「親分、變なことがあるんだが――」
ガラツ八の八五郎が、少し鼻の穴を
「よくそんなに變なことに
錢形の平次はさう言ひ乍ら、せつせと冬仕度の
まア――隨分、と言つた顏をお靜はあげましたが、また例の八五郎を遊ぶつもりの冗談と判ると、素知らぬ顏をして、縫物の針を動かしました。名殘りの
「だが、こいつは變つてゐますよ親分」
「前觸れはそれくらゐにして、なんだいその變つてゐるのは」
八五郎の物々しい調子に釣られて、平次もツイ起き直りました。
「今朝、湯島の天神樣にお詣りをして、女坂の上から、ぼんやり下谷の方を眺めてゐると、ツイ二三十間先――家の數にして五六軒目の二階の縁側に出してある
「消し忘れたんだらう」
ガラツ八の報告も、平次に註を入れさせると、何んの奇怪味もありません。
「ところが親分、念のために、ツイ今しがたもう一度行つて見ると、行燈の灯がまだ點いてゐるのはどうでせう」
「フーム」
「朝消し忘れた行燈が、油も注さずに
「成程さう言へばその通りだが、――近頃なんか、そんな
「やつて見ませうか」
その話はそれつきり忘れて、ガラツ八が歸つたのは日が暮れさうになつてから。
翌る日。
「親分、どうも益々變ですよ」
八五郎のキナ臭い顏が飛込んだのはまだ朝のうちでした。
「晝行燈はなんの
平次も少しばかり眞面目になります。
「解らないから不思議なんで」
「それぢやなんにもならないぢやないか」
「ところが今朝は晝行燈が引込んで、赤い鼻緒の
「さあ解らねえ」
「昨日行燈の出てゐた二階に間違ひはありませんよ。
「
平次の顏も少しキナ臭くなりました。
「癲癇なら草履を頭へ載つけるんですよ」
「愈々もつて解らねエ。――その家にどんな人間が住んでゐるんだ」
「取揚げ婆アのお早の家ですよ」
「あの間引をするとか言ふ、評判のよくない?」
「亭主の六助は
「フーム」
「近所で訊くと、二階には
「何んだ氣違ひか、――馬鹿にしちやいけねえ」
平次は煙草をポンと叩いて、天井を突き拔けるやうな
「でも、一と月ばかり前までお屋敷奉公をしてゐたさうで、そりや綺麗な娘だといふ評判ですぜ、親分」
「綺麗な娘と聽くと、無性に乘り出すからイヤになるよ。面が綺麗だつて、氣の變なのは止してくれ、附き合ひにくくて困るぜ」
「氣が變にしても、天神樣の境内へ見えるやうに、いろんな物を持ち出すのは變ぢやありませんか」
「そんなに氣が
平次も何にか知ら疑念が殘らないでもない樣子です。
「親分、ちよいと來て下さい。いよ/\變なことになつたんだが、あつしぢや見當が付きません」
三日目の朝、八五郎が飛込んで來ると、いきなり平次を引立てさうにするのです。
「到頭來やがつたか、今日あたりはお前の大變が飛込みさうな陽氣だと思つたよ。いよ/\その娘が笹つ葉かなんか
平次は少しばかり面白さうでした。
「それならこゝへ來る前に、飛び込んで相方を勤めますよ」
「ハツハツハツ、そいつはよかつた」
「天神樣の女坂の上から小手を
「解らねエよ、八卦の方はまだ修業中だ」
「二階の障子にブラ下げたのは、
「
「ちよいと行つて見て下さいよ。何にか恐ろしい事の
「よし/\、お前がそんなに心配するなら、少々氣が變でも、綺麗な新造のために何んか役に立つてやらう、――尤も、三日とも續けて同じ物を出しや氣狂ひの仕業だが、三日とも違つた物を出してゐるのは少しをかしい」
「でせう、親分」
「氣狂ひなら同じことをくり返す筈だ」
平次は湯島への道を辿り乍ら、
女坂の上に立つと、今日はまた滅法美しい秋晴れで、江戸の街は深川の端までも見えさうです。お詣りやら行樂やら忙しい人達はツイ眼の下二三十間先の二階縁側に仕掛けた、不思議な判じ物を讀まうともしません。
「ね、親分。あれですよ」
八五郎の指さすまでもなく、平次は不思議な二階のあたりを凝つと見詰めてをりました。
「一番上、右の方にブラ下げたのは
「苧、紐、髢ですか親分」
「それぢや、文句にも地口にもならない」
「麻絲、細紐、毛――と」
「駄目々々」
二人は玉垣に寄つたまゝ、暫く無駄を言つて居りました。
「親分」
「何んだ、八」
「妙に
「待ちなよ八、それぢや、あんまり智慧がなさ過ぎる、――上の絲は苧や
「親分」
「こいつは、おたすきけと讀めるぜ、たすきの下の方が毛で隱れてゐるから、おたすけだ」
「えツ」
「こんな手數のかゝる謎々が、
「親分」
八五郎はもう尻を端折つて、二三十里カツ飛ばすほどの勢ひです。が、お早の家は、女坂を降りるともう直きでした。
「御免よ」
平次はいきなり格子を開けると、
「ハ、ハイ、どなた樣で?」
お早は少しまご/\して居ります。
「平次だよ。六助はゐるのか」
「へエ、あの、どんな御用でせう」
御法の裏を
「二階をちよいと見せて貰はうか」
平次は立ち塞がるお早を拂ひ退けるやうに突き上りました。
「あれツ錢形の親分」
上の方を向いて大きな聲を出すのは、力及ばずと見て、二階に合圖を送るつもりでせう。
「えい、靜かにせい」
平次はトントントンと一氣に二階へ、唐紙をパツと開けると、中は思ひきや空つぽ――
「おや?」
「親分、
裏口へ廻して置いたガラツ八が下から大きな聲を出すのです。
「そいつを逃すな」
裏口へ飛んで行つて見ると、ガラツ八は中老人の六助を膝の下に敷いて正に『捕つた』の大見得をきつてゐるのです。
「もう一人はどうした」
「へエ――」
「娘の方はどうしたよ、八」
「知りませんよ。屋根から
「馬鹿だなア、そんな爺はどうでもよかつたんだ。行燈と草履と
「へエ――」
「へエぢやないよ」
平次が腹を立てたところで、それは八五郎の手落ちでも何んでもなかつたのです。
「親分、先刻合圖をしてゐたんだから、どこかにゐるに違ひありません。この野郎を締めて見ませう」
八五郎の言ふのが
「やい、先刻まで二階に居た娘は何處へやつた。いづれ締めるか沈めるか、賣り飛ばすかしたんだらう。眞つ直ぐに申上げなきや、しよつ引いて石を抱かせるぞ」
そんな時、ガラツ八の八五郎はなか/\結構な選手でした。平次は默つて
「言ひますよ、私共は惡いことをした覺えはございません。逃げ出したのは、あわてたせゐで身に覺えのあるためぢやございません」
六助とお早は觀念して皆んな
それによると、今朝まで二階にゐた娘は名をお組といふだけ、あとは何んにも判りません。年は十八――どうかしたら九くらゐ、
娘の身許は一向解りませんが、一と月ばかり前――先月の十三日の晩六助と
「その通りでございます。これがお禮に貰つた八兩で、嘘も
女房のお早までが口を添へて、
「それぢやもう一つ訊くが、源次は今どこに居るんだ」
平次は調子を變へました。
「それがわかりません」
「隱しちやためにならないよ。お組を預つた
「この間まで元町の本野伊織樣御屋敷に勤めて居りましたが、今はどこにゐるか一向にわかりません」
六助もお早も本當に知つてゐない樣子です。
「ところで、お組といふ娘が、親許のことでも話したことがあるのかい」
平次は違つた方へ話題を持つて行きました。
「いえ、何んにも、――聽きも、話しもしません」
氣違ひ扱ひにして、娘一人を二階に押し込め、物を言はせずに一ヶ月睨み通した六助夫婦の安惡黨振りの小意地の惡さ――
「ひどいことをしやがる」
平次もさすがに胸の惡くなる心持です。念のためもう一度二階に上がつて、娘の住んだ後を見ましたが、手拭一と筋殘つてはゐません。
「お組はこゝへ來るとき、何か荷物らしいものを持つて來たのかえ」
「いえ、本當に身一つで、手拭から
「お小遣は?」
「
六助夫婦の説明で、お組がこゝへ來たのは自分の意志ではないこともよく解ります。
「親分、書いたものがありますよ」
ガラツ八は鼻紙に消炭で書いたのを押入の隅から拾ひました。
「どれ/\」
もとお屋敷に奉公してゐた源次といふ男がお勝手口へ來て、三河島の母親がツイそこまで來て内證 で一寸逢ひたいと言つてゐるからとおびき出し、弓町から湯島までつれて來て、この家へ押込んでしまつた。なんのためにこの樣な目に逢はされるのか少しも判らないが、二人で見張つてゐるから逃げ出す工夫はない。この手紙を拾つた方は、どうぞ――
そこまで書いて鼻紙は盡きて居ります。多分こんな手紙を書いたものの、親許へ屆ける工夫がなくて、その儘諦めて了つたのでせう。平次と八五郎は何にか追つ立てられるやうな心持でした。お組とやらいふ娘一人の命ではなく、その奧にもつと/\複雜な犯罪が潜んで今ブスブス
元町の本野
源次の宿元を確めると、やはり今どこにゐるか解らないといふだけ、多分諸方の部屋を廻つて勝負事に浮身を
「親分、大變なことになりましたぜ」
八五郎がぼんやりやつて來たのはそれから二日目でした。
「どうした八、いつもの大變と大變が違ふぢやないか」
「だつて、源次が殺されましたよ」
「何んだと」
「谷中で眞つ二つ。腕の
「
「綺麗に拔かれましたよ」
「それぢや辻斬ぢやない」
その頃はまだ、斬つた上に懷中物まで拔くやうなサモしい辻斬はなかつたのです。
「追剥にしちや腕が良過ぎましたよ」
ガラツ八はまだ腑に落ちない樣子です。
「待て/\、斬つて懷中物を拔いたのは、金ではなく證據になる品物を奪つたのかも知れない。こいつは面白くなつたぞ、八。お前は御苦勞だが、下つ引を二三人狩り集めて、源次の身許と今までの奉公先を皆んな洗つてくれ。とりわけ、綺麗な小間使か腰元が家出をしたところがあつたら、そいつを念入りに調べるんだ。お弓町のあたりが一番臭いぞ、解つたか、八」
「合點ツ、半日經たないうちに、お組の奉公先のお櫃に殘つた飯粒の數まで調べて來ますよ」
「頼むよ八」
「それから先は親分の働きだ、今のうちに一と休みしてゐなさるがいゝ」
「親分、判つた」
八五郎が歸つて來たのは、その日も暮れてからでした。
「どこだ八」
平次もツイ、落着かない心持で待ち構へてゐたのです。
「お弓町の旗本、千三百五十石取の庄司右京樣屋敷。源次はそこに三年も奉公して、この春暇を取りましたよ」
「その屋敷で女中がゐなくなつたのか」
「聽いて下さいよ親分、――そのお屋敷の御當主庄司右京樣は二年前から輕い中氣でお役御免になり引籠り中大變なことが始まつた」
「――」
「
「そのお組がお早のところに押込められたのも先月の十三日の晩だ」
「だから變ぢやありませんか」
「水下駄を
「若樣の林太郎樣は、同族石崎平馬の二番目娘、――これはお組へ輪をかけたほどの綺麗な天人娘お禮殿と祝言することになつてゐた。だから腰元風情と夜逃げをする筈はない――とこいつは庄司の屋敷中のヒソヒソ話だ」
「フーム」
話は大分こんがらかりました。
「林太郎樣は
「――」
「腰元のお組も綺麗な娘だが、育ちの良いせゐか堅い一方で、おまけに林太郎樣は、名題の堅造と來てゐるから、二人は冗談口一つきいたこともない。手に手を取つて夜逃げなどは以ての外――とこれは御近所や屋敷の奉公人達の噂だ」
「フーム」
「親御の庄司右京殿は、中風で身動きも
「その通り運んでゐるのか、八」
「あつしのせゐぢやありませんよ親分、そんな怖い眼をしたつて」
「一緒に逃げた筈のお組は、取揚げ婆アのお早の家の二階に一と月も押し込められ、可哀想にあんな手紙を書いたり一生懸命の合圖を工夫して
「そこですよ、親分」
「源次が殺される迄は、どうかしたら眞物の駈落かと思つたが、お前の話を聽いてゐるうちに、俺にはどうも恐ろしい
「――」
「お組は源次の細工や思ひ付きで隱したのでないことは、渡り中間の勝負事好きな源次が、お早夫婦へ仕送りから禮金までキチンと拂つたことでも判つてゐる。林太郎樣がお組を隱させたのなら一と月も逢はずにゐる筈はないし、これは矢張り黒頭巾を
平次はこゝまで推理を辿ると、この後の方針が次第にはつきり立つて來るのでした。
「親分」
ガラツ八は獲物の匂ひを嗅いだ獵犬のやうにいきり立ちました。
「お屋敷に、御奉公してゐた源次といふ男が昨夜谷中で殺されました。別段お掛り合ひがあるわけでは御座いませんが、念のためお屆け申します」
平次はこんな口實で庄司右京の用人、堀周吉に逢つて見たのでした。
「あゝ左樣か、それは御苦勞なことで」
堀周吉は思つたより丁寧に迎へて、面倒臭がりもせずに挨拶をします。年の頃四十五六、骨と皮ばかりの
「ところで、殺されて見ると折助でも中間でも
「構はないとも、何んなりと訊くがいゝ」
平次の恐れ入つた樣を氣の毒さうに、堀周吉は恐ろしく手輕です。
「源次はお屋敷に奉公中、何にか惡いことをしませんでしたでせうか」
「あまり良い人間ではないが三年間先づ無事に勤めた方だらうよ。
何にか豫想外なことを平次は聽かされるやうな心持です。
「誰か源次を怨んでゐる者はなかつたでせうか、
「一向氣が付かないな。尤も勝負事が三度の飯より好きだつたから、諸方の部屋で不義理もし、怨みも買つたかも知れぬが――」
堀周吉の話はこんな程度で、一向取止めもありません。
「それから、――これはお伺ひしていゝか惡いか判りませんが、お屋敷の若樣、林太郎樣は、唯今何方にいらつしやるでせう」
平次の
「それは知らない――知つてゐるなら苦勞はしないよ。まア、そんなことは訊いてくれるな」
打ち
平次は他にもいろ/\のことを訊いて見ましたが、堀周吉は老巧な用人らしく口を
歸り際に奉公人に逢つて、それとはなしに搜りを入れると、いよ/\明日の親類方の寄合ひで、
平次はその足で元町の石崎平馬の屋敷へやつて行きました。これは庄司右京の一族と言つても、祿高はたつた百二十石、お禮の美くしさと、林太郎の執心がなかつたら、この祝言はモノになりさうもなかつたでせう。
平次は辭を盡して一生懸命頼みましたが、主人石崎平馬は所用と言つて、逢つてもくれません。奉公人達にそつと訊くと、庄司家の若樣林太郎が
家と家との縁組以外、この人達は何んにも考へてゐなかつたのでせう。林太郎が執心した美しいお禮も、結局は千三百五十石に嫁入する氣持しかなかつたのかと思ふと、平次も何にかうら淋しい心持になります。
「親分、どうでした」
門の外に、八五郎は立て續けに
「呆れて物が言へないよ、この上は今日中に、――遲くとも明日の夕方までに林太郎樣を搜し出すんだ」
「お組は? 親分」
「それほど娘の方が氣になるなら、お前は三河島のお組の親許へ行つてくれ。俺は養子の助十郎と、庄司一家の者の出入りをもう少し突き止めて見る」
「それぢや親分」
「晩に逢はう」
錢形平次は
源次が谷中で殺された晩の助十郎、平馬、周吉などの動きを調べるつもりでしたが、これは平次の
彼方此方無駄足をして、がつかりして歸らうとすると、
「親分、――錢形の親分さん」
後ろからそつと呼止める者があります。妻戀坂の淋しい道には、四方に聽いてゐる人もありません。
「お前さんは?」
「庄司樣の庭男でございます。友吉と申しますんで」
六十近い大きな老爺ですが、
「友吉と言ひなさるのかい、用事は?」
平次は期待に息を呑みます。
「私がこんなことを申上げると、後の
「話してくれ、皆んな御主人のためになることだから」
平次は友吉を
「若樣がお組と夜逃げをしたなんて、あれは大嘘でございます。お組は源次の野郎が
「林太郎樣はどうした」
「その晩一合召上つてお休みになると、それきり翌る朝はお姿が御座いません。多分お酒に毒でも入つてゐたことで御座いませう。足腰の立たぬやうにして、夜中に運び出されたに違ひないと、私は一人で呑込んで居ります」
「どうして、さう呑込んだのだ」
「その晩、裏門へ駕籠が一挺着きました。町内の本道(内科醫)、北村道作樣の駕籠で御座います。駕籠は何にか積んで行つたやうですが、間もなく道作樣は歩いて歸りました」
友吉の言ふことは、なか/\
「よし/\、それでよく解つた。眞夜中に江戸の町を平氣で飛ばせるのは醫者の駕籠くらゐのものだ、――それだけ聽けば見當はつく。ところで
「弓町の屋敷へ戻りますが――」
「氣を付けるがいゝぜ」
「へエ――、では親分、若樣をお願ひ申します」
友吉は平次に別れて淋しい道を辿りました。ほんの二三十間も行つた頃、
「え――ツ」
横合から飛出しざま、眞二つになれと斬りかけた者がありますが、その太刀先は僅かに外れました。
襲撃の寸前、聞髮を容れず、
流るゝ刄を取直す間もなく、第二第三の錢は流星の如く飛んで拳へ、額へ、そして第四の錢は危なく眼の玉を打たうとしたのです。
曲者は一散に逃げ失せました。
「爺さん、危なかつたな――庄司の屋敷へ歸るのは締めて、當分俺の家へ來てゐるがいゝ」
平次は大地へヘタ/\崩折れる友吉を
三河島のお組の親許を訪ねて歸つた八五郎から聽くと、お組はそこへも歸らず、正直さうな兩親は娘が行方不明と聞いて、庄司家へ行つて
「この上は醫者の北村道作の方を手繰るの外はあるまいよ」
平次は休む隙もなく八五郎と一緒に弓町まで出かけました。
本道の北村道作は、
「私は何んにも知らない。あの晩急病人があるからと庄司家の使で行つて見ると、急病人といふのは嘘で、一刻ばかり用人と
と言つたやうなたよりない話です、どうかしたら、薄々事情を知つてゐても、うんと
出入りの駕籠屋の若い者に逢つて、その晩の行先を確かめ、庚申塚の近所で、植辰の寮を聽くと、すぐ解りました。が踏込んで見るとそこは空つぽ――。
夜中
駒込まで引返して植辰の本家を叩き起して訊くと、近所の言ふ通り、庄司家から頼まれて氣の觸れた若い武家を巣鴨の寮に預かつたが、若い丈夫な男が二人附いてゐても持て餘して、到頭橋場へ運んで行つたといふのです。
行先は橋場の船頭の文七といふ男の家――。
平次と八五郎が橋場へ着いたのは、もう夜が明けて翌る日になつてからでした。
「今日一日の辛抱だよ、八。今日中に搜し出さなきや、明日は林太郎とお組の死骸が、心中した體でどこかに投り出されるに決つてゐる」
平次は馬道で朝歸りの客のために開いてゐる飯屋に飛込み、そゝくさと腹を
「大丈夫ですよ、親分。自慢ぢやねエが、喰ふ物さへ喰はして置きや、もう二た晩三晩寢なくたつて驚きやしませんよ」
熱い味噌汁を
橋場の文七のところへ行くと、文七は留守。一と月も前から寄り付かないさうで、女房は
何を訊いても噛み付きさうで、手掛りを引出すどころの沙汰ではなく、散々の
橋場の文七は、どこから持出したか、自分の船に大一番の
「早桶はひどいことをしやがる」
その中に庄司の惣領林太郎を入れて、人目を
「ところで、文七の船は歸つてゐるのか」
「船は何時の間にか空つぽになつて、川岸ぷちに
近所の衆の暗示に富んだ言葉を手繰つて平次と八五郎は鳥越のお百の家といふのに行つて見ると、四十男の文七は、七日ぶツ通しに呑んで、
お百を呼出して訊くと、文七は餘程金を持つてゐるらしいといふ。いづれ早桶を船に積んで十七八日も漕ぎ廻つたお禮でせう。この上は文七の口を開かせる外はありません。
水をブツ掛けて、どやし付け乍ら訊くと、
「――どこの侍だか知るものか。兎も角、二人で氣の違つた若い武家をつれて來て、ほんの二十日ばかり陸へ上げないやうにしてくれといふんで。お禮は一日一兩さ、外に無事に濟ませば褒美が五兩だ。へツ、へツ、二十五兩と稼いだのは惡くなかつたぜ、――最初は
文七は平次と八五郎に責められて、
「駕籠はどこのだ」
「この邊にウロウロしてゐる四つ手ぢやねえ。山の手の辻駕籠だよ、どこの駕籠か判るものか」
それ以上は何を聽いても判りません。
神田の家へ引揚げたのはもう晝頃、庄司家の親類會議が開かれるまで、あと三刻精々です。
「弱つたな八」
錢形平次も、さすがにこの時は悲鳴をあげました。
「親分、どうしたのでせう」
「お組と林太郎樣と一緒に、どこかに隱してあるに違げえねえ――が」
「すると、親類會議が濟んで庄司家の跡取が助十郎と決まれば、すぐ二人を殺して心中と觸れ込むわけですね」
「多分そんなことだらうと思ふ」
そこまでは考へられますが、さてそれ以上はどうにもなりません。
そのうちに次第に陽が
「武家のお家騷動なんかに足を踏込んだのが間違ひだつたな、八」
平次は到頭投げて了ひました。上野の暮
「さう言つたつて親分」
「一本つけませうか」
女房のお靜は、平次の機嫌をほぐす妙藥を心得てゐるのでした。
「さうしてくれ、八と爺さんと三人で、今晩は少し過すことにしようよ」
平次は大きく伸びをして
「お氣の毒なのは若樣でございます」
あれからズーツと平次のところにゐる友吉爺やは
「諦めることだ、――俺は町方の岡つ引だから、武家方のことは手のつけやうがない。これが商人の家なら、踏込んで親類會議を延ばさせる手もあるが――」
「――」
妙に沈んだ心持を、お互にどうすることも出來ません。
「隱した場所は矢張り、屋敷の近くだな――」
平次は最初の猪口を
「まだそんなことを考へてゐるんですか親分」
「考へる氣もないが、――忘れないよ」
「無理もないが、忘れることにしませうよ、親分」
「だが、待つてくれ。ね爺さん、あの屋敷の中に、滅多に召仕の者の入らない藏か物置がなかつたかい」
平次の叡智は、活溌に動き始めたのです。
「ありますよ。小さい寶物
「それだよ」
平次は立ち上りました。
「親分、何がそれなんで?」
八五郎は手酌で二三杯續け樣に
「でも、あの寶物藏へ若樣を隱したら、食物をどうして運んだのでせう」
と友吉。
「それで俺も迷つたんだ、死にも生きもしないやうにして置く分には、そんなに澤山の食物が要る筈はない、――もう迷ふことはないよ。お靜、食物を少し用意してくれ、輕いものがいゝ。七日もろくに食はずに居る人間に精のつく物がほしいんだ。さア、八、一緒に行くか」
「行かなくてどうするもんで親分」
八五郎は中腰になつて、徳利からラツパ呑をやつてをります。
「私も參りませう、何にかのお役に立つかも判りません」
爺やの友吉までが武者顫ひをして起ち上りました。
その晩庄司家の奧座敷に集つたのは、主人の庄司右京を始め、用人堀周吉、養子の助十郎、石崎平馬、その娘のお禮を始め近い親類からずつと七八人。
主人の庄司右京は何分輕い中風とは言つても口も不自由なので、用人の堀周吉が代つて辯じます。
「若樣――林太郎樣には、一ヶ月程前に召仕の組と
堀周吉は一座を見渡して、かう達辯に續けました。
「
堀周吉は言ひ納めて一座を見渡します。誰も異論を稱へる者もなく、――僅かに病人の主人、庄司右京の眼に、激しい忿怒らしいものが走りましたが、やがてそれも悲しい諦めとなつて、人々の笑ひさゞめく聲に
「それでは、公儀御屆のため、皆樣の御判を頂戴いたします」
堀周吉が何やら書面を上座の方から廻し始めました。
「待つた」
不意に弱々しいが
「その御判、お待ち下され。庄司林太郎、それに參つて申し開き仕る」
「――」
あツと顏見合はせる一座の中へ、
「や、どこから、どうして」
驚く堀周吉、さすがに喰つてかゝりもなりません。林太郎はそれを尻目に、
「父上樣、御心配を相かけ申譯も御座いません。林太郎は召仕などと
父右京の前にピタリと坐つて、靜かに一座を
「お、お」
右京は口もきけませんが、嬉し涙が老の眼を溢れて、膝を濡らすばかり。
「何が證據、――飛んでもないことだ」
飛付きさうにする堀周吉は、縁側にひれ伏した錢形平次に止めを刺されました。
「證據は山程ある。植辰、文七、友吉、六助夫妻、皆んなお上の手に押へてあるぞ」
「お前は何者だ」
堀周吉は血眼になつて叱するのを、
「平次、父上も御承知だ。その惡者を縛つてくれ」
林太郎は指を擧げて指しました。
× × ×
平次が堀周吉その他の惡者を縛り上げる間に周吉に
嵐の後の
「――そこで、もう一つ御願ひが御座います。お禮殿と許嫁の約束は私から申すまでもなく、最早破談になつたことと思ひます。お禮殿は助十郎殿が御引取下さるやう――私は召仕の組を改めて妻として迎へたいと存じます。組とは別々に
肉體的に弱り拔いてゐても、氣丈者らしい林太郎のハキハキした言葉を聽いて、
振り返ると、石崎平馬も、その娘のお禮も何時の間にやら逃げ出して、縁側には爺やの友吉が附添つて、お組は大したやつれもなく、
「平次、それもこれも、その方のお蔭だ。この恩は忘れないぞ」
林太郎はゐざり寄つて平次の手を取りました。
「いえ、この手柄はあつしぢやあございませんよ。お組さんの合圖とそれを最初に見付けて、あつしを引張り出したあの八五郎の野郎の手柄で――」
平次に指されて、八五郎は首筋のあたりを掻き乍ら、無暗に恐れ入つてをります。
「親分、變な捕物だね」
歸る途々八五郎は考へ込んで許りゐる平次に話しかけました。
「捕物ぢやないよ。こいつは飛んだ千代萩さ、――だが、お家騷動はすることがネチネチして嫌だね」
「でも、あの娘はよかつたぜ、親分」
「お組のことか、――
「
「命がけの合圖だつたのさ。笑つちや氣の毒だ」
さう言ふ平次もカラカラとわけもなく笑ひたい衝動を感じてをりました。