぢや勘辨して貰つて、――」
平次はさすがにゐずまひを直して襟をかき合せました。生温かい小春
ガラツ八の叔母の伴れて來た客といふのは、下谷車坂の呉服屋
「親分さん、大變なことになりました。お孃さんのお秀さんが、
お谷婆さんは、何べんも何べんもお辭儀をし乍ら、後も前もなくこんなことを言ふのです。
「さア解らない、――一體誰が殺されて、どこのお孃さんが縛られたんだ。少し落着いて、順序を立てて話してくれないか」
平次は苦笑ひし乍ら、婆さんの話の中から筋を引出しました。
お谷婆さんの話はかうなのでした。
今朝起きて見ると、四方屋次郎右衞門の亡くなつた後添の連れつ
お皆の部屋は中庭に面した四疊半で、店からもお勝手からも自由に出入りの出來る場所ですが、夜中にそれほどのことがあつたことには誰も氣が付かず、今朝雨戸が開いてゐるので、始めて大騷ぎになつた有樣で、お皆の部屋の隣に寢てゐる先妻の娘のお秀が、日頃仲がよくなかつたばかりに、第一番に
「親分さん、何んとかして上げて下さい。お谷さんは私の
八五郎の叔母までが一生懸命口を添へるのです。
「三輪の萬七
珍しくも平次は氣輕に腰を上げました。
「有難てえ。それであつしの顏が立つといふものだ」
と八五郎。
「大層な事を言ふな」
二人は仕度もそこ/\に、お谷婆さんに案内させて車坂に行くことになつたのは、もう
「もう少し
道々八五郎は、お谷婆さんの後ろ姿を指さし、平次に囁きました。
「無駄だよ、それよりは現場を見ることだ」
平次はお谷婆さんの説明で先入心を植付けられるよりは、自分の眼で最初から事件を直視する心算でせう。
車坂の四方屋は
「御免よ」
わざとお谷と別れて、お勝手口からズイと入つた平次と八五郎、
「お、錢形の親分、八兄哥もか」
三輪の萬七の子分、お
「ちよいと
八五郎は平次を掻き退けるやうに顏を出します。かう宣戰布告をして置かないと、親分の平次が
「下手人だらけだよ。錢形の親分だつて、こいつは驚くぜ」
お神樂の清吉は道を除けました。少し持て餘し氣味の樣子です。
「驚かして貰はうか、――親分、入つて見ませうか」
八五郎はすつかり鬪爭心を
お勝手にもじ/\してゐるのは、下女のお
「錢形の、到頭
三輪の萬七は苦々しい乍らも、少しはホツとした樣子でした。事件がむつかしくなつて、自分の手ではどうにも裁きやうがないと思つてきたのでせう。
「ひどくこんがらかつてゐるさうぢやないか」
平次は一歩
「下手人と名乘つて出たのが三人さ」
萬七は大きく
「どれ先づ佛樣を拜んでからにしよう」
形ばかりの臺の上に乘せた
「フーム」
思はず
喉笛にはまだ匕首を突立てたまゝ、顏の
蝋塗りに
「これは?」
平次が取上げて萬七に訊くと、
「主人の次郎右衞門の煙草入だよ」
「義理の娘を殺したとでも言ふのか」
「本人が白状したんだから、文句はあるめえ。尤も下手人を買つて出たのが三人もあるが――」
「誰と誰だ」
「娘のお秀と、手代の喜三郎さ」
「フーム、それにしても、人を殺すのに煙草入を持つて投り込んで行くのは念入りだね」
「俺もそれを考へたんだが」
さすがに三輪の萬七も、こんな證據があるだけに、
「この
「誰のでもないから不思議さ。この家の者はその匕首を見たこともないといふんだ」
「してみると、下手人は外から入つて來たのかな」
「外から入つたものは、こんな間拔けな足跡なんか殘さないよ」
萬七の指した中庭を見ると、滅多に陽の當ることのないジメジメした土の上に、大きな下駄の跡が往復はつきり付いてゐるのです。
「庭下駄の跡ぢやないか」
「その庭下駄が
「成程ね」
さう言はれると、下手人は家の中の者で、外から曲者が入つたやうに、一番氣のきかない
「足跡や雨戸の氣のきかない細工を見ると、下手人は間違ひもなく家の中のものだが、娘の
老巧な萬七も、こゝまで來て行詰つたところへ、何時でも最後の勝利を持つて行かれる錢形の平次が來たのでした。
「兎に角、家中の者に逢つて見ようか」
「驚かないやうにしてくれ、錢形の。今頃は下手人がもう一人くらゐ殖えてゐるかも知れないぜ」
三輪の萬七がかう言つたのが、滿更
主人の次郎右衞門以下、少しでも疑はれる地位にある者は、奧の主人の部屋に
「あ、錢形の親分さん」
平次の顏を見て、一番先に聲を掛けたのは次郎右衞門でした。
「皆んな一緒にして置いちや下手人が幾人も出て來るわけだ。八、御主人から順々に一人づつ連れて來てくれ」
平次は多勢の顏を一と眼見ると、その緊張と不安の底に流れる異常なものを見て取つたらしく、八五郎にこんなことを言ひ付けて、先刻の死骸を置いた部屋へ一人づつ呼び出しました。
一番先に連れて來たのは、主人の次郎右衞門――六十前後の
「主人の次郎右衞門さんだね」
「へエ――」
「お前さんの煙草入が死骸の側にあつたさうだが、ありやどういふわけだい」
平次は靜かに始めました。
「お皆を殺したのは、――何を隱しませうこの私でございますよ、錢形の親分さん。三輪の親分はお秀が怪しいと言ひますが、飛んでもないことでございます」
次郎右衞門は
「それならそれとして、お皆を殺さなければならなかつたほど、思ひ詰めたことがあつたといふのだね」
「あの娘は、――
「――」
平次も驚きました。死んだお皆に對する、次郎右衞門の非難はあまりにも度外れです。
「あんな娘があるものぢやございません。少しばかり
「どうして追ひ出さなかつたんだ」
「幾度も出て行けと申しましたが、病身の私を小馬鹿にして、この家を出て行く氣などは毛頭ないばかりでなく、何時の間にやら圖々しくなつて、この身上まで
次郎右衞門は本當にこんなことを心配してゐた樣子です。自分でさへどうすることも出來なかつたお皆を憎む心持が言葉の外に
「それぢや訊くが、あの
「――」
次郎右衞門はハタと絶句しました。買つたことにしても、出鱈目な店の名を言つたら、平次はそれをすぐ調べるでせう。
「どうしたんだ」
「昔から私が持つて居りました。土藏の中にしまひ込んであつたのです」
「それにしちや
「――」
次郎右衞門は應へやうもありません。
それからもう一つ、四方屋の跡は誰に取らせるのかといふ問ひに對しては、手代の喜三郎は遠縁の者で心掛も人柄も惡くないし、お秀との仲も好いから二人を
次に呼出して貰つたのは老番頭の半兵衞。
「へエー、私は通ひで、夜分はこゝにをりませんから何んにも存じませんが――」
と言つた調子。――商質は賢いが、外のことには一向思ひやりも工夫もない典型的な事務家で、五十そこ/\の、
それに訊くと、
手代の喜三郎は二十三四の、久松型の良い男で、平次の前へ連れ出されると、いきなり、
「錢形の親分さん、お皆を殺したのは、御主人やお孃さんぢやございません。――この私でございます。どうか縛つて下さい、お願ひでございます」
そんなことを言つて、後ろ手に詰め寄ると言つた調子です。
何を訊いても、すつかり興奮して、纒まつた答へは得られませんが、兎に角、お皆は容易ならぬ人間であつたこと、近頃は自分を誘つて、この家の横領まで、
「それほどのことを誰にも言はなかつたのか」
平次は訊き返しました。
「いえ、御主人にも、番頭さんにも申しました。でも、お皆はこの家のことを一人で取仕切つて、誰の手にも
この世の中には、そんな途方もない女があることを、平次は想像もしたことはなかつたのです。
「お前が殺したといふなら、それもよからうが、――あの匕首はどこから手に入れたんだ」
「昔から持つて居りました」
「
「
「
「
「寸法は」
「八寸――五分もありませうか」
「皆んな違つてゐるよ。死骸の喉に突つ立つた匕首などは、素人の眼で本當の見極めが付くものぢやない」
「でも私が殺したに間違ひはございません」
「よし/\」
平次は少し持て餘し氣味です。
續いて、娘のお秀に逢つて見ました。十九の
「お前も
平次は
「本當に、私が殺しました。親分さん」
「よし/\、殺したら殺したとして、それほどお皆が憎かつたのか」
「えゝ、お父樣を叱り飛ばしたり、やり込めたり、私や喜三郎をいぢめたり」
さう言つて平次を見上げる眼は涙を
「もうよい、――お前さんは人を殺せる柄ぢやない」
「でも、お父樣や、喜三郎さんだつて人などを殺すやうな、そんな恐しい人達ぢやありません」
お秀は到頭泣き出したのです。
それをなだめて引退らせると、續いて自分から進んで、
「錢形の親分、御苦勞で」
三十二三、色の淺黒い、少し態度に誇張はありますが、立派な男前でした。
「寺本さんで」
「こゝの居候だよ、――この邊は
そんなことを、少し重い口調で話すのです。
「で、あつしに御用と仰しやるのは?」
平次はこの浪人者の眞意を
「俺はまさか、下手人だと名乘る氣はない。――名乘つても構はないが、生憎昨夜は山下の馴染の家で宵から飮んですつかり
寺本山平は妙なところへ笑ふのです。
「で?」
「錢形の親分ともあらうものが、こんなところに氣が付かない筈もあるまいが、中庭の下駄の跡をもう一度よく調べて見ちやどうだらう。あれは大の男にしては、土の柔かいところを見ると恐しく淺い。それから、足跡の重なり具合で、内から出て、外から入つたに違ひないが、恐しく内輪に歩いてゐる。あんな歩きやうをするのは女だ」
この浪人者は、柄に似氣なく行屆いた觀察眼を持つてをります。
「で?」
平次は次を
「それからもう一つ、殺されたお皆はタチの惡い女で、店中の者は皆んな
「有難うございました、お蔭で本當の下手人の當りも付くでせう。まだ外にお心當りのことがあつたら、遠慮なく仰しやつて下さい。岡つ引を稼業にしてゐても、なか/\そこまでは目が屆くものぢやございません」
「いや、さう褒められると極りが惡いが」
寺本山平はカラカラと笑つて逃げ出すやうにそこを去りました。
その後ろ姿を見送つて、
「八」
「へエ――」
平次は八五郎を小手招ぎしました。
「どうだ、驚いたらう。素人衆にも、あんなのがゐるぜ」
「いよ/\十手捕繩返上したくなりますよ、親分」
八五郎は二つ三つ首を
「足跡はあの寺本さんの言ふ通り、内から出て木戸まで行つて歸つたのだ。往つたのと來たのが判れば、ひどい内輪もよく判る」
平次は中庭の足跡を指さします。
「庭石の
「それを今俺も考へてゐるんだ。木戸まで踏石が七つ、よくついた石苔が
「外の曲者を入れたんぢやありませんか」
「それも考へられるが、――内の者が庭に足跡を殘して、外から來た者が庭石の上を拾つて歩くのはをかしいぢやないか、――昨夜はお月樣があつたかい」
「四日ですよ」
「まさか提灯を持つて來たわけぢやあるまいな、――石と石の間は遠くて、そのうへ石は
平次はすつかり考へ込んで了ひました。
「お皆に怨みのある人間を搜しませうか」
「いや、それより、昨夜誰と誰が一緒だつたか、念入りに訊出してくれ。こゝへ忍んで來て、お皆を殺してそつと歸れるのは誰と誰だか」
「そんなことならわけはありません」
「あんまり
「へエ――」
ガラツ八は新しい仕事を持つて庭の方へ飛びました。
「親分、大變ですよ」
「何んだ八」
中庭へ降りて木戸まで行つた平次を、後ろから八五郎が呼び戻しました。
「三輪の親分がお秀を縛つてしまひましたよ」
「えツ」
「あの浪人者の話をみんな聽いて、下手人が家の中の者で女と決つたなら、お秀の外にはない。お秀は喜三郎を取られさうになつて、ひどくお皆を怨んでゐると判つたんで――」
「そんな馬鹿なことがあるものか」
「ね、親分。あの娘は人なんか殺せる柄ぢやないつて、親分も言つたでせう」
「言つた。が、三輪の親分はそんなことぢやお秀を勘辨しないだらう。こいつは弱つたな、八」
「何んとかなりませんかね」
「下手人が家の中の女と言ふことになればお秀の外にない、――餘計なことを聽かせてしまつたな」
平次もさすがに困つて了ひました。主人次郎右衞門や奉公人達の立ち騷ぐ中を、三輪の萬七とお
「親分さん、まだ、家の中には女がゐますよ」
「あ、驚いた。婆やさん、何を言ふんだ」
不意に
「親分さん、あの女を殺したのは、この私ですよ。――お皆の畜生を殺したのは、私に違ひありません。早く、早く縛つて、お孃さんを助けて下さい。あんな神樣のやうなお孃さんが、蟲一匹だつて殺すものですか」
「何を言ふんだ、婆やさん」
平次は半信半疑の心持で、お谷婆さんの取亂した姿を眺めました。
「さア大變、到頭四人目の下手人だ」
ガラツ八は少しばかり面白さうです。
が、お谷婆さんはそれどころではありません。
「親分さん、私を縛つて下さい。庭下駄を
平次が容易に取合はないと見るとお谷婆さんは、お秀を引立てて行く三輪の萬七に
「匕首はどこから出したんだ」
平次は靜かに訊ねました。
「お皆が持つてゐたんです。あの女は何をするか判りません。昨夜自分の
「――」
默つて先を
「匕首を枕の下へ入れて寢るところまで見極めると、私は矢も
「――」
平次も八五郎も、萬七も清吉も、次郎右衞門もお秀も、あまりのことに仰天して、暫くは口をきく者もありません。
「私の孫のお玉は、あの女に殺されました。今年の春、旦那樣にお願ひ申し上げて、兩親に別れた、たつた一人の孫のお玉を、こゝへ伴れて來て育ててゐると、あのお皆といふ
十二になるお玉が、どんなにお皆に
精神異常者が、どうかすると犬や猫を無闇に虐待するやうに、お皆の
お谷婆さんは、はふり落ちる涙を拂ひもあへずに續けました。
「たうとう、自分の
お谷婆さんはたうとう涙で絶句してしまひました。たつた一人の孫娘を
「雪の下の大きい葉を取る
お谷婆さんは續けました。
「お皆の畜生は誰も知らずにゐるのに、自分だけ心得てゐて、暫く經つて言ふんですもの、助かりつこはありません。引揚げた時はもう、何も彼もおしまひ。――あんなにお玉を邪魔にしてゐたんですもの、間違つて落ちたと言ふのは表向きで、本當は自分が突き落したのかも解りません。誰も見てゐたわけぢやなし、それくらゐのことはやり兼ねない女でした」
「――」
あまり急激な事件の發展に、平次も萬七も暫くは顏を見合せるばかりです。
「さア、私を縛つて下さい。――最初から私が殺したと言つて
お谷は縁側の板敷に、ガバと身を投げて大泣きに泣くのです。
「婆や、お前はまア、――本當かい」
萬七の手から放たれて、お秀は婆やのところへ飛んで來ました。
「お孃さん、――飛んでもないことをして了ひました。今となつては皆んな嘘にしたい、これが夢だつたら、どんなに有難いでせう。でも、そんなわけには參りません。私は人殺し、――恐ろしい人殺し婆アになつて了ひました。
「婆や、お前に人なんか殺せる筈はない。それは何にかの間違ひだらう。婆や、婆や、行つちやいや、いや」
お秀は婆やに
三輪の萬七は際限もないと思つたか、お神樂の清吉に眼配せをしました。
「えツ、立てツ」
清吉の十手はキラリとお谷婆さんの肩のあたりを打ちます。
「親分」
「八」
「矢張りあのお谷婆さんが下手人ですかね」
二人は暫く經つて
「俺には判らないことばかりだ。八、氣の毒だが先刻頼んだことを念入りに調べて來てくれ。――それから殺されたお皆と親しくしてゐた男がなかつたか。こいつは大事だ、よく訊いて來るんだ」
平次はそつと囁くと、八五郎と意味の深い眼配せを交して別れ、自分だけ一人、もう一度お皆の死骸を置いてある部屋に歸りました。
死骸に
これほどの傷にあまり血が流れてゐないのも不思議ですが、平次はそれよりも重大なことを發見したらしく、何やらうなづいて、靜かに四方屋を引取つたのは、もう日が暮れてからでした。
その晩、八五郎が歸つて來たのは
「親分、大したこともありませんよ」
あまり
「夜中にあの部屋へ人知れずはいれたのは、誰と誰だ」
と平次。
「主人の次郎右衞門と、娘のお秀と、婆やのお谷と、手代の喜三郎と、それつきりですよ」
「フーム」
「番頭の半兵衞は通ひだし、浪人の寺本山平は離屋に寢てゐるし、
「よし/\、そんなことでよからう。ところで寺本山平は宵のうちから離屋へ行くのか」
「店が閉つてから、大抵
「さうかも知れない、ところでお皆と關係のあつた男は?」
「幾人あつたかわからないが、近いところぢや寺本山平――」
「何んだと」
「あ、びつくりした。あつしのせゐぢやありませんよ、親分」
「こいつがお前のせゐだつたら大變だ。來いツ、八」
「どこへ行くんで」
「どこだか判るものか。兎に角、鳥が飛んだ後ぢやお谷婆さんの命を助けやうはねエ」
「お谷婆さんを助けるんですつて、親分」
今度はガラツ八の方が驚きました。
「お谷婆さんが何んと言はうと、お皆を殺した人間は他にあるんだ。――お谷婆さんを
「違ひねエ。どこへ行つて何をやらかしやいゝんで? 親分」
「寺本山平が昨夜行つた家を搜すんだ」
「それなら判つてますよ」
「どこだ」
「上野山下の闇がり横丁のお
「何んだいそれは?」
「あんまり筋の良い家ぢやありませんよ」
「行つて見よう」
平次とガラツ八がお余乃の家といふのに行つたのは、もう
「寢てしまひましたね」
「構はねえから、存分に叩け」
「へエ」
ガラツ八が
「ハイハイ、唯今、どなたですか」
寢入りばならしい女の聲が、戸を開け兼ねて躊躇してゐる樣子です。
「御用だ、早く開けろ」
「ハ、ハイ、今すぐ開けますよ」
ガラガラと開けて、寢亂れた姿を出したお余乃の前へ、八五郎の十手はピカリと光りました。
「御用だぞ、神妙にせい」
この時ほど錢形平次は御用風を吹かせたことはありません。寢卷姿のお余乃と下女のお六を二人並べて、
「昨夜寺本山平は何刻に來て、何刻に歸つた。一度外へ出てまた夜中に歸つたか、それとも、遲くなつてから來たか。眞直ぐに申上げないと、お前達二人とも殺しの卷添へで、ガン首が飛ぶぞ」
こんな時には、八五郎の方が
お余乃は一應も二應も澁りましたが、下女のお六は、二つ三つどやし付けられると、他愛もなくベラベラとしやべつてしまひました。
それに依ると、宵から來た筈の寺本山平は、實は夜中過ぎにやつて來て、したゝかに飮んで寢てしまつたが、
「万一、人に訊かれたら、宵のうちに來たと言へ」
と半分
「八、それで何も彼も判つた。女二人は生き證人だから逃げ隱れをしないやうに、町役人に預けて、大急ぎで車坂へ行かう」
「親分」
「明日なんて言つちやゐられない」
二人はお余乃とお六の始末をすると、そこからひと丁場の車坂へ駈け付けます。
「ちよいと、寺本さん、お顏を拜借したいことがありますが」
八五郎が
「誰だ、今頃。用事があるなら明日にせい」
少し機嫌の惡い聲が中から應じます。
「さう仰しやらずに、ちよいとですが、お願ひ申します」
「うるさい奴だな」
さつと内から開けた戸。と同時に、
「わツ、冗談ぢやねエ」
「御用ツ」
平次の手からサツと錢が飛びました。
「野郎、器用なことをツ」
錢は刄に鳴つて、寺本山平は拔刀を持つたまゝ、八五郎の頭を越して外に飛出します。
× × ×
何も彼も濟んだのは翌る朝になりました。
少し
「どうして下手人がお谷婆さんぢやないと解つたんですか、親分」
「かんだよ、――それに、死骸の血の出やうの少いのも氣になつたから、傷口を洗つてよく見ると、喉を指で押した跡があるんだ」
「へエ」
「死骸を
「へ」
「そこへお谷婆さんが忍び込んで來て、枕の下から匕首を引出して死んだとは知らずに、お皆の喉へ突つ立てた。――いや、喉へ突つ立てる
「成程ね」
「翌る日になるとお秀へ疑ひが行きさうになつたから、びつくりして俺のところへ飛んで來た」
「矢張り命が惜しかつたが、お秀も助けたかつたんですね」
「が、お秀がどうしても縛られることになつたので、夢中になつて白状してしまつたのさ」
「で、
「あの下手人は男で、それも力の強い者と判ると寺本山平の外にはない。あの浪人者が中庭の下駄の跡で恐ろしく智慧の走ることを言つたが、あれは疑ひをお谷婆さんへ向ける心算だつたのさ。あんなことを言ふから、
「フーム」
「寺本山平は外へ出るやうな顏をして實は宵のうちから家の中に隱れてゐたんだらう。夜中にお皆の部屋へ行つて殺したところへ、不意にお谷婆さんが入つて來たのさ」
「へエ――」
「多分驚いたことだらうが、横着者だからどこかへ姿を隱してお谷婆さんのすることを見てゐると、婆さんはお皆の枕の下から
「太てえ奴ですね」
「太てえには相違ないが、散々寺本山平と遊んで、近頃は喜三郎に取入らうとしてゐたお皆の方も惡いよ。あのまゝ放つて置いたら、お秀をどうかして、
「あつしが意見されてゐるやうですね」
「その氣で附き合ふがいゝ」
二人は何んとはなしに笑ひました。
「惡い者ばかり居るとは限らない――と親分が言つたのは本當ですね。危ふくお谷婆さんがお
「だから、御用聞は十手捕繩をたより過ぎちやならないのさ。飛んだ罪を作るから」
秋の朝の風は清々しい心持の二人を家路に吹き送ります。